大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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四十五話 夜明け前

「BLOOD TYPE: BLUE」

─パターン、青。シトです。

 山岸マユミ博士の宣言に、シンジは静かに立ち上がった。

 

(あんた、これは裏死海文書であらかじめ知っていた事なの?それとも、あくまでイレギュラーな事件なの?)

 

 アスカはシンジの横顔を見上げると、その横顔に黙って問いかけるが、シンジの表情からは何も読みとれない。

 

 そしてシンジは、その場に座る皆に向かって深々と頭を下げた。

 

「今日まで、僕の下で一生懸命働いてくれてありがとうございました」

「シンジ……?」

 

 予想していなかったシンジの行動にアスカが手を伸ばしそうになって、しかしすぐ、手を引っ込めて自制する。

 

「シトの再出現……僕がこのネルフという組織を再建したのは、今日これある事態に備えるためでした。皆さん承知のとおり、十九年前、サードインパクトは僕の責任で発生しました。その事で世界中の人達が膨大な血と涙を流しました。きっと僕は許されない大罪人だ。僕はそれでもなお生かされている。でも、この新生ネルフを再建したのは、その罪滅ぼしの為ではありません」

 

「わんこ君」

 

 真希波マリも、シンジに何か言葉を掛けてやろうとして、言うべき適切な言葉を持たず、果たせない。

 

「僕はあの時、たった一人の大切なひとを守れなかった。僕の力では守れなかった……だから、今度こそ、みんなの力を借りて、そのひとを守りたい。そう思っただけなんです。もちろん、みんなの力を借りるんだから、僕もみんなに力を貸して、みんなやみんなの大切な人を守りたい。……人類を守るなんて、僕の力だけでは到底無理だけど……みんなの助けを借りてやっとの難行苦行だけど、でも僕の力だってその中に無かったら無理なんだ……思い上がりかも知れないけど、そう思って仕事をして来ました」

 

 アスカはシンジがネルフを再建するために何をしてきたのかを知っている。

 思えばシンジは大学生の時、必死に勉強をしていた。あんなに勉強をする学生は近年珍しいと言われていた程だ。それを布石に、父ゲンドウの隠匿した裏死海文書の捜索と発見、ゼーレとの間では身体を張り謀略を尽くした駆け引きによる新生ネルフの設立劇。

 それが全てアスカを守るためだととうに知っていても、アスカの心は今でもシンジの行動に揺り動かされる。

 

 ─全然、思い上がりなんかじゃないよ。シンジがいなければ、みんなこの場には居ないし、使徒に対する備えをここまで整えることだって、きっと出来はしなかった。

 

 人間の心は不思議で、アスカにはサードインパクトの時に自分を守ってくれなかったシンジへの憎しみと、今こうやって自分を守ろうと必死になってくれているシンジへの愛が同居している。しでかした事と、その償い。プラスマイナス零になっても不思議ではないのに、決してそんな風には人の心はならない。

 

 憎悪の半ば以上は償いにより打ち消され、しかし、愛は憎悪を打ち消した事で費消されたりすることなく、むしろ、(いや)増している。たぶん、サードインパクトが何もなかった世界で恋人になるより、アスカはシンジを愛せているのだろう。

 

 シンジは今でも、道に迷い、逡巡し、誤りを犯し続け、過去の罪の呪縛から脱け出せずにいる。それでも、シンジにはこの十九年に現実において成し遂げた功績がある。アスカを守ってきた事実がある。誰がシンジを非難しようとも、アスカはその事を誰にも否定させはしない。

 

 シンジの言葉は続いている。

 

「人類には……守るだけの価値があります。……みんなはあんな事をした後でも、僕にとても優しかった。僕なんかにでも、優しくしてくれるんだから……人類は肌の色、民族、宗教、男女、障害、性的嗜好、そんな違いを乗り越えて、人類自身に対してもっともっと優しくなれる。そして、そういう人類には生き残る資格があると僕は思う。たとえ地球を使徒と争覇するのが神に与えられた人類の運命だとしても、その運命を打ち破り、この星を継ぐ資格がある。だって、人類は全生物の中で唯一、優しさを持った生き物なんだ。僕はその事を毎日のように、みんなに教えて貰っている」

