大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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三十二話 天はすべて許し給う

 あれから一月以上、経った。

 

 司令室で、着席するシンジの前で立ったまま簡単に報告を済ませながら……シンジのやつ、ずいぶん痩せたな……、と思う。まともに食事をしていないのだろう。メンタルが直ぐに食欲に直結するのがシンジだ。まあ、痩せたのはこちらも同じだけど。あんな悲劇的決別があって、食欲なんてまともに出るはずがない。シンジに定期的に与えられる懊悩で、こちとら四六時中、ダイエット要らずだ。

 

「……六分儀アイ・パイロット候補生の訓練結果の第六次定期報告は以上です」

「ありがとう……惣流さん」

 

 惣流さん、惣流さん、惣流さん……あれから耳がタコになるぐらい聞いた。前から仕事ではそう呼ばれていたが、二人きりの時にはアスカと呼んでいたし、それが自然だったのに。

 

 ─もう、僕と君はファーストネームで呼び合うような仲じゃない

 

 そう告げられているようで、アタシはその都度いちいち傷ついている。シンジはアタシの心を傷つける名人だ。呼びかけ一つでアタシを地獄に落としてくれる。

 

「それだけでいいのかしら?」

「え?」

「子煩悩なアイのパパとしては、ずいぶんあっさりじゃない?もっと色々聞かなくていいのかしら?アイはどうしてる?とか。プライベートでの様子とか、前みたいに聞いたらいいじゃない。あの時、愛人のアタシよりも、娘のアイを選んだんだから、もっとマイホームパパを演じてくれなくっちゃね。それとも、あれはクリスマス限定?クリスマスが終わったら家族ごっこには飽きたのかしら?」

「……仕事の用がないなら出て行ってよ」

 

 アタシの皮肉をたっぷり効かせた挑発に、いつになくふて腐れた態度のシンジだ。アタシは黒い制服の襟首を前から掴む。

 

「アンタって、本当に最低の性根してるわね。そうやって拗ねていじけて。アタシを傷つけるだけ傷つけて。それなのに何故か自分が被害者みたいな顔してる」

 

 もうシンジとは一カ月寝ていない。シンジから呼びもしないし、アタシからも呼びもしない。

 

「そもそもアンタの方から頭を下げてくるべきじゃないの?アタシはずっと待ってるのよ?」

「僕は……間違ったことはしてない」

「あの後、アタシの家に行ったんだってね。アイには会えたの?会えなかったでしょ?ケーキの袋を玄関ドアにぶら下げて、すごすご帰るしかなかった。正しい事なら、アイにどうして拒まれたの?」

 

 シンジはずっと他人や大人の顔色を窺って、取り繕うことだけ上手くなってきた人間だった。人から言われることだけ黙って従順にこなし、宿題は忘れたりせず、でも出された読書感想文には何の気持ちも籠もってなくて指定された本を読んでただ粗筋を書いただけ、みたいな人生のやり過ごし方をしてきた男だ。要するに突発的事態に対する応用やアドリブの能力はない。

 

 あの聖なる夜も、クリスマスは家族と過ごすものみたいな、期待される家族のかたちにアタシたちを無理やり当てはめて、それでちゃんとしてる親を演じたかったんだろう。それが分かりやすい、模範解答だと思ったから。

 

 一体、世界のどこに、自分と同じ遺伝子と記憶を持った娘がいて、その娘が自分の愛人に恋していて、いびつな三角関係になってしまったような「家族」があるんだ?

 

 アタシとシンジとアイの関係に、当てはまるようなサンプルやモデルケース。そんなものは無いんだから、一から自分の頭で考えて、アタシやアイの気持ちを思いながら、答えを出すしかないのに、こいつにはそれがわからなかった。そういう人の気持ちの機微を誰にも教えて貰ってないから、わからない。それなのに相手に丁寧に気持ちを確認もせず、ろくに話し合いもせずに結論を決めてしまう。シンジは一事が万事、その調子じゃないか。

 

 そもそも、偽物家族のかたちを取り繕う前に、本物の家族を作ろうとする努力が要るんじゃないのか?なんて事も勿論、考えてみもしない。

 

 襟首を締め上げる力に知らず力が籠もる。このままコイツを絞め殺して、アタシも死んでやろうか……

 

「SPが……飛んでくるよ……」

 

