大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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一話 一度だって恋人だったことはない

 

(……新生ネルフの司令が、作戦部長であるアタシを直々に呼び出したと思ったら、けっきょくはこういう事になる)

 

 市内の行きつけの高級ホテルは、互いに独身の二人の常宿だった。だからその天井の模様はアスカには見慣れている。

 

 ダブルベッドの上を、春の叢のような残り香が漂い、男女の交合の跡を物語っている。相手の体臭は、嗅ぎ慣れていて、印象にも残らない。

「……もう、こういうのやめてくれない?」

 

 アスカのその言葉に、彼女の白い胸に、頭を預けていた男が僅かに身じろぎした。

 

「作戦の失敗で、あの子が死んだ。その事でアタシがあんたを慰めてやれるとでも?」

「……」

 

 ネルフは、新たに再動した使徒の迎撃戦で大きな損害を出した。パイロット候補のひとりに「事故」があり、死亡した。─あの子の存在はアタシにとっても、シンジにとっても大きかった。落ち込むのはアタシだって分かる。シンジはそれでまた立ち上がれなくなっている。

 

「確かにあの作戦を策定したのはアタシだけど、よりリスクの低いプランも複数提案しておいた。最終的に作戦を選んだのは、あんたなのよ。碇司令」

 

 碇司令と呼ばれたのは、碇シンジだ。父亡き後、若くして、新しく再生したネルフを率いている。

 

「……僕はもうどうしたらいいか分からないんだ、アスカ」

「アタシだって、分からない」

 

 だって、時間を巻き戻したり、人を生き返らせる方法はないのだから。いい加減、そんな当たり前の事ぐらい、理解しろ。大人なんだから。

 

「でも、アスカと話したくて……」

「話なんてろくにしないで、ココに呼び出されて、一発ヤっただけだけどね」

 

 シンジはいつだって余裕がなく、だから、他人に優しくなれない。

 男はモヤモヤを放出させれば、すっきりするかも知れないが、女はどうすればいいのか。

 

「ごめん……」

「そりゃ、十代の頃なら、一緒にベットで涙を流して慰めてやったでしょうよ。今まで散々そうしてやったでしょ。でも、もう無理よ」

 

 シンジは愕然として、顔を上げた。

 

(今日初めて、アタシの顔を見たんじゃない?)

 

 アタシはずっとシンジを想ってきた。身体だけの関係になっても、一途に、ひたむきに。だけど、あの子が死んでから、シンジは遂にアタシを苦しい気持ちの逃げ場としか考えなくなった。アタシにはそれが苦しくて、悲しくてたまらなかった。シンジには優しくしてあげたい、今でもそう思ってる。でも、それじゃ、誰がアタシには優しくしてくれるの?

 

「もうあんた、アタシを逃げ道にしてるだけよね。最近では恋人らしい扱いは何もしない。それどころか、普段は会話や視線すら交わす事も厭うのに、こういうシンドイ時だけ、アタシにすがる。アタシはあんたのママじゃないのよ?」

 

 とはいえ、もう二十年近くも、そんな風に二人は行きつ戻りつしてきたのだ。心がうまく繋がれず、身体の関係ばかりが先行する。先に進もうとすると、期待はその度に裏切られる。本当の意味で恋人だったことは一度もなかったのではないか。少なくともこの五年十年は、身体の関係だけのセックスフレンドのような間柄といってよかった。

 

「クソ雑魚メンタルなら、ゼーレに白旗上げて、とっととネルフなんて辞めればいい。辞めて、アタシのヒモになったっていい。ゼーレの人類補完計画だって、世界中に全てをぶちまけて、とっととアタシと二人でとんずらすればいい。あるいは二人だけで世界の終末をじっと待ちながらひっそりと暮らしてもいい。アタシは何年も前からそう言ってる。でもそろそろ時間切れだわ。……あの時、新しいネルフの存在が、アタシたちが生き残る為には必要だったってことは分かる。アンタがアタシの為に必死だった事も分かる。感謝だってしてる。でも、その後、あんたがやること為すこと、あんなに嫌ってた父親とまるで同じじゃない」

