「はぁ……」
大きなため息だ。
本人は気づいていないのだろうが、昼休みに入ってからだけで、もう三度目のアスカの嘆息だった。
「やっぱり、シンジ君がいないと寂しいよね、アスカ」
シンジがゼーレの招きにより月面タブハベースに視察出張に行って既に三日目だ。シンジは明後日にならないと帰朝しない。
食堂で向かいの席に座る霧島マナが同情するように言うと、アスカは頷いた。
「……そうだね。あんなバカでも、居なくてせいせいという訳にはいかない」
晦渋な否定文で、一見、素直ではない言いぐさだが、実のところ、アスカにしては非常に素直な発言だ。中学生の頃なら、どんなに寂しくても、居なくてせいせいすると言い切っていただろう。
「あらら、素直だね」
霧島マナもその機微を鋭く察して、口元を緩めた。
「……もういい加減、疲れたんだ。アイツのことで、心とチグハグな事を言い続けるの。アイツ、バカだから言葉を額面通りにしか受け取らないし。もう、そういうレベルのバカと誤解のやり取りとかをしてる人生の余裕はない」
あと一年、もう一年しかないのだ。あの日から二十年後の約束の日まで……。アスカとシンジの未来が分かれてしまうかもしれないその日まで。
マナはアスカの深刻そうな顔を眺めて、それでも快活な表情を崩さなかった。
「アタシもアスカにバカって言われてみたいなぁ」
マナにだって、アスカのシンジに向ける「バカ」が特別だってことは分かる。シンジ以外の異性はもちろん、同性にだって容易に心の内を見せないアスカだから、かえってマナはアスカに構いたくなる。
「……なに言ってるんだか」
アスカは呆れつつ、今初めて霧島の存在を認識したような顔をした。
「しかし、あんたとこうやって二人で食事をするようになるとはね」
昼休みもエヴァ初号機F型建造の突貫作業を極力優先するため、技術部長のマリはここのところ、自分で作ったサンドイッチなどを持ち込んで部員や作業員たちと現場に居続けだ。作戦部長のアスカも艤装員長として、用兵サイドから昼休みでも監督を続けて良いはずなのだが、どうにもそういう気分にはなれなかった。それで、きっかり正午に切り上げて食堂に来たら、席を立ち上がった霧島に大きく手を振って招かれ、こうして一緒にランチを取っている。霧島の昼食は、北海道風味の塩バターラーメン。アスカは、カロリー低めのヘルシー定食。
「あたし、仲良くなりたいと思った女の子と仲良くなれなかったことないんだよね……」
「うわぁ……それって絶対に正攻法の話じゃないわよね?」
アスカが霧島の言葉に引いたような反応を示すと、霧島が手を前で振った。
「いやいや、そんな同性ハンターみたいな見方をして、怖がらないでよ。あたしなんて、ほんの養殖ものなんだから……例えばあの人みたいな天然ものとは違う……」
「養殖?あの人?……それって……?」
霧島はアスカの疑問のうち、後半を無視して、自分の事を語り始めた。天然もののあの女性については霧島から語るべき話ではないのだから。
「あたし……昔は、女の子のウェットな人間関係より、男の子たちのドライな関係が好きでね。つい、女の子たちより男の子と話し込んでしまってたんだ……中学生ぐらいまでかな。でも段々そういうの、女子の間で不評を買うようになってね。ほら、みんな思春期で色気づいてくると、アタシの好きなあの男の子に媚びを売るアイツ、みたいに受け取られてしまって……だって他の子は男子と話すのが恥ずかしいみたいで。結局、女子の間で無視されたり、靴を隠されたりという定番のルートに……」
アスカはむっとした。昔からこういう卑劣なイジメの話は好きではない。アスカ自身はそういう目に遭いそうになっても、強気に自力ではねのけてきた。でも例えばサード後のシンジの高校生活なども、シンジが周囲に自ら壁を作っていたので実害は少なかったが、無視され、陰では嘲られ、基本的にはいじめられていたようなものだろう。皆が皆、そうした状況で強く立ち向かえる訳ではない。
「それで、どうしたの?」
「イジメの首謀者の女の子を特定できたから……その子をガチで自分に惚れされようと思った。一年以内に」
「はあ?」
なんだそれは。イジメの首謀者と対決するとか、告発するとかではないのか、ふつう。なんで惚れされようとする?……アスカには霧島のぶっ飛んだ発想が理解できなかった。
「だってボスを落とすのが手っ取り早いし、どうせならイジメ返すとか復讐とかそういう陰湿なのじゃなくて、その子にも自分を好きになって貰いたかったし」
