大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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三十九話 It's Only a Paper Moon

 アスカとシンジは三十三歳になった。季節は秋。月の綺麗な季節だ。アイは十三歳、中学二年生に進級した。ようやくアイは自分の記憶と同じ学年に追い付いたことになる。まだアイの身体に不調は現れていなかった。それはシンジとアスカを安堵させるが、アイの治療法が発見された訳ではなかった。毎週末、土日をシンジの家で費やして、二人で額を突き合わせながら、検討してみても、解決はなお容易ではない。

 

 それでも、三人の疑似家族は今のところ、円満だった。

 

「……ありがとう、とても美味しかったよ、アスカの料理も、アイの料理も‥…今日は本当に楽しかった」

 

 今宵、アスカの自宅に招かれたシンジは、アスカのイタリアンとアイの和食の統一感のないご馳走攻勢に、舌鼓を打った。

 

「アスカのドリアと、アイの炊き込みご飯美味しかったよ。どっちも御飯ものだったけど‥…」

「シンジは痩せっぽちだから、御飯をいっぱい食べるのは良いことよ」

「まぁ、アスカ……さんとメニューの相談を丁寧にするべきだったとは思う。ごめんなさい……」

 

 特にアスカのメニューに対する秘密主義が悲劇を招いた原因だ。

 シンジはそれでも笑っていた。

 

「でも、ご馳走だったよ、本当。アスカの料理の腕も上達したし、アイも僕が同い年だった頃より、腕は上なんじゃないかな。二人とも気合い入れて作ってくれたのが分かったし」

「そりゃ、シンちゃんがお月様に出掛ける壮行会だから。少しぐらい、腕を奮うわよ……ね、アイ?」

「月に出張って、すごいよね……ボクも信じられない」

「お土産は月の石がいいかな?でも、拾えるのかな……まあ期待しないで待っててよ」

 

 シンジは、ゼーレの招きで、来週から月面タブハベースの視察に行くことになっている。表向きは、ゼーレ主導で建造が進められているエヴァンゲリオンMark.06の視察が目的だ。

 

 

「なぜ、この時期に?」

 

 アスカは司令室でシンジに出張計画を聞かされ、その時、かなり不安になった。そのまま、シンジの机の前に置かれた椅子に腰を下ろすと、上司の前で不作法に肘を突いた。シンジはそんなアスカの態度にアスカらしいなと笑っている。

 

 再来月には日本のネルフで建造中のエヴァンゲリオン初号機F型が竣工する予定だ。エヴァンゲリオンは兵器としては極めて不安定な存在だ。あらゆるトラブルや暴走が想定される。建造中の次世代エヴァ……ステージ2エヴァでもその本質は残念ながら変わっていない。それ故に、本当ならシンジが一番ネルフにいて欲しい時期なのだ。

 

「むろん牽制なんだろうね。再びエヴァを持つのはお前たちだけではないぞ、勘違いはするなよという。それをうちの初Fの完成前に、実地に見せつけたいらしい」

 

 シンジはそう解説した。

 このあたり、男どものやることはどうにも子供じみているようにアスカには思われた。エヴァという力を示威して、我々に逆らうなという事なのだろう。

 

 松代行きを命じられ、シンジと生き別れになった時と同じだ。あの時も、まだ未建造ながら、再建予定の初号機と弐号機をめぐって、日本政府内での派閥対立が生じていた。エヴァンゲリオンの持つ、人類史上最強の武力というのは必然的に権力抗争と結び付く。それが人間の業だと言われれば、アスカも渋面を作りつつ、現実を受け止める他はなかった。

 

「そして、司令のあんたを大事な時期に引き剥がして軽い妨害、嫌がらせも兼ねる、と」

 

 シンジは頷く。

 

 小人閑居して不善をなす……それに憤っても仕方がない、松代行きの時にアスカが割り切ったように、受け入れざるを得ない状況というものは、常に確実に存在する。アスカも、シンジも、それを呑み込める程度には大人になっている。

 

「Mark.06もかなり建設が進んでいる。というか明らかに初号機に合わせて前倒しにしてきてるよ」

 

 ゼーレのスパイによってネルフからの情報が流れ続けてるから、彼らにとっては対抗は容易なのだろう。何しろトップである理事長の子安自身がゼーレのスパイなのだ。

 

