大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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四十六話 二つの仮説

「……裏死海文書ってどんな文書なの?」

 

 そう訊ねたのは、珍しくシンジの官舎に泊まった時だから、六分儀アイがアスカの家に来る前だったと思う。

 

 その時、シンジはアスカに言っていた。この寝室には盗聴器の類はない、と。いつものホテルならホテルマンを買収すれば、直前にでも簡単に盗聴器など仕掛けられる。泊まる度に盗聴器を捜索する訳にもいかない。だが、シンジの寝室は安心できそうだった。

 

「なぜここにも仕掛けないのかしら、盗聴器を。……出入りの家政婦さんがスパイなんでしょ」

 

 二回ほどセックスを済ませ、広い寝室に相応しいキングサイズのベッドの上で、シーツにくるまり、自分のものよりも堅い感触をした腕に抱かれながら、アスカはシンジに尋ねた。

 

「そりゃ僕一人で寝てるんだし、独り言も言わないからね。ゼーレは僕の寝言にまでは興味ないんだよ」

「ちぇっ、女を引っ張り込んだりしてないかカマを掛けたんだけど、引っかからないか」

「……やってもいないことには引っかかりようがないよ。僕はアスカ以外の女性は識らないよ……でも、家政婦さんの正体、気付いていたんだね、アスカ……」

 

 通いの老家政婦の話はアスカにもちらっと話しただけだった。アスカはそれだけで彼女の正体を見抜いていたのか。さすがアスカだ。かつての天才少女の灰色の脳細胞は、少女を卒業しても一切、衰えていない。

 

「見咎められたりすることなく、この家を出入り出来るのはその人だけなんだから、子供でも分かることよ。……でもあんたはその家政婦さんをなぜか雇い続けている。それはなぜ?」

 

 大方、ゼーレに対する警戒心の無さをアピールしつつ、欺瞞情報を流すための経路を確保しておく打算だろうとアスカは見当をつけている。……しかし、シンジの答えは違った。

 

「彼女、お孫さんが病気なんだ。だからお金が要る」

「……あんた」

 

 予想していなかったシンジの回答に、アスカはそれきり絶句した。

 

 採用前に保安諜報部長の剣崎キョウヤみずからがまとめた複数のハウスキーパー候補者に関する調査報告で家庭の事情を知って、シンジはその場で即座にこの老家政婦を選んだ。ゼーレとの背後関係も剣崎レポートではきちんと報告されていた。候補のうち彼女だけがスパイだった。だからもちろん、シンジの選択は偽善だ。だが偽善でもいいとシンジは思った。少なくとも、その寝たきりだという孫娘をいくらかは救ってあげられることだろう。剣崎は別に止めなかった。彼はシンジの選択に意見や異議を申し立てる事はしない。男の選択には意見しないと決めていますから、というのが日頃から言葉少ない彼の、その信念らしかった。

 

 そうして、今ではシンジの口利きで、その孫娘は定期的にネルフ所属医官、鈴原サクラ一尉の往診を受け、症状も落ち着いている。シンジは、世界の数多の人々の不幸を作り出してしまった男だ。だからもはや、知らない不幸を救う事は出来なくても、知ってしまった不幸を見なかった事には出来なかった。

 

「もちろん、僕は彼女がしていることを知っている。でもその事実を承知の上で注意深く行動するなら実害はないんだ。流してもいい情報なら、時々は彼女が取得し易いようにもする。きっとゼーレからボーナスとかがもらえるだろうから……」

「ほんっと、底抜けのお人よし」

 

 アスカはシンジをバカにするように鼻を鳴らした。でも、言葉とは裏腹にそんなシンジを誇りに思う。たぶん、自分ならそんな甘っちょろい事はしないだろう。アスカは自分とは違うシンジの生き方に胸を疼かせる。

 

「でも、もしもそれが分かっても、アスカは本気で怒ったりしないと思ってたから、そうしたんだよ」

「ウン……」

 

 アスカはこくんと頷いた。これが若い女や男なら、色仕掛けによる籠絡やら暗殺やらを心配したかも知れない。でも、老女にならそういった心配はない。シンジの気の済むようにさせてやるのがいいのだろう。

 

「バカシンジはバカだけど、アタシはあんたのそのバカな所がいいと思ってる」

 

 それは過去にアスカが強いられた過酷なエリート競争とは正反対の世界だ。この世界のトップエリートにまで上り詰めたシンジがそういう優しい新しい世界を見せてくれると、アスカは胸の奥底が暖かくなる。世界に向かってシンジのことを誇りたくなる。世界の多くの人たちはサードインパクトを起こしたシンジのことを安直に非難するけれど、みんなはシンジより本当にちゃんとしているの? 本当に人間らしい優しさを持ち続けている?……アスカはそう問い掛けたいのだった。