 

 みんな……分けても、特にアスカの与えてくれた優しさが、シンジを人間にしてくれた。ヒトは生まれながらに人間なのではない、誰かの愛と優しさがヒトを人間にしてくれる。シンジやアスカのように親の愛を十分に与えられなかったヒトでも、互いの愛と優しさがあれば、ちゃんとした人間になれる。

 

 使徒は生命の実を食べ、不老不朽の生命を得た。人類は知恵の実を食べ、矮躯短命ながらも知恵を授かった。だが、本当に大切なのは知恵ではなく、その先にある、他者への優しさだとシンジは思う。思いやりや愛がなければ、賢しげな知恵など何の意味があるだろう。人工進化研究所やゲヒルンが─、そして人類補完計画が─、そこに込められた知恵と研究……愛のない知恵が、人間に何をもたらしただろう。途方もない災禍だけだったのではないか。

 

「碇司令……」

 

 マリ、マユミ、マリイがそれぞれ、真剣な顔でシンジを見ている。

 

「ネルフの仕事はこれからです。僕らの仕事は、人類を使徒、フォースインパクト、人類補完計画の脅威から守ること。どれか一つからでも守れなければ完全失敗です。みんなの力を引き続き、僕に貸して欲しい」

 

 アスカも含めた四人はみな、シンジに向かって大きく頷いて、使命の完遂に全力を傾けることを心の中に誓った。きっとこの場に居ない職員もシンジの言葉を聞けば、一も二もなく同じ事を誓うだろう。シンジの今日の言葉にはその力があった。

 

 シンジはスピーチを終えると座ろうとする途中、アスカにだけ分かる言葉を彼女の耳元で囁き、ニヤリと笑ってみせる。

 

「花屋さんになるのはまた今度だね。僕には大切な仕事があった」

「シンジッ」

 

 言うじゃないか、バカシンジ……。

 

 責任感と自信に満ちたシンジの顔を見て、アスカは口をしっかり引き結んでおかないと、きっと、このまま、泣き出してしまう。

 

 

 その後、若干の補足説明を終えてマユミの報告が一段落付くと、その上司にあたる真希波・マリ・イラストリアスはシンジに向かって頭を下げた。

 

「……司令、ごめん、これは技術部の失態だね。ゆうべのうちに報告すべきインシデントだった」

 

 もちろん真希波マリ自身、今朝の朝一番で報告を受けたのだが、それは部長としての責を免れるものではないから、言い訳はしない。

 

 シンジは横に首を振った。確かにネルフ本部へのシト侵入というのは憂慮かつ即応すべき事案だが、既に起こった問題を叱責してどうなるものでもないし、そもそもこの侵入痕跡の発見はシンジが頼んだ訳でもない、山岸博士の自発的な調査による功績だ。

 

「す、すみません。私、そこまでの判断に至れなくて……」

 

 青い顔をして俯く山岸マユミに、シンジは微笑んだ。

 

「いや、山岸博士は期待以上のことをやってくれてました。ただ確認したいのは、この侵入者は、もうネルフ敷地内に居ない……そして、その後の侵入も確認されていないということですね?」

「はい、その点は大丈夫です。リアルタイムでも同種の不審なデータを再び検出した場合、マギが私に速報するようにコードを既に走らせてあります」

 

 シンジはゆっくりと頷いた。

 

「ありがとう。万全の対応だ。それなら問題ないね」

 

 シンジはそのコードによる速報の相手に自分と惣流、真希波両部長も加えるように追加の指示をする。追加の指示があるということは決して「万全」ではなかったという理屈になるが、そこはシンジのマユミへの気遣いだろう。

 

「山岸博士、以後本件の続報は必ず真希波部長経由で最優先事項として僕に上げてください。他言は無用です」

「はい」

「それから、山岸博士とビンセンス博士には当面、保安部の護衛を付けます」

 