「……唖然とするわね。だって同性でしょ?普通はそんな気にはならないでしょうに……」
「そうでもないわよ。もちろん、仄かな性欲に基づく異性愛だって関心がある年頃だけど、そうではない同性にだって、自分の気持ちをわかってもらいたい、共感して優しくしてもらいたい、それが大抵の女の子の気持ちだもの。もちろん、アスカみたいに同性にこれっぽっちも興味がないって子もいるけど、そうじゃない子も案外多い。同年代の男の子はまだまだ子供だしね」
「……それで、その子とはどうなったの?」
「半年で恋人になりました」
霧島は小さくVサインをする。
「とにかくマメに相手に声を掛ける。相手のことを気にしているというサインを送る。相手がこちらをどんなに嫌っていても切ない片想いを続けます、と健気にアピールする。その子に逢う度に笑顔を絶やさない。そういうのを緩急付けつつ毎日続けた後、しばらくそっけなくして焦らす。他の女の子と仲良くしてみせる。嫉妬させる……まあそんな感じで揺さぶり掛けて相手から告らせた。結局、向こうからしたら本気の恋になっちゃったみたい。その子とはしばらく付き合って、今でも友達だけど、相変わらず女の子が好きみたいだよ」
「え、えげつなー……それって何だかゲーム感覚なんじゃないの……? いくらイジメてきた相手とはいえ、ちょっと酷くない……」
むろん同性愛が悪いわけでは全くないのだが、元々そんな趣向が無かった人間の人生に関わる一大事に大変革をもたらしているのだ。アスカは自分だったら、とてもそこまで出来ない。
「違うよ、ゲーム感覚なんかで、他人を惚れさせることなんか出来ないから……。あたしはその子の事だって、本気で好きになろうとした。イジメのような行動の裏側にある寂しさや強がり、その子の良いところ、例えば意外に他人に面倒見がいいことも知った。お花が好きで、毎朝教室の花瓶のお水を変えてくれていることも。そうやって相手の素敵な所を知って好きになり、相手の気持ちになって、相手が今、何をして欲しいのかも真剣に考えてた。だから向こうも好きになってくれたんだよ。全部が悪い人間なんてまず居ないんだから、誰だって好きになろうと思えば好きになれるんだよ」
誠意に勝れる知恵なし、といったところか。確かに、アイの控え室の改善の為に着任早々に立ち回った霧島マナの言う事には口先だけではない説得力があった。あの時のマナは、アスカよりもシンジよりも、アイの事を真剣に考えていた。皆がその真剣さに絆され、アイのことを─彼女の気持ちを考えて─仕事をするようになってくれた。霧島の大きな功績だ。
霧島マナは誰にでも一生懸命で、誰もが彼女のことを好きになれる、ハンサムガールだ。アスカも彼女の生き方を羨ましいと思うこともあるが、こんなの、普通の人間にはまず真似できる訳がない。
「でも、アスカは違うよね。アスカは、一人とか、ごく少数の人との関係だけが気になるタイプ。一途と言えばいいのかな」
「そりゃ、……あんなの抱え込んでれば、一人で手一杯だっての。要は、手のかかる子供なんだから……」
もちろん、それが誰を指しているのかは、マナにもすぐ分かる。マナはなぜか、目を細めた。
「シンジ君のせいなのかな……元々、アスカは他人に対して警戒心というか人見知りが激しすぎるんだよ」
「そうかな……」
アスカは、無意識のうちに、アイツと初めて会った時、どうだったかな、と考えている。
「……警戒心……欠片も感じなかったな」
霧島マナの存在を思考の埒外に置いて、アスカは小さく呟いた。
アイツにだけは。……アイツとだけは。警戒心なんか感じない。
あんなに当初、アスカの方から一方的にライバル視していたのに。それでも、シンジに対しては遠ざけるよりも、自分から近づいて行った。初めて知り合った同年代の男の子だったから? 時々ムキになって言い返したりはしてくるが、基本的にのほほんとしていて、とてもアスカと何かを争えるタイプではなかった。それなのに時々、アスカを打ちのめすぐらいの才能を発揮して……。それがアスカには悔しくて。でも、シンジに惹かれた理由でもあるだろう。
今でもシンジはネルフの再建とか、ダミープロジェクトを走らせゼーレに流す情報を高度に欺瞞するとか、時折、能力的にはアスカが舌を巻くことをやってのけるのだが、アスカのように己のプライドを賭けている訳ではなかった。シンジは自分がバカだと思っているから、寝る間も惜しんで必死に勉強や研究をして、人の十倍考え込んで策略を練っている、そんな印象だった。
