大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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三十八話 心配ないから…

「へぇ、これがアスカさんなんだ。本当に綺麗な(ひと)……」

 

 薄い色の髪をセミロングに伸ばした少女、大井サツキの視線が、テーブルの隅に飾られた写真の上に釘付けになっている。アイの同居人兼保護者の、同性の目をも惹く秀麗な白い顔が、写真のフレームに収まっていた。ミサトから引き継いだ軍服の赤い礼装に身を包み、真剣な顔をして、まっすぐ前を向いている。

 

「うん……」

 

 今夜は大井サツキ、阿賀野カエデ、最上アオイ、アイの三人の同級生たちが、アイの家に泊まりに来ることになっていた。昼間から集まって思う存分遊んで、一緒に夕食を作り、そしてパジャマパーティーをする。アイにとっては全てが人生初めての経験でもある。楽しみでない筈がなかった。だが、まだ約束の集合時間よりは少し早く、一番最初に来たサツキしか家の中には居なかった。アイはサツキに家の中を簡単に案内してやる。

 

 サツキたちは、アイからアイの家族のこと、とりわけアスカのことをよく聞いていた。アスカがさる国際機関に勤める三十代の公務員であること、アスカはとても優秀な女性で尊敬していること、アイとは言わば、生さぬ仲でありながら、母親代わりの役割を辛抱強く務めてくれていること、などであった。

 

「初めて写真を見せてもらったけど、女の子でも惚れてしまいそうな美人だね」

 

 サツキの軽口に、アイは無言で頷く。アイの想い人が、アスカであることをサツキは知らない。

 

「この……隣にいるのは……恋人さん?」

 

 アスカの隣に写っているのは、シンジだった。ぎこちない微笑みで、前をきちんと閉じたネルフの黒い制服を着て、少し、居心地悪そうにアスカの横に立っている。背丈のバランスこそ男女としてアスカと丁度良いが、自信のなさそうな態度が、アスカとは対照的だった。

 

(恋人には見えないよ……)

 

 アイはシンジへの嫉妬からではなく、自分への自信の無さから最初にこの写真を見て以来、ずっとそう思っていた。だから、サツキの反応には驚かされた。思わずサツキに問い返していた。

 

「恋人……に見えるの?」

「うん……違うの?とてもお似合いに見えるけど」

 

 アスカはハッキリ美女と言っていいが、シンジはどちらかといえば平凡な顔立ちだ。よく言って、中の上あるいは上の下、人によっては中性的で可愛いと見る向きもあるだろうが、アイには自分の事と等価なだけにそうは思えなかった。アイ自身も別に鏡を見て、自分を可愛いと思ったことはない。何より、アイの記憶にもあるように、アスカは初対面で顔を見るなり言ったのだ。「冴えないわね」と。それがシンジやアイにとって、アスカとの関係における自己評価の出発点だ。だからサツキの見方にはとても違和感がある。

 

「お似合い?」

「だって、……アスカさん、全身でこの男の人が好きだっていうオーラを出してるよ。女ならそういうの、何となく分かるじゃない。男は顔じゃない、って言うけど、本当にそうだと思うよ。たぶん、アスカさんにとって、この人はとても大切で……」

 

 まあ、そもそも男とツーショットで写真を取り、それを特別に飾っているのだから、アスカの気持ちは明瞭だ。しかし、サツキはその気持ちが写真に切り取られたアスカの表情や態度にも表れていると思う。

 

 アイは写真に写っているシンジについて、簡潔に説明を加えた。

 

「それは、お義父さん。お義父さんはアスカ……さんの上司、だよ……」

「この人がアイのお義父さん!? 優しそうな人だねぇ……なんだかアイによく似てる」

「うん。よく言われる。一応、親戚だから……」

 

 想定された質問に、事前に考えていた答えを返す。一度は事情あって、実母に捨てられ、親戚であるシンジに引き取られ、その養子になる、そんなストーリーだ。あるいは実母はサードインパクト後の混乱と困窮の中で死んだのかも知れない。そこまで詳細に設定を考えてはいなかった。クローンであるアイに実親はいない。アイの中に植え付けられているシンジの記憶としても、母ユイの記憶はない。母親を知らないという意味ではクローンのアイも、オリジナルのシンジも同じだった。だから、母を知らないシンジはアスカの優しさについ母性を見出し、これではいけないと思いつつも、甘え続けてしまうのだろうか。

