名実ともにトップアイドルとなった愛海が、ドームライブ帰りの足でちひろの前に現れる。「今日こそ『お山』を登らせてほしい」と頼んでくる愛海をちひろは突っぱねるが、彼女はある「対価」を提示してきた…。

 同人誌に収録しようとしたもののお蔵入りとなった作品。pixivに投稿したもの(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8590436)と同一内容です。
 ちひろさんが守銭奴設定なのでご注意。

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三億円の山

 愛海ちゃんのドームライブが大盛況に終わったその日の暮れ。

 

 事務所で一人書類仕事を片付けていた私のもとに、そのライブ帰りの愛海ちゃんがやってきていた。

 

 ステージで着こなしていた華やかな衣装のままで。

 

 その傍らには大きなスーツケースを携えて。

 

 部屋に転がり込んできた勢いでそのまま土下座し、彼女は私に懇願してくるのである。

 

「ちひろさん! 今日こそその『お山』、あたしに登らせてください!」

 

 考えてもみてほしい。

 

 この日ドームライブを終え、名実ともにトップアイドルとなった彼女が、直帰することなく事務所に、それも着替える間もなく飛び込んできて、いきなり土下座。

 

 そして開口一番飛び出した、この台詞。

 

 もちろん私とて、愛海ちゃんに「そういう趣味」があるということは知っている。スカウトしたプロデューサーさんから「女の子と仲良くなりたい」という下心でしかない動機からアイドル活動に勤しんできたことも、聞かされている。

 それでも彼女は数々の苦難を乗り越え、その過程で「アイドル」そのものにも意義を見出すことができたからこそ、こうして今の地位へたどり着くことができたはずである。

 そんな高みへ到達したからには、仮に私に会いに来てくれるにしても相応の成長をもって対してくれてもよかっただろうものを。

 

 結局この子は、女の子の胸を触ることしか眼中になかったということなのか。

 

「なにとぞッ!」

 

 額を床にめり込まんばかりにこすり付ける愛海ちゃん。その必死さも目的が目的だけに正直引くところしかない。

 

 とりあえず。

 

「……ドームライブを終えたご褒美、というつもりで、私に頼んできているんですか?」

「いえご褒美というわけじゃなく、あくまでドームライブを『トップアイドルになった証』として、それを節目にちひろさんにお願いをするつもりで、今日まであたし頑張ってきたの!」

 

 要するに前々から今日のライブが終わったら私に胸を揉ませてくれと頼もうとしていたということじゃないのか。

 それとなんであれ、私は彼女に胸を揉まれることを許容するつもりはない。彼女の頑張りとか成功と、私の貞操とはまた別の問題である。酷なようでもなんでもない。

 もう一つ言うと、あくまで愛海ちゃんに胸を触らせないというのは別に私に限った話ではなく、彼女がせがむほかのアイドルのみんなにもそうした例は見受けられる。

 特に拓海ちゃんや早苗さんあたりは口より先に手が出るくらいには厳しかった気がする。

 いや、そもそも頼まれようがなんだろうが許容しようという方が稀だし、おかしいはずなのだけれど。

 

 まあ愛海ちゃんもいつもの調子といえばいつもの調子なので、トップアイドルになっても変わらないところもあるのだなと、そこは少し安心するような気もしなくはない。

 もちろん私も、それをいつものように断るだけであるが。

 

 ……言うのも野暮かと思ったが、私も愛海ちゃんからしばしば「登山」を迫られていたりする。一応それまで一度たりとも「登頂」を許したことはないのだけど。

 

「あのですね、愛海ちゃん。あなたが今日のライブをすごく頑張ったことは素直に祝福します。けどそれとこれとは話が別で……」

「ちひろさん、あたしは今日『おねだり』にきたんじゃなく、相応の対価を持って『交渉』しにきたつもりだよ」

「……交渉?」

 

 顔を上げた愛海ちゃんの口から、彼女が発するとも思えなかった単語が出る。

 

「ちひろさんがあたしの提示する対価を気に入ってくれるなら、この『要求』はあたしのわがままなんかじゃなく、あたしたち二人の『取引』として成立する。そこに理屈あるいは感情論からの許しは求めていない」

