大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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四十一話 女房とシンデレラ

 コンコンと、開け放たれたままの司令室のドアをノックする音がした。

 

 シンジが顔を上げると、軍服姿のアスカが入り口のところでドアに寄りかかり、脚を斜めに交叉させている。

 

「そろそろ上がらない?」

「えっ……ああ、……もう九時半か」

 

 シンジは夢中になって読んでいた新しい生物学の論文から顔を上げて腕時計を見ると、頭をかいた。動物のクローンに関する新しい実験結果についての興味深いレポートだった。これが、アイの問題解決に繋がる端緒にならないか、そう思うとシンジは時間を忘れて読み込んでしまうのだった。

 

「また、例の分野の論文?」

「ああ、うん……」

 

 シンジは頷いて、ブリーフケースに論文を大切そうにしまった。

 

「明日、アタシにも読ませてよ。一緒に検討しよう。でもね、職場では……上が帰らないと、下はなかなか帰りづらい。司令ならそういう気配りも必要よ。仕事は家でも出来るんだから」

「そ、そうだね……みんな、まだ残ってるの……?」

 

 シンジが恐る恐る確認すると、アスカは苦笑して首を横に振る。

 

「ううん。先週、初号機も無事竣工したし、技術部も最近はマリが部員を早々に帰らせてるみたい。それに、ああは言ったけど、今晩はシンジに気を遣って帰らないような忠誠心の高い職員は居ないみたいね……シンちゃんに最後まで忠誠を誓う健気な部下は、このアタシだけ」

 

 アスカはそう言って、芝居がかった仕草でうっとりと目を瞑り、手のひらを胸に当ててみせる。

 

「なーんてね」

 

 多分、アスカはずっと司令室の前室あたりで待っていたのだろう。シンジが論文に熱中してる様子を眺め、頃合いを見て、シンジに声を掛けたらしい。

 

「うん、部下だなんて思わないけど……アスカが居てくれて、嬉しいよ」

 

 アスカは静かに微笑みをたたえている。

 

「公用車の運転手さん、とっくに帰宅してもらっているんでしょう?アタシが車で送ってあげるわよ」

「あ、ありがとう……アスカ」

 

 シンジは残業するときは、公用車の運転手を残らせない。公共交通機関がある時間ならそれで帰るし、そうでないなら、タクシーを使わずにそのまま司令室のソファーを寝台代わりにして泊まってしまう。公用車は対外的な接遇上も必要であり廃せないが、貴重な予算をタクシー代で費消するのが勿体ないからだ。

 

 急いで片付けをし、オートロックで全室が閉鎖されていることを管理パネル上で確認して(確認しないで退出しようとすると、マギが警報を発報して大変なことになるらしい)二人は部屋を出た。誰もいないのを良いことに廊下ではどちらからともなく、手を繋ぐ。

 

「そういえば、こないだの帰朝時の再会」

「ああ、うん……」

「アレで、アタシにまた渾名が増えたみたいよ」

 

 再会とは、アスカとシンジが本部棟のエントランス前で抱き合って月面出張からの帰還再会を喜んだ事を指している。アスカはよせばいいのに、また裏サイトでその後の職員の反応を確認してしまった。再会そのものには好意的な反応が寄せられていたが、アスカはそこの書き込みでまた新しい渾名を知ってしまった。

 

「……どんな渾名なの」

 

 シンジが少し不安を交じらせながら訊ねると、アスカは自嘲気味に鼻で笑った。

 

「『女房』よ」

「……女房」

「そう、碇司令の女房。ようやく他人にアンタの女房認定された。愛人だの弐号だのおかんだのではなく、妻になれたんだ。そこまで辿り着けたんだ。もちろん、単なる渾名だけど」

 

 まるで、夫オデュッセウスの帰りを待ちわび、堅く操を守ってきた妻ペネロペのように。アスカはシンジの帰りを健気に待っていた。だからそれを傍らで見ていた皆にも、その渾名が受け入れられたのだろう。

