昼休み、いつもの職員食堂のカフェテリアでカロリー控えめのAランチを頼んで受け取ると、トレイを持って席を探す。シンジとの関係が回復したので、メンタルも復調し食欲が戻ってきた、だから、ダイエットには気をつけないと。
奥の隅っこの席にシンジがぽつんと独りで居たので、足早に歩を進めるが、途中で呼び止められる。
「おーい、姫ぇ!」
「惣流さん、こっちこっち」
真希波マリ、霧島マナが近くのテーブルから声を上げ、手を振っている。
他に同席しているのは、北上ミドリ、鈴原サクラの計四人。マリと霧島マナがどうも気が合ったらしく、「若手女子士官の会」とか言って、ミドリやサクラを引き込んだ、最近連んでるのをよく見かけるグループだ。アタシも引きずり込まれそうなんだけど、とりあえず遠慮してる。
若手と付けてるのは、もうそろそろ若くないという足掻きよね……人間、歳なんか取らなければいいのに。
シンジとランチを取りたいのに、呼び止められても困る、と露骨に嫌な顔をして返事をする。
「ちょっと……こっちも忙しいんだけど?」
「まぁまぁ、わんこ君なら逃げないって。彼もさっき食べ始めたばかりだし」
シンジの方をちらちら探ると、シンジもアタシに気付いて、パッと表情を明るくする。最近のシンジとアタシの関係は珍しく良好だ。
だから早くシンジの所に行ってあげたいけど、アタシは、若手女子士官の会に捕まってしまった。シンジには少し待ってなさい、と目配せをして、なるべく手短に雑談を済ませようと決意する。
「惣流さんがシンジ君と仲直りして良かったね、と話してたところなの、えへ」
と頭を掻くのは、霧島マナ。
アタシはそれをジト目で見て、
「へぇ、アンタは残念に思ってるんじゃないのかしら。……てか、別にシンジとは最初から喧嘩なんかしてないし」
「それはちがいます、クリスマス以後、アイちゃんと碇さんの元気が目に見えてなくなってましたし、惣流さんもピリピリしてました。何かあったの、バレバレですわ」
と似非関西弁イントネーションで鈴原サクラは言った。何よこいつ、アタシたちのストーカーなの?観察眼の鋭さというのも向けられる側にとっては必ずしも居心地のいいものではない。
ていうか、わんこ君だの、シンジ君だの、碇さんだの、ブンギっちだの、司令に対する敬意の欠片も無い組織よね。まあ、アタシも別にバカシンジへの敬意なんてないけどね。ああ、可哀想なシンジ……。たぶん世界で一番不幸な軍事組織の司令官だろう。
それでも、強面で周囲を威圧していた碇ゲンドウの旧ネルフよりアタシは今のネルフが好きだ。碇ゲンドウは結局自分の事だけしか考えてない人間だった。自分と妻のことだけの為に、沢山の人間を傷つけ、世界を滅ぼしかけた人類史上最悪のエゴイストだ。もし補完計画が成功していたとして妻ユイはここまでの変事を起こしたゲンドウを受け入れられただろうか?いや、自他の境が消失する補完計画において、そもそも受け入れるという概念自体が無くなるのだろうか?
