この一年ちょっとは地獄のようだった。
同棲の解消を決めたはいいが、自分からそれをシンジに宣告して追い出したくせにアタシの心は荒れまくり、あくまで宅飲みだけど、酒に溺れたりもした。シンジの去った一人の部屋が寂しくて、飲み付けない酒を飲んで、酒に呑まれて、酔った勢いでシンジに電話し、管を巻き、愚痴り、なじり、死んでやると脅してシンジを呼び出し、しがみついて許しを乞い、復縁を迫り、宥めるシンジにセックスをねだった。
そうして、やっとの思いで得られるセックスはいつも殺伐としていて即物的で、もう、二度と「仲良し」なんていう甘やかな隠語が当てはまることはないのだと悟った。だけど、アタシはシンジに固執した。なおもシンジとのセックスの回数を記録することは止められなかったし、シンジの睦言や愛の囁きを捏造してメモに書いた。シンジに愛されているという嘘を自分の記憶に定着させようと足掻いた。もちろん、その後、メモの嘘はぐちゃぐちゃに黒く塗りつぶす。アタシとシンジの記録に、偽物が入り込んでいることが許せなくなるからだ。
それでも朝になると、アタシとシンジはすぐに別れる。セックスを媒介としない朝の無言の時間がどちらも怖かったのだと思う。夜に切り出した復縁の話は、朝になってからはどちらからも蒸し返す事はなかったし、そういうことが今更可能だとは思えなかった。ただ、身体だけのか細い糸のような繋がりをアタシはシンジとの間に残そうとしていた。
そうこうしているうち、一週間に一回はお互いを呼び出す慣習が定着し始めた。呼び出すのは概ね交互だ。お互いの部屋に行くのも気持ちがしんどくなってきて、ラブホテルではない普通のホテルを常宿にする事に決めた。ラブホテルは嫌だった。あの日一回だけ使ったが、その事が頭に焼き付いているし、身体だけの関係になっても、身体だけが目的にはしたくないし、されたくなかった。
そして、その普通のホテルに泊まる時だけ、アタシとシンジは宿帳の上で碇夫妻になった。アタシがずっと夢見ていたゴールは周囲を欺く皮肉な嘘として実現した。無論、ホテルの人間も夫婦だなんてこれっぽっちも信じてはいないだろう。
獣のように毎週のセックスの場を求める訳ありのカップル。アタシは夫婦の名前でサインするとき、何度も心の中で静かに泣いた。だって、シンジの裏切りさえ無ければ、今頃は本当にそうなっていた。日陰者の愛人のように妻という嘘とアイツの名字を書く手が毎回震えた。それが悔しくて切なくて、でもまだ身体の繋がりがあることに希望を繋いだ。シンジはけっきょく、アタシを愛してるわけじゃなくて、単にアイツを愛してくれるのがアタシだけだからアタシを求めるだけだ。でも、それだって、愛ではない、だなんて誰に言える?だから、まだ、希望は喪われていないとアタシは信じているのだ。
それに、二人には十年後の約束がある。そこが本当の期限切れだ。それまでは希望にすがり続けていい。アレは本当は、シンジに与えた希望ではなく、自分自身に与えた希望だったのだ。
さっきベッドサイドのテーブルで、シンジにアタシは例の夢を語って聞かせた。
─なるべく大きな、庭付きの家に住む。子供は男女の一人ずつ。子供の情操のために大型犬を飼う。出来ればお手伝いさんも。アタシはやっぱり家事が苦手だから。
そんな、夢を語った。夢を一緒に叶えたい相手で、その夢を壊してしまったシンジにだけは語っておきたかったのだ。そうしないともう前に進めない気がしていた。
「けっきょく、見果てぬ夢だったわね」
「……アスカ、ごめん。でも素敵な夢だと思った。僕も素直にその夢に乗れれば良かった。僕が全部壊してしまった」
「ありがとう。でも所詮はアタシの一方的な押し付けだったんだ。一人で勝手に見た夢が勝手に消えただけなんだよ」
だからもう気にしないでいいよ、と言うと、シンジはアタシを抱きしめてくれた。シンジの背中が震えている。シンジは泣いていた。アタシは、シンジが可哀想になって、ポンポンと背中を叩いてやった。
「もう、どうしてアンタが泣くのよ……夢が叶わなかったのはアタシなのよ」
「でも、僕だって、泣いてもいいだろ……」
「まあ、夢ではアタシの旦那様になるはずだったんだもんね。よしよし。残念だったね……」
先に子供のように泣きじゃくられては、もうアタシが泣くことも出来ない。─本当にズルいなあ、シンジは。
でも、こうやってシンジを慰めてやっていると、まるで恋に破れたのはシンジの方だけみたいに錯覚できて、アタシは少しだけ落ち着くのだ。本当は恋に破れたのは二人ともなのに。散々に恋に敗れ、こうやって、身体だけの関係という塹壕にかろうじて撤退して、二人ともまだ負けてない、と強がっているだけなのに。アタシたち、もうこれで、何度目の失恋なんだろう。
広い世の中にはこんな風に互いの互いへの失恋を慰めてやっているカップルも居るのだろうか……?