 

「……アスカ」

「でも嬉しかった……バカみたいだけど、それ見て、パソコンの画面の前で泣いちゃったんだ。涙で画面が見えなくなって、家の自室なのを良いことに、わあわあ泣いた。それが渾名だけでなく本当だったらって何度も思ったよ。夫婦ごっことかで前にも痛い目見たのに、アタシ、ちっとも懲りてない」

 

 アスカはシンジと繋ぐ手にぐっと、力を込める。まるでシンジと堅く手を結べば、二人の関係が変わるとでも信じているかのように。

 

「……でもね、アタシとシンジは人前でも抱き合うし、その気になれば、こうして手を繋ぐ事だって出来る。セックスだってしょっちゅうしてる。別にお互いに嫌い合ってるわけでもない。だからアタシ、勘違いしたって良いはずだよ。見果てぬ夢を見たっていいでしょ、ねぇシンジ」

「……アスカ」

 

 シンジの足が止まって、廊下の床を見つめている。

 

「……って、シンジに今言う話でもなかったわよね。やっぱりアタシ、焦りがあるんだろうな」

 

 シンジとの約束の期限まであとたった一年。もう時間がないという焦りは、アスカを大胆にもするし、懊悩させ続ける。シンジは覚えているのだろうか、あの期限を。アスカからは一切リマインドしないから、どうも忘れているようにも思えるのだが……。

 

「僕は……」

「プロポーズの言葉じゃないのなら、今はシンジからの言葉は要らない。謝罪も弁解も必要ない」

 

 アスカはまたギュッと、シンジの手を握る。

 

「今はこの手のぬくもりだけでいい……アタシはそれだけで強くなれるんだ」

 

 シンジはしばらくの間、無言だった。何かを口にしてアスカにむしろ庇われ、大丈夫だよ……などと優しく赦されるのも、さらに余計なことを言って、自分の無神経さが彼女を傷つけたりするのももうイヤだった。

 

「ほら行くよ、シンジ」

「うん……」

 

 手を繋いだままだから、シンジはアスカに引っ張られるように歩き、その情景に既視感を感じている。

 

 シンジはアスカに手を引かれていると、いつも心が安らぐ。妻のような、母のような、姉のような。そんなアスカにリードされていると、心が落ち着く。なぜなら、シンジにとって、アスカは間違いを犯すことがない存在だからだ。アスカは孤独な船のように外洋を彷徨い続けるシンジにとっての灯台と同じだった。アスカはいつも正しい。間違えてばかりなのはいつだってシンジの方だ。アスカはシンジを叱る。叱り続けるがいつも最後には許してくれる。そうだから、シンジはやはりアスカに甘えてしまうのだろう。

 

「シンジ……手を離したらダメだからね」

「え?」

「手を離したら、きっと二人とも迷子になってしまうよ……」

 

 白く立ち込める濃霧の中、お互いの声しか聞こえない。手を離してしまったから、もう二度と巡り会えなくて二人は永劫の孤独の中でさまよい続ける。そんなビジョンが脳裏に浮かぶ。

 

 アスカの目から今にも溢れ出しそうな蒼い瞳の海を見つめながら、シンジは大きな勘違いをしていたことに気付いた。

 

 アスカが一方的にシンジの灯台なのではない。アスカとシンジは、お互いがお互いにとっての灯台なのだ。

 

 でも二人の海はとっくに溢れ出しそうで、視界が早くも滲んでいる。シンジはアスカの蒼い海に溺れてしまいそうだ。

 

 

 エレベーターを駐車場フロアで降りると、二人でアスカの車に向かう。

 

 アスカが運転席に乗り込み、シンジが助手席に。

 

 二人はそこで席の背もたれに背中を預け、ようやく落ち着きを取り戻した。

 