やっぱりシンジとゲンドウは似ているようで、明らかに違う。シンジは優しい。優しい事がこの手の組織のトップに向いているかというと恐らく違う気もするけど、人類の守り手たるべき組織の長が人間性を抛擲し、人類を裏切った結果が、サードインパクトの発動だ。だからシンジの方向性は正しいのだし、アタシはそんなシンジを助けてやりたいと思う。
「どうでもいいけど、幹部の色恋沙汰で業務が停滞するのは、勘弁して欲しいんですけどぉ……惣流部長ぉ?」
この場合の部長ぉ、というのは敬意ではなく揶揄だ。普段は惣流っちとかそんな呼び方だもの。
「はあ?何のことよ、ミドリ」
「まあまあミドリっち。こないだの逃避行はネルフ職員一同、沸くに沸いたんだから。たまにはああいうのも良いわよん」
「こないだの逃避行?」
多少、話が長くなりそうな気配を感じたので、いったん女子士官の会のテーブルに間借りして席につき、トレイを置くが、ランチに手は付けない。
マリの言葉にアタシが首を傾げると、マリはスマホで撮った写真を見せてきた。
「ほら、これ。……姫と王子だよん」
「……な、これって」
「みんなあの日の午後は、超盛り上がったんだよね、遂に碇司令と惣流部長が駆け落ち!愛の逃避行ってね」
こないだ、クリスマスイブの時の遺恨の決着を図るため、シンジを無理矢理連れ出した時の写真だった。いつの間にか、誰かが写真を撮っていたのか。廊下でシンジの腕を掴んで、強引に引っ張っているアタシが写っている……アタシはあの時、猛烈に怒っていた筈だが、こうして一葉の写真として切り取られた表情を見ると、確かにまるでシンジとこれから駆け落ちをするみたいな明るさと希望に満ちた顔をしていた。
「あ、あれはそんなのと違う……アイの学校のことで急用があって……」
だが、そんなアタシの言い訳など、みんな聞いていないようだった。「で、式はいつなんです?」「遂に姫も年貢の納め時か。感慨深いにゃ」「ねぇねぇ、今度、新居に泊まりに行っていい?!」めいめい好き勝手言ってくれちゃって……。
「まぁみんな行き先までは知らないけど、姫と司令の仲に相当な進展があったと思ってるね」
単に喧嘩してマイナスになったのが、仲直りで元に直っただけなんだけどね……
「この写真。まるで、結婚式場から花嫁を連れ出す主人公みたいな……そういう昔の映画がありましたね」
サクラが首を傾げて言う。ああ、ダスティン・ホフマンが主演のアレでしょ?てか男女が逆だし……。
「あの映画、憧れるよねぇー。アタシも教会から連れ出されてみたい!幸せになりたい!!」
霧島も言うが、しかしアタシは首を傾げる。
「あの映画、本当にハッピーエンドなの?」
「へ?」
「だって、ラストシーン、乗り込んだバスの中で、周囲からの視線は冷たい。つまり祝福されない結婚の暗示だよね。熱狂が冷め切ってからは、最後の二人の表情は不安げだよ?大体、あの主人公、散々っぱら、花嫁の母親と不潔なことをしておいて、あれで二人は幸せになれるの?」
前々から疑問に思っていたことを口に出す。男女逆転させて考えてみればいい。花婿の父親と寝てばかりいた、そんな花嫁と果たして一緒になれるものかしらね?幸せになれるのかしらね?
そして、アタシは当然のように自分とシンジをそれに重ね合わせてしまう。アタシとシンジはお互いに対しての不貞こそないが、愛人関係という世間的に見たら不潔な事をし続けている間柄だとは言える。そしてシンジとサードインパクトとの関係もある。世間から白眼視される仲、結ばれたとしても決して祝福されない男女だという点では同じかも知れない……手に手を取り合って逃げた先はあの映画のようなハッピーエンドもどきのどこか陰鬱な結末なのではないかとも思う。
アタシはあまり言い立てることはないが、フランク・キャプラの「或る夜の出来事」から引いたセリフ─「ジェリコの壁」をシンジに言ってみせたりと、実は昔からそこそこ映画好きだ。キャプラは「我が家の楽園」や「スミス都へ行く」も大好きだ。どちらかといえばだが、教会から明日をも知れない駆け落ちをするような話よりも、彼の作品のようなある種の理想家肌の感覚で作られた夢と愛のある物語が大好きなのだ。まあ、自分でも自覚はあるけど、アタシ、乙女だからね……
