「おはよ、シンジ」
「……おはよう、アスカ」
アスカは欠伸をかみ殺して、司令室に入室すると部屋の主のシンジに声を掛けた。シンジはどうやら昨日の論文をまた読み返しているようだった。時刻は八時半、まだ、朝一番で入れられたマユミたちのアポイントメント(シンジ自身が秘書にスケジュールを入れて、マユミ、マリイ、そして二人の上司の真希波技術部長に連絡を入れたらしい)まで三十分ほど空きがある。
「ゆうべも遅かったみたいだね、お疲れ様、アスカ」
「あんたもね……」
アスカが寝床に入り、メッセンジャーアプリで「おやすみ」とシンジにメッセージを送ったのが、二時半だった。すぐさまシンジからも「おやすみ」という返信が帰ってきたので、まだシンジも起きていると分かった。アスカも士官として戦術研究を行ってからの就寝だったし、きっとシンジも論文読解や研究に頑張っていたのだろう。
まだまだ若いつもりだが、流石にシンジと複数回セックスをした後でもあり、疲れが翌朝に残っている気がする。
「あんたはそんなに眠そうでもないのね」
「僕は馴れてるし」
短時間睡眠に、ということだろう。あまり身体には良いことではない筈だが……。考えてみれば、シンジの身体は既に自分だけのものではない。シンジが己の頭の中にだけ蓄えている裏死海文書の知識を他者に伝えることなく事故や病気で亡くなれば、人類は遠からず使徒に敗れ、滅亡する事だろう。つまり、シンジは裏死海文書を取引材料にアスカを守る為のネルフを再建するという今の道を選んだ時点で、全人類の命運とアスカ一人の幸福を秤に掛けて、アスカを選んでしまったとも言える。それはユイを全人類に優先したゲンドウほど露悪的でも能動的でもないが、しかし本質的には同じような行動だった。
アスカは幹部の定例打合せなどに使われる大テーブルの隅の椅子を引いて腰掛ける。そして、自分のデスクに向かっていたシンジを手招きした。
「ここにおいで、シンジ」
ぽんぽんとアスカが、隣の席の座面を叩く。シンジはすぐに席を立ち、アスカの傍に歩いていった。眠そうではないものの、近付くと寝不足が続いているからか、あまり顔色が優れない印象だ。
「えっと……仕事の話?」
「仕事の話じゃないわよ、……仕事なら命令するのは司令のあんたでしょ。部下のあたしは喜んで死地にでも赴きますって」
と、アスカはおどけて敬礼をしてみせる。
「……」
シンジはアスカの前に立ち尽くしたまま、いつの間にか厳しい顔になっていた。
「シンジ?」
「アスカにだけはそんな事しない……でも、他の人になら……僕はきっと……」
アスカを守るために、そういう酷いことをしてしまえる権限が、そして冷酷さが、僕にはあるんだと言って、シンジは俯いた。
「その時はあたしが許してあげる」
「……アスカ」
「あたしを守るために両手が血に塗れたあんたを許してあげるわよ。だから、二人で地獄に落ちよう」
それから、アスカはウンウンと独りで頷いて、
「新婚旅行は地獄行きってのもいいかも知れないわね」
「アスカ……」
リアクションを返しにくいアスカのどぎついジョークに、シンジは継ぐ言葉が見あたらない。
「なあに?あたしとなんか結婚しないって?……分かってるわよ、んなこと」
「……アスカ」
アスカの悲痛な叫びにも似た自虐を聞くたび、シンジはいつも身につまされる。
「……でもま、冗談は抜きとして、軍人を職業に選んだ以上は、如何に効率よく味方を殺すかは常々考えておきなさいよ。そしてあたしを殺したら効率がもっとも良い、犠牲が最小で済むと思うなら、躊躇わずそうしなさい……シンジ」
前にも同じようなことを言われていたが、何度聞いてもショックなアスカの言葉にシンジはまるで彼女に振られでもしたように傷ついた顔をして、首を振った。
「……そんな事しない」
「しなさい」
「しないよ……僕にはそんな事、できないから」
泣きそうな顔にも見えるシンジの表情から内心の苦衷を察しながら、アスカはやれやれと肩をすくめる。
