大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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二十三話 しのぶれど……

 

 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は

ものや思ふと 人の問ふまで

 

 平兼盛

 

 

 ネルフ本部庁舎の屋上で、防護柵に寄りかかりながら、アタシは地上を見下ろしていた。秋空と涼風に全身を晒していると、何となく物悲しい。

 

 シンジとはアイの事を告げられたあの夜から、もう二週間も関係を結んでいない。

 

 何度も何度もケータイに連絡を入れた。それでも返事をしてこないから、ついには今日、司令室に乗り込んだ。

 

「約束が違うじゃない」

「……アスカ、ここ職場だよ……」

 

 シンジもアタシの表情や話の切り出し方から、仕事の話ではないと察したのだろう。少しだけ眉を顰める。そんな事分かってる。今まで公私の区別をちゃんと付けてきた。でも最近はその境界線を守るアタシの意志が弱まっている。逃げ回ってるシンジに物を言える場所はもうここしかない。それぐらい切羽詰まっている。

 

 司令室は十分に広く、部屋の入り口は閉まっている。ゼーレが盗聴しているかも知れないが、知ったことか。これは純然たる痴話喧嘩だ。

 

「こういう関係になるって決めたとき、二人で色々とルールを決めて約束した。一週間に一回は必ず連絡するって。繋がりを途切れさせないって。ちゃんと指切りげんまんまでしたんだよ。それなのに無視して。酷いじゃない」

 

 こんな事は今までなかった。だから、大の大人なのにアタシは泣きそうになっていて、シンジの仕打ちでそこまで心が痛めつけられているという自覚がある。

 

「ごめん、今本当に忙しいんだ。アイをアスカに引き渡すために……」

 

 アイなんて関係ない。そんな子は知らないし、今はどうでもいい。

 

「一週間会わなかったら、次に会うときはもっと会いづらくなるんだよ、二週間会わなかったらその次はもっともっと……そうやっていつかは他人になっちゃう……」

「ごめん……わかったから。今日いつものホテルに行く」

 

 シンジは早々に面倒な話を打ち切るように言った。そういう事じゃない!抱いてあげるからいいでしょ、みたいな言い方、本当におかしい。第一、どうせ抱けないからアタシがシンジを抱いてやる事になるのは分かりきってるじゃない! 

 

 ……シンジ、本当におかしいよ。酷いよ。アタシの男なんだから、もっとアタシに優しくしてよ。

 

 本当はアタシと向き合うのが怖くて逃げてるだけなんでしょ。アイのことで、ちゃんと話をするのが怖い。アタシに嫌われるのが怖い。嫌われたくなくて男のくせに泣いてたんだもんね。だったら、まだアタシに恋してるって事じゃん……その自分の気持ちを誤魔化さないでよ。

 

 

「姫、ここに居たのね」

「……マリか……」

 

 白衣姿のマリが、屋上入り口の金属扉を軋ませて屋上に出て来た。

 

 アタシは昼休みに一人屋上で黄昏れていた。それで、いつもの職員食堂に顔を見せないから探しにきたのだろう。思えば、マリとの付き合いも学生時代から十年以上になる。間違いなく親友と呼べる付き合いだった。アタシは柵の外に背中を向け、寄りかかり直した。

 

(本気で心配してくれる相手は、ヒカリ以来だな)

 

「さいきん元気ないね、姫。理由は……聞くまでもないか。碇司令との事だね」

 

 ふんとアタシは鼻を鳴らす。

 

「碇司令なんかじゃない。アイツはバカシンジだ」

 

 もちろん二人は同一人物だが、ネルフの司令として馬鹿げた事をし続けるアイツはアタシの男じゃない。そう思いたくない。それにアタシのバカシンジはずっとバカシンジなんだ。誰もアイツをそんな風に呼ばない。だから「バカシンジ」はアタシだけのものだ。

 

「アイツがネルフに入る前に殴ってでも止めれば良かった」

「わんこ君が裏死海文書を見つけた時点で、その選択肢はなかったよ。彼は姫を守りたいんだ。そのために毎日必死で生きてる。ちゃんとした男だよ」

「笑わせないでよ、いつもアタシに甘えてくるガキよ」

「まあ、わんこ君が姫にどんな風に甘えてるのかは知らないけど……」

 