(アイツは、変なヤツなんだよ……)
今更だが、アスカはシンジの性格について考えている。なぜ、自分の能力や実績を誇らないでいられるんだろう。それどころか、いつも自信がなさそうにしていて。アイツにとっての能力とか実績とかは、シンジ自身の為に使うのではなくて、今や、全てアタシを守る為に使われている……
(本当にバカなんだ……一緒になる気もない女の事ばかり四六時中、考えて……)
アスカはシンジのことを想うと、涙が両の眼に溢れそうになってきた。それを堪えようとすると、鼻の奥がツンと痛む。やっぱり名前の通り、バカだよ、バカシンジは……。シンジは自分の中の全てをアスカのために抛擲してしまっているから、中身はもはや空っぽで、がらんどうだ。毎日、ネルフの司令の仕事の重責に押しつぶされそうになりながら、素うどんばかり食べているシンジ。アタシとアイの炭水化物コンボの御飯責めに無邪気にごちそうだと喜んでいたシンジ。アタシは、あの勘違いし続けている、可哀想な男の子をどうすれば救ってあげられるんだろう、どうすればシンジをアタシへの永劫の義務感から解放して、幸せにしてあげられるんだろう……。
そんな悩めるアスカの様子を静かに見守りながら、マナは言った。
「アスカは……あたしが今まで見て来た人の中でも、とびきり優秀だよね。多分、今はアスカ、そんなに真剣に仕事していないと思うんだけど、だいたい30%ぐらいの力で、他の人を凌いじゃってる。後の70%はきっと誰かさんの為に注ぎ込んでいるんだよね」
その見立てに、まさかそこまでシンジの事ばかり考えてる筈がないと思いながら、アスカは反駁した。
「あんただって有能でしょ……アタシ、悔しいけど、シンジがあんたを欲しがって引き抜いたのは大正解だったと思う」
「ありがとう、アスカ。……でもね、あたしは凡庸な人間だから、仕事が出来る人に任せたり、やりたそうにしている他人に振ったり、お願いして進めてもらうのが上手いだけだよ」
つまりはマネージメント能力だ。管理職には重要な資質だ。
「アスカは30%の能力の今でも有能。100%の力を発揮したらどれだけの仕事をやってのけるのかと思う。でも……今のままのアスカが100%の能力を出しても、あたしなら……勝てるよ」
さらりと言ってのける霧島に、気負いも何も無いことをアスカは感じ取る。
「……項羽と劉邦だよ」
いかにも女性らしい魅力に満ちた霧島の口から、少し似つかわしくない名前が出て来たので、アスカは目を剥いた。でも、よくよく考えれば、アスカも霧島マナも軍人だ……古今東西の史書、兵書の類は読んでいてもおかしくない。むしろ、職業柄、当然の教養と言えた。むろん、項羽と劉邦の楚漢戦争などを描いた「史記」はその中に入る。
アスカも、日本語訳だが、当然それを読んでいる。ちなみにアスカの日本語読解能力は高校時代に長足の進歩を遂げており、今は何の不自由もなかった。
そうした史書、兵書の類は通常は、上官からわざわざ研究を命ぜられるものではない。自分の勤務時間外の時間と私費を使って、文献を渉猟し、独自に研究するものだった。それが下士官兵と較べて、遥かに高給を得ている士官として課せられた責務であると言える。本来は、武器や軍服まで自弁することを求められる士官は、中世で言えば騎士だ。下士官兵のように労働の時間に対する対価を貰っているわけではない。君主や国家に対して─ネルフの場合は人類全体に対して─、士官は己の軍事専門家としての能力識見を以て仕えている。自己研鑽を怠るのは俸給泥棒と同じだった。これは何もアスカや霧島マナが殊更に意識が高いわけではない。志ある士官なら持っていて当然の職業意識だったし、それが持てないなら、早々に予備役に入るか、少なくとも佐官に上がる資格はなかった。だから、アスカも、今でも帰宅後にこの種の研究を怠って二時前に寝ることはほぼない。
「項羽は百戦して九十九戦、無敗。でも最後の一戦、垓下の戦いで劉邦に敗れて、それで破滅する。……それは、劉邦は能力ある他人に任せられたけど、項羽は何でも自分でやろうとしたから。……アスカも同じように、人に頼らないよね」
「……」
「アスカが、『虞美人』を守りたいなら、もっと人に頼らないと駄目だよ。……もっとも、シンジ君にとっては、アスカが虞美人なんだろうけど……」
言うまでもないが、西楚の覇王を名乗った項羽の愛妾が虞美人だ。
─虞や虞や
