「負けてらんないのよッ、アンタたちなんかにッ!」
スクリーンの中のアスカの表情は敵意に染まっている。再建途上のエヴァ弐号機内部を模したシミュレーションエントリープラグの中で、アスカは戦略自衛隊の戦闘ヘリや戦車と死闘を繰り広げていた。これは数日前のアスカを撮した映像である。
そのスクリーンを見つめる現在のアスカは、ぎゅっと、隣に立つシンジの手を握りしめた。シンジもアスカも同じ高校の制服姿だ。アスカはもう高校に通っていないが、今日はシンジと一緒に通っていた前の学校の制服を持ち出して着ていた。
横から見るシンジの血色は悪い。彼が見上げる特大モニター上のアスカの鬼気迫る表情は、恐らくはシンジがこれまで見たことがないものだ。
(気持ちが悪いわよね。醜くて……嫌な女だ)
松代にサード以前から安置されているMAGIコピーの物理演算によるVRシミュレーションはとても仮想とは思えない程、真に迫っている。戦略自衛隊のヴァーチャルな敵性ユニットがアスカのA.T.フィールド展開によって全て撃破されると、弐号機の直上に投入された9機の輸送機から次々に、翼を大きく広げた白い人型兵器が降下してくる。
「りょ、量産型エヴァ……や、やめてよっ!もう、そんなの、やめさせてっ……」
シンジは蒼白になった。この映像の行く末がシンジにもようやく理解できたのだろう。
「シンジ……これはあの時の記録映像じゃないの。あくまでシミュレーションなのよ、アタシがここ松代で受けてる量産型エヴァ打倒の作戦シミュレーション。アタシは3日に一回、量産型エヴァ9体の完全破壊を目標として訓練をする。間に1日休みを挟んで、その翌日は自分のシミュレーションの戦術自己分析。この映像はシンジを駅に迎えに行った日の午前に実施した最新のシミュレーションの映像」
とアスカは努めて冷静に告げる。
「……でも、だって、これじゃアスカがっ……」
画面の中のアスカは弐号機を操作して、白いウナギのような頭部の、眼のない奇怪な外見をした量産型エヴァンゲリオン9体に果敢に飛びかかっていく。
直上から急襲し、量産型の口を手で引き裂き、相手を持ち上げて腰を鯖折り、大量の鮮血を頭から浴びる……
水中に沈めたエヴァの頭部をプログレッシブナイフで貫く……
量産型の武器である、幅広の剣の形状に変化させたロンギヌスの槍のコピーを奪い、次々に、腕を斬り、首を斬る、上半身を刎ね、脚を断ち切る……
終始優勢に戦いを進め、量産型の数を順調に削っていくアスカだが、弐号機のアンビリカルケーブルは切断されており、活動限界が迫る。
「アタシ、エアーマンとか言ったでしょ、TVゲームのボスキャラのね。……そう、このシミュレーションでも一回も勝ったことないんだ。ま、実際の戦闘でもそうだったし、S2機関を積んでて、無限再生するんだから普通にやって勝てっこないし。一体、なんでこんな事やらせるんだろうね」
「だ、誰かやめさせてよっ、こんなの、アスカじゃなくて、僕にやらせればいいっ、もう、アスカを苦しめないでよっ!」
シンジの懇願を、佐官や尉官たちが興味深そうに眺めている。「ほら、あれが例の初号機の……」「なるほど、まだ若いな」。あるいは「キミ、これはあくまでシミュレーションなのだから、心配しなくてもキミの友達、いや、恋人かな─は実際には傷付かない」……などというしたり顔の大人の声が、虚しく響く。
ヴァーチャルなシミュレーションだって、あの最終決戦の「再演」に、アスカが、アスカの心が、傷付かない訳がない……
「哀願しても無駄よ。シンジはそういう所が相変わらず分かって無いわね。世の中にはアンタの気持ちなんか無視する人間は幾らでもいるの。アンタの気持ちはどうでもいいの。アンタがこの世界の中心じゃないんだから」
「アスカ……」