 シンジはぼやく、もしかしたら初号機F型の完成は、この出張に行くことで、Mark.06に先を越される事になるかも知れないよ、と。トラブルさえ起きなければ、大丈夫だろうけど……。

 

「だったら、行くの断るの?」

 

 アスカはシンジの出すであろう答えを予測しつつも、念のため尋ねる。表向きはあくまでゼーレ首魁キール・ローレンツからの丁重な招待だ。理屈の上ではだが、好意を丁寧に謝して、断るということも出来なくはない。

 

「いや、Mark.06の情報はぜひこの目で見たい。僕は行く」

 

 ……やはりそうなるか。それほどまでに、Mark.06は魅惑的な餌なのだ。

 

「あたしは連れて行ってくれないの?」

 

 アスカの脳裏に、私を月に連れて行ってというタイトルのジャズのスタンダードナンバーのメロディーが思い浮かぶ。

 

「アスカは初号機の艤装員長に任命されたでしょ?ちゃんと留守を守って、初号機を完成させてくれなくちゃ」

 

 シンジはアスカを諭すように言う。それは分かっているが、どうしてもということならば代理を立てて対応できない訳ではない。だが、シンジにはそういう考えはないようだった。

 

「やっぱり今回のタブハ行きは危険だから、あたしを連れて行きたくないと思ってるのね。……危険だからこそ、あたしが役立つのに。ドンくさいシンジよりも、拳銃の扱いとかも上手いし」

 

 シンジの運動神経はエヴァパイロットとしての図抜けた戦績からも分かるように、実のところかなり優れている筈だが、気質的にはのんびりしているので、あまり信頼できなかった。もちろん、拳銃でどうにかなる話でもないだろうし、保安部の護衛も付いている以上、特別に出来ることがあるはずがない、と重々理解はしつつも、アスカは未練がましく言ってみる。

 

「いや、ゼーレは十中八九、僕に手を出したりはしないよ、安心して‥…。裏死海文書の内容を世界でただ一人知っていて、使徒迎撃の作戦を練る僕にはまだ利用価値があるんだから。ただ、僕はたとえ、それが一割か二割、いや……それ以下の可能性であっても、アスカを危険には晒したくない」

 

 どうせ司令室内も盗聴されていることを逆手にとって、シンジとしてはゼーレに言いたいことを言ってやるつもりだ。

 

 ゼーレと対峙する時、シンジは大人の顔を見せる。いつもの自虐的になったり、アスカに甘えたり依存してしまうシンジではない、大人の男の顔だ。ゼーレとの闘いはそれだけ過酷で熾烈で甘いものではないということだった。そんなシンジの変容はアスカの心を疼かせると同時に不安にもする。アスカが初めに思っていたように、シンジが柄にもない背伸びをしているというだけの話ではない。それだけではなくて、シンジが普通に生きていれば、決して発揮されることのなかったもう一つの顔が、アスカの為に、アスカを救うために、段々と形づくられていくような気がするのだ。

 

 シンジは生まれついての策略家ではないが、策略を巡らせる知力は十分にある。優しい心をアスカの為に怜悧なナイフに変えることが出来る。……あえて、我が儘が許されるのならば、アスカはシンジに優しいまま、ぼんやりしたままのシンジで居てほしかった。だが、ゼーレとの暗闘はきっとそれを許さない。

 

「それはあたしが女だから?」

 

 アスカを殊更に危険から守ろうとする動機が、その性別にあるのだとすれば、アスカの想いは複雑にならざるを得ない。

 

「……そうだよ。怒られるかも知れないけど、どうしてもそう思えてしまう。アスカが女の子だから、僕は守りたい。そういうの、やっぱりイヤかな?……」

「イヤじゃないけど……やっぱり悔しい。腹が立つ。シンジがアタシを守りたいのなら、アタシだってシンジを守りたいよ。……でも、シンジにそう思って貰えて、どこか嬉しい……女扱いされるのは、ちょっとだけ悔しいけど、それだけじゃない」

 

 だって、アスカは事実として女なのだから。女だからと蔑ろにされるのならば、もちろん腹が立つ。でも、シンジはアスカの能力を別に軽んじている訳ではなかった。むしろ、シンジはずっとアスカの才幹には信を置いていた。だからただ、心配してくれているだけなのだということがアスカには分かっている。

