マリイ・ビンセンスは、隣室の同僚、山岸マユミの研究室をノックした。もう夜の十時半だ。
「そろそろ帰りませんの、マユミ」
「今、手が放せないんです。どうぞ入って」
マユミが入室を促したので、マリイは遠慮なく鍵のかかっていないドアを開いて研究室に入る。所狭しとモニターを並べた室内に、マリイはいつものように眉を顰め、カチューシャで前髪を止めた金髪の先をふわさっ……とかき上げる。
「この部屋、本当に優雅ではありませんわね。手狭で……」
そう言って室内を見回したマリイ・ビンセンスはマユミと同い歳の同僚で、マギ・セブンが完成した五年前に、新生ネルフ中国支部から異動してきたコンピューター・サイエンティストだった。同時期にマユミが採用されて以来の友人にして同僚だった。
「一体何を調べているんですの、こんな時間に」
メガネをモニターにくっつけんばかりにデータを睨み付けていたマユミが、その質問にすぐに答えず、
「やっぱり間違いないわよね……」
と一人で頷いた。それから座っていた回転椅子をマリイの方にくるりと回して、彼女に向き合ってから、タブレットを差し出して言った。
「このレポートを読んでくれます?……マリイさん」
「これは……」
「ナナに書かせたんです。私の推論を私の文体で」
「いつものマギナナによるAI文体模写ですのね。でもあなたがこの自作の人工知能アプリを使わずに、文章を書いたのって前はいつですの?」
「さあ……たぶんナナに触れるようになってからは無いと思います」
マユミは首を傾げながら答える。
「ということは既にこのレポートは、あなたの文体の模写ではなく、あなたの文体の模写の模写になっているわけですわね。模写を重ねていくとき、あなたの文体というのはもはやどこかに存在しているのかしら?」
「マリイさん、相変わらず哲学的な問いが好きですね」
「わたくしはいつも結構大切な問いかけをしているつもりですのよ、まあいいですわ……拝読いたします」
オリジナルとコピーの境はいつだって曖昧だ。完全なるコピーというものがもし存在するなら、それは論理的帰結として、オリジナルと同じだ。区別が付かないのだから、どちらかがオリジナルでどちらかがコピーという概念は消滅する。そしてこの文体模写のようにオリジナルが存在しなくなった後のコピーは、あるいはオリジナルと言えるのではなかろうか。コピーでも、オリジナルが無ければ、オリジナルにとって代われるのだろうか。マリイはそんな事をつい考えてしまう。
それはさておき、立ったまま、タブレットに表示されたレポートを読み進めるうちにマリイの顔がみるみる曇っていく。
「……これはネルフに、不法な侵入者が入り込んでいたというレポートですわね」
それも尋常な侵入者ではない。リアルタイムの発見であれば、今すぐ司令を呼び出しても良いぐらいだが……。
だが、二人は科学者であって、作戦部員でも当直士官でもなく、司令への直通電話も知らなかった。調べればすぐ分かったかもしれないが、二人はけっきょく明日の朝一番での説明という方針を変更はしなかった。軍人と科学者の危機感や感覚の差かも知れなかった。
「もっと直接的に言えば、マリイさんの好きな……スパイという奴だと思います……」
「人聞きの悪い言い方をしないで下さいます?……わたくしが好きなのは、ジョン・ル・カレやブライアン・フリーマントルのスパイ小説の世界ですわ。ジョージ・スマイリーやチャーリー・マフィンが好きだというのは、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンが好きだというのと何も変わりありません。本物のスパイや間諜行為が好きだなどと大層誤解を招くようなことを言わないでくださいまし」
「ご、ごめんなさい」
マユミはマリイが中国支部から異動してきたことで政治的に微妙な立場にあるのに気づいていた。人類は使徒という共通の敵を前にしても、互いに国家利益や東西陣営という立場に拘り、猜疑を捨て去ることが出来ていない。マリイがスパイが好きだというのは他愛のない小説趣味の話だが、悪意を以て捉える人間がいては確かに困る。
「で……これをどうするんですの」
「も、もちろん、明日の朝一番で、碇司令に報告します」
「それを報告する前にわたくしに見せたんですの?……もしもわたくしがスパイなら、あなた、殺されてしまっている所ですわよ」
