イブのディナーは、アスカとアイの二人だけで始まった。アスカはアイの斜め前に座っている。アスカは新調した深紅のオフショルダーのパーティドレス、アイはアスカのお下がりの黄色いワンピースを着ている。
シンジからの連絡がスマホに入り、仕事で少し遅れるというのだ。それを告げると、アイは薄く笑った。
「ある人間が死ぬほど欲しいもの、手に入れたくても手に入れられないもの……それを手に入れている人は、むしろぞんざいに扱うことってあるよね」
もちろん、アスカにはその皮肉の意味する所が分かった。
アイとアスカの関係はあれからギクシャクしている。アイはアスカを殊更、事務的にあしらう、これまでアスカがあえてアイにそうしてきたように。しかし、アイはアスカへの想いを断ち切れたわけではない。そうあろうと努力しているが、時々断ち切り難い想いが見え隠れする。
「仕事だから……しょうがないわよ」
「ボクならアスカ……さんより大事な仕事なんてないよ」
「アタシとシンジは大人だから、そういうことはある」
それにアスカとシンジは恋人ではない。そこまで相手に求める事は出来ない。それはお互いにそうだった。
「自分だって納得してないくせに。ちゃんと約束を守って欲しかったって思ってるくせに」
「でもしょうがないんだよ、男なんてそんなものだ。みんなそう思って我慢してるのよ、女は」
「ばかばかしい。なんで男なんか……」
アイの言いたいこともアスカには分かる。……それでも、女は男を愛する。アスカはシンジを愛する。せいぜいニ、三十分の事で、十八年を捨てるわけにはいかないのだから。
「ごめん、それでもアタシはシンジが好きなの」
「約束を守らないことも、……その、前に言ってた、欠けてることだから?」
さすがにそれは強引すぎて、アスカは苦笑してしまう。
「ま、そんな大袈裟なことじゃなく、遅刻一回ぐらいで怒ってたらキリないよ。アイツはもっと酷いやらかしを繰り返してるんだから」
「それで、アスカ……さんは繰り返し傷ついて……それでもなぜ?」
「分からない……」
でも一つだけ言えることがある。
「アイツのやることだから、許してあげたい」
「……」
まあ、それだけのことだ。そのうち忍耐が切れるかも知れないけど、とりあえずはそこまでは……ね?
「ところで、霧島さんはどう?」
アイの言葉が途切れたので、彼女の近況に生じた最も大きい変化に話題を転じる。
「まだ分からない、数日しかお会いしてないんだから。でも……」
「でも?」
「でも、不思議な人。初めてです、ああいう人」
「明るいわよね。何考えてるか分からないぐらいに」
「むしろずっと物を考えてる気がする。天真爛漫だけど、策士で。でも、人を動かす前に自分が動いて。……暖かくて」
─初日から、アイのネルフ内での控え室をめぐって、霧島は一騒動起こした。曰く、こんな部屋、殺風景すぎる。ちゃんと、人間らしい暖かみのある部屋にするべきだ。誰も気にも留めていなかった視点だった。そして、気に留めて然るべき視点だった。アイはパイロットなんだから。若くして、命を賭けて戦うんだから。気に留めなかったアタシたちが、ひどい人間に思えた。何も仕事をしていなかったように思えた。
そして霧島は佐官だというのに、いきなり庶務の所に乗り込んで、必要なものの購入について、色々と相談していた。偽窓にカーテンにクッションにぬいぐるみ……いささか少女趣味で、「税金」の使い道としてはどうかと思うようなものもあったけど、霧島は一つ一つ説得し、会計規程の解釈をうんと拡げ、何より明日をも知れぬ身で戦うパイロットの気持ちを諄々と説いた。
そんな風に面倒な話ばかり持ち込んだのに、なぜか庶務部門の担当者の中に、霧島ファンともいうべき連中が何人も出来たとアタシは知った。霧島さんは暖かい、仕事をたんまり増やしてくれた、だけど、楽しかった!……大袈裟な事を言えば、初めて仕事をしている気持ちになれた、と、晴れ晴れをした顔をして。アタシはこれまで部員にこんな顔をして仕事をさせられた事があっただろうか。
