大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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十三話 比翼連理の再会

 惣流・アスカ・ラングレーは今は十八歳、今年の末で十九歳になる。先月から進めていた大学編入の手続きを終え、引っ越し荷物の整理もそこそこに、教育科学省の役人にあらかじめメールで確認していた、さる住所に向かった。

 

 アスカの背は高校生の時と比べても、もう殆ど伸びていない。代わりに、顔つきや体つきに大人の女性らしさが強くあらわれ、そろそろ少女のカテゴリから卒業しつつあった。もはや美少女とは呼べない。まごうことなき、美女である。

 

 季節は初夏。相変わらず長く伸ばしている金髪を少しかき乱す緑色の風が瑞々しい。白いブラウスにオレンジのスカートを着て、アスカの歩みは心の内を外に表すように軽やかだ。

 

 聞いていた番号の部屋のドアに鍵はかかっておらずストッパーが噛ませてある。表札を確認してから、アスカは恐る恐るドアを開けた。ワンルームマンションの唯一の部屋が玄関からでもよく見えた。その部屋で、Tシャツに半ズボン姿の青年が、床に直に寝転がって天井をじっと見ていた。

 

(天井に……いったい何が?)

 

「何をして……いるの?」

「アスカをずっと、待っていた」

 

 思わずそっと声を掛けると、シンジの視線は天井に向けられたまま。

 三年間、二人は離れ離れに暮らしていた。今日この部屋を訪ねるという事もアスカはシンジには伝えていなかったが、彼に驚いている様子はない。シンジの待っていた、というのは今日の事なのか。どういう意味なのか。混乱しつつアスカは更に尋ねる。

 

「な、なんで床に寝ているのよ」

「比翼っていう鳥は、雌雄で目と翼が一つずつしかないんだ。雄と雌が引き裂かれれば、もう一羽では空は飛べないから、こうして寝ているしかない」

 

 と言って、シンジは右手を天井に向けて伸ばす。手の届かない欲しいもの、憧れているものがそこにあって、それに手を差し伸べるように。

 

 やがて、シンジはゆっくり玄関先のアスカに顔を向けた。

 

「おかえり、アスカ」

 

 比翼の鳥が今、一羽帰ってきた。

 

「……ただいま、シンジ」

 

 玄関で靴を脱ぎ捨てて、部屋に上がると、シンジが天に伸ばした手に自分の手を絡める。 

 傍らに添ってシンジと同じように寝転び、アスカは宣言する。

 

「二人でなら、きっと空の上の物でも手に入れられるわよ」

 

 比翼のつがいが戻れば、天の高みも目指せると信じているアスカ。

 

 アスカ、君は本当に強いね。強くて美しい。

 

 でも、この歌は「長恨歌」……長い(くやみ)の歌なんだ。

 

 天に在りては願はくは比翼の鳥と()

 地に在りては願はくは連理の枝と()らん

 

 引き裂かれる恋人たちが、天に生まれ変ったら比翼の鳥になろう、と願った。……その願いは本当に叶えられたのかな?

 

 結ばれるあの世なんてないと言ったのは、君なんだよ……アスカ

 

 

「シンジ……そろそろ昼よ。起きなさいっての」

「んん……」

「また、学校に泊まったの?徹夜?」

「……ああ、アスカか……」

 

 人類学、分子生物学、大脳生理学、量子力学、軍事社会学、戦時国際法、神話学、ヘブライ語や古典ギリシャ語の語学書、エノク書……

 

 本の山に埋もれながら、机に突っ伏して寝ていたシンジをアスカはその中から掘り起こす。

 

(こいつ、一体何を勉強しているんだか?)

 

 再会から丁度、一年。二人は大学二年になった。生物学を専攻するシンジが学科や学部を越えて、片っ端から関心のある授業を取りまくり、あるいは聴講しているというのは、すでに学内で有名になりつつある。今時珍しいやる気のある学生と評判はいいが、体系性や方向性の見えない授業の取り方で、教員とのコミュニケーションでトラブルを起こしたこともあるという。

 そして講義の受講だけでなく、夜も遅くまで、図書館の個室や研究室の一室を借りて、本を読みまくっているようだ。何かに追い立てられるように勉学に勤しむシンジの姿には鬼気迫るものがあった。アスカはそんなシンジを訝しみながらも、応援していた。しかし、シンジの大体の居場所を把握しているが、探すのには毎回苦労する。