 二人はこくりと頷いた。もう否応なくこのエスピオナージュに巻き込まれているマユミらは重要な情報や分析、データを握っているのだから、いつ拉致などの実力行使を受けても不思議ではない。多少煩わしくなるだろうが、もちろん身の安全や自由には代えられない、と二人は納得する。シンジはそこまでの処置を宣言してから、アスカの方に振り向いた。

 

「それから本件は保安諜報部ではなく、作戦部の所管とするよ。その事は、保安諜報部長に僕から言っておく」

 

 旧ネルフ時代から一貫する保安部の正式名称を挙げ、しかし、エスピオナージュにも関わらず、作戦部の取扱いだとシンジは宣言する。

 

「当然よね。相手はシトなんだから。使徒撃滅はうちの部の仕事だ。司令が向こうに譲れというなら辞職願を書くわよ」

「まーた、剣崎クンとケンカするのは勘弁してよ。抗議文爆弾の応酬とか思い出したくもない……剣崎部長はうまく宥めておくから」

 

 シンジが言う抗議文爆弾の応酬とは、作戦部と保安諜報部の確執により起こった、キッカケは極めて些細な両部員同士のトラブルに端を発した、しかし、新生ネルフ所史に語り継がれる事件で、別名「ネルフ版ゴーストップ事件」とも呼ばれる。セクハラ紛いの男女両部員同士のトラブルが、珍しく業務閑散だった時期に起こったため、女性作戦部員に肩入れするアスカがぶち切れ、以後、繁文縟礼と慇懃無礼の限りを尽くした両部長名の抗議文章の大量応酬すなわち「抗議文爆弾」、それを届ける「伝令」部員の拉致と籠絡と欺瞞情報の流布とそれぞれの部への侵入阻止のためのバリケード構築。

 

 次々にエスカレートする乱戦の中で作戦部と保安部の間に吊り橋効果により四組の男女カップルが誕生し、その中には事件の発端になった両部員二名も含まれていた……梯子を外された形になり「裏切り者」バカップルの出現に激昂したアスカが、差しの会談を申し込んで乗り込んで来た保安諜報部長、剣崎キョウヤの背中に蹴りを入れ、出張から戻ったシンジに大目玉を食らうという事件だった。剣崎がアスカに蹴られた話を公の場で一切口にしようとしなかったため、喧嘩両成敗と相成った。アスカ、剣崎両名は譴責処分。

 

 シンジはこの事件を想起して、アスカのある意味では当然とも言える剣幕に苦笑しつつも、指示を続ける。

 

「で、早速だけど……さし当たり、関係各機関に通報を。ゼーレ、日本政府、米軍、国連軍、戦自……」

 

 アスカは瞬時に真面目モードに戻り、シンジの命令に今度は気遣わしげな顔を向ける。いいの?と再考を促す表情であることが、付き合いの長いシンジにはすぐに看て取れる。

 

 諜報戦の初歩的な対応として、気付いても気づいていない振りをする。そうして侵入者を泳がせ、侵入側の反応を監視する、場合によっては欺瞞情報を掴ませて攪乱するという対応もあり得る。アスカはそうしなくてよいのか?と確認しているのだ。シンジはその確認の意図を正確に読み取ったようで、天井と床に視線を向けるような仕草をしながら、アスカに向かって言った。

 

天知る(天は知ってる)地知る(地も知っている)……」

 いわゆる四知だ。アスカはその言葉の先を継いだ。

子知る。我知る(あんたもあたしも知っている)……」

 

 天地も含め、こんなにも多くの〈者〉が知っている。どうして露顕しない筈があろうか……というのが正しく四知の原義だ。シンジの言わんとすることを諒解して、アスカは頷いた。

 

