彼女にとっての唯一“人として生きられる”相手である青年は、過去の贖罪を背負い、少女のしがらみを解放するために動き出す――。
――光は時に真っ直ぐ進まないことを、誰もが知らない。
暗い部屋の中、鈍い音が響く。殴られた少女は、父親と母親を一瞥する。その瞳には生気はなく、まるで死んだように暗くなっていた。
――また私が悪いことしたから、お父さんとお母さんは怒っている。きっと、そうだ。私が悪い。
頬から慣れたようで慣れない痛みを感じながら、少女はただ父親から殴られることを受け入れる。何度も何度も頬を殴られ、腹部を蹴られても何一つ言葉にしない。少女の口から漏れ出すのは、呻き声だけ。
母親からは
血の代わりに涙を流したところで、暴力を振るわれることや
やがて二人の気が済んだのか、少女は解放されて床上に転がる。隣の部屋からは明かりが灯り、先程のことが嘘のように平穏な日常の音が流れていく。
生きることも、死ぬことも、どちらも諦めてただ息しかできない現状に少女は何も感じない。もうこれが自分の日常だから。ただ受け入れて、呼吸を繰り返すだけなら何も考えなくていいから。
穏やかな日常音が落ち着くまで、少女は静かに床上で待った。そして、眠気に誘われたのか、ゆっくりと目を閉じて意識を遠ざけていく。
閉ざしたカーテンの隙間から、陽光が差し込む。少女はその温かさに気づき、目を覚ます。周りを見渡すと、本棚にしまっておいたはずの本は何か強い衝撃を受けたのか床上に散乱し、机の上に置いてあった文房具類やハンガーにかけてあった上着類も同様にフローリング床の上で散らばっていた。
体を動かそうと腕や足に力を入れた瞬間、体のあちらこちらから痛みが訴える。ああ、昨夜また怒らせてしまったから、殴られたのだった。
口の中に血の味を充満させつつ、頭や頬、腹部などからの痛みの信号を無視して立ち上がって荒れた部屋を片付けていく。
あらかた片付け終えると、わずかに開いたドアの隙間から周囲を確認する。リビングは誰一人もおらず、荒れた形跡は見当たらない。両親は恐らく自室で寝ているか、仕事に行っているかのどちらかだろう。
だけど、二人がまだ起きて家の中にいる可能性を踏まえて慎重な足取りでリビングへ。平穏な日常を送っていることを示しているかのように、テーブルやキッチンは整理整頓され、閉じたカーテンからは自室と同じように暖かな光が差す。
カーテンをゆっくりと開け、冷蔵庫の中にある昨日の残り物が入った料理を取り出し、レンジで温める。温め終えると、それを持ってリビングの椅子にこしかけ、一人で食べていく。静寂の中で聞こえるのは、食事に関連する音だけ。
一人は当たり前、誰にも迷惑をかけないように静かにするのは当たり前。
誰とも顔を合わせない光景に何の感慨を覚えず、少女はただ目の前にある食べ物を口の中に運ぶ。自分がいるだけで不幸せなのに、でも自分は結局必要される、その矛盾は少女の心を着実に蝕んでいた。
何を食べても痛みが伴う血の味しかしない。だけど、それは当たり前の味。自分が受け入れるべき罰の一つだから。
淡々と食べ物を口に運び、皿の中身が空になると、静かに立ち上がって皿やコップを洗うためにキッチンへと向かう。音が出てしまうから起こしてしまうのでは、という
皿やコップを洗い終え、ふきんで水気を拭き取って食器棚にしまい込む。幸い、誰一人もリビングに来ることはなかった。つまり、二人とも仕事で外でいないのだろうと料簡を立てて、自室へと戻る。
そして外へ出かけるために衣服を着替えて、読みかけの本を小脇に挟んだ。誰もいないけど、家にいたらまた怒られる。だから、しばらく外に出て消えておこう。
玄関の靴箱の上に置いてある鍵を忘れずに持ち、静かにドアを開閉して外出した。
向かう先は図書館――小脇に挟んだ本をそこで読むついでに、返しにいくため。夏の日差しが容赦なく照りつけ、わずかながらにそよ風が通り過ぎるが、暑さを和らぐことはない。それどころか生温い風はただ不快感だけを残した。
誰も必要としていない上に、無駄に人に不快な思いを与えるなんて――自責や自嘲の念を胸に抱えつつも、少女は淡々と目的地へ歩を進めていく。
分かっている、先程の風と自分も同類だって。だから、責める言葉なんて持ち合わせていない。自己否定の言葉を頭の中に並べ、少女は街の景色や空模様へ興味を向けずに足元ばかりを見ていた。
