大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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二話 ずっと恋人だと思ってた

 

 シンジは、あれから毎晩のように寝台の上で、嗚咽している。

 

 ホテルのいつもの部屋で、一回だけアスカをおざなりに抱いた後、すぐにアスカに向けた裸の背中が、めっきり痩せて見えた。事後に背を向けるのは、シンジが後ろめたい気持ちでいる時なので、アスカはさして気にしない。

 

「もう一回したいなら良いわよ。それであんたの気が済むなら」

 

と水を向けるが、返事もないことに、アスカは少し傷つけられる。

 

(他人のことを考える余裕なんか、これっぽっちもない奴だからね)

 

 それでも、アスカはこの二十年間と同じ様に、シンジのことを多少は気にかけてやる。

 

「ご飯……まだあんまり食べれないの?」

「うん……」

 

 アスカはシーツの中、シンジの背中にそっと手を伸ばして、トントンと背中を叩く。

 

「無理してでも食べないとダメよ」

「……っく……」

 

 耳を澄ますと、シンジはしゃくりあげている。

 

「まだあの子のこと、吹っ切れないの?」

 

 そもそも人の死に吹っ切るという言い方がおかしいか。それに関しては、表面的には「吹っ切れている」自分の方が何処かおかしいのかも知れない。あの子の事はアタシにとってやっぱり重荷だった。それ故にか、アタシはあの子の死に対して比較的冷静でいられている。冷酷でいられている。むごい話だ。それについてはシンジの反応の方が人として、正しいのかも知れない。

 

「それとも、こないだの夜の事を気にしてるの?」

「違う……」

「うそおっしゃい。あれからずっと変じゃないの」

 

 別れ話を切り出してシンジを置き去りにした夜、アスカが結局朝まで待てず、思い直して電話口で復縁を告げたとき、シンジは男の癖に泣きじゃくっていた。

 

(どうせコイツは、アタシの事でなんて泣けないと思ってたんだけど)

 

 それが流石に情けなさ過ぎて、いっそ復縁を取り消そうと思ったほどだが、あんまり泣くものでアスカも可哀想になって、ホテルの部屋に戻ってしまった。 

 ほだされたというのもあるし、自分に捨てられた事で感情をここまで剥き出しにしたシンジに、心が揺れたのも事実だった。

 

(やっぱりアタシのこと、好きってこと?)

 

 いや、そうではないだろう。シンジはいつもアスカに甘えていた。本当はアスカに母親のようになってほしいのだ。母親に捨てられると思ったから子供のような泣き方をしているのだ。

 

(ああ、胸糞悪いっ……)

 

 理性はそう告げるが、一片の感情が、シンジからの愛情を期待してしまう。みっともない執着や情けない依存を愛情と錯覚してしまう。二十年間、アスカはそれを待っていたのだ。今さら簡単には諦められない。

 

 だからその夜は、朝までベッドの上で、謝り続けるシンジを抱きながら、

 

「わかった、もう、わかったから。アタシも言い過ぎたわ」

 

となだめすかして、ようやく泣き止ませたのだ。

 セックスは求められなかったし、求めなかった。

どうせ身体をいくら繋げても、二人の間に想いが通い合うことはないのだ。

 

(やっぱり子供なのよ、いくつになっても)

 

 そんな様子は今晩も同じだった。

 

「あの別れ話はもう止めたといったでしょ。いい加減、忘れなさいよ。別にアタシが他の男と寝たとか、そういう話じゃないでしょ」

「……ううっ……っ……」

 

 シンジはなぜ泣いているのだろう。やはりあの子の死と、アタシからの別れ話が、ダブルパンチになって、耐え難い痛みを与えているのだろうか。元はといえば、その話は結局一つの話だ。あの子が現れて、そしてアタシたちの間に消えがたい思い出と傷痕を遺した。あるいは、それがあの子の生まれてきた証だったと言えるのかも知れない。

 

 しかし、ならばせめて、そばに寝ているアスカが去っていくと不安なら抱きしめればいい。それなのにシンジはそうせず、一人で泣いている。もうアタシを抱きしめてもくれないのか。それともそんなにも自分に自信が持てないのか。

 

「アレから毎日来てやって、ほとんど毎晩一緒に寝ているのに、それでも、不安なのよね。でもアタシが何を言ったって、アンタ、信じることは出来ないんでしょ」

 

(いつもの事だけど、メンタル弱すぎなのよ……)

 

 しかし、捨てられる可能性をひとたび言葉にされてしまっては、シンジにはその未来の可能性に怯えないことは不可能だった。ずっと前からシンジはアスカが去っていく事が不安だった。自分はアスカに対して許されない事を沢山したのだから、アスカに愛される資格はないと思っている。いつでもアスカに捨てられると思っている。それが今、現実になりつつあるように思えていた。そしていざ現実になろうとすると、自分はアスカに棄てられて当然だと思っていたのに、涙がどうしようもなく溢れてくるのだった。

