マユミは夜の繁華街を走ってシンジから逃げる。なぜ逃げ出さなければならないのかは自分でもよく分からなかった。
「マユミ、待ちなさいっ」
マリイは最近の自分の運動不足を感じながら、それでもマユミを追いかける足を止めはしない。止めてしまったら、友情はきっと終わる。そんな事は出来ない。
「あなた、何か間違った事をしたんですの?碇司令が正しいから逃げ出すのなら分かりますわッ。でもそうじゃないのなら……あなたが間違っていないのなら、あなたが逃げ出すのはおかしい……!」
マリイにはマユミの気持ちは分かる。恋愛以前のぼんやりした慕情、マユミはきっとそれをシンジに抱いていた。だからショックを受けるのは当然の場面だった。マユミの気持ちがもっとハッキリしたもので、シンジの女性関係をあらかじめ確認していたら、あるいはアスカとラブホテルから出て来る場面に遭遇しても、もっと素直に現実を受け止められたかも知れない。現実に引導を渡されて、静かに引き下がれたに違いなかった。
男性が苦手なマユミだが、別に同性愛者ではないのだろう。その心の奥底では、男性に愛されたい、愛したいという気持ちが人並みにあるのだろう。それが向かった先が、このような結末だとは、あまりにも寂しく、つらい現実だった。
「マリイさん……」
マユミが足を止めて立ち止まる。それで、マリイはようやく彼女に追いつく事が出来た。
「マユミ……」
「私はね、さっきの場面で逃げ出したから勘違いされたかも知れないけど、別に碇司令を好きな訳じゃないんです。ただ……碇司令が好きな人は別にいるって、そう聞いてたから……だからショックだっただけ。男の人は、やっぱりそういうものなんだと、改めて現実に絶望しただけです」
マユミは暗い顔をして、マリイに向き直った。
「碇司令と、なにがあったんですの?」
「……少し長い話になります」
「それを聞くのが、親友の仕事ですわよ」
「マリイさん」
マユミは顔を上げると、家路への歩みをのろのろと再開しながら、ゆっくりと話し始めた。
◆
山岸マユミはその優等生然とした外見とは相違して、その前歴は順風満帆ではなかった。
きっかけは高校生の時だった。政府の官僚を父に持ち、サードインパクト後も経済的に不自由はなく、かなり偏差値の高い共学の進学校に通っていたマユミには想いを寄せる男子がいた。女性には優しく、明るく少し剽軽で、成績はイマイチだったけどスポーツマンで、学校行事で見せる活発なリーダーシップという、自分には一つも当てはまりそうもない要素に、マユミは惹かれていた。
マユミは別にその想いを告げる積もりは全くなかった。自分が容姿に優れていない事は分かっていたし、男子たちがまずは容姿で女子を判断すること、だから自分は永遠に圏外で、異性と親密な関係を結ぶ事などは今後も一切ないように思われたからだ。むしろ、同じステージには上がりたくなかった。比較をされたくもないし、上がった結果、選外だと告げられるのも恐ろしかった。選外より圏外の方がマシだった。それなら、そういうこと─恋愛沙汰には端から興味がないのだ、と自分自身に強弁することも出来る。
でも、お節介はどこにでも居るもので、誰かがマユミの想いに気付いてしまい、その想いを彼に告げたらしかった。山岸マユミの想いは勝手に望んでもいないステージに引き上げられ、勝手に審査され、そして予想通りに拒絶された。
その会話に気付いて、マユミが足を踏み入れることの出来なくなった放課後の教室の入り口で、「誰があんな眼鏡ブス」というあの男子の言葉を聞いただけで、誰の事が言われているのかすぐに分かった。「……ほんと、勘弁してくれよ」確かに好きになったのは私の勝手だ。でも、そんな事を言う人間だと知っていたら、絶対に好きにはならなかった。勘弁して欲しいのはこっちだ。あなたに人に好きになってもらう資格なんかないじゃないか。そう叫びたかった。もちろん、マユミにはそんな事を叫べない。そんな事を叫べる性格なら、容姿が劣っていても、きっと男に引け目など感じずに付き合えた。劣等感と叶うはずのない想いを抱えて生きていくつらさなどと無縁で居られた。