アタシとは、全然違う。
ああいう人間になりたかった。ああいう風に生きてみたい。
たぶん、アタシだけでなく、多くの人間がそう思うのが霧島マナだ。
「シンジが言ってたわ。あの子をあなたの教官に選んだ理由。─霧島さんは、仕事を仕事だと思ってこなさない人だ。割り切ったり、いい加減にしたりはしない、ちゃんとアイの事を考えてくれるはずだって」
一年に一度の演習以外の接触はなかった、シンジにはそう自白させているが、たったそれだけの接触でも霧島の存在は、シンジに強い印象を残したようだ。
「そう……ですか」
「お義父さんのこと、あなたはそんなに好きになれないかも知れない。でも不器用なりに父親を演じようとしている。だから少しでいいから、好きになってあげて。もちろん霧島さんもね」
─まあ、霧島のことは言われなくても、だろう。霧島は皆が好きになる。もしかしたら、考えたくはないが、シンジだって。だから、アイがアタシのようなつまらない女を忘れて、霧島さんに新たな居場所を見つけ出してくれればいい。
問題はシンジとアイだ。父ゲンドウとシンジの間に確執があったように、養父シンジとアイの間にも確執がある。本当の親子ではない、しかしある意味では血の繋がった肉親だとは言える。もし、アスカとシンジが普通に結ばれていれば、アスカはやはりこうして思春期の実娘と父親の仲立ちをしていたかも知れなかった。
三十二と十二、親子として有り得ない歳ではない。
アイは曖昧に頷いて、ポツリと言った。
「別にお義父さんのこと嫌いなわけじゃない、でもアスカ……さんの相手として、どうかと思っただけ……」
「それ、いっつも言われるのよね。でもアイツ、ネルフの司令なのよ。あの若さで。落とせれば玉の輿じゃない」
本当は興味もない俗な話でアスカは混ぜっ返してみせる。実際に一部にはそんな風に見られてるのだ。司令夫人の座を狙って、身体ですがるが本気で相手にされていない、適当に遊ばれている、などと。
「それにアタシも若かった頃ならいざ知らず、もう嫁き遅れの三十路だから……今さら他に乗り換えられないよ。ずっとつるんできたシンジがちょうど良いんだよ」
「そういう話じゃなく……あの人と居ても、アスカ……さんがけっきょく幸せになれないんじゃないかって……反対してるんじゃなくて、心配してるだけ、だよ?」
「ありがとう。でも、……もう幸せになれなくてもいいかなって時々思うのよ。シンジと一緒に居られればまあいいか、って、その辺で妥協して」
(だって別れるよりはマシだもの。もう二度とシンジと会えなくて、話が出来なくて、抱きしめても貰えない……そんな風になるぐらいなら、愛人だってなんだって傍にいれる方がいい。……サクラだってそう言ってたじゃないか)
投げやりにも聞こえる否定的な言い方に、アイは俯いた。アスカからそんな言葉ばかり聞くと、せっかく二人を応援しようと思っていた心が挫けそうになる。
「ダメだよ、そんなんじゃ!」
「アイ……?」
アイは、ぎゅっと自分の黄色いワンピースの裾を掴み、意外なほど強い口調で言った。
「昔のアスカ……さんは、もっとキチンとしていて自信や凄みがあった。間違っていることは、ちゃんと指摘して、ボクを叱ってくれた。だからアスカ……さんも、格好良かったんだよ。皆が憧れてたんだよ。お義父さん……いや、シンジさんを甘やかすだけのアスカ……さんは、ダメな時のシンジさんのレベルにまで一緒に下がって行くんだよ。二人でどんどん堕ちていくんだよ。みっともないんだよ……」
─確かにネルフに入ってからのアタシは、とりわけ最近は、何で生きてるんだろうと思うぐらい、腑抜けている。楽しみというか生きている意味はシンジと定期的に寝ることぐらいだ。いや、本当は寝ることよりも、もっとシンジとお話がしたい、でもシンジはアタシともあまりお話ししてくれないから……だからいつも寂しい。一緒にいれるだけで幸せだろうと難詰したのは鈴原サクラだが、そのサクラが一方で、早くシンジに嫁に貰ってもらえと言った理由もわかる。もちろんアタシだってそうしたい。でも、シンジはアタシを貰ってはくれない。