 シンジが苦しそうに言ったが、アタシの腕を押さえたりはしない。アタシになら、首を絞め殺されても文句は言えない、そう思ってるのだろう。あの浜辺から、ずっとずっとそう思い続けているのだろう。

 

 どこまでも哀しいね、可哀想だね……バカシンジは。

 

 でも、アンタが唯々諾々とアタシに絞め殺されて、アタシが幸せになれると思っているのかな?好きな男を殺めて、たとえ何の刑罰も下されなかったとしても、その事で女がどんなに苦しくて哀しい想いをするだろう、と想像できない─そんなバカの自己犠牲もどきなんか呆れてしまうけど。

 

「声を上げて、黒服たちを飛んで来させればいいじゃない、営倉にでも何にでも喜んで入るわよっ」

「士官……を……アスカを……営倉入りさせるわけがないだろ。難癖と嫌みは止めて……よ」

 

 営倉というのは軍隊部隊内に設置された独房だ。下士官兵が懲罰で入れられる。士官がそのような処分を受けることは通常ない。まして、シンジがアタシにそんな事をさせるわけがない。でも、アタシは別に営倉に叩き込まれても構わなかった。

 ネルフの司令であるシンジは階級上は将補(少将相当)。三佐(少佐相当)のアタシよりも、三階級も上だ。むろん男と女のそういう喧嘩に階級なんて関係ないけど、保安部からは抗命とかと取られて拘束されてもおかしくはない。

 

「アス……カ……」

 

 シンジが息も絶え絶えにアタシのファーストネームを呼んだので、ハッとなる。アタシはようやくシンジの襟首を放した。シンジが息が出来るようになって激しく咳き込んだ。

 

 それでも、アタシはシンジを睨みつける。もしかしたら、これで二人の関係が破局するかもと思えば、言わない訳にはいかない。

 

「本当に、こんな終わり方でいいの?……アタシたち、これで終わっちゃうんだよ?」

 

 睨みつけながらも、自分が涙声になっている自覚はあるが、どうしようもない。

 

「……元々僕なんか、アスカに相応しくないんだ」

 

 またそうやって拗ねて、いじけている。そんなこと、アンタが決めることじゃないのに。どうして分かってくれないのか。

 

 大体、シンジはどれだけ自分の三十路の愛人であるアタシに夢を見ているんだ? シンジと別れたら途端に、世界中の男がアタシに求愛するとでも思っているのか?……むしろ、アンタが早くしないと、女としてもうすぐ、賞味期限切れなんだよ。

 

 しかし、口に出してはこう言った。

 

「そうやって立ち向かうべきことからはいつも逃げるのね。逃げた先に、アンタの幸せってあるの?」

「僕の幸せなんか、無くてもいい」

「じゃあ何のためにアンタは、この世に生まれてきたのよ!?」

 

 自棄になったようなシンジの言葉はいつ聞いても悲しい。親にネグレクトされて人生をエヴァンゲリオンに歪められなければ、自分の幸せに対してそこまで捨て鉢になることはなかっただろうに。シンジも、アタシも。

 

「生まれてきた意味?……そんなの分かる人間がいるの?僕がクリスマスにしたことがアスカの気に入らないなら、もうほっといてよ……僕なんかどうなっても……」

「バカっ……ちょっと、来いッ」

 

 どこまでも後ろ向きなシンジに、そんな男をこれまで愛人にしてきた自分にも、猛烈な怒りがこみ上げてきて、気がついたらシンジに掴みかかり、腕を引き、強引に司令室から連れ出していた。

 

「シンジとアタシは午後年休ッ!」

「は、はいっ」

「ごめんなさいっ、後は頼みますッ。あ、誰か作戦部の人にアスカの休みも連絡して……、あと、秘書さんたちも午後から年休をぜひ……」

 

 既に時計の針は二時を回っていたが、司令室を出しなに叩きつけるように宣言すると、秘書は反射的に頷き、シンジは剣幕に押され観念したか、秘書に慌てて謝罪し引きずられつつも細かな心配りをするが、アタシは構わずシンジの手首を掴んで、廊下を進む。エレベーターに乗り込んでも、手首を離さない。

 

「手、離してよっ。僕は子供じゃないッ」

「はんっ、セックスが出来るだけで、それ以外は立派に子供でしょ。……ガキの手を離したら、どこに行くか分からないから、アタシは手を繋いでるの」

 