こないだのクリスマスイブの出来事でシンジが自棄になったのを見てキャプラのクリスマスストーリー「素晴らしき哉、人生!」をアイツに見せてやろうかとも思ったぐらいだ。作中で主人公役のジェームズ・スチュアートが「自分など生まれてこなければよかった」という。シンジもよくそんな事を言っている。しかし、一人の人間の存在がどんなにか他人の幸せに結びついているのか。もしもこの世にシンジがいなければ、どんなにアタシが寂しくて哀しい想いをするのかをあの映画から感じてもらいたかった。
……ただ、映画を見て、人生について何か分かった気になったり、成長した気になるのも往々にして錯覚で、本当に大切なことは自分の人生の中で実地に学ばなければならないのも確かだ。今回、アタシはシンジを立ち直らせるために後者を選んだのだ。
「うーん、姫はわんこ君とずっと一対一の仲だからなぁ。やっぱりその辺の感覚が潔癖なんじゃ?……まぁ、お互いに生涯一人とだけってのも幸せだけどにゃ」
アタシの面倒くさい映画語りにマリは辟易しつつもそんな無難な返しをした。
「……そんなプライベートな話、こんな場で広めないでくれる?」
アタシは赤くなってマリの言い様に抗議する。まあ、事実はその通りだけどさ。
とはいっても、大学時代にはアタシとシンジの間に余計な第三者を割り込ませないために、その手の情報はあえて自分からマリたち友人にバラまいていたのだった。アタシとシンジの仲は金甌無欠で運命で結ばれている……誰にも邪魔はさせない、と。我ながら当時を回顧すると、痛々しい……
「だけど、この写真がまた、波紋を呼んでるんだよね!」
霧島マナが目を爛々と輝かせた。こいつ軍人としては物凄く有能なのに、ノリが女子中学生と変わらないのよね……一体なんなのよ。
「波紋……?」
「き、霧島さん、その話は惣流さんがショックを受けますから……」
という、鈴原サクラの言い草はむしろアタシに敢えて聞かせるようなわざとらしさがあって。
「あら、ショックを受ける話ですって?アタシはぜひ聞いてみたいわね!」
サクラに詰め寄ると、今度は本当に済まなそうな顔をしてサクラは告げた。
「その……惣流さんの渾名が……また新しく……増殖えはりまして……」
「渾名?『愛人』や『弐号』より酷い渾名なんて、もう無いでしょ」
「あはは……」
サクラの乾いた笑いから察するに、どうやらそうでもないらしい。
「この写真を見たネルフ職員の誰かが、アタシに新しい渾名を奉ったのね」
写真自体は即興にしてはよく撮れている。撮った人間を褒めてやってもいい程だ。アタシとシンジが二人してネルフ本部の無機質な廊下を駆けている。アタシが前でシンジが後ろ。アタシがシンジの手首を掴んでリードするように引っ張っており、変則的な感じではあるが、手を繋いでいるのは確かだ。人間はどうやら落ち込んでたり怒っていたりしても、始終不機嫌な顔をしているものでもないらしい。シンジもアタシもその顔にはいっそ幸せや希望といっていいかも知れないものの片鱗が覗いているようにさえアタシには見えた。アタシがこの写真にタイトルを付けるなら、そうだな。
写真のスマホへの送付をマリに依頼して、アタシはサクラの話の続きを聞く。
「ええ……すんません。例の裏サイトから広まって」
「アンタが謝る必要はない。で、なんて渾名なの」
「『おかん』……です」
ミドリが奇妙に顔を伏せて、肩を小刻みに震わせている。
サクラが真剣な顔をして、ぎこちなく正面を向いている。気を抜くと笑い出してしまいそうなのを堪えるように。
マリが、頭を掻きながら、「まぁ、女はいつかは母親になるものだし……」と慰めてるんだか何だか不明な事を言う。
霧島マナが、「いいなぁ、シンジ君のお母さん……あたしもなりたい!」……こいつが天然そうに見えて一番質が悪そうだ。
はぁ……シンジの手を引いてやっているアタシは、そうか、他人から見ると、シンジのおかんに見えるのか。アタシはガッカリしてしまう。
それなら、ダスティン・ホフマンの映画のヒロインに見立てられている方が百倍マシだよ!……てか、アタシはむしろダスティン・ホフマンを誘惑する年増おかんのミセス・ロビンソンなのか……?