 

 アスカは、ふと、気付いたように、クンクンと鼻をひくつかせ、眉を顰める。

 

「アンタ、少し匂うわよ。また、しばらく帰宅してないんじゃないの」

「まあ、3日め……だったかな。調べる事があって」

「うわ、バッチィ……。アタシの部屋でとっととシャワー浴びてきなさいよ。鍵、持ってるでしょ」

 

 アスカの部屋は大学から徒歩五分ほど。シンジの部屋はそこからさらに十五分ほど歩く。だからアスカの部屋が便利で、シンジには合い鍵を渡してある。

 

「あ、ああ……そうするかな」

「ちゃんと清潔にしてないと、もう仲良し(セックス)してあげないわよ」

 

 アスカとシンジが復縁したのはシンジが大学生になってから二か月も経たない時期だった。第三新東京に移設された最難関大の一つに進学したシンジを追い掛けるように、アスカは編入試験を受けて同じ大学、同じ学部と学科にやってきた。

 そこからは、「焼け木杭に火がついたとは、正にアタシとシンジのことね」とアスカが評したように、あっという間に男女の仲に戻っていた。といっても、元々アスカの中ではシンジと別れた積もりもなければ、復縁という気分もない。ずっと、ダラダラと長く続き、火が付いたり消えたりするのが二人の関係だと最近のアスカは思い始めている。

 

 初号機と弐号機の再建計画は日本政府の予算の都合で無期限凍結された。それにより、アスカが従事させられ、苦しめられたあの試験もあくまでフィージビリティスタディー(実行可能性調査)の一環という位置付けに整理されたらしい。といっても裏面には、パイロットの人権問題と絡めた諸外国からの外圧などもあったようだ。日本政府と各国政府の思惑の危ういバランスや駆け引きの上に立っているのがエヴァの再建計画ということなのだろう。だから、揺り戻し、日本政府による巻き返しも予想されるし、シンジは別にこれがアスカの恒久的解放を意味するとは思っていない。

 

「……不潔なのは嫌だってのは当然だけどさ……もうその仲良し(セックス)っていう言い方、止めようよ。いつまでも子供じゃないんだ」

「へ?でも、仲良し(セックス)仲良し(セックス)じゃん。アタシたちはずっと前から、コレで絆を深め合ってきたんだから」

「僕なんかとの絆を深めてもしょうがないのに」

「……また始まったわね、シンちゃんの自虐が。アンタそれ、アタシに構って欲しくてわざと言ってるの? わざと、アタシに否定してもらいたくて?」

「……別にそんなんじゃ」

「それにアンタ、再会してからアタシに対して一回も笑いかけてないわよね。そういうの流石にどうかと思うわよ。もうアタシのこと、飽きたとか?」

 

 アスカの問いにはまさかそんな事というからかいが半分、しかし残る半分には真正の恐れが混じっている。自分の美貌など、シンジの気持ちにとって、何の保証にもならないと知っている。

 

「……アスカのこと、頭にこびり付いてる。たぶん、一生忘れることも、飽きることもないよ」

 

 それは安堵と、不安をもたらすような答えだ。なぜなら、アスカもいつもシンジについて同じような事を考えている。一生消え去る事のないであろう強い想いとあるいはそれ故に遂に結ばれる事のない悲劇の結末との連想とともに。だから、アスカは不安を隠すように殊更に強気に返した。

 

「それはお互い様。もうアタシたち、完全にお互いの事でイカれてるからね」 

 

 ふんっとアスカは腕を組み、鼻息荒く呟いて、そっぽを向いた。

 そうでなかったら、高校生の時分に二人で心中など考える筈もなかった。

 

「笑えなくなったのは、もう僕にはそんな資格はないから」

「……ハァ?何なのそれ」

「何でもない。シャワー借りてくるよ」

「ちゃんと着替えて来てね。アタシの部屋にもアンタの着替えあったわよね? お昼は、学食のカフェテリアで一緒に食べよ」

 

 シンジはそれに特に返事もなく、のろのろと部屋を出て行く。

 

「なんか、アイツ段々、可愛げがなくなっていくわね」

 

 少年特有の愛らしさが喪われ、愛想のないぶっきらぼうな青年に変わっていく。それは、年齢だけでなくシンジの内面の変化でもあるのだろう。アスカは嘆息する。

 