 地下の駐車場にエレベーターで降りると、自分の車の鍵を開けて、助手席にシンジを放り込む。

 

「アスカ……あの……どこへ……」

「もう一度、やり直しよ」

「やり直し?……それって、あのクリスマスの……?」

 

 アタシは無言で頷き、スマホで手早く数件の連絡を入れた後、車のイグニッションキーを回す。

 

「ホテル……に行って、これからスるの?」

 

 シンジの言葉にうろたえ、思わずアクセルではなく、ブレーキを踏み込んでしまった。昼間っぱらから、艶っぽい話をされると、顔が熱くなる。とりわけシンジとはもう一カ月、シてなかったから、尚更に隣の席のオトコを意識してしまう。

 

「な、何言ってんの……なんで、仲直りもしないうちから、アンタと仲良し(セックス)しなくちゃいけないのよっ」

 

 と随分懐かしい言い方でセックスを表現してしまう。そういえば、大学生の時までは、アタシとシンジとのセックスはずっと「仲良し」と言っていたんだっけ……懐かしい。あの頃は、セックスをすればするだけ、シンジとの心が近付いていけるような気がしていた。本当に身体を繋げるだけで仲良しになれる気がしていたのだ。それは一種の錯覚だったのだろうけど。

 

「……っとに、男って一事が万事ソレね。女の気持ちなんて、真剣に考えた事が無いんだね。とことんバカなんだね」

 

 怒るというより、アタシは呆れかえってしまう。

 

 エヴァの開発計画や、テロメアの機能などについて議論するときにはどの男たちにも知性の煌めきを感じられる。シンジにもとびきりの知性を感じる。しかし、こと男と女の話になると、途端に男は愚かになる。中学生から何も成長していないバカな男の子になってしまう。不思議なことだ。

 

 クリスマスイブの夜の出来事だって、アタシはイブにシンジとセックスが出来なかったから怒ってるんじゃない。あの時のアタシの気持ちをちゃんと考えて、アタシを拒まないで欲しいと思っていたのに、無神経な正論を掲げて拒んだから、哀しくて辛くて怒ったのだ。アイが真剣に悩んで必死に出した結論を無碍にしたから怒ったのだ。

 

 セックスが出来ないから怒ったんじゃない。あの時シンジが二人の女の気持ちを理解して、受け入れて、その後、部屋に入った後で、何かの理由でアタシを抱けなかったとしてもそんな事で怒りはしない。それならアタシたちの気持ちを無碍にしたことにはならないからだ。そのまま寝台で何もせずに抱き合って寝れば幸せになれただろう。セックスは本質じゃない、アタシたち女はそこまでセックスに必死な訳じゃない。なぜシンジには、いや男には、それが分からないのだろう?

 

「イブの時のアンタに悪気がなかったのは分かってる。子供と同じシンちゃんにはやっぱり難し過ぎる出題だったのかも知れない。でもま、その時、間違えたのは許すとしても、その後の意固地な対応はダメダメよね」

 

 アタシはシンジにダメ出しをしながら、むしろその事で却って気を取り直し、シンジを許せる気持ちになりながら、車を発進させる。シンジは黙ってうなだれている。

 

「行くのは当然、ホテルじゃない、アンタとアタシが仲良し(セックス)する前に、アンタには仲直りしなくちゃいけない相手がいるでしょ」

「仲直りする相手……」 

 

 そんなこと最初から分かりきった話じゃないか。あの夜、アタシとシンジがホテルに泊まれなかったからって、今晩ホテルでヤれば丸く収まるという話じゃない。大切なのは事実の修繕ではなく、気持ちの修繕なのだ。女には自明の答えが、男には容易には分からない。わからない理由が女には分からない。でも、きっとそれは神様が、理由があって設けた男女の差なのだ。人間はそのふしぎな違いを一生掛けて、探求していく。

 

 

 向かった先は、アイの中学だった。校門の前にアスカはクルマを止める。

 

「担任には早退けするから、お義父さんが迎えに行くと連絡を入れてある。不審者と間違われないよう背筋をしゃんと伸ばして、行ってきなさいよ」

「早退け?」

「そう、この後、ディナーを予約してある。ちょっと早いけど、女には支度もあるからね」

 