「だよねぇ」……そう、勝手にマユミの想いを俎上に上げたらしい女子が言った。たぶんその女子自身がその男子の事を好きだった。だよねぇという男への言葉に迎合と媚びと安堵の響きを聞き取って、マユミは愕然とした。お節介でさえなかったのだ。人間はここまで利己的になれるんだ、とショックだった。親友でもなんでもなかったけど普通に話が出来る友達の筈だった。だから、彼女はマユミの視線や態度から秘められた想いに気付けたのだろう。どうせマユミの想いなど叶うはずがないのだから、見逃してくれれば良かった。あなたの方が遥かに可愛いのだから─叶わぬ想いを抱えたまま、黙って卒業していくマユミを憐れんでそっとしておいて呉れれば良いだけだったのに。だのに、彼女は自分が安心するために、自分の僅かな不安を消し去るためだけに、マユミを─マユミの想いを生け贄に差し出したのだ。
マユミは女子だから、普通に男子のことが好きだった。自分には無いものを持っていそうで好きになった。でも、こんな風に自分を傷付ける存在なら、もう男など好きにはなれない。こんなものが人間だというのなら、みんな死んでしまえばいいのにとさえ思った。
翌日からマユミは学校に通わなくなった。イジメを心配した両親や担任に何度も原因を探索された。だけど、私はもう恥を掻きたくない、だから理由は説明出来なかった。自分が「眼鏡ブス」なのだと説明することになどマユミの自尊心が耐えられる筈がなかった。「勘弁してくれよ」と言われたことなど、墓場にまで持って行くしかない屈辱だった。あんな人間として尊敬できようもない男を好きになり、あんな卑劣で臆病な女を友達の一人だと思っていた自分の迂闊さが許せなかった。そしてあんなくだらない人間に自分の人生が左右されてしまうのだと思うと腹が立って仕方がなかった。だから、割合に早く学校を辞める決断は出来たのだと思う。
マユミは大検を準備し始めた。本質的には真面目で計画的な少女だった。あの高校にはもうとても通えないが、しかし自分が人生をこれからも生きていかなければならないのだとは分かっていた。引きこもったまま、今は豊かでもこれから年老いていく両親に負担など掛けられなかった。何よりあの男子と女子に自分の人生を滅茶苦茶になどされたくなかった。男と歩む人生は考えられない。それなら女一人で生きていく事への世間の厳しさに現実の問題として対応しなければならなかった。学歴は必須だ。半端な学歴では女一人でなど苦労なく生きていけない。ただ、大学は行くとして、何を専攻にするかは問題だった。
そんな時に、マユミの心を捉えたのは、ネットを検索していた時に偶然見つけた論理演算の話だった。とりわけ、「排他的論理和」のベン図だった。あの、二つの円が一部重ね合わされて、中が色で塗り分けされているものだ。命題PとQの何れかが真ならば、その排他的論理和も真になるが、PとQのどちらもが偽または真ならば排他的論理和も偽になる。その一見奇妙で、不思議な性質に心惹かれた。男と女がそれぞれ厳然とあって、それぞれの思いがあるが、そこが交わる所には空隙がある。両者が心通せ、同じ結論を出すのなら、排他的論理和は偽を導出する。自分には得られないであろう、そして大抵の人間が手に入れている人生の伴侶が、結局の所は「偽」なのだ、と。論理演算の考え方としては無茶苦茶だったが、なぜかマユミにはそのこじつけが気に入った。昏い復讐心のようなものとともに、マユミは排他的論理和を胸に刻んだ。
それがきっかけの一つにもなり、コンピュータサイエンスの世界に進もうと思ったのだ。何より、コンピュータには性別も容姿もない。マユミにはその点も気が休まる分野だった。
