「とりあえず、あんたに必要なのは睡眠よ」
夕べも寝たのは朝の四時だと聞いて、アスカは呆れた。せっかくアスカが来てくれるから、その前に少しでも進展があればと思って。シンジはそう言うのだが。
「それであんたも身体を壊したら何にもならないでしょっ!」
アスカはそう叱りつけた。
シンジに和室の場所を聞くと、布団を運ばせ(一応力仕事なので、シンジにやらせる)、そこに二人で布団を敷いた。シンジの布団と、使われた形跡のない客用のアスカの布団だ。布団と布団の間はぴったりくっつけて間隔を無くしておく。
「黴臭くはないわね」
「定期的に干してたから」
「誰を呼ぶとでもなしに?」
「そんな事で手を抜かないよ……それにアスカが……いつか泊まりに来るかも知れないし」
「まさか昼寝用、いや朝寝用か……に敷くとは、思わなかったでしょうけどね」
まだ昼の十一時にもなっていなかったが、アスカはシンジがすぐ睡眠を取ることを主張した。そして昼飯をたっぷり食べて、それから作戦会議だ、と。睡眠不足、栄養不足では勝てる戦も勝てないわよ、と。このあたりの発想は、アスカは正しく軍人だった。
「でも、アスカまで一緒に寝るとは、思わなかった」
「あたしと一緒に寝るのがイヤなの?いっとくけど、色っぽい事は無しだからね。疲れ切ってる所にセックスは毒だわ」
「……うん」
「シンジが心配なのよ」
アスカはシンジの頬に手をやった。
「いつだって心配なんだから」
「ありがとう……」
最近は毎晩ホテルに行っていたから尚更だ。自分が募らせた恋心のせいで、シンジに悪いことをした、とアスカは思う。今、アスカが一緒に寝るのはあくまで監視のためだ。シンジが寝ることをちゃんと見届ける。ただ、アイの真実を知って、今晩はもう、そういう艶めいた展開には気持ち的にもなれないだろうとも思っていた。だから、このセックス抜きでの同衾には、代償行為としての性格がないとは言えない。
床を延べ終わると、二人は皺にならないよう服を脱いで几帳面に畳み、下着姿になった。まだ冬だが、部屋はセントラルヒーティングが効いているから肌着でも、震えるほどには寒くはない。
それにしても、白昼露わになったアスカの肢体はシンプルなピンクの下着によって強調されるように、中学生だった時分より、明らかに胸部と臀部が発達している。別に初めて見るわけでもないのに、シンジが男の本能で思わず目を惹きつけられると、アスカがその視線を遮るように、腕を十字に交叉させて身体を隠した。
「シンジのえっち」
「ご、ごめん……」
「そういう事は今はしないって言ったでしょ。大体、ここの所、し過ぎだわ」
「……それもごめん」
「ばか。……アタシが欲しがったからあんた、それに応じただけでしょ。アタシが寂しそうにしてたから、構ってくれただけでしょ」
「それだけって訳でも……」
「シンジは大体、アタシに甘過ぎるね」
アスカは布団の上をにじり寄って、ツンツンとシンジの鼻を人差し指の先でつつく。
「ま、アタシに厳しくしたら、アタシ怒るけどね」
「ど、どうしたらいいんだよ」
「……シンジの好きなようにしたら、良いんだよ」
アスカはしんみり言った。
「アタシの反応はどうあれ、シンジの好きなようにしたらいい。アタシに優しくするも、冷たくするも。……本当にそれが一番なんだよ。アタシに負い目を感じたりするのが一番良くない」
「アスカ……」
「シンジが、アタシに優しくする気になれないなら、無理をしなくてもいいよ。でも、もしシンジがアタシに優しくしたいと心から思ってくれるなら、こんなに幸せな事はないよ。シンジがアタシに対してそう思ってくれるだけで、実際に優しくしてくれなくたって、もうそれだけで幸せだよ。優しい気持ちはちゃんと伝わるからね……」