 時計の針は三時を回ったところだ。

 

 この間のホテルにはもう恥ずかしくていけないから、アスカは別のレストランを予約した。ホテルがいつものシンジとの常宿でなくて良かった。毎週の逢瀬の場所まで変えなくては行けなくなる所だった。

 

「そうか、ディナーからやり直しなんだ……ね……アスカは教室まで一緒に行ってくれないの?」

「アイの父親はアンタでしょ?アタシは下で待っているから。勇気出して、行っておいでよ」

「うん……」

 

 入り口近くの事務室に寄って、シンジは自分の名前とアイの名前、クラスを名乗り、事務員さんにクラスまで同道してもらう。事務員さんに教室内の教員に話し掛けてもらうと、丁度アスカから連絡を受けていた担任だったらしく話が早かった。アイは廊下に呼ばれて程なく出て来る。

 

 養女の肩を掴み、シンジはその名を呼び掛ける。

 

「アイ!」

「お義父さん……」

 

 あのクリスマスイブ以来、直接アイと話すのは初めてだ。ネルフでは霧島三佐を経由して要件を伝えたりしていた。シンジは一瞬かけるべき言葉を見失う。しかし、アスカが勇気を出せ、と言った。だから─

 

「クリスマスのこと─僕が、間違ってたのかもしれない。いや、僕は僕の正しさにこだわって、みんなの想いを踏みにじった。僕が正しいかどうかは関係なかったんだ。あの時、あの場で他の人の事をちゃんと思いやっていなかったのは僕だけだ。アスカはアイの事を思いやっていたし、アイはもちろんアスカと僕のことを思いやってくれていた。僕は何が正しい選択なのかを気にしていただけだった」

 

 それは男には、ありがちな失敗だ。男は「物事が正しいか正しくないか」へのこだわりがある。そして正しいかどうかには、実は人の気持ちはあまり関係がない。たとえ正しくても、人を傷つける事はある。たとえ正しくなくても、人に優しい道はある。男は理屈や外形的な正しさに拘るが、女は人間の内面的な気持ちにこだわる。いつだって相手の気持ちへのいたわりと理解と共感を求めている。じっさい、男女の喧嘩の原因の多くはこの違いにある。

 

「それを今日知ったの?」

「アスカが教えてくれたんだ。自分の行動で。アスカはまた、僕とアイの事を思いやってくれた。僕とアイが仲直りできる機会を作ろうとしてくれている。僕はそれに甘えて、ここに来たんだ。だから一緒に行こう」

「アスカ……はやっぱり、恰好いいね」

 

 アイはあえていつものアスカへの「さん付け」を省いた。シンジはそれを気にするでもなく、ニヤリと笑った。

 

「当たり前だよ、僕らは……それを十八年前からちゃんと知っている。そうだろう?」

「もちろん!」

 

 傍らに立つ担任には何のことだか分からないだろう。アイは十二歳なのに、十八年前だなんて。でも、構わない。

 アイはシンジと同じ表情で笑い返す。ボクらだけが知っている、アスカの秘密だ。

 

─アスカは世界で一番、恰好いい女の子だ。

 

 アスカに出逢えた事は苦しい事ばかりの僕らの人生で、最大の奇跡だ。

 

 

 アスカが予約した店は、ロシア革命時に日本に亡命してきた白系ロシア人の子孫が代々営むというロシア家庭料理の店だった。前のホテルレストランのように高級な店ではない。素朴な雰囲気の小さな店だった。店主はすっかり日本人化していて、僅かに高い鼻と薄い色素の瞳の色にだけ祖先の血が偲ばれる。奥さんは嫁として外から来たのだろう、純粋な日本人だった。

 

 いったん、学校からアスカの家に戻って、アスカとアイは着替えている。アスカは深紅のオフショルダーのパーティドレス、アイは例の黄色のワンピース、二人ともあの夜と同じだ。シンジだけは黒のネルフ制服のまま、来ていた。

 

「ここはボルシチが絶品でね。友達と何回か来たことがあるのよ、あ、勿論友達って、女の子だからね」

「わかってるよ、アスカ─」

 

 いつだって自信のないシンジへのアスカの気遣いが申し訳なくて。聖夜のディナーでは、シンジがアスカやアイの心にこれっぽちも気遣いをせず、傷つけるだけの「正論」を吐いていたのに。