 

 サード後のシンジは、男だから女を庇護する責任があると、遅まきながらそういう使命感に目覚めている。すべてはアスカを救えなかったサードインパクトでのトラウマが原因だろう。シンジはあの時に出来なかった事を─、男だからと……生まれた属性によって否応なく背負わされたものに、ようやく向き合っている。そしてお姫様扱いされて、シンジに守られたいというのはアスカの昔からの隠された願望でさえあった。

 

 いくら男女平等が進んだって、男が女を守らなくて良いはずがない─

 

 だけど、女がそれを平然と受け取るならば、むしろそれは女の名折れだろう。男には女を一方的に守る義務なんて本来はなかった、それなのに、女を守ろうとし、大して差がある訳でもない僅かばかりの膂力や体力の優位を頼りに、やせ我慢をして女の前に立ち、女を庇う……そういう男の過剰な気負いに女は惚れるのだ。男が強いから惚れるんじゃない。強くもないのに強いふりをしてくれるから、惚れるんだ。

 

 アスカはシンジがそんな風にやせ我慢して、強いふりをしてくれていることを知っている。シンジが左手の指を全部折ったのはそういうことだ。指の強靭さやそれを折られる痛みへの耐性になんの男女の違いがあるものか。違いなんてないのに、男だから女のためにと耐えてくれるから、女は男を好きになるのだ。少なくとも、アスカはそう思っている。

 

 だから、アスカはシンジの左手に、自分の右手を伸ばして、指と指を絡めて、手を繋ぐ。白い指でシンジの男らしい指をそっとなぞり、さすり、愛おしむ。

 

「指、痛く……ない?」

「……うん、今は大丈夫」

 

 アスカがこうやって握って、さすってくれるのなら、何も痛い筈がない。どんなに痛くたってシンジは耐えられる。いくらでも我慢できる。

 

「あのね、シンジ。あたしちゃんと地球で待ってる。無理して一緒に連れて行けなんて言わない、だってそんな事しても、シンジが困るだけだもの」

 

 シンジが静かに頷いた。

 

「分かってくれてありがとう、アスカ……」

「でもシンジはちゃんと戻ってこなくっちゃだめだからね」

 

 そう約束してくれないのならアスカはシンジの手を離す事が出来ない。

 

「うん……アスカにまた会いたいから、ちゃんと帰るよ」

「分かった、待ってる……から」

 

 それは二人にとって神聖な誓いだった。そう口で約束しただけで、それはとても重い誓いとなる。なぜなら、シンジはもうアスカを裏切ってよい筈がないのだから。とうの昔にシンジはアスカへの裏切りの許容回数を使い果たし、アスカの信頼を裏切って許される限度は超えてしまっているのだから。それはたとえアスカがシンジのことを何度だって許すと言ってくれたところで、シンジの中では変わらない事実だった。

 

 それから、気持ちを安心させたアスカは、話題を少し転じる。

 

「でも、それじゃシンジは、誰を一緒に連れて行くの?」

 

 仮にもネルフの司令ともあろう者が、随行もなく海外出張という訳にはいかないだろう。月も海外と呼べるのか、ちょっと自信がないけれど。

 

「まさか……誰か他の女なんじゃあ……」

 

 アスカが女の子─というにはいささか、とうが立っているが─だから心配だ、などといいながら、他の女を連れて行くというのなら、只じゃおかない……剣呑な目つきでシンジを睨むと、慌てて弁解が出て来た。

 

「ち、違うよ。……実は、多摩クンに一緒に行ってもらおうと思ってさ」

「ハァ?多摩って、まさか、あの多摩のこと?」

「うん、あの有名な多摩クンだよ‥…」

「あんたバカ? あんなの連れて行って何の意味があるのよ」

 

 シンジが随員にするというのは多摩ヒデキ。最近では北上ミドリといい仲だともいう、アスカやシンジたちの大学の後輩にも当たる優男だが、仕事の出来なさ加減については悪い意味で定評がある。

 