アスカにどう接するか、すべてシンジ自身の意志で決めろということだろうか? シンジが自発的にアスカをいたわることが大切だ、というのは分かる。さし当たっては、アスカが何だか寒そうだなとシンジは思って、腰を浮かせかける。
「その……パジャマ、やっぱり出そうか」
「面倒くさいからいいわよ、どうせ二時間ほど寝るだけだし。寒かったら抱き合えばいい」
「そう」
そして、二人はそれぞれの布団にもぞもぞと身体を入れる。布団に入りきると、お互いの顔を見合わせ、どちらから言うとでもなく自然に布団の中で手を繋いだ。それから二人の顔は天井を向いた。知らない天井を見つめながら、アスカは隣の布団の中にいる手を繋いだ男に声をかける。
「……考えれば、あたしたちの微妙な関係はあの夜から始まったのよね」
「アスカ……?」
「セックスどころか、キスさえ出来なかったけれど、あの夜、シンジはアタシにキスしようとしたのよね」
「うん……やっぱり最後までは出来なくて」
ユニゾン訓練最終日、イスラフェル戦の前夜のことだ。キスを迫ったという下りでシンジもいつの話かを理解した。アスカは考える。あのとき、シンジにキスをされていたら。自分は怒っただろうか。受け入れただろうか。二人はもっと早く結ばれていただろうか。今のような、こんなグチャグチャの関係ではなかっただろうか。考えても詮無い事だが、アスカが過去の自分たちの行動に少しの後悔もしていないといったら嘘になる。いつだって、アスカとシンジは素直になれなくて、お互いに踏み込むのが遅すぎて。赤い海の浜辺で憎しみあって、ようやくのように結ばれて。そして、今、こうして午前中から二人で和室の天井を見上げている。恋人にも夫婦にもなれないままに。
「あの頃から……アタシのこと意識してたの?」
「意識はしてた……」
「好きだった?」
「…………」
シンジは無言だった。無言というのはそういうことだろう。まあいい。
「……ま、いいか。あの頃のアタシたちは無論恋人ではなかった。でも今もアタシたち、恋人ではないんだから、結局何も変わってないのよね」
「……僕はそんな風には思ってない」
「そう?」
アスカが首を傾げて、シンジの方を見ると、シンジが突然顔を近付けてきて、アスカの唇をさっと奪った。
「僕にはこんな事も出来るんだ。昔とは違う」
「……やるじゃない、いっちょ前に」
さっきまで子供みたいに泣きじゃくっていたくせに、とアスカの中で反撥心が芽吹いた。
「色っぽいことはしないと言ったでしょ」
「キスぐらい、いいじゃないか……」
時々見せる、開き直りのシンジの顔だ。
「僕はアスカの男なんでしょ」
「はいはい、そうですね」
……何千回寝てるんだから、無論そうに決まってる。
「もしかして、怒った?」
「アタシがあんたからのキスで怒ると本気で思ってるなら、それこそ本気で怒るわよ」
バカなんじゃないのか、こいつ。アタシはアンタのものだっての。
一気にシンジがしゅんとなったので、今度は少し腹が立った。
「ごめん……」
「ま、いいけどさ。でもちゃんと寝るわよ」
アスカは片手を繋いだまま、布団の中でシンジに身を寄せた。
「やっぱり冬だから、下着じゃ寒い」
シンジは、だから言ったのに、とは言わない。アスカはシンジの体温を折り込み済みでパジャマは要らないと言ったのだから。
シンジはそっとアスカの背中に手を回した。アスカも名残惜しそうに繋いでいた手を離して、シンジを抱き返す。
冬の布団の中で互いの体温だけが、僅かに春の暖かさを運んでくれるような気がする。二人を取り囲む世界は本当に残酷で、アスカたちはそれに傷ついてばかりだけれど、僅かな希望を、相手の体温のぬくもりに見出したい。
「シンジ、今日はなんか無理してる気がする」
「え?」
「自分からキスとか……イヤじゃないし、嬉しいけど、無理しなくてもいいよ」