「だからさぁ……、職場で恋愛沙汰にかまけてるから惣流っちも、玩具にされちゃうんだよ」
「むぅ……」
「おやおや、でも、そう言うミドリっちだって、多摩くんとは最近いい雰囲気じゃないかにゃ?」
「……ちょっ、それは言う必要ないじゃん!!」
普段、あまり他人の言動には動じない北上ミドリが急にうろたえ始めた。
「多摩?多摩って多摩ヒデキ?彼、ミドリより三つ四つ年下じゃないの?」
とアタシが訊ねると、サクラが応じた。
「多摩クンは私の同期ですね。年齢は彼が三つ上ですが。そこそこハンサムだとは思いますよ」
言外に中身は残念そのものですが……という含みを残して、サクラは評する。やっぱりね……誰が見てもそうなのよね。
「まあ、多摩はあたしの三つ下なんだけど……」
ミドリはこくりと恥ずかしそうに頷く。
ほほーん。しかし、あの仕事では全く使えない多摩ねえ。ふふっ。散々アタシの男の趣味を馬鹿にするから、そういう男を好きになったりするのよ。天罰覿面ね。
「……大学の後輩だから……その先輩、先輩って……慕われると、つい」
奇遇ねえ。ミドリの大学の後輩なら、自動的に、シンジ、アタシ、マリの後輩でもあるじゃん。そんなの何が珍しいんだ?などと混ぜっ返してもしょうがないか……。要するに、ミドリは好きになってしまったのだ。多摩ヒデキを。人間は必ずしも相手の能力を見て、好きになるわけじゃないのよねえ……本当に。
「……駄目な男って、可愛いものねぇ」
アタシはニヤニヤしながら、この道の権威というか、先輩として、ミドリを労うように肩を叩く。
もちろん、シンジは駄目男としては出色の出来なのよ?なにせネルフの司令なんだからね。
「別に多摩は駄目な訳じゃないっての。ただ、偶々これまでの仕事が合わなかっただけというか……」
キタキタ……無理矢理の自分の男の擁護。そうそう、庇ってあげたくなっちゃうわよね。アタシだって、シンジの悪口を言われたら必死に庇うもの。北上にここまで共感したことは無かったかも知れない。
「そうよ……ミドリ。やれば出来るんだから多摩には優しくしてやんなさいよ……もっともアイツが半径10メートルに近付いたらアタシは容赦しないけどね」
とアタシは励ましつつも、チクリと多摩を刺しながら言った。
アイツには仕事で何度煮え湯を呑まされたことか。そもそも、こないだの霧島マナの出向人事だって、多摩が作戦部への説明を忘れていたというトンでもない話だったわけで。人事なんて部局との調整が仕事みたいなもんじゃないか。決まった話として一方的に押し付けるだけなら、赤ん坊にだって出来るわよ。
そんなやり取りを横目で見ながら、サクラがしんみりした口調で言った。
「思うんですけど……軍事組織でこうして他愛ない恋愛話が出来るのはある意味、健全ですね。私は医者だから余計にそう思いますけど、死を取り扱う組織が、生にもう片方の足をちゃんと踏み込んでいるのは人として真っ当なことやと思います。その生が医術なのか恋愛なのかは人それぞれでしょうけど」
「サクラ……」
本当にそうだ。くだらない色恋沙汰なんて、世界の運命が掛かってる組織でいい加減にしろ、と世界中の納税者が思ってるかも知れない。でも、仕事に手を抜いているつもりはないし(こないだの「逃避行」で取った年休分の仕事の穴埋めは、けっきょく休日出勤で補うことになった。むろんサビ残だ)、ネルフが人としての正気を保ったままの組織でいて、人間くさいユルさや寄り道を許容できたままでいられるかどうかは、サードインパクトに至る歴史を再演させない、フォースインパクトを阻止できるかどうかにも掛かっているんじゃないだろうか?