 

 だが世界に訴えるその代わりに、アスカはシンジのほっぺたをフニフニと引っ張る。

 

「ひ、ひたい(い、痛い)……」

 

 シンジがアスカの指に込められたかなり強めの力に、痛みを訴えると、アスカはようやく手を離し、シンジを睨み付けるようにして、言った。

 

「アタシがヴァージンを失った時の痛みはこんなものじゃなかったわよ」

「ヴァ、ヴァージン?」

「そうよ、勿論痛くしたのはあんただ」

 

 なぜそんな話が今、出て来るのか訳が分からずにシンジは面食らった。先ほどのHが痛かったりとか、何か気に食わなかったのだろうか?だが、アスカの口調や表情を観察すると、どうもそうではないようだった。

 

「……だから、その人が何も悪いことをしてなくても痛い思いをする事は世の中にはあるんだ。さらには人を愛することで傷付けることもある」

「う、うん」

「その家政婦さんや病気の子だってそうだ。家政婦さんは病気の孫を愛している、だからそのために、優しくしてくれているシンジを毎日のように裏切る。シンジはあの赤い海の浜辺であたしのヴァージンを奪った。それは愛される事だから嬉しいけど、その瞬間はアタシは物理的に傷付いた。アタシはシンジを愛する為に、これから誰かを切り捨て、傷付けるのかも知れない。そうしない自信なんてアタシには微塵もない。どうして世界はそんな風なんだろう。愛がみんなに溢れていても、大勢の人が傷付き、苦しまなくてはいけないんだろう」

「ごめん……アスカ」

 

 だが、アスカはシンジの謝罪に首を横に振る。少なくともアスカはシンジを非難してる訳ではなさそうだった。それはいわば、愛の排他性と愛の侵襲性の話だった。

 

「でも、シンジはそれが実感としてちゃんと分かってる、世界の残酷さや理不尽さやままならなさを知っている。だから他人に優しくなれるんだ。こうやって突然ほっぺたを引っ張れるように、予告なく理不尽な苦しみや痛みを強いられてきたんだから。アタシたちはずっとそうやって苦しんできた。だからシンジが今、ネルフの司令になっているのは良いことなんだよ。少なくとも……他人に苦しめられたり、その逆に他人を傷付けたり……そういう哀しくて壮絶な想いをしたことのない幸せな人がそういう地位に就くより、何倍も良かったんだよ」

 

 もし、人が苦しみ傷付くことに何かの意味があるとするならば、それはきっと同じ苦しみや傷を他人に与えたくない……と優しくなれることだろう。そんな風に人が成長出来るのなら、苦しみ、痛みにも意味がある。だから、シンジはこの組織がずっと続くなら、きっと歴代司令の中で一番優しいネルフ司令になれると、アスカは思う。

 

「……それはそうとして、ヴァージンはね」

「え?」

「それを失う時、痛みを感じることにやっぱり意味はあるんだよ、きっと。……シンジには分かる?」

「……ごめん、分からない……」

 

 シンジにはその痛みを過去、アスカに与えた後ろめたさがある。アスカが破瓜の痛みに堪えているその瞬間、シンジの下半身には十四歳の人生でこれまで味わった事のない快感が襲っていた。自慰行為とは違う、誰かに温かく包みこまれる快楽……。シンジはその男女の不公平さが後ろめたい。もっとあの時、アスカをいたわってあげれば良かったと今更ながらに想う。当時のシンジには残念ながらそんな余裕はとても無かった。

 

「これはアタシの勝手な考え方だから、他の女はまた違うと思うけど……。女には男を怖がる時期が必要なんだと思う。ちゃんと恐れて、慎重になって、生涯の記憶に残るかも知れない痛みを与えてくれる相手について、本当にこの男でいいのか、見極める……そういう逡巡の後に覚悟を決めるのなら、きっとその痛みは甘美なものになる。この男の子が相手なら、痛くてもそれで良かったと思える。女のたいせつな、一生に一回だけの、純潔(はじめて)を与えても良かったと実感できる。きっと、そういうことなのよ」

 

 もちろん、アスカの言うことは乳臭い小娘めいていて、三十路の女の意見としては年不相応に幼く、かつまた、夢見る乙女じみていた。女が最初に関係を結んだ男と生涯連れ添える方がきょうび、むしろ珍しいだろう。女に千里眼があるでなし、男の性質のすべてを見通せる訳ではない。純潔とはむしろ精神の問題であって、碌でもない男に引っかかった時には、殊更に重く受け止めずに、前を向いて新たに進むべきだろう。だが、アスカのいう理想だって、それが幸運にも叶うのならば、それに越したことはなく、アスカは幸いにもシンジに対して完全に貞操を保持し得ているのだった。