シンジが男らしさを気負うときはアスカの経験則上、あまり良いことにならないと思われるのだ。
むろん、シンジが男らしくしようと頑張るのは歓迎だ。だけど、身の丈以上の無理をしたって何にもならない。
「そんなに気を張るのは、アイの事が頭にあるから?」
アスカが訊ねると、シンジは首を左右に動かした。アスカが抱きついているから、あまりうまく動かせないが。
「……分からない。でも、今のままの、なよなよした、アスカに甘えてるだけの僕じゃ、アイは救えないと思ってる」
「そんな事、関係ある?……シンジは今までだって、ちゃんと頑張ってきたじゃないか。ネルフを作ってアタシを救い、アイの為に寝る間も惜しんで研究をしてきた─別に男らしさなんて関係ないよ。女にだって、世界を救えるんだから」
「それはそうだけど─もちろん、そんな意味じゃないんだけど……」
今、シンジの精神は張り詰めている。張り詰めたものは脆い。気負いは、最終的な敗着に繋がっている気がアスカにはする。
「シンジ、泣いてもいいよ」
「……っ」
「また泣きなよ……女々しくたっていいじゃない。アタシはシンジが碇ゲンドウみたいに、綾波レイが死んでも涙一つ流さないような人間であっては欲しくはない、アタシのママが死んでも涙一つ見せなかったパパのようであっては欲しくない。アタシたちの親は間違ってるんだよ。シンジはそんな風にならなくていいんだよ。そんな強さは要らないんだよ」
だからアイのこと、つらければ素直に泣けばいいんだ。シンジにアイの残酷な未来のことなんて我慢できない。だから声を上げて泣いて、アタシに甘えればいい。
そんな風に促されたら、シンジだって、今まで必死に一人だけの秘密として我慢してきたから、孤独に強がってきたのだから、初めてそのつらさを分かち合えるアスカの胸の中で泣いてしまう。アスカの優しさに甘えてしまう。
「アイが……アイが、もし死んでしまったら……僕はもう立ち直れない。自分のしたことがきっと許せない……ねぇ、アスカ。僕は酷い人間なんだ。でも……今だけ、今だけでいいから、僕は酷くない、シンジは頑張ってるって言ってよ。ウソでもいいからそう言って……」
男のくせに、大人のくせに、シンジは嗚咽を繰り返し、鼻をすすり、しゃくりあげてしまう。偽りの救いを求め、アスカにすがってしまう。アスカはシンジの後ろ髪を撫でつけた。
「それは別にウソなんかじゃない。シンジは本当にちゃんと頑張ってるよ。酷いのはシンジじゃなくて─きっと世界の方だよ。シンジが頑張っても、頑張っても、幸せにしてあげられないアタシもきっと悪いんだよね。本当はもっとシンジを支えてあげたいのに、アタシも自分のことでいっぱいいっぱいだから─」
シンジがアスカを幸せにしようとしないのに、アスカがそんな事を言うから、もうシンジもたまらなかった。感極まって、涙が止まらなくなり、アスカの首筋や胸の谷間を濡らしていく。
「アスカっ、アスカ……どうしてアスカはそんなに優しいんだよっ。僕、アスカに何もしてあげてない、逃げてるだけなのにっ!酷くない、なんて言ってもらう資格は僕にはない、僕がいくら求めても、無視すればいいのにっ」
「……そんな事、出来ないよ。シンジが哀しいと、アタシも哀しいもん。哀しいことはふたりで分かち合おうよ、助け合おうよ。ちゃんと、はんぶんこにしようよ」
シンジはアスカもアイも誰一人幸せにできない自分が歯がゆくて泣いた。さめざめと泣いた。アスカの肌の上を冷たい涙が流れた。アスカに守られてばかりだ。アスカを守る繭になるネルフをせっかく作っても、けっきょく世界を守らなければ、アスカは守れない。アスカを守ろうとするたびに、シンジは誰かとアスカを秤にかけなくてはいけなくなる。それは父ゲンドウのやったことと何が違うのか。本質的には同じではないか。
