このところ、秋の不安定な天気だった。時折、俄かな大雨に見舞われ、外に出るのが億劫になる。
地軸がサードインパクトで再び傾き、日本に戻ってきた季節が恨めしいと思える時が時折あるが、この時期も多少はそうだろう。
三十二歳になった新生ネルフ司令シンジの仕事上の懊悩は最近、深まるばかりだ。例のリモート・エントリープラグとダミーシステム2の開発がどちらも暗礁に乗り上げている。とりわけ、後者の難航は意外だった。しかし、旧ダミーシステムはゼーレから供与されたシステムで、基幹部分の情報に不開示な点があったのと、さすがに十五年以上前のシステムなので、新造されつつある再建エヴァンゲリオンの新設計思想や反応速度に合わせ込むのが難しいのだった。部下の士気に関わるような愚行でしかないので、職場で声を荒げる事こそ無いが、このほど作戦部長に昇格したアスカにはシンジが必死に抑え込んでいるストレスや苛立ちがすぐに分かる。
先日など、業務で司令室に入ると、シンジの左手が震えていて、それを右手で押さえていた。
「碇司令……その……左手、痛むの?」
呼びかけだけ上司に対するもので、残りは敬意を省いて、アスカが尋ねると
「疲れてると、雨の日に少し疼くんだ」
と微かに微笑んだ。
昔、自分で指を全部折るという無茶をした古傷が疼くのだろう。シンジがアスカを守る為の場所を確保する為に、行った無謀だった。
アスカはシンジの痛む左手に自分の手を被せ、
「痛いの痛いのとんでいけ」
とそっと囁く。
「アスカ……」
二人は、恋人でもない、夫婦でもない、今は戦友として並び立ててもいない。
「ごめんね。シンジが苦しくても痛くても、アタシ何も出来ないよ。もう、シンジのそばにいるだけになっちゃった。許してね」
アスカが今にも雨が振り出しそうな秋の空みたいな顔をしていて、シンジはそのまま俯いた。
◆
その日も雨だった。
珍しく非番の日の無聊をかこつていたアタシは、自宅マンションのドアチャイムの音に顔を上げる。
自分の服装が、だらしないとまでは言えない室内着であることを確認して、ドアモニターの映像を見ると、そこにネルフの黒い制服姿のずぶ濡れのシンジが立っていた。
慌てて、玄関に駆け出し、ドアのチェーンを外し、シンジを中に引き入れる。
「どうしたの、シンジ……」
「アスカ……アスカ……どうしよう」
びしょ濡れのシンジを、アタシは服が濡れるのも構わず抱き留めた。だって、ただ事の様子ではない。シンジは涙でグチャグチャの顔をしていた。これまでホテルではなく直接アタシの部屋を訪ねるなど殆どなかったことだ。そして、大の男なのに、シンジがこんな表情をしているのだから、絶対に良い話であるはずはなかった。
「な、何かあったの?どうしたの?」
「必要だと思って決断したんだ。でももう取り返しが付かない。また間違えちゃったかもしれない……アスカにももう嫌われる……絶対に許してもらえない……」
「だから何があったかちゃんと話しなさい。話さないと許すも許さないもないでしょ、ね?」
そう優しく説得するが、シンジは子供がむずかるように、首を左右に振るだけだ。肝心な事は、何も語れない。裏死海文書にまつわるシンジの孤独は、こんな時にもアタシたち二人の間に立ちはだかる。
「ねぇアスカ、抱かせて……前に逢ってから、一週間経ったんだからいいでしょ!もうイヤなんだ、こんな世界。アスカ……ねぇ、アスカ」
抱かせてというが、シンジはもうずいぶん前から自分からアタシを抱けていない。いつも通り、アタシが受け身のシンジを抱いてやるしかない。それは流石にシンジも言葉には出せない。実際にはベッドでは殆どアタシがリードしているのだが、それを口に出せばシンジの男の自尊心が粉々になってしまう。
そして、ここまであからさまに、自分を逃げ道として扱われた事はなかった。男らしさの欠片もない逃避に、流石にアタシも呆れてしまう。
「とにかく、シャワー浴びて。風邪引いちゃうよ」
「うん……」
風呂場にシンジを送り出した後、ホットミルクを用意してやった。
風呂上がりのシンジが居間のテーブルに付くと、マグカップをシンジの前に置く。消沈したままのシンジは手を付ける気配もない。それでも幾らかは落ち着きを取り戻したようだった。
「ごめん、アスカ……大騒ぎして。何でもないんだ。もう帰るよ」
風呂場でもさんざん泣きはらしたのだろうか、目の縁が紅くなっているが、泣くだけ泣いて自分だけスッキリしたと言われても、こちらは心のやり場がない。
