小説版バンドリの沙綾と香澄がイチャイチャする話だった筈の何かです。

【小説版バンドリ企画01】に参加させていただきました。


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ハシり始めるまでの小休符

 自分の境遇を不幸だと思ったことがないと言えば嘘になる。

 

 母はもうこの世にいない。父はもうパンを焼いてはくれない。弟たちは無邪気に笑っている。私はドラムをやめて、みんなと同じ時間に学校に通うこともなく、一人で家業のパン屋を切り盛りしながら弟達の世話や家事をこなした。

 

 その生活に不満はなかった。誰よりも大切な家族のためになるなら私はいくらでも頑張れた。

 

 弱音を吐きたいと思った時があった。何もかもが嫌になって投げ捨ててしまいたいと思った時があった。でもそうしなかった。そうすることを私が許さなかった。してしまえば家族に迷惑がかかるから。一度立ち止まってしまったらもう二度と頑張れないと直感的に分かっていたから。

 

 家族のためにいつも笑顔でいた。家族のために私欲は捨てた。不満も嫉妬も我儘も全部全部飲み込んだ。家族のために、私は心を殺した。殺したはずだった。

 

 あの日、新学期が始まってしばらくした日のこと。一仕事終えた後に向かった夕日の差し込む教室。茜色に染まった机に小さな落書きを見つけた。それは奇しくも私の机だった。

 

 可愛らしい字で綴られた弱気な言葉。でも確かな意志がそこにはあった。私がなくしてしまったものを彼女は確かに持っていた。

 

 応援したいと思った。顔も知らない。声も知らない。ただ入れ替わりで同じ机使うだけのその子を励ましたいと思った。

 

 そう思うと手は自然と動いていた。私の精一杯の言葉で彼女の背中を押せるのならと思うと自然と頬は緩んでいた。

 

 それから私と彼女─香澄の文通は続いた。相談を持ち掛けられた事もあれば、普通の女子高生らしく会話に花を咲かせた事もあった。

 

 新鮮な感覚だった。干からびた大地に雨が降るような、鈍った腕を取り戻すような心地良さがあった。

 母が死んでから同じ年の子と喋る機会も余裕も無かったから、彼女との言葉越しの会話は錆びついていた感覚を思い出させてくれた。彼女の文字を見ている間だけは、私は何もかもを忘れて楽しむことが出来た。

 

 だからあの日は本当に驚いた。開いた口が塞がらないというのは比喩表現ではないことをこの時初めて知った。

 

 何度見直しても机の文字は変わらず、私にドラムを叩いてほしいと書いてあった。それはどこまでも無垢で、それゆえに残酷な言葉。

 

 彼女がバンドを始めたことは知っていた。引きこもりなピアニストの事も、奇天烈なベーシストのことも、可笑しなギタリストのことも、そしてドラムだけが足りない事も、全部知っていた。私の境遇は意図して隠していたから彼女は私がドラムをやっていた事は知っていても何故辞めたのかは知らない。だからこれは予期できた言葉であり、そして回避し得るものだった。

 

 ならば、ここで私が泣きそうになるのは間違いであり、ましてや彼女に対して苛立ちを覚えるなどお門違いも甚だしいのだ。

 

 彼女の頼みは断った。もう1度スティックを握ってしまえば、今までの決意も何もかもを否定してしまう気がしたから。頑張っていた私が間違っていたと感じてしまうと思ったから。

 

 それでも彼女は私に会いに来た。性懲りも無くまた私に頼んできた。タイミングが良いのか悪いのか、ちょうどその頃から父はまた厨房に立つようになっていた。正直ちょっとキモいと思っていたのは秘密だ。

 

 その後、久しぶりにドラムを叩いた。こんな事をして良いのかと罪悪感が背筋を這う。焦燥感が心拍を上げる。でもそれ以上に楽しかった。したい事をするのがこんなにも楽しかったのを久しく忘れていた。

 

 かくして、その後も色々ありつつも私は晴れて彼女のバンド、Poppin’Partyの三刀流ドラマーとして青春を謳歌するようになった。

 

 母はもういないけど、父は最近よく笑うようになった。話を聞けばなんでも香澄たちの曲の影響らしい。香澄様様である。

 

 ようやく歩みを止めることが出来た。肩の荷が降りたというか、今までずっと肩肘張って生きていた事にようやく気づけた。

 