だからシンジはアスカに、ゲンドウやアスカの父親のようになって欲しくないといわれても、彼らを否定しきれない。
「父さんのこと……」
「え?」
シンジはアスカの胸から顔を上げて、自分の頬を伝う涙をゴシゴシと腕で拭う。
「……父さんは綾波を助ける為に、掌に大きな火傷まで負っていた。だから綾波が死んだ時だって、人知れず泣いてたかも知れないよ……アスカのお父さんだってそうかも知れない。人に弱みを見せたくない人だって居るんだから……」
シンジは自分のことよりも、父ゲンドウを、そして、ゲンドウよりもアスカの父親のことを擁護したかった。アスカにはまだ父親との関係に希望を持っていて欲しかった。自分には父親との和解は叶わなかった。息子である自分も含む全てを捨てて、母との再会のみを願った父の心が理解できなかった。母さえ居れば自分は要らなかったのだろうか。シンジはそんな父が分からないが、分かりたかったのだ。そして今は、自分がアスカを救うために、アイを犠牲にしつつあることを重ねてしまう。だから、ゲンドウを、その所業を肯定する為ではなく、そういう風に追い詰められていった境遇を同情するように庇いたくなるし、アスカにだけは、まだお父さんのことを諦めては欲しくない。なぜなら、アスカの父はシンジの父と違って、まだ生きているのだから。死んでしまった人間とは違い、アスカと父親にはまだ和解のチャンスがあるのだから。
アスカはそんな風に、父親たちを庇うシンジの心情を敏感に察した。シンジの優しさとその裏にある甘さを知った。シンジは本当に性格的にはネルフの司令向きではない。相手に希望を見過ぎてしまうのも、自分の境遇と重ねて同情すべき部分を探してしまうようなのも、策謀に全く向かない性格と言えるからだ。
「シンジはお人好しね……そこが良いところだけど。アタシたちの父親は二人とも典型的なソシオパスだよ。他人を自分のための駒として利用して、心が痛まないという病気なのよ。あんたも散々ひどい目に遭わされて分かってる筈なのに。碇ゲンドウにとっては、実の息子のあんたも、もちろんアタシも、奥さんに再会する為の単なる駒に過ぎなかった。世界中の人々が彼にとっては共感の対象ではなかったのよ。同じ人類なのに、彼には他人が自分と同じ人間だと思えないのよ」
それはやはり病気なのだ。あるいは狂気なのだ。人間の利己主義は分かるとしても、そこまでエゴイストに徹しきれないのが、また普通の人間なのだから。
そんな人間が、全ての人類の合一を願う人類補完計画を遂行しようとしたという皮肉。人類のことなど、本当にどうでもよくて、ただ一人、妻のユイのことしか眼中になかった碇ゲンドウ。人類にとっては最悪の人格だと言えた。
「そう……なのかな……でもそれなら僕にはそんな父さんの血が流れているわけで……」
「ソシオパスは遺伝ではなく、後天的なものよ。育った環境に左右される。だから碇ゲンドウやアタシのパパがどれだけ冷淡で他人を踏みにじれる男でも、シンジやアタシには微塵も関係ない。碇ゲンドウやパパは、自分自身で、冷淡で他人に共感しない自分であることを自らに許したの。そういう生き方を選んだの。そのエゴイズムの責任をゲンドウは取らされたし、うちのパパもいつかは取ることになる。けっきょく、人生ってそれで帳尻が合わせられるのよ。他人に優しくしなかったのなら、寂しい最期になるの」
でも、そんなアスカの言葉が、シンジには他人事には思えないわけで。アスカを傷つけ続け、アイを生み出し、残酷な扱いを続けているシンジが、ゲンドウと自分は違うのだ、自分はちゃんと人に優しく出来ている、とりわけアスカやアイに優しく出来ている─なんて思える筈がないわけで。
「……シンジはまだ不安そうな顔してるね。自分とお父さんが違うって思えないんでしょ。でも、それはみんな同じだよ。アタシは碇ゲンドウが、綾波レイを使い捨てにした理由に心当たりがある」