大学を順当に卒業し、情報工学の修士課程、博士後期課程へと進んだ。指導教官に女性の教員を選んだが、おじいちゃんのような枯れた教員ならば男性でも教えを乞うのに問題はなかった。優秀な成績で、どこに出しても胸を張れる学歴、博士号の学位を得て、就職先を探す段となったが、マユミにはそこにどんな人間がいるかは問題ではなかった。そこにどんなコンピュータがあるかが問題だった。人間の人格より、コンピュータのアーキテクチャが大切だった。人間存在を否定はしない。コンピュータを作れるのは人間だけだからだ。
でも、この世界が誰かによって拵えられた作り物かもしれないというシミュレーション仮説だけは奇妙にマユミの心を捉えた。もし、シミュレーション仮説が妥当するならば、その上位世界の計算資源はどれほどに莫大なものになるだろう、と。何せ、下位世界のスーパーコンピュータの計算資源をも包含し、シミュレーションしなければならないからだ。どうせなら、そんな上位世界の存在をも脅かしかねないスーパーコンピュータの傍で働きたかった。まるで神様に叛逆しているみたいではないか。あの日から、マユミは神様が嫌いだ。「眼鏡ブス」に生まれつかせ、「勘弁してくれよ」という言葉をわざわざ聞かせてくれる神様が大嫌いだ。だから、優等生気質ながらも、神様には何か叛逆してみたかった。
─マギというコンピュータがあるらしい。
それを教えてくれたのは、あの枯れたようなおじいちゃん先生だった。男でも、私の人生に前向きな指針を与えて呉れることがある、それを認識して、久しぶりにマユミは微笑んだ。
─前に神様が嫌いだと言っていたね。それなら、なおのことキミには合ってるかも知れないな。なにせ、そのコンピュータを擁する組織は、天使の名を冠する物と戦っているのだから─
天使と戦う?……まるで中二病みたいな設定に思わず吹き出しそうになったが、例のサードインパクト絡みの組織だよ、と言われると流石に表情が引き締まる。マユミも近親者にこそいないが、知り合いを何人か、サードの混乱の中で喪っている。この時代の人間なら皆そうであろう。正直言えば、そんなものにかかわり合いにはなりたくない。それでも、最終的にマユミには恐怖よりも新しいコンピュータへの好奇心が勝った。
老先生は求めに応じ喜んで推薦状を書いてくれ、マユミは立派な学歴と学位、優秀な成績、恩師の推薦を得て、ネルフの最終面接に苦もなく進んだ。他の機関や企業からも声が掛かっていたが、情報収集したマギ・セブンの革新的なコンセプトを知るにつけ、最終面接に進む頃には、ネルフが不動の本命になっていた。
◆
その面接場ではまだ年若い制服姿の青年と、少し髪の薄くなった中年の男性の二人だけが面接官だった。男性二人が面接官というのにマユミは少し緊張したが、部屋がだだっ広く、距離が十分に離れていたので、プレッシャーやストレスはなかった。
もう彼女の採用は半ば決まっているかのような形式的なやり取りが続いた後、青年の方が訊ねた。あとでそのまだ年若い青年がこの組織のトップである司令だと知って(そして、中年男性は理事長だと聞いた)、マユミは驚いたが、その時にはまだ名前も知らなかった。青年は碇シンジだった。
「……最後に一つだけ。山岸博士は、人間が好き……ですか」
「人間……ですか?」
「ええ。ネルフは使徒と戦うための国際軍事組織ですが、その役割には人類補完計画阻止も含まれています」
理事長の子安が隣に居るのにもかまわず、シンジはさらりと言ってのけた。これは国連で決議されたネルフの再建時の憲章にもハッキリ書かれていることだ。サードインパクト後に設立されたネルフが、フォースインパクトと補完計画阻止を名目に掲げない事はあり得ない。だが子安はその実、人類補完計画再発動を目論むゼーレの公然たるスパイであった。