 

 僕だけが、いつも子供で─

 

 でも、アスカの手前、もう安易な自虐に逃げることも許されず、シンジは静かにアスカの話を聞いている。

 

「シンジ、アイ、壁の写真を見て」

 

 アスカが指をさした店の壁には、激動の時代を感じさせる白黒の写真が貼られ、歴代の店主と店主夫人、家族の歴史が綴られ、語られている。

 

「このお店に連れてきた理由はね、料理の美味しさやお店の人の人柄も勿論だけど、人間は何処にでも骨を埋められるってことを、ここの初代が体現していると思ったから……二人にも見てもらいたかったの。旦那さんと奥さんが二人連れ立って、極東の島国で生きていく。異郷で寂しかったとは思うんだ。ここの人たちはロシア人で、アタシはドイツ系アメリカ人だけど、気持ちはよく分かる。アタシにとっても日本はやっぱり異郷だから」

 

 だけど、たとえそこが異郷だって、孤島だって、異世界だって─

 

「旦那さんと奥さんがお互いの故郷になれたから乗り切れたんじゃないかとアタシは思うんだ。そういう支え合う相手がいるのなら、きっと、どこでだって、いつまでも─」

 

 そんなアスカの心細い気持ち、シンジは知らなかった。いつだって、シンジは自分の事で手一杯で。アスカが異郷に独りで住まう外国人だってことさえ、時々忘れてしまっているぐらいだ。サードインパクト後も、アスカは故国ドイツに父と義母が健在だ。折り合いが悪い家族とはいえ、他に帰れる場所がない訳ではないのだ。それなのにアスカは一時帰国さえしようとせず、ずっと日本に留まっている。

 

「アスカ……さんが、異郷の日本にいるのはやっぱり、お義父さんがいるから、なの?」

 

 話の流れから言わずもがなの質問を、まるで補助線でも引くように訊ねてみせたのはアイで、そこには自分の知らない十八年間に、なぜ日本を離れなかったのかを彼女としても確認したい気持ちも覗いていた。

 

 アスカはその質問には直接答えず、

 

「そうだね……十八年は長い。その間、アタシは国に帰ろうと思えば、いつでも帰れた」

 

と、曖昧にアイに対しては微笑んでから、その話をシンジに振った。

 

「シンジはどう思う?」

「え、僕?」

「そう。アタシがこの島国にしつこく残っているのは誰かさんの為だと思う?」

「……うん……その……」

 

 アスカはこの前、もう、エヴァには夢中ではない、子供の頃の夢中だったものからは卒業し、別のものに夢中だと語り、シンジを熱っぽい瞳で見つめてきた。だから、理由はそうでしか有り得ない訳で。

 

「ごめん……」

「うん?なぜシンジが謝るの?別にアタシは日本が嫌いだと言ってる訳じゃないのよ。ただ、人それぞれには故郷があって、異郷ではどうしても寂しい。そこに暮らし続けるなら、特別な支えがいる、と言っているだけなの」

 

(アタシは日本に骨を埋めたい。でも、そのためにはシンジがアタシの故郷になってくれないと駄目なんだ。シンジはアタシの故郷になれる……のかな?)

 

 だけど、その事をちょくせつ尋ねたりはせず。

 アスカはシンジの耳元でこっそり囁いた。

 

「ね、あの店主さん。もうロシア人の子孫だってほとんど分からない。……アタシたちの子孫もそうなるかな?」

 

 それはアスカがこれまでシンジに語った中で、最も遠い未来へのビジョンだったかも知れない。二人の今の関係を考えれば、それは単なる冗談、あるいは切ないだけの夢想─かも知れないけど、アスカがそういう想いを巡らしている事をシンジはちゃんと知る必要がある。

 

 アスカがいつも真剣にシンジとのことを考え続けて来たことを、シンジは知らなくてはならない。

 

 

 ディナーは三人にとって楽しいものだった。先日の聖夜の、どこか格式ばって、最後には破綻してしまった会食と違い、最後まで暖かいものだった。シンジとアスカ、アスカとアイだけでなく、シンジとアイも少しずつ会話を重ねた。学校の話題、友達のこと、アイに三人も友達が出来たと聞いて、シンジも昔の三人の友達─トウジ、ケンスケ、カヲルの事を少しだけ語った。シンジにとっては重いはずの三人の思い出も、その後の悲劇的結末も忘れて、シンジは楽しかったことだけを語れた。それがアスカには進歩だと思えた。楽しいことだけを選んで前に進むのだって成長だ。苦しいことからの逃避を非難するのはおそらく間違いなのだ。だって、忘れられない程に苦しいことから逃げる事なんてのは元々無理なのだから。