「知ってるよ。……アタシね、シンジと結ばれてから多分、弱くなっちゃったんだ。欲しいもの全部手に入れちゃったからかもね。心のどこかでシンジさえ居れば他の事はどうでもいいと思えるようになっちゃったんだから。だからね、もうシンジと本当の意味で結ばれるのは無理なんだろうな、って感じる事もある。シンジといくら話しても、よく分からないんだ、抜け出し方が。叱ればアイツは閉じこもる。甘やかせば変な結論を出してくる。むしろ、シンジとの恋が幼い頃に叶わなかったら、アタシたちはちゃんと大人になれていて、今頃ゴールインしてたかも知れない」
「だったら!今からでも二人でちゃんと大人になってよ、ちゃんと幸せになってよ!」
ディナーの場面に合わせた抑制的な声ながら、アイの訴えは切実で。でも、アスカには答えなんか何もない。
「大人になる方法、そんなもの……ネルフでは教えてくれなかったのよ……ましてや幸せになる方法、なんてね」
アスカは深く溜め息をついた。
……三十路の大人が、子供相手に言うことじゃないのかも知れない。本当に自分で言っていて、情けない。でもアタシたちの心は、十八年前からぼろ雑巾のようで、それに見様見真似で継ぎ接ぎを当てながら、シンジと二人でなんとか生きてきただけなのだ。何度、シンジと二人で死のうと思った事か。幾度、来世での幸福というバカバカしいおとぎ話を笑い飛ばそうとして、完全にはそうできなくて苦しんだか。
教わったことなら、元エリートパイロットのアタシは完璧にこなせる。教わらなかったことは、アタシもシンジも、何も──知らない。それを教えてくれたかも知れない大人たちは、LCLの海でしじまの中に溶け込んでいる。
◆
けっきょくシンジは十五分、遅刻した。しかし、アタシの新しいドレスと昔のワンピースを着せたアイの姿は、シンジを十分にドギマギさせていたので、待たされた分に見合う溜飲が下がった。一方、シンジは下ろしたてのスーツに身を包み、髪もきちんと整えている。元々昔から清潔感はある男の子だったけど、ここまできっちりしていると、いつもの冴えないシンジではない。あるいはそのために遅刻したのかとさえ疑うほど、きちんとしていた。
席に座ってすぐシンジはぎこちなく、アタシとアイにプレゼントを差し出した。あたかも忘れてしまって渡しそびれる前に、といった焦りを露わにして。二人に渡された小箱を包み紙を綺麗に剥がしてから開けると、どちらもブランドものの銀のアクセサリーであることが分かった。アタシにはイヤリングで、アイにはハート型のロケット。どちらもかなりの値段のものだろうが、シンジのチョイスではないと思った。恐らくは店員の勧めたものだろう。妻と娘に、などと取り繕って選んでもらったのではないだろうか。もしそういう取り繕いをしたのなら、そこから何かを感じて欲しいのだけれど……。
でも、嬉しかった。シンジからのプレゼントなんて、同棲時代に貰った事があるぐらいで、本当に久しぶりだ。貰えるなら何だって良かった。シンジがこれを選ぶために、悩んで、仕事で忙しい中、時間を割いてくれたことが嬉しかった。センスが悪いとか、ブランドが嫌いだとか、そういう事でせっかく貰った男からのプレゼントを批判する子もいる。でも、それは普通の女の子の意見なんだろうけど、アタシにはすごく贅沢な気がする。プレゼント自体を貰いつけていないアタシにはシンジから形のある気持ちが示されるだけで、狼狽える。舞い上がってしまう。シンジが不器用だと知ってるから、それでも一歩勇気を出して歩み寄ってくれたことに、心が浮き立つ。