─そういえば、碇シンジはもうこの世のどこにも居ないんだったわよね。

 

「パンタレイ─万物は流転す、か」

 

 その辺に適当に積み上げられた哲学書を捲りながら、アスカはちょっとだけ寂しそうに呟く。

 人間も含めた万物は常に変化している。アスカとシンジも変化し続けていて、それに合わせて二人の関係も変わっていく、いや、変わらざるを得ない。問題は変化が好ましいものとは限らない事だった。

 

 

「遅い。遅い遅い遅い」

 

 頬杖をついて、アスカはカフェテリアでスマホを弄っている。

 

「何やってるのよ、アイツ。もう一時間も経ってるじゃない」

 

 憮然としてスマホで電話を掛ける。4コール目でシンジが出る。

 

「アンタ何やってるのよ。今どこ?」

「んん?……ああ、アスカの部屋のベッドの上」

 

と明らかに起きたばかりの声だ。

 

「寝てたの?もうとっく約束の時間なんだけど。昼を食べ損なうじゃないの」

「うん、ゴメン。すぐ行く」

 

 電話を切ると、顔見知りの眼鏡をかけた女学生の姿が目に入った。チェック柄が好きなようでいつもそういう柄物を身につけている。

 

「おやおや、そこに独りおわします美貌の姫君は、惣流の姫じゃないかにゃ?」

「ああ、アンタ……同じゼミの真希波さん、だっけ」

「そそ。真希波・マリ・イラストリアス。やっと覚えてくれたね、惣流サン。で、いつもニコイチセットの六分儀(ろくぶんぎ)クンはどうしたのかにゃ?」

 

 どうやら彼女はイギリスからの帰国子女ということで、あちらの血も混じってるらしい。純日本人だらけの海の中、僅かに突き出る島のような、ドイツ系アメリカ人のアスカに親近感を感じたのか、ちょくちょくちょっかいを掛けてきていた。なぜ、姫呼ばわりなのかは皆目分からないが。

 

 六分儀とは、シンジが周囲に元エヴァパイロットでサードインパクトの発動に責任がある碇シンジだと露顕しないために、いま名乗っている父方の旧姓だ。戸籍名も変えている。つまり碇シンジという青年はすでに存在せず、六分儀シンジが存在するだけだった。むろん、アスカにとってはシンジは所詮、シンジだったが。

 

「ああ、シンジ?さっき電話したんだけど、まだアタシの部屋で寝てるみたい。起こしたからもうすぐここに来るわ」

「おや、これは聞き捨てならない発言。ゼミの男子たち憧れのマドンナ惣流さんのお部屋で、六分儀クンはすやすやオネンネですか」

「いや、流石にアタシとシンジの関係ぐらいみんな知ってるでしょ」

 

 同学年中きっての美貌の才媛として騒がれたアスカが、「お手付き」であることは、とっくに知れ渡っている筈だった。なぜなら、高校での痛い教訓に学んだアスカが自分で同性にシンジとの仲を吹聴したからだ。女性の間での恋愛情報のネットワーク力はあなどれない筈だ。

 

「そうでもないんだな。確かにゼミの飲み会とかではいつも二人きりで話し込んでるから、気付いてる人もいるけど、姫が六分儀クンをマルチ商法か宗教にでも引き込もうとしてる、とかって勘違いしてる人もいるみたい」

「ハァ……なんなんのよ、それ?」

「みんな姫がお付き合いするのは当然、もっと格好いい男子だと思うみたいね。だからイメージに合わない場面にはみんな無理やりな説明を付ける。みんな他人の事は何も分からないからね」

 

 まあ、いくら女子学生の情報ネットワーク力でも、彼女らと縁遠い男子学生に情報が行き渡るとは限らないし、話を面白おかしく解釈したがる人間はどこにでもいる。アスカは溜め息をついた。

 それにしても、シンジの評判の悪さはどうなのだ。彼は入学以来、トップクラスの成績を維持している。大学のノート持ち込み可能な緩い試験の結果だけではない。専攻科目で既に独創的な視点での発想が注目されているのだ。中学高校のシンジの成績を考えれば、それが信じられないほどの刻苦勉励の賜物なのは明らかだ。やはり、悪評はシンジの友人を作ろうとしない孤立した態度に原因があるのだろう。人はよく知らない者を恐れるのだ。

 