アタシはシンジのゴワゴワする髪を撫でながら、そろそろ散髪に行きなさいねと言ってから、呟いた。
「……思うんだけど、アンタが、アタシとの人生の重要な選択肢で全部間違えるのは本当にすごいわ……もう一種の才能ね」
初めてキスした日の、キス前後の反応。
サードインパクトに至る、アタシに取った態度と行動。取らなかった態度と行動。ま、アタシは首を絞められたり散々な目に遭った。何とその日に初セックスよ?
高校生になって初めての別れ。松代行きを告げた日の、別れるまでの行動と別れた後の音信不通(無視すんな!)
松代で再会した時の、アタシとの約束の不履行。 そして大学での同棲関係を解消するに至るシンジの欺瞞と裏切り。
でもそれだったら選択ごとに分岐した別の平行世界では、選択肢に全問正解し続けているシンジとアタシもあるのだろうか。
「……んなの、シンジとアタシらしくないか」
そんなアタシの興味深い筈の話をろくに聞きもせず、アタシの胸をただ涙で濡らしているシンジ。
─弱いくせに見栄を張る
─相手の話を聞かない
─女の欲しいものが何一つ分からない
どうやっても、アタシと幸せになれない才能。シンジがもって生まれた星がそれならば、そんなシンジと出逢ってしまったアタシの恋愛の才能もきっと、ひどいものに違いない。
シンジのぐずり泣きのような涙がようやく収まったので、アタシは、なるべく優しく声を掛ける。
「もう、寝ようか……シンジ」
「アスカ……」
「今晩は、アタシたちは碇夫妻なんだからね……することはしないと」
シンジの顎を撫でてダブルベッドに誘い、宿帳の偽名のことを示唆し、冗談めかして、宿泊の本来目的を思い出させる。今夜はアタシがシンジとセックスをしたいと、彼を呼び出したのだ。
けっきょく、そんな事ばかりしてしまうから幸せになれないのかも。アハハと乾いた笑いが出てしまう。アタシもベッドに上がり、シーツを被ったらシンジのように泣いてしまいそうだ。だって、シンジの前ではもう泣きたくないと必死に我慢をし続けているのだから。
◆
新生ネルフは旧ネルフと同じく第三新東京市(箱根)に出来たばかりの若々しい組織で、管理職として中途採用枠、もしくは転籍や出向で着任した一部を除けば、みんなが同期だから風通しはいい組織だ。
昼休み、同じ作戦部に属する女子職員同士で連れ立って職員食堂に向かう。広々とした明るいカフェテリアを見渡して、隣に並んでいた女子があたしの脇腹を肘で軽くつつく。
「アスカ、ほら……碇クン、いるよ」
「……うん」
どういうわけか、女子たちはアタシを中心にグループを作るのが好きなようで、社交性が無いわけでもないけど、アタシは少し取り巻かれることに疲れる。
その事について前にマリに相談したら、マリはこう言うのだ。
「みんな姫の事が好きなんだよ。女子は綺麗なものが好きだからね」
「……男子はどうなんだろ」
アタシが男子というとき、気にしてるのは一人しかいない。
「もちろん、男子も綺麗なものが好きだよ」
「でも、アイツは昔から面食いじゃないよ」
「ん、姫とずっと付き合って来たんだから面食いなんじゃないのかにゃ?」
「アイツはアタシの顔を褒めてくれたりはしない」
「それは心にも惚れてるからだよ、きっと」
「アタシは、そこが一番自信ない。昔から男子には、性格ブスとか攻撃されてきたし」
「でも、わんこ君はそんな事、言ったことないでしょ?」
「うん……」
「人間が相手の価値や良さに気付けるかどうかも、その人の才能だよ。頭の良さとかそういうのより、もしかしたら、人としてずっと大切なことかも知れない」