「でも、アタシは世の中の他の人間とは違う。アタシにとってはアンタとアタシが世界の中心。アンタの気持ちはアタシにはとても重要」
しかし、アスカのその声はシンジにとってずいぶん遠くから聞こえてくる現実感のないものに思える。
「僕が、僕が、この時もっと初号機で早く上がっていれば!アスカだって傷つかずにっ」
あの時、硬化ベークライトを流し込まれた初号機のケージ、一見して明らかにエヴァに乗り込む事は出来なさそうだった。でも、シンジはアスカの為に何も足掻かなかった。自棄になり、自分の殻に閉じこもった。外部の事情など、何の言い訳にもならない。
「アタシは今さらそんな事望んでない。だってあの時、アンタ辛かったんでしょ。辛いのに無理してエヴァに乗る必要なんか無いわよ。それに過去は変えられない。アタシはあの時の事を思うと、単に寂しくなるだけだよ」
(シンジに助けて貰いたかった。ユニゾンの時のように、マグマにダイブした時のように)
─アタシはお姫様みたいに、ひたすら、シンジが王子様みたいに助けに来てくれるのを待ちながら、戦っていた。だって、無敵のシンジ様はアタシなんか比べ物にならないぐらい、本当に強いんだから。やっぱり男の子なんだって、そう思わせてくれる存在だ。どうしようもないぐらい、彼に嫉妬するけど、少し憧れる。自分のことを守ってもらいたいと思える存在。
でも、シンジは来てくれなかった。……うちの王子様はメンタルが脆くて、あんなに頼りないって本当はずっと分かっていた筈なのに。
能の演目に『
夫に裏切られた妻が、鬼になって復讐しようとする。赤いキモノを着て、顔を赤く塗り立てた橋姫という能面を付けて演じられる鬼女は、夫を殺そうとする。燃え上がる怨みと募る恋しさ。夫をなおも愛していた妻はけっきょく本懐を果たせない。そして、最後には降臨した護法の神々に責め立てられ、恨みを残したまま、屈服する。─まるで、あの時のアタシだ。
きっと量産型エヴァを次々に"殺害"する時のアタシの顔は、そして、鳥のように翼を生やした量産型エヴァに外部装甲やその下の内臓を啄まれて、地獄の痛みと苦しみを味わい、殺してやると連呼したアタシの顔は、あの橋姫の能面のように怒りに歪んだ恐ろしい顔だったに違いない。だって、あの時、アタシが本当に殺したかったのは、量産型エヴァだったのか、最後まで助けに来なかったシンジなのか、今でもよく分からないから。
げにや蜘蛛の絲に荒れたる駒は繋ぐとも。二道かくる
アタシを救えもしない、殺しもできない、二つの道で迷うばかりのバカシンジなんか、頼みにしないと思っていたのに。でも、本当はシンジに救って貰いたかった。守って貰いたかった。アタシの頭の中は、シンジの事を考えるといつもグチャグチャで、憎んでも憎みきれない。シンジをどうしても、愛しているから。
「ううっ……」
アスカの鬼気迫る戦いぶりに、シンジはしかし破滅の予感を感じ取る。握る手にシンジの冷たい汗が流れるのをアスカも感じる。
「アタシはシンジがあの時、初号機に乗る気になれなくて、辛かった気持ちを分かってる積もりだよ。だから、今アタシがどんな想いで、松代で毎日生きているのか、それを知ってほしいだけ。助けてってメールには書いたけど、本当は助けなんか要らない。ただ、知っていて欲しい。アタシの辛さを。そしてシンジの事を考えれば、アタシはいくらだって頑張れると思っている事を」
(そう、アタシはシンジの事を思えば強くなれる─アタシはどんなに死にたくなっても、シンジと一緒になるまでは絶対に死なない。往生際悪く、シンジとの今生にしがみついてやる)
画面の中のアスカが、最後の量産型エヴァの腹を弐号機の拳で突き破るやいなや、弐号機めがけて、大剣が飛来する。アスカの反応は早い。何度もシミュレーターで繰り返した戦いだ。再演回数を重ねる毎に反応速度は上がる。即座に右手を突き出して展開するATフィールド。しかし大剣は槍状に変形し、ロンギヌスの槍としての力を取り戻す。
