大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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二十四話 六分儀アイ

 明るくなってきた窓の外から小鳥たちの囀りが聞こえてくる。

 

「まさか、朝チュンを迎えるはめになるとは……」

 

 そんな俗語を交えてアタシは述懐する。事を終えたら、とっとと帰宅するつもりだったのに、いつの間にか、情事は朝にまで及んでいた。シンジの腕の中での僅かばかりのまどろみを除いて、一睡も出来なかったが、心地よい疲労感が全身を包んでいた。

 

「この歳で五回もするなんて、シンちゃんは頑張り屋さんだなぁ……驚いちゃったわよ」

 

 シンジの腕の中から、おどけた口調で、頭一つ分、上にあるシンジの顔を見上げる。

 

 アタシが主導権を握る以上、二人の性愛に驚きはない、と嘯いていたのは、大間違いだった。おかげでアタシは大いにシンジとの夜を楽しみ、ゆうべの険のある態度も自然にほどけていた。

 

(ほら見なさい、シンジは別に夜が弱いわけじゃない。ちゃんと出来る男の子なんだから)

 

「ごめん……あんなにアスカから逃げてたのに、いざとなったら、しつこくねだって……」

「別に怒ってないって。しつこいとも思ってない。アタシの性格はよく知ってるでしょ?彼氏だろうと夫だろうとイヤならイヤって言うから。……ま、アンタは彼氏でも夫でもないし、そもそも彼氏や夫なんて持ったこともないけどネ」

「それも……ごめん」

 

 シンジには、夫でも将来を誓い合った関係でもないのにアタシの身体を貪っている事への後ろめたさがあるのだろう。いい加減割り切ればいいのにね。……割り切れないか。そりゃそうだよね。シンちゃん、真面目なんだから。アタシを弄んでると思えば思うだけ自分で傷つくんだ。アタシだって、弄ばれてるとは全く思わないけど、モヤモヤする気持ちはずっとわだかまっている。だからこそ、アタシは口調を殊更に明るくする。

 

「でも、ゆうべはしつこいどころか、むしろ逆。ありがとう、シンジ。ちゃんとしてたわよ」

 

 シンジの頭を撫でてやる。いい子いい子。ちゃんと、気持ちよかった。いつものように、アタシ主導ではあったけれど、女の悦びを与えてくれたのはもちろんシンジだ。

 

「回数こなせたのは、やっぱり、二週間ぶりで溜まってたから?自分でしたりはしなかったの?」

「僕はもう……自分ではしないことに決めてるから。アスカに病院であんな酷いことしたんだから……」

 

 そう言いながら、シンジは目を瞑って、アタシの胸に顔を埋める。そうだね……シンジは自分のしたことを思い出すのも、つらいんだよね。アタシは、可哀想なシンジの顔に自分の顔を近づけ頬ずりをしてあげる。

 

「それで自分ではしないようにしているの?それって、男としてかなりつらいんじゃないの?……別にそんな事しなくても。アタシはアンタの女なんだから、オカズにしたっていいんだよ?」

 

 だが、シンジは頑なに首を左右に振るのだ。

 

「もう、アスカで酷いことは出来ない」

「頑固ねぇ……でも、まぁいいわ」

 

 そう。シンジは優柔不断ではなく、むしろ頑固なのだ。一度こうと決めたら、簡単には考え方を変えようとしない。アタシがこのシンジの性格にどれだけ苦労をさせられていることか……。

 

「とにかく、夕べのアンタは頑張ってた。本当に素敵だった」

「僕は……何もしてないよ。アスカがぜんぶしてくれたんだから。僕はいつもの情けない僕だ……」

「アタシからってのは、それはそうだけど、アンタが頑張ったから最後まで出来たのも事実じゃない。そんなに自分を卑下するもんじゃないわよ」

 

 それに五回のうち、最後の一回だけはシンジからアタシを抱こうとしてくれて、途中までは上手く行っていた。結局は他の四回と同じようにアタシから抱いたけど、あれが最後ではなく、最初の一回なら、ちゃんと出来ていたのではないだろうか。結果として上手く出来なくても頑張ってくれるのは嬉しい。シンジが頑張ろうとしてくれるのが嬉しいんだ。それも、これからの希望を感じさせる状況だ。

 