と歌った垓下の歌は、千載に語り継がれている。その哀切な、永久の別れの場での想いは人類が滅びない限り、もはや決して消え去ることはない。
そして、項羽の歌ったその言葉は、先ほど、シンジをどうしたら幸せにしてやれるだろうと懊悩したアスカの悩みにそのまま重なり、アスカの胸を刺した。
だって、アスカもシンジをどうしてあげたらいいのかわからないのだから。
シンジ、シンジ。アタシはシンジをどうしてあげたら良いんだろう……
もちろんアスカだって、シンジを助け二人が共々に救われるためにはより広範な人たちとの絆や協力が必要になるという、霧島の言う理屈はわかっている。シトよりヒトが強いのは弱くて群れるからだ、孤独よりも愛が最後にはきっと勝つとシンジに教えたばかりなのだ。
「分かってるわよ。この間だって、シンジにそんな話をしたばかりなんだから……ちゃんとアタシを頼りなさいって」
その言葉に、マナは嘆息する。
「アスカは、まだ、シンジ君の能力を正当に評価していないように見える。シンジ君はそんな事はちゃんと分かっていて、たぶん……アスカのニ、三歩先に行っているよ」
霧島が何を言ってるのか、アスカにはよく分からない。アスカを想って行ってきたシンジの数々の自己犠牲と献身、そこに表れた彼の誠意は疑うべくもない。でも他人とのコミュニケーションが未だに苦手なシンジが、アスカの二、三歩先に行っているとは一体どういうことだろうか。
「……アタシ、シンジを見くびっているのかな」
「アスカにとっては、いつまでもシンジ君は十四歳の、出逢った頃のままの、可愛い男の子なんだね。いつまで経っても現実の外見や中身とは無関係に、アスカの心の中では可愛いままの男の子だから、守ってあげたいという気持ちは分かる。でも、よく考えてみて。本当にシンジ君は永遠に止まってばかりなのか。本当に成長していないのか。ずっと中学生からの幼なじみ感覚じゃ、まずいと思う。アスカが見落としている物があると思う。あたしは親友として、心配しているよ」
親友という言葉は重い。それだけ霧島がアスカのことを考えてくれるのかと思うと、アスカも否応なく真剣にならざるを得ない。
アスカはじっと自分の手を見つめる。傷一つない白い手のひらだった。シンジの左手は今でも雨や寒さの度に痛み続けているというのに。……アスカは、霧島の言っていることが具体的に諒解できたわけではない。でも、シンジが学校を卒業してから、アスカの為にしてくれたことは、このネルフの再建を含め、沢山あった。少なくともアスカはもう日本政府に何かを強要され、心を傷付けられることはない。
「でも……シンジは、アタシのバカシンジは、いつまでだって、あの日、出逢った時の冴えない顔したシンジでしかなくて……弱くて、情けないから、いつも不安になって……そんな風にアタシが側にいてやらないと……ダメな男の子だから」
だから守りたかったのだ。見た目など関係なく、愛してしまったのだから。
「そもそも、それが勘違いだと思う」
「え?」
「シンジ君は別に冴えない顔だなんて事ないよ。アスカは自分が美人すぎて、勝手に顔面偏差値……って言葉はあんまり好きじゃないけど……のハードル上げてるんだろうけど、シンジ君は普通にハンサムだと思うよ。だから女子職員がキャーキャー騒ぐんだよ」
「……は?女子職員が、シンジに騒ぐ?」
アスカには寝耳に水の話で、霧島の話が、うまく頭に入ってこなかった。
「……聞いたことがない?でもま、それはそうだよ。みんなアスカに遠慮してるから、そういう素振りを見せないだけ。……アスカって贅沢な女なのよね。いや、それは少し違うか。アスカはシンジ君の外見に満足してるけど、外見で選んだようには思いたくないから、冴えないって言い続けてるのか。そういう自己暗示だか、バイアスを最初に掛けてしまったら、もう冴えないシンジ君は冴えないままに見えてしまう」
「……いや、上の下とか、中の上とか客観的に評価しているし」
「その評価を公開したら、シンジ君の非公式ファンクラブの人たちに怒られるよ、アスカは」
霧島は笑い、アスカは非公式ファンクラブの存在とやらに軽く衝撃を受ける。シンジはアタシ以外の誰にも価値の分からない筈の、アタシだけの宝物だったのに……。
「そして、シンジ君はそのアスカによる評価を真に受けて、自信がないままでいる」
アスカは、霧島の主張には素直に納得出来ない。これまで外でシンジと逢った時も、みんなアタシとの釣り合いでシンジには幻滅していなかったか。まさか、それもみんなアタシの勘違いとでも?