ATフィールドは遂に突き破られる。槍は弐号機の左目を刺し貫く。A10神経を介して、強烈な痛みがアスカの左目を襲う。シミュレーターはこんな余計な部分の再現度も完璧だ。痛みを緩和する効果など何もないのに、アスカは手で目を押さえながら絶叫する。殆ど、生物としての反射的な反応だ。
そして、内部電源がゼロとなり、アスカが動かす操縦桿は全く反応をしなくなった。
そのタイミングを見計らったかのようにアスカに倒された筈の量産型エヴァはS2機関を稼働させ、アスカに与えられた傷を次々に再生していく。翼を生やし、槍を持ち、うなり声を上げて、よだれを垂らして、アスカを取り囲む。動くことの出来なくなった弐号機の鳥葬を遂に始める。
最初に啄まれるのは外部装甲。装甲はあっさりと粉砕され、そしてその下の弐号機の皮膚、血管、内臓。腸が引きずり出されていく。もちろん、A10神経の接続は継続されたまま。シミュレーターにおいても、接続を解除する進言を行う軍人は居ない。仮想エントリープラグ内の画面上のアスカは弐号機の"殺害"と連動して、全身を苛む猛烈な痛みに絶叫する。
シンジが直接は観たことのなかった光景だ。
「アタシはレイプされてるわけじゃない。これは輪姦じゃない」
恐らくは比喩的にそのような勘違いをしているだろう、シンジに向かってアスカは説明する。あの時も、このシミュレーターでも、肉体的にも精神的にも性的な加虐が加えられた訳ではなかった。ただ、啄まれる箇所に相当する全身の各部に、そこを切り離してしまいたい程の強烈な痛みが伴うのは事実だ。そして、精神的にも強い喪失感と無力感、行き場のない憎悪が湧き上がってくる。
シンジは吐き気を堪えることが出来ずに、胃の内容物を床に戻した。そして、アスカと繋いでいた手を強引に振りほどき、さらなる嘔吐を抑えようと己の口を塞ぐ。
「ううっ、うっ、うっ……」
嘔吐をしながら、シンジの嗚咽は止まらない。
アスカは振りほどかれた自分の手のひらを血でもこびり付いているかのように、恐ろしげに見つめている。
「決して、手を放さないでって言ったのに─」
その時、この訓練で一度も泣いたことのないアスカの頬を初めて涙が伝った。シンジに助けて欲しいわけじゃなかった、ただ心を支えて欲しいだけだった。アスカが日々見ている地獄のような光景から目を背けずに、一緒にアスカの気持ちに共感し、共に立ち向かって欲しいだけだった。
◆
─僕はアスカとの約束を守れなかった。また、あの時のようにアスカを裏切った。アスカを見捨てた。僕は─いや─俺は最低のクズだ……
松代駅で、二人は寂しい別れの時を待っている。シンジは俯いていた。アスカは一歩下がって、シンジの手の届かない所に立っている。
「……アスカ、約束守れなくてゴメン」
「……」
「あの、夕べ使ったマットレス、もう棄てておいて」
─僕は二度とアスカに逢えないし、アスカと寝る事もないから。
「分かったわ。棄てておく」
「うん、ありがとう……」
アスカがその申し出を拒絶しなかった事に安堵しながら、しかし、そのそっけない返答に、胸がどうしようもなく痛む。アスカが、自分のものでなくなってしまうと思うと、耐え難いほどに心が苦しい。でも、この苦しみと切なさはこれからの人生でシンジがずっと耐えないといけない痛みだ。彼は振り絞るように言った。
「今まで本当にありがとう。元気で。もう逢うこともないだろうけど、僕は……アスカのこと」
しかし、シンジが言い終わる前に、アスカは言った。
「勘違いしないで、そういう意味で棄てるんじゃない。アンタがいない間に二人寝用の寝具なんて要らないから。アンタがまた来たときには新しいのを買う。これはアタシの立てる身の証よ。アタシはアンタの為にあくまで操を立てる」