「まだ雨降ってるよ。遅いから泊まっていけばいい」
「でも……もういいよ……ごめん」
勝手に一人で自己完結しているシンジがたまらなくイヤだった。アタシがここに座っている意味ってなんなの?まだしも慰めてくれとしがみついてくる方がマシだった。
「騒ぐだけ騒いで、人の生活を掻き乱して、アンタの気分が落ち着いたらとっとと帰るの?アンタが何を仕出かしたか知らないけど、それがバレたらアタシに嫌われる事なんでしょ?許して貰えないんでしょ?ってことは、アタシたち別れる事になるんだよね。もうそういうのいい加減、止めて欲しいんだけど!」
アタシはガタンと音を立て椅子を倒して立ち上がり、座っているシンジを睥睨する。
「勝手にアンタが何かやらかして、いつもいつもアタシがシンジと別れたくないって、必死にしがみついて傷付くの……酷いじゃない!……シンジと身体だけの関係になったって、何とか踏みとどまってるつもりなのに。いつか、いつか……いつかはと、そう夢見てる事だってあるのに。どうせそんなの叶いっこないって夢を今でもシンジとの逢瀬の度に夢見てるのに……どうしてアンタはいつもそうなるのよ!」
涙が溢れ出してくる。今でもずっと願っている。シンジと幸せになりたい、と。でも、現実のシンジには泣かされてばっかりだ。最近では応援してくれていた同僚の女子たちの多くにも余りの進展のなさから、もういい加減にあんな男とは別れたら?などと言われることもある。責任もとらずアスカを弄んでるだけだという子もいる。そんなに性欲旺盛でもないシンジがアタシと切れないのは遊びだからではない。もっと精神的なものだ。だけど、それは他人にはなかなか理解してもらえない。
第一、自分から女を抱けなくて、アタシがベッドでの面倒を見てやってるような男が、遊びの付き合いをする余裕などあるはずがない。シンジは自分からアタシを抱けず、アタシが抱いてやっている現状が苦痛で、時々泣きそうな顔をしている。でも、自尊心が傷付けられつつも、アタシから抱くのを拒めないのは、これがサードインパクトでの対応に対するアタシから与えられた罰だと思っているからだ。
(可哀想なシンジ……)
無論、これは高校生の時にアタシがシンジに行った卑劣な行為が原因で起こった性的障害で、シンジの責任でもなければ、シンジへの罰でもない。
それでも、シンジがアタシと素直に結ばれ、アタシを妻にしていれば、アタシは日々、夫シンジを励まし、上手く出来た夜はちゃんと「頑張ったね」と誉めてやり、上手く出来なかった夜は「気にすることないよ」と慰めてやっただろう。一つも焦ることはないんだからと優しく微笑み、万一、治らなくてもなんの問題もない、アタシの愛は少しも揺るがないと胸を叩く。きっとそれだけのことでシンジは少しずつ良くなった。現に、大学生で同棲していた頃は、そんな風に改善の兆しが見えていたのだ。
シンジの身体のことも、それ以外のことも、全てを夫婦の間に流れる優しさと時間が癒してくれた筈だった。
(シンジ自身がすべてをぶち壊しにしてしまわなければ、ね……)
目の前にある幸福を拒絶し、他者であるアタシに怯え、シンジが全てを台無しにしてしまったことをアタシは今でも悔しく思っている。だが、全てはもはや詮無い事だ。
シンジの地位が上がるにつれ、表面上、冷淡なアタシの愛人の評判はぐんぐん下がっていき、シンジを理解し、シンジを庇ってやれるのはマリやミドリのような少数の例外を除いて、またアタシだけになりつつある。でも今日みたいな日はアタシでも挫けそうになる。言葉に出すのをようやく飲み込むが、もう別れようかという選択肢さえ脳裏に浮かんでしまう。だが、アタシはそれを一瞬で打ち消す。
「別に浮気したとかそういう下らない話じゃないんでしょ?使徒か、裏死海文書絡みなんでしょ?もうそんなのどうでもいいじゃない……もう二人してネルフなんか辞めよう? ゼーレに全部、裏死海文書の内容ぶちまけて、南の島ででも一緒に暮らそうよ。あと数年で、使徒が再来寇するんだろうけど、その時まででも夫婦として幸せに暮らそうよ。フォースインパクトや人類補完計画が発動するまで僅かかも知れないけど、それでいいじゃない……」
向かいに座っているシンジに駆け寄り、その腕に取り縋る。ネルフの幹部の地位とかどうでもいい。全てを捨てて、今からでも夫婦になろう。むしろ、最初からそうするべきだったのだ。
