大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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三十六話 ロレンツォのオイル

 週末、シンジの官舎にクルマで乗り付けたアスカは、玄関口で手櫛で軽く髪を整える。服装は変じゃないだろうか。……アスカは自分の私服のセンスにあまり自信がない。ちなみに今日のアスカの服は、白地に赤い花柄のワンピースだ。

 

 子供の頃はエヴァの訓練に明け暮れ、一旦、大学まで飛び級したので同年代女子との交流が殆どなかったし、父を寝取って後妻に収まった義母との仲もぎこちなかった。母親や友人という同性のファッションの情報ソースがなかったので、いつも、芋っぽい野暮ったい服装を選んでしまう。

 

 そう考えると、もう一度家に戻って服を選び直しくもあるが、どうせ何度選びなおしても切りがないだろう。それに出掛けに、アイは可愛いと言ってくれた。今はそれを信じよう。だから、アスカは覚悟して呼び鈴を押すことにする。

 

 ─アイは今日は学校の友達、大井サツキ、阿賀野カエデ、最上アオイの三人を家に招いて、パジャマパーティーをするそうだ。

 

 数日前にその許可を求められ、アスカは二つ返事で認めた。アイが、仲良くしているのがその三人の女の子たちで、アスカは写真を見せてもらっただけで、直接会ったことはなかった。だが、アイの世界が広がり、普通の女の子として過ごせているのは救われる。それは、アスカが求めて結局得られなかった少女の日々だからだ。

 

「でも、羽目を外して、遅くまで騒いだらダメよ……それと」

 

 最近の自分の言い方は少し、昔のミサトみたいだな、あそこまで豪放磊落にはなれないけど……とアスカは思った。そこでアスカは少し言い淀み、ばつの悪そうな顔で続けるのだった。

 

「ちょうどその土曜日、アタシはシンジの家に行くんだけど、少し難しい話をするので、遅くなるかも知れない」

 

 結局、あの日の昼休み中には具体的な話しは何も聞けなかった。ここでは話せないとシンジが俯くばかりなので、週末にシンジの家で会うことになったのだ。

 

「いいよ……アスカ……さんも大人だから、ボクの許可なんて取らないで」

 

 そのときのアイの表情がつらかった。もしも、あくまでもしもの話だが、アタシが誰かと浮気をして、シンジがその事を知っていたら、こんな顔で送り出すんだろうな、という寂しさと切なさと苦しさに満ち溢れた表情で。アタシが絶対にシンジの顔にはそんな表情を浮かばせたくないと思う表情で、アイはアタシの行動を許そうとする。

 

「なるべく早く帰ろうとは思うのよ、でも……」

「帰る時間の問題じゃないから……」

「仕事の話なのよ、でも、職場ではセンシティブ過ぎて話せないから……」

「ん……」

 

 曖昧に頷いて、アイは理解を示す。

 

「お義父さんが寂しがらないようにしてあげて。ボクはもうその事ですねたりしないから……」

 

 アイは、アスカを自分ではない相手の所に送り出す事で、大人の顔をしようとしていた。それはアイの立場からすれば、どうしようもないのかも知れなかったが、どこかいびつで痛々しいものだった。

 

 そんな寂しさに満ちたやり取りを思い出しつつ、アスカは呼び鈴を押した。

 

 程なく、シンジは待ち構えていたかのように、すぐに玄関のドアを開けた。アスカは自分が予期していたタイミングより早い邂逅に、狼狽えてしまった。

 

「あ、あの、きょうは」

 

 初対面の相手でもないのに、アスカは久しぶりのシンジの家への訪問に声を上擦らせる。きょうは……の後に何を続けようとしたのか。お招きに預かりまして、とでも続けるつもりだったのか。前にシンジの家に泊まったのは、二年ほど前だったから、そわそわする。本人も自覚できるほどに、今日のアスカは落ち着かない。

 

「アスカ……待ってたよ」

「こ、こんにちは……」

 