シンジには理解できなかった。また、アスカは僕を許すのか。僕を甘やかすのか……約束を守ろうともしなかった僕なのに。
「どうしてだよ……。アスカは僕なんかもう見捨てて、別の人と幸せに……その方が、アスカも楽じゃないかっ!」
「他の相手と楽になんかなりたくない、安らぎを感じたくない。アンタとずっと地獄に居た方がマシよ。それに、アタシはアンタ以外に肌を許すような、安い女じゃない。ホンッと、何から何までアンタの認識、苛つくわね。……アタシを見損なうな」
そう突き放した後で、アスカは少しだけ視線の厳しさを緩める。
「シンジ。アタシはアンタが何度間違えても、失敗しても、アンタを許す。アンタがアタシを何度見捨てても、アタシはアンタを絶対に見捨てない」
「……もうそういうの止めてよ……アスカの幸せにとって、何の意味があるんだよ……」
「大有りよ。だって、アンタの事が好きだから─」
「どうしてなんだよ。僕の何が好きなんだよ。最低じゃないか、僕なんか」
そんな事はアスカもとうに知っている。でもどんな人間にだって、人間として生まれてきたからには幸せになる権利があるはずだ。それをシンジには教えてやりたい。幸せの心地よさや暖かさを。……でもこうして、サードインパクトからずっとアスカと共に生きて来ても、シンジには何も伝わらなかったのだろうか。そうだとすれば、アスカにとって、それは余りにも寂しいことだ。自分のこれまでの行動が虚しかったようで、悔しくて、涙が出そうになる。
「なんなら、その最低の所がよッ、アンタ、アタシが居なくてマトモな人間になれると思ってるのッ」
「っ……もう同情とかいい。自分が惨めになる。僕なんかいっそ死んだ方がいいんだ」
その言葉にアスカがシンジの襟首を強い力で掴む。
「死にたいなら死ねばいい、でも、絶対に一人で死ぬなッ、死にたくなったらアタシが一緒に死んでやる!アンタには、勝手に孤独に死んでアタシを置いてけぼりにする、そんな資格は金輪際ないっ。あの浜辺で結ばれてから、アンタとアタシは永遠に、一心同体になったんじゃないのっ!」
ギラギラと燃える蒼炎の瞳が哀しみと怒りをたたえながら、シンジに一人で逃げ出したら許さないと告げている。
「アスカ……」
「心中したいなら、これから来る電車に一緒に飛び込もう、そしてあの世でアンタとアタシは一緒になる」
アスカは、強引にシンジと腕を組む。脅しではなく、シンジが死のうと言えば、一緒に飛び込む覚悟だ。
「あの世なんてっ……」
シンジはのし掛かるアスカに身体を支えられ、保持されながら、無気力に目を伏せる。
「二人が結ばれるあの世なんてないと思うなら、アンタは死ねない、死なせない。この世でアタシを幸せにするまで、アンタは死ねない。アタシはシンジが一人で死んだら絶対に後を追うよ。アタシを死なせないで……分かった?」
「……どうしてそんなにアスカは強いんだよ……」
「強くなければ、アンタと一緒に生きられない……そんだけよ。好き好んでこうなった訳じゃない」
優しいアスカには生きる資格は十分にあった。でも強くなければ生きていけない。とりわけシンジとは。
シンジの弱さが、アスカを強くしたのだ。
シンジからの返事はなく、彼にはもはや俯く事しか出来ない。
アスカはそっと腕を離す。プラットホームに列車が滑るように入ってきた。時間切れだ。
帰路では、シンジを迎えにきた子安が同行する事になっている。スーツ姿の彼が、ホームに一旦降りてきた。
◆
終点の須坂で乗り換えて、長野線で長野駅へ。さらに長野駅で、上りの北陸新幹線に乗り換えて、一時間ほど。シンジの周りは、沈痛で重い雰囲気が続いた。
「……子安さんは、何も聞かないし、言わないんですね……」
