その日ケンとアヤは早番で、店を閉める時間に残っていたのはヨージとオミだけだった。
エプロンの紐を解き、それを脱ごうとしていたヨージはふと自分に送られる視線を感じてゆっくりとそちらを振り返った。
「なんだオミ、何か用か?」
エメラルドグリーンの瞳の先ではエプロンを脱ごうとしているオミが何やら真剣な表情でこちらを見つめている姿がある。近ごろ、気付くとオミからの視線を感じている気がして、この機会に思いきって尋ねてみればオミからの返事は何だかスッキリしないものだった。
「あ、違うんだ。後ろのポスター見てたんだよ」
オミの言葉に背後の壁を振り返ってみれば確かにそこには一面赤薔薇の写真がプリントされた上から『Valentine'sday』の文字が踊るポスターが貼られている。それを見ながらヨージは眉を寄せた。オミの視線は確かに自分へ向けられていた、しかし追求するのも野暮に感じたので内心の疑問を飲み込み、おどけた声をあげる。
「もうそんな季節か。季節が過ぎるのは早いな」
思わずそう独りごちるとオミがくすくすと笑う。その顔は男の自分から見ても可愛らしい。しかし、次の瞬間口にされた台詞はちっとも可愛くなかったが。
「ヨージくん、おじさんみたい」
『お爺さん』じゃなかっただけよしとするべきか。だが、まだ二十代前半の自分へその台詞は聞き捨てならない。
「仔猫の住む家一イケメンの俺にそれは聞き捨てならないぞ」
オミの顔を至近距離で覗き込みながらそう言うと見る間に両の頬が赤く染まっていく。
「よ、ヨージくん!僕男だよ?」
しどろもどろになるオミの表情に小さく笑いを漏らし、ヨージは顔を離した。知らない筈がない、何年一緒にいると思っているのか。ヨージは狼狽するオミがおかしくなる。
「そんなのとっくに知ってるよ」
ずるい。そんなに魅力的な笑みを浮かべられては何も言えなくなるではないか。オミは言い返す言葉を飲み込むと手早くエプロンを外して畳んだ。そしてそれを棚へ押し込むとヨージを見ないようにしながら裏口へと向かう。
「お先に!」
今向けられた笑顔が離れない。うるさい程に高鳴る心臓を宥める術を見つけられず、一刻も早くこの場を離れようとオミはドアに駆け寄ってノブへ手をかけた。
「あ、あれ……?」
だがいつもなら簡単に回るはずのそれは手が震えているせいか上手く回すことが出来ない。
「カギなんてかけてない筈なのに」
動揺と焦りで泣き出しそうになりながらそれでも一刻も早くこの場から逃げ出したくてノブを掴んだ手を回転させる。だが、妙な事にノブは一ミリも動いてはくれなかった。
「カギなら俺がかけた」
そんな時、不意に聞き慣れたテノールが頭上から降ってくる。
「どうしてそんな事……」
オミが大きな瞳に涙を滲ませながら振り返るとヨージは笑みを浮かべ、オミの頬を撫でた。
「嘘は良くないぜ、オミ」
瞬間、びくりと華奢な肩が震える。顔は笑顔なのに何故か今はヨージが凄く怖い。
「嘘なんかついてな……」
「さっきお前が見てたのポスターじゃなくて俺だろ?」
オミの言い訳に被せるようにしてヨージが低い声で言う。ミッションの時ぐらいしか聞かないような真面目な声音。オミは服の胸元をぎゅ、と握り締めた。
「ご、ごめん!嫌だったよね」
思わず謝るとヨージの手がオミの頭の上へと乗せられ、ポンポンと跳ねる。
「誰が嫌だって言ったよ」
明るい声を出したヨージにオミの顔がホッとした表情へと変わる。しかし、少し間をおいてから「というか」と呟いたヨージにオミは再び表情を曇らせた。
「お前、最近俺の事よく見てるよな?何か言いたい事でもあるの?」
「何もないよ、ヨージくん身長高くて羨ましいなぁって……」
にこ、と笑ってそう言うオミ。しかしヨージはその台詞に違和感を覚えていた。何故なら先程は言わなかったが自分に向けられるオミの視線は店に来る客達のそれに似ていたからだ。
「オミ、嘘は良くないって言ったよな」
低い声でそう言うとオミの両目がみるみるうちに涙の膜で覆われる。今度はヨージが慌てる番だった。
「ど、どうした?怒ってる訳じゃないから泣くな」
頭を撫でてやりながら慰めてやると、オミは目を擦って頷く。
「こうなったら正直に言うね。あの……僕、ヨージくんの事好きなんだ。それでいつも見てて……ごめん」
言われる前に気付いていたから謝る必要は無いと言いたかったが何やら感情的になっているオミにそれを伝えると再び泣かせてしまいそうなので飲み込む事にした。代わりに指先で顎を掬い、持ち上げる。
「オミ……」
ヨージの穏やかな声音に名前を呼ばれてオミは心臓が跳ねるのを意識した。思わずぎゅっと瞼を閉じると唇にヨージのそれが触れてきた。
「俺も同じ気持ちだって言ったらどうする?」
触れるだけに留め、優しく尋ねる。するとオミが信じられないというように目を見開いた。しかし次の瞬間否定の台詞を口にする。
「嘘だぁ、だってヨージくんは女の子が好きじゃないか」
つくづく信用がないな、俺って。疑わしそうにこちらを見つめるオミを見ながらヨージは溜め息を吐く。
「どうしたら信じてくれるんだ」
額へ手を宛て、一人ごちるように呟くとオミは少しの間黙り込んだ。そうしてから、つま先立ちになりヨージの頬へ指先を伸ばす。
「僕を好きだって証明できたら信じてあげる」
信じて『あげる』だなんておこがましいと自分でも思う。でも、女性好きで通っているヨージと両思いだとはどうしても信じられないのだ。オミはヨージの反応を待って両手を握り締めた。