 こんにちはという挨拶は肉体関係のある男女の挨拶として相応しいものだったろうかと、不意に口をついて出てしまった自分の言葉に内心で首を捻りながら、気恥ずかしく俯いていると、シンジが言った。

 

「こんにちは、アスカ」

 

 シンジはアスカにニッコリと微笑みを注いでいる。こんにちは、には、こんにちはと返す。当たり前だとでも言うように。実に凡庸で、実直だ。だからこその、シンジだ。

 

「うん……」

 

 シンジの笑顔は、アスカに力を呉れる。シンジは落ち込んでいる事が多いから、たまに笑顔が見れると本当に嬉しくてたまらない。いつもこんな風に笑ってくれたらいいのに。落ち込んでるシンジももちろん愛しいし構ってやりたくなるけれど、笑ってくれるシンジは大好きだ。シンジの穏やかな笑顔をアスカは毎日見たい。

 

「さ。上がってよ、アスカ」

「うん……」

 

 毎週のように抱かれて、あるいはアスカから抱いている相手であるシンジ。しかもこの所はアスカの気持ちが不安定なので、シンジも気を遣い、毎晩のように二人は寝ていた。アイの事も気にかかるので、せいぜい日付が変わるまでに限られたまるでシンデレラのような短い逢瀬だ。そんな風にしてまで身体を重ねるこの世で一番親しい相手だが、昼間に自宅を訪ねると、顔を正面から見れないほどにドキドキする。

 

 シンジが手を差し出してくる。

 

「案内するから……手、繋ごうよ、アスカ」

「うん……」

 

 差し出された手を取ると、きょうのシンジの手は想像していたのよりも温かい。

 

「……アスカの手はいつもひんやりするね」

「女の手足は冷えやすいから」

 

 よく言われるように筋肉量とそこからの発熱量の関係だろう。そんな風に、理系女らしく裏側では冷静に考えながらも、アスカはどこか、シンジの体温の温かさを、シンジの心の温もりのように考えてしまっている。

 

「手が冷たいひとは、心が温かいって言うよ」

 

 女の口説き方、首尾良く手を握れたら、次のステップその1みたいなベタな事をシンジが言うので思わず笑ってしまうと、シンジがキョトンとしている。二人が共に正反対の根拠で、お互いに相手の方が、心が温かいと感じているのも何だかおかしかった。

 

「……なにかおかしかった?」

「ううん。シンジはやっぱり可愛いね」

 

 シンジが不思議そうな顔をして頭をひねった。

 

 女のあしらいに慣れている男とそうでない男、どちらが女にとって魅力的なのか。難しい問題だ。一般的には前者なのだろう。でも、アスカは常に後者を推す。シンジの取り繕わない、むき出しのままの少年の心に時に傷つけられつつも、いつだって惹かれている。

 

「手を繋ぐのって、やっぱりいいね」

 

 シンジはそう言ってから、アスカの注意を促す。

 

「そこ、ちょっと段差なんだ。転ばないように気をつけてね」

「ありがとう」

 

 上がりかまちでスリッパに履き替えたアスカの手を引き、気遣わしげに先導して、長い廊下に導く。

 

 本当にこの家、広いわよね……

 官舎だから選びようのなかった借り物とはいえ、この広壮な家にたった一人でポツンと住んでいるシンジが何だか可哀想でもある。

 

 シンジには友達もいない、恋人もいない。ただ、アスカがいるだけだ。

 

 アスカはシンジに引かれている手の指をシンジの指に絡め直す。シンジに、あんたは独りきりじゃないんだよと伝えてあげたくて。そして、シンジの言葉に遅れて反応して言った。

 

「手つなぐの、いいよね、か。……そうだね……シンジとアタシはエッチはしまくってるけど、男と女として繋がると、あっという間に離れないといけない。エッチはいつか終わってしまうから。でも、手と手だったら……」

 

