大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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十六話 壺中、日月長し

 アスカは今幸せの絶頂だった。シンジが越してきて、アスカの部屋で同棲を始めた。

 朝も夜も一緒に居られる。

 

 シンジは朝から専攻の生物学の専門書を読む。土曜日も日曜日も決してサボらない。サボれば、日本の明日が一歩後退するとでも思っているのではないかとアスカはからかう。そのぐらいシンジは真剣だ。最近はテロメアの事に強い関心を持っている。いつも途中でアスカは紅茶を淹れてやる。

 

「ご精が出ますねぇ、うちの旦那様は……」

 

 などと言いながら。気の早いアスカははや夫婦気取りだ。

 アスカは真剣な顔をしたシンジのほっぺをツンツンとつついてやる。シンジも無理に嫌がらない。お茶請けにクッキーを出してやる。

 

「手が放せない。アスカが食べさせてよ」

 

 レポートから僅かに目を離し、上目遣いのシンジが甘えてくる。

 

「あーん」

 

 言葉でシンジの口を開けさせて、クッキーを指でつまんで口に運んでやる。

 

「ん……んんっ」

「頭を使うと糖分が欲しくなるよね。甘いものが……」

 

 だから─と、アスカは顔を近づけ、唇をシンジの唇にかぶせる。掠めとるように不意打ちのキスを奪う。

 

「ア、アスカ……」

「これも甘い、わよね?」

 

 アスカが頬をほんのりと上気させて、艶めいた視線を送ると、シンジもつい、今が昼間だと忘れてしまいそうになる。

 

「頑張ってるからゴホービ」

「毎日でも欲しいな、こんなご褒美なら」

「うん、毎日でもあげるよ。シンジが欲しいものは何でもあげるの。だってアタシは奥さんになるんだから……」

「……」

 

 シンジにそのアスカの含羞に返せる言葉はない。

 

 

 学問の専門的議論の相手や外国語論文の読解なら、アスカ以上のパートナーは居ない。二人でつい議論に熱中してしまい、昼食時を過ぎてしまうこともしばしばだ。友愛、性愛だけではなく知的にも最高のパートナーだった。

 

「やっぱりアスカは凄いな」

「アンタもね。中学の頃は単なるバカな男の子だと思ってたけど、最近は本当に見違えた。やっぱりアンタはやれば出来る……やる気になるのにいつも時間がかかるけどね」

 

 フフとアスカは笑いながら、シンジを弄る。シンジは再び、書きかけのレポート、いや、すでにその分厚さや高等な内容は論文のレベルだろう─に目を移し、ペーパーの表面を指でコツコツと叩く。

 

「テロメアは癌化とともに不老化も司っている。使徒の身体構造にも関係している筈なんだ」

 

 アスカにもネルフ時代を思い起こさせるズキリとする単語だが、シンジの着眼点は正しいと認めざるを得ない。綾波レイのクローン化技術、おそらくあれは使徒の研究から生まれた副産物。そのほとんどはネルフ解体の時にマギと共に消えてなくなった。マギが外部に乗っ取られる前にデータを消去したのだ。つまりシンジのやっている研究テーマも部分的には車輪の再発明に近い。

 

「つまりはテロメアを制御すれば、人間を不老化させたり、使徒みたいにしたりも出来るってこと?」

「もちろん、テロメアだけが使徒の構成要素の筈がない。だけど重要な因子の筈だ。ただ、僕はむしろ……クローン技術の不完全に目が向く。どうしてネルフのクローン技術はああも不完全だったのか」

「テロメアの制御が不完全だったからという事になるわよね……」

「完全に制御できない理由は何なんだ?そんなに技術的隘路があるとも思えないけど……」

「うーん……」

 

 アスカも腕を組みながら、考えるが、すぐに答えが出る訳でもない。

 

 綾波レイが定期的に培養漕でメンテナンスを受けなければならなかった事は、子安から隠密裏に提供を受けたネルフドキュメントでシンジもアスカも既に知っている。それでも綾波レイの身体的不調は顕著だった。クローン体はテロメアが短く、つまりは生物としての寿命が短い。綾波レイに執心していたゲンドウがその寿命の延伸を目指さなかった、目指せなかった理由はなんなのか。

 