「でも、アスカが相手で良かった。僕のことをこの事で馬鹿にしたりはしないから……」

「ばかね。元々アタシが悪いんじゃないの。アンタがクヨクヨする必要なんてないのよ。少しずつ、頑張って行けばいい、思い詰めずに、ね」

 

 シンジは二人の夜の生活についても、悪い方ばかりを見るが、アタシは常に明るい方を見ていきたい。そうでなければ、アタシたちの関係はもう保たないよ……

 

 

 リモート・エントリープラグ、ダミーシステム2、どちらも当初想定していなかった技術的隘路に入り込み、開発が大きく遅延していた。司令であるシンジの懊悩は日々深まる。シンジの頭の中には裏死海文書に記された使徒が再来寇する日付が既に頭に刻まれている。普段の様子をそれとなく観測すると、たぶん間に合わなくなる可能性が高いのだろう。開発リソースを分散させたのはアタシだ。アタシは強い責任を感じていた。

 

 いよいよ追い詰められたシンジが何かの決断をし、別路線で走っているプロジェクトにゴーサインを出した事を、アタシもマリも知らなかった。あくまでも極秘の計画だ。シンジの命が掛かっている、世界の運命が掛かっている。だからアタシもマリも何も知らなくて良かったのだ。そして、秋の驟雨の中、アタシは自宅でシンジの計画を知らされた。六分儀アイという少女。それが計画の要だ。

 

 今、会議室にその子を連れてきたのは医官である鈴原サクラ一尉。彼女に伴われて、エヴァンゲリオンのパイロット候補生として連れてこられた少女はまだ中学に入ったばかりの十二歳の少女だった。アタシたちが遥か昔に着ていた、第壱中のジャンパースカート型の女子制服に袖を通していた。

 アタシやシンジより二十歳年下の少女。

 

 シンジと養子縁組をした孤児と()()()()()()()。アタシにちょこんと頭を下げて、アイは自分の名前を名乗った。なんとなく自分の名前に居心地の悪さや違和感を感じているような顔をして。

 

 少女の気弱な上目遣いの視線は、相手の好意や承認を絶え間なく求めている。自分に自信がない。濃いブルネットの髪を肩の辺りまで伸ばしている。明日にでも消えてしまいそうな……シンジにとてもよく似た少女。というよりは、年齢をあの頃より少しだけ巻き戻して12歳にし、性別を女の子にしただけのシンジだった。むろん、そこには女装したシンジのような不自然さはない、むしろ綾波レイに似ている。それも当然か。シンジの、男としては弱々しく見える女顔が、この少女の場合はとても自然で、美少女とは言わないまでも、十分愛くるしい少女だった。

 

 しかし、名前からして、最初からあからさまで、そこに何かを隠そうという意図さえない無防備さがアタシには気に入らない。六分儀……アイ……I……英語の一人称代名詞。すなわち私、いや、「僕」なのか。

 

 覚悟は出来ていた。想像もしていた。やっぱりそうだった。だからアタシはアイを見ても、怒り狂ったりはしなかった。シンジが道を踏み外した、その事を改めて確信して単に空しくなっただけだ。シンジは父ゲンドウと本当に同じ事をしているのだ。それしか方法がないのだろうが、どうしてアタシに相談してくれなかったのか、と何度も繰り返してきた問いを再度持ち出してしまう。

 

 もちろん、相談出来なかった理由は知っている。裏死海文書の内容はシンジ独りで抱えないといけない機密だ。使徒の再来寇時期に開発中のパイロットの保護手段が二つとも間に合わない、それではパイロットをどうするのかという問題は、一番重い裏死海文書の機密にも触れる。使徒がいつ再来寇するのかという、最大の機密だ。これはシンジにはギリギリまで絶対口外できない。だけど、こんな少女を連れてこられれば、それが差し迫っているのだと、誰の目にも明らかになったろう。パイロットの訓練・養成期間を確保してあると想定しても、使徒は二年以内に再来寇する。機密は遂に半ば明るみにされたのだ。

 

 アタシはしげしげともう一度、彼女の着ている制服を見つめた。第壱中はもう存在しない。サードインパクトによる大量死と破壊で、サード直後に廃校になっている。それなのになぜこの制服が。

 

「第壱中は私も通う予定でした」

 

 サクラは言った。

 

