アスカはタンクトップにホットパンツの上に、エプロンを身に付け、ワンルームマンションのシンクの前に立っている。シンジと夜を共に過ごした翌朝、朝食の準備をしているのだ。
「ねぇ、カンタンなので悪いんだけど、ハムエッグにトーストでいい?」
「あ、ああ……うん」
「りょうかい。少し待っててね」
「アスカが、料理をするようになったんだね……」
と、シンジは少し感慨深い。
「えへへ。でも、ハムエッグで褒められてもネ。けど、毎週料理教室には通ってるし、複雑なものも少しは作れるようになった。いつでも誰かサンのお嫁さんになれる準備は出来ているわよ」
「……そう」
(やっぱりそういう方面の話題は乗ってこれないか……)
アスカの未来予想図が明るければ明るいほどしんどくて、それで俯いている様子のシンジに、アスカは寂しくなる。究極的な事を言えば、別にシンジと結婚できなくても、一緒に暮らしていければいいと思う。そこに何かしらの前向きなビジョンがあるのであれば……。だがそこまでの道のりは遥かに遠いのだろう。
「はい、シンちゃん。トーストと卵はまだお代わりあるから、沢山食べてね」
アスカが、明るい声で卓袱台の上に皿を置いた。少しだけ卵の崩れて焦げたハムエッグと、トーストには何故かケチャップでハートマークが描いてある。
「ハートマーク……これは?」
「夕べはちゃんとシンジから、出来たから。そのご褒美、かな?……男らしかったよ。素敵だった」
アスカは嬉しそうに言う。そして、座っているシンジの頭をシンジはちゃんと頑張ってるよね、よしよしと撫でる。
「アタシ、ずっと記録を付けてるんだけど、シンジが自分から出来た回数は少しずつだけど、増えてるんだ。大丈夫、少しずつ良くなってるんだよ」
「でも……他の……普通の男なら誰でも出来ることだよ」
「他の男が出来ても、アタシには何の関係もないでしょ。アンタとしか寝ないんだから」
「……」
「もちろん、別に今のままでも良いんだよ、アタシからなら繋がれる以上、何も困らないから。病気じゃないんだし……だから気長に付き合って行こ」
アスカはシンジの背中をポンポンと叩いた。
「今はいいけど、たぶんアスカが僕に幻滅した時に真っ先に嫌われる要素じゃないかな。だから早く治したい……」
「……何度も言ってるけど、そんな事で嫌ったりしないよ。アタシは自分からシンジを抱くのも好きなんだ。シンジにそうしてる間になんか目覚めたのかも知れないね。シンジって可愛いんだ。自覚ないでしょ?」
「……男に可愛いとかほめ言葉じゃない……」
「そんな事はないと思うけど」
うふふと、アスカは座ってシンジを背中から抱き締める。
「
シンジも少し気恥ずかしそうに黙って頷き、フォークに手を伸ばした。ゆっくりと口元にハムエッグを運んでいく。
「どお?」
「うん、まあハムエッグだ……」
「誰が作ってもハムエッグはハムエッグなのが偉大なのよね」
「確かに……」
シンジは愚にも付かないほめ言葉を言わない。一応、ちゃんと考えて、誠実に回答を返そうとしている。それがシンジの良いところだ。
「今日は時間が空いてるから、たまにはどこかに連れて行って欲しいんだけどなぁ……」
「どこに行きたいの?」
「少し遠いかも知れないけど、海……かなあ」
三年ぶりに松代から戻ってきてから一年が過ぎていたが、木曽路はすべて山の中であると書かれた長野はもちろん、第三新東京も箱根の山中であり、アスカには久々の海が懐かしかった。
紺碧の海からそよぐ潮風の、ちょっと塩のきつい匂いに、長い髪を靡かせてみたい。隣にはシンジが立ち、手を繋ぎながらゆっくりと浜辺を歩いてみたい。
「そ、それは……」
シンジのフォークを動かす手が止まった。
「ごめん、僕は海には行けない。たぶん一生……」
「え?」
「赤い海のあの浜辺を思い出す……僕がアスカに酷いことをした場所を……」
「ちょ、ちょっと」
「アスカは平気なの……」
暗い目をしたシンジは、不思議そうにアスカに問うのだった。
「アタシは……そんな風に思ったことはない。だって、あの浜辺はアタシとシンジが結ばれた場所じゃないの。アタシはその事を後悔なんてしてない」
「でも、僕はアスカを……」
「怖かったんでしょ、あたしに拒絶されるのが。だけど、出来なかった。アタシは幽霊じゃないわよ」
お互いにその言葉を微妙に避けつつ、二人の会話は核心へと進む。
「それだけじゃない、病院でも入院中のアスカに酷いことをした」
