大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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三十四話 アスカ、恋、ふたたび

 朝早く、紙カップに淹れた自販機のコーヒーを片手に持ちながら窓の外を眺め、就学前の小さな兄妹二人を連れて女性職員が出勤してきたのをアスカは見つけた。ネルフも最近はご多分に漏れず、職場内に保育所を設置している。これからそこに子供たちを預けてきて、仕事を始めるのだろう。旧ネルフでは無かったことだ。時代は少しずつ変化している。本来ならアスカだってそうしていたかも知れない。シンジとの子供を預けてそれから出勤する。少しも不自然ではないifだった。しかしもちろん、それは現実ではない。それどころか、むしろそんな小さな兄妹を眺めながら、アスカはいささか背徳的な連想をしてしまっていた。

 

(シンジお兄ちゃん……か)

 

 アスカは失笑混じりに嘆息した。

 

 またバカげた遊びをしてしまったものだ。ああいうセックスの上でのお遊びが危険なのは、自分たちの「あり得たかも知れない可能性」に気付かされてしまうことだ。もっと幸せになれている可能性に儚い夢を見てしまうことだ。いや、幸せというのも少し変だろうか。ああいう馬鹿げた有り得ない関係性を夢想する事で、アスカはシンジとの間に横たわっている現実の重さをいっとき忘れた。あの赤い海の浜辺から出発して、けっきょく二人は何度交わっても、結ばれる事が出来ていないのだという現実の苦さを。そして、そういう苦しみのない別の有り様の世界をつかの間、願ってしまったのだ。

 

 あの場では、ベッドの上では、二人は役割に応じた痴態を演じ、心も身体も満たされた。しかし、現実に帰って冷静になってみると、それは思いの外、自分に動揺を与えているとアスカは気付く。

 

 別に兄と妹という関係に特に憧れている訳ではない。しかし、もう少しシンジがしっかりしてくれて、男としてリードしてくれていれば……すべてが上手く行っていたのではないか、などとつい夢想してしまうのだ。

 

 もちろん、そんなに前向きなのは「アタシのシンジじゃない」といえば、それまでなのだが。

 

 だから、アスカは封印すると決めていたのに、その後も、楽園で禁断の果実を齧るように、度々、シンジとロールプレイをしてしまった。まるで自分たちにあり得たかも知れない別の可能性を試すように。

 

 兄と妹の次に演じたのは、姉と弟。関係性を逆転させて、シンジを逆に甘えさせてやった。シンジはノーマルでないセックスを嫌がるのだが、兄と妹のプレイを勢いで行った直後だけにシンジも最後までは拒めなくて。アスカは「シンジお兄ちゃん」などと呼んでしまった前のプレイへの気恥ずかしさから、シンジに「アスカお姉ちゃん」と呼ばせて満足したのだった。その言葉はきっと、今後もアスカがシンジをからかうときに使うかも知れない。しかし、シンジはプレイの後、相当居心地悪くしており、ノーマルに甘える以外のこうした非対称なプレイはもう嫌だとキッパリ拒否されてしまった。

 

 それから、幼なじみの二人も演じた。小さい頃から一緒に育って、毎朝学校に行く際に、アスカが起こしに行ってやるような関係の幼なじみで、ある時ふいに、男と女であることに気付いて二人は結ばれる。そういう交わりには、慣れ親しんだ相手への気安さを演じる。造作もないことだ。アスカとシンジは十八年も一緒にいるのだから。中学生からの付き合いだって、見方によっては幼なじみと言えなくもない。

 

 またある時は、高校生や大学生の時分に戻った積もりで、仲良し(セックス)をする。あの頃の若々しい気持ちを思い出しながら。今はつらいことがあっても、きっといつかは結ばれると信じていて、現在の二人のただれた関係など想像さえしなかったであろう、あの頃の気持ち。高校生の時なら、あたしはシンジを親友として励まして、大学生の時なら、あたしは同棲相手のシンジと未来を夢見て、そんな過去を演じるのは本当に愉しかった。それは過去であっても現実だったから、その妄想は堅実とさえ言えた。

 