「どうして、クルマに乗るだけのわずかな時間で、泣いてるのよッ」

「アスカだって泣いてるじゃないか……」

「泣いてないッ!」

 

 でもきっと二人は心細かったのだ。二人が手を離したら、永遠にお互いを見失ってしまうかも知れない。そう、思ったら自然に涙が流れ出てきた。

 

 しばらく、二人は車を止めたまま、運転席と助手席の間でひしと抱きしめあっていた。涙が引っ込むまで、二人は互いの体温を必要とした。お互いを見失い、寄る辺なき迷子になって、掛け替えのない互いを喪うかもしれない不安に怯えていた。赤い海の浜辺で二人生きていくなら、死が二人を分かつまで、きっと二人だけで一緒に居られた。でも二人だけではない世界では、お互いを信じることにしか救いがないのだ。だから、二人は抱き締め合い、暖めあう。

 

 五分か十分ほどもそうしていて、ようやく二人は身体を離す気分になった。

 

「……もういいわ、バカシンジ。抱っこしてくれてありがとう」

「うん……アスカもありがとう……優しくしてくれて」

「お互い寂しかったのね、きっと」

 

 アスカは、鼻を擦り、涙をハンカチで拭いた。ついでに同じハンカチの綺麗な側で、シンジの顔の涙も拭いてやる。まるで自分の子供の顔でも拭いてやるかのように。

 

「い、いいよ……顔ぐらい自分で拭けるから」

「いいからじっとしてるの……あんたってさ、実はハンサムなんだってね」

「……いきなり何……?」

「アタシ、ずっとシンジのことを冴えない男の子だと思ってた。冴えないのに好きになったから、この気持ちは尊くて本物なんだと思ってた。シンジのことを強く想い続けたかったから……そういう風に思いたかったんだ」

 

 それは多分、シンジへの愛を肉体的、即物的なものではなく、よりプラトニックで崇高なものにしたいというアスカの願いだったのだろう。

 

「……うん……」

「でも外見も好きだからって、別に中身が─シンジの心を─好きな気持ちを傷付ける訳ではなかったのよね。好きな気持ちの理由が増えるだけなんだ。そしてその理由や好きな所は多い方がもちろん良いんだから」

「あの……ありがとう……」

 

 シンジには自分の外見のことなどよくわからないし、アスカの言っていることもボンヤリとしか分からなかったが、それでも彼女の言葉に照れくさそうに頬を掻いた。どうやら冴えない顔だと言われ続けてきたのは、アスカお得意の照れ隠しなのだろう。それがシンジにとっては一番自然な理解だった。

 

「どういたしまして。だから、これからはシンジは顔も綺麗にしてないとダメだよ。男の子でもね」

 

 ポンポンと優しくシンジの頭をはたいてから、ようやくアスカは身体を離して、ハンドルに向き直る。

 

 シンジが助手席できちんとシートベルトを締めたことを確認して、アスカは車をゆっくりと発進させた。

 

「……しかし、シンちゃんの家って、アタシのうちと方角が反対なのよねえ。送るとき、わりと面倒くさい。どうしてそうなったんだっけね……」

 

 中学や大学の後半では同じ家に住んでいたし、高校でも松代に行くまで、隣の部屋に住んでいた。だからあの頃は学校から帰るときは、いつだって一緒に帰る事が出来た。今はシンジとアスカが出会ってからでは、一番遠くに住んでいる状況だ。

 

「さ、さあ……」

「ああ、そうだ!……シンジとお別れした直後だったから、なるべく遠くに部屋を借りたんだった。えっちの時以外では会いたくなかったから……ね?」

「……あの、やっぱり僕、今日は責められてるのかな」

「まさか。十年以上まえの話じゃない。アタシはシンジを単に弄ってるだけよ」

 

 そう言って、アスカは運転しながら、左手でワシャワシャとシンジの髪をかき回した。

 