アタシは碇ゲンドウやゼーレのキール・ローレンツが、女子職員と恋バナを出来るような関係だったら、人類はこんなにも非人道的な悲劇の洪水を受け止める事はなかったのではないかと思っている。アタシは結構その事が本気で悔しい。男が戦争を愛して、女は平和を愛するとかは嘘っぱちの世迷い言だとアタシは知っている。アタシたち女もそれなりに攻撃的で邪悪である事については紳士諸君に引けを取らないつもりだ。しかし、男が眉根を顰めて、民族や国家や人類の命運とそれへの責任を殊更に重く受け止め、懊悩し、きっと傍らにある妻や恋人との恋に本気で居られなかったことで起こっている視野の狭窄、暴走と悲劇は歴史上にきっと多く転がっているのではないかとも推測している……そんなもの、バカバカしい女の感傷かも知れない。感傷かも知れないけど、一つの実例としても、シンジとアタシとの関係がサードインパクトに与えた影響は否定できないのだから。
「と……次は、シリアスに格好つけてるそのサクラの恋バナだーーっ!」
「ちょっ、もうやめてください!うちにそない浮いた話は無いんです!ほんま、ほんまに止めて……」
マリがサクラに飛びかかり……良い話を台無しにした後で、アタシは立ち上がり、背後の姦しい喧騒を余所に、ようやくシンジの座っている席の前にたどり着く。シンジはアタシが来るまで、時間を持たせようと、のろのろと食事を口に運んでいた様子だ。マリがわんこ君呼ばわりするのも分からんでもない。犬みたいに忠実でかわいい。今すぐ抱きしめてやりたい。
「あ、アスカ。待ってたよ」
「うん」
「一緒に……早く食べよう?」
「その前に、アンタに通告しておくことがある」
「通告?」
「……アタシは……おかんにはなれないッ!」
アタシは、シンジに叩きつけるように宣言した。
◆
その夜、いつものホテルで落ち合い、アタシたちは一週間に一度の逢瀬を持つ。ベッドサイドのテーブルで向かい合いながら、アタシとシンジは談笑する。
「昼間はビックリしたよ。アスカがいきなりワケの分からないことを言い出すから。てっきり……」
「てっきり?」
「僕と万一、結ばれても子供は作らない……母親にはなれないって宣言なのかと……」
とシンジは寂しそうに薄く笑う。
アンタでもそんな風にアタシたちの未来を妄想する事があるんだね……それは未練なのか、それとも……。
「アタシが言ったのはアンタのおかんにはなれないって意味よ」
「そんなの当たり前じゃないか……前にも言ったけど、僕はアスカにそんなもの求めてないよ」
ま、それが母性への渇望という意味ならどこまで本当かはともかく。少なくとも、シンジが変なプレイとかを求めたり、してこないのは確かだ。シンジはいつでも凡庸でありノーマルだ。普通に考えれば、シンジはやっぱり単に寂しいのだろう。家族もいない、アタシ以外の友人もいない。甘ったれなのは元々の性格だとしても、天涯孤独な身の上が、彼にアタシを求めさせる。それが身体先行だとしても、今はいい。シンジは身体を通して、けっきょくはアタシそのものを求めている筈だから。
「……でも世の中には風評被害ってのがあるのよ」
「話は聞いたよ、でもみんなふざけてからかってるだけじゃないか。そりゃアスカには申し訳ないけど」
「実害も出てるじゃないの。今日の午後、エヴァの模擬体の起動試験、アンタが余計な口を挟んだのをアタシが現場指揮官は私です!と否定したら、誰かが小さい声で、司令、おかんに怒られた……って。で、みんなクスクス笑いが止まらなくなって……アタシ、顔から火が出るほど、恥ずかしかったわよ」
「ごめん……確かにあれはアスカに任せる話だったよ」
「それはもういいの。問題はおかんよ。使徒が来寇してからも、こんな馬鹿げたやり取りを続ける訳にはいかないの。今のうちに解決しておかないと」
強い口調で念押しすると、シンジは勢いに押される様子でようやく頷いた。
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「というわけで、アタシがおかんと言われたり、シンちゃんがマザコンと勘違いされたりしないように、シンジを鍛え直す、碇シンジ君育成計画を始めようと思います」
今日のホテルの部屋はシンジを鍛え直すブートキャンプだ。エッチは問題が解決した後でいい。
「あのさ、アスカ」
「はい、何かな?シンちゃん」
アタシは女教師のように質問したシンジを指差す。
「……そのシンちゃんって呼び方をまず止めたら……どうかなと」
