大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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十八話 破鏡の誓い

 二十二歳のアスカは、シンジとの将来に色々な夢を描いている。

 

「最初はつましく暮らせばいいけれど、やっぱり、将来的にはなるべく大きな家に住みたいよね。いずれ、子供だって生まれるんだから。勿論、花とかを植えられる小さな庭付きがいい。プールとか流石にそこまでの贅沢は言わないけれど……あ、子供の情操には犬を飼うといいと言うけど、シンジは犬は大丈夫かな?」

 

 そして、ため息を付く。

 

「アイツがグズグズしてるから、もうすぐ学生生活も終わっちゃう。アタシは学生結婚でも良かったのに」

 

 だけど、その嘆息は失望ではなく、希望の別表現に過ぎなくて。

 

(プロポーズのタイミングはアイツに任せよう。就職内定なのか、卒業なのか。想像するのも楽しいし。不意打ちだって構わない。だってそれは嬉しい不意打ちなんだから)

 

 アスカは目を細める。

 

(シンジのやつ、ちょっと遅いわね……)

 

 珍しく一人で図書館に出掛けたシンジが大怪我をしたという連絡が病院からあったのはそれからすぐの事だった。

 

 

 病院のベッドに横たわるシンジの説明によると、図書館へ行く途中で、人通りのない道を通ったときチンピラに因縁を付けられて喧嘩になった。左手の指が全部折られた。幸い、診断の結果、障害などは遺らないらしい。

 

 左手の全ての指にギプスをし、鎮痛剤を点滴されながら、シンジは、心配かけてゴメンと言った。

 

「アタシが付いていくべきだった……そうすればこんな事には」

 

 顔面蒼白になりながらアスカがそう、ほぞを噛むと、シンジが怪訝な顔をした。

 

「アスカが居たら、アスカも怪我して、怪我人が二人になっただけだよ。もし乱暴とかされたらどうするんだよ」

 

 アスカは、ふしぎそうに首を捻るが、やがて気付いた。シンジと背丈が殆ど同じだった中学の時とは違う。あの頃だったら、子供の頃から訓練を受けていたアスカの方が強いぐらいだったかも知れない。でも、今のシンジはアスカより10cmは背が高く、胸板も腕の筋肉もアスカより当然逞しい。シンジは男としてはごく平均的なのに、アスカはそれには全く叶わない。自分が付いていても単なる足手まといでしかない。いつまでもシンジの保護者の積もりだったのに、いつの間にか、守られる女という性になっていた事に突然気付き、アスカは憮然とした。

 

「……アタシ、女なんだ」

「そうだよ、だから、あんまり無茶なことばかり言わないで」

「なんだか悔しい。女って悔しいな」

 

 アスカは昂然として顔を上げた。

 

「もう一回鍛え直そうかな」

「その……別に今のままでいいと思うけど、アスカは嫌なの?」

「だって、このままじゃ、シンジを─」

 

 ─守れないわよ、と言い掛けると、シンジは怒ったような声で言った。

 

「僕だって男だよ。僕はアスカを守りたい。アスカに守られるんじゃなくて」

「だって」

 

 ─それはシンジだけでなく、アタシだって同じじゃないか。相手を守りたい気持ちは同じで、守ってもらいたい気持ちも当然あっていい。

 

 ギプスで固定された左手を見ながら、アスカは言った。

 

「本当に偶然の喧嘩なの?」

「え?」

「何かアタシに黙って、危ないこと、してない?」

「し、してないよ」

「アタシ、シンジが危ない事をするのはイヤ」

「……必要な時以外はしないよ」

「必要な時も逃げればいい。二人で逃げればいいんだよ」

 

 シンジは首を横に振った。

 

「少しは僕を信頼してよ」

「ゴメン……シンジが張り切ると、大抵は変なことになるから。心配なの。シンジが悪いというより、世界が意地悪なんだろうけどね……」

 

 

 だから、シンジが退院して戻ってきた日に切り出した新しいネルフの話はアスカにはサッパリ飲み込めなかった。シンジが頑張った時の裏目に出るような不吉さに彼女の心は暗くなる。

 

「新しいネルフとか一体何の話……?」

 

 頭をシンジの言葉がすり抜けていく。先ほどからシンジが説明している内容が何一つ頭に入ってこなかった。

 