 これ以上にないほど幸せだ。こんなにも毎日が満たされていると感じるのは母が生きていた時以来かもしれない。

 

 だからこそ、私は毎日が楽しくて、そして怖くて仕方がない。

 

 この幸せはいわば降って沸いた幸運でしかなく、風前の灯のようなものだ。

 いかに私と香澄とみんなが強固で綺羅星のように眩しいキズナで結ばれていたとしても、家族の幸せを失った私からからすればそれは明日消えても何らおかしいものではないのだ。

 

 勿論彼女達のことは信頼しているとも。この繋がりはちょっとやそっと喧嘩したところで切れるものではないのは承知だ。例えりみがお金欲しさに有咲の店の骨董品を軒並み売り払ったり、りみがナ・二モとやらを身につけるべく勝手に香澄のランダムスターに触って壊したとしても、私たち、というか主にりみと私たちのキズナは簡単に途切れる訳ではないし、他のみんなにしても同じだ。

 

 分かっている。分かっているとも。

 でもそうじゃない。そうじゃないんだ。

 

 私たちのキズナは無くならない。消えない。途切れない。

 でもソレが未来永劫続くなんて誰も保証してくれやしない。

 明日誰かが死ぬかもしれないし、そうでないかもしれない。

 終わりというものは驚く間も無く突然やってくるものであり、今まで築いてきた一切合切をせせら笑うように奪い去っていくものなのである。

 そこにはキズナなんてものは関係なく、寧ろ繋がりより強く、より深い方が大きな喪失感に苛まれる羽目になる。

 

 あぁ、そうだ。私は怖いんだ。これ以上彼女達と仲良くなるのが。彼女達を愛おしく感じるのが。

 

 失った者の末路を私は知っている。絶望に染まった空虚な瞳を誰よりも近くで見てきた。

 だから、もし誰か1人でも欠けてしまったら私もああなるかもしれない。そう思うと、どうしても一歩彼女たちから引いてしまう。

 

 私は弱い人間だ。誰かを頼る事が出来ずに大丈夫だと虚勢を張るしか出来ない浅ましい人間だ。

 

 母を失った痛みで私の心はずっとボロボロのままだ。これ以上傷つけば私の心は壊れると分かっているのに、この古傷を癒す術を知っていて治すことを良しとしない。

 それは善意なのかもしれない。これはとてもプライベートな問題だから、下手に伝えればきっと相手を困らせてしまう。

 或いは我儘なのかもしれない。この痛みは、この悲しみは、この喪失は私だけのもので、それに触れる事は誰であっても許さないぞというささやかな抵抗なのかもしれない。

 どちらにしても、今更それを考えたところでそれは後付けでしかない。理由はともあれ私は自身の過去を誰かに伝えることを一度もしなかった。

 

 それで、何の話をしていたんだっけか。そう、頼れない話。

 

 私は誰かを頼ることは出来ない。それは私の心の弱さを露呈するに等しい行為だから。頼るという事は、誰かに私の傷を受け止めてもらうということだから。それくらい心を開いた人間がいるということだから。その人を失う事を想像してしまうから。

 

 そんな事は起こり得ないのに。Bang Dreamの名の下に募った私たちに解散の2文字は無いはずなのに。あぁ、でもBang Dream─長いからバンドリでいいや、バンドリの先駆けたる有咲の父のバンドは解散したんだっけ。じゃあ駄目じゃん。

 

 ダメだなぁ。どうにも今日は後ろ向きな思考を繰り返してしまう。普段なら長女として、一家の大黒柱として(最近は父が厨房に立つようになったのでお役目返上だが)、そしてポピパのドラマーとしてシャキッとみんなを励ます頼れるお姉さんなのだが。どうにも心は体に引っ張られるものらしい。体が重いと頭も重い。体が病めば心も病むというものだ。

 

 つまり、まぁ、私、山吹沙綾は絶賛風邪で寝込んでいます。普段から健全な体調作りを心掛けているし、乙女心的にも生活習慣には気を遣っているのだけれど、やはり人間季節の変わり目には体調をつい崩してしまうものらしい。あと昨日天然シャワーとか修行とか言って豪雨なのに外に飛び出したりみを止めに行ったのがいけなかった。おのれりみめ、グヌヌ。

 

 そういうわけでベッドで大人しくしているわけなのだが、いかんせん普段はパンを焼いたり弟達の面倒を見たり香澄やりみに付き合ったりと忙しない日常を送っているだけで、こうなった時にとてつもなく退屈に感じてしまう。