「は?なんでよ?」
「だって……いかにもアスカが僕を甘やかしてるように聞こえるし、昔はそんな呼び方してなかったじゃないか……僕も少し恥ずかしい時あるし」
まあ確かに人前でシンちゃんと呼ぶと、キョドるわね。顔を赤くしたり。俯いたり。まあ、それが見たくてわざとそう呼ぶこともあるんだけど。
「してたわよ」
「へ?いつだよ?」
「ミサトが家ではいつもそう呼んでたじゃない。流石に外では、シンジ君に切り替えてた時が多かったけど」
「そ、それはアスカじゃなくて、ミサトさんが呼んでたんじゃないか!ミサトさんとは年齢差だってあったし!」
「年齢差があるミサトがあんたをシンちゃんと呼んだら、ミサトがおかん扱いされた?」
「いや、それはされてないけど……」
とそこで、シンジは言葉に詰まってしまう。
「ほら見なさい。年齢差があるミサトでさえおかん扱いされないのに、年齢差のないアタシがおかん扱いされたのは、絶対シンちゃん呼びのせいじゃない」
「うーん……なんだか詭弁のような」
「不服そうね……あんた、アタシにシンちゃんと呼ばれるのがイヤなの?」
「い、いや別にいやではないんだけど……むしろ……」
とシンジの顔はまんざらでもない。アタシはそこにさらに踏み込んでみる。
「それじゃ、アタシにシンちゃんと呼ばれるとどんな気持ち?」
「うん……アスカ、今日は機嫌良いんだなとか、優しくしてくれてるな、とか、たまに、甘えさせてくれるのかな、って感じる時も無くはないんだけど……」
「けど?」
「一番感じるのは……家族みたいだな、っていつも温かい気持ちになる。もしも、本当にもしも……の話だけど、アスカと僕がいつか家族になれたのなら、アスカが毎日そう呼んでくれるのかな、なんて思ったりも……」
それはミサトと同じ呼び方だからアタシたち三人のかつての擬似家族を思い起こさせるのかもしれない。そして、今またアタシとシンジはミサトをアイに入れ替えて擬似家族を作りつつある。かつての三人に何かを重ねつつ。かつての三人のうち二人……アタシとシンジが相変わらず一緒に居れていることに感慨を深めながら。
「あのごめん、アスカ……やっぱりさ」
シンジはそこで何かに思い至ったような顔をして、悔いるように言った。うん、アタシも分かってる。同じ考えだよ。
「そうだね……シンちゃん呼び、止めるの、やめようか」
「うん……」
「シンジ、シンちゃん、バカシンジ……みんな大切な呼び名だよ。アタシにはみんな大切なんだ。アタシとシンジの間にこれから何があるにしても、アタシはどれも捨てたくないよ。人生の最後まで持っていたいのよ」
アタシはベッド脇でシンジに近寄ると、彼にしがみついていた。シンジもそっと、優しく、抱きかえしてくる。シンジもアタシも今のやり取りで、はしなくも気付けたのだけれど、きっと、この「シンちゃん」という呼び方は大切なんだ。過去からやってきて、アタシがミサトから引き継いだ。昔とは違う意味と同じような意味を両方持っている。思い出でもあり、アタシたちが大人になる過程で新しく築いたものでもある。アタシとシンジを温かく繋いでいるものの一つなんだ。
「アスカ……」
(シンちゃん。いつか、いつかきっと家族になろうね……)
今は未だ言葉には出せない想い、このまま行けば、きっと儚いままに終わりそうな夢─をアタシは胸の中でだけ吐き出しながら。
「シンちゃん、碇シンジ育成計画の次、どんどん、考えるわよ!」
◆
「やっぱり、男らしさと威厳がアンタに欠けているのが原因かしらね。だから司令なのに皆にまともに呼ばれもしない。碇さんだのブンギっちだのシンジ君だの……」
「鈴原一尉はお医者さんだからねえ、他の人にも階級では呼ばないよ。北上さんは同級生だし。霧島さんはシンプルにああいう性格だと思う。作戦時にはみんな切り替えてくれるよ」
アタシとシンジはベッド脇のテーブルからベッドの上に移り、並んでベッドの上に座りながら話を続けている。
しかしシンジのやつも、一々、誰からの呼び方か把握してて即答出来るのがいやらしいわね。
「それぞれ理由はあるかも知れない。親しげな司令官も悪いとは言わないよ。碇ゲンドウみたいなのより余程いい。けれど、端から見たら、みんなアンタがアタシに尻尾振って、甘えてるように見えてるんじゃないの。たぶん、マリのわんこ君って渾名もその辺から来てるんじゃない?だから巡り巡ってアタシもアンタのおかん呼ばわりされるのよ」