とシンジが落ち込みながらも、振り絞るように自ら声を発したのは、アスカの最後の叱咤がまだ耳に残っていたからなのだろうか。シンジには珍しい、足掻きにも似た人との接触だ。
「……話がしたいのなら聞きますよ」
真っ直ぐ前を向いて無言で座っていた子安は組んでいた長い足を組み直して、シンジに向き直る。
「……アスカは、松代で酷い目に遭っていたんです」
「薄々は聞いています。市ヶ谷にも同期がいるので」
官僚は研修などで他省庁の同期組と友人関係が出来るのでと簡単に子安は補足する。
「惣流さんの処遇について色々省庁間で申し入れては居ます。彼女は高校生で、私の職掌の範疇でもある。保健労働省にも協力を受け、メンタル面でのサポートも人員を増やしてますが……それ以上は、軍機の壁もあって、中々、力になれず、済みません」
シンジはそういう事では何の解決にもならないと思ったが、だからといって、逃げ出した自分に、アスカの為、何がしかの努力を払ってくれている人たちを批判する資格が全くないことも分かっていた。
─僕はアスカに何もしてないんだから……
「アスカが辛い思いをしてるのに……それなのに、僕はまた逃げ出したんです。量産型エヴァにアスカの弐号機が嬲り殺された時のように……」
子安は静かに少年を見た。彼もサードインパクト直前の経緯は役目柄、知悉している。
「碇君が自分を糾弾して欲しいのなら……それで楽になりたいのなら、すまないが、私はそういう事はしてあげられません。それは私の給料外ですし、中学生に世界の命運を預けた無責任な大人の一人に君を糾弾する資格があるとも思えません。唯一それが出来る人間が居るとすれば、君と同じかそれ以上に辛い思いをした惣流さんだけでしょうね。彼女は君を糾弾したのですか」
シンジは、哀しげに首を横に振った。そうしてくれれば、どんなに気持ちが楽になるだろう。僕はアスカに罰して貰いたい。罵って貰いたい。傷付けて貰いたい。でも、身勝手極まりない話だが、嫌われたくはなかった。嫌って貰うのが一番の罰だとしても、その本当に辛い罰からは逃れたかった。だからこそ、それ以外のあらゆる罰を受けたかった。一番キツい罰を受けなくても償っている気分になれるように。
しかし、アスカはそもそも如何なる罰も与えようとはしなかった。代わりにシンジに純潔を与え、日々、身体を与え、優しさを与えてくれた。シンジからは何もあげられていないのに。そして、シンジは何度も何度も……また今日もアスカを裏切ったのだ。
「いいえ……アスカは今日、ただ泣いていました。泣いた事なんて今まで殆ど無かったのに。僕は彼女を傷付けた。一緒にいると僕の存在が……彼女を傷付けるんだ。僕はもう消えてなくなりたい……死んでしまいたい……でも、アスカは僕が死んだら、後を追うって……」
子安は痛ましそうに少年を見た。あの少女なら本当にそうするのだろう。やはり子安には二人を引き離した事が致命的な失策としか思えなかった。
「だからもう、どうしたらいいのか……分からなくて……」
「一個ずつ順に考えてみるのはどうですか。まず過去の事はどうしようもない。サードの時の事にせよ、今日の事にせよ。すると大事なのはこれからです。碇君は惣流さんをどうしたいのですか」
「僕はどうなってもいい……だけど、彼女を……アスカを守りたい……今アスカが受けているような苦痛から逃れさせてあげたい。……でもそんなの、僕に出来る訳がない。誰も僕の言うことなんて聞いてくれないし、僕は只の男子高校生だから……」
無力だった。いつも生きていて虚しかった。壁にぶち当たる度に、自分には何も出来ないことを思い知らされる。悔しい気持ちとそれを上回る、どうでもいいという気持ち。自分の人生など粉々に砕け散ればいいと思いながら、それに巻き込んでしまったアスカを想う。僕はアスカと幸せにはなれない。なってはいけない。なれる筈がない。