アタシは早速イヤリングを耳に付け、シンジからの「可愛いよ」という言葉に悦に入る。何歳になっても綺麗だよと言われるより、可愛いよと言われたい。だって、アタシとシンジは心の中ではずっと出会った頃の十四歳のままなのだから。可愛いよという言葉は十四のアタシが十四のシンジには決して言ってもらえなかった言葉だ。二度と言ってもらえることのない言葉だ。アタシはそれを三十台でようやく取り戻す。
お返しにシンジに包装した細長い箱を差し出す。自分の心が温まっているうちに、シンジにも温かくなってもらいたい。アタシの気持ちで包んであげたい。
「アメリカ式にビリビリに破いて開けてもいいよ。てか、そうして」
「えっ、そうなの。……やってみる」
なんだか、不作法な感じがして少し気が咎めるが、アスカはアメリカ国籍だからその方がいいのかも知れない、そう思って、シンジはひと思いに包装を破いていく。そして、箱を開けて、中身を確認した。
「マフラーだね……あれ、これは」
「覚えてくれてた?そう、シンジが松代に来た時に、アタシが用意してたやつ。ずっと渡しそびれていた。新品じゃないし、高いものでもないけど、高校生の時のアタシの気持ちだから。ずっとシンジに渡したかった気持ちだから」
「ありがとう……紫色なんだね、ちょっと珍しい?」
「うん、アタシの赤のマフラーとペアなんだ」
それで、シンジもやっと分かったようで、少し寂しそうな、それでも懐かしむような顔をして、頷いた。
「そうか……初号機と弐号機なんだね」
「そう……大人になってからエヴァカラーって、アタシたちの過去を考えるとどうかなって思う気もするけど、別にエヴァに乗ってたこと、ぜんぶ否定しなくてもいい気がする。シンジは嫌がるだろうけど、リハビリがてら、時々はガギエル戦やイスラフェル戦のことも話そうよ。アタシにはシンジと二人で戦った大切な思い出だから、さ」
そう、アタシは無闇にシンジと身体の繋がりだけを求めてる訳じゃない。本当はもっとシンジとお話がしたいのだ。
「うん……そうだね、リハビリ……だね」
「あの……こないだは、変なこと言ってごめん。シンジをバカにする積もりはなかった」
アタシが謝ったのは、浮気を疑われるような事をするぐらいなら、シンジと二人で試みている性的機能回復の為の「リハビリ」なんかやめてしまえばいいと言った件だ。アイの前だからあんまり、直接的には言えないが、あんなことを本気で考えるのは、シンジを自分の都合のいい性的玩具にしてしまうのと同じことだと、思い至った。
「やっぱりリハビリは必要だよ。色んなリハビリをしようよ。アタシたちの関係をもっと建て直そう」
そういう風に思えたのは、多分、アイがさっきアタシを叱ってくれたから。背中を押してくれたから。当のアイが複雑な顔をしているのは申し訳ないけど、それでもあえて踏み出すのが勇気だ。
「うん、そうだね……ありがとう、マフラー。嬉しいよ、アスカ」
それから、シンジに少し席を外してくれるように頼んだ。アイにプレゼントを渡したいが、シンジの前では話せないこともあった。でも、この場では渡したかったのだ。
シンジが頷いて、子細も聞かずに、ロビーで一本、仕事の電話をしてくるよと席を立ってくれた。その背中を見送ってから、アタシはアイに向き直った。
アタシはベルベットのアクセサリーケースをアイに差し出した。アイは黙って受け取って、尋ねる。
「これ、ボクに?」
「ええ、開けてみて」
そう促すと、ようやくアイは上開きのケースの蓋を開いた。そこには赤い三角形のアクセサリーのようなものが二つ入っている。
「これ……アスカ……さんの」
「そう。アタシが昔使っていたエヴァ用のヘッドセット、使い古しで悪いけど良かったらもらってほしい。ステージ2エヴァでも使える筈だから」