「でもさ、こないだアスカがもっと甘えていいと言ったばかりなのに」
「そ、それは確かに言ったけど……ま、とりあえず、おかん問題が解決するまでは棚上げ、かな。話が落ち着いたら、いくらでも甘えていいから」
とりあえず、振り回されてる感じが否めないシンジをなだめつつ、アタシは言った。
「うーん、男らしく、かあ……」
「そうよ、何でもいいのよ、マザコンシンちゃんとそのおかんみたいな悪名を被らないようにしないといけないの。アンタだってマザコン扱いは嫌でしょ?何か改善策を考えなさいよ」
「あ、じゃあさ、一人称の僕をやめて、俺にしようか。その……俺も三十二歳だし……」
(うわ、似合わない……なんかキショイ)
「却下!」
「え、どうしてさ」
「だって……なんか……可愛くない」
「いや、可愛いとかそういうのを止めろって話じゃないの?」
「シンジの一人称には僕しかダメ。俺とか俺様とか生意気過ぎる」
「いや、俺様なんて流石に言わないよ……」
「とにかく、絶対禁止。こんど、俺なんて言ったら罰金を取る!一回一万円。それを貯めといてディナーを奢らせるから」
「えぇ……」
まあ、我ながらワガママばかりを言っている自覚はある。しかし、今度のような騒動があると、シンジには男らしくなってほしいと思うけど、今のまま、あの頃の延長のままのシンジでいて欲しいという気持ちも強い。むしろ、アタシの思いは後者が強いのかも知れない。
しかし……言葉遣いでも男らしく出来ないなら、後は見た目か?そう思って、ジロジロとシンジの顔を見ていると、シンジも視線に気付いたのか、自分の顎を撫でながら言った。
「それじゃ、少しは男らしく髭でも伸ばそうか?」
ふむ……一瞬だけ想像してみたけど、それもダメだなぁ。
「…………それも却下」
「どうして?……加持さん……も不精ひげだったし、アスカ、ああいうの好きなんじゃ?」
シンジがちょっと言い淀んだのは、加持さんが既に亡くなっているからだろうし、アタシが加持さん加持さんと、わざとらしいぐらいに騒いでいた頃の記憶もあるからだろう。といってもアタシの初めての相手はシンジなんだから、アタシの中では加持さんとシンジの事なんて、較べるまでもない。まあシンジはそういう自信は全然なんだろうけどさ。
それに加持さんは、シンジとは全然タイプが違う。加持さんが父親だとすれば、シンジは弟って感じ。生まれ月からすると、本当はシンジがお兄ちゃんなんだけどね?
いずれにしても、アタシもこの年で未だ父親を求めてる訳でもない。そもそもアタシには一応、不仲とはいえ、実父が健在だし。そりゃ思春期の頃は、精神的に壊れた母を見捨て不貞に走った父が許せなくて、多分寂しかったのだろうけど、考えてみれば父親代わりに男を求めるなんて不健康な話だ。亡くなったママやエヴァのことがあるから、マザコンだと言われれば否定はできないけど、アタシはそこまでファザコンじゃない。安易に加持さんの真似をしても、シンジに似合うとは思えない。それにもう一つの懸念もある。むしろこちらの方が問題だろう。
「アンタがヒゲなんか伸ばしたら、碇ゲンドウみたいになるでしょ!シンジはシンジの持ち味である、清潔感を無くしたらダメよ。ヒゲは今そうしてるように毎日きれいに剃りなさい」
シンジは体毛が薄いみたいで、朝剃ったら、今みたいに夜でもそんなに髭は生えてきていない。今、アタシがアゴに手を当てても、チクチクするぐらい。ま、女顔だし、男性ホルモンが弱いのかもね……?
「そんなものかな……」
「碇ゲンドウみたいになったら、みんなドン引くわよ。ネルフ職員の士気にも関わる」
「そ、そこまで言うなら、ヒゲはやめとくよ」
そして、シンジの身体をベッドの上で、アタシは抱き締める。
「シンジ……アンタさっき加持さんのことでちょっと、やきもち妬いたんでしょ」
「……う、それはまあ……」
「バカね。アタシの身体は最初からずっとアンタのものなのに」
「でもこないだ、一週間に一回しか僕のものじゃないって言ったじゃないか」
「シンジはやっぱりバカねぇ……」
……んなの喧嘩中だからそう言ったに決まってるのに。分かってないのよねぇ。
シンジは鈍感で、女心も分からない。いつまでも子供のような性格だ。やっぱりシンジに成長を求めるアプローチが間違いなのだろうか。さしあたっては、アタシがシンジの母親的存在ではないということが示せればいいわけだけど?
そうだ!その時、天啓のようにアタシの中にアイデアが閃いた。やっぱりアタシはシンジのおかんなんかじゃない!