 新生ネルフには多摩伝説というのが既にあって、多摩ヒデキが仕事上で犯した数々の信じられない失敗というのが、一種の笑い話になっているほどだ。例えば来訪した戦自将官の階級章を読み間違えて、何階級も下の階級で呼びかけてしまったとか(そしてそれに気付かずに最後まで呼び続けて、最後にブチ切れられたとか……)、地下の書庫に書類を探しに行ったが、中で何時間も迷子になって出られなくなり、電話で助けに来てもらったとか……

 

 まあ、とんでもない男であるのは間違いない。

 

「人間、何かしら取り柄があると思うから、僕はそれを見つけてあげたいんだよ。出張もいい機会じゃないかな」

「定年までに取り柄とやらが見つかればいいけどね……。にしても、アイツが随員とはねぇ……」

「多摩クンは喜んでたよ。ぼくが月に行けるなんて信じられない!って大はしゃぎして」

「か、観光気分……。もうお話にならない。あんたと一緒に行くリスクとか承知してないのよね?」

「一応、打ち上げ事故のリスクとかは説明してるけどね。まぁ、あんまり怯えさせても仕方がないし……」

 

 ゼーレが人類補完計画発動を企む秘密結社だなんて多摩には説明できないか……。ゼーレは先のネルフ本部決戦でも、旧ネルフ幹部やゲンドウやシンジたちに責任をうまく負わせて、自分たちはサードインパクト発動について何の責任も問われていない。新生ネルフでもゼーレのことを知る人間はそもそも少ないが、単なるネルフの上部組織という以上の真実を知る人間は更に限られている。むろん、多摩も限られた人間には入らないわけで……。けっきょく多摩は単なる道化であり、カバン持ち以上の役には立たないだろう。

 

「あんな昼行灯……」 

 

 先頃、多摩ヒデキは総務部人事課から経理部契約課にめでたく異動となり、それはまあ人事課から見たら体の良い厄介払いかも知れなかったが─さっそく数千万円の契約に関する稟議書を紛失したとか聞いた。もちろん処分は受けているし、後ほど稟議書は出て来てはいるのだが‥…。だいたい何故今時、紙決裁なのだと問われて、彼はこう答えたそうだ。電子決裁のやり方がよくわからなくて……と。とにかく恐ろしい男だ。絶対に作戦部には来ないでほしい人材だ。

 

「彼にもいい所はあるんだけどね」

「どんな所よ」

「そうだなぁ……女の子ではないので、同行させても、アスカに殺されたりしないこと、とか?」

「あんた……男とそういう趣味があったりはしないでしょうね」

 

 渚カヲルも美少年だったというし、多摩ヒデキもアスカの好みでは全くないが、客観的には中身は兎も角、ハンサムだと専らの評判だ。そもそもシンジに多摩をわざわざ連れて行く必要があるのだろうか。

 

 シンジをじろりとねめつけると、彼は珍しく興の乗った顔でアスカを見た。

 

「まさか。でも、アスカがそういう妄想したいのなら、ご自由に‥…」

「アホっ!」

 

 アスカは顔を真っ赤にしてシンジを怒鳴りつけた。

 

 

 壮行の宴が終わり、明日も学校のアイが「ごゆっくり、おやすみなさい」とそっけなく言って、自室に引っ込むと、アスカはお皿などの面倒な片付けは後回しとばかりに、ベランダに出て、夜の空気を吸った。

 

「ねぇ、シンジ、おいでよ。出張先(お月様)が綺麗だよ」

 

 秋の夜空には煌々と光る白い円盤が輝いている。

 

「本当に綺麗だ……」

「また、こうやって同じ月を眺めたいね、シンジ。五年後だって、十年後だって……」

 

 そんなアスカの言葉を聞きながら、一緒に月を眺め、彼女と月を交互に見比べていると、シンジは物悲しくなった。─僕とアスカが、五年後、十年後も、二人一緒にこの月を見上げていられるかは分からない。そんな事、約束できる訳がない……

 

 でも、月も星空もきっと変わらない筈だから。それこそ月が変容させられるような大事件でも起きない限りは……千年先だって、月は同じように輝いているはずで。

 

 それならば、シンジはこう誓うことは出来る。

 

「アスカと一緒に見れるかどうかは分からないけど、五年後も、十年後も、アスカの事を想って、あの月を観るよ」

 