あんな同棲の解消の仕方をしたというのに、アタシはマリがシンジの良いところを教えてくれるだけで胸が暖かくなる。そう、アイツは全部が全部酷い男ではない。アイツなりにアタシの事を考えてくれている。優しい男なのだ。ただ、それが何から何までアイツの中で自己完結しているから、結論が出鱈目なだけで。
最近の彼女たち─アタシのお節介だけど優しい同僚たち─は、昼食時にアタシの代わりにシンジを見つけるというのを率先してやってくれていて、多分それは一風変わったゲーム感覚なんだろうけど、アタシが苦しい恋をしているのを同情混じりに理解してくれているようだ。昔だったら、こんな同情ははねつけていたかもしれない。同情されるのは、自分が弱くてバカにされているのだと勘違いしていたから。でもそうじゃない。同情というのは共感で、あなたの事をとても心配していますという意味だから。
飛び級の時にはまともに会話する級友も居なかった。入り直した中学の時は洞木ヒカリ以外には本物の友達は作れなかった。サードを経た高校の時にはシンジ以外のクラスメート全員に牙を剥いた。大学の時には、表面的に取り繕う事ばかり上手くなって、内面的な事を理解してくれる友達は数人しか作れなかった。そういう紆余曲折を経て、アタシは、少し女性として人間として成長している実感がある。
シンジとは中学二年生の時に結ばれて以来、数え切れないほどエッチをしてきた。今は二十三だから、もう十年にもなる。アタシは、一々その回数や内容のあれこれを手帳に付けていて、その事をいつか友達に話したら、なぜかドン引きされた。
「えっ、チェックは普通でしょう?」
「初体験からずっと全部ってのは珍しいかもね……途中で面倒になったりしないの?」
「うん……大切なことだから。後から読み返すと幸せな気分にもなれる……」
「まあ、アスカは碇クンとしかしたことないから、想いが重いのかもね」
「重いと引かれるのかな……」
「軽いよりは、男の子は嬉しいと思うけどね」
でも、その重い想いが、アタシたちの関係にどう作用しているのかはよくわからない。先行する身体の関係にいつも気持ちが追い付かないのだ。
女子たちが教えてくれた通り、黒い制服の前を開いたシンジが窓際の席に独りでポツンと座り、食欲も無さそうにうどんをつついている。とても寂しそうな目をしている。アタシとの仲が上手くいかないせい、と思うのは自惚れだろうか。
女子はアタシも含め、皆、昔マヤたちが着ていたような、一般女子職員用のベージュの制服に身を包んでいる。男子も殆どが同じベージュの制服だが、シンジが今着ているような、碇ゲンドウや加持リョウジが着ていたのと同じデザインの黒の制服もある。管理職や幹部候補用の男子制服だ。
アタシとシンジが旧エヴァンゲリオンのパイロットで、そういう仲だということを知っている同僚は男女問わず多いが、別にそれを表立って非難するものも居ない。シンジを人殺しと罵る者も居ない。そんな人間は元々ネルフを志望しないし、居たとしてもその特殊な思想的傾向が採用時のセキュリティチェックで跳ねられているのだろう。
むしろシンジは採用早々に、司令部付特別監察官付監察官補佐という役職付きになり、今は米軍や戦略自衛隊からの出向者で短期間ずつ盥回しにされているネルフ司令に代わり、いずれ未来の司令官就任が内々に約束されていると周囲にも漏れ聞こえる、ある種の王子様扱いだ。シンジや碇ゲンドウの世間での取り扱いの酷さを考えると、そのミーハーな観察のされ方にはもの凄く違和感があるけれど。アイツは多分そんな扱いは嫌がる。