「……シンジだって、別にそんなに悪くない、でしょ……勉強も出来るし、顔だって、見方によるかもだけど、それなりに可愛い」

「ああもう、六分儀クンを悪く言われて、拗ねてる姫も可愛いな!」

 

 マリは座ったままのアスカに抱きついて頬ずりをする。同性愛者でもないのだろうが、この距離感の近さはアスカがこれまで他人から感じた事がないものだった。あえていえば、ミサトに少し似ているが、ミサトはこの距離感をシンジにしか与えようとはしなかった。

 

(要するに、ミサトはアタシのこと、あんまり好きじゃなかったんだろうな……)

 

 他罰的で攻撃的なアスカが大事な"シンちゃん"を傷付けることを警戒していた? それとも、シンジを心中密かにそのような対象として見ていたので、ライバルとなりうるアスカに対して嫉妬していた? いや、嘘の多いアスカの性格が本能的に嫌いだったのかも知れない。人一倍弱気の自分を隠すための嘘で塗り固められたような攻撃的なアスカの性格が。

 

 ミサトが自分に対して保ち続けていた、一定の距離感の理由は分からないが、それが確かに存在したのは確実だ。

 

 その事を思うと、少しだけ寂しくて、うざったいだけのマリのスキンシップをアスカは許してしまう。

 

「遅くなった……アスカ」

 

 シンジが息を切らしてカフェテリアに入ってきたので、アスカはマリを振りほどいて、立ち上がる。

 

「ごめんね、シンジ。ねむねむだった?……でも約束はちゃんと守りなさいよ」

「ごめん、シャワー浴びた後、五分だけ仮眠と思ったんだけど」

 

 シンジはそれからすぐにアスカのそばにいる眼鏡の女学生に気付いた。

 

「あれ、君は確か……」

「おはよう、わんこ君。ゼミで一緒の真希波だよ」

「わんこ君?」

 

 耳慣れない上に、なぜ自分がそう呼ばれなければならないのかも理解できない渾名に、シンジは不審そうに片方の眉を上げる。

 

「ふふふ……惣流さん家から学校に来たの?」

「ああ、アスカにシャワーを借りてて」

「あらあらまあまあ。真っ昼間からお熱いことで」「ちょ、そんなんじゃないわよ!シンジが学校に泊まり詰めで、不衛生だったから、シャワーを貸しただけ。……別にそんな色気のある話じゃないわ」

 妙に時代がかった喋り方のマリに、アスカは慌てて否定する。シンジとの仲を否定するつもりはないが、やってもいない艶っぽい行為を勝手に想像されるのは業腹だ。

 

「部屋の合い鍵渡してる時点で、じゅうぶん色気のある話だにゃー」

「色気のある話になるためには相手が必要で、合い鍵は相手のいない時に部屋に入るためのものだから、色気と合い鍵は関係ないでしょ」

「それは理屈だよ、姫。もう堅苦しいなぁ。わんこ君、よくこのカチンコチンな姫とエッチな関係に進むことが出来たね。この子は相当なひねくれ者だよ」

「知ってます」

 

 なぜか、同級生の真希波に敬語で返して、シンジは重々しく頷く。

 

「ほら、姫バレてるって」

「あーもうウザい。確かにシンジがアタシの事で知らない事はもう、あんまりないわよ」

 

(ま、心の内側をシンジがどこまで理解してくれてるかは怪しいものだけど、ね)

 

「にしし、御馳走様」

 

 ひとしきり、そんな風にアスカたちをからかった後、「あんまりお邪魔になると悪いから」とにやけて、マリは去っていった。

 

「アスカ、彼女……真希波さんと仲がいいの?」

「ゼミ入ってからの知り合いだけど、なんか向こうから妙に距離を詰められるのよね。ま、敵意がなさそうだし、シンジの事を悪く言わないから許容してるけど」

「……アスカは、僕の保護者(おかあさん)って感じだね。僕の悪口を言うか言わないか、そんなのが友達の判断基準になるなんて」

「な……」

「別に、そこまでしなくていいよ。アスカにお母さんになって貰いたいわけじゃない」

「そ、それはそうだろうけど……」

 

 再会してからのシンジは妙にシニカルだ。それも一皮剥けば、簡単に潰れてしまいそうな己を鎧う虚勢に近い。

 