 もしも、二人の世界があるいは分かたれ、二人に切ない別れが訪れたとしても、こうやって月を見上げれば、届かない想いを守り通すことは出来る……

 

「シンジ……」

 

 それならば、とアスカも頷いて、空を指差した。

 

「あたしも、五年後、十年後に、シンジの事を想って、あの月を観る」

 

 アスカは今にも泣き出しそうな顔で不器用に笑った。ベランダの手すりの上で、手を延ばし、シンジの手にそっと添えて、とても大切な、しかし、遂にかなうことのないかも知れない夢を語った。

 

「だけど、本当はあの月はシンジと一緒に観たい。いつだってシンジと観たい……五年後も、十年後も、二十年後も……」

 

 その泣き笑いの顔を見ながら、シンジは、

 

─ああ、この子のことが僕はやっぱり好きなんだ。僕は、アスカが好きだ……

 

 そう確信した。健気でいじらしく、シンジの事をどこまでも想い続けてくれるアスカ。シンジは、何度だって、アスカが好きだと思える。彼女の泣き笑いではなく、満面の笑顔を見たい。でも、それはシンジと一緒に居たら、なかなか叶わない事だ。

 

 シンジは思う。多分、幾度、生まれ変わっても僕はアスカを好きになる。その時、アスカは、卑怯で弱虫で意気地なしの僕を好きにはなってくれないだろうけど、それでも僕は……。

 

─だから、この子を幸せにしてあげたい……

 

 たとえ、アスカと僕が一緒に居られないとしても。アスカだけは幸せにしてあげたいのだ。

 

 

 荒涼たる灰色の大地に、痘痕や疱瘡の痕のような穴が幾つも穿たれている。真の死の世界とは、屍体や死臭のようなかつての生命の残骸とさえ無縁で、最初から生命と関わることさえを拒絶する様子だった。

 

「まさか月面タブハ基地を目の前にして、上陸を許可されないとはね」

「本当に酷いですね!うちの上部機関のゼーレさんでしたっけ?ちょっとえげつないですよ!」

「まあ、僕ら、それだけ信用されてないんだろうね……」

 

 シンジは多摩ヒデキと会話を交わし、狭い月往還船のさらに小さな舷窓から月の様子を眺めながら、苦笑混じりに、嘆息する。

 

「でも、これじゃ絵に描いた餅、屏風の中の虎、紙で作った月ですよ……!何のために宇宙まで来たのやら……」

 

 悲鳴を上げる多摩に、シンジも苦笑する。

 確かに月まで呼び寄せておいて、ギリギリでタブハベースへの上陸を許可しないとは、ゼーレも味な真似をしてくれる……!

 初号機竣工を前にシンジを月まで釣り出せた以上は、もはや釣った魚に必要以上の餌をやる必要はないということだろうか。

 

「ぼくは月面に上陸して、ニール・アームストロングの隣に足跡をつける積もりだったんですよ!僕の偉大な一歩が‥…くそっ!」

「そんな事を考えていたんだ……多摩クン……」

 

 シンジは呆れて苦笑する。いや、多摩ヒデキの足跡がそんな所に並ぶのは、人類にとって、大いに問題……だけど。

 

 しかし、シンジはもう一度月面に目を向ける。そこにはネイビー色で、目の部分にバイザーで覆いをしたエヴァが建造中で、巨大なクレーター上の平滑な月面にそのまま固定されているのだった。エヴァンゲリオンMark.06─

 

「Mark.06の建造方式が他とは違うな……」

 

 それを実地に見れただけでも価値はあるけれど。

 

 Mark.06の建造計画は、シンジが諳んじている裏死海文書にもない。ゼーレは自らの独自計画を進めるに当たって、死海文書の別の外典を持っていると解さざるを得ないだろう。シンジがゼーレを出し抜こうとするように、ゼーレもまたシンジたちを瞞着しようとしている。そこにあるのは言ってみれば互角の闘争、恨みっこなしの騙し合いの世界だ。

 

 シンジにとってゼーレに対抗する最強の武器となるべき裏死海文書のカラクリの半ばは、要は自己成就予言だ。いついつにエヴァを完成させる。そう書いてあるから、それに間に合うようにエヴァを建造する。そうすると予言は確実にその通りになる。当たり前のことだ。その意味では人類側にイニシアチブのある事象については、裏死海文書は、単なる使徒迎撃と人類補完計画発動に向けた計画書に過ぎない。