 そりゃ、アタシに対してはいつもぎゅっとしがみついて来ては助けを求めるような顔をして、アタシが頭を撫でてやると少し落ち着いて、すぐにおずおずとセックスをねだる。それ以上のヘンなプレイを求めてきたりはしない─シンジの性的嗜好はかなり保守的だ─けど、昔から甘ったれなのは変わらない。とにかくシンジは寂しがり屋で、天涯孤独になってからは特にそうだろうけど、アタシに優しくしてもらいたいんだ。そういう所は、中学生の時からあんまり成長していない。

 

「アタシたち、他人から見たらどう見えるんだろう……」

 

 いい機会だから、そんな風に前々から思っていた疑問をマリにぶつけてみる。もちろん、アタシたちとはアタシとシンジとのことだ。

 

「たぶん、3つぐらい見方があるよ」 

 

 マリも柵によりかかって、煙草に火をつけて咥えた後、三本、指を立てた。どうやら愚にもつかない雑談に付き合ってくれるらしい。流石持つべきものは親友だ。煙草を目の前で吸うのはやめてほしいけど。

 

「3つ?」

「うん。1つは姫が、司令夫人という玉の輿狙いで、その気もない司令にしつこくまとわりついているっていう見方」

「ま、その気がないってのは当たってるかもね」

 

 アタシは寂しくなる。二人の家庭的幸福を求めているのはアタシだけだ。その願いはずっと一方通行で。司令夫人とかは、本当にどうでも良くて笑ってしまう。こないだだって二人でネルフを辞めて一緒になろうとねだったばかりなのに。もちろんシンジにはすげなく拒否された。

 もしも、シンジがアタシに司令夫人の役割を求めるなら、喜んで勤めるし、何ならアイツの収まり悪い司令役より、遥かに見事に司令夫人を勤めてみせる自信はある。でも、アイツにはそんな積もりは全くないんだ。

 

「あとは司令が欲望の対象として姫を弄んでるっていう見方」

「アイツがアタシを弄ぶ、ねえ……」

 

 そりゃ世間の人間は、アイツがまともにアタシを抱けないなんて事知るはずがない。でも、実態は、いつだって、アタシがアイツを抱いてやってるんだから、そんな話は成り立たない。

 

「姫は隠し事が出来ないタイプだから、気をつけた方がいいよ」

「え?」

「今のやりとりと姫の表情見てたら、わんこ君は夜、弱いんだな、とか、姫がいつもリードしたり、サポートしてるんだな、って想像してしまう」

「な…別に弱くないし!……シンジの前ではそんな事、絶対に言わないでよっ!」

 

 シンジの夜が弱かろうと(いや、決して弱いわけではないし)、淡白だろうと、少しも問題だとは思わない。そんなもの本当にどうでもいいことだ。

 

 しかし墓場の中まで持って行くと誓ったアタシとシンジのベッド上での秘密に第三者が迫っているなんてシンジには大ショックだろうし、秘密にすると誓ったアタシの信用にも関わる。それに、シンジの心が傷つくのだけは絶対いやだ。

 

「まさかそんな事言わないよ。あたしの勝手な想像だし、わんこ君を傷付ける積もりはないよ」

 

 アタシはマリの言葉に憮然とした表情で頷いた。

 

「そして3つめ。最後の見立ては……二人は相思相愛でお互いを想い合っているけど、状況が二人の結ばれることを許さない。でも二人の想いはとても強いんだ、っていう見方」

「……それ、どこの誰が言ってるのよ」

「北上ミドリ」

「えっ」

「ミドリがあたしに言った。あたしも同感だけど」

「アイツ……」

 

 あんなにアタシたちの事を嫌って、怒ってたアイツがそんな。アタシたちの関係を気持ち悪いとか、距離感の取り方が分かってないとか散々非難してたミドリが。それにシンジとアタシはアイツの家族の仇なのに。アタシは目の奥がツンとなった。

 

「ま、二人の関係に色々物申したいのは相変わらずみたいだけどね。ミドリはいい奴だ……知れば知るほどそう思う。ズケズケ言うから、誤解されやすいタイプだけど、ちゃんと自分の物事の見方をアップデート出来るのが凄いのよ。本質を掴むのも早いしね。姫もミドリの事、好きでしょ」

「うん……」

 

 マリのような親友というほとではないけど、北上ミドリはサバサバしてるし、アタシがつい酷い暴言を言ったりした後でも、怒りや失望を引きずらない。それぐらい人間って弱い者なんだということを肌身で知っているという感じなのだ。