「だから……僕はネルフを再建する。一介の学生が言っても夢みたいな話しに聞こえるだろうけど、父さんの遺していた裏死海文書を材料に、ゼーレとの取引も成立した、だからアスカにも僕と一緒にネルフに来て欲しい。そこならアスカを守れるから」

 

 シンジは先ほど一回話した説明を繰り返した。

 

「……いいよ、シンジとなら何処にでも行く。で、その後、アタシとシンジも一緒になるんだよね?」

 

 アスカは頷く。そういうことか、つまりはこれは就職の話なのだ。シンジが就職先を見つけてきた。だからアタシとシンジはいつまでも一緒に居られる。そう理解しようとする。

 

「……僕とアスカは一緒にはなれない」

「え?」

 

 シンジの顔が見れない。もう怖くて見れない。だから、アスカは俯いたまま、反論を続ける。

 

「な、なんでよ。だって今日のお話はそういうお話なんでしょ?シンジとアタシの就職が決まって、そしてシンジがアタシにプロポーズしてくれて……」

 

 アスカの手がわなわなと震え、その表情が陰に隠れていく。

 

「僕はアスカのそばに居る。必要ならいつでも呼んでくれればいい。そして、要らなくなったら捨ててくれていい」

 

 しかし、夫婦にもなれず、一緒にもなれないけど、そばにいるというのは、結局は身体だけの関係のみを続けるということではないのか。恋人ならばその先に結婚への期待がある。その未来を絶対に受け入れない男女関係など、単なる肉体的な刹那の結び付きでしかない。

 

「なによそれ……もう、アンタとアタシは一時的な身体だけの関係ってこと……」

「アスカがいつまでも僕と一緒にいて良いわけがない。暫くは今のままの関係が続くにしても、いつかは僕らの道は分かれていく」

 

 劇的な現状変更はアスカの心を壊しかねない、シンジはそう考えていた。だからアスカの心を守るために少しだけ側にいる。

 

「い、いい加減にしなさいよ、誰がそんな事を承諾したのよっ」

「僕が決めたんだ。それがアスカのためなんだ。世界の敵である僕はアスカとは一緒にはなれない。でもアスカが僕に見切りを付けるまではしばらくは一緒に居られる」

 

 アスカにはシンジの提案が身勝手極まりないものに聞こえる。別れると告げられた方が受け入れられないのは同じでも、まだしも理解できる。

 

「じゃあ何で、アタシと同棲したの?当然二人の将来へ向けての準備だったんでしょ!」

「新しいネルフが出来るまでの時間が必要だったから。アスカをそれまで壊したくなかった。でもネルフが出来た以上、僕はいずれ要らなくなる……」

 

 アスカはまだギプスの取れないシンジに必死の形相ですがりつく。

 

「シンジ……アタシがしょっちゅう怒るから、もう嫌いになったの?それとも仲良し(セックス)をねだりすぎた?あたしに嫌な所があるなら、今から直すから。だからもう、アタシを裏切らないで。アタシを棄てないで。お願いよ……」

 

 母に棄てられた記憶がアスカの脳裏に蘇る。ずっと忘れていたのに。ちゃんと忘れられたと思ったのに。やっぱり、アンタもアタシを棄てるのか。

 

「そうじゃないんだよ、アスカ。アスカが僕を棄てるんだ。僕はアスカに相応しくない。みんなが僕をどんな目で見てるのか知ってるでしょ……もし、結婚したら、妻であるアスカや、もしかしたら僕たちの子供たちだって、僕と同じ扱いを受けるんだ。そんなの僕は耐えられない」

 

「そんなの全部、あんたの想像じゃない!あんた、世間がそう見る、って勝手に決めてるけど、ちゃんと言われる度に反論したのっ、立ち向かったの!?アタシならちゃんと反論する!言われっぱなしになんかしないっ!夫や子供の名誉のために闘うっ!闘いもしないうちになんで諦めるのよっ!アタシの幸せよりも前に、アンタの幸せでしょ!アンタ自身の人生でしょ!自分の人生から逃げないでよっ!!」

 

「……いやなんだ。僕の事で、アスカが傷付くのが。いつか、僕なんかと一緒にならなければ良かったって、後悔されるのがいやなんだ……」

 

「いくじなし……!」

 