「政治家の資格として必要なる冷血」という言葉が、さる元勲の評としてあるが、軍人にもきっと同じような資質が求められる。碇ゲンドウや葛城ミサトにはそれがあった。ある意味ではアスカにもそれはある。しかしゲンドウの息子であるシンジにはそれが欠け落ちているようだった。策謀も練る、策略も巡らせる、だがシンジには他人に自己犠牲を強いる事は出来ない。アスカの為には他人に犠牲を強いれる冷酷な男なのだというシンジの自己評価は、巨視的な視点では当てはまるのだろう。だってシンジはすでに全人類とアスカを比べてアスカを選んでいるのだから。でも、それがミクロな、彼の目の届く範囲で、記号でも員数でもない知っている人たちに対して同じように振る舞えるかというとアスカには疑問だった。唯一の例外としてその為に生み出した存在は居るが……それも、今となっては……。
「シンちゃんはやっぱり軍人向きではないわねぇ。別の仕事を選べば良かったのに」
「じゃあ、何をすれば良かったんだよ……」
シンジなりに一生懸命考えて選んだ職業だ。アスカを守るにはこれしかない、と。だから、シンジの反問は力なく、でもどこか拗ねて不貞腐れているような声だった。
「んー。ペットショップの店員とか?お花屋さんとか?」
まあ世俗的な評価ではネルフの司令よりステータスは大きく下がるかも知れないが、きっと二人にとってはその方が幸せだった。今日も大して売れなかった売れ残りの花を買い取って、シンジは狭い我が家へ、アスカの待つ小さな借家へと、家路を急ぐ。広壮な官舎も、将官や佐官の階級や俸給もない。だが、それが何だというのだ。
友が皆 我より偉く 見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻と親しむ
……そんな、石川啄木の世界よね。それもいいじゃない。
「でもそれじゃ……アスカは守れない。使徒からも、補完計画からも」
シンジの言葉に、アスカも現実に引き戻される。けっきょくは二人が修羅の道を突き進まねばならない理由もそこにある。そして現実に引き戻されると、ロマンチストでもありリアリストでもあるアスカの後者の側面が頭をもたげ、シンジの明け透けさが気にかかってくる。
……あらあら。ここ盗聴されてるのにな。
でもまあ、シンジが補完計画に反対だってこと、ゼーレだって分かってるわよね。子安の前でもそう言ったこともあるらしいし。
建て前から言えば、新生ネルフの公の目的はフォースインパクトと人類補完計画の阻止だ。それを司令が言って悪いことは無かった。ゼーレがシンジの忠誠心に疑問符を付ける可能性は勿論あるが。もとよりシンジの面従腹背はゼーレも織り込み済みだろう。だが、シンジが使徒の来寇時期を極力隠匿し、エヴァの再建計画で裏をかこうとも、ゼーレにとっては痛くも痒くもない。今のところ、シンジはゼーレに対して何のダメージも与えられてはいなかった。
「……それで、仕事以外の話って何のこと?」
思い出したような、あるいは、その場の気詰まりから逃げるようなシンジの言葉に、アスカは脱線を元に戻した。シンジに隣に腰掛けるように促し、シンジがそうすると入り口の扉がしっかりと閉じられていることを確認してから、シンジの両手を握り、盗聴マイクに拾われない声量で、彼の耳元で囁く。
「ゆうべはゴメンね」
「え?」
「シンジ、ホテルでの
「う、うん」
昨晩アスカに手を引かれながら、ホテルを出るとき、シンジは確かに意気消沈気味だった。
「いつもなら、あの後、もっと優しくフォローしたり、サポートしたりも出来たんだけど、ゆうべは色々あって、慌ただしかったから……さ。シンジがしんどくなってるんじゃないかと心配になって」
「あ、ありがとう……」
「終始、あたしがリードしたから、シンジは上手く出来なかったと思って落ち込んでるのかも知れないけど、あたしは気にしてないよ。だからシンジも別に気にしなくていいからね……」
「……でも、僕、ゆうべは本当に男らしくなくて」
けっきょく、ゆうべはベッドで、シンジは自分からは能動的に殆ど何もしていない。事後にベッドの上で、アスカが満足げに二人の
「そもそも、最初にあたしから押し倒したから、シンジには主導権を握るタイミングがなかったよね……ちょっと配慮が足りなかったかな」
「そんなの関係ないよ……僕も頑張ろうとはしてみたんだから。でも上手く出来なかった。いつものことだよ、本当に情けない……自分がイヤになる」
「……でも元はといえば、シンジが悪いんじゃなくて、シンジに酷いことをしたアタシが悪いんだから、ね?……いつも言ってる事だけど、別にシンジが気に病む事はないんだよ」