「裸のアタシに欲情して、マスターベーションをしたって話でしょ。もう何回もアンタから聞いたわよ、微に入り細を穿ってね。ンなこと、黙ってられないの?」
好きな男の醜態を聞かされる事ほど不愉快なことはない。
「大体、離れていた三年間、アタシだって何回もアンタの事を想って、自慰をしてる」
「それとは違うよ……」
何が違うのか、と聞いても、シンジには上手く説明出来ないだろう。究極的には男が守るべき女を守らずに、また、ストイシズムに徹し切れなかったという話に過ぎないのに。
「僕がそういうことをしていたと知ってたら、アスカは僕に初めてを呉れたりしなかった。僕はそれが分かってたから卑怯にも黙ってた。だから、僕はアスカを騙して純潔を奪ったのと同じなんだ」
「据え膳食わぬは男の恥、みたいな状況で、バカ正直にそんなことを自白する男の方が可笑しいでしょ」
何言ってるの、とアスカは呆れる。
「でも気持ち悪いって言った……」
「アタシに……気持ち悪いって言われたことが辛いの?」
「うん、アスカに言われたからつらい。消えてしまいたい」
「その言葉はずっと……同じ所を周り続けても考えて欲しい。もしくは考えるのが嫌なら、いっそ忘れてしまってほしい、前だけを向いてね。どちらでもいいよ、シンジに任せる。アタシはアンタに優しくしてあげたいし、
アスカはそういってシンジに頬ずりをした。
「アスカ……ぼく、泣いていい?」
「だめ。女のアタシが泣いてないんだから、泣かないで。ごめんね。でも男の子なんだから、ガマンできるよね?」
シンジも男として生まれてきてしんどいのだろうが、男と女は生まれた時から違う、とアスカは改めて思う。違うから求め、抱き合い、結ばれる。アタシが女である以上、シンジには男であることから逃げてほしくはない。まあ自分がつい甘やかすから、割と逃げてばかりなのだけれど…。
「うん……ガマン……する」
シンジは歯を食いしばって、嗚咽の衝動を堪えている。
「よし」
全てを吐き出すことには精神衛生上の解毒作用があるはずだ。出来ればシンジの告解を定期的に聞いてやりたいが、こうやって、アスカがシンジを慰めるのは何かが違う気がしている。シンジは何度も何度も贖罪のようにこの話を持ち出すが、その時に関心があるのは自分の罪と自分への許しだ。許してもらえないと決めてかかっていても、結局シンジは自分の事しか関心がない。
でも、本当は慰められるべきはアスカの方ではないか。アスカはずっと三つの台詞だけを待っている。シンジがアスカを優しく抱きしめ、髪を撫でながら、「痛かったね」「怖かったね」「助けてあげられなくてごめんね」とだけ言ってくれれば、もうそれだけであの夜のことは終わり、完全に救われるのに。欲しいのは贖罪でも悔恨でもない。労りと共感なのだ。しかし、それをシンジに……男に望むのは高望みなのだろうか。
「もう出掛けるのも面倒くさくなったね。部屋で昼寝でもしようか」
「うん……あの、アスカ……僕のこと嫌ならもう帰るから。もう二度と逢わないから」
アスカはシンジの自虐的な物言いを完全に無視して、ベッド側に押しやる。Tシャツ姿のシンジをタンクトップ姿のアスカが、軽く押し倒したような形だ。
「せっかくの出かける予定をアンタが潰したんだから、昼寝ぐらいつきあいなさい」
そして二人で寝るのに程よい広さだと選んだベッドにめいめいが収まると、アスカは以前より格段に広くなったシンジの胸の上に頭を横たえる。
「……シンジもたぶんもう知ってると思うけど、アタシ、重い女なんだ。例えばアタシ、シンジとセックスした回数を最初から全部数えてる。ずっと手帳につけてるの。回数を教えたら引くだろうから、内緒だけど。だから、最近はシンジの症状が改善してるってことも分かった。やっぱりそれだけ女にとって、アタシにとっては……セックスって重いんだ。外見や性格は派手なのに、古風だって笑われるかも知れないね」
シンジはアスカが、高校の教室で受けた誹謗を思い出した。アスカはシンジに対しては性的にも積極的だったが、あんな中傷とは正反対に一途で貞淑だ。
「でも、考えようによってはそれも、執着心とかセックスの過大視とか……気持ちの悪い女かも知れないよね。それで、アタシの言ったあの時のあの言葉を相対化するつもりもないんだけど」
「……アスカはいい子過ぎるんだと思う」
アスカの悩みの殆どはシンジが原因だ。自分が居なければアスカはもっと幸せになれただろうに、とシンジはいつも思う。でも、アスカはシンジに勝手に死ぬなという。アタシを幸せにするのが義務だという。