 そして、あの卒業云々の話がなかった世界を夢想する。二人は、大学を出た後、ちゃんと結ばれており、シンジが夫に、アスカが妻になっている。ネルフなど関係なく、二人とも堅気の仕事に就いている。これまで、いくらチェックインの際に碇夫妻を名乗り、夫婦のように交わっていても、そこまで本格的に演じていたわけではなかった。だから、アスカがシンジに「あなた」と呼びかけ、シンジがアスカに「結婚できて良かった」「ずっと一緒になりたかった」「必ず結ばれると信じていた」と囁くと─いや、そのように誘導し、囁かせると、もう駄目だった。

 アスカのせき止めてきた想いが涙腺を決壊させる。どうして、現実のアタシたちはそうなれていないの?こんなの、現実がおかしいじゃないか。アタシとシンジは、ちゃんと好き合っているのに、なぜ身体だけの愛人関係を続けているのだ。どうして、夫婦に、家族にいつまでたってもなれないでいるんだ。

 

 ─次から次へと涙が溢れ出して止まらない。

 

「どうしよう……シンジ。アタシたち、やっぱり間違っちゃった。間違えちゃったんだよ……あの日に戻って……やり直したい!……やり直させてよ……」

 

 顔を上げて、ベッドに横たわったまま滂沱の涙を流すアスカを見下ろし、髪を優しく撫でながら、シンジは哀しそうな目をしていた。彼もまた、涙を目の縁に貯めながら、首をゆっくり横に振った。時間は巻き戻せない。僕がアスカにしたことは、あの浜辺からずっと巻き戻せない。僕がアスカを傷付け続けてきたことは、無かったことには出来ないんだ。そう言っているようだった。

 

 

「……アスカ」

 

 ネルフの司令室近くの休憩スペースで、部屋から出て来たシンジはアスカに行き会った。窓から外を眺めていたアスカはシンジに目を合わせようとはしない。

 

「あの、アスカ……?」

「…………ん、アンタか」

 

 アスカは別に相手の名前を言わなかった。そもそも名前で呼びかける必要があるとも思えなかった。自分が恋している相手は世界にただ一人だけで、だから名前でわざわざ区別する必要を感じない。アンタで十分……その時はそんな心持ちだったかも知れない。

 

「あの……僕、アスカに何かした?嫌われちゃった……のかな?」

 

 あまりにもそっけないアスカの反応に、シンジは思わず近寄った。最近は自分はアスカを傷付けるような過ちは犯してないはずだ。アスカとの未来について、持ってはいけない筈の希望を持ち続けてしまう。そのぐらい、アスカとの関係は良かったのに。

 

 ただ、先日、夫婦を演じて交わったことは、アスカの繊細な心を動揺させてしまったようで、シンジも気にかかっていた。アスカは泣いていた。あの後、きちんと、繋がれて、シンジがアスカを自分からちゃんと抱けて、アスカも喜んでくれた。その筈だけど─

 

「別に……嫌われるような事はしてないでしょ、何か心当たりでもあるの?」

 

 アスカはフンと鼻を鳴らす。

 

「ないよ……でも最近、目も合わせてくれないし……話もしてくれないから」

「アンタは嫌われたんじゃない。……その逆よ」

「え?」

「こないだの夜から、色々、あんたとベッドの上で遊んでたじゃない、役割を演じてさ。……あんなこと、しなければ良かったよ。本当に良くなかったよ。……最近は、なんだか気持ちが落ち着かない。多分、アタシの中の熾火(おきび)みたいな気持ちに火が付いてしまった。アンタ……分かってるの?」

 

 炭の中に炎を上げないまま、燻っている高温の熱。いつまた燃え盛るとも分からないのが、熾火だ。

 

「……う、ううん」

「前だったら、一週間に一度しか二人で逢えなくても何とか我慢が出来た。今はそうじゃない。だから今はまた地獄だ。アンタに逢えないだけで胸が詰まりそうになる」

 

 シンジをお兄ちゃんなどと呼んで戯れたのはあまり関係ない。関係ないが、アスカからシンジに素直に甘えたのは久しぶりだったから、アスカの心はどこか無防備になってしまった。甘えればシンジに無条件に優しくしてもらえ、心も体も充たされる。それはアスカの思い描いた夢ではなかったのか。そして、夫婦を演じてしまった。それがトドメになってしまった。もう夫婦ではない現実がつらくてたまらないのだ。あんなこと、本当にやめておけばよかった。非現実の、イマジナリーの世界に逃げ込んで、アスカは現実が余計につらくなっている。

 