アスカはそう言って慰める。高校生の時にアスカがシンジにそういう乱暴をした。だからそのトラウマからか、シンジにはアスカを自分からは上手く抱けない事が多い。アスカから抱くのなら……シンジが受け身になる形でなら、いつだって普通に出来るのに……。
「これからもシンジのしたいようにすればいいんだからね。シンジが自分からでも出来るようにリハビリを頑張りたいなら、毎回リハビリだけしてもいいし、あたしが抱くのでいいなら、ずっとそれでもいい。あたしはいつまででも付き合う」
勿論、いつまででも……のためには、二人は一年後の期限までに人生の結論を出さなくてはいけないが、それはひとまず置いて、アスカは言った。
シンジは随分長く考え込んでいたが、やがて、アスカが握ってくれたままでいる手の温かさを感じながら、訥々と決意を語り始めた。
「……僕は、アスカとリハビリしたい……上手く出来なくても男として頑張りたい。でも……それでも上手く出来ない日は、アスカに抱かれてもいい……だって、何も出来ないままだと、アスカが気の毒過ぎるもの……僕みたいな半端な男とこんな風になっちゃって……本当にごめん」
「別にそんな事……」
アスカは苦笑した。
「じゃあこれまで通りでOKってことね。安心した。二人がちゃんと繋がれて結ばれることは出来る……現状でも大した話じゃないんだから、あんまり気に病まないのよ。でも不安になったらいつでもあたしに相談するの。分かった?」
「うん、そうするよ……アスカに相談する」
「寂しくなったり、自信がなくなっても、二人で抱きあうだけで落ち着くものよ。いつでも抱っこしてあげるから」
アスカがシンジと握った手の指と指をしっかり絡めて、繋いだ手をぶらぶらさせながら、にっこりと微笑むと、シンジは少しだけ顔色が良くなって、口許を緩めて頷いた。
「少し元気になれたよ……ああいう風に僕が何も出来なかった夜は、アスカに愛想を尽かされないか何だか不安で……」
「シンジが何かに立ち向かってくれている限りは、愛想なんか尽きる訳がないよ」
実際にアスカが見かけるのはたまにだが、ゼーレと暗闘するために策謀を練っている様子のシンジの横顔は格好良い。最近、シンジ君はハンサムだよと霧島に囁かれて、アスカのシンジを見る目が変わったからだろうか?いや、それ以前からそう感じていたし、きっと、それだけではない。
ベッドでアスカにリードされ、甘えたり、あるいは普段の逃げ腰の態度とは違うシンジがそこには居る。戦う目をした大人の男の顔だ。当然、アスカは女として胸が疼く。
「あたしを救うためにはきっとシンジはそうしてくれる……今度こそあたしを守って、あたしの為に戦ってくれる」
それは祈りにも似た、アスカの願いだ。
「うん、僕なんかにうまく出来るのかどうかは分からないけど、そうしたいと思ってる……そうしなくちゃ僕が今日まで生きてきた意味はないんだ」
シンジが堅く決意を込めると、アスカは頷く。
「でもね……今日の本題はそういう話じゃない」
アスカはいったんその話題を断ち切るように、握っていたシンジの手を離した。
「え?」
「……忘れたの。山岸さんたちにあたしたちの関係を、どう説明するのかよ!それが目下、あたしたちには一番の問題じゃない」
ゆうべ、手を繋ぎながらラブホテルから出て来たアスカとシンジは、折悪しく、その場面を山岸マユミとマリイ・ビンセンスに目撃されてしまった。マリイはそれほど動揺していた訳ではなさそうだったが、マユミはその場を脱兎のごとく走り去っていて、彼女への釈明の機会は与えられなかった。
「ああ、そうだったね……」
「もうすぐあの子たち、来ちゃうわよ。方針としてはどう説明するのかだけでも聞いておければ、あたしも助け船を出せるし」
アスカは自分の脱線も棚に上げて、室内の掛け時計を気遣わしげに見上げた。
元々、二人の関係について第三者に説明する必要などこれまでになかった。恋人でも夫婦でもないのに、誰よりも近しく、お互い以外を厳格に排除してきた二人だけの関係。歪んでいて、ややこしくて、誰にもうまく説明出来そうにないが、これまではアスカとシンジの二人だけが承知していれば良かったのだ。だが、それを今日は山岸マユミという女性に説明して理解してもらわなければいけない。
「方針は決まってる……」
「……それは?」
「なるべくありのままに話す。嘘はつかない。僕とアスカのプライバシーなんだから、何から何まで言う必要はないけど、関わりが出来た人には誠意を以て接したい……僕はそう思ってる。どうかな?」