そんな反論を霧島に返したら、ナンセンスだとばかりに首を横に振られた。
シンジ君に対するアスカの主観ほど当てにならないものはないわ、とまで霧島は言うのだ。
でも、もしそれが本当なら、アタシとシンジの関係って、相当いびつで歪んでいることにならないか? アタシはシンジの外見も好きなのに、シンジには冴えない冴えないと言い続けて、シンジに自信を無くさせて来た事になるのだから。
しかし、霧島は、それを馬鹿にしたり、間違った関係性だと斬って捨てたりもせず、ニコニコとしながら言うのだ。
「本当に二人はかわいいね」
それから、マナは、ラーメンをちゅるちゅる啜るのを中断して、背中を振り返り、窓の外の昼の空を眺めて言った。
「今晩も晴れて、お月様が綺麗に見えるといいね、アスカ」
色々霧島には言い返したいこともあったが、その言葉にだけは、アスカはコクリと童女のように素直に肯いた。きっと、まん丸のお月様にはシンジのはにかんだような笑顔が重なって見えるだろう。五年後、十年後の約束には少し早過ぎるけど、アスカはシンジを想ってあの月を見るというのを、この出張中は毎晩履行する積もりだ。
◆
月面からの帰着は、往路も同じだったが、鹿児島県肝属郡肝付町の内之浦宇宙空間観測所を利用する。旧ISASから受け継がれ、統合されたJAXAに移管された同宇宙空間観測所は、糸川英夫博士のペンシルロケット以来の開発の歴史や旧NASDA系の種子島宇宙センターとの棲み分けもあり、もっぱら固形燃料ロケットを打ち上げていた。その関係で、軍事利用の観点が改めて着目され(固形燃料ロケットは本質的には弾道ミサイルと同じだ)、戦略自衛隊に一部施設を接収されている。こうした経緯から、今では戦自やネルフにとっての有人宇宙飛行用の宇宙港としても利用されている。
内之浦からは車で二時間弱かけて鹿児島空港に行き、待機させてあったネルフの輸送機に乗り換えて、羽田に向かった。
「やれやれ……これじゃ宇宙空間より国内移動の方が大変だね」
輸送機に乗り込んで、座席に落ち着いた所で、シンジは多摩ヒデキに話し掛けた。
「でも、土産物を羽田で買うタイミングがあって良かったじゃないですか」
「月に出張したのに、東京土産を買って帰るのか……みんなガッカリするだろうなぁ」
でも土産物に文句を付けているアスカの顔がもうすぐ見れると思うと、シンジはなぜか心が躍るのだ。
「ところで、碇司令」
「ん?」
「どうして出張に惣流部長を連れて行かなかったんです?」
「部長はエヴァ初号機の艤装作業で手を離せないよ」
その言い訳は、少なくとも多摩を感銘はさせなかったようだ。
「僕はですね……北上さんに逢いたいですよ。出張だって一緒に行きたかった。叶う、叶わないは別ですよ。でもそれって、素直に言ったら、おかしいですか?気持ちや願望は、隠さないと行けないことなんですか。それが大人になるってことなんですか」
「……多摩くん」
「僕はね、人間……素直が一番だと思いますよ。言うべき時にやせ我慢したり、本心とは別のことを言ったら、一生後悔するんだ」
司令相手に歯に衣着せぬ多摩の物言いが、シンジにはなぜか、嬉しかった。
「多摩くんは、北上さんとよく似てるね。僕は好きだよ」
ひっ、という顔をして、多摩は席に座り直す。そんな趣味はないとでも言いたいようだ。もちろん、シンジにだって無いわけだが。
「言う相手、違ってますからね!」
だけど、シンジはますます多摩ヒデキのことが好きになった。
◆
ネルフ本部棟の車止めに黒い官用車が付けられ、司令、碇シンジが車から降り立つと、赤い服の人影が待ち構えたように近づいた。
「碇司令、ご無事の帰着、心より安堵しました」
「惣流三佐」
礼装に身を包み、ピシッと踵を揃えて背筋真っすぐ敬礼するアスカに、シンジは軍人としての自然な呼吸で答礼する。しかし、名字と階級でアスカを呼んだ後、やはり違和感を感じて、はにかむような顔になって言い直す。