 

 アスカは、身を起こし、上に乗っているシンジの身体を払いのけた。

 

「もういい加減、別れてくれない?あんたに関わったお陰で、これまでの人生で、恋人一人居たことがない。あたしにだって幸せになる権利はあるのよ」

 

 遂に言ってしまった。言ってはいけないセリフの筈だった。今までずっと頭の端をかすめても、歯を食いしばって飲み込んできた。もう後には戻れないかも知れない終局への台詞。

 

「いやだ……アスカが、誰かと幸せになるぐらいなら、僕と不幸になったほうがいい」

 シンジがしがみついて、この夜、初めてきつく抱き締めてきた。

「最低」

 

 エゴイズムの塊のような発言に、アスカは顔をしかめるが、その一方的な独占欲に僅かに自尊心をくすぐられる。だが、それは忌々しいことに、別に愛ではないのだ。

 

 シンジに他人への愛はない。むろん、アスカへの愛もない。最近の仕打ちを見ているとやっぱりそう思えてくる。いや、あるいは、かつては仄かにそれらしきものがあったのかも知れないが、アスカにはもうそれが見えなくなっていた。

 

 アスカは思うのだ。シンジは他人の愛し方が分からないのではない。きっと他人をそもそも愛せないのだ。これは気質のようなもので、シンジが悪い訳ではない。いつかは、シンジが人間的に成長し、自分を愛してくれるようになる、そう思っていたが、それはそもそも幻想だったのだ。シンジには初めから、愛などなかった。

 

 だって、自分がどんなに傷付いていたって、相手の気持ちへの気遣いを忘れてしまえるのは、もう、愛じゃないわよ……相手にだって、自分同様に心があり、同じように傷付いているのかも知れないと想像出来ないのなら、そこに愛なんてないじゃないか……。あまりにも自分勝手で寂しいよ、そんなの。けっきょくシンジはいつも自分の事ばかり。自分のことしか頭にないんだ……だったら、もう。

 

「帰るわ」

 

 そう決めると、その後の言葉もまるで前から決めていた事柄のように、すらすらと流れ出た。

 

「明日の朝、連絡先を削除する。携帯も変える。仕事も辞める。辞職届はメールする。アンタも誰かいい子でも見つけなさい」

 

 一旦バスローブを羽織って、ベッドから立ち上がると、俯くシンジを横目にアスカは下着や服を身に付けていく。

 

(シンジは……泣かないだろうな)

 

 真っ青な顔をして唇を噛みしめているが、泣くことはない。こんな時でも泣くことの出来ないシンジが、可哀想だった。

 

(こいつも、他人と色々とかみ合わなくて辛いんだろうな。巻き込まれたアタシほど不幸じゃないとしても)

 

 服を着替え終わると、無言のまま、部屋を出、ホールでエレベーターを待つ。

 

 シンジは別に追い掛けて来ない。

 

(あーあ、何で追い掛けて来ないんだろ、本当にバカだなアイツ)

 

とはいえ、理由は分かる。一度、拒絶された後で食い下がれば、再び拒絶される。それはシンジのような人間にとっては恐怖であり、耐え難い事だろう。

それでも、食い下がり、傷つき、駆け引きするのが、普通の人間なのだが……。

 

(そういえば、最初にアイツと会った時、空母の甲板上で。三馬鹿の中では一番まともな外見で、エヴァのこと、何も分かってなかったから色々面倒見てやったんだっけ)

 

 シンジに手取り足取り、色々と教えてやった。ユニゾンの訓練で、息と、心を合わせた。マグマに突入する作戦で、命を救われた。助けてもらう事もあったけれど、いつだって、自分は三割の優位と余裕を保持して、アイツに向き合う事が出来た。

 

(姉さん女房気取りだったのよね、だからアイツに結婚する気がないと知った時、腸が煮えくり返った。ま、ずるずる身体だけの関係を続けたんだけど)