 

「……ごめ……ん…………ごめんよ……」

「別に謝ることはないわよ。アンタが自分で苦しんでるだけだからね。アタシには関係ないわ。ただ、どうしようもなく哀れで、気の毒な人生だなと思ってるだけ」

 

 アスカは背中に当てていた手を、シンジの髪にやって、少し弄くる。ごわごわとした、自分のものとは異なる髪の感触が少し愛おしい。

 

 他人を信じることが出来ないのはそれでもいい。でもアスカを他人だとは思ってほしくなかった。だから身体を何度も重ねたのだ。だけど、シンジは少しも変わらない。

 

「……本当は僕じゃない人と、幸せになりたい……んでしょ」

 

 しばらくの沈黙の後、初めてまとまった言葉を発した。想像を言語化するのが嫌で堪らなく、苦痛に満ちた、しかし、否定してもらいたがっているのが見え見えの情けない問いだ。

 

(そりゃアンタが幸せにしてくれないからでしょ。アホか……)

 

 しかし、その別れ話ももう諦めたのだ。だから問題はないだろうに。

 

「そんなの今さら無理だと思ったから、こうやってアンタのところに日参してるのよ。少しでもあんたがアタシの幸せの足を引っ張らないように、マシな男でいるように、監視と教育を兼ねてね」

「僕は……アスカの足を引っ張るに決まってる。アスカを不幸にするんだ、でも……」

 

 シンジがアスカの事を考えて行動しようとしても、思いはいつも空回り、アスカの望んでない結論ばかりを導き出してくる。強がりと勘違いだらけでアスカの本当の想いにはちっとも向き合おうとしない。

 そもそもこうやって捨てられると泣いているが、昔はコイツから別れ話を切り出した事もあったのだ。その別れ話を受け入れながら、未練を断ち切れなかった二人は、こうした身体だけの関係に逃げ込んだのだ。だから結局は何もかもシンジの自業自得じゃないか。

 そうして、想いがすれ違い過ぎて、二人の終局の形も見えなくなり、近頃ではもう漫然と定期的にアスカを呼び出し、甘え、抱いて、寝るだけだ。そして、あの子がやって来て以来、新生ネルフの司令としての任務とその罪深さに懊悩するシンジは、アスカの身体を、アスカとの交わりを、逃げ道にしていた。アスカはそれを苛々しながらも、なんとか受け止めてきたのだ。

 アスカはだからもうコイツに期待するのはやめた。

 

「あー、ハイハイ。もう、そういうのいいから。アタシも別に生活には困ってないし、ネルフの司令のアンタとの関係も上手に利用させてもらうわよ。だからお互いに寂しい時、セックスをしたいときに呼べばいい。うまく利用してやってきましょ、セフレなんだから」

 

 そう言って、後ろから裸のシンジの肩を抱いてやる。痩せ細ってはいるが、それでも三十を越えた男の肩だ、昔のシンジや自分の身体とは違って、それなりに逞しい。その事だけが、アスカを少しホッとさせる。しかし、シンジは肩をピクリとひきつらせた。

 

「セフレ……って何?」

「へ。いや、セックスフレンド、アタシたちの関係のことよ」

「……」

 

 シンジはベッドの上で振り向いて、怪訝な顔をアスカに向けている。アスカは肩を抱いていた手を離した。

 

「セックスフレンドって、そんな言い方、流石に酷いよ……身体だけの関係になったって、僕らの間には想いがあるんだって信じてきたのに!僕はもう、アスカとは結ばれないかもしれない。あんな風にアスカを裏切ったんだから、もうそんな資格はないのかも知れないけど、それでもまたアスカは優しくしてくれた。だから、また、前のような関係に少しは戻れたって……ずっと曖昧なままだけど、何とか元通り、恋人的な関係なんだって、そう思ってたのに」

 

 ……そんなのこっちの台詞じゃない。ずっと身体だけの関係に逃げ込んでいて、愛人だとかバカにされて、それでも歯を食いしばって堪えてきたんだ。今さら何が恋人だよ、恋人なら恋人として扱いようがあった筈じゃないか。結婚もしてくれないのに。シンジはアタシの欲しいものは何一つ、決してくれようとしないのに。ひどいのはどっちなのよ。

 

「そんな事言うなら、アタシたち、始まりから……好きとか告白とかそういう事、一回も無いじゃない。あの浜辺で弾みでヤッて、その後ズルズル続けてきた関係でしょ。今さら何よ……何なのよ」

 