 

 養父であるシンジと一応親戚との説明は、満更ウソでもないが、真実とも言えない。真実など誰にも説明できよう筈もない。親友であるサツキに嘘をつく事に、アイの胸はちくりと痛む。

 

 アイは再び写真に目を向ける。そもそも、アスカはあまり写真を撮られるのが好きではなかった。誰かの思い出に勝手に封じ込められるのが嫌だったし、そんな事をされるぐらいなら、現在のリアルな自分に目を向けてほしいからだ。それに、シンジやアイは知らなかったが、アスカには第壱中時代に、着替え時も含めた自分の盗撮写真が学校内の男子の間で流通されていた苦い記憶もあった。そんな事をした犯人はけっきょく誰だったか分からないが、とうぜん、その想定される用途を含め、極めて不快な記憶ではある。いや、購入した人間はアスカへの想いがあるだけにまだ許せる気がしたが、それを平然と流通させた人間の感覚、アスカへの蔑みの在り方には殆ど信じられないものがあった。

 

 だが、この写真は、アスカが佐官に昇任した時のもので、シンジのたっての希望により撮影を認めたものだった。アスカは礼装に身を包み、憮然とした表情ながらも、注意深く見ると、口元に引き締めようとしてなおも緩みそうになる様子が看て取れた。それはどうやら、昇任の為ではなく、隣にシンジが一緒に写っているからだろう。

 

 その時のやり取りはおおよそ、こんなものだった。司令室で昇任の辞令を受け取ったアスカは、シンジの希望に面食らう。

 

「……アスカの写真が欲しいんだ、せっかくのタイミングだし、撮らせてよ」

「どうしてよ、写真なんて……今さらじゃない」

「だって、僕らいつまで一緒に居られるか分からない。だから……」

「……そういうこと言うなら、絶対に写真は撮らせない」

「ごめん……」

「そういうの本当にやめてよ。ちょっとひどいよ」

 

 アスカはそう言いながら、昇任後もなおも三階級も上の「上官」につかみかかったが、

 

「でも、毎日は一緒に居られないし……」

 

 シンジが言うと、アスカは襟首を掴む手の力を緩めた。

 

「それは確かにそう……だけど」

 

 そして、シンジが思い出させた期限付きみたいな関係の終焉図はそもそもアスカが突き付けた条件でもあったと肩を落とす。十四歳のあの日から二十年後、そこがアスカとシンジの関係の期限なのだ。シンジはもう忘れているかも知れないが、アスカはずっと覚えている。あの時にはその期限は、アスカのすがりたい希望だった。まだ十分に時間は残されているはずだった。ところが今や期限はあと数年に迫っている。二人の関係に目立った進展はない。ズルズルと身体の関係が続くだけだ。あんな期限、設けなければ良かった。シンジと別れる未来が待っているのなら、ずっと今のまま、愛人でもいいとさえ思ってしまう。

 

「そもそも唐突な話じゃない?……アタシの写真なんて欲しがったこと、無かったのに」

「ゆうべ、ベッドの中でそう思ったんだ」

「……ゆうべ?」

 

 アスカは余計に怪訝な顔になる。

 

「ゆうべなら、あんたアタシと一緒に寝てたじゃないの」

 

 確か、昇任の前祝いということで、シンジとホテルで食事をしたあと、部屋に上がって……だからゆうべはずっと一緒にいたのに。会えない夜に、顔が見たくて、写真が欲しくなったというのなら、まだ話は分かるけど……

 

「うん、夜中に急に目が覚めちゃって。そしたらアスカがぐっすり寝てたから……なんだか寂しくなっちゃったんだ……。二人で寝てたのに、僕一人だけ取り残されてる感じがして。そんな風に時々、僕だけが取り残されてる感じがする。アスカはちゃんと大人になれてるから……」

 

 そんなこと。アタシだって、まだ子供なのに。大人のなり方なんて誰も教えてくれないから、こうやって二人してさ迷っているのに─

 

「……そんなに寂しいなら、起こしてくれれば良かったのに」

「よく寝てたから、悪いと思って……寝顔を眺めてても、可愛いなと思ったんだけど、起きてるアスカの顔が見たかった。ああいう時に写真でもあったらな、って思ったんだ。アスカが自分の写真とかあんまり好きじゃないの、知ってるけど……」