いや、一人だけシンジを公然と批判してきた人間がこの場所に居る。アタシたちと同期で入所した北上ミドリだ。その北上が、今、シンジの席の横にトレイを置いた。シンジに何やら話し掛けている。世間話のようだが、普通に話が出来ている。北上だけでなくシンジからも話をしている。それは少しだけ胸がチクリとするが、シンジにとってはいい傾向なのだと思う。しかしなぜ北上がネルフに入ったのかは分からない。シンジが彼女を推薦したのだという話も聞いた。その話にはもっと胸が苦しくなる。
「姫、行っておいで」
一緒にいた真希波マリがアタシの背中を押す。彼女は大学の時からの同級生で、アタシにくっ付くように同じタイミングでネルフに入った。新しいネルフの情報をなぜ知っていたのか。疑問は多々ある。謎の多い女だ。常にアタシを気にかけて呉れているようでもある。
「ちゃんと王子と毎日話をしておいで。話さないと駄目だよ」
「うん」
王子というのは皆が騒ぐような次期司令云々とは関係なく、アタシを姫と呼ぶから王子と合わせているだけで、マリのその呼び方にはイヤな気分はしなかった。アタシはマリの言葉に少しだけ勇気を得て、シンジと北上の方に足を踏み出す。
北上はすぐに近付いてくるアタシに気付く。ポンポンとシンジの肩を叩いて、何事かを話して、それからトレイを持ち上げる。まだランチには手をつけてもいない。
北上がアタシの顔を正面から見据える。アタシを挑発したり、嘲笑したりはしない。ちょっかいをかけた男子の彼女に遭って気まずいといった感じでもない。アタシに向かって、真剣な顔をして頷くと立ち上がった。まるで「今引き継ぐね、よろしく惣流さん」と無言で告げているようだ。北上がシンジの事をまじめに気に掛けてくれているのが分かる。あんなに憎んでいた相手なのに。家族の仇だったのに。それがアタシには泣き出したくなる。シンジに良かったね、ちゃんと分かって貰えて、と声を掛けたくなるような気持ちと、アタシとシンジの関係に他の誰も踏み入れさせたくない気持ちと、北上の気持ちがそういう気持ちではないとちゃんと理解しているのに、浅ましく嫉妬してしまう自分の幼さに。北上は遠くの席に離れ、別の同僚を見つけて、彼女のそばに腰掛ける。
「……久しぶり、アスカ」
「ほほぅ。あんたにとっては五時間ぶりというのはお久しぶり、なんだ」
逢えると嬉しいのに、すぐに嫌みが出てしまう。今のシンジの顔を見ると、弱気で内省的な自分が引っ込み、攻撃的で他罰的な自分が顔を出す。
目の前の男、碇シンジと、アタシ、惣流・アスカ・ラングレーはゆうべホテルに泊まり、朝の七時まで床を共にしていた。今は昼時だからそういう計算になる。
シンジは相変わらず、アタシと目を合わせようとしない。同棲清算の前後から、アタシの顔をちゃんと見なくなった。
「その……みんなの前で話すのは久しぶりだから、その言い方の方がいいのかなって」
「はん、まるであたしは隠したい汚点か」
「違うよ。アスカの方が隠したいんじゃないかと思って……」
「それならこんな所で話しかけたりしない」
「ごめん……そうだよね」
憎まれ口を叩きたい訳じゃない。シンジにもっと優しく接してあげたい。でもアタシを切り捨てようとしたシンジに優しくしてあげることが、シンジにしがみつく媚びのように惨めに思えて、優しくはできない。シンジにすがりつくには酒の力が必要だ。素面ではもう甘えられない。あるいは酒の代わりに、ベッドとシーツの助けが。
アタシは相手の許可を取ることもなく、シンジの席の前にランチのトレイを置いて座った。
「アタシと寝た翌日ぐらい、辛気臭い顔はやめて、もっと嬉しそうな顔をすればいい」
「……そうだね。でもアスカだってそんな顔してないよ」
その指摘にアタシは、憮然とする。確かに端から見たら、鏡に写したように揃って暗い顔をした男女が座っているように見えるだろう。だからテーブルは他に席が空いているのに、遠巻きに見守るようにして、誰も座ろうとはしない。