アスカは我が意を得たりという顔をした。
「うん、それでいい」
誇らしげな顔で、アスカは照れくさそうに自分の鼻を擦った。
「シンジは何だかんだで、いい男に育ったわね……」
「……え、そ……そう?」
なんだか過分に思えるアスカの褒め言葉にシンジは面食らった。しかし、アスカに言わせれば、確かにシンジには情けない所も多いけれど、霧島マナが言うように、少しも成長していない筈はなかった。昔のシンジの素直さがまっすぐ大人になって伸ばされて、魅力になっている面も存在する。
「男の何が一番大事かって、誠実さだもの。女に嘘をつかない男に勝るものはないわよ」
どんなに美男子で有能でも嘘をつく男になら、女は適当に遊ばれて捨てられるかも知れない。そうであれば、どんな時でも女に嘘をつかないという徳目こそが男にとって最も重要だと分かるはずだ。シンジはゼーレを欺瞞する。だが、女には誠実だ。そして策謀家にとって一番の資質は、これは逆説めくのだが、誠実であることだった。誠実な人間こそが、味方の信頼を喪ったり、寝首をかかれることなく、策略と権謀術数の道に進み得る。常に誠実で素直だからこそ、敵にとっての平凡な理路を推測し、騙されやすいウィークポイントを突くことが出来る。
「シンジが真っ直ぐないい男に育ったのは、半分ぐらいは、あたしの手柄だと勝手に思っているのだけど?」
「いい男かどうかはともかく、僕が少しでも成長してるのなら、アスカの貢献は半分じゃとても足りないよ」
シンジはアスカがあの赤い海の浜辺から、ずっとシンジに優しさをくれ続けていたことを忘れたことはない。もしアスカの優しさがあんなにも、無私にシンジに対して注がれなかったのなら、シンジはとっくにこの世に絶望して自死を選んでいたかも知れない。
アスカは席を立ち上がった。
「これなら大丈夫そうだね、シンジ」
「うん……」
嘘を付かないなら取り繕う必要はないのだから、別に口裏合わせなども要らなかった。
アスカは入り口に近づき、ドアを開けると、もう前室で待っていた、山岸マユミ、マリイ・ビンセンス、真希波・マリ・イラストリアスを司令室内に呼び入れた。
◆
「碇司令、おはようございます」
「……うん」
「作戦部長の惣流・アスカ・ラングレー三佐よ、行きがかり上、同席させてもらうわ」
「……」
アスカがそう名乗ると、近眼のマユミにもはっきりと、彼女がゆうべシンジと一緒にホテルから出て来た女性だと分かった。
「その……山岸博士の報告を聞く前にゆうべのことを釈明させてほしいんだ」
アスカが元の席に戻り、三人が向かいの席に着くと、シンジがおもむろに切り出した。真希波マリは何の話だか分からないままに興味深そうに猫のように口元を緩め、マリイ・ビンセンスはあくまで平静だ。だが、マユミの反応は冷淡だ。
「……別に、私には関係ない事ですよ」
「でも、山岸さんはきっと誤解してる。僕は酷い事も沢山してきたけど、山岸さんの考えてるような不義理はアスカに対してしていない」
マユミは聞きたくないというように、目を瞑って、首を左右に振った。
「僕はアスカしか知らない。僕にとっての女性はアスカしかない」
アスカがそこで割って入った。
「……山岸さん、シンジが酷いことをしたという相手、一生許してもらえないと思うって言ってた女は、あたしのことなのよ。だけど、シンジの後ろめたさとは別にあたしとシンジはサードインパクト以来、そういう仲なんだ。だからシンジはその女、つまりあたしを裏切ってないし、ずっとあたしとしか……」
「な、何なんですか、それ。その女の人とは別れたんじゃないんですか!?」
「別れてない。だってそもそも付き合ってないんだから、別れようがないわよ。あたしとシンジは中学生からの付き合いで幼なじみみたいなものなんだ。だからお互いの距離感がうまく掴めない。許してもらえないとか言ってるのも結局はシンジの主観なのよ」
アスカとシンジはお互いの距離感についてずっと戸惑っている。その戸惑いが十九年という年月にわたる遅疑逡巡になっていた。言葉での繋がりよりも確かなもの、身体の繋がりよりも曖昧なもの、その合間の距離を求めて、二人はずっとさ迷って来たのだ。二人は恋人には終始、なれないでいる。その距離はずっと遠い。でもその周りをグルグル回っている。それがアスカとシンジだった。