 アタシと同じで幼い頃にママを亡くしたシンジ。本当は母親的な存在をすごく求めてるくせに。エヴァパイロットとしての適性は、シンジの方がアタシより遥かに高い。それは母親を求める心の強さとも言えるだろう。

 

(マザコンほど、強いってバカなんじゃないの……設定明らかにバグってるでしょ)

 

 シンジがそこから脱しようとしているのは評価するが、そう簡単ではないだろうというのがアスカの見立てだ。

 

仲良し(セックス)の時でも、結構甘えてくるからなぁ……)

 

 まあ変なプレイを求められる訳でもないので、甘えてくるだけならいいんだけど……と、そんな事を考えているとシンジが現実に引き戻すように声を掛けてきた。

 

「またエッチな事考えてるね、アスカ」

「し、失敬な……」

「アスカが、そういう事を考えてる時の表情と、図星をつかれた時の反応ぐらい分かるよ」

 

 短くない断絶を挟みつつも六年の付き合いというのは短いようで長いものだ。小学校なら丸ごと全部の期間が入ってしまう。人の気持ちに鈍いシンジでも、アスカの内面が少しは理解できるようになってきているらしい。

 

 

 その日の夜は居酒屋でゼミの飲み会だった。シンジは当然のように余り行きたがらなかったが、別に他の学生と話さなくてもいい、アタシとだけ話してればいいから、とのアスカの説得に渋々頷いた。

 

 ゼミの担当教官の老先生の体調が優れず途中で切り上げると言い出し、真希波とゼミリーダーの男子一名で駅まで送っていくと、宴席はむしろそれ以前より盛り上がり始めた。先生には気の毒だが、そういうものだ。

 

「シンジは相変わらずあんまり飲まないのね」

「酒飲んで眠くなったら、勉強時間が削られる」

「試験が有るわけでもなし、そんなに必死に何を勉強しているの」

「……分からない。何をすればいいのか分からないから足掻いてる。僕はアスカのような天才じゃないから」

「まあ、アンタが頑張ってるのはよく分かるわ。もうちょっと方向性を絞れれば、就職とかには悪いことではないのかもね。一応アタシの人生にも関わる事だし」

 

 シンジはそのアスカの言葉に対して、特に反応なく無言だった。

 

「いや、そこはツッコミなさいよ、まだ早いとか、アスカが勝手に決めないでよー!とか何とか、可愛らしい反応をさ。無反応だと、何だかアタシだけが先走って空回りしてるようでイヤじゃない……」

「一応、アスカの為だと思ってやってる。気持ち悪い押し付けかも知れないけど」

 

 真剣な表情で、シンジはぽつりと言葉を置いた。押し付けと言ってる通り、別にアスカに理解されなくても構わない、という腹の括りを感じさせる。

 

「シンジ……」

「それより、アスカこそ12月が誕生日だろ。まだ飲んだらいけないんじゃないの」

「アタシ、アメリカ人。ニホンのホウリツ、ワカラナイ」

「ぷっ……突然片言になるなよ。卑怯だろそれは」

 

 シンジが思わず噴き出して、崩れた表情のまま、アスカに抗議する。しかし、アスカは笑顔になって、なぜかお礼を言った。

 

「ありがとう」

「え、何が」

「数年ぶりに見れたよ。シンジの笑顔。だから、ありがとう」

 

 キスしてもセックスしても見れなかったシンジの笑顔をようやく見ることが出来た。アスカにとってはここからが再スタート地点だ。

 

 にこやかに笑う明るい雰囲気に目ざとく、アスカの隣の茶の短髪の男が割り込む。今日の飲み会の幹事に名乗りを上げたテニスサークルに所属するという、軽めの雰囲気の男だ。

 

「ちょ、何のジョークで笑ってるの?惣流さんのギャグって初めて聞いたわ。俺にも聞かせて」

「いや、そんなギャグなんてほどのものじゃ……」

 

 あははとアスカが愛想笑いを返して、話を畳もうとするも、男は食い下がり、

 

「ちょっと皆にも聞いてもらいたいよ、惣流さんの新しい一面。手始めにも俺に……あ、飲んで飲んで、まだまだ時間も早いからね」

 

とピッチャーから、アスカのジョッキに生ビールを注ごうとする。

 

「アスカ。……用事思い出したから、僕は帰るよ」

 

 シンジはアスカと幹事の男子とのやり取りに、醒めた視線を注いでから、静かに宣言した。

 