 

 三人は最後に店の人に一緒にスマホで写真を撮って貰い、店の人とも一緒に写真を撮った。写真の中の三人は、まるで本物の家族のように見えた。本物の家族みたいに笑っている。

 

 シンジはその写真をスマホの画面上で眺めながら、自分も写真の中と同じように笑っているのに気付いた。アイにスマホを回して、そっと後席を伺うと、ミラーに映ったアイの顔の下半分で、口元が綻ぶのが分かった。

 

 僕と同じ顔、してるね。

 

 そして、運転してるアスカも同じ顔をしてる。

 

 家族ごっこをしたいなら、ちゃんと三人の気持ちを考えなくちゃいけなかった。自分だけの正しさを追求して、独り決めしたって、家族になんかなれはしない。それがようやくシンジには分かった。それはたぶん、本物の家族でも同じことで。シンジとゲンドウ。アスカとその父。努力をしなければ、双方にその気がなければ、家族はけっきょく家族にはなれないで終わる。それを考えれば、今日の僕らはなかなか良い家族をしていた。

 

 アスカの運転する車で、一旦家に戻り、アイを届けてから、シンジを送っていくことになった。アスカの家の駐車場、車の中でシンジが十五分ほど待っていると、アスカが戻ってきた。

 

「お待たせ」

「……アイはもう寝た?」

「深夜番組一本見てから、寝るって。夜ふかしはダメよと言っておいた」

「そう……」

「さてと、送っていくけど、もしよかったら少し夜のドライブしない?」

「え、どの辺に?」

「それは内証。着いてのお楽しみ」

 

 

「アタシさ、アイを本当の家族にしてもいいと思うんだ」

 

 運転しながら、さり気なくアスカは言った。

 

「自分の血の繋がらない、本物の子供でないのに親になるなんて無理だと思っていた」

 

 そもそもがアスカは中学生の時、人の親になんてなれるとは思っていなかった。子供なんて嫌いだし、生理が重いので、自分の女という性も嫌いだった。苦しくて痛い思いをする生理などなくて、自室では気持ち良くなれる自慰ばかりして暢気に気楽に生きている男の子が本当に羨ましくて疎ましかった。

 

 でも、シンジと結ばれて、自分の性が女でなければシンジとこんな風に結ばれることはなかったと気付いた。だから女である自分を受け入れる気持ちになれたし、自分の子供が欲しいという願望にも目覚めた。男女一人ずつの子供が欲しい。シンジと同棲中に描いた夢はそんなだった。

 

 だけど、自分が初めて育てることになった子供は、いきなり十二歳の血のつながらない女の子で、でも……アイはシンジではなくても、けっきょくシンジだから、アスカはアイならば、愛せるのではないかと思った。アイのアスカへの想いさえ乗り越えられれば、二人の間に漂う事務的冷淡さを捨てて、血が繋がらなくても、大好きなシンジと同じであるアイの、親になれるのではないかと思っている。

 

 アスカの隣にシンジがいて、「長女」のアイがいて、アスカとシンジの子供たちもいて。だけど、継子だからって、アイを苛めたりはせず、だって、アイはアスカが一番好きなシンジと同じなんだから、ちゃんと愛情を注いであげられて。

 

 アイとシンジが遺伝子的に同一だということも、このまま第二次性徴が進行していけば、シンジとアイは元は同一の遺伝子を持つ個体とは思えないほどに劇的に変わっていく筈だ。だからそれにまつわるトラブルも自動的に解決されるわけで。単に、長女は父親似というだけで済ませそうで……。アスカの頭には全てが薔薇色の未来図が想像されていた。

 

「シンジが一足飛びにそこまで思い切れないのも分かるから急かしたりしない。でも、今日の家族ごっこが成功したとシンジも思っているなら、ちゃんと考えて欲しい」

 

「うん、でもアイは……」

 

 シンジはなぜか歯切れが悪い。何か心配事があるみたいな顔をしている。

 