「……いや、アスカ。ありがとう……。ただいま。約束どおり、キミにまた逢えて嬉しいよ」
アスカは、その返しに、シンジと視線を合わせることもせずに、俯いた。儀礼的な対応は所詮は形式だが、でも、シンジに素の話し方と笑顔で返されると形式を続ける訳にはいかない。
「お帰り。シンジ……」
それだけ呟くと、アスカは、前を開いたシンジの黒い制服の前裾を掴む。シンジと近い距離感で職場で話す時の、アスカの小さな癖だ。
「心配したわよ……シンジが戻らなかったらどうしようと思っていた。机の中の引き出しに拳銃を用意しようと本気で考えた」
「アスカ……」
もちろん、それは後追い自殺用の拳銃だ。ネルフ職員の武装は警官や自衛官同様に合法だが、拳銃など普段から持ち歩いているわけではない。
しかし、今回のリスクはゼーレによる謀殺だけではない、宇宙との往還には事故も付き物だ。万一の可能性が頭をよぎらない筈がなかった。
「……でも、シンジは約束してくれた。ちゃんとアタシの所に帰るって。……だからアタシは信じた。後追いなんて考えちゃいけないと思った。だから!」
そして、アスカはシンジにしがみついた。シンジの背中に両腕を回し、きつく抱き締める。もうこれ以上は、感情を抑えこむことなど出来そうになかったのだ。シンジもそっとアスカを抱き返す。
「アスカ……」
シンジにとっても、久し振りに抱いたアスカの身体の温もりが愛おしかった。生命一つない灰色の月面から、赤や金色の色彩の鮮やかな、温かい世界に戻ってこれたのだ。シンジはそう実感する。
「姫、やった!公私混同だけど、行け!」
エントランス脇で、一部始終見ていた真希波マリが身を乗り出すようにして拳を握り込んだ。その隣で見ている霧島マナは目を丸くしている。戦略自衛隊では考えられない無秩序だからなのだろう。隊内恋愛はむしろありふれているが、衆人環視の中、こういうのは流石に……。いつも剛胆なマナも、アスカのこの行動には驚く。
「無事に戻ってくれて……約束を守ってくれてありがとう。……いつも危険に身を晒して、アタシを守ってくれてありがとう、シンジ」
そんな感謝の言葉が、アスカの身の内から自然に溢れ出してくる。それは透明で清らかな乙女の涙と一緒に流れ出してくる。
「……僕もアスカが無事で居てくれるのが一番嬉しい。そのためなら何でもする」
「シンジ、シンジ、シンジぃ……」
アスカは、シンジの腕の中で涙をすすり上げる。
……シンジは弱いくせに無理をして、非道と策謀の道に進み、アタシを守るためにこんな組織まで作ってしまった。もうシンジはこのデス・レースからは降りられない。ゼーレを滅ぼすか、シンジ自身が破滅するか、アタシが死んでシンジが全ての生きる意味を見失うかのいずれかに辿り着くまで、終わりようがない地獄行だ。
でも、その地獄行には道連れがいる。アタシがシンジの道連れになってやるんだ。
アスカはずっと前から、そう決意している。
多分、たとえシンジとアタシが結ばれたって、ゼーレは倒せない。そんなに生半可な組織じゃない。それでもシンジはその道を行くのだろう。それが人類やアタシに対する贖罪であるとしても、余りにも哀しい人生だ。
でも、その道行きが独りではないのなら。孤独な道行きでないのならば。シンジだって、きっと耐えられる。アスカとシンジは手を携えて、前に進める筈だ。
だから、アスカのシンジの身体を抱く力は一層強められる。アスカは泣いたまま、シンジに頬ずりをし、彼の硬い髪を手で弄る。
「……何でもなんて別にしなくていい。ただ、側に居てほしい。シンジのやることは余計な事が多いのよ……でも、今日だけは……無事におうちに帰ったんだから─アタシの所に帰ったんだから、お小言は無しにしてあげるわよ」
そう、アスカにとってシンジが帰ってくる場所は彼女の胸の中に決まっているのだ。