勿論、そもそもゼーレがそんな事を許すかも分からない。実現したとしてもそれではたった数年の結婚生活になるに違いない。そして人類は滅びる。でも最期の瞬間にシンジと抱き合って、滅びの時を迎えることは出来る。隣で一緒にLCLに溶け合う事は出来る。残念ながら先の見えている世界で、子供を作るのは無理だろう。でも家と犬は無理して買ってもいい。
そんなの本当はたまらなく嫌だけど、でも世界が終わるのなら、仕方がないではないか。世界が生き残ったって、アタシとシンジが別れてしまうのなら、そんな世界の救済には何の意味もない。それにどのみち、出口の見えないシンジとの関係をこのまま続けていたら、たった数年の新婚生活でさえ、遠い、叶わぬ夢になるのだから。
「アタシたち、これはこれで充分、幸せな人生だったよ。世界がアタシたちに牙を剥いてるのに、なんとか踏ん張って、頑張った方だよ。ちゃんと身体も結ばれて、一つになれたじゃない。もしかしたら結ばれなかったり、すれ違って他の相手と……みたいな展開だって有り得た。そんな悲劇に較べればもう、ずっとずっと幸せだったよ。だから、もうそれでいいじゃない!」
言いながらシンジとの辛い思い出ばかり頭の中から引き出してしまう。それでも、シンジと引き裂かれる未来より遥かにマシだ。外野の連中はすぐにアタシとシンジが別れた方がいいと言う。つらい想いをしてまで一緒に居る事なんかない、と「大人の意見」を言うのだ。そんな事があるものか。シンジとはどんなにつらい想いをしても一緒にいるんだ。そのためだけにアタシは生きているんだ。
「それだけで良ければ、もっと早くそうしてた……僕はアスカにはずっと長く生きていて欲しい。人類にもそれまで生き残って貰わないと困る。そのための覚悟だってしている」
「アタシだって、シンジとしわくちゃのおじいちゃんおばあちゃんになるまで一緒に暮らしたかったわよ!でももうそんなの無理じゃない!しわくちゃどころか、一年後の運命だって分からない……大体、覚悟って何よ!アンタがアタシのために無茶をして、シンジがゼーレに消されるかも知れない恐怖にアタシも怯えて、挙げ句、アタシだけ生き残って何になるのよ!アンタのいない世界はアタシにはもう意味ないのよ!こんな真っ暗な世界に一人で取り残さないでよ……」
それから、アタシは顔を両手で覆って啜り泣く。
シンジと一つになりたい。幸せになりたい。一生二人で添い遂げたい。それはそんなにも贅沢な望みなのだろうか。世界が必死になって否定しなくてはいけない望みなのだろうか。
「……アスカ。僕もどうしていいか分からないんだ。今日ここに来たのだって、アスカに逃げたかったんだ。アスカを抱いて逃げたかった。ううん、アスカに抱かれて逃げたかったんだ……男として、もう終わってるんだよ。情けなさすぎて、イヤになる」
「アタシだって逃げ場になんかなりたくないわよ、当たり前じゃないの。でも、アンタが抱くか、アタシが抱くかなんてそんなのは本質じゃない。そんなものは単なる男の沽券というやつでしょ」
アタシがシンジに抱かれるか、アタシがシンジを抱くか。それはもう本当にどうでもいい。
アタシがイヤなのは、そんな事ではなくって。
だって、アンタ、アタシを逃げ場にしてるとき、もうアタシの顔を見ないんだもの。アタシの女の匂いに甘えて、アタシの濡れた部分に包まれて、それで脱力したいだけ。アタシの名前を呼ぶ荒い吐息にだけ、アタシはシンジの女なんだっていう自尊心を感じようと努力するのは、いつも気持ちが苦しいし、つらいんだよ。名前を呼んでくれてる、だから必要とされてるんだ、そう、必死で思い込むには、シンジのやってることは、何もかもつらすぎる。
アタシはシンジにずっと二人で負担を分かち合おうって言ってきた。結婚だって、裏死海文書だって、なんだってそう。シンジは、それをずっとずっと拒否しておいてきて、キャパを超えるとその時だけ、アタシに逃げるの……。そういうの、やっぱり、弱虫だし、ズルいんだよ。最初から頼ってくれないのはアタシを信じてないからなの?最後にアタシに逃げるのは、アタシの身体が気持ちいいからなの?これじゃ、アタシ、自分で自分の価値が分からなくなってくる。アタシはシンジをただ甘やかす為に生きてるんじゃない。……だけど。
「でも、アンタがしでかした事で、アタシたちがもう終わるなら……今日が最後になるなら、今晩は帰さない。アタシを逃げ場にしたければすればいい。どうせもう恋人にも夫婦にもなれない。秘密を分かち合う戦友にさえなれないんだから、もうどうでもいいわよ。アタシの居場所なんてもう何処にもない。はけ口にでも何でもすればいいじゃない。無敵のシンジ様に抱いてもらえるだけで、哀れな