 かと言ってドラムパッドを叩けるわけでも無し、というか関節が痛くてまず動くのから無理なので、こうしてセンチメンタルな心で睡魔が私を素晴らしき夢の世界へ誘ってくれるのを今か今かと待ち構えているのだ。

 

 暇を持て余しているうちにすっかり昼になってしまった。いつもなら今からバンドの練習をしに有咲の家へ出かけるのだが、残念ながらこの有様では家どころかベッドから指一本動かせる気もしない。不本意だが今日は休むしかないだろう。

 ならば後は寝るだけだと目を閉じて、彼女達に連絡をいれていない事を思い出したのだが、スマートフォンを手を取る前に私の意識は夢の世界へ旅立ってしまったのだった。

 

 

 

 

 

 頭を撫でられている気がした。

 まどろむ意識の中で、誰かの手がゆさゆさと私の髪を撫でる。

 愛おしむように、慈しむように、限りない優しさが寝ぼけ眼の私に夢を見させる。

 久しぶりの感覚だった。甘えたくなるような手付きだった。心傷も疲労も溶けてしまうそうだった。

 

 これは夢なのか、それとも現実なのか。ふと疑問に思った。

 いや、夢だ。夢に決まっている。だってこんなにも気持ち良いんだから。私の頭を撫でてくれる人なんてもう夢でしか出会えないんだから。

 

 だからこれはきっと夢だ。だからもうちょっとだけ、もう少しだけこの優しさの海に微睡んでいたいと思うのは我儘だろうか。

 夢から覚めたら、またみんなの頼れるお姉さんになるから。また不安と戦うような日々を過ごすから。せめて夢の中でくらい思いっきり誰かに甘えていたいと願うのは欲張りだろうか。

 

 でもそれもずっとは続かない。ピタリと、頭を撫でる手が止まった。

 手のひらが離れていく。指の腹も離れ、ついに指先も遠のいていく。

 

「いやっ……」

 

 気づけば私はその手を掴んでいた。痛覚も気だるさも抑えつけて、夢から醒まそうとする誰かの手を必死に手繰り寄せた。

 

「お願い……あと、ちょっとだけ……」

 

 夢なら覚めないでとはいわない。いつか終わるものだって分かってる。だから、もう少しだけで良いからここにいさせて。あとちょっとだけ、この温かな微睡みに溺れさせて。

 

「母さん……」

 

 一際大きく揺れた誰かの手を掴んだまま、私は再び眠りについたのだった。

 

 

 

 

 

 私が目を覚ました頃には、外はもう夕暮れ時だった。カーテンの隙間から差し込む夕陽が部屋を茜色に染め上げる。この時間を誰そ彼時ともいうんだっけ。

 

 身を起こそうと身じろぎすると、ぽすっと何かが掛け布団を挟んで私の腹の上に落ちてきた。

 それは手だった。小さくて、か細くて、綺麗で、指先には白い痕があった。それがギターを弾いていると出来るものだと私は知っていた。

 手から腕へと視線を辿れば、その先に見えたのは特徴的な髪型。猫のような三角形が2つ頭の上に乗っていた。

 

 私の頭に手を置いていたらしい香澄は、どうやらその姿勢のまま寝てしまっていたらしい。器用というかなんというか、体勢的に辛くないのだろうか。

 彼女の手をそっと包み込む。どうして彼女がいるのかは聞くまでもない。多分連絡の付かない私を心配して様子を見に来てそのまま寝てしまったのだろう。

 

 じゃあ何故彼女は私の頭に手を置いていたのかという疑問が残るわけだが、そこで私は朧げながらに思い出した。夢だと思っていた、あの誰かが私の頭を撫でていた記憶を。

 

 もしあれが夢じゃないとするならば。もしその誰かが香澄だったのなら。だとすれば私は彼女に……彼女の事を……。

 

 視線を彼女の方へと見やる。やや猫背ながらも前に倒れる事なく、器用に彼女は寝ていた。その寝顔はとても落ち着き払っていて、何故かその姿が脳裏に浮かぶ亡き母と重なって見えた。

 

 ぼふっと、頭が茹だりそうな程熱くなりそうだった。きっと今の私は耳まで真っ赤にしているだろう。隣に香澄がいる事さえ忘れて、私は恥ずかしさのあまり両手で顔を覆い隠して情けない声を出して身悶えた。