「可愛いとか……ばか」

 

 シンジはまだ掴みかかっているままのアスカの手首をそっと握った。

 

「アスカ……」

「いいよ。シンジが写真に一緒に入ってくれるなら……ね?そうしたら、アタシもシンジの写真が手に入るし」

「本当?……ありがとう、アスカ」

 

 撮影者は最初はシンジの予定だったが、アスカがシンジに隣に入ることを要求したから、アスカは司令室の外に出て、前室で秘書と雑談をしながらアスカを待っていたマリを呼び込んだ。

 

 マリもアスカと同時昇任したばかりで、辞令を貰った所だった。北上も同じく同時に三佐になっていたが別にアスカとマリを待つことなく退室していた。マリはシンジとアスカの撮影に快く応じた後、「えー、アタシも姫やわんこ司令と撮りたいよー」と騒いで、シンジを「わんこ司令って……」とその珍妙なあだ名で絶句させていたが。マリはその後、アスカとの撮影は許可された(シンジがカメラマンになって撮った)が、シンジとの撮影はアスカにきっぱり拒絶、禁止された。

 

 ……それからだ。アスカがあまり興味を持たなかった写真に関心を持つようになったのは。折に触れてシンジの写真を撮っては、手元に飾るようになったし、シンジにも自分の写真を撮らせたり、自らセルフィーを渡したりした。シンジもアスカと同じように互いの写真を手近に飾って大切にしてくれていると思うと、アスカは会えない時でも、シンジと何かが通い合っている気がした。心が温かくなるのを感じた。

 

 その隣には、もう一つ、中学生ぐらいの制服姿の少女と少年が写った写真が飾られていた。ツーショットで撮った写真というわけではなく、もっと多人数の集合写真から無理矢理、二人だけを切り出したという感じの不自然な構図の写真だった。

 

「これもアスカさんとお義父さん?」

「うん……」

「ふたりは長いんだね……」

 

 中学生から三十台まで続く男女関係というのも珍しいだろうし、そこまで長く続いているのに、結婚していないというのはもっと珍しいかもしれない。

 

 しかし、写真の飾り方から、アスカのシンジに対する思い入れの強さは伝わったことだろう。

 

 アスカはこの写真の中で憮然として少し不機嫌そうでもある。腰に手を当てて、足をハの字に開いて立ち、周囲を睥睨威圧するようでもあり、隣に立つシンジはアスカとは対照的に肩身が狭そうだ。アスカの腰に当てた手が邪魔で、立ちにくいというのもあるのだろう。

 

 しかし写真が撮られたタイミングの問題でもあるのだろうが、アスカは明らかに隣のシンジを気にしている。ちらちらとシンジの様子を窺い、視線を横に送る。そんな瞬間が一葉の写真の中に切り取られていた。

 

 その時の会話は、アイの記憶にもあった。

 

「……カ…ンジ、あんたもっとシャキッと出来ないの? あんたは世界を救い、人類を守るエヴァンゲリオンのパイロットなのよ。アタシたちは選ばれたエリートなの。たとえ、あんたがアタシの足元にも及ばないような雑魚の露払いであっても、その辺の凡俗とは違うのよ。自覚を持ちなさい!」

 

 なぜか呼びかける名前の所だけが、記憶が曖昧で……しかし、アスカは確かにアイに向かって話しかけていて。

 

「……そんな。僕は別に他の人より優れてるなんて思わないよ。そんな風には思えない。エヴァなんて操縦できて良いことはなかった。アスカみたいには思えないよ」

 

 記憶の中でアイはそう答えた。ウジウジとしていても、それは今でも、アイの偽らざる気持ちだ。……碇シンジの偽らざる気持ちだ。エヴァなんて乗って良いことはなかった。ただ一つ、アスカに出会えた事以外は。

 

 そう。アイは自分の本当の名前が碇シンジであることはとっくに理解している。六分儀アイは、彼女が女性として再度の生を受けるために与えられた仮初めの名前だった。

 

 でも、あの時のアスカの立場になって考えてみれば、アスカはただ単に落ち込みがちなシンジにハッパを掛けたかっただけなのかも知れない。アスカの曲がりくねった叱咤が、まるで一般人をバカにして、思い上がってるように聞こえたとしても、それをそのまま鵜呑みにするべきではなかった。十四歳のアスカはまだ子供だった。他人を下げる事で、自分が相対的に持ち上がれると思える子供だった。三十二歳の現在のアスカなら、そんな言い方はしない。アイもまだ十二歳だったが、その事は分かった。