碇司令にスパイの存在を報告する。そんなレポートを報告前に不用意に見せられれば、スパイにどうぞ私を殺してくださいと言っているようなものではないか。
マリイは、マユミの警戒心の無さ、無防備っぷりに呆れ果てた。
「別にマリイさんになら、殺されてもいいです」
「……バカバカしい事を言わないで欲しいですわ」
「本当の本当に本当です」
「あなたが殺されてもいいと思えるほど信頼できる相手なら、そもそもあなたを殺したりはしませんわ」
山岸マユミは昔から男性が苦手で、採用の際、女性の上司や同僚を切望したという経緯があった。普通ならそもそもネルフ全体での女性研究職員の数の少なさもあり、容れ難い要求だったが、マユミの科学者としての優秀さもあり、シンジはその要望を請け合った。上司は半ば形式的ではあるが、技術部長の真希波・マリ・イラストリアス三佐。そしてほぼ唯一の同僚がこのマリイ・ビンセンスだった。
マユミはマリイ・ビンセンスと同い年だがよく彼女に懐いていた。敬語を崩さず、一定の距離感を保ったままだったが、時としてキツい言動や高飛車な態度を見せる天才肌のマリイを信頼している。
前髪を綺麗に切り揃えた市松人形のような黒髪を腰の上辺りまで伸ばした、眼鏡の才媛、山岸マユミ。左下の口元に黒子があるのが特徴的だ。
マリイは自慢の金髪を髪留めで押さえているが、髪の長さはマユミと同じくらいで、小柄な二人が並ぶと金の西洋人形と黒の東洋人形といった、好対照な印象を受けるのだった。
「それで、この事を碇司令に報告する準備に遅くまで残っているのですの?報告先の碇司令はとっくに退所してしまっていますのに」
明日の朝一番と言ったって、これではアポも取れやしない。
マリイは先ほど、全ネルフ職員の入退所ログをマギに吐き出させ、手元の個人用端末に転送していた。マユミに本部棟には当直を除いて、もう誰も残っていないですわよ、研究室棟にもわたくしたちだけですわよ、と帰宅を促す為のものだった。
21:36:13 MAJOR ASUKA LANGLEY SORYU
21:36:21 MAJOR GENERAL SHINJI IKARI
ログ上では、ほぼ、同時刻……一時間ほど前に惣流三佐と、碇司令が退所していた。状況から言って、二人連れ立って退所したと見るべきだろう。
マリイは、普段化粧っ気のないマユミが、碇司令に会うときにだけ、口紅を引くのを知っていた。むろん、いくら所内事情に疎いマユミでも、碇司令が全くのフリーだとは思っていないだろう。艶福家とまでは言わないが、未だ独身の司令官碇シンジに想いを寄せる女性は多い。その中でも最も噂に上るのが、先日も司令の月面出張からの帰還を熱烈な抱擁で出迎えた作戦部長の惣流・アスカ・ラングレー三佐だった。二人はマリイが聞くところによると、中学生……エヴァンゲリオンのパイロット時代からの付き合いらしい。
しかし、マユミはシンジの交際相手が誰なのか未だ知らないのかもしれなかった。どうもマリイが観察してきたマユミの言動からは、特定の女子を碇司令の相手として意識する様子が見られなかったからだ。そしてマギで調べればすぐ分かる─少なくとも誰と誰が頻繁かつ濃厚に業務外で接触するのか、そうした分析ならマギはお手のものの筈だったから、そのことを敢えて調べないのならば、その理由もマユミの中にはちゃんとあるはずだった。
少なくとも、マリイは、何となく、もうこのログはマユミに見せない方がいいような気がして、端末をそっとしまった。
「あと十分したら帰りますわよ。わたくし、夜道を女独りで宿舎まで帰るのはぞっとしませんの。よろしいわね?」
マリイの言葉におざなりに頷くと、マユミは気もそぞろに再びモニターに視線を戻した。明日の朝、碇シンジに説明するに当たって一つのデータも見逃すまいとでも言うように、マユミは画面を凝視している。
「老婆心ですが、明日の碇司令への説明にはわたくしも立ち会いますわ、いいですわね、マユミ?」
「は、はい。それはもう心強いです……」
モニターから注意を引き戻されて、マユミは憑き物が落ちたような顔をしている。
「それと今後は、スパイ捜査の真似事は保安部に引き継いで、万一何かを見つけても、必ず司令に直接報告するようになさい。それもなるべく早くに。わたくしたちは単なる科学者ですのよ?探偵でもスパイでもないのですから」