しかし、シンジは別に子安のことが嫌いではない。ネルフ設立に協力して、ずいぶん骨も折って貰ったし、アスカと自分に対して冷静な好意を持ち続けてくれているようである。頭のいい、計算の出来る男なので、シンジが隙を見せさえしなければ、十分実務的に協力しあえる。彼のゼーレ側に立つという立場は多分に政治的なものとシンジは理解していて、子安が人類補完計画完遂を宗教的熱情から渇望するような狂信とは一切無縁だと知っていた。
だから山岸マユミの反問に対して、子安が人類補完計画を説明しはじめても、それを遮ろうとは心の中でさえ思わなかった。彼なら、完璧に公正な立場で説明してくれるだろうから。
「人類補完計画って、高校の教科書とかにも載っていた……」
「そう、人類全てが保有する他者との境界A.T.フィールドを消失させ、個体生命としての姿を失う代わりに、人類は出来損ないの群体から、人工的に進化した単体生物へと変わる。全人類が合一することで、一切の差別や争いからも解放されると称する、旧ネルフ上層部の目論んだ計画のことです。この計画は未だにその遂行を願う、残党によって密かに進行されているという噂もある」
ゼーレの事だけはむろん省いて、子安は正確に中立的にその計画の得失を説明した。まるで、どうです山岸さん、あなたなら賛成しますか、反対しますかと興味深げに訊ねているようだ。
しかし、山岸は子安ではなく、シンジの方だけを見て言った。
「人間が好きかと仰いましたよね。……そんなの、分かりません。色んな人が居ますから。でも、その色んな人たちの総体としての人類が好きかと言われれば、正直、あまり好きではないかも知れません。だって他の人は私を平気で傷つけるから。……特に男の人たちは」
そう言ってマユミが静かに見つめるシンジもまた、男性だった。あの時、高校生のあの日、マユミの想いを小馬鹿にし、彼女の容姿を嘲笑ったのと同じ男性だった。
だから異性への苦手意識を告げるのには幾分勇気が要った。これでこの面接はダメになったかも知れないと思いながらも、マユミは今この場では正直でいたかった。マユミは青年に向かって訊ねる。
「あなたは、異性が苦手とか、そういう風には思わないんですか」
「……それは、僕だって……苦手ですよ」
マユミにはやっぱりという感じがしていた。この人は顔立ちは割と整っている方かも知れないけれど、どこか自信に欠けている。自分と同じだと思った。
「私、昔、男の人に傷つけられました。男の人を憎んでいる。だからそんな、人類補完計画なんかは拒否します。私は他の男の人たちと……あんなに酷い人たちと、一つになんてなりたくない」
それは愛憎の憎ではあるが、キッパリとした人類補完計画への拒絶であった。
シンジにはなぜかその拒絶が、懐かしくて、有り難くて、ついその場に居ない女性の姿を思い浮かべてしまっていた。
─あんたとだけは、死んでもイヤッ!
シンジはその彼女の姿を思い浮かべながら、寂しげな顔で、しかし自分の真情を偽りなくマユミに伝えようと試みた。だからいつの間にか敬語は抜けていた。気がついたら、場所柄もTPOも弁えず、自分の個人的な物語を語り始めていた。
「……僕はキミとは違って、傷つける側の人間だった。彼女に本当に酷い事をしたんだ。彼女は僕に好意を寄せてくれていたのに。ずっと僕が彼女に向き合う事を求めてくれていたのに。僕は逃げていた。他人が怖かったんだ。どうせ父のように僕を棄てるかも知れないと思うと向き合えなかった。だから僕はもうその人に許して貰えないと思う……でもその人の事はとても大切なんだ……たぶん、一生その人のことを想い続けると思う」
それからシンジはマユミに向かって頭を下げた。
「その山岸さんを傷つけた男性に代わって謝ります。ごめんなさい。僕がしたことではないけど、僕も似たようなことを僕にとっての大切な女の子にしていた。その女の子を守らずに傷つけていた。僕の人生はその後悔の連続なんだ……だけど。僕ら男が、キミを傷つけ続けても、どうか全ての男を嫌わないであげてほしい。……人間に絶望しないでほしい」