 アタシの声に嗚咽が混じる。本当はちゃんと告白して付き合えば良かった。だけど、曖昧な身体の関係に逃げ込んで、アタシたちは「ちゃんとしようとしなかった」。だから……

 

 その二十年目の帰結がこれなのか。

 

 高校生、大学生、ネルフに入ってから、ずるずると続いてきた関係は、結局、二人のゴールインには結び付かなかった。身体の繋がりばかりを重ねて、心は何度通い合っても通じ合っても、幾たびかは確かな愛を感じていてさえも!……いつしか、どうしてもすれ違っていた。

 

「でも……だって……僕は、アスカがさせてくれるのは、今でも僕のこと好きだからなんだと思ってた。違うの?」

「い、いや、それは……」

 

 なんだこれは。ちゃんと愛してくれないのはシンジの方だ。アタシの望む結論を導き出せず、けっきょくは身体だけ求めてくるのはシンジの方だ。事が終わったら背中を向けて寝てしまうのはシンジの方だ。確かに余りにも長い間、セフレやセックスフレンドなんて品のない言葉、わざわざ口に出したことは無かったかも知れない。だけど、シンジだって、ずっとそのつもりでいた筈だ。そうではなかったのか。

 

 シンジが、血の気を失って白くなった唇をきつく噛みしめている。

 

「いくらなんでも、セフレだなんてひどいよ……僕がちゃんと一人前の男としてセックスを出来なくても、アスカは笑ったり絶対しなかった。なのに、今はそんな風に僕らのセックスを遊びみたいに言うなんて。ひどいよ……ひどいじゃないか」

 

 それとこれとは話が違う、とアスカは思った。シンジが女を上手に抱けなくなって、それでもアタシはシンジにずっと寄り添って、だから今だってそれを馬鹿にしたりはしない。だけど、どん詰まりのアタシたちの関係そのものを自嘲したくなるのはしょうがないじゃないか。どこにも行きようのないアタシたちの関係をアタシが嘆いて卑下して見せるのは、当たり前で、それをシンジが片言隻句を捉えて咎めるのは、今さら過ぎる話じゃないか。

 

「だって、デートだってろくにしたことないわよね。愛してると言ってくれることだって……アンタ、アタシにそうちゃんと言ってくれたこと、一度だってあった?無いわよね!だったら、セフレじゃない、セックスしかアタシたちの間にはないじゃない!これは単なる事実なのよ!」

 

 でもシンジはこちらの話を聞いていない。また心を閉ざしている。

 

「ごめん、僕、アスカとのこと、色々勘違いしてたみたいだ」

「……あ、あの」

「もう……帰ってくれないかな」

 

 涙を拭いながら、シンジは半身を起こす。

 

「ちょ、どうしたっていうの」

「……もうアスカとは居られない」

「はぁ?」

 

 完全に意味不明だ。さっきまでアスカに捨てられる不安に怯え泣いていたのはシンジの方だ。それなのに、なぜこんなことになっている?

 

「いい加減にしなさいよ、ガキみたいな理屈で振り回さないで」

「アスカとの間に気持ちが何もないなら、もうこんな事は出来ない」

 

 シンジは殻に閉じこもったように頑なだ。殊更に冷淡な口調を取っている。つまり、拗ねている。

 

「だから……恋人ってのはこういう事をするだけの存在じゃないじゃない。セックスはどちらかというと枝葉でしょ!……アタシだってアンタと恋人だって胸を張って言えたらどんなに良かったか。でもアンタが最初にそれを拒んだのよ!」

 

 アスカはこの身体だけ大人になった子供に、初歩から男女のことを教えてやらねばならない。だが、シンジはまともに聞いてはいなかった。いつもそうだ。正面からぶつかろうとするとシンジはいつも逃げてしまう。

 

「やっぱりひどいよ、セフレなんて言い方。だったら、僕以外ともするのっ……」

「はぁ?……ふざけんじゃないわよッ!」

 

 言ってる事の意味を理解するのに、数瞬。理解した時には思わず、手が出ていた。

 シンジの頬が、真っ赤になった。

 殴った手の方も顔をしかめたくなるほど、痛い。

 そして、それ以上に心が痛い。

 

(二十年も一緒にいて、全然信用されてないの、冗談じゃないわよッ)

 

 ハァハァと肩で荒く息をする。今までそんな事を正面から言われた事はなかったから、怒りが収まらない。

 

「……馬鹿にするんじゃないわよ、別れた後ならいざ知らず、そんな事。アンタ以外の男なんて、知りもしないわよ」

「……ごめん」

 