 

「じゃ、今度久々に3人で飲みに行こう。大学時代からの同級生で同期会だ。姫のわんこ君への愚痴も聞いちゃうよん」

 

 それは確かに愉しそうだ。でも。

 

「……アタシにはマリやミドリがいる。でもシンジの友達はアタシしかいない」

 

 シンジには同性の友人がもう誰も居なくって。友達と呼べるのは「親友」のアタシしか居ない。

 

 でも、身体の繋がりが持てる異性じゃ、友人、親友としてはどこか心許ない。アイツがアタシを逃げ道にしたがるのも、けっきょくはアタシがアイツとは違う身体を持っていて、抱けるからじゃないか(……ま、実際にはアタシが抱いてやってるのは、ひとまず措くとして)。抱くと気持ちがよくなれるからじゃないか。アタシの言葉や真心よりも、身体に逃げてしまわれるのは、やっぱり親友を自認するアタシには寂しい事でしかない。

 

「やっぱり、妻になりたかったな……」

 

 妻ならば、親友よりも親しく、恋人よりも甘い関係になれる。それも世間の公認で。愛人なんて、けっきょくは身体だけの繋がりだと世間に向かって宣言しているようなものだ。本当は身体の関係なんてアタシとシンジの関係の本質じゃないのに。

 

「え?」

「な、何でもない」

 

 小さく呟いた言葉を聞き直すマリに、首を左右にする。マリはじっとアタシを見つめていたが、やがて、咥えていた煙草の火を消して、励ますように肩に手を置いた。

 

「姫、ここが辛抱のしどころだよ。耐えて耐えて頑張ってれば、きっと道は拓ける。明るい未来が待ってると思うよ」

「でも……」

 

 アタシはその楽観的な見通しが信じられなくて、言い淀む。アタシとシンジの未来に本当に明るい展望なんてあるんだろうか?アイとのことだって、アタシにはまた一つ、アタシとシンジの間に打ち込まれた楔のように思われてならない。

 

「あの子のこと、聞いてるんでしょ。六分儀アイ……」

「昨日、碇司令に呼び出されて聞いたよ、驚いた」

 

 そんなのうそだ。技術部がアタシより後に話を聞くなんて有り得ない。やっぱりシンジはアタシよりマリを信用しているんだ……。

 

 それはアタシを暗い気持ちにさせる。アタシはシンジにとって何でも一番の相手でなくてはいけないのに、それを他人にどんどん明け渡して、もう殆ど何も残っていない。

 

「疑ってるみたいだけど、本当だよ。この話、技術部とは別ラインで、医官の鈴原一尉たちのチームで動いてたんだ」

「鈴原?それってサクラのことよね……」

 

 アタシたちより6歳年下だが、3年飛び級をしているという(つまり年次はアタシたちの3個下)極めて優秀な、鈴原トウジの妹サクラはネルフに入所した時にわざわざ部署違いのアタシを尋ねて挨拶をしてきた。その時のことはまだ鮮明に憶えていた。

 

 

 深々と頭を下げるベレー帽の軍医。階級章は星が二つに線が一つで二尉。カドゥケウスの杖をシンボル化した衛生科の職種徽章。医官は三尉ではなく二尉からキャリアをスタートするというのは、戦自と同じだ。着任したばかりの新任医官か。挨拶に来たときには単にそれだけ思った。しかし、関西弁訛りの女の、鈴原の名字の名乗りに、書き物をしていたアタシの執務の手は止まる。

 

「お兄ちゃんがその節はえろう、お世話になりました。よくお兄ちゃんからは、碇さんと惣流さんの話は聞いとりました」

「ああ、うん……そう、なの」

 

 といわれるほど、アタシは鈴原に対しては何もしてやらなかった。参号機事件の時も何も出来なかったし、サードインパクト後、けっきょく洞木ヒカリ、鈴原トウジ、相田ケンスケといった昔の第壱中時代のクラスメートの面々はLCLから帰って来なかったのだ。

 公式には生死不明だが、LCLに溶けたと考えるべきなのだろう。そうならば、せめてヒカリが好きだった鈴原トウジと溶けあった事を望む。それは苦い結末であっても、今のようなシンジとの関係に懊悩するアタシにとっては少しだけロマンティックな羨望を感じさせる結末だ。他にも大勢の人間が、好きな人間、あるいは好きな人間の幻と溶け合ったと言われている。戻ってこなかった人々の最期がせめて幸福感に充たされたものであって欲しいとアタシは願う。