 

 切り札がある、そう誇ったような瞳の愛海ちゃん。傍に置いていたスーツケースを倒し、その蓋を開けた。

 

 中を埋めているのは、一面の札束。

 

 諭吉、諭吉、諭吉。

 

 おびただしい数の福沢諭吉が、ひしめき合っている。

 

「三億円、ここにある。これと引き換えに、一度でいいから、あたしにちひろさんの膨らみを、この手で、確かめさせてほしい」

 

 その光景に絶句する私をまっすぐに見据えて、臆面もなく彼女はそんなことを言い放った。

 

 ……三億円。

 

 まともに働いたのでは、一生かけても集まらないだろう大金。

 

 人の生涯の所得はおおよそ二億円ともいう。そこへさらにもう一億、上乗せされた額が、選択次第でぽんと、私の手に渡る。

 

 愛海ちゃんに、胸を、揉ませさえすれば。

 

 私とて社会人、それも決して規模の小さくない企業に勤めている身。会社が数億単位の金銭のやり取りで動いていることぐらいわかるし、それこそ書類仕事で数百万数千万という数字を目にすることとてある。

 だが実際に、こうして三億円の現金を――その厚さ、重み、ひしめきを目にしたことなど、これが初めての経験だった。

 

 待て、落ち着け。感覚の狂わされたまま答えを出すのは早計だ。まず彼女に聞くべきことがあるだろう。

 

「……あ、愛海ちゃん。こんなお金、どこから……」

「どこからって、そりゃ今までのアイドル活動で稼いだお金だよ。全体の稼ぎからすればまあ、大した額じゃないけどさ」

 

 仮にも中学生が平然と三億という金を出し、それを「大した額じゃない」と言い張る。いよいよ現実感の乖離にめまいを覚え始めた。

 

 いやそうとも、愛海ちゃんは若干十四歳、まだ中学生なのだ。それがいくら「稼いでいる」からといって、軽々しくこんな大金を扱うなど相応しくない。

 ましてや、彼女がそれを対価に求めてきているのは、なんであれ人の体を弄ぶことにある。

 

 人を、金で買うということの禁忌を、彼女は犯そうとしているのだ。

 

 いやもちろん、実際に求められているのはそんな重大な行為ではない。ただ一度、愛海ちゃんに胸を触らせればいいだけ。

 

 彼女の手には私の胸。私の手には彼女の三億。

 

 それでも。いや、だからこそ。

 

「どうかな、ちひろさん。悪くない条件だと思うけど」

 

 悪くないに決まってるじゃァねェかァァァーッ!

 

 なに? なんなの? どうしてこう私が夢に描いていた光景を具現化して持ってきてくれちゃってるの? 悪魔なの? 胸揉みしだくのが生きがいの変態じゃなかったの? 変態という名の悪魔なの?

 

 い、いけない。モノローグとはいえとんでもないはしゃぎ方をしてしまった。顔に出てないといいのだけれど。

 

 ええそうです、千川ちひろはお金が大好きなのです。

 お金を扱うこと、お金の動きを眺めること、そしてお金が手に入ること。

 どうしてそんな人間になってしまったのかはまた別の話として、しかし愛海ちゃんとて普通の神経ならこんな額を払ってまで胸を揉もうとはすまい。なによりほかのアイドルにも同じようなことをしたという話など聞いたことがなかったのだから。

 

「……愛海ちゃん。どうして私には、そんな『交渉』を持ちかけてくるんですか?」

「え?」

「だって、ほかのみんなにその……スキンシップを取ろうとする時は、別にお金を払ったりなんてしてないでしょう? なのにどうして私だけ、それも今回に限って……」

 

 つまり私の胸を触りたいと申し入れるにあたって、その対価に金銭を用意しようと思い立った理由があるはずだ。

 単純に、お金さえ出せば誰でも揉ませてくれるなどと無粋な考えを起こしているとは思いたくない。

 

「ええと、それはね……こないだちひろさんとプロデューサーのやり取りを見た時のことなんだけど……」

 