 

 アスカは学生時代に、与謝野晶子が「私の貞操観」という表題で書いた文章を読んだ事がある。確か、晶子はその中でこう言っていた。

 

 ─良人と自分との間には心の上に虚偽がない。何事も隠さずに打明けねば自分の純潔を好む心が済まない。従って肉体をも純潔に自重したい。不貞なる行為はやがて不潔である。虚偽である。純潔な肉体は、自分の純潔な心の最も大切な象徴として堅く保持したいと思うのである。

 

 その文章はまさにアスカのシンジに対する気持ちそのものだった。シンジはアスカの良人(おっと)ではないが、アスカの貞操観念の中では、殆ど夫に等しい存在であった。だから、アスカはこの文章に強く共感したのだった。

 

 

 とにかく、盗聴器はない。それは確かだとシンジも請け合い、確認が出来た。

 

 だからこの寝室での、睦言や嬌声には遠慮する必要がなかった。寝物語に裏死海文書の事を聞くことだって出来る。シンジは文書の中身についてはアスカにも決して教えてくれる事はないだろう。でも、その形式や裏死海文書とはそもそも何なのかについては話してくれるかも知れない。だからこそのアスカの質問だった。

 

「……裏死海文書ってどんな文書なの?」

 

 それに対してシンジは枕から頭をずらして、少し顔を捻った。

 

「そうだね……記述の晦渋さと曖昧さは、少しだけど、中国の讖緯説に似てるかな」

「しんいせつ……」

「まあ、儒教の経典にかこつけた予言の類かな。……例えば、三国時代の武将袁術は、讖緯書にあった《漢に代わる者は当塗高なり》という記述から、後漢が滅んだ後の次の皇帝は自分だと思った。塗も術も路も全部《みち》の意味があるから」

 

 術は言うまでもなく袁術の名、路は袁術の字、公路を指している。なぜ、塗にみちの意味があるのかは、説文解字に「塗は泥也。土に从(従)いて、聲を涂とす(部首は土で、涂と発音は同じ、の意)」とある事からも明らかだろう、道は泥で出来ているものだ。同様に説文には「術は邑中の道也。行に从(従)いて、聲は术とす」ともある。術の原義は寧ろ道であって、そこから方法や法則にも意味が拡張されたものらしい。

 

 もともと前漢の帝位を簒奪した新の王莽や後漢を建国した光武帝劉秀も讖緯説の信者だった。現実離れした儒教原理主義で一代限りの王朝創始者に終わった王莽はともかく、中国史上、屈指の名君とされる光武帝さえも予言の類に惑わされていたというのは、当時の讖緯説の影響の巨大さを物語るものだろう。

 

「自分の名前を無理やり見つけ出して自分に関する予言だと思い込むの?……そんなの、ただのこじつけじゃない」

「そうだね。予言の類は僕の分類するところ、一、意味のよく分からない文章をこじつけと後付けで都合よく解釈する 二、予言により益を得るものがでっち上げる 三、自己成就的予言、の三つに分類される……」

 

 裏死海文書に手をつけて以来、シンジは予言の類についても資料を渉猟し、一定の知識を身に付けていた。

 

「最後の、自己成就的予言というのは?」

 

 耳慣れない言葉にアスカがシンジの解説を求める。

 

「……左右に分かれた道を右に進めば、無事に道を通り抜けられる、という予言があったら、予言を信じるものはどちらに進むと思う?」

「そりゃ、右に進むんじゃない?予言を信じているんだから」

「そう。そして大抵の場合は無事に通れるよね。左に進んでも無事だったかも知れないけど」

「なるほど……予言の存在自体が、予言を知っている人間の行動を制約、左右してしまうのね」

 

 と、さすがにアスカは聡く、理解は早い。

 

「そう、さっきの袁術も、予言を信じて皇帝に即位したよ。つまり予言は成就した。袁術の場合は、皇帝に即位して無事には終わらなかったけど……」

 

 袁術は皇帝になれると予言を読んで信じなければ、皇帝にならなかったかも知れない。オイディプスは「父を殺し、母と交わる」という神託がなければ、父を殺し、母と交わる事はなかったかも知れない。人間には選択肢と意志があり、予言はそれに影響を与えてしまう。予言を知らない場合とは別の道を選んでしまう。シンジだって、エヴァの再建に足を踏み入れているのは、それが裏死海文書に書かれた計画通りだからだ。

 

「だから予言はある意味では計画書だよ。それを信じる者がその通りに事を進めるから、成就するんだ。裏死海文書にもその側面がある」

「でもそれだけでは無いんでしょう?」

 