 悔しくて、そこで初めて涙が出て来た。どうして一緒に闘おうとしてくれないのだろう。シンジだけが残っても、シンジだけが逃げ出しても、けっきょく同じことではないか。なぜアタシと一緒にいてくれないのか。

 

 シンジが一緒になろうと言ってくれるのなら、どんな苦労にだって堪えられる。その妻として、人類社会の公共の敵(パブリック・エネミー)になっても構わない。ただ、アスカに一緒に苦しんでくれと言ってくれるだけでいい。それだけでアスカは強くなれるし、幸せになれたのだ。

 

 けっきょく、シンジは怖いのだ。世間に立ち向かってアタシを守る自信がない。何より、一対の対等の男女が結びつく婚姻という関係に進む勇気がない。赤の他人であるアタシと家族になる勇気がない。日々の暮らしの中でアタシに全てを晒し、細々とした生活の中で、他人である女、すなわち妻と人生をせめぎ合う勇気もない。いつだって、アタシに流されて漂っている。

 

 何でもアスカの好きなようにすればいい、では結婚生活は成り立たない。夫婦のこと、子供のこと、家族のこと、みんな夫と妻が対等な関係で話し合わなければ成立しない。甘いだけが結婚生活ではない。妻の言いなりにしていて夫婦がうまく立ち行くわけではない。夫として男として決断し、立ち向かわないといけない事がいくらでもある。でも、シンジはそれらが全部怖いんだろう。うまく出来る自信がなくて、それでアスカに詰られたり、頼り甲斐がないと愛想を尽かされるのが怖いのだ。だからシンジは逃げた。世間が自分を嫌い、罵っているというのは格好の逃げる口実だったろう。アスカや未来の子供を守り、養わなくてはいけないという男の責任からシンジは逃げたかったのだ。アスカと対等の男として向き合うのが怖かったのだ。

 

「アンタ、同棲してる時、アタシが将来の夢を語るときに一回も返事しなかった。ずっと、そういう風に考えてたんだね。アタシだけが夢を見て、妄想に浸り、アンタは全部分かった上で聞き流してた。アタシの切ない夢を腹の底では笑ってたんだ」

「わ、笑ってなんかいないよ!」

「そんな事知れたもんじゃない!……少なくともアタシは深く傷ついた。未来の夢をアンタに嬉々として語っていた自分を殺してやりたい。そいつは裏切り者なんだ!って過去の自分に教えてやりたい」

 

 今初めて、シンジの裏切りと欺瞞を知った。あんなに楽しかった同棲生活が全て嘘っぱちに感じられる。鈍く立ち上ってきたアスカの怒りは彼女を声高くアハハッと哄笑させる。

 

「必要な時には僕がアスカを抱いてあげる、アタシが無敵のシンジ様への未練から卒業出来るまでは、ってこと?……お優しいことで。その後は一体どこの男にお下げ渡し下さるのかしら?……二回に一回はアタシから抱いてやらないと満足に繋がることもできない半端な男がどの口でそんな生意気な大口を叩いてるのよ!」

 

 本当はそんな事を言って、シンジを傷付けたいわけではなかった。でもアスカの中にどうしようもなく渦巻く怒りが、シンジを抉る事を欲している。

 

「……それも僕がアスカに相応しくない理由だろ……」

「アタシがアンタと一緒にいたいってのは、セックスがしたいからじゃない。たとえアンタが完全にセックスが出来なくても、アタシはそれで構わなかった。一緒に毎晩抱き合って寝るだけでも充分幸せな気分になれた」

 

 でも、シンジにとってはそうではなかったのか。

 

「シンジにとって、アタシとの関係は結局はそういうものでしかなかったのよね……アタシが寂しがってる時は抱けばいい、アタシが本当に欲しいものもセックスだったってわけ?アンタ、大間違いしてるわよ」

「……アスカ」

 

 アスカは、本当に寂しかった。自分を最終的には棄てるために冷静に計画を立ててきたシンジが疎ましかった。お情けのように、猶予期間を設けられて、それでアスカが納得するとでも思っていたのか。

 

「……もういい。シンジの中でのアタシの位置付けがよくわかった。男として責任も取りたくない、でも、本音では他の誰かに取られたくもない、だからこその別れるまでのモラトリアムよね。要するにアタシを助けてもくれなければ、殺してくれる訳でもない、いつもの優柔不断なアレよね」