「くすぐったいよ……」

 

 シンジの弱々しい抵抗を、運転の為に正面を見据えたままスルーして、微苦笑しながらアスカは続けた。

 

「あの時はあんたのこと、顔も見たくないと思ったりもした。だってシンジは色々と酷いんだもの……でも、やっぱり恋しくて、未練が残って、結局は身体の関係を続けてしまったし、今から思えば、もっと近くに部屋を借りれば良かったなと思ってる」

「うん……酷いよね、僕……」

 

 シンジはアスカの言葉の一部にだけ反応して、暗い声を発する。

 

「まあ、それが碇シンジでしょ。アタシはちゃんと分かってるつもり、承知しているつもりよ。それにあの時、結婚しなくて良かったのかも知れないわよ。今だってお互いに子供のようなアタシたちなんだから、あの時、勢いで結婚してたら、今頃、とっくに別れてるかもしれない」

「……そうなのかな」

「こういう距離感だから、アタシたちそれなりにもっているのかも知れない、そういう事ってあると思う。だってアタシたち、こないだの再会の抱擁でみんながイメージしたような、甘いだけの……世紀の恋人なんかじゃ決してないんだもの。だから、あの時、結婚出来てれば良かっただとか、愛人関係だからもう未来は絶望だとか、そんな単純ではないわよ……要するに、塞翁が馬だよね」

 

 一見、良いことが本当に良いとは限らず、一見、悪いことが本当に悪いとは限らない。禍福はあざなえる縄の如しだ。

 

「そうかも知れないね……」

 

 それでもアスカからそういう話を聞かされると、彼女をずっと悩ませていることについて、シンジは忸怩たる思いに囚われざるを得ない。アスカの言う言葉は、負け惜しみとか、酸っぱいブドウとか、あるいはシンジの罪悪感を軽減するための優しい嘘まじりなのかも知れなかったからだ。

 

「そりゃそうと……なんだかお腹空いちゃったのよね……アタシ、お肉食べたいから、深夜までやってる焼肉屋にでも行かない?」

「ああ、うん、いいね」

「確かその先の道にあったような……知ってるでしょ、あの店よ」

 

 アスカが国道から脇道に車を入れてから、その焼肉店は割合すぐに見つかり、二人は店の駐車場に車を止めて降りた。店に入って五分ほどで周囲も賑やかな中程のテーブルに案内されてメニューを取って確認すると、割とリーズナブルな値段だったので、アスカはシンジに素直に甘えて見ることにした。

 

「ねぇココ、シンジが奢ってよ」

「うん、いいよ」

「やった!一食浮いたわ。ラッキー」

 

 わざとらしいぐらいにハシャぐアスカに、シンジはそれから少し考えて、切り出した。

 

「あのさ……今日だけ奢るとか言わず、僕、別にお金なんて殆ど使わないし、給料の通帳、アスカに預かってもらってもいいよ。好きに使ってもらえれば……」

「あら驚いたわね。十年以上も愛人やってきて、あんたから初めて、お手当の話を聞いたわ」

「……お手当だなんて、そんなつもりじゃ」

 

 アスカを金で囲うような連想をしてしまい、シンジは首を慌てて振った。

 

「冗談よ。シンちゃんはアタシにそれこそ、『女房』の名に相応しい実質を何かあげたいと思っただけなんだよね。お金が……ってよりも、女房に通帳を預けるみたいなことをして信頼を示し、アタシを喜ばせてやりたかった……」

「うんまあ……そういう気持ちなのかな……」

「そんな所だろうとは思ったわよ。アタシが喜んでいる渾名へのプレゼントってわけね」

 

 万事に不器用なシンジが、一生懸命にアスカの為に何かをしようとしてくれる度に、アスカの心が揺れる。揺さぶられる。たとえそんな配慮をしなければならない大元の発端がシンジ自身の独善、自虐、不安、不甲斐なさであっても、シンジの配慮自体には悪意はない。