エヴァパイロットが戦自に捕まり次第、射殺されるかも知れないという危機感の中で、シンジと逃亡していた時には、正体が露見しにくいようにヘッドセットを頭から外していた。それ以来だ。アタシが頭にヘッドセットを付ける習慣をやめたのは。でも、逃亡中もリスクを承知で捨てられなかった。あの時、捨てなかったのは、当然エヴァパイロットとしてのこだわりや矜持によるものだった。それをアタシは捨てられなかった。しかし、捨てられなかったもう一つの理由は、今日ここでアイに渡す、その運命の導きのためだったのかも知れない。
「……いいの?だってこれ、アスカ……さんは……」
「うん、大切にしてたよ。だってあの時アタシの一番はエヴァだったから。それが存在意義だったから。でも、アタシはもっと大切なものを見つけたんだ」
そっと、ロビーのシンジの背中を目で追いかける。
「アイの気持ち、嬉しかったよ。どう向き合っていいか、けっきょく分からないけど、好意が嬉しくない筈がない。でも人間は哀しいよね、人間は一対なんだ。たまにそうでない人たちもいるけれど、多分それじゃ幸せにはなれない。それはアタシの考えで、本当は違うのかも知れないけどそう思うんだ」
アタシにはシンジが居る。それはどうしようもないことだから─
「だから、アタシはアイにアタシの少女時代をあげる。アンタの思い出に残っている、エヴァに夢中だった頃のアタシ。それがそのヘッドセットだわ」
アイはぼうっと、夢見るような心持ちで赤いヘッドセットを眺めていた。
「このヘッドセット、……していいの?」
「勿論よ。ずっと一緒にいてくれたら嬉しい」
アイは頭に髪飾りとして、アタシの赤いヘッドセットを付けた。黄色いワンピースに、赤いヘッドセットをしていると、まるで、あの頃のアタシを見ているようだ。もちろん、顔は女の子になったシンジなのだけれど……
ごめんね、シンジ。アタシの一部だけをアイにあげる。だって、アイはアンタの一部だから。もう要らなくなった過去のアタシをあげるんだ。でも、それ以外の、現在のアタシの─エヴァから降りてからのアタシの全てはシンジ、アンタだけのものだから─
きっかり十分後に戻ってきたシンジは、アイの頭を見て、息を呑んだ。でも、言葉に出しては何も言わずに、優しく微笑んでくれた。
アイは、頭のヘッドセットにそっと手をやり、シンジから貰ったロケットはそのまま箱に戻して、ポシェットにしまった。
「ボクからの、ううん……
アイは静かにそう告げた。その異変にアタシもシンジも何も気付いてはいなかった。
◆
三十分遅れて始まったディナーだったが、さすがに一流ホテルのシェフによるもので、満足いく味だった。でも、こんなにも絢爛な味に接すると、素朴な味も食べたくなる。例えば。
「そういえば、シンジの作るご飯って久しく食べてないわね」
「ああ、そう言われれば、そうかな。アスカに作ってあげた最後は学生時代だっけ……」
「今でも作ってる?」
「週末はね。平日はなかなか……」
「今度シンジの家で作ってよ、アイと食べに行くから。ねっ、アイ?」
「そうだね……」
最後のデザートを半分以上残して、ナプキンで口元を拭い、アイが立ち上がる。心なしか、血色が悪いようにも見えるので、アスカは声を掛ける。
「どうしたの?気分でも悪い?」
「ううん……でも、お手洗いに行ってくる」
「アタシも一緒に行こうか?」
「大丈夫」
アイは立ち上がると、ポシェットを肩から掛けて、レストランの外にあるロビーのトイレへと向かった。
それから十五分が経過した。
「アイのやつ、ちょっと遅くない?」
「そ、そうだね……」
さすがに訝しみ、シンジが腰を浮かしかけると、丁度その時、テーブルにホテルマンが一人やってきた。
「碇さま。こちらが本日のお部屋の鍵です」
「え?部屋の?あの……娘を見ませんでしたか?黄色いワンピースを着た子で……」
アスカは話が見えず、一瞬戸惑う。それは上手に反応を抑制したホテルマンにとっても同様だったようだ。
「……お嬢様でしたら、タクシーをお呼びになってご帰宅されました。ご両親様のお部屋のお支払いは、ご自分が預かってるのでと仰られ、前払いいただきまして。……何か、まずかったでしょうか……」