「わ、わかりました」
「わたくしに相談したりもダメですわよ。スパイは誰かは分からないのですから」
「それはイヤです。私はマリイさんを信じていますから」
「……ですから、スパイの可能性は全ての人間に……」
「大丈夫です。スパイ小説好きのスパイなんて、きっと居ませんよ」
マユミはにっこりと微笑んだ。マリイは意外と頑固な同僚の笑顔にやれやれと肩をすくめるのだった。
◆
携帯の検索でようやく見つけたラブホテルには駐車場がないらしく、アスカは猥雑な夜の街のコインパーキングに車を止めた後、ホテルまでの徒歩行を強いられた。もちろん、隣にはシンジがいて、指先だけでちょん……と手を繋いでいる。
「……あのそういえば、アスカはラブホテルは……イヤじゃなかったの?」
「そりゃ今だってイヤよ……」
とアスカは顔をしかめる。ラブホテルはアスカにあの哀しいシンジとの別れの一夜を思い出させるから。シンジと身体だけの関係になるための夜の儀式を行ったのがラブホテルだった。だから以後は、シンジとの逢瀬の際もラブホテルを利用したことは一度もない。ラブホテルは、男女が身体と身体を繋げるためだけの殺伐とした空間という気がする。
「でも……これからはあんたとの
「それに?」
「いつものホテルにはそんなには行けないよ。突然、アタシたちがエッチになったみたいじゃないの。そんなの恥ずかしいよ……」
確かに今、行きつけの高級ホテルでは碇夫妻として知られる二人は、ホテルの従業員たちに顔を知られていた。二人が本物の夫婦ではなく、訳ありだということはもちろん承知で、彼らはそれをおくびにも出さない。だが、顔見知りは顔見知りだ。名前を偽ってさえいないシンジの正体などは知られているかも知れない。
アスカは頬を染めて、珍しく、いつもは強気の顔を伏せて俯いた。それもそうだろう。アスカは女性なのだ。そして性格はかなり乙女だった。なるべく自分の行う秘め事を第三者に知られたくはないのだろう。二人はその日に突然寝たくなる事もままあったから、コンドームは二人ともそれぞれに買って随時携行するようにしているが、アスカはその避妊具購入も恥ずかしいのだと言う。
「……だって、アレって、シンジの……に付けるものじゃない。そういうものをアタシが買うのってすごく恥ずかしい。『シンジのサイズ』を選んで、薄さとか、いつものブランドとかを選ぶ。そんな事してたら、どうしても、それを付けるものを想像しちゃうよ。シンジの一部を……。だって何十回も、何百回も見てるんだから。いくら見ても、いつまでも恥ずかしいんだから。ゴムってなんだか、生々し過ぎるんだよ。シンジのアレに、買って来たゴムを付けてあげて、それでこれから
「……なんだか、そう聞くと僕も恥ずかしくなってきたよ。というか、これからはもう自分で付けるから……アスカは見なくていいから」
「それはダメだよ。恥ずかしくても……アタシが付けるの。愉しみではあるんだから……女だって……好きな人のは……ちょっとだけど……見たいよ。これからコレで自分がどうされるのかって色々と想像してみたいよ。ね、だからこれまで通り、いいでしょ?」
アスカの顔はもう真っ赤だった。二人の男女としての仲は随分と長いが、アスカはアスカなりに乙女としての節度を保って、シンジと接してきた積もりであり、そんなに下半身の熱情に話題が流れた記憶はなかった。このあたり、恐らくラブホテルに向かう所で、アスカにも気持ちの高ぶりがあるのだろう。
「アスカ……」
そんな風に話しながら、歩いていると、やがて目当てのホテルの前にたどり着いた。派手なネオンの蛍光が淫靡な雰囲気を醸し出している。
普通のホテルと違い、「御休憩」「御宿泊」の二種類の料金が、入り口のプレートに表示されている。ホテルなのに宿泊を必ずしも要しないというのは、つまりはここの目的がそういうものだからだ、とアスカは言うまでもない事実を改めて認識する。
アイが居るから、日付が変わる頃には帰らないといけない。毎晩のように泊まる訳にはいかない。そうしたら、アスカとシンジが「仲良し」を重ねる為には、やっぱりこういうホテルが必要なのだ。こういうホテルで「御休憩」をするしかないのだ。チャーミング王子と結ばれる為には、毎夜、アスカは淫らなシンデレラを演じるほかない。
(これから、ここで、セックスをするためだけのホテルで……シンジとスるんだ)