 男と女の器官での結合は常に刹那だが、手と手ならずっと繋いで居られる。アスカは乙女だから、婉曲的な言い方をするが、結局はそういう事を言いたかった。

 

「あっという間、か……」

 

 頬を掻きながら、シンジはやや面目なさげな表情だ。

 

「あ。あの……別にシンジが早いとか、そういう意味じゃないから、誤解……しないでよね……」

 

 自分の言葉が示唆しかねない別の意味に気付いて、アスカは慌ててそれを打ち消した。シンジは苦笑する。

 

「うん、分かってる……。でも、もしも男と女が果てることなく結ばれていられるのなら、ずっと繋がっていたくなるんじゃないかな。僕とアスカもずっと一つのままでいたくなると思う。きっと離れられなくなるよ」

 

 シンジは冗談めかして小さく笑った。

 でも確かにそれはそうだろう。シンジの言うとおりだ。だからこそ、男と女の交合には果てがあり、終わりがあるのだろう。

 

「……そうだね。もしも離れなくて済むのなら、一生繋がっていたくなるかも知れないわね」

 

 それから、アスカは二人の手が繋がれている部分に視線を落とす。

 

「恋人繋ぎってさ、大好きだけど、アタシたちの思い出には結構つらいよね。シンジから手を繋いでくれるのはむろん嬉しいけど」

「……ああ、うん……昔、アスカに怒られたね……これが最後だって」

 

 シンジは淋しそうに頷いた。

 

 指と指を絡める恋人繋ぎは嬉しいが、アスカにもシンジにも複雑な記憶が頭をよぎるのも事実だ。それは大学の卒業間際にシンジが切り出した事実上の別れ話。自分とアスカは結ばれてはいけないと独り決めし、痩せ我慢してアスカを放り出そうとした。アスカはそのシンジの裏切りが許せなくて、シンジの切り出した猶予期間というモラトリアムも馬鹿馬鹿しくて、身体だけの関係になる自分たちがホテルの部屋に向かう途中、シンジと最後の恋人繋ぎをした。

 

『恋人繋ぎよ、うれしいよね。でもこれは今日が最後かな?……仲良し……セックスはこれからも、何年だって、続けるのにね。どう嬉しい?アタシと身体の関係は継続できるって分かって』

 

 裏切ったシンジをただ傷付ける為だけのそんな言葉で武装して。

 

 だから恋人繋ぎという言葉は、むず痒い恋の甘酸っぱさだけではなくて、アスカにあの時の怒りと哀しみを思い起こさせる。─そんな風に、アタシはシンジとの間の優しい言葉や繋がりさえも、シンジを傷付けるために使ってきたんだ。アタシとシンジはどうしても傷付けあう関係なんだ……と。

 

 でも。それでも今日に至るまで、未練がましく繋がり続けているのが、アスカとシンジなのだ。恋人繋ぎもあの夜が最後にはならなかった。こうして、今日もそういう風に手を繋いでいる。それは本当に救いだった。

 

「あたし、シンジが『いつかは僕らの道は分かれていく』と言った日の事、時々、夢に見るんだ。アタシが、シンジからの卒業を迫られたあの夜のことが頭にこびり付いている。あの時の事を思い出すと、わっと泣き出しそうになる。夢の中でもだよ?そして目を覚ますと、混乱した頭で不安と恐怖に囚われていて……さらに頭がはっきりしてくると、シンジとアタシはまだ愛人なんだって思い出して、安堵する。崖から滑り落ちそうになって、片手で縁にしがみついている感じよ。たまたまシンジと寝ている夜に、そんな夢を見て目を覚ますと、アタシはシンジの腕の中に裸で抱かれていて、それに気付いたアタシは幸福感でいっぱいになる。地獄から天国に生還した感じだよ。シンジを完全に失ったと思ったら、あんたがまだアタシのものなんだと気付くの。だから、愛人関係だって悪いことばかりじゃない。それが無ければアタシはとっくに擦り切れていたはずだよ」

 

「アスカ……」

 