「やっぱり、綾波の不完全定着には理由がある。それを見つけ出したい」

「シンジ……それって純粋な学問的探求心だと考えていいんだよね?あるいは綾波レイへの鎮魂とか。それ以上の変なことは考えていないんだよね?」

「ああ」

 

 予期していた質問だけに即座に返事をし、顔色一つ変えなかった。シンジも嘘が上手くなった。

 

 学校に行かなくていい日は、昼は一緒に軽めの食事をとった後、シエスタと洒落込み、よく午睡(ひるね)を取る。もちろん、ベッドの上で一緒にだ。寝汗をかくので、時には下着姿や全裸の場合もある。別に誰に憚る事もない、二人きりの部屋だ。目をつぶるとはいえ、いつまぶたが開かれるとも限らない相手の視線が気にならないわけではない。しかし、むしろ気にしなければならないのは手の動きだ。胸や局部に伸びるお互いの手は、性愛というよりは無意識に相手の感触を求めている。今日は全裸のアスカの下腹へ伸びるシンジの手の動きだった。

 

「こら、シンジ……そんなところ……」

「別にいいよね……ここは……僕の、僕だけのものだ」

「もう、しょうがないな……まだお昼だよ。今からもう夜の部をご予約?……予約はしなくても、シンジ君にはとっくに売約済みですよ?」

「まあ、なんというか安心するんだ。触っていると僕のものだと実感できるから」

 

 すべすべした美丘の感触に加え、その上に生え揃った金色の叢のなだらかさを指先に感じる。……しかし、それは束の間の所有に過ぎない、とシンジは寂寥感に囚われる。ずっとアスカと一緒に居たい。でもそれが叶わないなら、アスカには幸せをあげたい。

 

「すけべ」

 

 アスカはくすっと笑いながら、しかしシンジの手を丸みを帯びた自分の場所から、はねのけない。

 

「男の子ってやっぱりエッチだね」

 

 アスカはシンジに出会った時に感じた感慨を想い出す。バカでスケベでエッチだけど、だからこそ愛おしい。こんな気持ちを感じられるなんて、あの時のアタシ、……アンタには想像できた?

 

「うん。好きな人の前では特にそうなんだよ」

 

 シンジは頷く。今のこの甘やかなやり取りも、アスカはやがて優しい過去、古びた思い出に変えてくれるだろうか。これから裏切ることになるシンジへの憎しみやこだわりを捨てて、いつか、そうなってくれればいい。

 

 

 夕食は二人で作ることが多い。アスカはいつも溜め息をつく。

 

「手間のかかる料理って、準備もそうだけど、片付けが大変ね」

「そうだね。僕も片付けはイヤだな」

「将来的にはお手伝いさんに来て貰いたいなあ。怠けたい訳じゃないけど、あんまり台所周りを清潔に保てる自信がない」

「……」

 

 未来の話にシンジの返信はない。アスカは一人決めで頷きながら、

 

「シンジの収入次第だね。期待してる」

 

と笑ってみせる。

 

 だから、最近のアスカはせっかく、料理教室にも通っているのに、ついつい"得意なレパートリー"として、簡単なスパゲティを選んでしまう。これなら誰でも作れる。ソースも出来合いのものを使えば、もはや料理とは言えないかも知れない。

 

 それでもシンジは付け合わせのサラダを作り、メインディッシュを完成させたアスカに花を持たせる。

 

「こういうのは自信が大事なんだ。ちゃんと自分で料理したっていう自信が」

 

 それはある意味では自分にも跳ね返ってくる言葉だ。いつも自信がないシンジ。上げ下げの激しいシンジ。でも、最近はアスカの事だけを考えて動いている。自信喪失をしている暇はない。

 

「出来た、出来た。ちゃんと出来たよ、シンジ!」

 

 これもシンジがアスカに夜の生活でいつも誉めて貰っていた時の言葉を思い出す。アスカが誉めてくれたから、情けない事であっても、シンジは少しだけ自信を付けてこられた。アスカは決して僕をバカにしなかった。僕を立ち直らせてくれたアスカには感謝しかない。

 

 アスカは無邪気にスパゲティ・アラビアータを完成させる。シンジの指導よろしきを得て、ソースは自家製だ。アスカも主婦を目指して頑張っている。将来の家庭的幸福を目指して。シンジにはそれが胸にチクリと痛いが、別に料理はシンジと結ばれなくても役に立つことだ。そう自分に言い聞かせている。