「心当たり……?」
「碇司令─あんたのことじゃないわよ─は、綾波レイと碇ユイを
リツコやその母親を愛人にしていたゲンドウだが、身体の関係とは別次元で、心の操をユイに尽くそうとしていた。そんなの身勝手で、一方通行で、並みの女から理解されるとも思えないのだけれど。なぜか、碇ユイという女なら、ゲンドウの歪んだ誠意や純愛が伝わるのではないか。様々な資料から、ユイとゲンドウの関わりを知ったアスカにはそう思えるのだ。
「アスカ─」
「なんでそんな事が分かるのか?って顔してるわね。だって、アタシがアイに対してずっとそう思ってるんだもの。いつもシンジとアイを混同してしまいたくなる。シンジに万が一、何かあったら─アイを代わりにしてしまいそうになる─同性愛だって何だって構わない。この世にシンジが居ないのなら、シンジの後追いもせずにオメオメとこの世に生き残って、アイとただれた関係になって生きてしまうかも知れない─そんな自分の中の弱さに気づいてしまったのよ。女だからアタシは、しぶとく生きてしまうかも知れない。だから、その恐怖があるからこそ、アタシはアイに殊更に事務的に、冷淡になる。ゲンドウが綾波レイにしたように、冷酷にならなくては、と考えてしまう。アタシはシンジじゃなくて、むしろゲンドウに近い人間なんだって、いつも─」
「やめろっ」
語気鋭くシンジは叫んだ。アスカをきつく強く抱きしめながら、シンジはアスカの自虐を止めたかった。アスカの想像が─自分の死後のアイとの関係の妄想が─不快だったのではない。アスカが殊更に自分自身を追い詰めている理由が、シンジにあり、シンジがアスカを幸せに出来ていないからだ、すべて自分の不甲斐なさがアスカを苦しめているのだと突き付けられるのが耐えられなかったからだ。
「……シンジ?」
「もうやめて……やめてくれよ……アスカが父さんと同じな訳がない。そんな訳がないよ」
「……アタシだって、シンジと同じ側の人間で居たいのよ。でも時々自信がなくなる。たぶん、アタシはアイに万一のことがあっても、あんたほど嘆けない。苦しめない。きっと、立ち直れてしまう。シンジとアイを区別して、シンジを特別だって思いたいから、アイに冷たく出来るんだ……愛って、なんでこんなに残酷なんだろうね。愛は他人に対する優しさに区別を付けることなんだ。シンジに優しくするためにはアイには優しくしない。シンジしか愛せないんだから、アタシ、アイには冷たくなるしかない、ならなくちゃいけないんだって─」
アスカの声にも涙の気配が忍び寄っている。
「そんなの違うよ……だって、アスカはさっき、アイを一緒に助けようって言ってくれたじゃないか。弱気になる僕を励ましてくれたじゃないか。僕はだからアスカが好きなんだよ。アスカは間違った事なんか絶対しない。ちゃんとアイのこと、お母さんみたいに見守ってくれてたよ。アスカはいつだって正しいんだ。僕が保証する!」
シンジの断言には根拠が何もない気がしたが、それでもアスカはシンジに下着姿で抱きしめられたまま、心を落ち着かせる。
「……ま、あんたがそう言うなら、少しは自分自身を信じてみる……か」
「うん、そうして……」
トクントクンと二つの心臓の音だけが無言の中を脈打ち、お互いの生の実感を伝えてくれる。
「そして、そこまで言うなら、シンジも少しは自信持たなくちゃね」
「僕の方は、自信……なんて」
その心音が示すように、アスカは生きている。シンジとは独立して、別のいのちとして、シンジとは無関係に生きている。たとえ、二人の道が分かたれたとしても、アスカはシンジとは無関係に生きられる。それがシンジにはたまらなく切なかった。苦しかった。だから、それを見るのが怖くて、アスカに捨てられるのが怖くて、先手を打って自分から別れを切り出した。そこまでしていても、シンジにはそういう未来を想像することが、ずっと耐え難い程に苦痛だった。