 

 アスカがシンジを叱咤する理由は、シンジに他人を見下して欲しい訳では勿論なかった。シンジに自信を持たせ、自分と並び立てる対等のパートナーになって貰いたかったのだろう。自分と共に戦ってくれる逞しい男の子になってもらいたかったのだろう。集合写真一つ撮るのにも、堂々と胸を張れないシンジが歯痒かったのだろう。

 

 でも、アイは……いや、あの頃の碇シンジはそういう存在にはなれなかった。今も多分、なれていないのだろう。アイはシンジと一緒にいてもアスカは幸せになれないのではと、今でも心配している。でもそれなら、アイと一緒になったところで─そんな可能性はほぼゼロなのだが─けっきょく同じ事なのだ。シンジであろうと、アイであろうと、アスカのパートナーとして相応しい相手にはなれない。アイの養父であり、彼女の「オリジナル」であるシンジは一向にアスカの相手として相応しい男らしさを身に付けられていないし、アイに至っては男でさえないのだから。

 

 写真はサードインパクト前に、旧ネルフ本部で撮ったものだった。確か、ミサトあたりの発案でネルフ職員とパイロットの集合写真を撮ったのではなかったか。あの時は、まだ二人目の綾波レイも加持さんも生きていた。アスカとシンジはキスもしていなかった。アスカがシンジを無敵のシンジ様などと呼んで揶揄、反撥する事もなかった。鈴原は参号機に乗せられる前だから、当然写真には入ってなかった。そして、入らない立ち位置のままで居れた方が彼はきっと幸せだったろう。

 

 そう、この写真に入っていた人たちは、今はもう誰も居ない。切り取られたシンジとアスカ以外はもうみんな居なくなってしまった。殺されるかLCLの海に飲まれて、戻ってこれなかったのだ。

 

 多くの人がLCLから帰還したのに、ネルフ職員や壱中の面々が、殆ど戻ってこれなかった理由は分からない。だが、中学生は自我が不安定で、確固たる己をまだ持たないから、生還率がかなり低かったようだ。ネルフ職員はそもそも戦自に殺害された者も多かったが、どうやらメンタルに不安定さを抱えていた者も少なからずいたようだ。そもそも組織のトップからして、妻と再会するために、全人類を贄に差し出すというのは尋常な精神状態ではない。

 

 ただ二人─自我がやはり不安定である中学生のシンジとアスカが生存した理由は、エヴァのATフィールドがパイロットを守ったこと、シンジがサードインパクトのトリガーとなり、あたかも、台風の目のようなインパクト無風のただ中に在ったこと、そしてそのシンジが強く意識した他者であり異性がアスカであったこと─シンジが共に溶け込む事を拒まざるを得ない、永遠にして絶対的な他者がアスカだった─その三つが理由なのだろうとアスカは思っており、アイにいつか、この写真を見せながら、そう顛末を語って聞かせた事もあった。アイはシンジと記憶を共有しているが、アスカを傷付けた記憶の多くは削除されており、過去の思い出を語りにくいシンジの代わりに、アスカが自分の思い出や考えを聞かせても、静かに冷静に、聞いてくれた。

 

 そのことを今、アイは思い出している。お義父さん……碇シンジの代わりに、聞き手としてアスカの役に立てたことが、いつまでもアイの胸を心地よく満たしてくれている。記憶を部分的に削除されたアイにはシンジがアスカに対して抱く後ろめたさ、後悔、逡巡の多くが分からない。それでも、アスカがシンジの代わりにアイと昔の事を語り、懐旧するとき、アスカが本当に対話したいと思っている相手が誰なのかは分かっている積もりだ。シンジはその事を知らない。アスカがシンジをどれだけ欲しているのかを知らない。同衾でもなく、接吻でもハグでもなく、アスカが本当に欲しているものは、シンジとの対話だ。シンジと話がしたい。いつだって、彼女はそう思っている。その想いがシンジには遠く、届かないのが、アイには切なかった。

 

 

 アスカはシンジの向かい側から、シンジと同じ側に席を変えて、甲斐甲斐しく、シンジの口にフォークでスパゲッティを運んでいる。

 