アスカはごくりと唾を呑み込んだ。とくんとくんと胸の中で心臓が跳ねる音が聞こえる。
「あのね、シンジ。中に入ったら、アタシからしてあげてもいいけど、中に入るまでは、シンジがリードして欲しい」
たぶん、中に入ればそうなる可能性が高いだろう。シンジにはアスカをうまく抱けない事が多いのだから。だからアスカと交わった後も、割合にシンジは落ち込んでしまう。アスカが肌を艶々とさせ機嫌よくしているのに、シンジの気分が上がらないのはそういう時だった。そんな時、アスカは身体を繋げた後の気安さからシンジを小突いたり、軽く耳元で愛を囁いてやったりして、元気づけてやったものだ。だから、シンジがアスカをリード出来るとしたら、事後ではなく事前にならざるを得ない。
「うん……」
「シンジに連れて行って欲しいんだ、新しいアタシたちの関係に」
そこで二人は一つになり溶け合う。そうすることで何かが変わるとアスカは信じたいのだ。
◆
「うわぁ、このベッド回るんだ……話には聞いたけど、初めて見たわ」
ホテルの部屋に入るなり、アスカは設備を見回し、目を剥いた。
前に一度だけシンジと来たラブホテルにはこんな凝った設備はなかったと記憶している。
アスカは奇妙にはしゃいだテンションで高い声を上げた。寝室の次はバスルームの曇りガラスの扉を開け、
「バスルームにはジャグジーがあるよ、シンジ。一緒に入ろっか」
と水を向けるも、シンジはベッドに腰掛けて、下を向いている。
「どしたの、シンジ……元気ないわね」
「あんまり明るくなれない僕のために、アスカが一生懸命に盛り上げようとしてくれてるの分かるし、嬉しいよ。でも……」
シンジはこれは違う、とばかりに首を振った。
「僕、ベッドとかお風呂とかどうでもいいんだ。アスカに関係ないことには興味が持てない。ここでセックスはするけど、アスカと関係ないことはどうでもいい」
「シンジ……」
「アスカのことで頭をいっぱいにしたい。これからホテルに来るときはいつもそういう気持ちでいたい。そうでないのなら、こんな事してもアスカを傷つけるばかりなんだ」
「アタシのことで頭をいっぱい、ね」
アスカは口元が自然に緩んでしまうのを感じる。
「うん、変かな……」
「変じゃないよ、アタシだって、シンジのことで頭がいっぱいなんだもの。そうだよね、お風呂や回転ベッドとかどうでもいいよね。大事なのは相手の事だけなんだ」
アスカはベッドの上、シンジの横に腰掛けた。
「アタシのこと、愛してね」
「うん」
「一つになって、楽しもうね」
「そうだね……」
「アタシ、シンジと別の性別に生まれてよかったよ。その事だけは神様に感謝している」
アスカはそっと、シンジを押し倒す。運命が男女に生まれた二人を結び合わせる。だけど、それは二人にとって、ベッドの上で、伝統的な男女の役割に拘泥することを意味しなかった。
◆
ラブホテルの出入口に向かって、入るときとは反対に、アスカがシンジの手を引いている。シンジは少し疲れているようだった。二人の営みが、その努力にも関わらずシンジにとっての受け身という結果に終始した場合、その後のシンジは何処か、面白くないような、ふて腐れたような、自棄になったような、アスカに申し訳無いような、情けないような、それでいて、アスカにどこか甘えたがるような、複雑な態度を見せる。毎度のことなので、アスカも心得たもので、そんなシンジにはさりげなく気遣いながら、優しく接するのが常だった。
「少し疲れた?」
「うん……」
シンジは少しボンヤリとした表情で、アスカに手を引かれながら、よろよろと歩いていた。
「こういう所、殆ど初めてだったから、少し緊張したわよね。まだドキドキしてるわ……」
十年近く前に、ラブホテルに行った時、アスカの気分は最悪だったし、夜の記憶としても最低のものだった。同じ相手とこうしてまたラブホテルに来ているのに、今日の気分はむしろ爽快だったし、セックスも上々だった。性愛に関連するメンタルの影響の大きさをアスカは思わずには居られない。
そして、アスカは自分の緊張を語ることで、婉曲的に自分の思い通りにアスカとの交わりが進められなかったシンジのことを慰めているつもりだ。
誰だって、初めては緊張するわよ、だからそんなに気にしないで、と。
「……今晩はアスカとたぶん仕切り直しみたいなものだから、最初ぐらいは……男らしくしようと思ったんだ……なのに」