「生きてるアタシは怖い?」
「……う、ううん」
「殺してしまいたくなる?」
シンジの視線の先には、アスカの細く白い首がある。シンジがかつて、両手で思い切り力を込めて絞めた白い首がある。
「いや、今は……そんな事は思わないよ。でも……」
「……でも?」
「でも、それはアスカが僕を受け入れてくれているからで。もしアスカが僕を拒絶したり、裏切ったり、他の男に走ったら……」
自分が怒りに我を忘れたら、何をするか分からないという不安がシンジにはあった。
「そうか。自信がないんだ。アタシがシンジを捨てたら、腹いせにアタシを傷つけてしまうかもって」
「……うん。腹いせというか、そういうアスカが存在するのが嫌でたまらないというか……」
その恐怖もまた、シンジが自分からアスカを引き離そうとした理由であった。
アスカには見せたくない自分の醜い姿だが、シンジは正直にそう言った。いつかは乗り越えなくてはいけない自分の醜さだ、と思う。
「シンジがアタシを信用できないなら、殺してもいいけどさ……多分、殺した後は寂しいと思うよ」
「……うん」
「もう二度とお話はできなくなるからね。釈明も謝罪も何も聞けなくなる……もしも浮気云々が誤解だったらあんたは永遠に救われない。アタシは命惜しみで言う訳じゃないわよ、別にシンジのためになら、アタシの命なんかあげても構わない。でもアタシはやっぱりシンジと生きたいな……」
「僕だって─」
しかしその先は続けられなかった。僕だって、アスカと生きたい。それだけの言葉を口に出して言うのがどれだけ難しいか。それだけの言葉で、二人は幸せになれるに決まっているのに。でも、シンジにはどうしてもその言葉が言えないのだ。
◆
二人は昼過ぎまで睡眠を取った。シンジは目覚めてから明らかに頭がスッキリしたのを感じている。アスカと抱き合って寝たから、かなり寝汗をかいた。お腹も空いている。
昼食はアスカが用意した。服が汚れないようにとシンジから借りたTシャツを腕まくりし、エプロンをして、
「見てなさい、シンジ。呉下の旧阿蒙に非ずって事を思い知らせてやるんだから」
と大いに張り切ってアスカがチャレンジしたのは、同棲時代にシンジに教えてもらったスパゲティのアラビアータだった。
そわそわとダイニングキッチンをのぞき込もうとするシンジに、めっとまなじりを吊り上げて、アスカは威嚇する。
「あの、何か手伝おうか、アスカ」
「おとなしく待ってろ!」
がるるると猛犬のような剣幕でシンジを牽制した後は、アスカは額に汗の玉を浮かせながら、料理に集中した。
そうして完成した、スパゲティ・アラビアータとサラダをダイニングの食卓に並べ終わると、アスカは腰に手を当てて、胸をそらして言った。
「……どう、ちょっとした物でしょう」
「うん、見た目はちゃんとしてる……サラダの野菜の切り方も、ソースも、匂いも……美味しそうだ」
「見た目だけではないわよ。アタシと同じで、中身も美味しいんだから」
「それは期待できそうだね……」
なぜならシンジは、アスカの見た目よりも中身の方がもっと好きだから。見た目も勿論、好きだが、シンジの魂に触れて、いつも優しく癒やして呉れたのは、アスカの心だ。
アスカは自分もテーブルに着くと、早速、向かいに座るシンジに食べるように促す。アスカは初めは、ニコニコと両手で頬杖を突きながら、しかしシンジが、自分の手料理を口に運ぶにつれ、固唾を飲んでそれを見守った。
フォークを口に入れたシンジが目を見開く。
「アスカ、このアラビアータ、凄く美味しいよ!」
「そう、良かった……!」
「本当に美味しいよ、どうやって……」