 これまで、アスカはずっとシンジに優しくする事だけに心を砕いてきた。壊れそうなシンジに寄り添い、シンジを甘えさせてでも癒やそうとしてきた。それはシンジがどうしようもない程に、心の傷を負っているからだ。シンジはサードインパクトに至る過程でアスカを散々に傷付けた。そして傷付けた自分の方が、より多くの傷を心に負ってしまったのだ。シンジにとって、シンジ自身の価値などどうでもいい。アスカの方が大切なのだ。それなのに、シンジは自らアスカを傷付けた。それは自傷以上の自傷行為だと言えた。自殺以上の自殺未遂だと言えた。

 

 遠い神話のむかし、人間は二つの魂で一体だったという。男と女(あるいは男と男、女と女)で一つの人間だったのだ。傲慢になり増長した人間を神様は引き裂いた。それからというもの、人間はずっと自分の引き裂れた半身を探し続けているという。それが恋であり愛なのだ。だからシンジも、己の半身以上(ベターハーフ)を傷付けては無傷では居られない。広い世界でやっとめぐり逢い、見つけられた己の半分以上を傷付けたら、それは自分を傷付けたのと同じだ。故にシンジは永遠に自分を苛む。アスカを殺そうとした自分を永遠に許せないでいる。

 

 シンジがアスカを伴侶に出来ないでいる真実の理由がそこにある事にアスカはとうに気づいていた。シンジがサードインパクトのトリガーとなった、世界の公共の敵であるから、という理由は副次的なものに過ぎない。理由の一つではあっても、アスカへの分かりやすい逃げ口上という側面は否めない。その奥底に隠されている本当の理由はシンジが自分をどうしても許せないでいるからだ。

 

 アスカを傷付けた自分がヌケヌケとアスカと幸せになる、そんな事が許されるとは思えない。そしてそんな風に自分を許さないでいるうちは絶対にアスカを幸せには出来ないという事にも気づいていた。だからシンジはアスカが自分から卒業する事を望んだのだ。もう自分には見切りをつけろ、成長など永遠に望むべくもない、もう終わってしまった碇シンジのことは諦めろ、と。勿論、アスカはそんな身勝手を認めはしなかった。そんな自虐は赦せなかった。

 

 だけど、そうであるならば、アスカは永遠にシンジに優しさを与えなければならない筈だった。そうでなければ、シンジはもう立ち直れないのだから。抱きしめて愛と優しさを与え続けて、アスカはじゅうぶん幸せだった。しかし、ふと自分が疲れきっていた事に気づいてしまった。あの夜、シンジを擬似的な兄のように見做して、交わったことで、与え続けるのではなく、与えられる愛と優しさの心地よさに気付いてしまった。そして、夫婦の契りを演じることで、もうこんな苦しい現実が許せなくなっていた。

 

 だから今、アスカの気持ちは切なさで満たされている。シンジにもう一度恋をしているような。第二の初恋が始まったような、そんな気持ちだ。シンジに甘えたい。シンジに優しくしてもらいたい。シンジの恋人そして妻になりたい。十八年間注いできた愛の一部なりとでも、アスカに投げ返してもらいたかった。

 

「アタシ、アンタのこと。ずっとずっと想ってる。シンジはちゃんと分かってるのよね?」

 

 一度だって恋人じゃなかった。─でも、ずっと恋人になりたかった。アスカのその想いをシンジはずっと知っているはずなのだ。それなのに─

 

「……ごめん、アスカ。僕は受け取る資格のないものを貰い続けてる」

 

 そんな風に二人の言葉は互いの意図を理解しながらもすれ違い続けていて。

 

(まだ資格とか言ってる。そんな資格なんてあるものか。贖罪したいなら、アタシに一生尽くせ!)

 

 でも仮にそんな風にシンジを罪で縛り付けて一緒になっても、待っているのは陰鬱な夫婦生活だろう。強制した結婚に幸せなどない。だからそんな事は口に出してシンジには言えない。

 

「……アタシは別に司令室前の休憩スペースにくる必要はなかった。作戦部にもあるんだから。でもここに居ればアンタに会えると思った。バカシンジの顔が見れると思った。見なくてはもう進めない、生きていけない。写真とかじゃダメなんだ。アンタの写真はたくさん持ってる。でも、生きてるあんたを見なくちゃ……」

 

 そう言って、アスカは言葉を切り、目の縁に溜まった涙滴が零れ落ちそうになるのを必死で堪える。好きな男の顔を見れたから、きっと今日も生きていける。生きるのがつらいシンジも頑張って生きているから、どんなに苦しくても、一緒の世界で生きていこうと決意が出来る。