「付き合ってもいないのに、あんな所に……行くんですか」
「そ、それは……」
マユミの言葉の温度が下がり、今、明白に軽蔑の色が滲んだ。それはそうだろう、客観的に見れば、アスカとシンジの身体だけの繋がりは単なるふしだらな快楽を求めるのみの関係に見える。アスカは言葉を失った。
だが、シンジが言葉を継いだ。シンジはマユミに嘘を付きたくない。アスカとの関係についてなど、本当は第三者の誰にも説明する必要のない話だった。でも、シンジは自分の
「ずっとずっとアスカと一緒にいたい。でも、僕にはそんな資格はない。アスカも僕と一緒にいたいと思ってくれていると思う。でも僕らは夫婦にはなれない」
「どうして……」
「世界で一番アスカに酷いことをしたのが僕なんだ。そして、僕はサードインパクトを起こした、全世界の敵なんだ。僕にアスカと一緒になることなんか出来ない」
シンジは目を伏せた。
「あたしは、人に愛されることに資格なんか要らないと思うけどね……いつもシンジは言うけどさ、資格って何なのよ」
アスカは寂しそうに言った。でも、マユミは人に愛される資格のない男がいるのも知っている。……碇シンジはどうなのだろうか。高校時代にマユミを傷つけた男とシンジは明らかに違っている。しかし、そんなシンジでも目の前のこの綺麗な女性を傷つけたのだ。どんなに優しそうな男でも女を傷つける。どんなに美しい女でも男に傷つけられる。そうしたら、やっぱりこの世に……男と女の間には、絶望しかないのではないか。
でも、そこまで考えて急に恥ずかしくなった。マユミには過去の行き掛かりから男全般に対する怒りと憎しみと不信がある。だがそれは他人には別に詳細の説明をする必要を感じなかったし、これまでもしてこなかった。それなのに、二人はマユミのためにプライベートな関係について立ち入った説明をしてくれている。そもそも自分とシンジは別に恋仲でもない、シンジの事が好きな訳でもない。ただ、これまで断片的に聞いてきた情報から勝手に想像していたシンジのイメージと、ゆうべのアクシデントが整合しなくて、混乱し、勝手に失望、幻滅しただけだった。確かにシンジはその女性……目の前の惣流アスカさんに一生許してもらえないと思ってるのかも知れない。だが、罪滅ぼしの為に一緒にいて、結婚は出来ないがつかず離れずの仲なのだ……そう考えれば理解は難しくても、自分が口を挟んだり、義憤に駆られる話ではないのかも知れない。少なくとも、これ以上二人に子細を聞いて、何か糾弾の真似事をすることが自分に許されるとも思えなかった。
「お二人は人に恥じる仲ではないということですか」
「いや、そんなに胸を張れる仲だと思ってる訳でもないんだ……」
いくらシンジとアスカはお互いに独身とはいえ、所詮は愛人関係だ。シンジがサードインパクトで多数の人たちを苦しみと不幸に突き落とした……少なくともその一端を担った事を考え合わせれば、そんな風に誰かと親密な関係を築く事自体、俯仰天地に愧じず、というわけにはいかないだろう。
けれども、シンジは別にマユミに口止めをしようとはしなかった。その証拠に、ゆうべあの場にはいなかった真希波部長まで同席させている。だからこそ、マユミは約束してあげなければ、と思った。
「すみませんでした、ゆうべは取り乱した上に、お二人にはプライベートなお話までして頂いて。あの、私、ゆうべの話を言い触らしたりはしません」
「そう……」
シンジもアスカもホッとしたような表情を浮かべた。
「これで裏サイトで、またヘンな渾名を奉られなくて済むわ……ラブホとかいう渾名がついたら困ると思っていたのよ」
アスカも苦笑いをしながら、場の雰囲気を自虐的な冗談に溶かし込もうとしている。それはきっと、暴走してしまった形になったマユミへの配慮でもあるのだろう。アスカはマユミとシンジの仲を疑ったりもしていないようだった。そこには二人の間のある種の信頼も感じられる。
「その、ビンセンス博士も変な騒動に巻き込んで済みませんでした」
「わたくし、ゆうべは何も見ておりません」
シンジが謝ると、これまで一言も口を挟んで来なかったマリイ・ビンセンスはきっぱり言い切った。マユミに比べて後回しにされたような形になったのは気にならなかった。多分、碇司令と惣流部長はマリイに関しては何も心配していなかったのだろう。それは自分に対する評価としてはまずまず結構な事だと思った。自分は何より科学者なのだ。職場でくだらない噂を撒き散らす低俗なゴシッパーだと思われてはそれこそ名誉に関わる。
