あれから二週間、アスカはシンジとプライベートで会わなかった。呼び出されもしないし、呼び出しもしなかった。もちろん、職場では毎日顔を合わせる。部下と上司として。しかし職務上の最小限の会話しかしないし、全く話をしない日も多い。そんな二人を周囲はどう考えているのだろう。
職場でそういうことをするのは倫理的にも当たり前の話だが、いっさいない。そこまで強くお互いを求める艶っぽい関係ではないのだ。必要なときは携帯でいつものホテルに呼び出される。アスカが呼び出す事もある。携帯でも、留守電で伝言するだけで話をしないことも多い。
このあいだの、三日にあげずに会っていた方がおかしかった。思春期でもないのだから、今さら、毎日寝るような仲でもない。だからこれは平常通りだ。妙に明るく親しげな朝を迎えた事が、かえってその後の二人を疎遠にしている気がアスカにはしていた。
(ま、無理をしていたし、させてしまってたかな)
アスカはカレンダーを見る。アスカには二つの記念日がある。一つはシンジの母親の命日で、だからというわけではなく、シンジと初めてキスをした日だからだ。
もう一つはサードインパクトの発動日。あの日、あの浜辺で、アスカはシンジに首を締められた。
自分は殺したいほど、恐れられているのか、そう思うと、なんだかシンジの他人への恐れが、哀れで、愛おしくなり、頬をそっと撫でた。
「気持ち悪い」
シンジは、離れたところでその後、泣いていた。自分の仕出かした事をようやく悟り、誰ともまともにコミュニケーションが取れない自分が情けなかったのだろう。
気がつくと、アスカはプラグスーツを脱いで、全裸になっていた。
うずくまったシンジが、立っているアスカの裸体を、引きつった顔で見上げていた。
「アタシを犯して、アンタのモノにすればいい。アンタのモノならば、もうアンタは裏切られない。」
裏切られたのはアスカなのに。シンジに助けても貰えず、クビまで締められて。だけど、シンジがただひたすらに怯える利己的な恐れに、アスカは同調していた。
シンジはしばらく固まっていたが、やがて無言のまま、自分もノロノロとプラグスーツを脱いで、生まれたままの姿になった。
シンジのものを初めて見た。勃起していた。
そんなものか、と思った。
それから、アスカが砂浜に横になり、シンジがその上に、ゆっくりと覆い被さって来た。
「アスカ、アスカ、アスカっ……」
女をモノにする時、相手の名前を叫ぶのは何故だろう。相手のことなどこれっぽちも考えていない癖に。それで、アスカはモノになった。シンジのモノになった。
その時の破瓜の痛みと心の痛みは忘れない。
初めてのキスと、初めてのセックス。
我ながら乙女だなと、アスカは思った。でも、その二つの日を忘れたことはない。痛みに満ちているが、それだけに大切な想い出でもある。
しかし、シンジは、どちらの日付も忘れているだろう。母親の命日としては覚えているかも知れないが。まあ、男の記憶力など、そんなものだ。
もうすぐ、前者の日が近づいていた。シンジは母のもとに行くのだろうか。
「ミサトに話を聞いてもらおうかな……」
昼休みに車を飛ばせば、間に合う筈だ。
◆
その丘の上に、ミサトと加持の二人は居た。
いつだって、いつもそこに一緒に居る。
シンプルな石の上に名前だけになって刻まれて。
アスカは少しだけそれが羨ましい。
(好きな人と、ずっと一緒に居たい)
あの日、シンジと結ばれて以後、どうしてそんなシンプルな願いが叶わないのだろうと、幾夜も想い煩った。
─身体を与えれば、代わりに、心を与えてくれる。
そういう打算がいけなかったのだろうか。
でも、女のそのはかない打算が、どうして裏切られ、無視されなければならないのだろう。
それは、イヴとアダム以来の、とても尊い打算の筈だ。女と男がなし得る、切ない取引の筈だ。
丘の上へと続く踏み石を上りきったとき、一瞬、シンジの姿を期待したが、もちろん、居るわけがない。
シンジはここには来れない。
自分が殺した人たちの事を思うと、ここには来れない。
旧ネルフのメンバーたちが、物言わぬ姿になって並ぶこの墓地に、シンジは決して来ることが出来ない。
アスカはミサトの墓石の前に、彼女の好きだった銘柄の缶ビールを置く。加持への土産はない。今日は女同士の話だからだ。
「ごめんね、加持さん」
そして、いつものようにシンジの事をミサトに向かって愚痴る。
「この間ね、アイツに別れ話をしたんだ。でも、泣かれちゃってさ」
フフっと笑って、アスカは目を瞑る。
「男ってどうしてあんなに子供なんだろうね」
それからシンジが如何に子供で、自分勝手かの愚痴が続く。
「でも、別れられなかったのは多分、アタシの未練かな。負けが続くギャンブルで、席を立てないような気分? だって、次は大当たりが出るかも知れないじゃない」
それに今さら席を立っても、傷だらけの自分がそこには居るだけだ。
本当は最初からわかっていた。自分は結局、幸せになれないかもしれない。でも、シンジとでなければ、絶対に幸せにはなれない。
「アタシ、大当たりをまだ期待してるんだ。シンジと所帯を持って。そろそろ年齢的には厳しいかも知れないけど、滑り込みで一人ぐらいは子供も、ね」
子供を産むなんて、と自分が子供の頃には思っていた。でも、ずっとひとりは寂しい。自分のいのちが次に繋がらないことは切ない。人間は所詮一人で生まれて、一人で消えていく存在だという事を自らの子供の存在が反駁してくれるような気がする。
「アイツ、バカだから分からないのよ。どうしてなんだろうね。アタシが一から十まで説明してやらないといけないのかな? でも、それって、アイツが自分で気付かないとダメじゃない?」
墓石の端が、落ちる水滴でポツポツと、黒くなる。
アスカはいつの間にか泣いていた。
「どうして、アタシ、あんなバカの事が好きなんだろうね。結ばれる前からも、結ばれた後でも、アイツの事が好きで好きでたまらない。会えなくても、言葉一つ交わせなくても、アイツのことを考えない日はないの。……アイツが無神経で鈍感で周りの人間がみんな怖くて、アタシさえも怖がってるのを知ってるけど、それも全部含めてアイツが愛おしくてたまらない。アイツの寂しさをアタシが世界で一番理解している。アイツの寂しさをアタシが埋めてやりたい。アタシの寂しさもアイツに埋めてもらいたい。……それだけ、なんだよ?」
アスカはいつもシンジが泣くのをなだめる側だった。でも、ここにはシンジはいない。生きている人間は誰もいない。だからアスカは涙を流した。一度、堰が破れると、涙は簡単には止まらない。
しばらくの間、無言の嗚咽が続いた。やがて日が少しだけ傾き、アスカは顔を上げた。
「ミサト。アイツ、仕事はちゃんと頑張ってるよ。夢で会ってるみたいだから、その時ちゃんと褒めてやって。アタシだけだと、アイツ苦しいんだ。アタシが重いからかな?フフっ。……これからも、アイツを時々助けてあげてね」
そして立ち上がる。
「さてと、昼休みも終わりだから帰るね。今度は獺祭、持ってくる。加持さんには何がいいかな?」
(ミサトをおばさん扱いしたって告げ口は、武士の情けで、やめておいてやったわよ)
アスカは丘を下りながら、口の端を緩めた。
「なんて優しいんでしょ、惣流・アスカ・ラングレー様は」
自分でそう言って、少しだけ、心が軽くなった。