 

 あれは弟への庇護欲みたいなものだったんだろうな。

 けっきょく、自分もシンジへの想いを、愛だと勘違いしてきたのだ。

 愛など、元から無かったのだ。

 そう思うと、少しだけ未練が断ち切れそうな気がしてきた。

 

(最初から……一線など越えなければ良かった)

 

 エレベーターで一階のロビーに降りる。すぐにホテルのバーの入り口が目に入った。

 バーのカウンターに腰掛ければ、すぐに男が声を掛けてくるだろう。きっと、シンジよりも上等な男が。

 古い愛の終焉に立ち会った文学作品のヒロインならば、その日のうちに、新しい人生を切り拓く選択肢を選ぶのが正しいのだろう。つまりはあのバーに入るのが正しい。

 

(……バカバカしい)

 

 そこまで考えて、アスカは頭を振った。要するにこれは自意識過剰だ。アスカは、美貌の才媛だが、永遠にその美が約束されている訳でもない。今なら何とか軌道修正が間に合うのだが、男を乗り換える気力はなぜか無かった。……恐らくは全てが面倒くさくなっていたのだろう。

 

(アタシは文学作品のヒロインじゃないし、人生をかけて、真実の愛を探求してるわけでもない)

 

 普通の女として、男を見る目が絶望的に無く、アイツとぐだぐだやってるうちに三十路を越えてしまっただけなのだ。

 

(最初に引っかかった男があんなのだから私はこうやって苦労してるけど、……今更遅いっての)

 

 それにアスカの心には今ひとつのわだかまりがある。

 

 十年ちょっと前にシンジと交わした約束。シンジとアスカの間で、ある種の出発点となった日を起点にしてそこから二十年。そこまでに二人の将来について結論を出すという約束だ。

 

(もう今さら、守る必要があるかも分からない約束になってるけど……)

 

 しかし、それでも約束は約束か……とアスカは思った。シンジとの約束はやっぱり破れない。裏切ることは出来ない。それはとても大切なものだ。シンジとの愛が迷子になっていて、そもそも最初からそんなものは無かったかも知れなくて、それでも、あの約束はやっぱり重い……。だって、ずっと長い間、それはアスカが自分自身に与えてきた希望だったのだ。いつかはシンジが大切なことに気付いてくれるかも知れない、そこまでは待とうという。まだ僅かながらに約束の日までは時間が残っていた。

 

 ……それに、シンジがなぜ結婚をしたがらないのかは分からなくもない。理由をあれこれ付けてはいるが、結局はシンジはやっぱり他人が怖いのだ。

 

(他人と始終一緒に居るというのがそもそもしんどいのよね……それがたとえ、アタシであっても)

 

 自己肯定感が余りにも低く、他人に否定され続けるだけの日々を想像してしまうのだろう。そして、シンジが世間から今なお白眼視されるサードインパクト時の行動。彼によって、家族や大切な人を傷つけられ、失ったと思っている人は少なからず居るのだ。今でもシンジはそれを克服しきれてはいない。だからアスカとは一緒になれないと感じている。

 

 気がつけば、アスカは、シンジの内面心理を知悉するほど、長い時間を過ごしてきたことに思い至る。

 

 シンジはどうせ今頃、死にそうな顔でもしてホテルの部屋に居ることだろう。だが、あのエゴイストが、自殺などする訳がないことは分かりきっている。

 

(一晩ぐらい、死にそうな気持ちになるがいい)

 

 明日の朝には電話してやる。あのガキを甘えさせてやる積もりは毛頭ないが、「いつかシンジはアスカを愛せるようになり、それまでアスカはシンジを愛している」という幻想を復活させてやる。アイツをまた勘違いをさせてやろう。アタシもまた勘違いしてやろう。そうやって、人生を綱渡っていけばいい。

 

 そして次にシンジが呼び出してきたら、今度こそはうんと高いディナーでも奢らせてやろうと、アスカは思った。

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