 アスカの言葉に、シンジはどうしてあげれば良いのだろう。何と声を掛けてあげれば良いのだろう。謝罪を何度も繰り返すのも、少し違う気がして、シンジは言葉を失った。

 

「ね……シンジはあの日のこと、夢に見たりはしないの?」

 

「僕が見る夢はもっと昔の事だから……」

 

 すぐにアスカにはぴんときた。アスカとシンジの原点にして出発点。シンジの心を囚われにして離さないあの赤い海の浜辺。

 

「それって……あの浜辺の夢?」

「うん……」

「そっか。アタシの言葉、シンジを苛み続けてるよね……」

 

 もちろん、どんな言葉かは、皆まで言わなくても、聞かなくてもお互いに分かっている。

 

─気持ち悪い

 

 あの赤い浜辺でアスカの吐いたその言葉は、いつまでもシンジの胸の奥にわだかまり続ける筈だ。でも、アスカはそれを取り消したりはしない。シンジが苦しければ、つらければ、忘れてしまっても構わないが、あの言葉は、あの時のアスカの正直な気持ちだ。

 

「……アタシたち、やっぱり同じなんだね。お互い、相手が自分を拒絶する言葉に怯えてる。だって、それが一番怖いんだもの……お互い、拒否されるのがどうしてたって、一番怖いわよ」

 

 それでも、そうした拒絶を経て、なおもアスカとシンジは繋がり続けている。身体でも、手を繋ぐ事でも。それが希望なのか、儚い夢にすがりつく互いの未練なのかは分からない。

 

 けっきょく、そういうもの─決定的な拒絶の可能性を恐れれば結論は常に先延ばしになり、モラトリアムのように、ただれた、だらしのない関係が続くしかないのだ。

 

「着いたよ……アスカ」

 

 シンジがアスカの手を引いて、案内したのは、大きな書斎だった。

 

 

 書斎には壁という壁を埋め尽くすように四方に背の高い書棚が備え付けられており、窓はない。書物に日光は大敵だ。書棚には医学書と生物学の本を中心とした学術書で満載だった。

 

 書斎の中程には大きめのテーブルがあり、上にバベルの塔のようにうずたかく論文が積み上げられている。

 

「これの件で、相談なんだ……」

 

 シンジが論文の山を指さした。他者の英語の論文なども含まれているが、近寄ってアスカが確認すると、大部分はシンジ自身のもので、著者名は碇シンジ単独。膨大な数の論文だった。

 

「あんた、これをいつ……。こんなに大量の学術論文を……」

 

 決まっている。論文が空中から湧いて出る訳がない。シンジは仕事の合間に、仕事が終わった後に、週末に、論文を書いていたのだ。どこに発表するでもなく、ただ、問題解決のためだけに。

 

 かつてアスカがシンジをからかったように、無趣味で家で寝ていたどころではない。分量から言って、必死で研究をしていないとこんなに論文は書けない。まさに寝る間を惜しんで研究をしていたとしか思えなかった。余暇や趣味の時間など殆ど取れなかった筈だ。

 

 アスカは慌てて、アブストラクトをいくつか読んで見る。クローン体のテロメア、それが短くなる機序の分析、クローンはなぜ短命化するのか、それを長寿命化する方法はないのか。クローンに現れる各種の疾病や障害の症状、綾波レイのデータの分析。そうした疾病や障害が現れるまでの平均期間は、クローンの育成期間の長さに比例する、というシンジの重要な発見もあった。つまり、クローンを短期間で育成すればするほど、短命化が早まる。そして、クローンの健康問題を解決する方法の考察。クローンを少しでも長く生かす方法の模索。しかし、いくら探しても、究極的な解決に至る論文は見当たらない。ここまで膨大な文献を渉猟し、寸暇を惜しんで研究し、論文を書いても、シンジはそこまでたどり着けていない。

 

「これ、全部アイの……アイのために書いたの?」

 