 

「アスカにぴったりの料理だね」

「え、なんだっけ」

「アラビアータって、イタリア語で『怒りんぼ』。色も赤いしね」

「もう!アタシは怒りんぼじゃないわよ!」

 

 シンジに対しては、もう怒りんぼでは居たくない。シンジにはずっと優しい気持ちで居たい。怒りんぼはスパゲティだけでいいや、とアスカは目を細めて、10cm上にあるシンジの顔を見上げる。

 

 

 夜は夜で、二人の夜は長い。勉強も深夜まで続くし、議論は白熱する。

 時々、アスカには議論の筋道が追えなくなる。それはアスカの理解力がシンジに及ばないからではなく、シンジがカバーしようとしている、背負おうとしている範囲があまりにも広いため、追いかけられなくなるからだ。

 

 複数領域にまたがる学際的研究とかそういう話でもない。そもそも一介の研究者を目指しているレベルじゃない。

 もっと、大きな物を、世界を動かそうとしている瞳。それがたまらなくアスカを不安にさせる。そんなに大きなものを目指さなくていい、もっと小市民的な自分との生活の幸福だけを追求してくれればいいのに。そう思うが、男が心中何かを決意している時、それを止められる女が居るだろうか。

 

 ─シンジ、あんたが目指すその先に、アタシはちゃんと居るんだよね。アンタの隣にアタシの場所があるんだよね?

 

 だから、その不安からか、勉強を終えるとアスカもシンジも疲れきっているというのに、シンジを求めてしまう。シンジも拒まない。同棲開始以来、シンジは優しい。常にアスカをいたわってくれる。

 

 ベッドの中で、シンジはたくましかった。シンジからだと、なかなか交われないという例の症状もしばらくなりを潜めている。心理的な影響の大きい問題だ。シンジにはアスカをこの瞬間、精一杯幸せにしてやろうという決意がある。それが症状の好転をもたらしているのかも知れなかった。

 

 二人で息を合わせ、弾ませ、律動する。二人の汗と体液が混じり合う。瞳を見つめあうとそれだけでお互いへの愛しい気持ちが湧き上がってくる。だから、日本では昔からセックスの事を、目合い(まぐわい)というのか、と二人は愛の実践の中で深く実感する。愛は日々の発見だ。昨晩と一つとして同じ媚態はない。同じ表情はない。同じ愛の囁きも、同じ快楽もない。二人だけに閉じた排他的な愛の喜びには尽きることがない。汲めども汲めども愛の泉は尽きることがないのだ。

 

 しかし、それでもやがて、愛と快楽は終局する。心地よい疲労と脱力が二人を包み込む。シンジの手がアスカの髪をそっと優しく撫でる。シンジに撫でられる為に、アスカはその美しい金髪を伸ばし続けている。

 

「……ねえ、アスカなら大事なものを隠すとき、どこに隠す?」

「……え、そうねぇ、例えば木を隠すには森、みたいな話?」

 

 突然のシンジの質問に、彼の腕の中のアスカは小首を傾げる。

 

「そうそう、そういうやつで」

 

 寝物語としての簡単な頭の体操だろう、とアスカは考えて、シンジの話に乗る。

 

「一つには今言ったような、知覚の認識外に置くというやつよね。同種のものに紛れさせ、区別が付かなくする。あるいは、あまりにも巨大過ぎて存在に気付かないとかもこれに当たるのかな」

「うん」

 

 しかしシンジの見るところ、それではないだろう。一番最初に考え尽くした。ゲンドウの遺品となった蔵書をすべて1ページ残らず読み込んだ。ヒントを探した。蔵書の背表紙を一定の法則で並び替えてもみた。どうもそういう線ではない。

 

「後は物理的に厳重に隔離」

「まあ王道だけど、その人にはそんな事をしていた気配はない。そういう事をするためにはお金も人も動くし」

 

 それが何かを守る手段としては一番確実だが、それなら政府が組織単位で動いて探せない筈がない。発注伝票や契約書一つで見つけられる真実というのは、案外に単純なものだ。何より自己の死をある意味では覚悟していたゲンドウにとって、それは死後、何の保証にもならない。そこに何かが在ることがすぐに分かってしまうからだ。ゲンドウがシンジに何かを託し、息子に武器を与えようと考えていたのなら、その選択肢を選ぶことはない筈だ。