「そういえば、アタシたち、
シンジは無言で首を横に振る。親しい同僚が殆どいないから、そんな情報は知らないのだろう。アタシは、親切に教えてあげる。だって、今でもアタシはシンジの親友なのだから。
「毎週別れ話してるカップル」
シンジが少しだけ口の端を緩めた。
「みんなよく見てるんだね」
「……でも少なくとも女子はアタシの味方をしてくれる」
「つまり、僕の敵ってこと?」
「バカ。アタシたちの応援をしてくれてるってことよ。アンタとアタシは仇同士じゃないんだから」
「そう……」
「みんな一文の得にもならない他人のことでも、応援してくれてる。世の中、捨てたもんじゃない。みんなが、世界が、アタシたちの敵な訳じゃないよ」
シンジは少しだけ、顔を上げた。何かに思い当たったような顔だ。
「で、北上のやつ……何だって?」
遠くに座り直した北上をちらっと見て、シンジに尋ねる。
「え……うん。『ほら、惣流さんが来るよ。頑張れ、ブンギっち』、って。それだけだよ」
そんなセリフ、ズルい。まるで北上に嫉妬する自分が子供のように思えてしまう。でも、北上はいい奴だ。最近ではアタシに食ってかかるような事もなくなった。
つまりは、アタシの周りの女子のように、北上はシンジの味方をしてくれているということで。そして、それは別にアタシの敵という事ではない。そう考えると少しだけ安心する。シンジの傍でシンジを応援してくれる人間がいるのは嬉しい。だってアイツの周りには今、誰もいないのだから。アタシがいなくなって、もう誰もいないのだから。でも、アタシの味方は同性だが、シンジの味方は異性なのだ。馴れ馴れしい呼び方も正直、気に入らない。
「何なのよ、そのブンギっちって」
「ロクブンギっちを略してるんだと思う」
「アンタ、とっくに碇に復姓してるでしょう」
周囲に碇シンジだと露見しないように大学時代は、父ゲンドウの旧姓である六分儀を名乗っていた。しかし、このネルフでは彼やアタシの旧エヴァパイロットとしての前歴や、彼と父である前司令碇ゲンドウとの関係を知らないものは居ない。今なおゲンドウを非難する人間はここにも多いだろうが、シンジが最終的に彼と道を違えた事はここではちゃんと知られている。シンジは安心して碇シンジのままで居られる。
「まあ、学生時代からの知り合いだから、ある種の癖なんだろう……ね」
「そもそもあいつ、親や家族の仇とアンタを憎んでたんじゃないの?なんでそんなに急に仲良くなったのよ。……まさか、あいつと寝たの?」
北上はそういう奴じゃない。そんな事があるはずがない。理性では分かってはいるけれど、一度、シンジとの間の信頼が破壊された以上、言葉に出して確かめない訳にはいかない。シンジにはいちいち確認し、いちいち否定してもらわないと、アタシの心がもう保たない。
周囲と十分に離れていることを確認して、シンジは暗い声で呟いた。
「……そんな訳ないだろ。第一、僕からは女を抱けないのは、アスカもよく知ってるじゃないか……」
「そう言われればそうだったわね……」
アタシが肯定すると、シンジは自嘲するように俯いた。
「うん……」
アタシはシンジの手の上にそっと自分の手を重ねようとするが、シンジはそれに気付いてか、そっと手を引く。
「ごめん、慰められたくない。男らしくないから」
「ダメよ」
アタシは強引にシンジの手の上に自分の手を重ねる。
「別に、そういう事には甘えてもいいの。その方がきっと早く治るから」
といったが、シンジは首を左右に振る。
「……どうせもう無理だよ。きっとアスカを裏切ろうとしたから罰が当たったんだ。一生このままかもしれないよ」
「……シンジ」