 クローンといえば思い当たるのはそれしかない。アスカは論文の内容からの不吉な予感に呆然として立ち尽くし、シンジに訊ねる。

 

「うん……」

「だってあんた、これだけ研究するのにどんだけ……司令の仕事で滅茶苦茶忙しいのに、その上、こんな……アタシとの愛人関係だって、おろそかにしてないのに、こんな、こんなのって……!」

 

 寝るのが趣味だという言葉の本当の意味がわかった。貴重な睡眠、殆ど満足に取れない睡眠。たまに取れた睡眠はシンジにとってきっと至福だったのだろう。アスカはそれを完全に誤解して。シンジが週末ぐらいは無為に逃げ込んでいる、と……。むしろ、そう信じ込みたかったのかも知れない。シンジを己の庇護下の、与しやすい、大きな子供のように扱うために。

 

「……アタシ、どうしてこうなんだろう。シンジのこと、尊敬したいのに、心のどこかでやっぱり見くびっていて、侮っていて。きっと、どこかでシンジのことを見下して、バカにしているんだ。だから、バカシンジだなんて呼び方をして……」

 

 ─シンジのことをそんな風に信じてあげられなくて、ちゃんとしてないシンジにどこか優越感を感じていて。でも、ちゃんとしてないのはシンジのことで頭がいっぱいなアタシの方なんだ。シンジはずっと頑張っていて、アタシだけでなくアイのことを考えていて。必死に毎日を生きていたのに。

 

 アスカがほぞを噛むと、シンジはまだ握ったままだった手を繋いだまま、アスカの目のそばに持って行く。潤み始めたブルーの瞳に、透明な水が溢れないように、と。そっと指でアスカの目元の涙の滴を掬う。

 

「それは違うよ……。僕はアスカにバカシンジって呼ばれてイヤな気分になった事なんか一度もない。バカシンジって呼ばれなくなる日の方が怖いんだもの。アスカの特別じゃいられなくなるほうが怖いよ。別に尊敬なんて要らないから、遠慮せずにバカシンジって呼んでよ……」

 

 シンジの言葉に、アスカはヘの字に唇を引き結ぶ。でも、だって。今は、自分の中に秘められていたシンジへの軽侮の心が許せなかった。思い上がった醜い自分がイヤでたまらない。

 

「それに、アイのためなんて、当たり前の事なんだ。僕がアイを生み出したんだから。本当はこんな解決法、ちゃんと作り出してから、アイを生むべきだった。いや、そもそもアイみたいな子を作っちゃいけなかった。でも、僕は他にどうしていいのかわからなくて……。もう間に合わせるには方法が分からなくて、こうやってアイを生んだ後に、泥縄式の研究を続けているんだ。使徒に人類が皆殺しにされるわけには行かない。フォースインパクトだって起こさせるわけには行かない。だから、僕はもう一度、エヴァに乗れる中学生の自分を作らなくちゃいけなかった。大学時代からその事ばかり研究していた。アスカを守るには、日本政府からだけじゃない、使徒から、ゼーレから、人類補完計画から……あらゆる脅威から守らなくてはいけないから。僕自身をクローンにするのは、避けられるものなら避けたかったけど、最初からの計画通りだった……!」

 

 シンジは疲れたように目を瞑った。柄にもない悪事をし遂げた、善良で凡庸な人間がそこには居るだけだった。アスカを守るために、なし得る限りの非道を行うと決意した、ただそれだけのちっぽけで弱々しい青年だった。そして、今はシンジは、アスカとアイの二人の重みを支えきれず、倒れ込もうとしている。

 

「シンジ……あんた、アタシのために、なんでそこまでっ……アタシとアイのために、そこまで……」

 

 アスカは大声を上げて泣きたくてたまらない。自分にそこまでの価値があるのか?アタシがそこまでの女か?と叫びたい。今は未だ、アスカを救うことと、世界を救うこととの間に不一致はない。しかしいつまでもそうだという保証は全くないのだ。シンジが世界とアタシを天秤にかけて、アタシを選んだら……そう想像すると、アスカとシンジの出逢いは、人類にとってはまことに忌むべき出逢いなのかも知れないのだ。六分儀ゲンドウと碇ユイの出逢いのように。巡り会ってはいけない出逢いだったのかも知れない。