 

 なんでこんな男相手に何年も想いを拗らせてきたのだろう。あんなにも胸を浮き立たせて、夢見て来た薔薇色の未来予想図が只の一人相撲だと分かって、たまらなく恥ずかしかった。独りで消えてしまいたかった。シンジは目を合わせようとしない。

 

「いいよ……今後はそういう関係で。でもハッキリしておきたい。そういう関係を望んでるのはアタシじゃなくアンタだってこと。責任を負わずに、アタシと正面から向き合う事も怖くて、世の中の自分への指弾を言い訳にして、アタシを幸せにする事を拒んだ。シンジはまたアタシから逃げたんだよ、これで三回目だ……」

 

 サードインパクト、松代、そして今日。野球ならこれで、スリーアウトではないのか。

 

「でも、アンタにはアタシへの未練がある。アタシという一個の人格ではなくて、アタシがアンタに与えてきた甘やかしへの未練が。だから自分から卒業しろと言っておきながら、別れを切り出せないんだ。北上ミドリの言うとおりだった。アンタを甘やかして、アタシは地獄を見ただけだった」

 

 アスカはそう言い切って、その言い切った自分の態度に深く傷付く。アスカがシンジに優しくしてやって、シンジが少しだけ過去の傷を癒やされて、ほんのちょっぴりだけ明るくなる。それが本当はアスカにも嬉しかった筈なのだ。アスカはシンジを強くしてやれなかったが、与えた優しさの分だけ、優しくはしてやれた。しかし、アスカは今はその記憶を振り捨てる。

 

「でもいい。自分のしてきた結果には責任を取る。いつでもシンジの好きなときにアンタの女として呼びなさいよ。アタシがアンタを呼びたいんじゃないんだから。どうせアンタにネルフの仕事なんかマトモに務まる筈がない。また逃げ出したくなって、すべてが嫌になって、逃げ道を探すんでしょ。いいじゃない、アンタの嫁になれなかった哀れなアタシをその時の逃げ道としてキープしておけば。まともに女を抱けないアンタにはアタシしか居ないものね。アタシしかアンタを抱いてやれないものね。アンタをよしよしと慰めてやれる女は世界でアタシだけだものね」

 

「……そんな積もりじゃ……」

 

 アスカはシンジの頬にそっと手をやった。赤い海の浜辺でシンジを触ったのと同じ手触りだとシンジは思った。哀れみと幻滅。悲しみと同情。

 

「何が僕から卒業しろ、よ。今のアンタのメンタルでそんな事、堪えられる訳がない。家族もいない天涯孤独で、知り合いだったネルフのメンバーもいない。中学時代の友達だってみんな生死不明じゃない。もう世界にアンタの味方はアタシ独りしかいないじゃない。それを喪うことをアンタが本心で望んでる訳がない。アンタ、今でも亡くなったお母さんが恋しいんだものね。アタシにお母さんになってもらいたかったんだものね。そして、それをアタシに求めてる事が自分でも気が咎めて、気持ち悪いんだものね。分かるよ。アタシだって気持ち悪い。でも、アンタが欲しいものなら何だってあげようと思ってた。でも、アタシが与えても、アンタが返してくる答えはアタシの欲しい答えじゃない。いつだってチグハグで、的外れで、アタシを傷付け続けるの」

 

 シンジが自分から同棲を申し出てくれた時、本当に嬉しかった。ようやくアタシの気持ちを理解してくれたかと思った。でも、それはアタシを騙すための偽りの理解だった。理解したふりだった。なんて残酷な男なんだろう。

 

「アタシがアンタから"卒業"した後、他の男と寝る場面でも想像した?その妄想がアンタを傷付けるとまるで贖罪してるような気分になれる?それともその場面を想像して惨めにオナニーでもした?アタシはアンタを罰する道具じゃない、と前にも言ったわよね。アタシは独立した一個の人間なのよ。アンタを好きになるか嫌いになるか、アンタ以外の男を好きになるか嫌いになるか、全てアタシが決める。卒業、ですって?そんな事をアンタが勝手に決める事なんて許さない。痩せ我慢や強がりや自己犠牲は成長じゃない。いい加減、大人になって」

 