「アタシ、サードインパクト直後はほとんど毎晩、眠れなかったんだ。どうしてもあの量産型に与えられた痛みが、悪夢を呼び起こしていた。でも、そのうち気づいたんだ。シンジと寝た日には、そういう夢を見ないって。……理由はなぜだかわからないよ。心の奥底でシンジを求めているのか、いや、本当はたぶん男の人に抱かれていると、安心できる、腕の中に抱かれていると、守られている気がして、不安がまぎれる。それだけだったのかもしれない」
最初にシンジに貞操を明け渡した理由は、未だにアスカ自身にも分からない。多分、同情と恋慕と極限状況の与える不安からの逃避が入り混じったような感情だろう。でも何回目からかは、アスカにはハッキリと悪夢を逃れる手段としてのシンジとの性交があった。もちろんそれだけではなかったが。
「だから、アタシがシンジに許しと優しさを与えようとした、そのためだけにアンタに身体を与えていたっていうのは事実じゃないの。本当はもっと利己的に、アタシ自身のためにアンタと寝ていたのよ」
「そんなこと、全く知らなかった。やっぱり、僕はアスカの事が何にも見えてなかった。アスカが悪夢に苦しめられてるのに何も知らず、何も出来なくて。僕……俺って最低だ……」
「少なくともシンジが抱いてくれたから、アタシはあの時の辛さから、少しだけ逃れる事が出来た。それは事実だよ。それに知らないのはしょうがないじゃない、アタシも一度だって言わなかったし、説明されなければ他人の心なんて半分もわからないわよ」
そう言いながら、シンジの胸元にアスカは甘えるように顔を埋める。
「だからね、シンジのお父さん、碇ゲンドウの気持ちは少しだけわかるの。シンジのお母さんが、シンジのためにエヴァの実験に志願して、でも、その時、内心ではその実験の失敗の可能性が高いことと、それでもエヴァの中でシンジを守ると決意をしていた、ってことを事前に知っていたら、絶対にシンジのお母さんを止めただろう、碇司令は後からそう後悔していたと思うんだ。奥さんの気持ちが、決意が、ちゃんとわかっていたらって、何度、悔やんでいただろうね。その悔恨は、たぶん尽きることはない」
「父さんも母さんのことがよく分からなかったのかな……話をしなかったのかな……」
「お母さんはもう決めていたんだろうね。女はこうと決めたらもう二度と判断を覆さない、そういう時があると思うんだ。そうしたら愛する男にも黙っていると思う」
「……アスカもそうなの?」
フフとアスカは笑って、アタシも一応女だからねと頷き返す。
「だから、シンジのお父さんは、皆が一つになって他人の考えがショーウィンドーのように透けて見える、人類補完計画に惹かれたんだろうね。もう大切な人の気持ちを読み損なって、その人を失いたくないって」
シンジと同じで本当に可哀想な人だったのだろう。大切な人を世界にたった一人しか見つける事が出来ず、それを失ってしまったら、自分だってどんなにか狼狽える事だろう。大切な人を一人しか見つけられなかったという点ではアタシやシンジと同じだ。でも、アタシはそれでいいと思う。一人も見つけられない人は世の中にもっと沢山いるし、二人以上なら何が本当に大切なのかを見失っていたかもしれない。でも、碇ゲンドウの選んだ道は─
「でも、私はやっぱりいいや。好きな人、大切な人にだからこそ、知られたくないものもあるんだ。醜い嫉妬心、どす黒い憎悪や殺意、過去のトラウマ……そんなものを全部シンジに知られたいとは思わない」
(そもそも、シンジにそんなものが受け止めきれるとも思えないし)
「シンジのことだってもっと知りたいと思うけど、無理矢理盗み見たいとは思わない。シンジにだって隠したいこと、アタシによく見せたいことはあると思う。知りたいけど知れない、実際よりよく見せたい、そういうことが恋の本質で、そんなものを全部取り去って透けて見えるようになった他人が素敵に見えるとは思えないの」
「……僕には難しいことはわからない。だけど父さんの補完計画がアスカを苦しめたのは間違いない。ごめん、アスカ」
アスカは肩をすくめて、シンジが謝るのは筋違いでしょと苦笑する。
「シンジ、もしアタシが事故か何かで先に死ぬことがあっても、お父さんと同じ事だけはしないでね。女の為に人を苦しめないで。自分のためにそんな事をされる……愛した男を外道に堕としてしまう、その女が気の毒だから」
願わくば、シンジとアタシの未来には、そんな苦しさが待ち構えて居ませんようにとアスカはシンジの腕の中で静かに祈る。