「プロデューサーさん、先月分の交際費についていくつかお聞きしたいことが」

「金、金、金! アシスタントとして恥ずかしくないのか!」

「それと来週からスタドリの単価が三割増しになる件なんですが」

「すいません許してくださいなんでもしまむら」

 

「それであたし、気になってプロデューサーに聞いたんだ」

 

「ちくしょう……なにが三ダースセットなら一本あたりの単価は従来通り、だ……悪魔が……」

「ねえプロデューサー。ちひろさんってお金のことになると厳しいの?」

「厳しいというか、執念の塊だよ、あれは。いついかなる手段でいくら相手から巻き上げるかを常に頭に置いて動いている。常人の神経じゃない……」

「つまり、お金が大好き?」

「好きとか愛してるって話じゃない。その肉体を構成する要素にお金があるんだ。血と、肉と、骨と、金でできている。それが千川ちひろという女だ」

 

「正直すごい言われようだなと思ったけど、それであたしは思い立ったんだ。お金がちひろさんの体を造っているのなら、それを相当分払えば、同じくその体を造っている要素の『肉』によって象られた二つの『お山』を、いただけるんじゃないかって」

 

 なんかもう、思考とか論理がいろいろ飛躍していてついていける気がしない。結果としてはやはり金銭と引き換えにこちらを買おうというものであるから、正直追及するだけ無駄なのかもしれなかった。

 

 とりあえず、後でプロデューサーさんにはきっちり落とし前をつけてもらおう。

 私のイメージを改悪、あまつさえアイドルに吹き込むなどと。

 いったい私をなんだと思っているのか。

 まあお金は大事だし、大好きなんだけれど。

 

「でも、払うからにはお小遣い程度の金額じゃ満足してくれないとも考えた。これっぽっちだと先っちょしかダメ、なんてことじゃ生殺しにもほどがあるから……あでも先っちょ、先っちょは一番大事なとこではあるから、まあそれはそれで悪くはないかもだけ」

「愛海ちゃん、愛海ちゃん。それで?」

「あ、それで……どのくらいの金額を提示すれば、ちひろさんを頷かせることができるか、考えたの。単純に等価交換とか、そのお山がいくらかなんてケチくさいことを考えずに、あたしのお山への気持ちを伝えるには、いくらがいいかって」

「……それが、三億円?」

 

 プロデューサーさん、あなたが手掛けてきたこの子こそ、常人の神経じゃありません。

 

「それだけ稼ぐには、あたしも相応の地位まで登りつめなきゃいけない。だからあたしは登った。そして今日、そのてっぺんまで、やってこれた」

 

 語る愛海ちゃんの目は、確かにそれを成し遂げたのだという、強く濃い自信の色で満ちていた。これほどたくましい顔つきのアイドルを、私はほかに知らない。

 

「この手で億単位のお金を稼げる女になったことでも、ちひろさんにあたしの覚悟を伝えることができる。……伝わったでしょ? あたしが本気で、ここまでやってきたって」

「……ええ」

 

 頷かざるを得なかった。

 

 彼女は自分がここまで成してきたことに、一点の迷いも抱いていない。

 その先にある、ただ一つの目的のためだけに、並び立つ者が誰もいないほどの地位までやってきた。

 複雑な考えや感情を持たない、ひたすらにまっすぐな願望に沿って、がむしゃらに。

 そんな一本槍でアイドルの頂点に立つまでの苦労がいかほどであったか、想像に余りある。

 まさに、本気でなければやってこれるはずがなかった。

 

 では私はどうする。それに応えるべきなのか?