 なるほど、シンジが示唆するように、シンジ、アスカ、マリ、マユミ、マリイと……確かにこの案件は多くの人間が既に知ってしまっている。このぐらいの人数なら許容範囲内という気もするが、しかし一人でもゼーレその他に通じる人間が含まれていれば、隠蔽する事自体にも、リスクがあるというわけだ。シンジとしてもこの中の誰かを疑っているわけではない。だが、何か疑わないで済む根拠がある訳ではない。 

 

 そして、この場に誰もスパイがいないとしても、そもそも、今回のシトと想定される侵入者はゼーレ自体が差し向けた可能性だって否定できない。だが、もしそうならばこそ、真っ先にゼーレに報告しなければならないのだ。なぜなら、ゼーレがシトを侵入させたのなら、ゼーレはシトが侵入したことを当然に知っているのだから……いつまで経ってもネルフがそれを報告してこない事について、発見できない程の余程の無能と高を括るのでなければ、ネルフに二心ありと解釈するのが当然だからだ。面従腹背を貫くシンジは、外面においてゼーレに疑いを持つことや不服従であることが許されず、報告の遅疑逡巡は、上位機関であるゼーレに忠勤を励むべきネルフの司令の立場としては許されない。

 

「分かったわ。えっと通報順は……」

「ゼーレには僕が連絡する。残りは作戦部から通達」

「なら……国連軍、在日米軍、日本政府、戦自。この順番でいいわね」

 

 シンジはにっこりと微笑んだ。アスカ、よく見た、と言いたげな表情だ。

 

 マリイ・ビンセンスが小首を傾げて訊ねる。

 

「どうしてですの?ここは日本なんですから、日本政府に真っ先に通報したほうが良いのではなくて?」

「うん……アスカ、最新の数字が分かるかな?」

 

 マリイの問いにシンジはアスカを促した。

 アスカはシンジからの問い掛けをまるで予期していたように、タブレットの画面をちら見してすぐに答えた。

 

「最新の内閣支持率は……三十一%よ」

 

 失政やスキャンダルが続き、経済の足元も良くない状況で、現内閣の支持率は必ずしも高いとはいえなかった。

 

「……決して良くはない数字だね」

 

 シンジは寸評する。

 

「そんな状況で、日本政府より先に国連軍や米軍にシト再出現を告げる通報が入っていたと国民が知ったなら、どんな反応を示すのかしらね?」

 

 アスカはマリイ・ビンセンスを振り返るとそう言って、口角を吊り上げる。

 

 アスカの引いて見せた説明の補助線に、マリイは息を呑み込む。事は、シトの再出現に関わる話だ。それは、全ての国民の重大な関心事項なのだから。

 

「……なるほど、ネルフの冷遇により、日本政府の外交能力への国民の信頼が揺らぐ……それを日本政府は避けたいだろうという読みですのね」

 

 シンジはマリイの理解が正しいことを保証するように頷く。

 

「もちろん、通報が遅れた抗議は日本政府から一応あると思うよ。ただ、それは形式的なもので、日本政府は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。邪険に扱われるほど日本政府はオオゴトに出来なくなる。たぶん、シトの情報欲しさもあって、今後は大きく折れてくると思うよ。僕らからすれば……それは願ったり叶ったりだ」

 

 優しくすれば厚遇が返ってくる、それを基本的に期待して行動するというのは、個人レベルでは推奨される人付き合いの在り方であり、美徳かも知れないが、シンジはもう少し、組織相手の「悪さの仕方」を承知しているのだった。

 

「冷たくされるほど折れてくる……まるでマゾヒスト……こほん……ですわね」

 

 マリイが思わず出てしまった感想に咳払いをして言葉を結ぶと、シンジが少し表情を弛める。

 

「日本人はサムライの子孫だからね。誇り高く、他国や国際社会から軽んじられることを看過できない。その誇りのために、かつては世界の強大国に片端から喧嘩を売りまくったぐらいだ」

「その国民性が逆説的に世界における日本政府の立場を弱くする事もある……今回のケースがそうなのよね」

 

 アスカもやれやれと肩をすくめた。折れることを知らない誇り高き国民性と、現実の折れざるを得ない状況の板挟みが、リアリズムに立脚する他に道のない政府の立場を弱くする。