アタシはそう自嘲する。
「そんな言い方……」
「あら、アタシの言い方がひどい?でも、アンタがやってる事の方がよっぽどひどいのよ。本当にシンジはバカなのね……」
そうして、アタシはポロポロと涙を零す。今晩は何回泣けばいいのだ。そして、この涙は何だろう。シンジとアタシがもうすぐ終わりそうだから?でも、アタシは終わりになんかしたくないんだ。
「ごめん、ただの愛人のくせに女房気取りでいつも文句ばっかり言ってごめん。本当にうざいわよね、アタシ。シンジから卒業しろって言われてるのに、卒業する気が全くなくてごめん。……黙って抱かれるから、好きにはけ口にしていいよ」
アタシは疲れたように立ち上がった。シンジまでポロポロと涙を流している。アタシが傷付いてるって流石に気付いちゃったよね。アタシをシンジが傷付けたと気付いてしまった。これじゃ、陰の女房、失格だわ。ちゃんと黙って尽くし、シンジのはけ口になってあげなくちゃいけなかったのに、ね。
「さ、もう寝よ寝よ。シンジ。アンタも明日は朝、早いでしょ。とっとと抜いて、とっとと寝る。それでいいわよね?」
「アスカ……」
不自然なぐらい、さばさばとした言い方で、アタシはこの家で唯一セックスが出来そうな大きさを持ったソファーへとシンジを誘う。シンジは涙で顔をくしゃくしゃにしている。
ダメじゃないの。天下の特務機関ネルフの司令で、男の子なんだから。そんなに簡単に泣いたらいけないよ。
ま、ただの愛人の前で泣くぐらいならいいんだけど、ね?
◆
虚しい身体の繋がりの後、シンジは服をそそくさと着替えて、帰り支度を始める。泊まっていけばいい、朝は同伴出勤すればいい、そう思うが、シンジはもうこの部屋には居られないのだろう。アタシは女房じゃなくて、単なる女房気取りの愛人だから、それを引き留める言葉を持たない。引き留めようとすれば惨めになる。それがアタシが今のシンジとの関係で学んだ切ない教訓だった。
アタシがハンガーから外した、まだ湿っている制服を受け取ると、シンジは部屋の入り口でそれを着る。
「風邪引くから、帰ったらすぐ着替えなさいよ」
外の雨は上がっているようだった。でも、二人の気持ちは晴れない。もはや、晴れることなんてあるのだろうか?
玄関にまで見送りに出ると、シンジはしばらく俯いていたが、やがて意を決したようにアタシに向き直って言った。
「アスカ……12歳の女の子を預かってくれないかな……」
「は?」
「それが、僕がアスカに許して貰えなくなる理由だ。でも頼むよ……アスカにしか託せないんだ、その子の事は」
「……アンタ」
シンジの大学時代の専攻は。研究分野は何だったか。それを考えると直ぐに話は結び付いた。つまり、シンジは大学時代からずっとこの事を考えていたのだ。
「ど……どうして、そんなことをしちゃったのよ」
アタシは再び泣き出しそうになってくる。今晩は外の天気と同じで、何度だって驟雨が襲ってくる。
「だって、間に合わせるにはもう他に手がないんだ。いくら考えても僕には他の方法が思いつかなかった。僕はバカだから」
ああ、アタシのバカシンジは馬鹿だけど、そんな風な馬鹿じゃなかった。誰でもいいからアタシのバカシンジを返してよ。シンジにもうこれ以上、非道な事、可哀想な事をさせないで。誰か、誰か、お願いよ……。
「これじゃ、アンタのお父さんとまるで同じじゃない……」
「うん。僕には父さんを謗る資格なんかない。父さんは目的の為に人間性を棄てた。僕も最低の人間だ」
「アンタ、確実に地獄堕ちね……」
「分かってる、だからもうアスカとは来世でも一緒にはなれないんだ。ごめん……」
シンジの言葉が、アタシの胸をぎゅっと締め付け、思わず自分の襟元を掴んだ。
(そんな酷いこと、言わないでよ……)
現世においてもこんなに苦しい想いをしているのに、来世の希望さえ打ち砕く残酷なことば。地獄堕ち呼ばわりしたのは自分なのに、アタシは今度こそ号泣したくなった。
だからこそ、アタシは地獄下りを決意するのだ。シンジと一緒に堕ちるところまで堕ちきるまで。
「……アタシがその子を引き取ればいいのね」
「……引き取ってくれるの?」
「そうすれば、きっとアタシも地獄に堕ちる事になる。……もう、地獄で結ばれればいいのよ」
「本当に酷い事を頼んでごめん。でも僕が育てる訳には行かないから」
「その子の、名前は?」
「六分儀アイ。僕の養女にした」
(ええ、そうでしょうとも)
無論、シンジにはそうするしかない。