 女子中学生から、その後の人生を変えられるだけの大金をもらって。

 その引き換えに、ただ胸を触らせるだけで済ますと。

 

 いや、お金もらっても胸を揉まれたくはないのだけど。

 

 だがこうしてスーツケースに収められた諭吉の群れを前にすると、そうした諸々の葛藤が吹き飛びかけていく。

 あるいは、その葛藤を放棄してしまおうとしている。

 

 あれこれ考えるな、楽になれと。

 女の子同士、胸を触らせるぐらいいいじゃないかと。

 三億あればこんな事務所で働く必要もないと。

 受け取ってしまえと。

 

 頭の中で、そう囁く私がいる。

 

「さあちひろさん。あたしの気持ち、受け取って。そして応えてくれるのなら、ちひろさんもその膨らみを、あたしの手に委ねて……!」

 

 ずい、とスーツケースを前に押し出す愛海ちゃん。

 

 私はそれに手を伸ばし、伸ばして……。

 

「……愛海ちゃん。確かに私の中には、お金に対する少なからぬ執着があります。まあプロデューサーさんのイメージはさすがに言い過ぎというところですけど。でも実際、こうして三億円を前にしていると、体と心が震えます。震えています」

 

 愛海ちゃんの口元は勝ち誇るように緩んでいる。あと一息で私を陥落させられるという、余裕の笑み。

 

 私はその顔を見つめ返して、抵抗の意思を示す。

 

「……けど愛海ちゃんは中学生、アイドル、それに私の……大切な仲間です。どんな理由であっても、たとえあなたにとっては少額であると言われても……こんな大金を受け取ることは、許されません」

 

 愛海ちゃんの瞳が揺らいだ。

 

「そして、愛海ちゃんも……そういう目的のために、人にお金を渡す行為は、許されません。アイドルとして以前に、人として、お金で買えない、買ってはいけないものがあると、わかっているはずです」

 

 伸ばし続けていた手で、スーツケースの蓋を閉めた。そしてそのまま、差し出されていたそれを持ち主の方へ押し返す。

 

「世の中には、どんなに頼んでも、どれだけお金を積んでも、できないことがあると、知りなさい」

 

 拒絶の意思を喉の奥から絞り出して、私はじっと愛海ちゃんを見据える。その表情にはすでに先の余裕の色はなく、トップアイドルとしての風格もなく、ただ年長者に叱られしょげ返る、少女の顔があるのみだった。

 

「……ごめんなさい、ちひろさん。あたし、なんて失礼なことを……」

 

 そしてその口からは、謝罪の言葉が現れた。嘘ではなく、心から自分の行いを悔いているらしい、震えた声だった。

 

「わかってくれればいいんですよ」

 

 それに安堵して、私も優しくするつもりで声をかける。その自分の声を聞いて、先までの自分がいつもよりずっと冷たい声色でしゃべっていたのだなと気付いた。

 けれど愛海ちゃんは俯いて、寂しげな表情を拭いきれていないまま。やがて小さく開けた口から、不安の声を漏らしていく。

 

「……じゃあ、あたしがここまでやってきたことは、全部、悪いことだったのかな……」

「……悪いこと?」

「ちひろさんのお山に登りたくて、その一心でここまでやってきたけど……さっきも言ったようにあたし、最初からちひろさんにお金を出して登らせてもらおうって、そればっかり考えて……だから……」

 

 本当に、ただその目的のためだけに努力を続けてきたことから、それまでの全ての過程を否定されたものと思ってしまったことだろうか。

 そんな彼女の不安に私は首を横に振り、彼女の頭に手を載せる。

 

「……確かに、やろうとしてきたことは間違いだったかもしれませんけど、今までの努力はなにより愛海ちゃんが自分の好きなものに打ち込もうとする気持ちからできたことでしょう? 積み重ねた努力と苦労は、その結果に関わらず、それ自体が意味をなすものだと、私は思います」

「結果だけが、全てじゃないって……?」

「愛海ちゃんだってアイドルとして、今日まで得てきたものがたくさんあるはずです。ファンの皆さんに届けてきた気持ちまで嘘だった、なんてことはないでしょう?」

「う、うん……! あたし、ファンのみんなにも『お山』の素晴らしさとか、あの柔らかい気持ち、いっぱい届けて、分かち合ってきた……!」

 

 あくまで原理はそこにあるらしかったが、なんであれ自分の好きなものを追求し、伝えようとする気持ちは、誰よりもまっすぐなものだろう。

 その正直さ、純粋さがほかでもない愛海ちゃんの魅力なのだ。

 その魅力こそ、彼女が今日トップアイドルの座に立てたことの、なによりの証でもある。

 