それはたぶん、その気負いが却って良くなかったのね。とアスカは心の中で思ったが、もちろん、口には出さなかった。
「可愛かったわよ」
「……でも」
「よく頑張ったね、シンジ」
アスカは別に無理をしてシンジを慰めてる訳ではなかった。アスカは今晩の交わりに全く不満が無かったからだ。自信に繋げられなくて、アスカにリードされることで男の自尊心を傷つけられているシンジは可哀想だと思うけど、アスカにとっては普通以上に素晴らしい夜の交わりだった。充分に欲求は満たされていた。
「……シンちゃんはいつも色々と頑張ってるよ。別に
「アスカ……」
シンジはアスカが慰めてくれると、つい流されるように甘えてしまう。でも、アスカに褒めてもらうために、寝食を削ってたゆまぬ努力を続けているのも事実だった。
ホテルの出入口付近に差し掛かると、通りを歩く女性二人の声が聞こえた。シンジは躊躇して足を止める。
「あの……アスカ、誰か通るから少しやり過ごそうよ」
「ハァ?別にタイミング悪くそうそう知り合いが通りかかる訳でもないでしょ。んなもん、さっと出てしまえばいいのよ、グズグズしてる方が変だし」
「で、でも……」
シンジとしては聞こえてくる声に何となく聞き覚えがあるようでもあり、慎重に様子を窺った方がいいと思ったが、アスカが強引に手を引っ張る。
「そんなに恥ずかしがらないの、みんなやっている事なのよ、バカシンジ。それとも、アタシとすることしたのが恥ずかしいとでも?……ほら、とっとと来る!」
勢いよく通りに足を踏み出したアスカはその勢いのままに、手を引く性的パートナーの身体をホテル側から街路に引きずり出す。踏ん張ろうとしていたシンジは、反動で道端を歩いていた女性にぶつかりそうになってしまう。慌てて回避してシンジは頭を下げた。
「す、すみません」
「いえ、こちらこそ……い、碇司令!?」
下げた頭を上げたシンジの顔を見るなり、ぶつかりそうになった眼鏡の女性から驚きの声が発せられた。その後ろにいるヘアバンドをした金髪の女性も、冷静さを保ちながら、ラブホテルの出入口で出くわしてしまった知り合いを驚きを以て観察している。女二人の帰路の途中で、なるべく猥雑な、人通りのある道を選んだのだが、その結果、こんな場面に遭うとは……
「……これはとんだ場面に出くわしてしまったものですわね。ごきげんよう、碇司令」
マユミの手前、マリイはアスカの名前は挙げず、挨拶も省いた。
「山岸博士、ビンセンス博士……」
シンジが二人に殊更に名字に学位を付けて呼ぶのは普段からだったが、それはある種の距離感の反映だった。彼らは軍人や事務官ではないので、シンジにとってはどうしても部下というより、助言をもらう研究者の先生という感覚が付きまとう。そしてこの場面においては、その距離感、隔意こそが相応しいと思えた。
やりとりを眺めて、アスカも二人がネルフの職員であることに気付き、流石に気まずい顔をした。
「こ、これはその……レストランと間違えて入ってしまっただけで」
悪手としか思えない稚拙な言い訳をした後、アスカはシンジと手を繋いだままであることを思い出し、パッと手を離し、そっぽを向く。何から何まで間違いだらけの対応だった。
「……碇司令もこういう所に来られるんですね」
マユミはこんな時にも冷静に声が出せるのだと自分でも驚いた。
「ずっと心に一人だけの相手がいらっしゃったのではないんですか」
シンジが現在交際している女性がいるとは風の噂では聞いていた。しかし、マユミは耳に入れたくない情報としてそれを知らない振りをして、排除してきた。シンジだって健康な男性だ。前にシンジ自身に聞いた……手酷く傷付けた生涯唯一の女性を想い続けると言っても、きっと限界があるのだろう。でも、山岸マユミはこんな場面は見たくはなかった。勝手にシンジの叶わない恋に思い入れをしてきただけだったが、こんな知り方で、シンジの新しい恋、というより、肉欲を知りたくは無かったのだ。
「……山岸さん」
「さようなら」
シンジのさん付けの呼び方が、今は耐えられなくて、マユミは夜の街路を駆け出していた。
「失礼しますわ、碇司令……惣流部長。司令には明日朝一番で、至急にご報告に入れたい案件がございますのでまた明日。ではごきげんよう」
それだけ告げると、慌てて、マリイがその後を追いかける。