 

「あんたの兄さんは、アタシとシンジ……いや、碇司令の戦友だった。生きていれば、今でも肩を並べて仕事をしていたかも知れない。与えられた過酷な状況下で立派に戦ったのを覚えてる」

「碇さんみたいに逃げたりはせず、ですか?」

「……っ」

 

 初対面なのに、サクラはにこやかな顔に辛辣な針を含ませて、そう言ったものだ。

 

「冗談です。惣流さんは碇さんの恋人なんだそうですね。お気を悪くしないでください。二人はお熱い仲だと伺いました」

 

 サクラは民間人か昔の海軍士官みたいに、さん付けでアタシたちを呼んだ。そんな人間関係の噂を早速どこで聞きつけたのか。悪戯っぽい、しかしどこか狩人のような油断のない瞳で、アタシを覗き込んでいる。

 

「……そんな話は職場(ネルフ)でする話じゃないと思う」

 

 シンジとアタシが恋仲だというのは単なる誤解だ。アタシとアイツの仲は単なる身体だけの関係で……。

 

「少なくとも人前ではそういう話、止めてほしい。お願い」

「忍ぶ恋ですか?案外、惣流さんの片想いだったり?」

「……ち、違う。アタシとシンジはちゃんと……」 

 

 ちゃんと─その後にどう続けたらいいのだろう。ちゃんと毎週、ホテルに行っているとでも言えばいいのか。バカバカしい……。アタシとシンジの間には他人に堂々と言えるものが何も無いんだ。アタシは言葉を失って、俯くしかなかった。

 

「面白いですね。お兄ちゃんから聞いた二人をずっと想像してました。大人な関係なのかと思ってたけど、中学生とあんまり変わらないですね」

「な……」

 

 くすっと笑って、アタシが反撃する間も与えようとせず、素早く、遅まきながらの敬礼をした。

 

「鈴原サクラ二尉、2027年4月1日付で、特務機関ネルフ医務部に配属になりました。よろしくお願いします」

 

 

 そのサクラが、六分儀アイを巡る極秘のプロジェクトを遂行していたというのか。もちろん、極秘である以上は、シンジ直属で、ということになる。

 

 どうしてアタシじゃなくてあの子なんだ。ゼーレが司令であるシンジの次に、そのシンジの愛人であるアタシの一挙手一投足に注目している事や、シンジも指摘していたアタシの隠し事への適性、その選択を合理的に説明できる理由はいくつも思いつくけれど、やっぱりシンジがアタシを選んでくれないことが寂しくてたまらない。

 

「アタシ、あの子は苦手」

「姫以外にはとってもいい子なんだけどねえ」

 

 相性というのがある。アタシは強気なようで、ああいうグイグイ来るタイプにはなかなか反撃出来ない。

 

「一度、人事記録を覗いたら、あの子、兵科の訓練も暇があれば片っ端から受けていて、成績も極めて優秀。あの子もサードで兄を亡くしてるから、逆恨みの一つもしそうなものなのに、個人的にわんこ君を守ろうとして色んなスキルを身に付けている。その忠誠心は見上げたものだよ。あれはもはや碇司令直属の娘子軍(じょうしぐん)だね」

 

 マリはくいっとメガネのツルを上げながら、解説する。アタシは兎に角不快だった。

 

 マリがあえて言わなかった、あの子の渾名、アタシは知ってるんだけど。

 

 碇司令の「本妻」でしょ……

 

 口さがない連中によれば、碇司令の「本妻」は鈴原サクラで、アタシは「愛人」なのだそうだ。サクラがシンジに対する秘書気取り、女房気取りの言動を繰り返しているから付いた渾名なのだそうだが、最初にその情報をアタシへの「ご注進」に及んだ女子(もちろん、アタシの味方って顔をしていたけど)も含めて、その関係を面白がる風潮がないとはいえない。本当の愛人はアタシで、サクラへの本妻呼ばわりは冗談だと正しく認識している人間も多いが、中には冗談を真に受ける輩もいる。だって、アタシは職場ではシンジと殆ど話をしないから。

 