「へ、急に何よ。お酒もコース料理もまだまだ残ってるじゃない」

「食欲もないし、そんなのどうでもいい」

 

 シンジは明らかに不機嫌な様子で、顔色も良くない。

 

「あ……なんかマズッた?彼氏の機嫌損ねたかな?」

 

 シンジの機嫌などどうでもいいのだろうが、それに反応するアスカの動向にだけは慎重に注意を向けつつ、茶髪男子学生は、場を収めるポーズを取る。それが、シンジの行動の非常識さを際立てる効果を半ば期待しながら。

 

「あ、ゴメンね。コイツ(シンジ)、アタシが他の男の子と話をすると、ヤキモチが酷くて……」

「アスカは好きにすればいい。誰と話すのも自由だ」

「ちょ、ちょっと二人とも……六分儀もちょっとは空気を読めよ。少しぐらい惣流さんが他の男と話しても良いだろ。誰もお前の恋人を取らないよ」

「そんなの、アスカが決める事だって言ってる。僕には関係ない。でも僕は見たくないから帰る」

 

 シンジはカバンを持ち、既に帰り支度を整えて立ち上がっている。

 

「わ、わかったわよ。ゴメン。アタシもシンジと帰るね」

「ええー」

 

 事態に気付いた男子学生たちの落胆の声。そして、シンジたちとは反対側の席に座っていた女がじっと事態を観察していたのか、苛立ちを隠さずに大きな声を上げた。

 

「なんなのよ、六分儀は。振り回される惣流さんが可哀想。惣流さんと付き合ってるからって、他の男と話すのも許さないとか、一体何様のつもり?……要するに自分に自信がないから、女にそういうことを強要するんだよね」

 

 北上ミドリというギャル系の女学生だ。辛辣な態度とぽっちゃり厚い唇を特徴としている。

 

 シンジはそれを完全にスルーして、店の玄関に向かう。アスカもバッグを取り、会計は後日でいい?と幹事に確認だけして、シンジをすぐに追いかけようとするが、しかし何かが引っかかるのか、北上に向かって振り返り一言、告げた。

 

「……あの、今の言い方は無いんじゃない。場の空気を悪くしたのはアタシたちが悪いけど。何も知らないのにシンジの悪口は言わないでよ」

 

 以前だったら即、ブチ切れているような場面なのにアスカの対応は一応抑制的だった。場の空気への同調圧力など、あれほどアスカは嫌っていたのに、年齢相応の社会性が身に付いてきたのだろう。ただ、言うことは言うのがアスカだった。

 

「アタシは惣流さんに同情してるんだケド」

「頼んでないし、全く同情される筋合いもない」

「ふんっ、男の趣味、悪過ぎ」

「趣味で選んでるつもりはない。アンタたちのフニャフニャした恋愛観と一緒にしないで」

 

 アンタたちの恋愛は、今日と、明日だけ心地が良ければいいだけの恋でしょ。アタシとシンジの恋は人生最初で最後の恋で、気持ち良くなくても、しんどくても、齧り付いて、しがみつく恋なんだ。一緒にするな。

 

 立っているアスカと座ったままのミドリは視線を斜めに交錯させ、静かに睨み合う。そこにシンジが戻ってきて、アスカの手首を掴んだ。

 

「帰るよ、アスカ」

「あ、うん……」

 

 素直にアスカは、シンジに手を引かれて出て行く。幹事の学生やミドリ含め、もう誰の方も振り返らなかった。

 嵐のような二人の退場に、残されたゼミ生たちは毒気を抜かれたような表情で座っていた。

 

「しかしあの二人本当に付き合ってたんだな、なんかショック」

 眼鏡の男子学生が、アスカに感じていた憧れを断ち切るようにビールを呷ってから言うと、

「ああいうのは付き合ってるとは言わないわよ、共依存っていうのよ」

とミドリはふわふわの自分の髪を弄りながら言った。

「共依存?」

「広い宇宙で、偶然たまたま出逢った相手との関係が、自分自身や宇宙より重いと思い込む……立派な心のビョーキだよ。あの容姿なら男を選り取り見取りだろうに、聞くところでは一年の時、六分儀をわざわざ追っかけて編入してきたそうよ」

「マジで?うわっ、何か重っ」

 聞き手として参加してきた茶髪ロン毛の男子が迎合するかのように苦笑する。その合いの手の軽薄さを冷ややかに横目で見ながら、ミドリは(お前は軽すぎなんだよ)と心の中で侮蔑する。