 「その人」という言葉に、なんの話なのこれ、とアスカは瞬間眉を顰めるが、シンジは動じないので、話を進める。

 

「とすると、残るはアレかな」

「アレ?」

「心理的に触れない所にそれを置く」

 

 アスカは静かに、講義を今終えたばかりの新任助教みたいな顔をしてすましている。

 

「というと」

「人間は自由意志で何でも出来るように見えて、実際にはその行動には常に制約が付きまとう。余程異常な人間でなければ、あるいはその確信がなければ暴けない場所にそれを隠す」

「アスカが道端で突然服を脱ぎ始めたりしない、だから下着の下に隠せば安心、みたいな話かな……」

「こぉら」

 

 シンジの軽口にアスカは拳固を振り上げてみせるが、すぐに笑いに変わる。

 

「一体、なんのクイズなの?」

「ああ、ちょっと今読んでるミステリがあって、その話。ずっと悩んでるんだ、隠し場所を」

「そんなの読んでる様子は無かったじゃない」

「トイレで読んでるんだよ」

「ふーん」

 

 アスカはなおも疑わしげな様子だが、それ以上は追及しない。

 しかし、シンジの中でアスカのくれたヒントはある種の確信に変わっていく。

 

 ……あのとき、父さんは何と言った?

 

 丹念にその時の言葉を思い出していく。

 

 うん……矛盾はないように思われる。

 

 その場所が発見されれば、今のアスカと過ごす夢のような日々も終わりを告げる。シンジにとっても本当に楽しい夢のような日々。シンジはそれを自分から捨て断ち切らなければならない。その事が彼を苦しめ、胸を締め付ける。しかし、アスカの為にはやらなければならないことだ。

 

 壺の中の別天地に夢のような楽園があり、そこでは月日はゆったりと流れていく。しかし、それでもどんなに長い一日でも、必ず終わりが来るのは間違いないのだ。ゆったりとした時間の流れでも、日が暮れる時はやってくる。

 アスカと過ごした壺中の天は本当に楽しかった。しかし、それももうすぐ終わる。

 

「日暮れて(みち)、遠し……か」

 

 その名高い言葉を後世に遺した英雄も、今のシンジと同じで、もはや時間がないということに切迫感と焦燥を感じていた筈だ。

 

 ─時間はもうないのに、僕はまだ何も出来ていない、アスカのために……

 

 その焦燥が、かの老境の英雄にも心理的障壁を越えさせた。いや、倫理的障壁と言った方が良いかも知れない。シンジの求めるものも、おそらくはその英雄が暴いたのと同じ場所にある。それはもはや予測ではなく確信だった。

 

 いつの間にか、腕の中のアスカが静かに寝息を立てている。シンジは枕元の自分のスマートフォンを取りあげ、教育科学省の官僚、子安の私用アドレスにメールをする。あらかじめ決めておいた符丁を簡単にメールするだけだ。

 

 その符丁──

 

「待ち得たり 春雷 蟄を驚かし起すを」  

 

とは、金の龐鑄の漢詩の一節だ。その後に、

 

──此の中に 応に葛坡の龍有るべし と続く。

 

 アスカとの束の間の夢のような生活を思えば、いささか皮肉めいた巡り合わせだけど、正にその壺中天を持ち歩いていた仙人壺公──彼が弟子に与えた、龍に変じる魔法の竹杖を題材とした詩が、漢籍に通じる子安とシンジが決めた符丁だった。探し求めた秘宝が遂に見つかったとの意味を込めている。

 

 送信ボタンを押してしまえば、もう、流れは止まらない。シンジはアスカの寝顔を見ながら、煩悶する。全てを捨てて二人で逃げてしまいたい。でもアスカにも言ったように、そんな事は出来る筈がない。自分はアスカを傷つけ、一度は壊してしまった。自分の不甲斐なさと怯懦のせいで、悪夢を見せ続けていた。今度こそはアスカを幸せにする。

 

 だから、シンジの指先は動き、遂に壺中の天は閉じ、葛坡の龍が舞い降りることになる。

 

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