 

「……シンジ、ありがとう。でも、そんなんじゃダメだよ……」

「え?」

「こんな生き馬の目を抜く冷酷な世界で、そんなんじゃ、あっという間にたちの悪い女に騙されて身ぐるみ剥がされちゃうわよ。あんたみたいな不器用な男が、一生懸命アタシの幸せを考えてくれてるとそれだけで胸が疼く。苦しくて、切なくなる。……でも、そんなにお人好しで明後日の方を向いてたら、生きていける訳ないよ。シンジみたいな鈍くさい男が独りで生きていける筈がない。アタシはもうあんたを手放せない。目が離せないし、ハラハラするし、ほっとけない……」

 

 アスカはそういって、あの浜辺でのようにシンジの頬にそっと白い手を当てた。

 

 そこで店員が注文を取りに来たので、話を一旦止めて、上カルビ、上ロース、上ハラミ、上ミノ、上タン塩……と、とりあえずメニューから、上のつく肉をずらっと頼んでみる。そして二人分のライス。

 

 程なく肉が運ばれてきたので、アスカはシンジと分担して、それを金網の上にトングでドンドン並べていく。

 

「別にアスカ以外に通帳を預けたりするわけじゃ……」

「どうせアタシを棄てて、別れたら、他の女にきっとそうするわよ」

 

 ジト目でシンジを睨み付けて、アスカは断言する。その間に、トングで片面が焼けた肉をひっくり返している。

 

「そんな」

「だからあんたは悪い女に騙される前に、とっととアタシを嫁にすりゃいいのよ、アタシはあんたの地位にも財産にも関心ないんだから。だって、そんなものをあんたが手に入れる前から、……そんなもの、ガキのあんたが到底手に入れる筈がないと思っていた頃から、アタシはあんたと一緒に居るんだから、……ね?」

 

 意外にも積極的に、二人の間では極めてセンシティブな結婚の要求を突きつけられたのは、アスカが今は、渾名の件で内心自信を持てたからだろうか。

 

「まあ……僕らは確かに長いけど……」

「単に長いわけじゃないわよ。アタシの想いは海よりも深いの……って、そろそろ焼けてるわね」

 

 アスカはトングでひょいひょいと両面が焼けた肉を掴むと、シンジの取り皿に次々に入れていく。

 

「たんとお食べ。シンジはやせっぽちだから精を付けないと」

「うん」

「それで、うんと精をつけたら、帰りにホテルで仲良し(セックス)しようよ。ね?」

「えーっと……それは……」

 

 これまでもそうだったが、仲良しという婉曲表現でとはいえ、アスカに明け透けにセックスの話とかをされるとシンジはたじろいでしまう。一方、アスカにしてみれば、セックスについてはシンジとの間でしかしない行為である以上、彼としか語り得ず、シンジが話をはぐらかしたり、逃げ腰になったりすると、相談相手がいなくて困る類のものだった。

 

「アイには少し遅くなると連絡すればいい。シンジがシたいならホテルに行くよ。そろそろ溜まってるんじゃない?」

「い、いや……そういうのは」

「別に今さら恥ずかしがることないじゃない。男の子なんだから定期的に処理しないとキツいよね。シンジは自分ではしないって決めてるんだから尚更、定期的にアタシがしてあげないと……ね?」

 

 アスカはそう言って、シンジの鼻を指でつついた。

 

「……恥ずかしがってるんじゃないよ。アスカをそういう目的のために、無理させたくないんだ。僕の欲望だけなら僕が我慢すればいい。僕のためにアスカを我慢させたくはない」

「別に無理も我慢もしないわよ、アタシはアタシで楽しむんだから。こちらは毎回そうしてるわよ」

「……正直言うと、男が女の人を抱くのは何だか汚してるって感じがしていつもどこか後ろめたいんだ……」

 