 

「シンジの顔を見れたから、もう戻るね。今日の仕事、そろそろ始めなくちゃ……バイバイ」

 

 しかし、シンジはその背中を呼び止める。

 

「あ、あの……」

「ん?なに?」

「今日お昼一緒にしようよ」

「そうだね……たぶん前みたいにお話できないと思うけど……顔を見るのはいいかもね」

 

 シンジだけじゃなく、アスカにもリハビリは必要だ。また恋心に火が付いてしまったら、もう恥ずかしくて、お話しが出来ないかも知れない。それでも、そばにいたら心は安らぐ。

 

「そんな……最近はお話も出来てたじゃないか。仲良しに戻れたと思ったのに」

「戻ってるわよ、仲良しに。仲良し(セックス)をいっぱいしてるから、仲良しになってるわよ。身体の関係だけでも、気持ちを維持してるわよ!……ただ、どうしようもなく、アンタに恋い焦がれてるだけ……まともに話をするのがしんどいぐらいにね。大して美男子でもないのになあ。くやしいなあ……」

 

 もう清らかな乙女の恋ではない。幾百晩も寝て、毎週のように寝て、何千回も寝ている男への恋だ。気持ちを隠す必要はない。でも、気持ちを明らかにしても決して最後までは受け入れてもらえない恋だ。実りようのない恋なのだ。

 

 シンジも、アスカにはもう何もしてあげられない、何かをアスカにあげたくても、もう身体以外にあげられるものはない。だから、けっきょくシンジはバカなことしか言えない。幾百晩を経ても、アスカの想いを充たすことのない、逢瀬を誘ってしまう。

 

「その、今週、いつ逢う……?」

 

 アスカは大きくため息をついた。そうじゃない、そうじゃないんだよ……でもまあ確かに、それしかない。シンジが出来ることはそれしかない。わかるよ、それが、シンジの精一杯だってことは。バカシンジにはもう何の手札も残されていない。自虐の海に浸かったままの、かわいそうなシンジにはアタシの再び強く燃え上がった恋に、対処する切り札は何もない。

 

「いつでもいいよ、毎晩でもいい。毎晩アタシを抱けばいい。アタシは喜ぶよ。だって、アタシにはもうアンタしか……アンタだけしか要らないんだ。他には何も要らない。世界で欲しいものは、シンジだけだ。だから、アンタが身体をくれるなら、それは当然貰うわよ。身体しか呉れなくても、それでもいい。我慢する。十八年間、我慢してきたんだ。出来ない筈がない」

 

「アスカ……」

 

 シンジはアスカの言葉に立ち尽くすしかない。真っ直ぐな想いをぶつけられても、自分にはどう応えたらいいのか分からない。アスカが答えを教えてくれたらいいのに。そして、すぐにその発想に自己嫌悪する。どうして自分で考えられないのか。どうしてアスカに甘えて依存してしまうのか。アスカに答えを聞くような話じゃないのに。自分で考えなくちゃいけない問題なのに。

 

「ずるいよね、シンジは。アタシにここまで恋した事なんかないんでしょ。アタシのこと好きだっていったって、別に最後まで結ばれなくたって、たまに抱ければ満足な程度の想いなんでしょ。アタシだけが、アタシだけがずっとシンジのこと、拗らせてる……ずっとずっとアタシの片想いなんだ」

 

「……それは」

 

 シンジだって、アスカへの想いはある。その想いが一方通行なのもアスカと同じだ。でも、シンジには後ろめたさがある。アスカが僕にファーストキスを呉れて、赤い海の浜辺で、純潔さえ呉れた時、自分の気持ちはどうだったのか。アスカを絶対に傷付けるはずの、その時の自分の気持ちに関する真相を、シンジは永遠の秘密として封印する。だって、そんな事を言える筈がない。アスカが可哀想過ぎる。僕が卑劣過ぎる。だから、アスカには違うと言えない。違わないのだから。

 

「違うって言えないでしょ。アタシの方があんたのこと、ずっとずっと好きなんだ。シンジなんて本当に冴えないのに、神様はアタシの心に呪いを掛けて、そんな冴えないシンジのことしか考えられなくしてしまった。いくらシンジに抱かれたって、寂しいよ。ちっとも、恋が叶ってる気持ちになれないよ!」

 