「その制服は洞木ヒカリさんの形見です」

 

 サクラの言葉に、アタシはハッと息を止める。アタシにとって初めて出来た同年代の友人。さよならも言う暇さえなく消えてしまった彼女の明るい声や表情、優しいいたわりの言葉を忘れたことはない。

 

「遺っていると却ってつらい、そうヒカリさんのお父さんに言われて、鈴原家に譲り受けました。ヒカリさんがお兄ちゃんの事、好きだったってわかったから。こんな御時世だ、女の子の服だっていくらあっても困ることはない、妹さんに着せてくれと。三人の姉妹をいっぺんに失った父親にそう言われたら断れません。でも私だって、袖を通すことなんか出来ませんよ。私が中学に上がり同じ制服を着て、お兄ちゃんとヒカリさんが付き合って、みんな幸せで……ってそんな夢のような未来……いや過去を想像してしまうから!」

 

 その夢はシンジが壊してしまった。いや、正確にはシンジの阻止できなかった人類補完計画が。シンジだけではない、応分の責任は当然アタシにもある。だって、アタシとシンジが心を通い合わせていれば……二人で気持ちを伝え合い、お互いにキチンと向き合って……二人で力を合わせて戦っていれば……補完計画発動はあるいは防げたのかも知れない。夢のような未来、過去が実現していたのかも知れない。ある意味ではアタシとシンジがどうしても幸せになれないのも当然だ。世界の人たちをありったけの不幸に巻き込んで、それでアタシたちだけが幸せになる、そんな事を神様が許す筈がない……。

 

「だから私はアイさんにこの制服をプレゼントしました。碇さんのしでかした事の結果が、アイさんに返っていくのはとても自然なことですから」

 

 でも、シンジとアイは違う。別の人間なのだ。誰にもそうは思えなくても。

 

 アタシはアイをじっと見つめていた。アイは小さな声でアタシに向かって声を出した。

 

「アスカ……さん……会いたかった」

 

 やや高いが、シンジと同じ声にハッとする。

 

お義父(シンジ)さんから、もうすぐアスカさんに会えるよって聞いていた。ずっと会いたかったよ、アスカ……」

 

 はにかんだ笑顔はシンジとそっくり同じだ。そして、ずっとつけていたアタシへの「さん」付けがその時だけはなかった。シンジと同じくアタシを呼び捨てにした。その呼び捨てはアタシとシンジ二人にとって特別なものだった。だから、アタシはアイにアイツを重ね、感極まってしまった。

 

 ひどいよ、シンジ。

 やっぱり、こんな事して、良いわけがない。

 人間が神様の真似をしちゃ、いけなかったんだ。

 

 シンジはどうせ自分のことだから、自分を犠牲にしても構わないと勝手に一人決めしたんでしょ?傷付くのは自分一人で、人の道を踏み外すのも、勝手な生を与えられて傷つくのも、どちらも自分だけなんだと。

 ……そうやってシンジが自分を粗末にすると、みんなが哀しむし、苦しむんだ。この子だって、こんな風に生まれてくるのはおかしいよ。たとえ、こうでなければ、生まれてこれなかった子だとしても、こんなの間違っている……

 

 ゆうべのシンジとの幸せな交わりの記憶さえ、いっぺんに吹っ飛んでしまうぐらい悲しかった。

 

 アタシはそれからあの子が、お手洗いに立つまでずっと黙って、顔を伏せていた。

 

 

「……アンタはこんなことして平気なの?」

 

 アタシはテーブルの下の床を見つめたまま、放心したように問い掛けた。あの子がお手洗いに行ってるから、もちろん問い掛ける相手は、この場にただ一人残っている鈴原サクラだ。

 

「初めてエヴァに乗った時のシンクロ率40超え。ご存知でしたか?」

「アタシがそれを知らない訳、ないでしょ……」

 

 もちろん、「アタシの男」「うちのシンちゃん」が初めて叩き出した前人未踏のシンクロ率だ。忘れようとしたって忘れられるものじゃない。すべてはその数字から始まったんだ。アタシのシンジへの対抗心も、興味も、恋心も……。

 

 本当はそんなもの、どうだっていい数字だったのに。シンジの価値はそんなものにはない。アタシにもシンジにもエヴァに乗れなくなってからの長い人生が残っているんだ。

 