 シンジの感じている己の身体性への忌避感は、男ならうっすら深刻にならない程度には皆が抱いているものだろう。自分たちの性が、女性に対してその貞操を汚す侵襲性を持つことに対する後ろめたさ、それはどこか射精後の不応期に感じる後ろめたさにも似ている。

 

「うわっ、それを今更言うの。アホクサ」

 

 シンジからすれば、半ば流されてる感じなのかも知れないが、それでもアタシと何千回も寝ておいて本当に今さらだ、とアスカは呆れる。

 

 アスカはそこで一旦言葉を打ち切り、トングで自分の皿にも焼けた肉を入れていく。肉にタレを付けて、白飯の上に乗せた後、口に運んでいく。甘辛いタレで味付けされた上質の肉の味に、アスカは多幸感を感じる。

 

「うーん、美味しいっ。ほら、シンジも遠慮せずに食べなさい。あんたが払うんでしょ!」

「うん……」

 

 シンジもアスカが、皿に取ってくれた肉に手を付け始め、

 

「……確かに美味しいね。このお店、相変わらずいい肉使ってるね」

 

 と評する。しばらく黙々と肉を口に運んでいた二人だが、アスカはそのうち、箸の動きを止めて、しんみりと言った。

 

「あのね、シンジ。……アタシたちはもう、身体だけ繋がっても、その逆に、いくら言葉で気持ちを伝えてあっても、結ばれない。他に何が足りないのか、少なくともアタシにはもう……分からない」

「アスカ」

「でもそれだったら……仲良し(セックス)を増やそうよ。身体でうんと仲良くなろうよ。回数だけでも、昔のアタシたちや夫婦並にしたら……もしかしたら、何かが変わるかも知れない」

 

 十九年に亘り、何千回と寝ているのに、何も変わらなかった二人の関係なのに、アスカはそんな儚い試みに希望を繋いでしまう。一年後に迫る別れの期限に、破れかぶれのような、何の根拠もない試みをシンジに対して迫ってしまう。

 

「でもこれまでだって、結構沢山してきたし……」

「だから週一回なんかじゃもうダメなんだ。もっと頻繁に一緒に寝ようよ。ベッドを共にしようよ。アタシからも、シンジからも、相手を求め続けようよ。……シンジは例の問題があるから、特にアタシから抱かれるのを恥ずかしがるけど、もうそんなのどうでも良いじゃないか。二人しか知らない密室で、アタシしか知らないシンジの恥ずかしい事なんて気にしてもしょうがないよ。アタシがその事でアンタをバカにした?してないでしょ?アタシはシンジを尊敬してるし、自分の仕出かした不始末で、アタシがシンジに酷いことをしたことを忘れてない。だから、その影響が残ったって、シンジがそれで男としてダメだとか絶対に思わない。だから、素直に抱かれてよ。別に典型的な男らしさなんかなくていい、シンジらしければいいんだよ。アタシのシンジで……いつも優しいシンジで─居てくれさえすればいい。本当にそれだけなんだ……」

 

 焼肉店の喧噪の中でなければ、きっとその話の内容は周囲の好奇の耳目を集めてしまっていただろう。でも、アスカにとっては本当に他人のことなどはどうでも良いのだった。アスカにとってはシンジと自分自身のことだけがただただ重要だった。

 

「わかった、ぜんぶアスカの言うとおりにする……」

 

 アスカの勢いに気圧されるように、シンジは頷いた。

 

 シンジが素直に同意してくれたのに、アスカはその従順なだけの態度が少しかんに障る。身体の関係でシンジが受け身なことは全く気にならない。でも精神的に受け身で、シンジが主体的に問題を解決しようとしていないのには少し失望する。でも、今は一々そんな事を怒っている場面でもないとも思う。ひとまずは一歩前進と受け止めよう。

 