 

「うーん……うん? あれ、私、寝てた? ってえっ?! 沙綾?! どうしたの?! 私何かしちゃった?!」

 

 そしてこのタイミングで起きてしまうのがランダムスタ子と名高い香澄である。いや、多分私の声で起きちゃったんだろうけど。

 

 取り敢えず自身の羞恥心は一旦置いておいて、私は泣きそうな顔であたふたする香澄を慰める事にした。

 

 幸いにも直ぐに香澄はすぐに落ち着きを取り戻し、その頃には私もいつこの平常心を取り戻していた。

 

「ごめんね、香澄。急に休んじゃって」

「あっ、ううん。こっちこそ急に押しかけちゃってごめん」

 

 口下手な香澄との会話は途切れがちだ。一言二言続いたと思ったらすぐに沈黙がやってきて、思い出した頃にどちらかがまた話し始める。それの繰り返しだ。

 じゃあそこに不満があるのかと聞かれれば、私は声を大にして無ノーと答える。確かにおたえやりみと話している時のような愉快さは無いし、有咲ほどユーモアに富んでいるわけでは無いが、言葉の節々に感じられる実直さと優しさが私を安心させてくれるのだ。

 

「もしかして、私の頭撫でてくれてた?」

「えっ、あっ、うん。その……迷惑だった……?」

「全然。でも病人に安易に近づいたらダメだよ」

「あっ、うん。ごめん……」

 

 すぐ謝ってしまう後ろ向きな性格はどうにかならないものか。いっそ小さなランダムスターでも作って常に彼女に持たせておこうか。そんな事を考えながら、私はいつも通りの香澄を見てつい頬が緩めるのだった。

 

「……ねぇ、沙綾」

「ん? 何?」

 

 妙に居住まいを正して、香澄は私は気不味そうに問いかけた。

 

「さっき、私が頭撫でてたって言ったでしょ?」

「そうだね」

「その、その時にね、聞き間違いじゃなかったらだけどね。『お母さん』って沙綾が呟いてたの」

「あー……」

 

 つまりあの時の出来事は夢ではなく、撫でてくれていた誰かはやはり香澄だったらしい。

 

「その、言い辛かったら全然答えくれなくて良いんだけど、彩綾のお母さんって……」

「……うん。いないよ。弟達を産んだ後に亡くなったの」

 

 香澄が息を呑む音が聞こえた。

 

 彼女がこの事を聞いてくるだろう事は、あの出来事が現実だと分かった時点で予想出来た。

 そう、これは予期できた言葉だった。回避し得た問いだった。あの時と同じように。

 ならば、彼女に私の過去を打ち明けて、私の心の弱さをひけらかして、彼女に受け入れてもらった方がきっと良いのだろう。優しい彼女はそうある事を望むだろうから。1人で抱え続ける事に涙を流せるような人だから。

 

 あぁ、そう出来たらどんなに楽だろう。どんなに幸せなのだろう。

 

 だからこそ、これ以上はいけない。これ以上彼女に伝えるわけにはいかない。してしまえばきっと私は戻れなくなってしまう。きっと際限なく彼女に溺れてしまう。

 

 それじゃあ駄目なのだ。それをするということは、今までの私を足蹴にするのと同意だ。今までの全てを否定する行為に他ならない。

 

 例えそれが間違いだったとして、その先の道が茨だらけだったとしても私はこの道を踏み外すつもりはない。それが私を私たらしめてくれるから。

 

 だから、彼女にこれ以上何かを言わせてはいけない。私は心の弱い人間だから。いくら意志を固めたところで、囁かれた彼女の甘言に簡単に傾いてしまうから。

 

「心配してくれたの?」

「うん……その」

「ありがとう。でも大丈夫だよ。もう気持ちの整理も済んでいるつもり」

 

 嘘だ。整理なんてどうして出来ようか。心なんてあの日からぐちゃぐちゃでボロボロのままだ。それを見ないふりし続けているに過ぎない。でも、だからと言ってそれを他人に手伝ってもらうわけにはいかない。これは私だけの気持ちで、私だけの問題なんだから。

 

「大丈夫だよ、香澄。大丈夫」

 

 俯いた香澄の頭を優しく撫でる。本当はぎゅっと抱きしめてあげたかったけど、病人なのであまり近づくわけにはいかない。でもこれくらいならいいだろう。

 