 

「ダメ男に身も心も捧げて、自分を悲劇のヒロインだとでも思い込んでいるんでしょ、あの惣流っていう勘違い女は」

「結構ヤバい子なんだな、惣流さん」

「外見と違って、多分中身はグチャグチャだよ、あの女」

 

 

「ヤキモチにしても程があるでしょ、バカシンジ。そりゃアタシはアンタのものなんだから、嫉妬する権利はあるけれど」

 

 街灯の薄明かりの下、シンジは早足で道を急ぐ。手を引かれるアスカは歩幅を、背が伸びたシンジに無理に合わせながら、一応の抗議をする。

 

「アスカはアイツの下心が分からないの。酔いつぶされて、お持ち帰りでもされたら、それでもう、お仕舞いだよ」

 

 僕らの関係もそれでお仕舞いだ、と暗にシンジは言っている。

 

「そんなの分かってる……酒量には気を付けてるし。第一、だったらなんでアタシを独りだけ置いて帰ろうとするのよ」

 ちゃんと残って護ってくれればいいでしょ、と言いかけてアスカは口を噤む。アスカを二度に亘って護れなかった事がシンジのトラウマの出発点なのだ。

「アスカが残りたいならそうすればいいんだ。どうせ僕にはアスカを引き止める資格なんてない。赤い海の浜辺の前から僕にはそんな資格はない」

「アタシのヴァージンを奪ったくせに」

と、反駁するアスカの口調は少しだけ恨めしそうだ。シンジは首を横に振った。

「……本当はそれを貰う資格もなかった。僕はアスカを傷付けて、穢しただけだ」

「でもアタシはあの時、アンタに傷付けられたかったし、穢されたかった。……もう今さら遅いのよ、シンジ」

 逃げ出すのなら、もっと早めに逃げておくべきだったわね、とアスカは鼻で笑う。

 シンジの歩幅が少し緩む。しかし、掴んだアスカの手首は離さない。

「どうして、他の人と普通に協調出来ないの、シンジ。別に積極的に仲良くしろとか言わないし、そもそも無理だろうけど、アンタから進んで壁を作る必要はないでしょ?」

「僕に友達はいらない。アスカだけが親友だ。そうアスカが言ったんだ」

「あ……あの時とはもう状況が違って……」

「何も違ってないよ。高校の時と同じだ。アスカはいつでもモテるけど、僕は嫌われ者だ。どうせ六分儀なんて名前に変えてもいずれ素性はバレる。その時友達面してた奴らの手のひらがどうひっくり返るか見物だね。だったら友達なんか最初からいない方がいい」

「なんだか、寂しいよね、その考えは」

 

 手首を掴む力が強くて、アスカにはそれも気に入らない。もうシンジが少年ではなくなりつつあるのが、なんだか納得がいかない。だって、シンジの内面はいまでも子供のままなのに。

 

「……アスカは変わったね。前は僕以外はみんな敵だったのに」

「シンジも変わったよ。まるで、昔のアタシみたい、アタシたち同士以外はみんな敵だと思ってるの? アタシ以外にもシンジの味方になってくれる人はいるよ。アンタがそれに気付かないだけ」

「アスカ以外は僕は誰も要らない」

「それはアタシだって同じ。シンジ以外はアタシも誰も要らない。でも世界には実際には、アタシたち以外の人間も居るの。赤い浜辺で今でも二人っきりで過ごせてたのなら、それでも良かったけど、でもそうじゃない。みんなしんどくても、LCLの海から戻ってきたんだよ」

「でも、そうやって戻ってきたみんながアスカを傷付けるじゃないか。僕は傷付けられてもいいけど、アスカを傷付ける連中は許せない。僕も含めて」

 

 アスカを飲み会で口説くような連中が、本当にアスカを愛しているとは思えない。一夜の快楽を貪るためなら、アスカを傷付けて平気な奴らだ。もちろん、毎晩のように実際にアスカと寝ている僕も同じだ。アスカを毎晩のように犯し、穢している。自分の快楽と安心と依存のために。実際にアスカを穢している僕の罪が一番重い。

 

「やっぱり、あの松代での実験のせいなの?」

 

