目が覚めると、もう夕方だった。ベッドの中、目の前でアスカが、自分の寝顔を眺めていたことにシンジは気付いた。
「よく寝てたね、シンちゃん」
「アスカ」
「毎日勉強で疲れてたんだね。ご苦労様……今日は出掛けなくて良かったかも」
アスカは寝汗で額に貼り付いたシンジの前髪を直してやってから、訊ねる。
「今のシンジの頑張りは、アタシたちの未来のため、って自惚れてもいいのかな?」
「……アスカのためだよ」
シンジの返す答えはアスカの問いから微妙にずれていた。それに気付いてか、気付かずか、アスカは少しだけ寂しそうにシンジの胸元に視線を逸らした。
「アタシはシンジに言ってもらいたい言葉、出してもらいたい結論がある。時間がかかっても、シンジはアタシの欲しい答えをくれると待っているよ」
もしその答えが貰えない場合は、二人はどうなるのか、どうするのか。アスカはそれをなるべく考えないようにしている。
「お腹すいたわよね、買い物行こうか」
そういえば、猛烈な空腹感がある。朝食もそこそこに中断し、昼食は抜いていた。アスカも同じだろう。
「……うん」
「晩ご飯はシンジが作って」
「何がいいの?」
「うーん、わかんない。スーパーで買い物しながら決めよ?」
◆
アスカの部屋から徒歩十分ほど、大学にも程近いスーパーは、やはり学生客が多いが、なかにはアスカとシンジのような男女カップルもちらほらいる。
「みんな、付き合ってるのかな。同棲してる学生カップル?」
「さあ」
シンジはいつものことだが、アスカ以外の他人にあまり関心がない。大学に入ってからますますその傾向が加速しているようでもある。関心が本当に無いというよりも、第三者を遮断している感じだ。
「アタシたちもそう見えるかな」
「見えないんじゃない」
「どうしてよ」
「前に誰かが僕に言ってたよ。─お前、勘違いしないほうがいい、彼女はお前をからかってるか、何か勧誘をしたいだけだ、って」
マリもそういえば、そんな見方を一部にされていると言っていた。それにしてもそんな事をわざわさわシンジに言う相手の意図は、やっかみ半分としか思えない。シンジは他人の悪意に鈍感過ぎるのではないか。
「僕とアスカは合わないって、皆が言うんだ」
「そうだとすれば、アンタがいつも自信なさげにしてるから。ほら、今も猫背気味だよ、ちゃんとして。それだけでも人は変わって見える」
と背中を叩き、
「そもそも、皆が言うから何だってのよ」
自分から振った話題だというのに、アスカは憮然とする。世界が自分とシンジに牙を向いたって、二人で立ち向かっていかなくてはいけない。
誰か「もっと合う相手」と他人を薦められ、あてがわれて、中途半端に妥協したとして、その後ずっと、小さな違和感やじくじくと疼く悔恨やシンジと結ばれなかった切なさを引きずっていくことになれば、そのしんどさを受け止めて一生を生きていかなくてはいけないのは自分だ。その時、誰か他人に文句を言うわけにはいかない。アスカの気持ちはアスカにしか面倒を見れない。同じしんどさならシンジのそばにいるしんどさの方がずっといい。
◆
シンジがカートを押しながら、夕食の食材を二人で物色していると、意外な人物に突き当たった。
「北上さん……あなたもこの辺に住んでたんだ」
正面から顔を合わせてしまい無視するわけにも行かず、アスカが声を掛けたのは同じゼミに所属する女子学生、北上ミドリだ。カートではなく、買い物かごを直接手に持ち、いくつかの惣菜をかごの中に入れている。
「……惣流さんと六分儀君」
ミドリは今にも舌打ちでもしそうなしかめ面になる。
「本当に付き合ってるんだ」
アスカの方を見ずに、シンジに確認するように言った。
「別に……」
シンジは無表情で、かえって北上はそれに苛立ちを増す。
「別にってどういう意味?」
「北上さん、そうやってすぐに突っかかるけど、うちのシンジがアンタに何かしたわけ?してないわよね?」
アスカはシンジを庇うように二人の間に割り込む。
「うちのシンジって、まるで母親みたいに。本当にあんたたちの関係って気持ちが悪い」
北上の表情は汚物を見て、今にも唾棄しようとする時のそれだった。
「そうやって、大の男を同い年の女がとことん甘やかして、守ってやる……同級生とまともに話もさせられないの?いつまでも、まともに話が出来なくていいの?あんたの護ってるつもりの態度が、コイツをダメにしてるのよ」
「……シンジがダメだろうが、何だろうが、アタシにはどうでもいい。シンジはシンジだから」