隠し味だろうか。いや、野菜の出汁がよく効いているからか?……料理の話となると興味が尽きないシンジが考え込んでいると、アスカはポツリと言った。
「何十回も作ったから……」
「え?」
「シンジが教えてくれた最後の料理だから。その次のレパートリーはシンジは教えてくれなかったから。もう、この料理を教えてもらった後は、シンジとはお別れしてしまったから……」
「……アスカ」
シンジの認識では、アスカと別れたという感覚は無かった。自分から別れを切り出し、アスカに拒絶されて、二人の未来は閉ざされたけれど、それでもまだ二人は身体で繋がれていたから、別れたという感覚などなかった。でも、アスカの方では違ったのだ。アスカの中では、それまでのシンジとの甘やかな関係は一旦決定的に終局し、二人は「お別れした」。その後の二人の関係はアスカにとっては全くの別物だったのだ、と。
シンジは、今さらながらにそれに気付かされた。その二人の感じ方のズレの上にあるのが、アスカの負った痛みであり苦しみなのだと。そして、自分のどうしようもない他人の痛みへの鈍感さもそこに厳然と存在しているのだ。他者への冷たさなのだ。人をまともに愛せない証拠なのだ、と。シンジは打ちのめされる。いつだって、シンジは自分のことばかりで。シンジはやっぱりそんな自分が好きになれない。アスカはなぜこんな僕にこだわり続けるのだろう。
「もちろん、他の料理だってその後、独学で覚えたりはしたわよ。でも気が付くと、無意識に、シンジから教わったこの最後の料理を作っている……シンジがアタシみたいだと言ってくれたアラビアータを作っている。……何度も、何度も、何度も。そう、何度だって作るんだ、シンジに教わったやり方を思い出しながら。だって、シンジはもう新しい料理を教えてくれないんだから……もう、アタシはシンジとお別れしちゃって、身体だけの関係なんだからって……でも、シンジに美味しいと言って貰えて良かった……繰り返し作った意味がようやく見つかった。シンジに喜んでもらうためにアタシはこの料理を何度も何度も作っていたんだ」
アスカはいつしか涙を流し、泣いている。最近ではアスカが泣くのを見るのは本当に珍しくなくなった。シンジがアスカを泣かせてばかりいるからだ。あの強いアスカがまさか泣くなんて、とはもう思えない。アスカは本当は脆い、人一倍脆い女の子なんだ。だからシンジの無神経さにいつも傷つけられている。先ほどの布団の中でのように、意気地なしで弱虫のシンジが泣くのとは違う。アスカの涙に彼女自身の責任などない。だから、シンジはアスカが泣いているのを見て、胸が苦しくてたまらなくなる。抱きしめて慰めてあげたいが、テーブルが二人の間にあって果たせない。いつだって、二人の間には見えないテーブルがある。想いは通じ合っていても、超えられない。
「アスカ……っ」
その代わりに、シンジは思わず、腕を伸ばしてアスカの手を掴む。
「手料理なら、またアスカに教える。教えるからっ……」
「……ありがとう。でも、アタシは新しく教わった料理を将来、……誰に食べさせればいいの?」
アスカはシンジを潤んだままの蒼い瞳で真剣に見つめた。
─ねぇ、シンジ。五年後、十年後にアタシは誰と食卓を囲めばいいのかな?毎朝毎晩の食事を誰の為に作ればいいのかな。答えを知ってるのなら教えてよ。
「……それは」
シンジのアスカを掴む腕の力が弱まった。シンジにはその問いへの答えがない。今すぐ答えられる回答が何もない。
アラビアータは、赤い色の料理で、イタリア語で「怒りんぼ」という意味の名前だからアスカみたいだ、とシンジは言ったのだ。学生時代のシンジはこの料理を教える時、どんな事を思いながらアスカに教えたのだろう。二人の別れを予定して料理を教えれば、アスカの手料理を食べるのはやがてシンジではない別の男になる。シンジはそういう耐え難い苦しみを己に課していたのだろうか。─そんなの、何の意味も無いことなのに。自分を痛めつけて、アタシを苦しめて、結局誰も救われていないのに。