「い、いえ、無事帰宅したなら、大丈夫です」
話を慌てて合わせて、カギを受け取ると、アスカは俯いた。そして直ぐに答えに行き当たる。
ホテルマンが去るのを待ってから、アスカは口を開いた。
「……これがアイからのプレゼント、なんだね……気付かなかったな。お小遣いをためて……?」
まだパイロット候補段階のアイにはネルフから給与は出ていない。しかし、シンジは年齢に相応以上の小遣いをポケットマネーから与えていた。
「え……それって、つまり……」
「あの子、シンジとアタシにクリスマスの夜をプレゼントしてくれたみたい。無理しちゃって」
アイは、アスカがシンジと定期的に会っている事は知っている。そしてその時に何をしているかも。中学生なら、具体的な想像は若干難しくても、おおむね理解しているはずの営みだ。対象の片方が自分の想い人であるならば、それは吐き気さえ催すような生理的嫌悪を伴うかも知れない。それが相手を独占し、自己の子孫を専ら残そうとする生物の本能だ。たとえその想いが一方的で身勝手なものであったとしても。そこから導かれる愛という感情もまた、自分と相手以外の第三者の存在を排斥する排他的な想いに他ならない。
「でも、アイはアスカの事が好きだって……」
「そうね。それでも、というべきなんでしょうね。いや、だからこそ、というべきなのかな……」
アスカが好きだからこそ、自分の気持ちを抑え込み、アスカの気持ちを尊重して、その後押しをする。アイの選択はそういう事なのだろう。きっと、アイは帰りのタクシーの中でわあわあ泣いている。
「あんたが十年近く前にやろうとしたこと、それと同じよ。だから気持ちは分かるはず」
あの時、シンジは自ら身を引こうとした。猶予期間を設けつつも、アスカが自分から卒業するべきだと言って。アスカはそれを拒んだ。いつまでもいつまでもシンジから卒業せず、身体だけの繋がりを無理矢理に維持している。
「そんな……でも、そうしたら今晩アイは独りじゃないか!」
シンジは素直にアイからのそのプレゼントを受け入れる積もりはない。
「アスカ。アイを迎えにいこう。別に無理して今日泊まることはない。こんなことはいつでも出来るんだから。クリスマスは家族で過ごさなくちゃ。アイを独りにしちゃいけない」
……ふん、"こんなこと"、なんかじゃないわよ。そうやって、アタシとスルことを軽んじないでよ。何か不潔な事みたいな言い方をしないでよ。アタシとシンジにとって、それはたいせつな事じゃないか。アタシたちの愛は今となってはそこから汲み取るしかないじゃないか。
「でも、もうアタシたちにはそれしかないじゃない。そういうものを一歩ずつ積み重ねるしかないのよ。シンジはやっぱり男だから分からないんだよ……」
男は女を抱いて、毎回すっきりするだけかも知れない。でも女は毎回、最初の一回目と同じように純潔を捧げているのだ。少なくともアスカはシンジとのセックスについて、そう思っている。だってシンジから抱くにせよ、アスカから抱くにせよ、実際にはどちらであってもアスカがシンジの侵襲を受け入れているのであって、どうあっても逆ではない。だから、やっぱり本来は誰も受け入れてはいけないような怖れを感じさせる大切な箇所に他者であるシンジを受け入れているという気分になる。いつまでも、大切なものを捧げているという感覚は残る。そしてその感覚はアスカにとっては大事だった。
だから毎回同じの「いつものこんなこと」ではない。だからアスカは回数を今でも変わらずにメモに付けているのだ。その重みは最初の一回目と同じだから。どこでやってもいつもと同じではない。場所が、物語が、背景が、気持ちの流れが、二人の交接の意味を毎回変えてしまう。
─やっぱり、シンジは男だからそれが分からないんだ。シンジにとって、それは刹那の快楽だから。