 本当に可哀想な奴。アタシを誰かに奪われる不安を先回りして、それを自分から申し出れば、アタシがしがみついてシンジに固執してくれると思ってる。きっとそれで安心したいのだ。じゃあそうするわとアタシが言ったら、耐えられるはずもないのに。

 それからアスカは長々と嘆息する。

 

「この先のアンタとの関係で、アタシの忍耐がどこまで持つかわからない。まだアタシの中にはアンタへの愛が燻っている。そんなに簡単に割り切れない。でも今日の仕打ちは忘れられない。後はきっと時間との勝負だよ。アンタがまともな男になれるのと、アタシが愛想を尽かしてアンタを捨てるのと、どちらが早いのか」

 

「……ううっ」

 

 シンジはようやく錯誤に気付いたのか、顔を伏せている。自分が取り返しの付かない過ちをしたことに気付いたのだろう。

 

「泣きたいのはこっちだよ。……で、何、ネルフだっけ?入ってあげるわよ。どうせアンタのお守りなんでしょ。そういえば、アタシはアンタの親友だったわね。仲良し(セックス)付きの親友としてまたこれからも面倒みてあげるわよ。それで満足なんでしょ!」

 

 二人は親友、仲良し(セックス)、アスカとシンジが育んできた優しい想い出に満ちた言葉の数々が、今はシンジを傷付ける刃に転用される。

 

 シンジは、じっと俯いて、言葉のつぶてを受け止めている。黙って受け止めていれば、アスカが笑顔に戻って許してくれるとでも期待するように。でもそうはならない。

 

「つまらない話を聞いたわね。時間の無駄だった。百年の恋も一気に冷めたわ」

「あ、あのっ……僕はっ……」

「安心して。身体の関係なら続けてやる。これはお互いの未練よ。そこで先々の事をお互いによくよく考えましょ」

 

 アスカは言いながら笑った。まだこんな男に未練があるのか。まだこんな男のことが好きなのか。余程、自分の男の趣味は悪いらしい。

 

 アスカはシンジの手を握った。もう自分の男ではない男の手だ。でも温もりは感じられる。たぶん、繋がれば、気持ちがいい身体を持っている。アスカはそれを十分に知っている。

 

「ほら、これからホテルに行くんじゃないの。同棲関係解消とアタシたちの"新しい関係"の始まりの記念に、パーッとヤリまくりましょうよ。アタシがアンタを卒業するまで、求めには応じてくれるんでしょ?」

「でも……こんなのは……」

「いいわよ、どうせアンタからは出来っこないんだから、全部アタシから抱いてあげる。お母さんになってあげる。アンタのことを玩具にしてやる。それがアンタがアタシに本当は望んでる事なんでしょ。罰してもらいたいんだよね。アタシはアンタが、今日アタシを馬鹿にしたことは絶対に許さない、その気持ちを一晩中、ぶつけてやる」

 

 腑抜けたように座っているシンジの腕を引っ張って、立ち上がらせる。シンジの抵抗は弱々しい。無理やりに引っ張って、マンションから街路に出る。姉のように手を引っ張り、人通りのない道をしばらく歩いて駅に向かう。言葉は二人ともない。

 駅近くに立ち並ぶ休憩の看板の出たホテルの一つに、アスカはシンジを引きずり込む。入ったことがなく、よく分からないから窓口で簡単に説明を聞く。ハンドバッグから取り出した財布から二人分のホテル代を先払いで払う。エレベーターの中、二人きり、ずっと沈黙が支配する。アスカは値踏みするようにシンジの細い身体を見る。二人分の金を払ったから、まるでシンジを買ったとでも言うように。シンジはずっとアスカの顔を見れないでいる。アスカの欲情に滾った怒りの顔を見れないでいる。

 

「僕、アスカのこと、好きだよ……好きだからこうした方がいいと思ったんだ……アスカがそんなに傷付くなんて思わなかった……」

 

 ─うそつき。自分のことしか考えてないくせに。アタシの気持ちなんか考えてないくせに。アタシの想いなんか知りもしないくせに。アンタとアタシ、今、揃って大失恋したんだよ。大失恋したから、こうやってホテルに行くんだよ。恋人だったかもしれない関係から、只の身体だけの関係になりに行くんだよ?アンタ、まだ状況が飲み込めてないんでしょ?