 

「……僕はアスカを守るために、アイを犠牲にする事を選んだんだ。悪魔と同じだよ。アスカのためにしたってわざわざ言うのは、アスカに嫌われたくないからなんだ。アスカを勝手に共犯者みたいにして、自分の卑劣さを誤魔化したいだけなんだ。人間として僕は最低なんだよ。……でもお願いだから、アスカ、僕のこと、嫌いにならないで……」

 

「嫌いになんか、なるもんか……なれるもんか。アタシに対してただ優しくしたがる男なんか星の数ほど居たわ。でも、アタシのために地獄に堕ちてくれる男なんか、他に誰もいない。そんなにアタシに対してイカれてるのはあんたしかいない。アタシがあんたのことを好きにならなくて、誰を好きになるんだっ!」

 

 ─嫌いになんかなれない。それが当たり前だ。シンジが地獄に堕ちるとしたら、全てアタシの責任なのだから。シンジの共犯者、望むところよ。地獄になら、二人で行こう。悪魔になるなら、二人でなればいい。でも、その前にアイを救い、幸せにしてあげなければ……。

 

 だが、シンジは絶望の表情を浮かべながら、首を左右に振るのだ。

 

「……ねぇ、アスカ。僕の研究、もう行き詰まっちゃったんだよ。僕はバカだからもうやり方がわからない。アイは今はまだ元気だろうけど、このまま僕の予測どおりに行けば、後、長くても二年ほどで……」

 

 そして、その言葉は震えるように断ち切れて……シンジは大の男なのに、まるで小学生の子供のようにポロポロと大粒の涙を零し、泣き始めた。

 

「アスカ……。アイが……アイが死んじゃうよ!このままだと、アイがいなくなっちゃう。アイに死んでほしくないようっ……」

 

 二年でアイが、死ぬ……

 

 それはアスカにとって衝撃だった。だって、あの子はものすごく元気で、アスカの所に来てから風邪一つ引いたことはない。ご飯だって毎日沢山食べてるし、最近は友達と遊ぶのが本当に楽しいらしく、やっと青春を謳歌し始めているのに……!

 

 ─どうして、アイが、まだ十二歳の少女がそんな目に遭わなくてはいけないの?

 

「アイが……どうしてよ……どうしてそうなるのよ!」

「分からない。でもクローンのテロメアが短くなるのは、まるで生命そのものに与えられた摂理のようで……しかも、アイを生み出した後で分かったけど、育成に時間を掛けなかった場合は、その寿命は格段に短くてっ……どうしよう、どうしよう、アスカ!」

 

 シンジの涙はもう留めようがない。三十を過ぎた男が泣く姿をアスカは初めて見た。肉親や家族を失う反応としてはおかしなものではないのだろう。しかしアスカは自分の実父が実母の自死の後に、こんな風に身も世もなく泣くのを見たことがなかった。その事は実父の酷薄さよりも、父が母を愛していなかったという事実をアスカに改めて突きつけた。愛しあっていない両親の間に生まれたアスカ自身の生まれ。アスカはそれを自ら、哀れむ。

 

 だが、それならアイはどうなのだろう。アイは愛しあった両親から生まれた存在ではない。愛のなかった両親から生まれた存在でさえない。最初から供犠として生み出された、誰かの代わりなのだ。エヴァに乗れなくなったシンジの代わり、もしかしたら死んだかも知れない名も知らぬ少年兵の代わり。それがアイなのだ。アイを生み出した動機が、シンジが松代の地獄からアスカを救い出そうとした事にあったのなら、アイは時間を隔てたアスカの身代わりでもあるのかも知れなかった。クローンというのは結局のところ、その本質からして、誰かの身代わりであるのだろう。ヒトの命の重みに、オリジナルとクローンの違いなど無いはずなのに。