 

 だが、そうした要素を割り引いても、使徒の出現時期やその動きなどに関する記述は曖昧で不明確な描写を含みつつも、紛うことなき予言の書だ。そして、シンジが今に至るまでゼーレに処分されない所を見ると、ゼーレの持つと推測される死海文書外典にはどうやら使徒側の情報は全く含まれていないか、含まれていても完全ではないのだろう。つまり、シンジの裏死海文書の知識にはまだ充分な利用価値があるのだ。

 

 そんなことを考えながら、シンジはMark.06をつぶさに観察する。次にアレを見るときは、敵としてかもしれない……そう思いながら。

 

 後光のように頭に背負ったエンジェル・ハイロウ。エヴァなのに、エンジェルと使徒の名前を冠するのが不気味だ。そしてその手に持つ武器は、槍である。

 

(あれはカシウスの槍か……)

 

 その形状からシンジは推測する。希望の槍と呼ばれる槍で、ロンギヌスの槍とは対になる存在だ。

 

 その時、突然、多摩がああっと、大きな声を上げた。ブリーフケースを不器用にも床に落とし、中身の書類を船内にぶちまけてしまったのだ。

 

「ああっ!‥…ヤバいヤバいっ、すみません……あ、それは北上さんの写真でっ……」

 

 多摩に同乗者たち全員の注意が向いたその隙に、シンジは左目をパチパチとウィンクさせた。二連続させたウィンクに連動して、マリから貰って着用している左目のコンタクトレンズ型超小型カメラが無音でシャッターを切る。シンジは落ち着いて、自然な視線移動により、Mark.06の写真をアングルを変えて、十数枚撮影する。

 

(ほら、アスカ……早速だけど、多摩クンが役に立ってくれたよ)

 

 シンジが思わず吹き出しそうになるのをこらえながら多摩を見やると、彼は泣きそうな顔をして、散らばった資料を必死にかき集めている所だった。

 

(それにしても、マリさんの作ってくれたこのコンタクトレンズカメラ、やっぱりスゴいな)

 

 まるで、007の映画に出て来る、Qの作る未来ガジェットみたいじゃないか。

 

 マリさんはこのレンズカメラを渡すとき、こう言っていた。

 

「実はこれには、もう一つ姉妹品があって。そっちのレンズカメラには男子垂涎のスゴい機能がある」

「スゴい機能?」

「レンズを通すと女子の服が透けて見えて、すっぽんぽんが写せるのよ!」

「……」

 

 シンジは一瞬、固まり、思わずゴクリと唾を飲み込んでしまった。

 

「やっぱり、わんこ君も男の子だなぁ。ムッツリしてるけど、やっぱりそういうのが好きでたまらないんだね」

「ち、違いますよ!ただ、そんなものがあるなら、どういう原理なんだろう、とちょっと気になっただけです!」

 

 慌てると、なぜか部下であるマリに対して敬語になってしまうシンジは、マリの揶揄を慌てて否定する。

 

「いやいや、原理って。そんなものが有るわけないじゃない。わんこ君をからかっただけだって。……キミもテクノクラートだろ、しっかりするニャ」

「マ、マリさん!!」

「それに、そんなに女の裸が見たいなら、姫に頼めば、いつでも見せてもらえるでしょう?」

「う……い、いや、それは」

 

 シンジはアスカにそんな事を頼んだことはこれまでないし、そもそもマリに対して、アスカに無断で、アスカとの秘め事に類する事を話してよいかもわからない。

 

「まさか、姫とそういう事したことが無いわけでもないでしょ?なんなら聞かせて欲しいにゃー」

「そ、それは……いや、何というか」

 

 シンジにとってアスカの裸というのは、彼女と一緒にセックスや入浴をする際に必然的に見れてしまうものだった。アスカもシンジからそれをわざわざ隠したりはしないが、その先の目的があるから、否応なく見えてしまうものだった。セックスも入浴もしないのに、目的なくアスカの裸を見るという発想はシンジにはついぞ抱いた事がないものだった。

 

 シンジはしばらく逡巡していたが、やがて重い口を開いた。

 