図書館へ入館して、二階の閲覧室にある窓際の席で一人静かに物語に没入する。本を読んでいる時だけ、自分が自分らしくいられる気がして……彼女本来の笑みが心なしか零れていた。
どんなに悲しい話でも、苦しい話でも、物語の主人公たちは困難を乗り越えようと必死にもがいている姿に少女の心が生きていた。憧れという感情が、彼女をその瞬間だけ生きる原動力となっていたのだ。だからこそ、物語と向き合った時だけ自分が自分らしく生きている、死んでいるような実感を即身で味わう。
生きる理由も死ぬ理由もない世界の中にあった小さな避難場所。そこだけが彼女の現実だった――。
空の色が澄み渡るような青から温かみのある
灰色や黒が入り混じる大地に、橙色が上から染めていく。周りは帰路につこうという子供の声やこれから食事をしようという大人の会話で溢れていた。
それらの音を聞き流しながら足元に視線を落として、歩き出そうとした瞬間、少女を呼び止める声が。
振り返ると、同級生の男子たちが数人いて、少しばかり意地悪そうな笑顔を浮かべている。何か用だろうかと問いかけようと思って口を開く――前に、集団の中で体格がいい少年に押し飛ばされて尻餅をつく。押し飛ばされた拍子に、コンクリートの壁に激突して頭や背中を強く打つが、痛みは感じても何も思わない。むしろ、何かを思うことさえ許されるはずがない。
やいやいと少年たちに囲まれ、加減の知らない言葉、容赦のない暴力を一身に受けるだけ。それでも彼女は自分の現実を守るために、本を胸に抱えてうずくまり、必死に痛みを堪えていた。
けれど、力及ばず、ついに取り上げられしまう。体格のいい少年に現実を破られそうになった刹那――やめてという彼女の願いと重なるように、やめろという怒号が空気を貫いた。
その場にいた全員が声がした方に顔を向けると、夏だというのに黒いコートを羽織っている風変わりな青年の姿が。しかし、青年の顔立ちは
ただならぬ青年の雰囲気を察してか、体格のいい少年は本を投げ捨てると、他の同級生たちと共に顔を強張らせ速やかに退散していく。青年は本を投げ捨てたことへの怒りを言い放しつつも、投げ捨てられた本を拾い、土埃を払いのけてから大股で少女へ歩み寄る。
――大丈夫か。誰もが少女に投げかけなかった温かな風に乗せた言葉。唯一人として接してくれる相手への甘えを表に出さないように、少女は頷いて答える。
まだ心配が尽きないのか、青年はやや訝しげに目を細める。少女は青年の表情から、きっと笑っていないから不安にさせているんだと、感じ取って不器用に笑ってみせた。できるだけ、この人の前では……泣いている姿を見せたくない。
取り繕った笑顔だと分かっているかもしれないが、それでも青年も笑って返し、手を差し伸べる。少女はその手を取り、立ち上がって青年から本を受け取った。そして今日まで読んでいた本と、これから読む本について青年へ楽しそうに語り始めていく。
物語だけでなく、現実にあった彼女の居場所。青年の隣で瞳に生気を宿して声音を弾ませる姿は、紛れもなく人として生きていた。
穏やかで楽しげな夕焼けの時間、少女を家に送った後、青年は彼女が住んでいる家の周辺をうろつく。つと窓から明かりが見え、少女が無事に自室についたのだということを知らせていた。それを見たと同時に、青年は明かりがついた一点だけを見つめながらおもむろにイヤホンを左耳に。
まだ音は平穏、何も乱れたものはない。あるのは、一人分の生活音……寂しくはあるが、最も平和な状態。
青年は願う――ただその寂しくも穏やかな時間が続けばと。かつて過ごした今は亡き姉との思い出を巡りながら。――自分の父親に殺された優しくも強い姉の
一つ、二つ、騒々しい足音が聞こえ、また嵐が巻き起こる音が次に
翌朝、青年は公園のベンチにて睡眠を取っていた。傍には日本刀を立てかけており、その時を静かに待ち続けている。イヤホンから昨日に聞いた騒音よりも激しいものが耳に届いた瞬間、青年は目を覚まし、素早く立ち上がって日本刀を手に走り出した。
彼女は自分を殺す唯一の存在にして、彼女を殺すのは自分。禍々しい欲望を
さあ、急げ。時は来たのだ、このまま逃す訳にはいかないだろう。