 そして、アタシは本妻云々の話が持ち上がって以来、サクラとも、業務上最小限のやり取りだけで、あまり話をしないし、端的に言えば、接触するのを極力避けていた。そういう風に相手を避け始めると、不思議なもので、自分の方が卑屈な日陰者のように思えて来てしまう。

 

 単なる冗談であっても、「本妻」に会うのを避ける「愛人」なんて、悔しくて涙が出そうだ。

 

 けっきょく、シンジがみんな悪いんだ。アタシを裏切って、幸せな未来を踏みにじって、アタシを嫁にしてくれなかったシンジが全部悪い。

 

 ろくすっぽ、同性の友人も作れないのに、周りに女ばかり侍らせるシンジ。

 アタシでは飽きたらず、マリ、ミドリ、そしてサクラ? あーやだやだ、嫌らしい。本当にいい加減にしてほしい。

 

 これは単なる、ヤキモチじゃない。

 だって、シンジだって仮にアタシがこんなに大量の男を周囲に侍らしてたら、不快になるはずなんだから。実際、大学生の時はアタシが隣の男子と話をするのでさえ、嫌がっていた。アタシの自由を縛る勝手な話だったけど、アタシはシンジのためにそれを受け入れた。それなのに、シンジはアタシの気持ちは考えずに、女に無防備、無警戒なのだ。

 もちろん、シンジにその気はないのは分かってる。シンジにとって本当に甘えたい、すがりたい女はアタシだけなんだって。

 

 そうは言っても、誰だって、パートナーが自分以外の異性を無思慮に周囲に置いているのは気分が悪くなる筈だ。生理的に気持ちが悪いと思うのはやむを得ない事でしょ?

 

 でも……シンジが鈴原や相田、それと、アタシも話にだけは(つと)聞いている渚カヲルとやら、そんな親しい友人たちを全て、ある意味では自分のせいで失っている、というのは、凄まじい話で、流石に心を閉ざしたくなる気持ちも分からないではない。そして心を閉ざしているシンジに母性愛でもくすぐられるのか、構ってやりたくなる女も出てくるという悪循環だ。

 

(もうアイツ、友達作れないんだろうな)

 

 だからアタシが親友になると言ってやったのだ。女だって男の親友にはなれる。それは真理だろうが、アタシとシンジは親友としては微妙だった。

 

 身体の繋がりがある男女では、いくら親友として接してやっても、つい男女の繋がりの事が頭をよぎる。交わす会話に甘さが交じる。共に過ごした夜の想い出や相手の身体が思い浮かんでしまう。けっきょくシンジもアタシの身体に逃げ込んでしまう。

 

 

 その夜、いつものホテルの部屋に入ると、シンジがベッド脇のテーブルに座って、仕事の書類を読み込んでいた。

 

「シンジ……」

 

 二週間ぶりの逢瀬だ。逢いたくて、逢いたくて仕方が無かった。顔を見ると、それだけで切なくなる。

 

(寂しかった、寂しかったよ……)

 

 そう素直に言って、シンジの腕の中に飛び込めたらどんなに楽だったか。

 

 でもその言葉は、今のシンジに対しては発したくない。吐露したくなる愛おしさ、甘えたくなる本音をぐっと飲み込む。

 

 シンジは静かに書類鞄に書類をしまい込んで、アタシに向かって頷いた。

 

「……とっととすることしてよ。終わったらすぐ帰るから」

「うん……泊まって……行かないの……」

「泊まらない。泊まる必要がない。アタシが要求したのは、身体の関係だけ」

「そう……」

 

 今泊まったって、どうせシンジ……いや、懊悩する「碇司令」の逃げ道にされるだけだ。朝まで一緒に居れば、アタシはきっとしあわせな気分になれる。一夜妻として、シンジに優しくしてあげられる。でも今は……。やっぱりそれじゃ駄目なんだ。

 

「それで十分でしょ。アタシはアンタと他人じゃない、その証明として定期的に身体の繋がりを求めてるだけ。別に恋とかそんなのはどうでもいい。ちゃんと他人じゃないことを証明しようよ。今望むのは、それだけだよ」

 

 これはアタシの精一杯の強がりだ。どうでもいいわけがない。でも歯を食いしばってどうでもいいと思おうとしている。

 