 

「そういうことになるね……」

「でもシンジ、あんた、少し日本政府に意地悪じゃない?」

 

 アスカは昔、松代で日本政府により、虐待的な実験要員とされていたことがある。アスカにはシンジのこの追い込み方が、あるいは当時のアスカの取扱いに対する日本政府への復讐や意趣返しではないかと疑う気持ちもある。

 

「僕が本気で意地悪したら、こんなものでは済まさないよ」

 

 さりげなく言ってのけたシンジに、アスカは顔をしかめる。

 

「おおこわっ……司令には逆らわないようにしよう」

 

 アスカのわざとらしく大袈裟な物言いにシンジは薄く笑った。

 

「アスカが僕に逆らわないようにする?……それは、シトの侵入以上のインシデントじゃないかな」

 

 シンジの軽口にアスカはきっと睨み付ける。

 

「あんたねぇ」

 

 ここから際限なく続きかねないアスカとシンジの言い合いを一旦水入りさせるように、真希波マリが割って入った。

 

「いやぁ、わんこクン……失礼、碇司令は相変わらずこういう知謀ゲームは大得意だにゃ」

「うん、まあ……でもアスカにもちゃんと分かってた話だし。僕の分かる事なんか、アスカには全部分かってしまうから」

「あたしはシンジの考えを忠実にトレースしただけよ。あたしはそんなにずる賢くないから」

 

 しかしもちろんトレースするには同等の知力が必要なのは言うまでもなかった。そして、相手の考え方の癖や心の奥底まで知るほどの濃密な信頼関係も必要になるだろう。そんな事が普通、出来るのだろうか? 余程、相手のことばかりを考えて、想いをシンクロさせなければとても叶うはずのない思考の重ね合わせだった。

 

 その山岸マユミの心中の驚きを見透かしたかのように、アスカは明るい口調で言った。

 

「あたしとシンジは、エヴァパイロットだった子供の頃、ユニゾンの訓練というのを受けたの。相手に対して完全に思考や行動を同調させる訓練よ。だからあたしは今でもシンジに対して完全にユニゾンをやってのける自信がある。なにせ訓練中は、歯磨きの仕方や寝相やトイレのタイミングまでシンクロしてたんだから。多分、そこらの一卵性双生児だって、あたしたちよりも同調はチグハグな筈よ」

 

 もちろん二人はその後、ユニゾン訓練を継続している訳ではないが、その代わりに数千回も肉体的な契りを結び、ある意味で、呼吸を合わせてきたのだ。今でも二人で寝ていると、自然に寝相が揃ってくる事がある。くの字に身体を曲げたシンジの背中に、同じく、くの字に身体を曲げたアスカが、子供の遊ぶブロック玩具か何かを元通りケースに収まるよう同型パーツ同士を丁寧に揃えて後片付けした時みたいにぴったりと寄り添って、背中からしがみついて朝を迎えるというのは、以前、よくあったことだ。

 

 あるいは、ひしと抱き合って眠りにつき、目覚めたときにお互いの見た夢を語って聞かせると、殆ど同じ夢を見ていたと判明した事がこれも何度もあった。眠りに付くまでの二人の寝物語の内容などを起点にして、情報整理の役割を持つレム睡眠中に、同じ思考プロセスを辿って情報の整理を行った結果が夢になったものだろう。こんな「同床同夢」もまた、思考のシンクロ、ユニゾンと言える現象の一つなのかも知れなかった。

 

 アスカはシンジをそっと見る。

 

(一年後、あたしとシンジは遂に結ばれないのかも知れない。でも、あたしとシンジが誰よりも特別な二人だったってこと、あたしは知っている。それを忘れられるはずがない)

 

 だって、あのユニゾン訓練はアスカに、この世であんな風に気持ちを通い合わせられる相手はシンジだけだと気付かせてしまったのだから。あんな風になれる相手を広い世界でもしも見つけてしまったのなら、きっとそれ以後は、その相手の事が頭と心から二度と離れない。もうその相手のことで頭がいっぱいになってしまう。だから、それはある意味では呪いにも似ている。呪いにも似た恋のインシデントだったのだ。