「忠告しておく、そういう事をしてると後であんたがつらくなるだけ。これは間違いないよ」
「……知った風な事を言わないでくれる。今がつらくない……とでも思ってるの」
後ろにいるシンジの反応が気になったが、アスカの言葉は止まらなかった。誰かに気持ちを吐き出したかったのかも知れない。
「つらいと分かってやってるの?本当に頭おかしい。笑っちゃうわ。まるで呪いね。きっと罰が当たったのよ」
「罰?」
片眉を上げたアスカのその反問に、北上は一瞬言いよどむが、意を決したように口を開いた。
「あんたたち、あたしが昔ネットで検索した時に一度だけ引っかかった画像の二人によく似てる。あたしがずっと追い求めてきた仇。……金髪の髪の長い女に、線の細いネクラそうな少年。なぜかリロードしたら消えてしまったけど。保存する暇もなかったわ。きっとどこかに守られてるのね。うちの家族なんか誰にも守って貰えなかったのに」
「……」
思いもかけない告白に、アスカは返す言葉を思い付けない。シンジもただじっとして、北上の話を聞いている。
「だから大学のゼミであんたたちを見て、ハッとなった。あの画像を忘れたことはない。一度きりでも、頭に刻み込んでいる。同じだ……天文学的な確率だと思った。大学、学部、ゼミ、それを無意識に選んだのはあたしの意思じゃなかった。だからこれは運命なんだ。それからあんたたちの事をずっと観察してた」
「き、北上さん……」
「あたしの家族はサードインパクトで、あたし以外は全滅した。だからあたしはあれを引き起こした奴を許さない」
「ち、違っ……アタシとシンジは……」
「あんたたちがあの二人と同一人物なら、一言だけ言っておく。アンタたちには幸せになる資格なんか金輪際ないから。世界中の人間がみんなそう思ってるわ」
それは北上が改めて投げかける呪詛の言葉だった。
「行こうアスカ」
シンジはアスカの腕を握った。カートを方向転換して北上と反対方向に向かう。
「僕には何の話か分からない。さよなら、北上さん」
◆
「……シンジ、手、もう離していいよ」
しかし、シンジは手を離さない。
「シンジ」
「アレは、僕だけの罪だ。……アスカには関係ない」
「……アタシたちの情報、流出してたんだね」
たまたま知り合いの北上でも見たことがあるのなら、いくらネットを検閲したとしても、世界中で、数千、あるいは万人単位の人間が見たことがあるのだろう。
「心配しなくていい。アスカを不幸せにはしないから」
「……アタシを?シンジ自身は幸せになれるの?」
アスカの不安に、シンジは単に首を横に振った。
「僕はどうでもいい、アスカさえ幸せなら」
「ふ、二人でなきゃダメなのよ。ちゃんと分かってるの?」
「……アスカ、今までごめん。僕なんかがアスカの人生に絡んじゃって」
やはり世間にとってはシンジは人類全体に対する戦犯と同じだ。高校でも噂は広まっていたし、ネット経由で知っている人も居る。家族や愛する人の仇だと思い詰める人まで居る。自分と一緒になることは、アスカにとっての不幸でしかない。
「そんな言い方やめてよ。まるでお別れの言葉みたいじゃない。……イヤだそんなのイヤだ」
アスカはシンジの言葉に不吉を感じ、足を止めて、首を左右に振る。こんな人目につく店内で愁嘆場を演じようとしてる自分、シンジを引き留める語彙も幼児化している自覚があるが、止められない。
「アタシ、シンジがそばに居ないなら、自棄になって何をするか分からない。自殺ぐらいならマシだと思う」
これは明白な脅迫だ。もしシンジが自分のものにならない、そばに居てくれないのなら、自分を完全に堕としきってやる、絶対に幸せになんかなれないように。女にはそのための手段はいくらでもあるんだから。そう思い定めた。だってシンジがいないのに、アタシが幸せになれるなんておかしい。二人で結ばれる未来以外に幸せなんかあってはいけない。
「ば、バカな事を言わないでよっ、アスカ。いくら僕でも怒るよ!」
「だったら、あんな女の言葉に動揺しないでよっ!もっと強くなって、アタシ以外を全部切り捨ててっ。アタシも大人ぶるのはもうやめるっ、やっぱり誰も居ないどこかで二人だけで生きて……」
アスカのこの数年間の成長が全部消えていく感じだった。我が儘を言う身勝手な少女に戻り、非現実的な夢に逃避する。でも、現実にはもうシンジと結ばれる目がないのだとしたら、夢想以外の何にすがれるというのだ?