「それは違います。あなたは只の男子高校生ではない」
「……それはどういう……」
「かつて、徒手空拳の一学生が、裏死海文書のドキュメントと人類補完計画を引っ提げて、政府や国連と渡り合い、一つの特務機関を作り上げた実例があります。そんな事が可能だとはそれ以前には誰も想像出来なかった事ですよ」
「……それって」
「そう、君の父親、碇ゲンドウとネルフのことですよ。君は彼の息子です。その知名度も経歴も世界に与えた衝撃も、残念ながら、只の男子高校生ではない。そして、父親に出来た事なら、君にだって出来るかも知れない」
「でも、僕は父さんとは違う。そんな、政府と渡り合えるようなものだって、何も……」
子安は声を低め、その分、シンジに整った顔を近づける。
「……裏死海文書のオリジナルが未だに見つからないのです。政府は断片しか把握していない。亡くなったゲンドウ氏の自宅にも執務室にもMAGIのストレージにもなかった。金融庁が手を回して調べたが、銀行の貸金庫などに預けた形跡もない、そう聞いています。息子の君は何か聞いていませんか?」
「……いいえ、父さんとは殆ど話した事がないから」
「でも親子だ。親子でしか分からない事があるかも知れない」
「……そんなのないと思います、僕と父さんには」
アスカと一緒に保護された後、政府の役人から父が亡くなったと伝え聞いたときも何の感慨もなかった。怒りも憎しみも悲しみも無かった。親が先に死ぬのは当然だと冷めていた。散々に自分やアスカを使い捨て、親としてではなくどこまでも男として母ユイに添おうとしたゲンドウ。自分と同じく最低の利己的な人間だから、シンジには自分がゲンドウで、アスカがユイの立場だったら同じ事をしないという自信がない。アスカ一人に再会するために、何人、何百人、何千人の人間を犠牲にしても平気な人間になれるだろう。自分の血にはそういう恐ろしいものが潜んでいる筈だ。それも自分がアスカと一緒になれない、なってはいけないと感じる理由でもある。
しかし、ゲンドウの考えが理解できても、それで裏死海文書が見つけ出せるとは思えなかった。
「サードインパクトの中途半端な発動により、フォースインパクトを狙った使徒の再来寇は確実とされている……そのタイムスケジュールはある種の予言書である裏死海文書でしか分からない。もしその文書が見つけられるなら、政府の上層部は目の色を変える。駆け引きの材料として使えば、新しい特務機関の設立も夢ではない。私はそれに官僚として全面的に協力出来ます」
と、いつになく子安の言葉にも熱が籠もる。
「……それは子安さんが……やりたい事なんですか……」
「もちろん官僚ですから人並みに野心は有りますよ、一機関の設立を生涯の功績に出来る役人はそう多くない。しかし、少なくとも、その新しい機関は惣流さんの安全な居場所にはなる。君たちにとって悪い話ではない筈です」
でも、その裏死海文書とやらが見つからなければ、全く無意味で荒唐無稽な夢想だ。
「でも本当に分かりません……僕には父さんの隠したものの場所なんて……分からない」
「焦ることは有りません、何かのきっかけで思い出すかも。そして、それがもしかしたら惣流さんを救う事になるかも知れない。君が惣流さんを救えるんだ」
その言葉は、長くシンジの耳朶に残った。
「アスカを救える……守れる……新しい場所……」
シンジはそっとデッキに立った。折り畳み式の携帯電話を取り出し、短縮ダイヤルを掛けようとして、躊躇う。
思い直して、ショートメッセージでアスカの携帯に通信を送る。
『僕は最低の人間だけど、アスカに、またいつか会いたい。今はまだ会えないけど』
直ぐに返信が返ってくる。
『待ってる』