「アタシ、シンジに教わった料理を誰だか分からない余所の男に食べさせたりしたくないんだよ。シンジの『次』なんて考えたくない……アタシの手料理はシンジにしか食べさせたくない、ううん……絶対に食べさせない。だからシンジがその答えを教えてくれるまでは、新しい料理なんか教われない」
アスカはこれまで守ってきた原則を改めて宣言するとともに、シンジからの新たな料理の伝授は拒否する。
「ま、少なくとも、男にはね。……アイには食べさせてるから」
「……うん……」
「アタシはシンジを苦しめたくないよ。たとえシンジが口ではそうしろと言ったとしても。……シンジもそんな事で苦しんでも、ちっとも偉くはないんだよ」
アスカはぽんぽんとシンジの頭を柔らかくはたく。そして、ゆっくりと優しく撫でる。まだ濡れたままのブルーの瞳から注がれる視線も優しい。
「アスカ……ちょっとくすぐったい……」
しかし、アスカはシンジのむずがりながらの抗議を無視する。なるほど、マリ言うところの、わんこ君ね……確かにシンジにはどこか、犬に似たところがあるのかも知れない。
「アタシはシンジに貰ったものは全部シンジにだけ返したい。優しい気持ちは二人の間で、お互いの間でだけやり取りしたい。第三者なんかアタシたちの間に割り込ませちゃダメなんだ。アタシたちは二人だけで閉じてなくちゃダメなんだ。……もちろんアイは別だけど」
アスカはアイは別だと言い切れる境地にいつの間にかたどり着いていたことに自分自身で軽く驚く。─そうか、そうだったんだ。アタシはずっとアイに隔意があった。どこか、あの子を遠ざけ続けてきた。それはシンジとアタシの間に入り込む第三者を警戒してたからだ。シンジを唯一無二の特別にしたかったからだ。でも、もうアイはそういう存在ではない。
アイは家族なんだから。
家族は一人じゃない。愛を注ぐ相手を絞らなくてもいい。シンジへの愛と、アイへの愛は違うけど、でも愛は愛なのだ。さっき、シンジがアスカとゲンドウは違うと言った。ユイの為にシンジを捨てたゲンドウのようにならなくて済むなら、シンジの為にアイを捨てなくて済むのなら、アスカはそういう風になりたいのだ。
そう思ったら、アスカは自然にシンジとの事も前に進める気がした。勇を鼓して進めると思った。自分の中に沈殿していたシンジへの想いの一番深いところから、アスカはゆっくりと言葉を汲み上げる。
「……あの浜辺から、ずっとアタシたちは一心同体だよ。二人で一つなんだ。たとえ、たとえ……結ばれなくたって、アタシたちを引き裂くことなんか誰にも出来やしない。離れていたって、永遠に一つなんだ」
アスカはそう高らかに宣言するが、もちろんシンジにはそんな自信はない。
「……そうかな……離れていたら……別の相手とか出来て……そうしたら……」
シンジの不愉快極まりない想像は、せっかくのアスカの前進を遅滞させ、イラつかせる。
「だったら尚更、アタシをシンジに貰ったものを余所に持って行くような不義理な女にさせないでよ。シンジがちゃんと繋ぎ止めていてよ!難しい事じゃない。もう二度と手放さないようにしてくれればいいだけだよ……!」
自分から卒業しろとか、二人の道は分かれるとかそういう事を言わないで欲しい……アスカを突き放して、誰かの所に送り出したりしないで……差し当たってはそれだけでいい……
「アタシはセックスが好きな、みだらな女かも知れない。でも、シンジ限定のみだらな女でいたいのよ。シンジ以外と……なんてふしだらな女になるのはイヤだよ……アタシの気持ちを分かってよ。女の貞操を軽く見ないでよ。アタシをシンジに一途なままで居させてよ……」