シンジが、勝手に男を代表して謝る義務や責任はない。だから、そんなもの普通だったら、女にすり寄っているだけの真情のない意見だと、マユミは拒絶していただろう。口先だけの言葉には騙されない。でも、シンジは自分の体験に沿って、何かをマユミに伝えたいようだった。己自身が犯した過ち、たぶん口に出して認める事さえ苦しい事実をさらけ出してまで、マユミに心を伝えようとしていた。絶望に囚われないでと訴えかけてくれていた。それはマユミと同じようにかつて絶望に囚われた孤独な人間にしか発せられないだろう言葉だった。
(この人も同じなんだ。私と同じように苦しんできた人なんだ)
その時、マユミの心の中に一つ温かなものが灯った。マユミがその青年の……碇シンジの、もはや叶わなくなった切ない恋心を応援しようと決めたのはその時だ。自分とシンジがどうこうなりたいなどと思ったことはない。そんなものは端から諦めている。
◆
「そんな事があったのね」
「うん……だから山岸さんと話を何度もしたわけじゃないんだ。仕事以外ではほんの少しだよ」
寄り道続きだったが、アスカはようやく当初の目的地であるシンジの官舎に彼を送り届けようと車を走らせる。シンジが話し終わったマユミとの面接時のエピソードに眉根を軽く顰めている。ハァと思わず大きな溜め息が出た。
「……あのさぁ。前々から思ってたんだけど、言ってもいい?」
「……何かな」
「アンタバカ?」
アスカの口から出て来たのが、いつもの……それこそ何十回となく言われ慣れてきた言葉だったので、シンジは苦笑いする。
「……そんな言い方したら、誰だって、あんたとアタシはもう別れたと思うに決まってるじゃない」
「そう……かな」
「そんな所に、ラブホの入り口でアタシとイチャイチャしてるアンタを見てしまう。ショックだわよ、これ。生涯唯一の叶わなかった、それでも想い続ける恋みたいなものを大層に語りながら、裏では次の女にちょっかい出してるいい加減な男だと思うんじゃない?」
「いや……でも僕には同じ相手だし……それに入り口では別にイチャイチャしてたわけじゃ……」
「してたのよ」
「え?」
「アタシは主観的にはそういう積もりだったの」
「あ……そうだったんだ……」
アスカにしてみれば、ラブホテル前で男と揉めるというのは少し再現してみたいシチュエーションではあったらしい。
「シンちゃん、マイナス10点」
「ごめん……僕いつもそうだね」
今何点なのだろうと思うとシンジは怖い。それとも、マイナス10点が現在の点数なのだろうか?
しかし、アスカの続く言葉にシンジは少し安心する。
「……でも……シンジはそれでいいのよ」
フロントガラスに反射して見えたアスカの眼差しは優しかった。
「アタシ、そんな所で、妙に察しのいい男はキライなんだ。女に手慣れてるようなのはいや……」
昔、加持に憧れていたアスカだったが、万が一、加持と付き合っていたら、独占欲が満たされないアスカは傷付き続けていたかも知れない。アスカの嫉妬や独占欲はきっと過去にだって及ぶ。男に上手にリードしてもらえるのは、そりゃ女として嬉しいに決まっている。でも、その女に対して手慣れた態度や包容力の裏にある経験値をどんな風に稼いだかを考えると、アスカは自分がとても耐えられなかったのではないかと思うのだ。
「だいたいさぁ。アタシへの秘めたる想い、切ない恋情とかをアタシ不在の所で語らないで欲しいわね。本人にはちっともそういう想いを言わないくせに。……アタシはあんたが寂しさを演出して女を引っ掛けるためのダシじゃないのよ?」
「そんなつもりは……でも、ごめん」
ま、確かにそういう邪な意図は無いんだろうな、とアスカは流石に分かっている。シンジは天然なのだから、悪意はないのだ。無防備に弱点を人前に晒し、他人に傷を隠そうとしていない、だから女が母性愛をくすぐられる。構って、助けて、愛してやりたくなる。
山岸マユミか……あんたもヘンな男に引っ掛かってしまったものね。