だったら男の子ってかわいそうだ。女の子のこんな気持ちを一生知ることがないんだから。自分たちに向けられている切ない想いを知らないなんて。きっと女の本当の気持ちを知ったなら、そんなにも自分たちが愛されていると知って、男たちはしあわせになれる。でも、人類は補完されていない、相手の気持ちなど分からないから、愛されているのに、ヒトはしあわせになれないのだ。シンジみたいに。いや、アタシとシンジみたいに。
アイが自分のお小遣いをはたいて、自分の気持ちを押し殺して、そこまでしてお膳立てしたのは、決して毎回同じの「こんなこと」の為ではない。アイはやっぱり女の子だ。ちゃんと、それが分かってる。トクベツな夜にはトクベツがある。あの子はアタシたちにトクベツをプレゼントしたかったのだろう。
「シンジ、あの子も家に帰ったら寝るだけだよ、もう寝てるかも知れない。だから……あの子のプレゼント、受け取ろう?ムダにしたらダメだよ、あの子の気持ち、あの子の我慢……」
それなのに。シンジは頑なに首を左右に振るのだ。
「そんなことしたら、僕はもうアイに父親として接しられないよ」
「なんでよ。アイがアタシを好きだから?だからアタシを抱けないの?でも、アイがアタシを好きなのなんて本当じゃないのよ。本物の記憶じゃないんだから。みんなアンタの気持ちの借り物だ」
「違うよ……僕の気持ちの借り物なんかじゃない。あの頃の僕の気持ちの借り物だったら……本当は……僕は……」
「なにそれ、一体どういう意味?」
「何でもない……」
シンジの後ろめたそうな表情と言いよどんだ言葉の意味は何なのだ。
アタシにはその答えとして一つの推測があることはある。だが、それだけは絶対に心の中でさえ言葉にしたくないことだ。アタシは、だから、ただ単に深入りを避ける。
「とにかく、アイは僕の気持ちなんかとは関係なくアスカが好きなんだと思う」
「だからそんなの応えられないって!」
同性だから、異性愛者だからとかの前に、アイはシンジではない。シンジに似ていても別人だ。決して選べる訳がない。
「高校生の時にアスカが告白された時と同じなんだ、僕はどうしようもなくアスカに群がる男たちに嫉妬する。でもアイには……アイがいくらアスカを好きだったとしても……」
中学生の時、こいつはアタシに、これっぽちも嫉妬しなかった。大量のラブレターを貰っても、ヒカリの姉の紹介で先輩とデートをしても、加持さんの事で煽っても、少しも嫉妬はしなかった……。
高校生の時、シンジはアタシが告られるのを見て、口に出しては何も言わなかったが、嫉妬していたと思う。口に出さないのは、別に恋人でも何でもなくて、あの浜辺に至るまでの成り行きに、後ろめたさを感じていたからだろう、何も相手を束縛する資格がないと思っていた。もう、アタシとは身体の関係があった。しかし、シンジは、シンジとのセックスを持ちだすな、と、告白してきた相手の気持ちを考慮しないアタシの男の振り方に怒った。まだまだ恋敵になるかも知れない相手への余裕があったのだ。
大学生の時、シンジはアタシが飲み会で他の男と話すのさえ厭うた。シンジの嫉妬はあの時が一番激しかった。ぜんぜん余裕がなくなっていた。たぶん、シンジは松代の件で、間違えてばかりの自分がアタシに相応しいとはとても思えなくなったのだろう。一方でアタシとの身体の関係はどんどん深化する。自分の女だという所有意識が深まる一方で、それに相応しいとの自信が持てないから、嫉妬が激しくなった。つまらない男相手でも、誰かとアタシを争ったら誰にでも負けると思ってた。
それ以降は、ネルフに入って、アタシの周りに男の影は途絶えた。学生でもあるまいにネルフの中でラブレターを寄越すものもいない。司令候補そして司令となったシンジの愛人にわさわざ、ちょっかいを掛けてくる者もいない。もともと、ライバルとなりうる男など存在せず、実体ではなく影に怯えていただけのシンジだったが、それでようやく落ち着きを取り戻したのだ。案外、この「愛人時代」が一番長く続き安定しているのはそのためかも知れない。シンジとしては毎週アタシに甘えるだけ甘えて、責任は何一つ取らないで済んでいる。勿論、シンジがそれを喜んでいる訳ではないし、苦しくも感じていて、結果的にはお先真っ暗なんだけど、シンジもアタシもその場しのぎの関係に逃げている。