 

 山岸マユミにとっても、アスカからそんな機微なエピソードをわざわざ聞き出すまでもなく、シンジとアスカ、この二人の関係はそれほどまでに深い、というのは、端から見ているだけで感じ取れた。当初、愛憎関係としてマユミが想像していたほど、ギスギスしておらず、むしろ十分、仲が良さそうに見えるのが意外だった。

 

 でもそうだとしたら、ここまで相手の考えに自分を寄り添わせることが出来、二十年近くもそばに居続けている男女が、サードインパクトがらみの事情を抱えて結ばれる事のないつらさに耐えているというのは、事情の一端を知ったばかりに過ぎないマユミにとっても、気の毒さを感じさせるのに十分だった。ただ、二人が少なくとも今は、たとえ表面上であっても、明るく笑顔を交わせているのは救いだろう。一方で、マユミはそんなにまでも絆の深い二人を羨ましくも思うし、そのような伴侶的存在を手に入れることの出来ない自分の寂しさを改めて思い起こすのだった。

 

 一方、真希波マリの関心はむしろシンジの謀才の起源にあった。赤いメガネのフレームをくいっと指先で押し上げると、興味が尽きないという表情で訊ねる。 

 

「……司令がいつも考えるこういうイケズな意地悪のやり方は、日頃、姫からされている事から勉強してるのかにゃ?」

「「全然、違います」」

 

 シンジとアスカはユニゾン訓練の成果を証明するかのように綺麗にハモって、丁寧語でピシャリと否定した。

 

「あたしはシンジに意地悪なんてしないわよ、ね?シンジ」

「うん、僕はアスカに意地悪なんてされないよ……」

 

 もじもじとシンジを上目遣いで見て、幾分の不安混じりに確認するアスカと、日頃アスカから受け取り続けている優しさを些細な諍いや小うるささや我が儘の類で減点したりはすまいと堅く決意しているシンジは、視線を交わしあう。

 

「意地悪なんてするわけない。シンジにはいつももっと別のことをしているのよ、ね?」

 

 アスカは頬を薔薇色に染めて言う。

 

「う、うん……」

 

 シンジは、僕はアスカにはいったい日頃、何をされているのだろう、と小首を傾げる。思い当たる事といえば、逆にアスカとのやり取りにおけるあらゆる事象が当てはまりそうで絞りきれない。だが、いずれにしても、頬を染めている以上、アスカがシンジにだけしかしないような、甘やかで秘めやかな行為なのは間違いないだろう。

 

(あとで答え合わせがあるんだろうな)

 

 答え合わせという名の再現が待っていることはシンジにとって、むず痒くも嬉しくもあり、その答え合わせに先立つ質問に万一外れようものなら、アスカはどんなに不機嫌になるのだろうか、と同時に憂慮が深くもなる。

 

「あ、あとアスカ」

「ん?」

「戦自に通報する前に、霧島さんに通報内容を教えてあげてほしいんだ」

「……なるほど、霧島三佐に花を持たせてあげるのね」

 

 作戦部からの正式連絡前に、ネルフに出向中の霧島マナが古巣の戦自に情報を入れる時間を与えてやれば、霧島の手土産になるだろう。霧島の戦自における立場も強化される。

 

「霧島さんには要目だけでいいよ。彼女はそれだけで自分なりの情報として整理できる。アスカが後から公式に流す情報とはあまり似すぎない方がいいから……ってこんなのアスカには言うまでもないか」

「最近、妙に女への気遣いが細やかになったわねえ……」

「そんな……霧島さんがたとえ男でも、僕は同じ事を言うよ」

「どうだかねぇ~♪怪しいものよ」

 

 そう言いながらもアスカの機嫌は良い。自分の男が仕事を的確にこなしている所を見て、胸が弾まない女がいるだろうか。

 