「うん、お互い……特にシンジの身体の負担も増えるだろうけど。でも仲良し(セックス)は二人の、二人だけの共同作業だものね……今日も早速この後シて……これから今まで以上に沢山しよう、頑張ろうよ……ね? アタシも毎晩みたいにするのなら、アイのことも有るし、いつも日付が変わる度にバタバタと帰り支度する、エッチなシンデレラみたいになるかも知れないけど、それでも頑張るからさ……」

 

 アスカはそう言って、シンジの腕にそっと白い手のひらを重ねるのだった。

 

 

 山岸マユミは近年、各方面で引く手あまたの存在となった、いわゆるデータサイエンティストだ。情報工学の博士号を持つ才媛で、まだシンジたちと同い年だったが、ご多分に漏れず、彼女も多くの企業や研究機関から引き抜きの打診を受ける。

 

 しかし、マユミにとって今関心があるものは一つだけだった。

 

 第七世代マギタイプ・スーパーコンピュータ、マギ・セブン。

 

 それは初代マギ同様、3つのコンピューターが組み合わせられて、一つのシステムとなっていた。3つのコンピューター─「ラルヴァンダード」、「ホルミスダス」、「グシュナサフ」は、初代マギのようにアルゴリズムによって作り分けられているわけではなく、量子の重ね合わせやもつれを利用した量子コンピュータ、数百種類の異なる構造の分子を計算に利用する分子コンピュータ、神経細胞であるニューロンや神経回路網を再現したニューロコンピュータという最新鋭の異なる3つのハードウェアによって作り分けられていた。それは即ち、物理と化学と生物、三つの自然科学の力を借りるコンピューティングシステムと言える。

 

 この最新の独創的なシステムに魅せられたマユミは、給与や待遇面で遥かに好条件の他を袖にして、新生ネルフに来た。どんなに薄給であっても……マギ・セブン、通称マギナナは他にはないのだ。

 

 マユミは、司令の碇シンジ初め、これを単なるマギとしか呼ばない風潮に眉を顰める。マギナナは従来タイプの単なるマギとは全く異なる新しいスーパーコンピューターだ。

 

 マユミは、今日も、十面ほどモニターを並べ立てて手狭になった自分専用の研究室で、マギナナを使った新たな試みにチャレンジする。先週、碇司令が月面タブハベースへの出張から帰朝し、何か一騒動あったようだ。そういう日のデータを解析してみるのも面白いかも知れない。

 

 マユミは該当日の所内の人流データをマギナナの解析に掛けてみる。所員全員に常時の携行を義務づけられたIDカードにはGPSチップが埋め込まれており、それによりネルフ職員の所内での一切の動きはビッグデータ化されている。その人流データからは様々な事が分かる。毎日のようにサボってトイレにばかり行っている所員。一定の時間になると、必ず長時間の休憩を挟む所員。特定の所員同士の頻繁な接触から両者の親密な関係が明らかになることもある。そういえば、碇司令も所内の誰かと付き合っているのではなかったか。そんな事を考えながら、データの分析を開始させると、果たしてマギナナは、すぐに興味深い異常値を吐き出した。

 

「どうしたの、ナナ……」

 

 そして、画面に表示されたデータを見て、マユミもすぐに関心を示した。 

 

 マギナナの人工知能は人間なら見逃すかも知れない違和感や異常値を高精度で検出することが出来る。

 

 例えば、網膜認証の際に普通の人間なら示す僅かな躊躇の挙動、所内で他の人間とすれ違う時の動線などだ。もし、網膜認証の時に僅かの躊躇いも見せず、他人と行きあう時に移動に一切の不安定さを表さない者がいるとしたら異常である。そして、もう一つ、その日一日中所内に居て、一度も飲食をする挙動がなく、かつまた、トイレに立ったことがない人間もまた─。

 

「これは、碇司令に報告しなくちゃ……」

 

 マユミはそう呟いて、解析データの整理とレポート作成に取りかかった。

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