「あたしも何も見てないよー!だからゆうべ、姫と司令の間に何があったのか、後でこっそり教えてねん」
話の流れで大方は察せられただろうが、置いてけぼりで話が展開するあいだ中、ずっとニヤニヤしながら推移を見守っていた真希波マリは、アスカに向かってウィンクをする。アスカは面倒くさいなぁという顔をして、苦笑するのだった。マリのまるで猫のような好奇心には辟易させられるが、むろん、彼女がこの場の話を第三者に漏らす心配など、アスカは欠片もしていない。
◆
「では、本題のご報告です。皆さんお手元のタブレットに資料をお送りしましたので」
遅まきながら、マユミが説明を開始すると、ネルフ職員全員に支給されているそれぞれのタブレットに全員が目を落とす。そこにはマユミが昨晩、自分の推論などを元にマギ・セブンに書かせたレポートが表示されている。
「職員のIDカードにはGPSチップ……より正確には、GPS/GNSSチップで、QZSS……準天頂衛星とかの測位データも拾えるんですが、要するに位置情報が取得できる機能が埋め込まれていて、職員全員の所内移動データが人流データとして取れるんです。私はふと思い付いて、碇司令が月面タブハベースへの出張から帰朝された日のデータをマギ・セブンで解析してみたんです」
「あの日はみんな何となく浮ついていたものね。変事があるとしたらそういう日ってこと?」
「まあそこまで確信が有ったわけでもなく、単なる思い付きレベルだったんですが」
「そもそも、碇司令が帰ってくる!と一番浮ついていたのは姫だにゃ。むふふ」
「……うっさいわね」
そんな部長同士のやり取りに、マユミはアスカとシンジとの間に横たわる濃密な想いを感じ取って、何故かしら一抹の寂しさを感じる。だが、気を取り直して説明を続ける。
「まず、人流データからマギナナが感じ取った不自然さは人間同士がすれ違う時の挙動です。人間は相手とすれ違う時、それが充分に安全な距離を保っていたとしても、相手に気を取られたり、間隔を空けようとしたりで、わずかによろけたり歩幅や進路が変わったりするんですよ。少なくとも誰も居ない通路を独りで歩いているときとは違うんです。ところがそこで特異な反応……いや、何も
傍若無人という成語を読み下してそう説明するのは、山岸博士なりの軽い冗句かも知れなかった。
「その人流には他にも変なところがあって、一日所内にいて、一回も食事に行った形跡がないんです。スナックコーナーや食堂や自販機や所内のコンビニへの立ち寄りもなし、どこかの休憩スペースで飲食を行った時に特有の一カ所での停留を行ったりもない。飲食行動は蓄積されたデータが豊富なんで人流データ解析からは大体特定出来るんです。そして、この人、一回もトイレにも行かないんです」
みんな難しい顔をし始めた。段々と事態の深刻さを悟るような。しかし、これだけでは未だ決定打とは言えない。所内で飲食はせず、一度もトイレに行かない日だってもしかしたらあるかも知れない……
「そして、所内のほとんどの扉の開閉には、IDカードと網膜認証による複合型の認証が採用されており、所員は意識することなくセキュリティレベルで許された自動ドアを開けて、スムーズに移動する事が出来ます。ですが、この網膜認証は、意識せずとも人間に僅かに生体反応を強いるんです。例えば縮瞳とか、サッカード眼球運動などの……」
話がやや専門的になってきたと双方が感じ、マユミは細かい話を省略することにした。
「要するに、網膜認証時に当てられるある種の波長の光に対してヒトは自然に反応してしまう。その反応状況も、すべてセキュリティプログラム上の記録には残っていました。普通はそんなヒトなら誰でも起こす反応は生体認証に使いませんから、残念ながら当日セキュリティで跳ねられることはなかったわけです」
「ということは、それに反応しないものは……」
そこがマユミとマギ・セブンの推論の要諦だった。タブレットの資料の次のページがマユミの操作によって全員の手元の画面の中で一斉にめくられる。
「BLOOD TYPE: BLUE」
─パターン、青。シトです。
山岸マユミ博士の宣言に、シンジは静かに立ち上がった。