 それに、アスカはもうシンジと霧島の仲を心配していない。もともとシンジの方からというのは、あまり疑っていなかったし、霧島が真っ直ぐな女だというのも知ったからには、霧島がアスカに黙ってそういう事をする筈がないと信じているからだ。霧島なら、アスカに堂々ライバル宣言してからシンジにアタックするとか、あるいはこちらの方が可能性が高そうなのだが……アスカと三人で付き合おう、セックスでも3Pしようとか、無茶苦茶な事を言い始めるのではないだろうか……。

 

 だからそういう浮ついた話ではなくて、むしろ、アスカの見るところ、シンジはおそらく霧島をとっかかりとして、戦自内部にも親ネルフの人脈を張り巡らしたいのだろう。新生ネルフの発足直後から毎年実施している戦自との合同演習もそうだが、旧ネルフが物理的に覆滅された力は戦自にあるのだから、これに意を用いるのは当然だった。任地惚れという訳でもないだろうが、すっかりネルフ贔屓になっている霧島の立場が戦自において強まるのはシンジとネルフにとっても有益な事であるはずだった。

 

 実際、シトに侵入されるという不名誉事案を奇貨として、シンジはこの際、戦自との関係を強化しようと考えていて、今一つ二つのアイデアも考えている。シンジは転んでもタダでは起きる積もりはなかった。

 

 ゼーレなどへの通報に加えて、戦自への工作……また忙しくなってきたな、とシンジは頭の片隅では考えながら、しかし、順番的にはまずこちらだ……と、ずっと心理的に後回しにしてきた問題に遂に向き合う決意をする。シンジは山岸マユミの顔を見て、静かに頭を下げた。

 

「今回は色々とありがとう、山岸博士」

「え、は、はい……」

 

 シンジのお礼に反射的に反応しつつも、突然、自分の方に話が戻ってきたので、マユミは戸惑う。

 

「……でもそろそろ、もう一つの情報も教えては貰えないかな」

「え?」

 

 マユミは戸惑うばかりだが、シンジのマユミを見つめる視線が鋭さを増した。

 

「侵入者はネルフの施設内を只、そぞろ歩きしただけ……なわけではないのだから、内部の誰かと連絡を取ったに違いない。その日しかネルフに侵入していないのだから、その誰かとの接触が重要だったのだろうね。シトとはいえ、人型の存在をわざわざ差し向けるのは、人間の相手は人間にしか出来ないからだ」

 

 ここまではごく常識的な推論だった。

 

「単なるデータや情報の窃取なら、リモートのコンピュータでも出来る。666プロテクトを破ってまでマギへの侵入を試みた……実際にそこまでした前例まであるんだ。だけどそうはせず、ヒューミント(人的諜報活動)を手段として取ったのなら、どうしても人と接触しないわけにはいかない。だから相手は必ず居るはずだ。人流システム解析がその相手を分析出来ない筈がない。なのに、それを山岸さんはあえて報告していない」

 

 シンジはそこで言葉を一旦切って、マユミに迫る。

 

「必ず存在していなければおかしい相手について報告しないのは、その相手を庇っているから……そう、だよね?」

「ち、違います」

「どう……違うのかな」

 

 シンジは少し声のトーンを抑えて、マユミに対するが、しかしマユミが逃げ出すことを許すような甘さを残した態度ではなかった。

 

「その、碇司令と二人だけで話した方がいいと思ったもので……」

「……っ」

 

 シンジはそこで虚を突かれ、唇を噛み締めた。そうか、山岸さんはその相手を庇いたかったのではないのか……。その人物に係累として連鎖する僕を庇いたかったのか。賢しらに推理を巡らしても、自分が出してしまう結論は時に幼い。他人をむやみに疑い、人の善意や好意を理解しない。そんな僕は、真っ当な人間だと言えるのか。

 

「……ごめん、山岸さん。僕は誤解していた」

 

 シンジはやっぱり他人を信じきれていない。他人の……人間の優しさが理解できていない。あれだけ人間の優しさこそが、人類存続の理由足りうると力説していたのに……。理論と実践の乖離。それがどうしようもなく恥ずかしい。