 

 そんな事をわざわざ教えてはやらない。シンジはバカだから教えても分からない。代わりにこう言ってやる。

 

「あら、アタシもシンジのこと、大好きよ。これから一晩中、仲良し(セックス)するんだものね。今までずっと仲良し(セックス)してきたんだものね。シンちゃんのこと、大・大・大好き!」

 

 そして、シンジの頭を抱き寄せ、シンジの頬にチュッとキスをしてやる。

 

「そういう気分になる為には、色々な演出や準備もしないとね。男ってホント、難儀よね」

 

 シンジの頬を涙が伝う。こんなにつらいキスは初めてだった。

 

「僕のこと、滅茶苦茶にしてもいい、だからもう怒らないでよ!」

「滅茶苦茶にしてほしいのは、単なるアンタの欲望でしょ。それが今晩のリクエストってわけ?」

 

 アスカは腕を組みながら、小馬鹿にしたように笑う。

 

「ほら、とっとと降りなさいよ」

 

 エレベーターが止まり扉が開いたのでアスカが促す。そして、エレベーターから降りると、アスカはシンジと手を繋ぐ。指と指を絡め合う恋人同士のやり方で。

 

「恋人繋ぎよ、うれしいよね。でもこれは今日が最後かな?……仲良し(セックス)……セックスはこれからも、何年だって、続けるのにね。どう嬉しい?アタシと身体の関係は継続できるって分かって。アスカがいいと言うまで側にいる?ですって……アンタが今まで通り、ヤリたいだけでしょ。都合のいい女を確保したいだけでしょ」

「そんな言い方……もうやめてよ」

 

 やめられるものか。アタシの女としての媚態はこれまで大好きなシンジを喜ばせるためのものだった。今は、ただシンジの心を傷付けるために使う。

 

「……僕はアスカときちんとお別れできれば、お互いに綺麗な想い出を持ったまま、お互いを卒業できると思ったんだ。あとは……僕が我慢をするだけなんだから!それなのに、こんな風に憎しみをぶつけられるなんて。アスカが僕を嫌いになるのは嫌なんだよ!お願いだからもうやめて、許してよっ」

「ふん。アタシがあんなにすがりついて、哀れに求婚しても無視したくせに。自分の都合ばっかり……どうせ、くだらない恋愛映画でも観たんでしょ。何が綺麗にお別れ、よ。そんなものは、肉体関係がない、一年程度の付き合いで、お互いの気持ちが現在進行形ではなく過去形になってる場合だけよ」

 

 予約した寝室のドアの前にたどり着くが、まだドアは開けられない。

 

「アンタがアタシとこれまでに何回やったか教えてあげる」

 アスカはシンジの耳元で囁くように四桁の数字を告げる。アスカにとっては尊い神聖な数字だから、いつでも覚えている。

「それが本日時点で最新の数字。十年近くも付き合えばそりゃそうなるわよね。もう上半身(こころ)でも下半身(からだ)でも、グチャグチャなのよ、アンタとアタシの関係は。そんなんで、綺麗にお別れなんか出来るわけないわよね。気持ちだって、勝手に過去形にしたいとアンタが騒いでるだけじゃない。アンタ自身もアタシを過去形になんか出来てない。ハッキリ言うわ。アンタバカなんでしょ?」

 

「恋愛経験なんてアタシと以外に絶無で、いやそもそも、アタシとさえ恋愛なのかも怪しい付き合いなのに、いっちょ前に、女を振るとか卒業させるとか色男気取りが笑わせる。アンタがアタシを振るとか一万年早いのよ。しかも、僕だけが我慢すればって何なのそれ。アタシは我慢しないとでも思ってるの?アンタのやることなすこと、いつだって、自分の事ばかりで、イヤんなる。アタシの内面や気持ちにも少しは関心持ってよ!」

 

 いつだって、シンジはアスカとの関係に不安だ。それは分かるが、アスカだって不安なのだ。よく話し合えばいいのに、シンジは自分の中で一人決めして、勝手な結論を押しつけてくる。シンジにはシンジの中にいるアスカしか見えておらず、本物のアスカが勝手な結論に怒り出すと、困惑し、また傷つく。

 

「アンタには罰と希望をあげる。罰はさっきも言ったけど、同棲関係の解消、来週にはアタシの部屋から出て行ってほしい。さすがにあんな風に嘘をつかれては、もう一緒には暮らしていけない。楽しかったんだけどね。またいつか、一緒に暮らせる日が来るのかな」