「ごめん……本当にごめん」

 

 でも、シンジは悪くはないのだ。アスカが勝手にまた気持ちをぶり返させてしまっただけなのだ。身体の繋がりだけで満足し、心や恋など求めなければ良かったのに。そうできなくなっているのは、アスカ自身の問題だ。シンジには唐突にも思えるアスカの変化に対処するすべはない。

 

「いいよ、別にいいんだ。女の子はみんな片想いの辛さを知ってる。アイだって知ってる。アタシへの報われない想いをずっと我慢してくれている。そもそも、男が女を愛してくれるなんてこと、期待しちゃダメなのかもね。アタシは単なる愛人なんだから、我慢し続ければいいだけなんだもんね」

 

 ─そんな言い方をシンジに突きつけるのは卑怯だって分かってる。今のこの関係性を求めたのは、シンジじゃなくて、アタシだ。アタシは、本当はあの卒業うんぬんの時点で、きっとシンジには振られていて、必死にそれでもシンジにすがりついているだけなのだ。

 

「シンちゃんは、モテモテの色男でいいわよね……あたしみたいな美女にも想いを寄せられて。マリやサクラや霧島さんにも構ってもらえて」

「……僕、色男なんかじゃない……よ」

 

 シンジは俯き、子供のように反論する。ずっと中学生みたいなシンジ。セックスの仕方を覚えたこと以外は本質はずっと変わらないシンジ。アスカは、三十二にもなって、十四のシンジが忘れられない。あの時、叶わなかった恋をずっとずっと諦めきれない。

 

 色男なんかじゃない……もちろん、そんなことは分かってる。シンジにとっては、女にどれだけ構われようと、こんな状況少しも愉しくはないってことも知っている。人を愛せない、愛し方を知らないシンジには、他人から愛されるのがそもそもしんどくて、つらいのだから。

 

 アスカは、前を開いたシンジの黒い制服の前裾を指先で掴む。

 

「そうだね。シンちゃんが、色男さんなワケないんだよね。女の気持ちがちゃんと分かる色男なら、アタシの流した涙はきっと十分の一以下になっているもの……」

 

 こんなに女の子の扱い方が下手くそな色男なんか有り得ないのだ。

 

「シンジは、ずっと前から赤い海の浜辺でのこと、サードインパクトのこと、罰せられたがってるね。でも、シンジに罰はとっくに与えられてるんだよ」

「え?」

「その罰は、自分に向けられるのが相応しいとは思えない好意や愛情を寄せられ続けること。……そうされるのがシンジには一番しんどくて、つらくて、苦しいんだ。どうしてそれが許されるのかが分からなくて、どうしようもなく居心地が悪いから。ずっと悩み続けてしまう。それがシンジが受けてる罰なんだよ」

「……うん……つらいんだ」

「なんだか悔しいよね。アタシたち、そんな事でずっとしんどい思いをし続けている。でも、アタシはシンジがつらくても、アタシの気持ちを変えないよ。変えたら、シンジもアタシも可哀想だ。それこそ救われないよ」

 

 アスカはその罰から逃れる方法を知っている。実を言えば、シンジだって知っている。

 

 ─シンジだって、アタシからの愛がいくら重くてしんどくてつらくても、それに喜びを感じない訳ではない。いつだってアタシからの優しさやぬくもりを求めてる寂しい男の子なんだから。

 

 だから、単にそれを素直に受け入れればいいだけなのだ。自分を好きになって受け入れるしかないのだ。

 

 でも、そんな簡単な事が出来ないのが、アタシたちの十八年間なんだ。

 

 

 シンジと別れて、廊下をとぼとぼと戻り始めたアスカに、角から出て来た霧島マナが気づいて、慌ててとりすがる。

 

「ああ、惣流さん……捜したよ。もうすぐアイちゃんの定時訓練だよ……って、泣いてるの?」

「っさい、泣いてなんかいない!」

 

 しかし、袖で目許を拭うアスカに、霧島はアスカがやってきた方角を見て、鋭く察する。

 

「司令室……シンジ君と何かあった?何かされた?」

 

 その言葉に含まれる鋭さと抑制された憤りには、霧島がシンジに寄せる好意よりも、アスカに対して感じている同性としての連帯感や義憤が勝っているのが明らかだ。霧島マナはいつだって、フェアプレイの女だ。男の子みたいにカッコいい女子なのだ。グズで鈍感なシンジじゃなくて、霧島マナが彼氏になってくれたら、良かったのに……あははっ。