「だったら答えは明白やないですか。他にパイロットは居ないんです。新兵をこのレベルまで引き上げることも、リモートやダミーで彼らの命を守ることも出来ない。碇さんは手に入るカードの中で最善のものを選んどるだけです」

「……だからって、やっていいことと悪いことがある!生命倫理にだって反するでしょ!」

「なら訴えます?捕まるの、碇さんですけどね」

 

 その指摘にアタシは絶句する。

 

「そして、その間に使徒かゼーレによって人類は滅亡する。人類の存続がかかってるのに、許されないことなんて最早ありませんよ」

 

 何を甘いことを、とサクラは鼻で笑うのだ。

 

「皆さんのかつての戦友だった綾波レイさんだって、そういう存在やと聞きました。外道の棲む世界ですよ、ここは。何を今更おぼこみたいな事を言うてるんです」

「碇ゲンドウがそれをやるのと、シンジがそれをやるのは違う!違わなくちゃおかしいんだ……」

「あの二人は親子ですよ。ゲンドウさんは妻のユイさんの為に外道になったし、碇さんは惣流さん……愛人のアナタの為に外道になるんです。なれるんです!」

「ああああああっ……もうイヤだこんな世界!!」

 

 アタシは頭を抱えて、狂ったような悲鳴を上げた。それをサクラは冷ややかな視線で見ているのが、顔を上げなくても分かった。

 

「……シンジがアタシに逃げたくなるのも分かるわよ、こんな世界、本当に酷い……」

「それを今知ったという態度なのは正直、気に食わないです。私たちがこの世界が本当に残酷な世界だと知ったのは、十八年前ですよ、私はまだ八歳でした。八歳で兄を喪ったんです。惣流さんはその時、碇さんと恋愛ごっこの真っ最中でしたか?」

「はは……何よ恋愛ごっこって。アイツと恋人だったことなんか一度だって無いわよ。アイツとはキスとセックスの仕方を延々と二人で練習してただけ。アタシが求めても求めてもアイツは何もくれないってことを十八年かけて勉強しただけよ」

 

 そう、煎じ詰めれば、アタシとシンジとの関係は、キスとセックスのお勉強に過ぎなかったのかも知れない。手近にいた男の子と二人でイケナイ遊びをしていただけ……。だって、アタシたちの関係はその先の何処にも繋がっていないのだから。

 

「それでも、お二人はずっと触れ合えてたんやないですか!うちはお兄ちゃんとはもう触れ合うことも、話も出来ない……!兄とヒカリさんも同じです!」

 

 昂奮したのか、一瞬だけサクラの一人称が変わった。

 

「……アタシとシンジもそうなれば良かったっての」

「そうなってた時のつらさを理解して、想像して、感じて欲しいとは思てます。そうではない今がどんなに幸せなのかも理解してほしい」

 

 アタシはがっくりとうなだれていた。死者の話を持ち出されたら敵わない……そりゃシンジと生き別れ、死に別れるよりはマシでしょうよ。でも、毎週、シンジとキスやセックスが出来て、それで幸せ?……それは見方の問題だ。触れ合えるほど近くに居て、身体は繋がれていて、それでも手に入れられないからつらいことだってあるんだ。

 

「……時に、惣流さんは、私が苦手なんですか?今もこうして話してるのに、一切目を合わせようとしませんけど」

 

 サクラの指摘に、アタシはまごつく。目を合わせる必要がないから、合わせなかっただけだ。今更のようにアタシは顔を上げて、サクラを見る。

 

「は?……べ、別に」

「これまで何度となく、廊下で私に行き当たって、惣流さんが目を逸らして、行き先を変えるのを見ました。ヘタレ過ぎて情けなくなりました」

 

 そ、そんな事は……たまたまであって……!