「……あの、アスカとの事はやっぱり彼女に無断で勝手には話せません。気になるのなら、アスカから直に聞いてください。あと、マリさんに悪気はないと思いますけど、僕もアスカも結構その手の話は重く受け止めるタイプで……アスカに悪いと思うから、この話はもうおしまいに」

「フフッ。きっと、姫、今のわんこ君の言葉に喜ぶよ。真面目な王子様に出逢えて、姫は幸せものだニャ」

 

 その言葉に、シンジは何となく背筋が寒くなった。答えを間違えていたら、マリにひどい目に遭わされたのではないか、なぜかそんな気がしたからだ。

 

 シンジは数瞬、そんなやり取りを思い出したあと、意識を往還船の外の月面に無理やりのように戻した。

 

 その時、シンジはMark.06の指先の上に、人影を見た。

 

「まさか……、ヒト?」

 

 その瞬間にだけそんな馬鹿げた見間違いをして、それからすぐにシンジはあり得ないと首を振って、視線を船内に戻す。

 

 無音の真空を隔てて、シンジの呟きが届いたはずもないのに、そのエヴァの指先の上に座る人影は静かに微笑んだ。

 

『また逢えたね、碇シンジ君』

 

 真空の中でヒトは生きられないのに、「彼」は生きていられる。ヒトではなく、シトだからだ。地球の覇をヒトと争うシト、第十七使徒タブリスが彼の正体だった。

 

 灰白色の短髪、綾波レイと同じ紅玉のような瞳、透き通るような白皙の肌。十八年前、確かにシンジがエヴァンゲリオンで殺めたはずの、渚カヲルが当時と全く変わらない年格好で、巨人の指に座っていた。

 

 カヲルはシンジにはその声が届かない事を知りながら、独り会話を続ける。

 

『キミは、今回、赤い彼女を選び、他の人々は打ち捨てられた。キミは、これからの選択肢で、彼女と世界のどちらかを選択するのだと予感しているようだけど、そうではないんだ。キミはもう既に選んでしまっている。……そう、帰ってこれなかった人たちは、キミが選ばなかった人たちなんだ。キミたち二人にとって、キミたちを知る、キミたちの間に割り込むかも知れない、キミたちを非難するかも知れない─そんな潜在的に邪魔になるかも知れない相手を、サードインパクトのトリガーたるキミは無意識に拒絶した。彼らのLCLからの帰還を拒否したんだ……キミはその罪を知らない振りをしている。だけど、僕はシンジ君がそんな事を知らないままで居て、それで幸せになれるなら、そうあって欲しいと思うよ』

 

『そうやって選別した世界で、それでもなお、キミと彼女が苦しみ悩み続けるのは、二人がリリンの間で生きようとするからだ。キミたちは本来、新しい世界のアダムとイブになる予定だった。地はキミたち二人の子孫だけで、満たされる予定だった。しかし、キミたちは二人以外の他者の存在を願ってしまった。キミたちをよく知らない他者とならば、一からやり直し、共に生きられるのではないかと儚い希望を持ってしまった。でも、第三者がいれば、キミたちは常に不安だ。誰かに相手を奪われるかも知れない。その逆に、他の誰かの方が相手をより幸せに出来るかも知れないと考える……常にそんな不安と嫉妬と猜疑がキミたちを苦しめる。あの浜辺で二人だけで生きていけるならそんな風に苦しむことはなかったのに。……それでもなお、キミと彼女はその不安な世界の継続を望むのかい?エデンの外で、リリンたちと生きることを望むのかい?』

 

『……でも、今回、僕が対峙するのは、もうオトナになってしまった君ではないんだ。僕はオトナに対しては何もしてあげられる事はない。オトナは自分の道を自分自身で決めるものだからね。だから、今度、僕が対峙するのは、キミではないキミなんだ。僕が一度キミに殺されて、僕ではない僕になっているのだから、キミではないキミとは、きっと話が合うと思う。僕は君が殺した。彼女は君に生まれさせられた。だから、僕と彼女は、死と生の、対の存在なんだ。……きっと、僕らは友達になれると思うよ』

 

『直接顔を見れるのを楽しみにしているよ。碇シンジ君、そして、六分儀アイさん……』

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