その時、本部棟の二階や三階の窓を開け、身を乗り出すように、エントランスを見下ろしていた多数のネルフ職員が一斉に喝采し、拍手し、拳を握り、歓声を上げる。その声はしばらく止むことがなかった。
例のネルフ裏サイトに、誰かが先立って「今日の十六時に碇司令が月から帰着。惣流部長との再会シーンに乞うご期待!」と書き込んでいた。それで「観客」が集まっていたのだろう。
シンジとアスカはそんな野次馬丸出しの職員の様子を見上げて、互いに見合わせた顔に苦笑を写し、それからまたひしと抱き合い、涙を流した。それを半ば揶揄するように、半ば祝福するように、大勢の職員たちが快哉を叫ぶ。
「……これ、アタシが二十年以上前からずっと見たかった場面だよ。きっと、みんなが見たかった場面だ」
真希波マリが感慨深そうに言った。
「二十年以上?なんか色々数字が合わない気がするけど。マリさん、適当だなぁ……でも、みんなが見たかった場面ってのは同感」
霧島マナは苦笑した後、窓際の物見高い同僚たちの顔を見上げて、にっこりした。……本当に、ヘンな組織だよ、ココは。みんな人類を破滅の危機から救おうと必死に、真面目に、一心不乱に仕事をしている人たちなのに。でも、今日みたいに組織のトップと幹部の不器用な色恋沙汰に子供みたいにはしゃいでいる。だけど、霧島はそんな新生ネルフが好きだった。人間が作る、人間くさい、人間のための組織だ。
ガキっぽいと言いたい向きには、言わば言え、だよ。真面目くさって、子供を葛藤もなく使い捨て、男女の想いを引き裂き、踏みにじれる組織など、くそ食らえだった。新生ネルフだって、結局は外道なことをしてるんだとしても、ちゃんと人間らしい側に踏みとどまってるから、アスカとシンジ君はみんなの前で泣けるんだ。抱き合えるんだ。
「あたしもこの日の光景はなんだかずっと忘れられない気がする。新しいネルフって、いかにもな素人集団だと思うけど、トップのシンジ君の人柄かな……温かくていいの。無理言って、出向してきて良かった。もう帰っても戦自に居場所はないかもだけど」
「ならいっそ、こっちに転籍しちゃえ。マナっちなら、みんな歓迎だよん」
「うーん、それもいいかなあ。戦自で将官になるのもまだまだ女には狭き門だしなあ……」
もちろん、戦自側の思惑では、リーダーシップがあり、稀有な
◆
そんなアスカとシンジの再会劇を、六分儀アイはネルフ本部棟の屋上から物憂げに見下ろしている。声は屋上まで聞こえないが、涙を流しながら抱き合う二人を見て、アイは狂おしいほどに嫉妬する。
(どうせボクには関係ない……アスカ……と碇シンジの行く末なんて……)
いくら二人を応援すると決めていても、定期的に寂寥感が彼女の胸に押し寄せて来るのだ。
「キミは、こんな時でも独りなんだね」
孤独な背中に投げかけられる透き通るような少年の声。それは彼女の孤独を指摘しているのに、どこか温かくて、優しくて、懐かしくて。
「……まるで物語の大団円。でも、問題は何も解決していない。碇シンジはダメな男のまま……アスカ……に相応しい男じゃない……。まして、ボクがあの輪の中に入れる筈がない。ボクは只の部品なんだから」
遠い記憶にある響きと同じ声に無意識に返事をしてしまっておいて、アイははっとする。
「って、誰……!?」
いや、声を聞いた時点で、答えは知れていた。
それでもこの答えの意味するものが信じられなくて。ヒトの死は不可逆的だが、シトのそれはそうではないとでも言うのか─
振り返るとそこにはアッシュグレイの収まり悪い短髪に、真っ白な肌をした紅の瞳の少年が、ズボンの両ポケットに手を突っ込んで、立っている。
むろん、見覚えがあった。見忘れる筈がなかった。シンジにとって─アイにとって、無二の親友。親友にして仇敵。シンジが─つまりはアイが、殺めた、人類の究極の敵だった。
「な……渚カヲル……カヲルくん……なの」
アイは、声を詰まらせそうになるのを意思で抑えこんで、懸命に声を絞り出す。
「そう、覚えてくれていて嬉しいよ。そう、君が殺した渚カヲルだ」
