─起きなさい、シンジ君
─あなたのやるべきことは、まだ残っているわ
それは懐かしい声だった。
懐かしさの余り、心を壊されるような、精神の奥底に封じてきた─思い出したくない、暖かな声だった。
「いい加減に起きろ─とっとと起きなさいよ、ねぼすけ」
僅かにまぶたを開くと、視線に入ってきたのは赤。
赤のベレー帽にジャケット、紺のブラウスとタイトスカートを着込んだ長い髪の女性が、ホテルの窓からの逆光を背に腕を組んでいる。
「……んん、……ミサトさん……」
「誰がミサトよ。二十年来の戦友にして、自分の女を忘れるとはどういう了見かしら」
よく見ると、ベレー帽の下、濃いめの色の金髪が逆光を浴びて、色を喪い、まるで黄金色にたなびく草原のように窓の前を彩っていた。
むろん、葛城ミサトの筈がない。
「……アスカ」
「いつもの制服なのに、何を見間違えているのかしら。ま、これは確かにミサトのお下がりだけど」
「ごめん……夢を見ていたかも。でも、」
「ミサトを相手に、いやらしい夢でも見てたんじゃないの、やーねー」
一見、不機嫌そうな口調だが、アスカの機嫌が悪くない事はすぐに分かった。ゆうべはあれから二回も情を交わした。終わった後も別々に寝ずに、そのまま抱き合って眠った。起きてみると、なぜかアスカの表情は妙に明るい。
「……そんな夢じゃないよ。でも、そうやって制服を着てると、確かにあの頃のミサトさんみたいだ」
「当時のミサトよりもアタシは年上なのよ。勿論アンタもだけど」
「今のアスカの方が若く見えるよ」
あの頃は、シンジにとってミサトは仰ぎ見るような大人だった。だからそう感じたのかも知れない。シンジはその時のミサトの年を越えても、あの頃の彼女に近づけている気はしなかった。
「ふーん、良いのかしら、そんなこと言って。じゃあ今度ミサトや加持さんに会った時に、ミサトはおばさんだってシンジが言ってたわと、言いつけてやろ」
そのアスカの言葉に、シンジは俯いた。
「……」
「アンタも偶には会いに行った方がいいわ。向こうは待ってるわよ」
「……僕は会わない。僕のことなんか待ってない」
「ま、いいけどね」
表情に影が差すシンジを見て、アスカは肩をすくめる。そして、部屋の隅にあったルームサービスのワゴンを指して、
「少しは食べなさい。私はもう行かなくちゃならないけど。こき使うどこかの上司のせいで、エヴァの起動試験があるから」
「ありがとう……でも僕は食欲がない、アスカが食べて行ってよ」
「アタシが食べたって、アンタが元気になる訳じゃないじゃない。別々の人間なんだから」
そう、どんなに深く愛し合っていても、或いは、愛とやらはそれ程でもないが、惰性で期間だけは長く続く愛人関係であっても、いずれにしても結局は他人である。その、我と彼とが別々の人間であることを守り続けるのが、すなわち人類補完計画の阻止であり、新生ネルフの至上目的だ。
(要するに、アタシはこいつと永遠に分かり合えないようにするために仕事をしている。今日みたいに愉しい日も稀にあるけど、ね)
そうは言いながら、アスカはワゴンの上からデニッシュを一つ摘まんだ。そして、半分ほど噛み千切った後、ベッドに歩み寄って、シンジの口に手で持っていた残りを入れる。
「ほら、あーん」
「う、うん……んぐっ……」
二人して、同じパンをしばらく咀嚼して飲み込んだあと、アスカは言った。
「美味しいでしょ?ここのホテルのは評判なのよ」
「うん……まあ。アスカ、今日はすごく機嫌がいいね」
「ダメな愛人に、久々に愛されたからね」
「……そう、かな……」
「繋がるだけじゃ、余計寂しくなるだけよ。夕べのこと、よく考えて」
それからシンジの髪に手をやって
「寝癖、ちゃんと直してから来なさいね。ちゃんとしてれば、それなりの男なんだから」
そして、
「アンタがちゃんとした格好をしてないと、アタシも恥をかく」
二人の愛人関係はネルフでも公然の秘密だったからだ。もちろん、それはアスカにとってある種の風当たりの強さにもなる。知らない人間から見れば、色香で司令からの優遇を得ているようにも見えるだろう。
(まあ、そんなやっかみはどうでもいいわ。)
そもそもアスカとシンジは、新生ネルフを立ち上げる前、中学生からの繋がりなのだ。赤い海の打ち寄せる浜辺で憎しみあい、そして、結ばれた頃からの関係だ。
(アタシが苦しんでいても、何もしてくれなかったシンジ。それどころか、アタシを穢し、殺そうとしたシンジ。でも、アタシにはアイツの気持ちが分かっていた。だから、許した。受け入れた。自分の中にアイツという異物が入ることを、ね)
でも、シンジにはどうやらアスカの気持ちが分からないらしい。
それが男という生物の限界かも知れない。欲望だけがあって、抜け落ちたように、共感力に乏しいのだ。
しかし、無い物ねだりをしてもしょうがない。男がそんな生物なら、それに絶望しないで、太古の昔から、添ってきたのが女だ。いつかは分かり合える、そういう希望は、アスカとシンジだけではなく、女と男そのものに横たわっているように、アスカには感じられた。