シンジの症状は、同棲解消の騒動と前後して、結局また逆戻りし、今ではアタシからでないとほぼ交われない状況が続いている。シンジには気にするなと言い続けているし、元々はアタシの罪なのだが、本音を言えば、アタシからするのが愉しい訳ではない。アタシはシンジの母親でも姉でもない。いや、母親や姉はそういう事はしないけど。要するに、アタシはとにかくシンジをリードし続ける事に疲れていた。
普通にシンジに抱いてもらって、受け身のセックスという女の平凡な安逸に逃げ込みたかった。でも実際には自分がシンジの逃げ場になっているという皮肉。だから、嘆息しかないのだが、浮気が出来ないという意味では、良いことでもある。アタシは胸を撫で下ろす。シンジがちゃんとした一人前の男でなくて良かった、と酷いことまで思ってしまう。
「……北上さんとはね、ちゃんと話をしたんだ。北上さんの寂しさが分かった。僕への怒りも。理解してあげられたんじゃないかと思うのは傲慢だろうけど、友達になれたんだと思う」
「アタシはアンタに異性の友達なんか出来て欲しくなかった。そこはアタシだけの席であって欲しかった」
アタシはシンジの人間関係の広がりを素直に喜んであげられない。あんなにもシンジに愛情を注ぎ込んできた自分とシンジの仲が破綻しつつあるのに、シンジをなじってきただけの北上がシンジと友人になるのは理不尽だ、という気持ちがいくら抑えようとしても心の奥深くから湧き上がってくる。
「アスカは親友だから。友達とはまた違う」
そう言いつつも、シンジは目を伏せて、あたしを見ないようにしながら話をする。アタシとシンジはいつも傷付けあう関係。身体で繋がれば、束の間、優しさが得られる。だけど、今は─身体で繋がれない昼間は─シンジはアタシを恐れる。
「男とか女とか、そういう事を離れて、みんなが仲良くなれればいい。僕には無理だろうけど、それでもそういうのは良い、と思う……」
シンジは自分のコミュニケーション能力をそう見限るが、本当はシンジにも無理ではない。むしろ、ちゃんとしていれば、
「アタシはアンタと別の性別に生まれて良かったと思ってる。ずっとそこにこだわっている」
「アスカが男だったら、僕はアスカの事、苦手だったろうな……」
シンジの発言を無神経だとは思わなかった。アタシとシンジの間には確かに溝がある。本質的な所ではたぶん相容れない。それは多分同性だとしたら嫌ったり、距離を置いたり、憎み合うだけの関係になるのかも知れない。だけど、幸か不幸かシンジとアタシは同性ではない。異性の場合は噛み合わないやり取り、合わない性格、ちぐはぐな反応が、身体の関係を通して、寄り添える時がある、とアタシは思う。
けっきょくはアタシとシンジの関係の起点にはいつも肉体がある。それはキスだったり、セックスだったり。それを無視して成り立たない気はする。
それに、アタシには性欲とか淫蕩とかは別の次元で、男を求める気持ちが強いという自覚がある。
こんなに男としては弱いシンジでさえ、アタシよりは強い。その事に苛々する自分とホッとする自分がいて、シンジにもっと強くなって欲しい自分と、シンジが弱いままでいいと思う自分もいる。シンジと自分が弱いまま、弱さを互いに舐め合って生きていくのが一番幸せなのでは?と思ったりもする。
「弱きもの、汝の名は女」というのは、ハムレットが母をなじって独白する言葉だ。父が亡くなってまだ二月にもならぬのにその弟に再嫁する母の身持ちの悪さ、女の弱さを許せないという話だが、アタシには何となくその母ガートルードの気持ちが分かるのだ。夫に依存するようにありったけの愛を注いできた女が、突然その夫が居なくなった時にどうするのか。