「……だけど、僕はどうしてもアイのこと、アスカを挟んだライバルだなんて思えない。アイは僕の娘だよ。本当の子供じゃなくても、娘だよ。クリスマスの夜に、泣いたまま独りで家に帰らせるなんてあっちゃいけないんだ。ねぇ、アスカ、一緒にうちに帰ろう。あの子を起こして、クリスマスケーキでも食べよう」
シンジはそう言って立ち上がると、アタシに向かって手を差し出した。
でも、アタシは差し出されたその手を握り返す事は出来なかった。アイの気持ち、アタシの気持ち、それを考えると、どうしても、それだけは握り返せなかった。
「何よそれ……あの子はアンタの娘かも知れないけど、アタシの娘じゃないのよ!勝手にアンタの自己満足な親子ごっこに巻き込まないでよ。あの子を選ぶか、アタシを選ぶかここで決めてよ!」
アイはシンジが勝手に作った子供だ。アタシの同意なんか一切なかった。勝手に作って勝手に世話だけ押し付けて、親子ごっこを演じさせられる。夫婦になんて絶対になってくれないのに、どうしてアタシがあの子と親子を演じなくちゃいけないの?
そして、あの子がどれだけ我慢して、アタシたちの為に身を引いたと思ってるのよ。アンタなんかが追いかけていって、泣いてるあの子を叩き起こして、アタシと三人で家族ゲームをやったって、残酷なだけじゃないか。あの子が惨めになるだけじゃないか。二人で過ごす夜をこんな風に拒否られて、アタシだって惨めになるだけじゃないか!
だけど、シンジには分からない。また、いつもの子供みたいな綺麗事があるだけだ。
「アスカはどうしてアイにそんなに冷たいんだよ!僕のアスカはもっと優しい女性だった筈だ。僕は今のアスカはイヤだ」
「僕のアスカ、ですって?」
アタシを自分のものにするための努力なんて一切していない、いつまでたってもアタシをシンジのものにしてくれない、そんなアンタがなぜ「僕のアスカ」とか言えるんだ?甘い言葉を都合のいい時だけ囁いてるんじゃない!アタシに、アンタ以外の第三者への優しさとか、勝手に押し付けないでよ!
「いつ、アタシがアンタのものになった?」
「えっ、だってそれは……」
「アタシがアンタのものになるのは、一週間に一度だけだ。勝手に所有欲を剥き出しにしないでくれる?……アタシはアイの所には行かない、今晩はここに泊まる。アンタは勝手にアイの所に行けば?もっともアンタが行ったって、どうにもならないだろうけど。シンちゃんはあの子に嫌われてるんだもんね。あの子からアタシを寝取ったのがアンタなんだから!」
それだけ叫んだ後、レストランで馬鹿げた愁嘆場を演じて居たたまれなくなったアタシは部屋の鍵を掴んで、店を出た。ロビーの受付でチェックインし、周囲の全てから逃げ出すようにして、部屋に上がった。
その後のシンジの事は知らない。アタシを追い掛けても来ないし、家の合い鍵もないから、アタシの家にアイを訪ねていくことも出来ないだろう。
アイツの間違った使命感が、またアタシたちの関係を壊した。アイの良かれと思って行った賢者の贈り物は、アタシたちを今度こそ引き裂いた。やっぱりアタシたちはダメなんだ、アタシとシンジは何度やっても上手く行かないんだ、何千回寝てもどうにもならないんだ。
アタシはダブルベッドの上にドレスのまま身を投げ出し、わっと泣き出す。新しいドレスが皺になっても構わない。もうどうでも良かった。アイも帰宅時、きっと泣いていただろう。アタシも今、号泣している。聖夜に二人の女を泣かせた天下の色男は今、呆然としているのだろうか。
クリスマスなんて来なければ良かった。
シンジとなんか出会わなければ良かった。