 

 そういう日が来るのなら、嬉しいが、もう多分そんな事はないのだろう。だけど、アスカはまだ希望の松明の灯を絶やしてはいない。

 

「希望というのは、シンジにあげる最後のチャンス。アタシからのプレゼント。来年にはアンタと付き合って十年になる。愉しいことも沢山あったけど、結末を考えると悲惨な十年だった。だから、これからあと十年の時間をあげるわ。起点は×月○日。覚えているかな?アタシとアンタにとって全てのスタートになった日だよ」

 

 シンジは覚えているだろうか、その日付の意味を。アスカにとって、初めて男の子と触れ合いをもった日。一生忘れられない日。夢見ていたのとは違う、ちょっと最低な初めて。シンジの反応もひどいものだった。でも、それが年相応の男の子らしくて。今でも懐かしく思い出せる。あの時、二人でもっと優しさを交わしあえていれば、多分こんなにも遠回りはしなかった、今日の涙の味も知らなくて済んだ。だからアスカの悔しさの原点でもある。でも、あの日からシンジはアスカにとってずっと特別な人だった。忘れられない人になったのだ。

 

「次の十年後の同じ日、あの日から数えて二十年目に、アタシはもう一度、シンジの結論を聞くからね。アンタが成長して、アタシと並び立てる男になっているか確かめるからね」

 

 アスカはホテルのカードキーを取り出して、部屋のドアを開ける。

 入り口近くの照明のスイッチを付けると、中から艶めかしいピンク色のダブルベッドが目に飛び込んでくる。

 

 ……次の十年はこんな所から始まるのか、と思うと、涙も出てくる。でもアタシたちはもう大人だ。十四だった頃とは違う。大人には大人の関係がある。爛れていようと、汚らしかろうと、もうちょっとだけシンジとの関係は続く。

 

「十年の猶予……だけど時間はまだあるなんて思わない方がいい。だって、アンタ弱いんだもの。これまでの十年と同じように、どうせ迷って逃げてアタシを捌け口にして、その度に自信を無くしていく。アタシだって、その度に段々アンタへの愛が、幻滅にすり替わっていく。だって、アタシはアンタの母親じゃないんだもの、無限に愛を与え続けられる夢の恋人じゃないんだもの。ただの人間で、詰まらない女なんだよ」

 

 思えば、そこがシンジの勘違いだったのかも知れない。アタシが余りにも麗しく、優しかったから、女神か何かとでも勘違いしたのだろう。それでいつしか対等でないと思いこみ、劣等感もこじらせていく。アタシがもっと十人並みの容貌だったなら、シンジはアタシの愛に納得し、とっくに結ばれている。

 例えば、毎朝起こしに来るうざったい幼なじみ、そんなアタシだったのなら、シンジは「まあそこまで好きなわけでもないけど、他に好きになってくれる子もいないからなあ」なんて言いながら、アタシの愛を素直に受け入れてくれただろう。アタシも「他にもっといい男がいるけど、アンタが可哀想だからね!」なんて口先では言いながら、平凡な幸せに八分の満足、二分の不満を交えて、大人になっていけただろう。そんな優しさに満ちた世界をいつしか夢見なかったと言えば嘘になる。でも、この世界には使徒がいて、エヴァンゲリオンがある。人類補完計画があって、ネルフも再び作られる。アタシたちが大人になってもエヴァンゲリオンがある世界、それが現実なのだ。

 アタシたちはおとぎ話でない世界、めでたしめでたしでは終わらないかも知れない世界で大人になる。不滅の愛はなく、愛は早くも衰え始めている。アタシたちの愛は遂に最後の段階に辿り着き、再び試されている。

 

「若い時はお互いに相手のことしか見えない。でも段々周りが見えてくればきっとそうじゃなくなる。これから十年だよ。それだけ長い時間なんだよ。アンタはどうするの……また逃げ続けるのかな?それともアタシにいつまでも愛されるという幻想にすがって時間を空費するのかな?……でもアタシは待つ。そこまでは待つ、だからちゃんと十年で結論を出してほしい」

 

 それからアスカはシンジの手を引いた。ホテルの部屋に入るのは初めてだ。でも多分これからはこれがアタシとシンジの関係の新しい「ふつう」になる。アスカはそう、予感ではなく確信している。

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