ガキのように母を求めるだけのハムレットには分かるまいが、女にとって孤閨を守るというのは口でいうほど簡単ではないだろう。つまらぬ男でもいい。本当はセックスが欲しいわけではない。夫に代わる男がもはやこの世の何処にも居ない以上、誰でもよい誰かに抱きしめられ、守られ、寂しさを満たしてもらえれば……、というのが彼女の本当の心境ではなかったか。
だから、あの日のシンジの「自分を棄てて、自分から卒業しろ」というのは、アタシにとっては、ガートルード的な女の弱さの強要に思えて、すごくしんどかった。自分の隠している弱さを見透かされてるようで、知らず怒りがこみ上げてきた。
そして、アタシが碇ゲンドウの人類補完計画を非難したとき、あえて、シンジには言わなかったことがある。それはもしかしたら多少シンジを傷付けるかもしれない事だからあえて省いた。他人、とりわけ好きな人に知られたくない本音には、軽い浮気心のような感覚もあること。といってもそんなに重大な話じゃない。道で通りすがった男子をちょっとだけカッコいいと感じたり、テレビで男性アイドルや美形俳優にキャーキャー言ったり、まあ、その程度の他愛のない話だ。でも、本当はアタシがそこまで気を遣うのではなく、シンジには、そういうものにまで怯えたり、苛々したり、自信を喪失するような弱い自分を克服して欲しいのだ。アタシにとって特別なのは中学二年生のあの日からずっとシンジだけなのだから。
アタシがあんな破綻の後でも、なおもシンジにこだわり、端から見れば一途に見えるのは、別に世にいる男性の中で、最初からシンジしか見えないのではなく、意図して選別して、シンジ以外の男性を選択肢から排除しているから。ひとたび自分が選んだ相手だから、その自分の選択に誇りを持ち、相手に誠意を尽くしている。そういう能動的選択の結果として女の「一途」があるんだと、シンジたち─男はちゃんと理解してくれているのだろうか?最初から他の男が眼中にないのなら、「一途」はただの女の自然な心の動きのままで褒め称えられる要素は何もない。パンが好きなのでパンだけ食べ続けるみたいな話だ。だからそうではなく、ガートルードの弱さを乗り越えて、一途でいようとし続ける女の努力が尊いのではないか。その事を理解してくれたのなら、シンジも少しは自信を持ってくれるのだろうか?いや、それとも余計に不安に思うのだろうか?
「うどん、伸びるわよ」
「あ、うん……」
シンジの表情が、アタシが話し掛けるよりも幾分穏やかになっていて、マシな顔に見えた。アタシは、それでホッとする。それだけで、そのささやかな見返りだけで、アタシは充たされる。少しシンジに優しくなれる。
「やっぱりアタシが話し掛けてやると、元気出るんじゃん。シンジは、アタシの事が好き過ぎなんだね」
「うん、僕はアスカが好きなんだ……」
「でも素直になれないから損をしてばかり。逃がした魚は大きいわね」
うふふと笑ってやると、シンジも寂しそうに笑うから、アタシはもう一度、シンジの手の上にアタシの手を重ねてやった。そして、高校生だった時の懐かしい「恋愛相談」を思い出しながら、こう言ってやるのだ。
「頑張れシンジ。気になる女の子が目の前にいるんでしょ!」
「うん……」
ま、それでシンジがアタシに対して何かのアクションを起こした訳ではない。気恥ずかしそうに頷いて、それでその場はおしまいだ。
アタシたちの壊れた関係がそんなに簡単に修復できる訳じゃない。相手はまして、シンジなのだ。千回アタシと寝たって、アタシの気持ちにたどり着けない可哀想な男の子。
─それでも、アタシの友達の女子たちや、北上ミドリまでもが、アタシたちの応援団になってくれているのに、シンジの親友のアタシが、シンジの恋の応援をしないのはおかしいものね。