カヲルは片手を出して、髪をかきあげると、アイに近付く。
「ち、近寄るなっ」
アイは、視線をカヲルに据えたまま、後ずさるが、やがて、背中が屋上を取り囲む手摺りに行き当たり、もう後ろには退がれなくなる。
「その恰好もなかなか似合うね」
アイの着ているのは、旧壱中の女子制服だ。今日はシミュレーションによるエヴァの操縦訓練のため、学校を早退して、ここネルフに直行している。
渚カヲルは、アイに触れるほどの距離に躊躇なく近付いて、彼女のリボンタイをそっと撫でる。
「碇シンジ君……いや、キミは六分儀アイさんだったね」
カヲルはリボンタイをしゅるりと手品のように解くと、その手の中にタイを握り込む。アイは僅かにカヲルの手の動きを視線で追い掛けただけで、何も出来なかった。
「ボクを知っているんだ……?」
警戒するようにアイが確認すると、カヲルは肯いた。
「今度のシンジ君は余りにも、思い切りがいい。二人のシンジ君というのは目的のためには、合理的だ」
リボンタイを失って、心許ない胸元に、拳を引き寄せて、アイは訊ねた。
「どうして、カヲル君がここに……」
その問いには二つの意味が含まれていた。なぜ、カヲルがセキュリティを突破してネルフ本部に侵入出来ているのか。そして、なぜ、確実に死んだはずのカヲルが生存し、アイの前に出現しているのか。カヲルは質問を後者の意味に受け取って、答える。
「終わるセカイが終わらなかったから。……シンジ君が、赤い彼女を選んで、そこまでは構わないけれど、彼らは終わる世界のアダムとイブになることを望まなかった。ヒトの世界の継続を願ってしまった。二人だけではない世界を」
「赤い彼女……それって、アスカ……のこと?」
アイの問いに、カヲルは無言で肯く。
「僕は彼女が苦手なんだ。だから毎回、彼女がメインステージを退場してから登場することにしている。でも、今回はそうも行かなくなった。各周回で一回しか登場しないように決めていたけど、この世界は実質的には二回目みたいになってしまったから」
シンジを挟んで、カヲルとアスカはシンジの可能性を奪い合う立場にある。カヲルが登場する時点で、アスカとシンジの可能性は極小まで萎んでいて、最終的に結ばれるとしても、その先の人類の繁栄や復活は約束されなかった。
「なぜ、アスカが苦手なの……」
アイは─シンジは─、カヲルがアスカを苦手で避けているなど考えたこともなかった。シンジなどは、カヲルとアスカは共にシンジに優しい所が似ているなどと考えた事もあったぐらいだ。
「彼女の存在はシンジ君にとっての希望だから。シンジ君が、彼女と紡ぐ未来が同時にヒトを繁栄させる、ヒトとヒトの繋がりに希望を見せてしまう。……僕はシンジ君の幸せを個人として、友人として願っている。けれど、シトとしてこの星の覇権をヒトと争うという本能にはどうしても抗えない。それは生物としての本能なのだから」
だから、カヲルは一度はシンジに自らの身を棄てるようにして討たれた。それでシンジはヒトとして生きていけるし、その先にヒトの繁栄はない筈だったから。しかし、その予測は違った。アスカは立ち直り、シンジと結ばれ、むしろそこで終わっていれば良かったが、人類たちは二人の願うように、赤い海から還り始めた。シンジは、アスカと二人だけの幸福な終わる世界ではなく、アスカを喪うかも知れない終わらない世界を願った。それは大いなる矛盾だ。
「自ら一身で足りるとする僕らシトか、自らだけで閉じて良しとするアダムとイヴか、生き残ったのがそのどちらかなら、良かったんだ」
渚カヲルは、そう言って、しばらく目を閉じた。
「やっぱり、惣流・アスカ・ラングレー嬢は恐ろしいね」
再び目を見開いたとき、渚カヲルの瞳が、あの浜辺で見た赤い海と同じ色であることに気付いて、六分儀アイは慄然とする。
赤い海とは、死と再生を運ぶ青い海ではなく、生まず生まれず壊れず愛さず……の永遠の生を司る海なのだ。