「ほら、あーん」

「う、うん……」

 

 シンジは、アスカが口に運んでくれる彼女の手料理を親鳥に食餌を運ばれる雛鳥のようについばんで、受け身のままに素直に味わっている。

 

「おいしい?」

「うん……本当に美味しいよ」

 

 そうやって、アスカがシンジに手料理を食べさせてやるうちに、シンジの頬に、アラビアータのソースが跳ねて、赤い点を作る。ハンカチを取り出して拭こうとするシンジを制して、アスカはそっとそこに唇を近付ける。シンジの頬の上、産毛の上に乗っかったソースを舐めとって、そのまま舌を自分の口の周りで艶めかしく、一舐めさせた。

 

「確かに、我ながら美味しく出来てる」

「アスカ……」

「でも、シンジとこんな風にイチャイチャすると、最近では甘い気分よりも、なぜか胸が苦しくて」

 

 そう言って目を細めるのだ。アスカのシンジへの想いは今や、いつだって切ない。

 

 アラビアータに込められたアスカの切ない想いを聞かされて、シンジの心はざわめいている。アスカは別にシンジとの長きにわたる愛人関係に納得してる訳ではなかった。ずっと苦しんでいたのに、シンジはそれをなるべく考えないようにしてきただけなのだ。

 

 それなのに、シンジではなく、アスカが自分から頭を下げる。

 

「あの、さっきはゴメンね……突然泣いたりして」

「いや、僕だって、アスカの胸で泣かせてもらったし……」

 

 シンジは俯いた。そうだ……自分はアスカに慰めてもらったのに、アスカを慰めることは出来ていない。男が泣くのは、女の子が泣くのの何倍も情けない事なのに。自分ばかりがいつも、いつだって、アスカに甘えている。

 

「シンちゃんのは……アタシが泣いていいよって言ったからだから……アタシのは……やっぱり歳かなあ……最近涙腺が脆くって」

 

 てへへとアスカは頭にネコの手のように丸めた拳を当てる。シンジは絶対に年齢のせいなどではないと知っている。全部、何から何までシンジのせいなのだ。

 

「あんまりしつこく将来の話ばかりされてもシンジも困るよね。シンちゃんはまだまだ独身貴族で居たいんだよね。あと少しだけ……」

 

 それは実際の二人の事情とは全く関係のない、アスカが作り出したもう一つの現実だ。アスカの心の防衛機制がそういう「解釈」をアスカに口にさせている。もちろん、アスカだって、それが本当ではないことはよく知っている。アスカの理性はそんなものを信じてはいない。でも、たとえ真っ赤な嘘であっても、シンジが独身の自由を謳歌するために、結婚に遅疑逡巡しているだけだと思い込めるなら、こんなに気持ちが楽になることはない。だって、それならば、いずれシンジが独身生活に飽きて─、時間が問題を解決してくれるだろうから。

 

 そして、それはアスカが、原因であるシンジをこれ以上、責めたくない、シンジを庇ってあげたいという気持ちの現れでもあった。アスカはこれまで責任ある行動を取ろうとしないシンジに泣き言を散々に言って責めたてて来て、それが実は彼女自身、心苦しかった。本当はシンジの傷つきやすい心を守りたいのだ。責めるのではなく、守ってあげたかったのだ。

 

 だけど、シンジは、アスカのそんな一種悲惨な反実仮想には調子を合わせて乗ってはあげられない。それはアスカに嘘を付くことになるから。アスカには嘘をつきたくない。かといって、アスカの心を守るそれを正面から否定も出来ない。シンジにはどうすることも出来ない。

 

「まあ、今はアタシと……そういう風になると思えなくてもさ。やっぱりアタシはシンジと合うと思うのよ。シンちゃんはそんなに社交的になれない性格だし、まあ有り体に言えばちょっとだけネクラサンだから─アタシが色々リードしてあげて、構ってやれば、幸せになれると思うのよ。シンジの中に本当は隠されている明るさをアタシなら、引き出してあげられると思う」

 