「なによ、何か問題でもあるの?」

 

 しかしそれ以上の追及は出来なかった。

 開け放した窓から、潮風が吹き込んでくる。

 目的地に着いてしまったからだ。

 

 

 車を止めれる場所を探すのに少し手間取ったが、なんとか止めて、シンジを下ろし、アスカもすぐ降りる。

 

 寄せては返す、しきりに打ち寄せる大波─敷波と呼ばれる波の音を遠くに聞きながら、シンジは立ち尽くしている。アスカはそっと、シンジと手を繋いだ。

 

「海……なの?」

「そう、海だよ。アンタが、一生行けないと思っていた海。やっぱりしんどい?」

 

 仙石原を出発して、小田原の海までやってきた。

月が隠れた夜闇の中、わずかに車のヘッドライトだけが二人を照らす。海面も真っ黒で何も見えないが、あの海の色は確実に青色で。

 

 シンジは黙って、目を閉じ、それからすっと深く息を吸い込んだ。

 

「潮の香りがする」

「それは植物性プランクトンの死骸なんだって。生き物が死んだ臭い。でも、アタシはLCLの血のような臭いより好きなんだ」

「僕も……この臭いは嫌いじゃない……よ」

「補完計画により永遠の生を約束する生命のスープであるLCLの赤い海。避けられない死の匂いを漂わせる青い海。だけど、愛は死と表裏なんだもの。アタシたち人間は、必ず死からは逃れられない。だから次の世代を作るために、人を愛する……」

 

 その死という言葉にシンジは身じろぎをする。その言葉はどうしても、自分があの浜辺でアスカに対してしたことを思い出させてしまう。生涯許されないこと。本当ならそれだけで永遠に嫌われ憎まれても仕方がない程の罪。

 

 でもそのアスカは今、シンジと手を繋ぎ、その白い手から温かさと優しさが伝わってくる。

 

 シンジの罪は永遠に消えない。でも、アスカが覗き込むように自分の顔を見て、心配そうにしている。アスカの憂いを除き、アスカを笑顔にするという、贖罪よりも大切な使命があるような気がしてくる。

 

「しんどい気持ちはあるけれど、大丈夫……みたいだ……」

「じゃあ、アンタは今日一つ、壁を乗り越えたんだ、苦手を克服したんだ。少しだけ成長出来たんだよ」

 

 アスカがパッと顔を明るくする。

 

「うん……でも、アスカが僕の手を握ってくれてたからかも……」

「それでいいんだよ、人生って多分、愉しいことと苦しいことの繰り返しで、アタシとシンジの関係もきっと同じだ。困難や障害に独りで立ち向かう必要なんてないのよ。みんな独りでは立ち向かえないから、男女は一緒になるんだから。二人で立ち向かえばいいのよ」

 

 そのまま手を繋ぎながら、アスカはシンジに助言する。

 

「……特に、シンちゃんはさ、メンタルが思い切り弱いんだから、あんまり一人で抱え込まない方がいいんだよ。つらかったらアタシに吐き出せばいいし、迷ったらアタシに相談すればいい。どうせ一人で出した結論は大体間違えてるんだし……」

「でもそれじゃ、あんまり……」

「あんまり男として情けない?」

「うん……」

「どうせ、ベッドの上じゃ、アタシに甘えまくり。だからベッドから降りても、少しは甘えたら?と思う。男のプライドとか沽券とか、アンタに関してはあんまり良い方向に作用してないと思うな」

 

 アイと比較していると、特にそう思うのだ。最近のアイは適度に肩の力が抜けていて、友人やアタシなどの女子コミュニティの支えもあって、元気に過ごせている。男は同性のコミュニティの力が弱いし、そもそも弱音を吐くこと自体を潔しとしない。だから、シンジのような性格で男に生まれると、人生それなりにハードモードだろう。

 

「別に、ベッドでもそんなに甘えていないよ……」

「だから、甘えてもいいんだって。弱いんだから無理して強い振りしなくていいよ。シンジが弱い男の子だってもうとっくに分かってるんだから」

 

 ─まあ実際には確かにシンジの言うように、甘えていると言っても、頭を撫でて貰いたがったり、アタシの豊かな胸にしがみついたり、セックスを誉めて貰いたがったりする程度の他愛ない話なのだが、視線と態度が、シンジのアタシに甘えたい気持ちを表しているといつも思う。それを依存だと言うのだろうか?世界に虐待され尽くしているシンジに、アタシがそのぐらい優しくしてやったって罰は当たらない。アタシはシンジに優しくしてあげたい。