 

 どうして自分は人を信じられないのだろう。これだから、僕はダメなんだ。アスカを幸せにできる人間じゃないんだ……。だって、僕はきっと、山岸さんの優しさと同じように、アスカの呉れる優しさだって、きっとちっとも理解出来てないんだから。

 

「でも……遠慮することはない。その相手の名前を教えてほしい。この場にいる他の人たちを気にすることはない。みんな信頼していい相手だ」

 

 シンジは消沈しながらも、マユミを促す。

 山岸マユミはシンジの顔を見れなかった。

 

「そうよ、コイツに遠慮なんてする事は全くないわよ」

 

 今までのやり取りを黙って見ていたアスカが、シンジの肩に手を当てて、言った。

 

 アスカにはシンジの推論、その途中までの正しさと最後における誤り、そこに至る心の動きと意気消沈までが手に取るように分かった。シンジがアスカを守るために猜疑と策謀の世界に足を踏み入れざるを得なかった事情を承知している。本来のシンジが、人を信じられなかったり、疑り深かったりする訳ではないのに、シンジはそれを自分の人間不信や人間性の欠如と誤解するのだろう。

 

 だからアスカはこんな風に言うのだ。

 

「なによ、山岸さんがちょっとぐらい情報を出し惜しんだからって、お小言や文句ばっかり言っちゃって、みみっちぃオトコねぇ! こういうのは発見者だけに許される、絶妙の公表タイミングの演出ってものがあるのよ!ジャジャーン、パンパカパーンってね……!」

「アスカ……」

「惣流部長……」

 

 あえて、物事が何も見えていない道化になって、シンジと山岸マユミを二人ともどもに救おうとするアスカの言葉に、二人は声を詰まらせた。シンジはずっと前から知っている。アスカの不器用な優しさはいつもこうだ。自分が悪者や道化を演じてでも、皆を救おうとしている。誰にもその優しさが気づいてもらえなかったら、アスカはそのまま悪者や道化になってしまうのに。でも、アスカは別にそれでもいいと思っているのだ。覚悟なんて次元ではなく、そういう風に彼女は自然に思って、行動してしまう。アスカは我が強く、それ故に自分勝手なようでいて、本当の所は自分自身の優先度は低い。そうでなければ幾ら承認欲求を満たしたいからといって、それだけのために命と精神を掛けて、エヴァのパイロットなどやれるはずがなかった。彼女の心にはいつも人類全体や他者の幸せへの気配りがある。それがアスカなのだ。

 

 そして、アスカはシンジの肩に置いた手に力を込める。

 

 どんな答えが山岸さんから返って来ても、二人で受け止める。二人でならきっと受け止められる。今までだって、ずっとそうしてきたんだから。誰かに引き裂かれない限り、アスカとシンジはいつも二人一緒に生きてきたのだから。

 

(大丈夫だよ、人間は間違えを犯す事はある。でも大丈夫だ。あんたにはあたしが付いている。いつだって)

 

 アスカの顔を見ると、頷く彼女が無言でそう言っているのが、シンジにはよく分かった。

 

 シンジは自分の肩の上に置かれたアスカの手の温かみに思わず涙が込み上げそうになり、口を引き結ぶと、必死で我慢する。男だから、そんなにしょっちゅう泣いている訳にはいかない。だって、僕が泣いていたら、アスカが泣けないもの。アスカが泣いているとき、誰も抱きしめて慰めてあげられないもの……。

 

 だから、シンジはマユミに頷く。僕らはいつでも二人で一つだ。山岸さん、答えを教えて。僕とアスカなら大丈夫なのだから、と。

 

 そんな風に覚悟を突きつけられ、マユミはその人物の名前を告げるしかなかった。

 

「侵入者が接触していたのは、六分儀……アイさんです」

 

 アスカの手が更にシンジの肩に食い込み、唇が噛み締められる。その表情はシンジも全く一緒だった。

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