 アスカはシンジが心底、根暗だと思っている訳ではない。シンジの真の性格は平凡で暢気で穏やかでちょっとお調子者で……他者とちゃんと交われるものだ。ただ、今のシンジはシンジ独りで、世界の命運とか余りにも多くのものを抱え込み、それに押し潰されて、身動きが取れなくなり、罪悪感と悔恨と自己嫌悪でいっぱいで、それで周囲を傷付けてばかりいる。でも、本当は周囲の人間は皆、シンジが好きなのだ。だからシンジの周りには、アスカだけではない─、真希波マリも鈴原サクラも北上ミドリも霧島マナもいる。シンジが肉親の仇だと言える人間でさえも、シンジを心の底から嫌ってなどいない。シンジの抱えた残酷な運命とそれによって生まれた闇を承知し、それでもなおシンジの周りにいる女たち。でも、彼女たちはシンジの心の奥底には未だ触れることは出来ない。許容できることと理解することは違うから。単に好きなのと、愛することもまた違うから。

 

 たぶん、アスカがシンジと別れたならば、彼女たちのうちの誰かが、いずれはシンジを奪うのだろう。それはアスカにとって余りにもつらく、悲劇的な未来予想図だ。でもそうなれば、シンジの側には救いが残る。シンジが独りになることはない。かつてシンジの周りにはミサトや綾波レイもいた。鈴原や相田や渚カヲルもいた。大勢の人がシンジを気にかけていた。それに、今は、六分儀アイだっている。サードインパクトで天涯孤独となったシンジにはいまや家族がいるのだ。雨の日には気鬱になる。そんな日には愉しいことなんてないと思う。シンジがそう思い込んでいるから、シンジはずっと孤独だ。でも、シンジが見方を変えれば、全てが変わる筈なのだ。

 

 だがしかし─もしかしたら、シンジをアスカが立ち直らせてしまったら、シンジはアスカでなくてもいいと気付いてしまうのかも知れない。「ネクラなシンジ」にはアスカでなくてはいけないのだとしても、成長して大人になった「明るいシンジ」にはそうではないのかも知れない。そう思うと、アスカの胸は千々に乱れ、苦しくてたまらなくなる。それでも、シンジを立ち直らせて、助けてやりたいと思う気持ちは本当だ。シンジを幸せにしてあげたいと思っている。自分の幸せとシンジの幸せが違うなら、シンジに幸せになってもらいたいと思う。でも、そんな事を考えるだけで、アスカの心は震える。自分とシンジの間に共通の未来が存在しないのなら、もう、死んでしまいたくなる。それなら─あの赤い海の浜辺でずっと二人だけで暮らしたかった─他の人類なんか誰も要らなかった。シンジを誰かに奪われるくらいなら─と、今からでもシンジと一緒に心中でもしたくなる。シンジの幸せを願う気持ち、自分自身の幸せを欲する気持ち、それがアスカの中でせめぎ合っている。

 

 アスカは、だが、忌々しい可能性を首を振って否定する。アスカはけっきょくのところ、惣流・アスカ・ラングレーなのだ。消極と退嬰は彼女の信条ではない。

 

「シンジに合うのは、やっぱりアタシだけだよ……根暗でないシンジなら、立ち直ったシンジなら、ようやく初めて愛せるなんて、そんなのズルいじゃないか。シンジが根暗でも自虐的でも愛せるのはアタシだけなんだ。シンジが間違え続けても愛せるのはアタシだけだ。だからアタシがシンジの一番になれるんだ。そうでなくちゃおかしいよ!」

 

 シンジにそんなアスカの内面の葛藤の心の動きは分からない。分からないけど、でもずっとアスカの気持ちを分かりたい、分かってあげたくて。そう、シンジは昔から思い続けていて。だから何かを語る代わりに席を立って、アスカに近づき、頬を寄せる。アスカもそれと察して目をつぶり、頬をシンジの頬にこすりあわせる。アスカとシンジにとって、キスやセックスでは最早、心を近付けることは出来ない。それは二人にとって、日常の行為で、二人を離れさせないようにする絆であっても、これ以上、二人を近付けるには不足だった。だから、こうして頬ずりをする。頬ずりは二人が高校生で「親友」になった時に行った親愛の行動だった。二人にとっては大切な仕草であり触れ合いだった。そんな風に、二人は、自分たちの歩んできた歴史の中から、お互いの心をもっと近付けてくれるスキンシップを模索する。

 

「アスカ……僕はキミを守りたい。アスカとアイを守れる力が欲しいんだ。でも、僕は弱虫で、意気地なしで、バカだから……」

 