 

「それって、私が『正妻』だからですか?」

「い、一体なんの話よ」

 

 しかし、アタシの反応は持ち主の稚拙なごまかしを裏切って、サクラの指摘は図星だと主張してしまっていた。

 

「惣流さんのメンタルはお豆腐とおんなじですね。誰かが『正妻』だというと勝手に劣等感を抱えてしまう。逆に自分で『愛人』だと思い込んでは、引け目を感じてしまう。肩書きなんかどうでもいいとは思えない。天才元少女パイロットのエリート意識の裏側で、他人の評価にほんまに弱い。他人の目から独立した本当の自信が持てないんですね。一事が万事、そんな調子でしょう?あなた、自分の顔を鏡で見たことないんですか?どう見たって、他の女に劣等感なんか感じるような顔じゃないでしょうに」

 

「シンジはアタシの顔なんか気にしてない!」

 

「そうでしょうとも。碇さんは他人の顔なんか見てませんよ。あの人が見てるのは他人の"顔色"です。ほんまに似た者同士ですね。呆れますわ」

 

 やれやれと、鈴原サクラは嘆息した。……確かに、他人の評価が気になるアタシ、他人の顔色が気になるシンジ。違うようでどこか似ているのかも知れない……

 

「……じゃあアンタは……シンジのこと、好きじゃないの?」

「……あの人は、兄の親友であると同時に、兄の仇なんです。だから好きになってはいけない人です」

 

 それって、好きじゃないとは全然違うじゃない……なによそれ……

 

「でも、あの人に尊敬できる、あるいは私も惚れてしまいそうになる要素があるとしたら、それは使徒と人類補完計画を潰すため、マキャベリズムに徹していること。そのためには自分の女も騙すし、決して幸せに出来ない程なんです。あの人は、お兄ちゃんから聞いていたあの人よりも成長している。いや、歪んでしまっただけかも知れないけど、世界を守るにはあの歪んだ大人の碇さんが必要なんです」

 

 それは違うわよ……シンジは世界とアタシを天秤に掛けたら間違いなくアタシを取る。これは自惚れでも何でもない事実だ。ただ、今のところ世界の存続がアタシにも必要で、逆にシンジ自身の存在はアタシの幸せには不要だと頑なに信じ込んでるだけだ。

 

 自分とアタシの幸せのかたちが分からない、ばかで可哀想なやつなのよ……そう、そんなの成長でもなんでもない。

 

「私はお兄ちゃんの仇であるあの人以上に、使徒や人類補完計画が憎い。それをあの人が覆滅してくれるならその手助けをしたい、そう思てます。それだけが望みです。でも惣流さんは違うんですよね。仕事中でも気が付くと、視線は碇さんを追っている。気付かれてないと思うてました?」

 

 アタシは黙って話を聞くしかない。こいつもやっぱり女だ。女はそういうところをちゃんと気付くわよね……。

 

「隙あれば、引退してあの人と夫婦(みょうと)、になりたい……数年間だけのいじましい逃避生活をしたいといつも思ってるのと違いますか?だから私があの人の女房役をやらなくちゃいけないんですよ、今の弱いアナタじゃあの人の戦う役には立たないから。私は何だってしますよ、あの人が使徒やゼーレと戦う意欲を出せるなら、その為に抱かれてあげたって……」

 

「ふざけるなっ!」

 

 事務用テーブルの天板とアタシの拳がぶつかり合って、鈍い音を立てる。

 拳はもちろん痛いが、サクラの言葉が喚起する想像の方がそれ以上に心に痛い。アンタがシンジに抱かれる?ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなっ!

 

「アタシだってシンジの役に立とうと努力してる。身体だって優しさだってアイツが欲しがりそうなものは、何だってあげてきた。何にも知らないあんたが、勝手な事ばかりグダグダならべて……もしも、あんたがアタシとシンジの間に割り込んだら、絶対に殺す!シンジはアタシの男だ。誰にも渡すものか!」

 

 アタシがどんなに苦労してシンジを愛して来たのか。アタシがどれだけの物をシンジにだけ注ぎ込んで来たのか。それが十分の一でも分かるなら、誰も決してアタシからシンジを奪おうなどとはすまい。だいたい、なんでわざわざあんなダメな男を盗ろうとするのよ。アタシ以外に他の誰だって、持っていてもしょうがないものじゃないか……アタシにしか価値がないんだ、シンジはアタシだけの宝物なんだ……子羊一匹を可愛がってる哀れな貧者から、子羊を奪わないでよ……

 

 だからアタシは視線でコイツを今すぐ睨み殺してやりたい。不潔な女。絶対に許せない。

 