 

「……シンジは何もしてない。悪いのはアタシなんだ」

「うん……そんなことはないと思うんだけど、もし良かったら呟いてみたら。事情が判らないように呟けば、あたしにはチョッカイ出せないし」

 

 気遣いたっぷりに、吐き出すことを促す霧島に、アスカは一度目を瞑ってから、

 

「アタシがいつまでもいつまでも、中学生みたいで。自分の気持ちに収まりが付けられなくて……シンジを振り回した。シンジの顔が見たくて、でもシンジとお話はもう出来なくて」

 

「シンジ君とお話がしたいんだね」

 

 マナの言葉に、アスカはこくりと頷いた。

 

「中学生の時みたいに、くだらないことを言い合いたい。本当はシンジとずっと、友達になりたかった。親友を気取ってみても、本当はあいつとちゃんと友達になってない。何でも話せる関係になりたかった。でももう出来ない、友達なんかすっ飛ばしてヘンな関係になってしまってる。……恋しい気持ちが邪魔をする。大人の関係が邪魔をする。……前にも進めないし、後ろにも戻れない」

 

 霧島マナがアスカを抱きしめた。

 

「泣いていいよ、アスカ」

 

 その言葉を聞く前から、アスカは霧島のふんわりと抱き止める腕の優しさに、涙を流し始めている。

 

「ううっ……うっ……」

「なんなら、シンジ君の代わりに、あたしが付き合ってあげてもいいよ?恋人になってあげてもいい」

「バカ……言ってるんじゃない……わよ、あたしにそんな趣味はない……」

 

 霧島の首と胸を濡らしながら、アスカはそれでも奇妙な心地よさを感じている。むろん、アイを受け入れなかったアスカには霧島だって、そういう対象には出来ない。だけれども。

 

「あたしは女子校出身だけど、結構モテたんだ。当時付き合った女子は何人もいるけど、みんな今、男の子と上手くやってるよ」

「ははっ、でしょうね……あんた、女たらしっぽいもの……ねぇ、霧島……」

「なあに、アスカ」

 

 霧島はもう、ずっと、呼び捨てでアスカ呼びだ。今後はもう惣流さんに戻すつもりはないだろうと、アスカには予感された。

 

「絶対に結ばれない男を、嫌いになる方法を教えてよ……好きな男の子を嫌いになる方法を教えてよ……あんたなら何か知ってるでしょう?……あたしもう、つらくてつらくてたまらないんだよ。だから……」

 

 自分の気持ちを変えないと、シンジに宣言したばかりなのにアスカはそんな風に弱音をさらけ出してしまう。逃げずに立ち向かいたいのに、逃げてしまいたくなる。逃げたいのに逃げれなくて、逃げちゃダメだと自分に言い聞かせてきたシンジの気持ちが今ならよく分かる。

 その言葉だけで、アスカのつらい恋を知ったのか、霧島は首を横に振った。

 

「教えないよ、アスカにそんな方法は絶対に教えない」

「……どうして、知ってるのなら……」

「あたしは人間は正直でなくちゃいけないと思ってる。ずっと自分にそれを課してきた。課してきたと言っても、別にそれは全然しんどくはないのよ。あたしには正直でいるのが一番楽だから。だから、あたしは真っ直ぐに生きていると自負してる。自分に胸を張れる。だから……」

「だから……?」

「他の人に、自分にウソをつく方法なんか絶対に教えてあげられない、シンジ君を大好きなアスカが、自分にウソをつく方法なんか教えない。教えられないよ。そんな残酷な方法─」

 

 霧島は、抱いていたアスカの身体をそっと離す。

 

「アスカは─シンジ君が、大好きなんだよね」

 

 アスカは顔を涙でぐしゃぐしゃにしたまま、頷いた。

 

「世界で一番、シンジが好きだ……シンジの事だけを愛している……切なくて苦しくて、結ばれても結ばれなくて……でもっ」

 

 涙がこぼれ落ちて、これ以上を床を湿らせるのがイヤだった。だから、天井を向いた。

 

「叶わない恋だなんて、思いたくない─」

 

 だって、アスカが欲しいものはそれだけなのだから。

 

 神様、アタシにその、この世で欲しいたった一つだけの物を与えてください。他には何も要りません。

 

 どうか。どうか。シンジだけをアタシにください─

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