 シンジは平手打ちを受けて消沈しているが、実際にはアスカの否定で、少し安心したように見えた。といって、別にアスカを愛していて独占したいという訳ではないのだろう。アスカに執着するのは、自分をこの世で唯一受け入れてくれた他人が、自分以外の誰かを一番にするのが耐えられないだけなのだ。そしてそうでない事を確認する為に身勝手で無神経な質問をし、アスカは傷つき、シンジは安心する。いつもの図式だった。アスカは深く息を吐き出した。

 

「……そこまで、キツい表現だった?でも、セフレって言ってるのは、あんたがやるべきことをしないから。それから全部、逃げてるから。だからアンタと恋人だなんて思ったことは、悪いけどアタシは一度もない。それはアタシのせいじゃない。全部アンタのせいよ」

 

 そしてその剣幕に再び謝ろうとするシンジの機先を制して、

 

「どうせ何が悪いかも分かってないなら、謝らなくていい。ただ、一方的な思い込みを押し付けないで。アンタがあの日、アタシをアンタから『卒業』させようとした日から、アタシたちの恋人として可能性は終わってるのよ。今は惰性で続いてるだけじゃないの。そんな事、ちゃんと理解してると思ってたわよ」

 

 アスカはそう言いながらも、可能性は終わっていて、単なる惰性だと自ら言い切るのが悔しくてならない。本当はアスカだってそんな風に決めつけてしまいたくはない。当たり前じゃないか。そんな事を断言するために、今まで二十年も、シンジと寝てきた訳じゃない。

 

「僕はまだ望みがあるからこういう関係なんだと思ってた……アスカも僕のしたことを許してくれたと思ってた……でも、アスカは段々僕に幻滅していくって警告してたもんね……やっぱり僕は嫌われて……なら、もう、アスカのこと好きって言ったり、独占したいって思ったら駄目なんだよね……だって、恋人じゃないんだから……」

 

 シンジは頭を伏せて、寂しく言った。

 

─アタシだって、か細い望みはまだ持ってるわよ。シンジのこと、決して嫌いになったわけでもない。だけど、いつまでもいつまでも愛人のままで、シンジと一緒になれる訳でもなくて、会えば毎晩のようにこうして傷付け合う。こんなの、そろそろ我慢の限界だ。

 

 は、好きって言えなくなる、ですって?どうせ、シンジはそんな愛の告白めいた事を口にした事はない、いや、セックスの最中の睦言としてはあるのか。そう、アスカは思い当たり、鼻白んだ。そういう好き、嫌いなら勝手にすればいい。単なるセックスの上でのスパイスだ。

 

「別に、好きとか嫌いとかはすきにしなさいよ。少なくとも、アタシはこれまでアンタを裏切ったことはない。一度だって無いんだよ……」

「僕もないよ……」

 

 そう言って、ようやく幾らか元気を取り戻したのかシンジが現金にも、甘えるようにアスカの肩口に顔を寄せてくる。

 

「ちょっ……」

「僕にはアスカしかいないから……」

「んなの、わかってるっつーの。アタシ以外の誰がアンタを相手にするのよ、このネクラの甲斐性なしが」

 

 アスカは溜め息をついた。

 

(本当にこいつといると疲れる。子守と同じだ)

 

「でも、僕は本当は、アスカともっと優しい関係で居たいんだ。もうそんなの無理かも知れないけど、ちゃんとしない僕には許されない贅沢なのかも知れないけど、セフレなんてのは心が痛いよ……」

「恋人では絶対にないわよ。でも……好きだの嫌いだのありの、お互いに独占の、セックスフレンド、それでいいでしょ?」

 

 シンジはしばらく黙って考えていたが、やがて小さく頷いた。どのみち、シンジに選択肢などない。

 

「うん……いいよ……」

 

 シンジはしかしアスカと目を合わせようともせず、白い胸のあたりに視線を落としている。アスカはそっと、シンジを胸元に引き寄せ、再び背中をポンポンと叩いてやる。

 

(甘えさせるのは良くないけど、近頃のシンジは本当に壊レモノね……)

 

「じゃ、もう寝るわよ」

「あの……やっぱりもう一回してもいい…?」

「ろくすっぽ、食事もしてないのに大丈夫なの?」

「うん、アスカを抱きたいんだ」

「ふん、ご自由に。そのために来てるんだしね」

「ありがとう」

 

 やがて、シンジの前戯が始まる。

 それは確実にアスカに快感を伝えてくる。

 二人だけが知る秘めやかな歴史の積み重ねがある。

 

(身体を繋げた分だけ、心が繋がれればいいのに……)

 

 そう思ったのは今回だけではない。シンジとそういう関係になってから、アスカがずっと抱き続けている願いである。願いは初めから虚しかった。

 

(……アンタが大人になれば、アタシとアンタは世界で一番、幸せになれる。アンタがガキのままなら、一緒にいても、アタシとアンタは不幸になる。でもま、今日のところはそれでもいいわ)

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