光さえも吸い込んでしまいそうな黒い感情が胸中を満たし、満腔へ駆け巡る。そして青年の足をさらに速める原動力となっていた。
音の発生地――少女の家の周辺に到着すると、塀を簡単に飛び越え、そのまま硝子戸を日本刀で叩き割る。音が響いた後、割った箇所から鍵を速やかに開け、部屋の中へ侵入。真っ先に目にしたのは、壁に背中を預けて項垂れる少女と、彼女に容赦なく暴力を振るって罵倒した少女の両親の三人家族だった。
突然のことに父親は驚き、青年へ向けて何者だと問いかける――間もなく、彼の体は鮮やかな赤に染まって力を失った。母親の
しかし、青年は興味なさげに蹴り飛ばし、腰を抜かして動けなくなった母親の近くへ。彼女はさらに悲鳴をあげる――目にしたのは、驚愕の表情を浮かべたまま時が止まった夫の顔だった。
何故、先程まで自分たちの娘を否定していた人間が、惨状に向き合った瞬間に弱くなるのか。青年は目の前にいる女性の言動に疑問が浮かんでいたが、その疑問もすぐに消えた。結局、同じような赤い未来を辿らせるから、問いの意味はない。
お願い、助けてという懇願を簡単に斬り捨て、鮮血が雨となり、何もかもを赤くしていく。赤い雨が室内に降り注ぐ中、青年は悪魔のように口の端を吊り上げ、笑った。――これで願いが叶うと。
母親の最期をぞんざいに見届け、まだ辛うじて息をしている少女の元へゆっくりと歩み寄る。血が雨ではなく床を浸潤する赤い海へと変化すると、青年は血振るいをして納刀し、少女の眼前で片膝をついた。
少女に優しく声をかけるが、彼女からは何も返ってこない。恐らく父親に突き飛ばされて、頭を強く打って
それでも青年は少女へ声をかけることをやめない。先程と打って変わって、穏和に
優しくも力強い一言を残し、青年はその場を立ち去った。、少女が青年の名前をか細い名前で呼ぶが、森閑とした空気の中に溶けゆくのみ。
惨殺事件から約一週間経ったある日のこと――少女は病院のベッドの上にいた。近隣からの通報で、保護されてそのまま入院。今まで受けた傷と事件のショックを癒している。
備え付けのテレビを眺めていると、子供たちを狙った殺人事件が発生したことをニュースキャスターと、その被害者である子供たちの写真が一緒に映っていた。いずれも一週間前ぐらいに図書館で彼女をいじめていた少年たちの顔なのだが、彼女に見覚えがない。それどころか、子供たちの事件以前に起きた惨殺事件の被害者である両親の顔さえ覚えていないのだ。
――記憶喪失。少女の身に起きていることを言い表せば、単純にそれだけ。
少女はテレビを見て、被害者たちの顔を見てもどこか遠い他人のように思えて、あまり情感が湧かなかった。ただ両親の顔が映し出されて、自分の名前らしき言葉を聴くと、関係があるのだろうかと少しだけ関心を示す。けれど、その興味もすぐに消え失せ、テレビの電源をおもむろに消した。
今の話はノイズでしかない。夏が運んでくるわずかなそよ風に靡く風鈴の音を、木々のささやき声を楽しみたい。だが、ぽっかりと空いてしまった彼女の心を満たすことはなかった。
手元に置いてある本も心が揺れ動かない。何を聞いても、何を見ても、何も感じることがなく虚しいばかり。だから、少女は目を閉じて己の心を満たすものを思い浮かべた。
空っぽの心を満たしていくのは、強く生きろという言葉。そして散らばった硝子片に反射した光と、鮮やかな赤色に染まった雨と海だった。
初めましての方は初めまして、いつも読んでくださっている方はおはこんばんにちは、巻波彩灯と申します。
今回は頭の中で描いたものとズレが生じたのか、はたまたただ単に書く気力がなくなったのか、途中までしか書いていなかった蔵の作品を引っ張り出してみました。
……会話文はどこへ行った案件は、ツッコミを入れてはいけない。
尚この作品は、現在連載(停滞)中の作品、『【お試し連載】フューチャーカードバディファイト ~炎の剣士の輝跡~』のアナザーエピソード:東京編の前身にあたる作品です。
今回の短編を書いていた時に、ある可能性を考えていたら、浮かんだのが東京編でした。
東京編1話は下記のリンクから飛べますので、よろしければご覧いただけると幸いです。
東京編1話→https://syosetu.org/novel/151593/11.html
では、今後とも巻波の作品を楽しんでいただければ、幸いです。