「それじゃダメなんだ。松代の時に駄々をこねた僕と同じだ。アスカが僕みたいになってどうするんだよ」
日本政府がまたアスカや自分を必要としたら、どんな離島だって逃げ切れない。そんなに甘いものじゃないと言っていたのはアスカだ。引き離されて、過酷で非人道的な待遇に甘んじなければならない。だからこそ、アスカの新たな居場所が必要なんだ。その場所を作れていない以上、アスカにはまだ話せないけど。
「だってアタシ、もうどうしていいか分からない!シンジと一緒にいたいだけなのに、皆が邪魔ばかりする。どうしてみんな意地悪するの!」
本当に牙を剥いた世界の悪意はアスカの想像よりも遥かに大きかった。遂にアスカの涙腺が決壊し、涙がポロポロと零れ落ちる。─まるで、アタシは子どもだ。でも、この世の中で本当に欲しいものはたった一つしかない。なぜそれをねだってはいけないのか。
周囲の好奇な目に晒されているのが分かったがもう止められない。どうせ別れ話や痴話喧嘩だと思われているのだろう。普段はなかなかカップルのように見てくれないのに、別れ話をする時だけはカップルとして見られる。そんな皮肉さえも何だか周囲の悪意のように思えて仕方がない。
「また、アスカを泣かせちゃったね……僕といるとアスカはそうなる」
「違う違う違う!アンタともう居れないかもと思ったから泣いてるんじゃない!どうして分かってくれないの!それが悔しいんだよ!」
でも、シンジにはアスカの気持ちが信じられない。犯罪心理学の本で読んだ「ストックホルム症候群」が近いのではないかとさえ思う。被害者が加害者に対して感じるある種のシンパシーだ。それが恋愛感情にさえ発展したこともあるという。アスカを傷つけた自分が、一緒にいるつらさを我慢してまでいるアスカに離れたくないと言われる理由の説明としては、シンジには今一番しっくりくる説明だった。
それでも、シンジはアスカの手を離さなかった。ずっと手を握り、泣いているアスカのそばに立っていた。抱きしめることもなく。抱きしめる資格がないとシンジには分かっていた。
◆
昨晩と同じように、また街灯の下、シンジとアスカはとぼとぼと歩いている。シンジはアスカの手を引いている。
シンジは振り向かずに、誰もいない、電信柱しかない前方に向かって言葉を発した。
「来月から、アスカの部屋の家賃を折半するよ」
「……シンジ?」
「バイトを減らして勉強に更に専念する。学費の為に節約しなくちゃいけない、だから」
「それって、今の部屋を引き上げて、アタシと同棲してくれるってこと?」
信じられないとアスカが顔を上げた。
「アスカがそれでいいなら。部屋は狭くなるけど」
「いいっ、それでいいっ。ありがとう、シンジ!」
アスカの顔が振ってわいたような突然の幸せに、喜びに輝いている。本当ならアスカのような美しい女性から、シンジに礼を言うような話ではない。彼女を知る多くの男子がアスカと恋仲になって同棲することを夢想し、叶えられないのだから。
シンジに引かれていたアスカの手に、萎えきっていた彼女の手に、力が戻ってくる。
「シンジっ、ちゃんと分かってくれてたんだ……ありがとう、ありがとう……」
アスカの声に再び涙が混じる。今度の涙は、夢のような未来を心待ちにする乙女の涙だ。
アスカは当然、これを次へと進む重要なステップだと考えているのだろう。
……アスカと僕は結ばれてはいけない。一緒にはなれない。僕には幸せになる資格はない。でも、アスカはそうではない。
だが、アスカはシンジ無しではいられない。多分、もう壊れてしまう。
(だから錯覚だけど、しばらくの間、僕をあげる)
その先が繋がらない、つかの間の交錯を、アスカを守るいっときの繭にしたい。その間に僕は、アスカを守れる本当の場所を作る。僕から卒業しても、アスカがアスカでいられるような場所を。