「だから、愛海ちゃんは今までの自分の頑張りを誇っていいんです。誰も愛海ちゃんの努力を否定したりなんてしませんし、愛海ちゃんが誰よりも頑張ってきたことは、私も、ファンの皆さんも知っていることですから」

「ちひろさぁんっ……!」

 

 そこまで来て、愛海ちゃんは満面に歓喜の色を浮かべて私の胸元へ飛び込もうとしてきた。明るさを取り戻した彼女を一瞬受け入れたくなったが、すぐにその本性を思い起こして、とっさに手のひらを突き出しそれを押し留める。

 

「どさくさに紛れても触らせるわけにはいきませんよ」

「もうちょい! もうちょいだったのにっ!」

 

 懲りてないといえば懲りてないが、そこにはいつもの愛海ちゃんの姿があった。相変わらずの言動だけれど、そこに安心する。先みたいに柄にもなく消沈しているよりは、ずっといい。

 

「まあ、ダメと言われちゃったら仕方ない……また隙を窺うよりほかになさそうだね」

「奇襲行為は最も軽蔑しますよ私」

「いきなり襲うだなんてそんな野蛮なことしないよ! あくまでちひろさんの気の緩んだ隙、あるいはあたしにその体を委ねてくれる時が来たらということで……」

 

 断言するがそんな日は絶対に来ない。

 というかほかのアイドルの子たちにはいずれもいきなり襲いかかってるようにしか見えないんだけど。

 

「とにかく、あたし諦めないから! そこにお山がある限り、あたしはいつでも登る努力をやめないよ!」

 

 そんな努力もう続けなくて結構なのだが、逐一彼女の言うことを否定し続けるのも野暮というか、きりがなくなってきたので、結局私は苦笑いでその発言を見送ることとなった。

 そこまで言って、さて、と愛海ちゃんは気持ちを切り替えたように姿勢を正し、倒していたスーツケースを引き起こした。

 

「それじゃあたし、もう帰るね。また明日から忙しくなるだろうから」

「ええ、気を付けて。大変ですね、大きなライブがあったばかりなのに」

「へーきへーき、どんなに疲れててもお山にひと登りで元気ビンビンになるから」

 

 指をわきわきと動かしながらなんでもないことのように言う。その表情はすでに誰を狙うか定めたような決心に満ちていた。これだけの多忙にあってなおたくましくも見えたが、やっぱりやましさしかないらしくて辟易する。

 

 それからスーツケースを引きずり部屋を後にしようとする愛海ちゃん。その姿を見送ろうとして、ふと気づき呼び止めた。

 

「あ、愛海ちゃん! まさかそのお金、そのまま家まで持って帰るつもりじゃ……」

「ううん、さすがにそんなことしないよ。重くて大変だし」

「重いのもそうですけど、三億円なんて大金を持ち歩いて軽々しく外を歩き回るなんて、ちょっと危険すぎますよ。ほんとはこうして事務所に持ってきたのだって……」

「今度から気をつけますってば。それにこのお金は帰りがけ近くの銀行で乳がん患者会に募金してくるから、すぐに身軽になるよ」

 

 さらりとすごいことを言った。

 

「ぼ、募金?」

「うん、全額」

 

 三億円、全額。

 

 いや立派だけど、素晴らしい社会貢献だけれど。

 

「あ、愛海ちゃん? それは愛海ちゃんが頑張って稼いだお金なんだから、ほかにもっと使い道が……」

「だってあたしそんなにお金使うことないもん。それよりは世界中のお山の病気に苦しむ人たちのために少しでも役立てた方が、あたしにとっても有意義かなって」

 

 見栄ではなく心の底から出てきたのだろう、そんなかっこよすぎる台詞を残して、愛海ちゃんは事務所を後にした。

 

 たとえ宇宙が一巡しようと、私に彼女の真似はできそうもない。

 

 目前にあった三億円を突き返すということがこの人生で発揮した最大の謙虚さであったと、半ば後悔に似た気持ちを引きずって彼女を見送っているこの私には。

 

 

【了】


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