「ですから、それは碇さんがそれを望んだ場合の話ですって。私にそんな感情はありません。……惣流さん、あなたものすごく格好悪いですよ。碇さんの事ばかりで頭をいっぱいにして、お兄ちゃんに聞いていたような優秀、有能なエリートパイロットの面影は欠片もない。男に溺れてる単なる弱い女じゃないですか。貴女がネルフに居るのは場違いですよ。とっとと専業主婦にでもなったらいかがですか?自分で言い出せないなら、私からも碇司令に口添えしてあげましょか?あなたが泣いて懇願すれば、きっと碇さんのお嫁さんにしてもらえる……」

 

 は。今さら、結婚なんて……

 

「してもらえない……もうそんなの無理なんだ」

「どうしてです」

「シンジは今でも世界の敵だ。そして、アタシやアタシたちの子供がそうなるのを望んでない」

「はぁ……そんなの、あの人のいつもの逃げじゃないですか。別に結婚が禁じられてる訳でも何でもない」

「そんなの分かってるけど、シンジが拒めば、結婚なんて強要できない」

「ま、そういう男の子と女の子のグダグダは二人の間で勝手にやられたらええんです。でも、碇さんは、あの子を─六分儀アイさんをずっと彼女の成長を見て来た─といっても正味の成長期間は10ヶ月ぐらいですが─専属医官の私ではなくあなたに預けたんです。その理由は勿論分かりますよね」

 

 六分儀アイはシンジに「そっくり」だ。シンジではないもう一人のシンジ。だからシンジはアイをアタシ以外の他の女には任せられない。そんな事は分かっている。けれど。

 

 アタシの表情から理解の色を見て取ったのか、サクラは静かに言った。

 

「分かっているなら自分の役割は果たしてください。色んな人から、これまでの話は聞いてますけど、碇さんと交互に二人で同じような事を繰り返すのはいい加減にしたらどうなんですか。碇さんが逃げたら惣流さんが怒り、碇さんが立ち向かっていたら惣流さんが逃げ出す。似た者夫婦にも程があります」

「……ふん」

 

 アタシはその言葉には批判の内容ほどには反撥しなかった。確かにシンジとアタシは同じところをぐるぐる回っているだけ。二人は同じだから。

 

「似た者夫婦って言われると嬉しいんですね。やっぱり中学生ですわ。碇さんと男と女がする事も沢山してるんでしょうに。中学生並みの形容で喩えられるカップルなんて、別に誉めてはいないんですよ」

 

「……別に似た者夫婦と言われたから嬉しいんじゃない。まだ、アタシたちみたいにボロボロの男女にも対で認められる関係がある、その事に安堵しているだけ。アンタも勝手に『正妻』を気取っていればいいわ。畢竟、アイツとアタシの問題は二人だけの問題だ。昔も今も未来も、第三者なんて関係ない。いつだって他人は無関係だったんだ」

 

 アイツがアタシにちゃんと向き合えるか。

 アタシの想いを受け入れてくれるか。

 それだけが問題なのだ。

 

 そう思うと、散々アタシを挑発してきたサクラへの怒りも静かに収まってきた。

 

「その意気ですよ、()()()

「……ばっかじゃないの」

「私に公式の場でそう呼ばせるように頑張って下さい。惣流さんが、()()から『正妻』の座を奪う日を楽しみにしてます」

 

 サクラがやんわりと浮かべた微笑みが気に入らなかった。すごくひねくれた、遠回りする形で叱咤激励してくれてるとようやく分かったから、泣きたくなった。なんでアタシの周りはこんなのばっかりなんだ。アタシは周囲にこれっぽっちも優しく出来てない。サクラの言うとおり、シンジの事で頭が一杯で、仕事や任務だって中途半端だ。それなのに、みんな、アタシとシンジに優しすぎるよ……。

 

 

「あの……アスカさん、これからよろしくお願いします」

「ま、適当にくつろいで。アンタの部屋はその一番奥。自由に使っていい」

「ありがとう」

 

 二週間前、アタシに新しいパイロット候補生の少女と一緒に暮らして欲しいのだ、とシンジが告げた時、イヤな予感はしていた。確かに三十路の独身男が十二の小娘と暮らせる訳がない。それでも、そういう理屈を超えて、イヤな予感はアタシの中に残っていた。そして逢ってすぐに予感が正しいと分かった。 

 