アスカは、先ほど会ったおかっぱロングヘアの眼鏡の女の顔を思い浮かべた。ライバル心の前に彼女への同情の心が湧いてくるのを止められない。
……でもね、山岸さん。シンジは想像以上の難物なんだよ。このアタシが二十年掛けても、落とせないんだから。こんなのに関わったら、それこそ人生を全てシンジのために捧げる覚悟が必要になる。アイツに構うみんなは、その事がちっとも分かってないのよね。
アスカは嘆息しながらも自信を持つ。もちろんアスカには二十年近くを掛けてきた実績と、その後も一生を掛ける覚悟があるのだ。
「ま、あんたは明日、ちゃんと山岸さんに説明して誤解を解きなさいよ。朝、何か報告があるんでしょ。報告そのものも気になるし、アタシも立ち会うからさ」
「いいの?」
「そりゃアタシだって、シンジが愛想尽かされて、周りから女が一人でも減るならその方がいいかも、と思わないでもない」
「別に山岸さんは僕を好きな訳じゃないよ……」
「ま、それはそうだとしても、よ。でもやっぱりアタシは、アタシの男が誤解されたような形で愛想尽かしされるのはイヤなの」
もしかしたら、いや、もしかしなくても、山岸マユミはシンジの事が好きなのだろう。だから勘違いさせたまま、レースから脱落させておけばいい……そういう考えもあるだろう。でも、アスカはそれがアンフェアだと感じる。ありのままのシンジを見て、それで、嫌いになるのなら勝手だ。誤解が解けて、マユミの想いがまたシンジに向かうのだとしても、それはマユミ自身の想いだ。アスカはもちろん、シンジにだって、その想いそのものを否定することは出来ない。想いを受け入れるかはもちろん別の話だ。
「それにあんまりヘンな噂を立てられても困るじゃない?アタシも次に『ラブホ』みたいな渾名を付けられたら困るわよ」
シンジもそのアスカの軽口に、ようやくクスッと笑った。アスカにはそれがたまらなく嬉しい。
「こら、笑ったわね」
「だってアスカが面白いから……」
「アタシとお話しすると愉しいでしょう」
「うん……」
「それはアタシもシンジとお話しすると愉しいからだよ、たとえシンジが落ち込んでいてもね。心と会話は鏡みたいなものだよ。相手を見ながら、相手と同じようになっていくんだ」
だから本当は他人とのやり取りを過度に怖がる必要はないのだ。たいていの場合、好意は好意を以て返され、悪意や敵意は同じもので返される。本当はただ、それだけのことなのだから。もちろんアスカは山岸マユミの事情を知らなかった。好意に対して手酷い悪意で返されるケースもあるのだと。でも、マユミの事情を知っていても、やっぱり同じ結論を出したに違いなかった。
「……アタシは中学の頃から、ずっとシンジとお話がしたかった。ある意味では、
「……僕に対してそんな風に思ってくれてたんだね、ありがとう……アスカ」
「きっと、何十年だって、アタシとシンジはこんな風に愉しくお話が出来ると思うよ。シンジがその気になってくれさえするなら、ね?」
「……うん……」
それから、シンジに向かってこれだけは言ってやりたいという言葉を発した。
「人間が……他人が怖くてたまらなかったシンジが、人類補完計画を拒否してるのは偉いよ。サードインパクトが中途半端に終わったのは、けっきょくそういう事なんでしょう?……だからアタシは世界中がシンジを非難しても、シンジに味方出来るよ。シンジが、他者と向き合い、立ち向かう気持ちを持てたから、今の世界はあるんだから」
だがアスカのその言葉にシンジは素直には頷けないでいる。沢山の人がLCLの海からは還って来れなかったのだ。例えば、鈴原トウジ、相田ケンスケ、洞木ヒカリ、そしてネルフの大人たち。彼らはどうして帰ってこれなかったのだろう。シンジが他者との繋がりを望んだ結果として、今の世界の有り様が形作られたのだとするのなら、なぜ彼らは戻ってこれなかったのだろう。
それを思うと、シンジはアスカによる弁護を素直に受け入れることなど、出来はしなかった。