「やっぱり、アイのこと、怒ってるの?」

「……当たり前じゃない。いきなりコブ付きとか。あんなの不貞と同じだわ」

「そんな事してないよ……」

「分かってる。分かってるけど、じゃあアンタ、アタシにいきなり子供が出来てたら、受け容れられるの?嫌でしょ、そんなの!」

「うん……」

 

 アタシはシンジの共犯者として、アイの面倒を見ることを受け入れた。でも、それは今度の事に何から何まで納得したということではもちろん、ない。シンジの養女の話は、やっぱりアタシの胸は痛い。

 

「でも、だからって、逃げ回ってるのが正しい訳じゃないのよ、シンジ。アンタの態度は、まるで母親に叱られるのが嫌でこそこそしてる子供みたい。何度も何度も言って悪いけど、アタシはアンタの母親じゃないんだからね。いっつも甘えてきて……別にベッドではアタシにいくら甘えたって構わないけど、どれだけ甘えられても、アタシは母親にだけはなれない。女でしか居られない。アタシはシンジの女でなくちゃいけないの」

 

「もちろん……そんなの分かってるよ。アスカに母さん役を求めてる訳じゃない……」

 

「どうなんだかね……。母親を求めてるんじゃないなら、ちゃんとアタシに向き合って事前に話をして欲しかった。怒られるのが嫌だから、嫌われるのが怖いから、話を一番後回しにするとか有り得ないから。母親は永遠に母親だけど、アタシはアンタと別れる事も出来る。別れたい訳じゃないけどね。シンジ、いい加減大人になりなさい……」

 

 あえて言わないが、「約束」までもう二年しかない。シンジは約束を覚えているのだろうか?あんな約束、破棄してしまって、死ぬまでこのままの関係を続けてもいい、と思うときだってある。でも、多分それじゃ幸せにはなれないんだ。

 

 アタシはシンジと幸せになりたい。

 

 それが、そんなに傲慢なあるいは無謀な望みなのか。アタシにはそうは思えない。

 

 テーブルに近付いていって、シンジの手首を掴んだ。

 

「時間節約。お風呂には一緒に入ろう」

「うん……」

 

 時間節約というのは半ば言い訳だ。愛人という日陰の女にだって、好きな男と生まれたままの姿でまったりと過ごす僅かな時間、そのぐらいの役得ぐらいあっていい筈だ。

 

「それでお風呂から上がったら、とっとと抱いてあげる」

「ごめん……いつも情けなくて」

 

 別にそんな風には思わない。シンジからではなくアタシから抱くのがつまらないのは、そこに驚きがないからだ。自分が完全に主導権を握ってしまえば、全ては自分の予測の範囲内に収まる。シンジに抱かれる事によって思いがけない性愛の歓喜を得るチャンスがない、それが口惜しいだけだ。でも、シンジとは14の時から寝ているのだ。そろそろ新鮮さへの希求と渇望について、諦めてもいい頃合いなのかも知れない。

 

 アタシは慰めるように、励ますように、シンジの頭を撫でた。シンジは気恥ずかしそうに頭を撫でられている。

 

「自虐とかそういうのはいいから。次はちゃんと一週間以内に連絡して」

 

 それが本当に重要なアタシたちのルールだ。

 

 ─ね、シンジ。どんなに幻滅したとしても五年後も十年後も繋がりだけは残そうよ。毎週一回は連絡して、こうやって抱き合って。

 

 ─アスカは、それでいいの?あんなに怒っていたのに……「卒業」を切り出してアスカを裏切った……もう僕なんか捨てられると思ってたのに。

 

 ─怒ってるわよ、でもあの日から二十年後までは保留期間なんだから。ちゃんと繋がってないとダメだよ。だから、指切り。ほら。

 

 ─うん……

 

 ─指切りげんまん、嘘ついたら針千本呑ます!指切った。……とりあえず、これでよし。これで十年後も一緒にエッチできるね。

 

 そう冗談めかして笑ったあの時、シンジは指切りをした小指をじっと見つめていた。少し寂しそうだった。そりゃそうだよね。だってあの時からもうアタシとシンジの関係はか細い小指一本の繋がりになってるんだから。

 

 指切りというのは元々遊女と客の間の誓いの儀式だったらしい。だから愛人となったアタシたち二人の関係には相応しい。

 

 でもね、小指と小指には赤い糸だって結ばれているんだ。

 

 ─だからアタシは、今でも、小指と小指の誓いを守ろうとしている。

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