「私は今幸せだよ。十分過ぎるほど色んなものを貰ってる」

 

 嘘偽りない本心だった。確かに人から見れば不幸な境遇かもしれない。でもそれは過去の話でしかない。

 確かに今までの私は幸せでなかった。幸不幸について考える事すら出来なかった。

 でも今は香澄がいて、みんながいて、かつての父がいて、元気な弟達がいて、ドラムだって好きなだけ叩ける。そんな日々が私にとってかけがえのない幸せなのだ。

 

「だからさ、そんな俯いてないで、笑ってよ。いつもみたいに。ランダムスタ子なんでしょ?」

 

 少し冗談めかしてそう言う。香澄は私にとってかけがえのない友達だから笑っていてほしい。暗い暗い日々を切り裂いて、私を引っ張ってくれた流れ星のような貴方がそんな顔をしているのは、他の誰でもない私が耐えられない。

 

 顔を上げた彼女は、やっぱり泣いていた。一筋の涙が頬を伝っていた。

 

 あぁ、やっぱり。

 

 香澄は優しい子だ。誰かのために泣ける子だ。私を救い出してくれた希望の光だ。

 

「でも、私、沙綾の事何にも知らないから! また迷惑かけちゃったのかなって!」

「あ〜もうほらっおいで」

 

 撫でていた頭を後ろの方にやって私の方へ押し付ける。押された彼女はそのままベッドに倒れ込み、不恰好ながらも私に膝枕されるような形になった。これくらいなら風邪も移らないでしょ。

 

 太ももの上の彼女の頭を優しく、閉じ込めていた記憶を思い出しながらゆっくりと撫でる。

 

「香澄には感謝してるんだから。それに何も知らないのは私が言ってないだけだから」

 

 香澄はただ私にされるがままに黙っている。布越しに感じる呼吸は少し荒っぽいが、どうやら落ち着いたらしい。

 

「多分、これからも言うことは無いと思う。秘密にしたいわけじゃないし、香澄を信頼してない訳でもない。これは私の問題だから。私だけのものだから」

 

 言い聞かせるようにそう言って、彼女の頬に手を添える。そしてぐいっと顔を私の方に向けて、潤んだ瞳と目を合わせる。なんだ、私も泣いているじゃないか。

 

「ありがとう、香澄。私を幸せにしてくれて。だから大丈夫。私はもう、辛くなんかない」

「……ほんとう?」

「本当だよ。だからさ、香澄は泣かないで。泣かれちゃうと私が不幸みたいじゃん」

「そっそうだよね! ごめんね!」

 

 香澄は跳ね起きてわたわたと涙を拭った。それから赤く腫れた目を弓形に細めて、にへらといつも通りに笑った。私も同じようににへらと微笑んだ。

 

 うん。やっぱり私は幸せだ。もう今までみたいに1人で走り続けなくて良いんだ。

 

 きっとまた私はまたハシり始めるのだろう。でもそれは今までみたいに幸せに怯えて、不安から目を逸らして、焦燥感に駆られるようなものなんかじゃない。

 その道にはきっと今までとは違う辛さがあって、苦しみがあって、悲しみがあって、でも忘れられないほどに嬉しくて、声が枯れるほどに楽しくて、どうしようもないくらいの幸せを掴みに行くような、そんな綺羅星みたいにキラキラドキドキした道なのだ。

 

 大丈夫。私はまたハシり出せる。他の誰でもないみんなが、香澄がいるから。これからの悲しみは、喜びは、私だけのものじゃないから。

 

 あぁ、でも、もし叶うなら。もう目は覚めてしまったけれど、きっと夢に見ることはもう無いかもしれないけれど。だからこそ、もう少しだけ微睡みを、かつての幸せを味わわせてくれないだろうか。

 

「ねぇ香澄、1つだけお願いしてもいいかな」

 

 彼女の手を掴んで私の頭に乗せる。やがてゆっくりと、メトロノームのように撫でられる。それは記憶にあるものとは違うけれど、込められた優しさと温もりは同じように私の心に染み渡った。それに身を委ねて、私は目を閉じる。

 普段ならこんなお願いはしないだろう。しかし心とは体に引っ張られるもの。体が弱れば心も弱る。だからいつもより少しだけ正直なのも、きっと弱った心のせいなのだ。

 

 誰そ彼時に夢を見た。今は亡き母に頭を撫でられる夢だった。微睡むような意識の中で、私は確かに幸せだった。



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