 だけど、アタシにはこの子を拒めない。シンジに似すぎている少女のすがるような目を拒める筈がない。

 

「また、一緒に暮らせるね、アスカ……さん」

「また?」

 

 アタシが片眉を上げて、疑問を露わにすると、アイは、不思議そうな顔をした。

 

「ミサトさんと一緒に暮らしてたでしょ、ボクら三人で」

 

 アイの一人称はシンジと同じ、ボクだった。

 

(……そういうこと、なのか)

 

 その後、少しずつ分かってきたのだが、アイという少女には過去の記憶がない。いや、あるのだが、著しく混乱している。アイにとって、アタシは空母オーバー・ザ・レインボーの甲板上で初めて出逢った恋人未満の級友であり、戦友であるようだった。年齢が遥かに上なので、アタシをアスカさんと呼ぶようにしている(シンジかサクラが教え込んだのだろう)が、アタシとあの日、初めてキスした日の記憶もあるし、アタシとの初体験の記憶もある。アイの記憶はおおよそその辺りのサードインパクト直後で打ち止めとされているようだ。いっぽう、アタシを量産型から助けられなかった記憶などは曖昧で、それはトラウマや退行に繋がる要素は慎重に作り物の記憶からは排除されていることを物語っていた。

 

 自分とアタシとの関係、年齢に関する混乱、自分の性別に対する自認の混乱は随所に見られたが、それ以外はごく常識的で少しだけ内気な少女だった。

 

「アイは料理が上手なのね」

 

 アタシは次第に家事のうち、料理を中心にアイに任せるようになっていた。

 

「だって、ボクがお弁当とか作ると、アスカ……さんがいつも凄く喜んでくれるから」

「……そう」

 

 アイの一人称はボクで、それでも自分がアタシと同性であることは何とか理解しているが、それが何かの支障になるとは思っていない。

 だから、沈黙が続く夜に、何かの拍子にキスを求めて来ることもある。もちろん、アタシは首を背けて、それを拒絶する。

 

「あなたとそういうことは出来ないわ」

「どうして?アスカ……さんもボクのこと、好きなんでしょ」

「……アタシが好きなのは、アナタのお義父さん(シンジ)。アタシはアナタのお義母さんみたいなものと思って頂戴」

 

 アイは深く傷付けられたような顔をする。アイの自意識や記憶の中では、アタシはアイに気を持たせるような素振りを沢山してきた女ということになるのだろう。「彼女の」記憶は十八年前で止まっている。十八年経って、突如目覚めたら、恋人未満の、しかし初体験まで交わしていた少女が、なぜか自分を拒んでいる。さぞや訳が分からないことだろう。

 

 初めてのキスに誘い、初めてのセックスを許し、しかし、今は理由なく拒絶する。別の男(シンジ)が出来たと言って。アイはアタシに裏切られたという気持ちになっているのだろうか。

 

「ネルフの人に聞いたよ。同性とのキスは浮気にはならないって」

 

 アタシに対するネガティヴな記憶が薄い分、そして、アタシと身体の繋がりがあると屈託なく思い込んでいる分、アイはシンジよりもアタシに対して積極的で、ある夜など、そんな事を言ってきた事もある。

 相手を伏せて、恋愛相談でもしたのだろうか。誰かの軽率なアドバイスに腹が立つ。渋面を作り、アタシは反論する。

 

「……アタシはそうは思わない。たとえアンタとでも、浮気は浮気だ。アタシは絶対にシンジを裏切らない。たとえ唇一つでも」

 

 アタシはハムレットの母親ガートルードの女の弱さを毎夜、乗り越えていく。一生、シンジとだけでいい。いや、シンジとだけがいい。

 

 しかし、シンジは一体何を考えているのだろう。この子とアタシを同居させたのは、結婚してくれないシンジの代替品のつもりか? 同性相手になら、あるいは自分の分身相手になら、アタシを寝取られてもダメージがないとさえ、思っているのか?

 

(……いや、単に何も考えてないだけか。アイのアタシへの気持ちなどどうせ知らないのだろうし)

 

 アタシはシンジの鈍感さあるいはアタシやアイへの無邪気な信頼が恨めしい。こんな三角関係、アタシは望んでなどいなかったのに。

 

 そろそろ秋が終わり、冬が訪れようとしている。

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