 だからシンジにはそんな力を持ちようがない。ネルフの司令の肩書きと将官の階級を帯びても、生命倫理を踏み越える研究の鬼になっても、アスカたちを守るには到底、力が足りない。でも。─それでも。

 

「強くなりたいんだ、アスカをもう泣かせたくない……」

 

 シンジがアスカをぎゅっと抱き締め、折れそうな細腰に腕を回すと、女の骨格のか細さが、いつも以上に実感された。出逢った頃の二人は、同じような背丈で、体格も大きく異ならなかった。実際のところ、アスカの方が僅かに背が高かったぐらいだ。今は、ふたりは大人の身体をした男と女で、否応なしにその性の違いを実感させられている。

 

 それなのに、か弱く、脆いはずのアスカはシンジの背中に手をそっと当てながら、気丈に言うのだ。

 

「そんなに気負わないでよ……シンジに力が足りなければ、アタシが助けてあげるよ。アタシを守る力をアタシ自身から借りるのはイヤ? でも、自分ひとりで守ったという満足感ではなく、アタシを守ることが目的なんでしょ?」

 

「それはそう……だけど」

 

 シンジひとりで守ろうとして、アスカを失ってしまうのなら、そんな自己満足には何の意味もない。それは確かだった。

 

「人類補完計画は、アタシだけでも、シンジだけでも、発動を防げなかった。二人がバラバラに戦っても、勝てなかった。そんな風に戦っても─シンジが全部を抱え込んでも─各個撃破されるだけなんだよ。……人類の強みは、一人一人では弱いこと。世界でもっともひ弱な生命体が人類なんだよ。でもそれが逆説的にアタシたちの強みだ。弱いから群れる。支え合おうとする。独りでは完全ではない。だから社会を作る。それが地球を私たち人類が支配できた理由なんだ。使徒は、全てにおいてその逆なんだよ。一体一体で完結し、強靭無比で、殆どそれぞれ別種といっていい存在だ。連携はしない。情報交換もしない。寿命がないから生殖もしない。愛も死も知らない。でも、いつだって……最後には、愛が勝つんだよ!」

 

 アスカも青臭いことを言ってるとは分かっている。でもシンジには分かって欲しいのだ。この十八年間をまがりなりにも二人でつかず離れず過ごしてきたのは、孤独の強さを得る為ではない。二人で共に生きる為の強さを捜し求めていたんだってことを。愛をずっと探して、さ迷って来たんだ。アスカとシンジの間だけに成立する愛を求めて─

 

「アスカ……」

 

 シンジは、迷い苦しみながらも、ひたすらに前を向いて進もうとするアスカの姿が眩しくてたまらない。傷付きやすい彼女が、その実、毎日のように傷付きながら、それでもひたむきに前に進む凛々しさが愛おしい。こんなに弱くて脆くて、それでも、それだけに、強くて美しい人間を見たことがない。シンジは他人を愛せない。ちゃんと愛せていない。いつだって自分の事ばかりだ……それでも、もしいつか誰かを愛せるのだとしたら、アスカしか愛せないと知っている。もしアスカを愛せないのなら、一生誰も愛せる訳がないと知っている。だからそれだけにいっそうアスカの強さ、優しさ、美しさ、凛々しさを見せ付けられると、アスカが独りだけ先に進んでしまうような、取り残されるような不安でたまらなくなる。

 

 そんな心細さがシンジの表情に表れたのだろうか。アスカはそれを察して、ことさらに柔らかな声を出す。

 

「……心配しなくていいんだよ、シンジ。アイのことは二人で一緒に頑張ればきっとなんとかなる。そして、あたしはずっとあんたの側にいる。もしかしたら、またあんたが何かやらかして、幻滅して怒って、喧嘩するかも知れないけど、それでも必ずバカシンジの所に戻ってくる。シンちゃんを独りにはしないよ……」

 

 アスカはそう言ってまたシンジに頬ずりをした。

 

 アスカはなぜか心の中で、あの赤い海を前にして、独り砂浜に体育座りをするシンジに、再会するような場面を思い浮かべている。いつだって、あの赤い海の浜辺で、シンジと二人きりで座っていたかった。滅んだ世界が滅びたままで、世界など振り捨てて、二人だけが一つになれればそれで良かった。本当はきっと、それがいちばん幸せだったのだ。だけど、二人はもう、あの浜辺からずいぶん遠くに来ている。

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