 シンジはもう何も言及しなくなったが、あの松代での傷が、シンジを変えたのだろうか。大人たちが、自分ではなくアスカを傷付けた事が、そして、大人たちと同じくシンジ自身も、アスカへの加害に対して彼女を守れず、等しく傍観者だったことが、シンジにうっすらと自分自身を含めた人間不信の薄膜を纏わせてしまった気がアスカにはしている。

 時々アスカは悔やむのだ。あの実験をシンジに見せなければ良かった。アスカ独りで飲み込んで、耐え続ければ、シンジに無用な負担を背負い込ませる事も、傷つけることもなかったのに、と。

 しかし、シンジはアスカの問いには正面から答えようとしなかった。

 

「僕はもう、子供では居られないんだ」

「……ガキが変な風に拗らせてるだけに見えるわよ」

 

 以前のシンジの方が、気弱だけど好きだった、とアスカは思う。といって、今のシンジは強気になったわけでもないし、自信が付いたわけでもない。セックスの時は前以上に甘えてくる日もあるし、アスカに関する嫉妬や独占欲を剥き出しにする事も多くなった。何より、自分の方からアスカを抱けず、アスカから抱いてやらないと繋がれないという、例の病気もまだ完全には治っていない。シンジがあの松代での別れの後、猛勉強して大学に入ったり、必死でマトモになろうと足掻いているのは分かるが、アスカはそれを全肯定出来ないでいる。

 

 しかし、それでもシンジはシンジだ。手を繋いで夜道を帰る道すがら、アスカは久々に多幸感に包まれているのを感じていた。それでシンジが傷付かないのなら、他の男と話をしないことぐらい何でもない。これはシンジを甘やかしている訳ではなく、愛しい相手への当然の配慮だとアスカは心の中で言い聞かせた。

 

「わかったよ。もう他の男子とは極力話さない。シンジがそれで気が済むなら」

「うん……」

 

 シンジは要求が容れられたのに、なぜか傷付いた顔で頷いた。それがアスカの温情─いや、もっと言えばある種の憐れみだと知っているから。

 

「送ってくれてありがと」

「うん」

「部屋、上がっていく?」

「いや帰るよ」

「明日は二人とも大学の講義もないじゃない。夜更かししてもいいんだから。ねっ、泊まって仲良し(セックス)していこうよ」

「僕も色々することはあるんだけど……そんなに僕とセックスしたいの、アスカは」

「うん……まあね。あの女の暴言で、多分アタシの自尊心が傷付けられた。シンジのことをよく知りもしない連中がシンジを悪く言うと、アタシはいつも傷付く。だから、アンタと抱き合って癒やしたいの」 

 シンジはあの北上ミドリという女子の言うことが別に間違っているとは思わなかった。反論しなかったのは喧嘩を避けた訳ではなく、反論しようのない事実だったからだ。

 

「まあ僕については、知れば知るほど、当たってると思う」

「そうやって……寂しいことばかり言うなっての……バカシンジ」

 

 アスカはシンジの胸に顔を寄せて、まるで自分の悪口を言われたように、か細く呟く。その気持ちはよく分かった。シンジがアスカの悪口を聞かされれば同じように傷付くだろうから。でも、シンジに対する評価は、どこまでも事実だ。

 

「……それに、どうせ、僕からはちゃんと出来ないよ」

 かつてのアスカとの性的トラブルから、未だにシンジからではアスカを上手く抱けないことが多く、三回に二回はアスカから抱いてやっている。その事もシンジにとっては男としての自尊心やアスカへの劣等感を刺激する繊細な事柄だ。

 不貞腐れたような顔と声のシンジに、アスカは優しく

「いつも通り、アタシからしてあげるわよ。だから、そんなにいじけないの、ねっ」

と言いながら、背伸びをしてシンジの頭を撫でる。二人の今の身長差は10cmほど。シンジの頭を撫でる時に、背伸びをしなくてはいけなくなったのも、アスカの最近の不満だ。

 それで、シンジはむしろ俯いてしまい、

「……男として正直、面白くはないよ。アスカ以外には誰にも知られたくない……」

「分かってる。墓場の中まで持って行くし、アンタの名誉は守るわよ。だから……いつもの口止め料、欲しいな」

と言って、艶めかしい上目遣いでシンジを見た。

 

 姉が弟の手を引くように、シンジの手を引いて部屋へと向かうアスカの背中をみながら、シンジは安心感と依存心といつまでもこのままでいいはずがないという漠然とした不安感に囚われていた。

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