 

「今日は本当にありがとう……アスカ。僕はあんなに酷いことをしたのに、また僕を助けてくれた。許してくれた」

「天はすべて許し給う、よ。ううん、天が許さなくたって、アタシがアンタを許す。アタシはずっと前からそう言ってると思うけど?」

 

 シンジが何度間違えたって、アタシはシンジを許す。それは単に甘やかしているのとは違う。だって、シンジは間違える度に苦しんでいるのだから。そして、これは希望に過ぎないが、僅かずつでもその度に、成長していると信じたい。

 

 そして、アタシがシンジを許すのは、それによって、シンジにアタシを救って貰いたいからだ。アタシ自身が救われたいからだ。それを不純だとは思わない。愛が見返りを求めてはいけないとアタシは思わない。愛は愛だけを見返りに求める事が許される、そう思うのだ。

 

 そして、その先に願わくば、一筋の希望が有らんことを……アタシはそれだけを祈るのだ。

 

 クリスマスはイエス様がお生まれになったのを記念する日だというのに、その聖夜を巡って一組の男女が破局するような事を、天はさせなかった。だから、アタシとシンジはまだこうして、手を繋いで一緒に居られている。

 

 シンジが突然、肩を震わせて大きく嗚咽し始めた。

 

「何遍許してもらっても、何遍も僕は間違える。でも、本当は、アスカと一緒にいたい、ずっとずっと一緒に居たいんだ……」

 

 シンジがアタシのドレスの胸元に顔を寄せてくる。シンジが本当はアタシのことを自分のものにしたいのに、必死に我慢しているのだ、という事が、その時、初めて明瞭に分かった。

 

 そして、こんなにも長い間、我慢している以上、それにはシンジなりの理屈があるのだろう、と。簡単にはシンジは翻意しないだろう。

 

 やっぱり、アタシとシンジの恋の完成を阻むラスボスはシンジ自身なんだ。シンジ自身が何かのきっかけで変わらなくちゃ、どうしようもないのだ。

 

 だけど、今宵のこの場においては、アタシはシンジとの優しい時間に身を委ねる。

 

「こら、泣くのはいいけど、服に鼻水とか付けないでよ」

「そんなの、アスカが悪いんだ」

「は?」

「……アスカが優しいからいけないんだ。アスカがいつだって、優しすぎるから」

「ったくもう……甘えん坊なんだから」

 

 まあいいか。アタシの好きなシンジがこうして手元に戻ってきてくれたんだから。

 

「ずいぶん痩せちゃって……やっぱり幾ら料理が出来ても、男の子は駄目だなぁ。今度、うちにおいで。アタシとアイでご馳走してあげるから」

「アスカはハムエッグとスパゲッティしか作れないんじゃないの……」

 

 泣きじゃくりながらシンジが混ぜ返す。

 

「言ったわね、女子三日会わざれば刮目して見よ、というでしょ?見てなさい!」

「それは女子ではなく男子でしょ……いや、アスカは恰好いいから、ありかな?」

「ん?恰好いい?」

「……アスカは男前だってことだよ」

「なんですってえ!」

 

 涙を拭いながら、シンジが身を起こした。女に甘えてるだけじゃ駄目だとばかりに、少しアタシから距離を置きながら、でも、手はアタシと繋いだまま。

 

「アイと僕の共通意見だよ」

 

 もう。アイをダシにして……。っか、アンタたち、いつの間にそんなに仲良くなった?

 

 思わずアタシは苦笑した。

 

 そんなやり取りをしながらも……アタシは別にシンジとの将来を楽観してるわけではない。これは結局、悲劇へと繋がる物語の中の、小康的な一挿話に過ぎないのかも知れない。後になってから、悲しみの中に沈みながら、思い出すべき楽しかった思い出になるのかも知れない。

 

 だって、シンジ自身もアタシも認めているように、シンジは何度だって間違えるんだから。シンジはどこまで行っても、けっきょくバカシンジなんだから。

 

 でも、天はすべて許し給う。

 

 ─これだけは本当なんだ。

 

 人を許せるものだけが、本当の人間なのだから。

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