 

 普通に両親から人として生まれたアスカにはクローンの気持ちは究極的には分からない。しかし、同じエヴァのパイロットとして運命を仕組まれたチルドレンだ。大人の都合で振り回されてきた点では同じだった。アイとアスカ、どちらが哀しい生まれなのだろう。どちらが人として哀しいのだろう。そしてやりきれないのは、アイを道具として自分たちの都合で振り回している大人は、シンジとシンジの全ての目的であり行動の原因であるアスカなのだった。

 

「シンジ……」

 

 今や子供のように泣きじゃくっているシンジをアスカは抱き止める。

 

「アイのこと……彼女を生み出す前は、単に自分のクローンだと思ってた、そう割り切れる筈だったんだ……。いざとなったら冷酷に切り離せる、自分自身だからって。僕は僕自身が嫌いだから、僕なんてどうなってもいいと思ってるから、そう出来ると思ってた……。父さんみたいに、父さんが綾波にしたみたいに、"ちゃんと"出来ると思ったんだ!」

 

 ─そんなの、何が「ちゃんと」なんだ……。愛してる妻の為に、その妻のクローンを消耗品に出来る碇ゲンドウとシンジはやっぱり違う。違いすぎるのだ。ちゃんと出来なくて普通なんだよ。ゲンドウみたいになれないシンジがアタシは好きだよ。

 

「でも、いざ、アイと会ったら、アイのこと、自分自身だなんてとても思えなかった。自分の娘としか思えなかったよ。アスカに対するのとは違う意味で、アイのこと、愛してるんだ。……アイが、僕とアスカの本当の子供だったら良かったのに、って何度も願ったよ。朝、目が覚めたら、全てが夢で、アスカとアイと家族として暮らしている世界を願ったよ。でも、そんなの只の夢なんだ。僕は僕のやったことに落とし前を付けないといけない……」

 

 本当に、そんな優しい世界だったら良かった。エヴァも使徒も人類補完計画もない世界で、シンジとアイと三人で暮らす。擬似ではなく本当の家族になる。そんな世界があって欲しかった。だが、あって欲しいものは、いつだって、自分たちの周りにはない。家族なんて一番縁遠いものだ。それがこの冷酷な世界のことわりなのだ。

 

 シンジはアスカの腕の中から離れると、くずおれて、フローリングの床に膝を付いた。膝を折り、アスカに向かって頭を下げて土下座をする。

 

「アスカ。お願いです。僕を助けて下さい。……最初から最後まで間違え続けている僕を許して。アイを救いたいんだ。アイの命を助けたいんだ。どうすればいいか教えてよ……」

 

 万策尽きたシンジが、涙で顔をグシャグシャにして、救いを求めている。

 

「……アタシが相談しろと言ったのは、泣き言を聞かせろって言ったわけじゃない!」

 

 そのとき、アスカの念頭にあったのは、ロレンツォのオイルという話だ。映画にもなっている有名な話だが、元々は実話で、治療法のない難病に囚われた息子を救うため、医学にはずぶの素人の夫婦が、論文を読みあさり、遂に息子を救う治療薬を開発する……奇跡のような実話だ。

 

「あんたはこの分野での世界一の権威だ。生命倫理から誰もこんな研究に手を出さない。綾波レイのデータだって、誰も持ってない。あんたが出来ないなら誰にも出来ないわ……でも、アタシはあんたになら出来ると信じてる、あんたをこのアタシ、惣流・アスカ・ラングレーが手伝ってあげるんだから、アイを救えないはずがない。諦めずに、二人でアイを助けようよ!」

「アスカ……」

 

 アスカは長年探していた、シンジの隣に立てる居場所をようやく見つけた気がしている。二人でアイを救うんだ。困難な道だけれど、シンジと二人でなら、必ず乗り越えられるとアスカは信じている。


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