「シンジはむしろお兄ちゃんなのよ、本当は!」
「ハァ?」
「いやだから、アンタが六月生まれで、アタシが十二月だから、半年ほどアンタが年上でしょ!全然そんな感じもしないけどさ」
「そりゃ同級生なんだから……」
「だから、アタシがシンジお兄ちゃん!って呼んだら、何だいアスカって頭を撫でてくれるとか……アタシはおかんじゃなくてむしろ妹なんだからって……」
そこで唐突にアタシの思考は止まった。突然に自分が口走っている事の意味を理解した。そして、それを聞いているのが誰なのかも。
「……あ、う」
耳の先から、頬から、とにかく、知覚出来るあらゆる部分が紅潮しているのが分かる。
「……あの、アスカ」
「シンジお兄ちゃん……」
「えっと……うん……なんだい、アスカ?」
これでいいのかな?という感じでシンジの台詞が返ってくるのを聞き届けた後は、アタシはもう平静では居られなかった。
「はははっ。……い、いまのやり取り全部忘れなさいっ!……頭を打ち付けて今すぐ記憶を抹消しろお!」
「ちょっと、いきなり何言ってるんだよ、アスカっ!!」
でも、まあいくら何でもシンジの記憶をそこから抹消するなんて不可能で、アタシは周章狼狽の末に、羞恥心を誤魔化すためにはむしろそういう「プレイ」に持ち込んでしまえばいいのだと気付いた。幸い、ここはベッドの上だ。そして、シンジとアタシは男と女だ。思い切り、ただれた関係の男と女なのだ。
「……ごめんなさい」
「えっ」
耳慣れないアタシからの謝罪にシンジは面食らっているが、アタシは恥ずかしくてシンジの顔が見れないままだった。
「シンジは半年だけど、アタシよりお兄ちゃん。……だからいつもはアタシがワガママ言って、リードしてるけど、本当はリードして欲しかった。たまにでいいんだ。アタシがシンジのお母さんとかになるんじゃなくて、シンジがアタシのお兄ちゃんになってよ。ね、シンジお兄ちゃん……」
目を伏せながら、アタシはシンジに身を寄せていく。
「シンジお兄ちゃん……」
「アスカ……」
まるで禁断の兄妹相姦のような雰囲気を盛り上げつつ、アタシとシンジはベッドに倒れ込んだ。
◆
けっきょく、シンジとは「シンジお兄ちゃん」と「妹アスカ」という馬鹿げたシチュエーションで盛り上がってしまい、そのまま三回もエッチしてしまった。ちゃんとアタシの手助けなく、シンジから三回とも出来たというのも割と奇跡的で、アタシはむっつりスケベシンジの意外な趣向を疑わざるを得ない。そして、本来、保守的なノーマルエッチ派のアタシとしては、今後は真摯な反省に立ち、こういうロールプレイ風エッチはもう封印することにしたい。色んな意味で危険だわ。
「……碇シンジ育成計画とか言って意気込んでみたはいいけれど、これじゃ、大山鳴動鼠一匹じゃない。……シンジは別に成長しないし、単にシンジとアタシで新しいプレイを開発して終わり? はぁ、アタシたちってどこまでも爛れているわ。ダメな大人だわ」
後戯が終わって、シーツの中でアタシはシンジに愚痴を言う。
「まぁ、大人の男と女だからね……色々あるよ。でも僕はおかんよりも妹で良かったよ。アスカが可愛かったし」
「それは今晩限りで忘れなさい!」
アタシは耳まで赤くなった顔を、隠すようにシンジの胸に埋めると、シンジにだけ聞こえる小さな声で呟いた。
「シンジお兄ちゃん、シンジお兄ちゃん、シンジお兄ちゃん………」
呟く度に、シンジが頭を撫でてくれる。優しくしてくれる。
「アスカは可愛いね……」
「うん……」
そんな事は自分でも知ってるから、小声で返す答えはうんに決まっている。でも、シンジがそう言ってくれる事にはもの凄い価値がある。だって、アタシはずっとシンジにそう認めて貰いたいのだから。
そして、まあたぶん、シンジがアタシに甘えたいのと同じくらい、アタシもシンジに甘えたかったのだ。……シンジお兄ちゃんにね!