 アスカは鋭く指摘した。それだけのものなら、ゼーレが目の色を変えて、シンジの頭の中の「裏死海文書」を高値で買うはずがない。ネルフという一機関を再興し、その司令の座にまだ若いシンジを据える。それだけの価値が認められている裏死海文書は、明らかに普通の「自称予言書」の類とは異なるものであるはずだ。

 

「……僕はずっと、誰がこの予言書を書いたのかを考えている」

 

 シンジの答えはあえて、アスカの問いをずらすものだった。でも、たぶん、それが一番近道の説明なのだろう。

 

「原本はヘブライ語、アラム語やギリシャ語で書かれていると聞いたわよ。紀元前後にその辺の言葉を操る人たちが書いたんじゃないの?」

「それは裏が付かない方の死海文書の話だよ。僕たちはそれをよく混同させられてしまう。でも、それがそういう、混同させる狙いを持って、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……誰も紀元前後の文書である事を疑わないんじゃないのかな」

「……そ、それは」

「僕が裏死海文書を見つけたとき、確かにヘブライ語やアラム語の文書も一緒に見つけたよ。だけど、僕はかろうじて何語か分かっただけで、どうせ読めないし、即座にそれを処分するよう子安さんにお願いしてしまった。だから、それが本当に一緒にあった父さんの筆跡のノートと同じ内容のものだったのかはもはや永遠に分からない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。心理的陥穽だよね。でも本当にそうだったのかな?……それに子安さんだって、ゼーレの命を受けているのだから、原本を渡されたのなら、なんとか隠匿したっておかしくはなかったのに、目の前で火を付け、ためらいなく海に投棄した……それはなぜだろう。もちろん、子安さんには彼なりの思惑があるのだろう。僕を盛り立て、僕の頭の中の裏死海文書を唯一のものとしてその価値を最大化させなければ、ネルフ設立も、理事長として采配を振るう機会もない。彼は野心家だからね。……でも想像を逞しくすると、子安さんはヘブライ語やアラム語の文書はダミーだと知っていたのかも知れない……結局、僕が見つけた意味ある文書は、父さんのノートだけなんだ」

 

 それは重大な指摘だった。もし、ヘブライ語やアラム語の文書が原典ではないとすれば……そもそも紀元前後の文書なのかは疑わしくなってくる。ゲンドウの全くの創作でないのなら、それは別の原本があり、ゲンドウはわざわざそれを手書きで書き直した事になる。そしてビスケット缶には本当の作者を知られないように欺瞞文書まで同封した。しかし仮にそうだとしたら、一体なぜ?

 

「裏死海文書には讖緯説的な晦渋さを突破して理解に進むと、明らかに未来のことを記述しているとしか思えない記述がある。過去の使徒出現やエヴァ建造に関する記述は事実と合致している。でも、その時々の戦いで、僕らがどんな行動を取り、結果がどうなったかは奇妙に省略されている。初めはそういう体裁の文書なんだと思った。だけど、それはまるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()みたいな省略の仕方だと思えるようになったんだ。《登場人物》の記載がない文書なんだよ、裏死海文書は……」

 

 シンジの説明にアスカはごくりと唾を呑み込む。

 

「《登場人物》の行動が予測出来ないのに、どうして、使徒の出現やエヴァの建造は予測できるの……」

「うん、そこだよね。それはつまり、書いたのは決して全知全能の神様ではないって事になる。書かれているのは著者が知っていた事だけで、予測出来ない事も普通にある……著者は当たり前の人間なんだ」

 

 しかし、それは一面、奇妙な主張だった。使徒やエヴァの出現と《登場人物》の行動は共に未来の事ではないのか。どうして前者は既知のことで、後者は未知に属するのか。

 

「……これはSFみたいな仮説になるんで話半分に聞いて欲しいんだけど、二つ理由を考えてはみた」

 

 シンジは寝台の上で不安げにアスカを抱き寄せながら言った。アスカは素直にシンジに身を任せる。全裸の身体の敏感な部分同士が擦れ合う。甘い痺れが身体を走り、アスカの内奥を少しだけ濡らす。

 

「一つは、僕らの世界は上位世界の誰かによってシミュレーションされている世界で、裏死海文書はその上位世界の誰かが書いたシナリオという仮説だ」

「この世界はシミュレーテッド・リアリティの世界かも知れないってこと?」

 

 眉根を顰めたアスカの反問にシンジは静かに頷く。シミュレーション仮説というのはおぞましさと不安と奇妙な魅力を同時に感じさせる考えだ。自分以外の人間はみんな作り物だとか、自分はトゥルーマンショーの登場人物だと考えたりするのは、誰にでも経験のある事だろう。

 

「もしそうだとすれば、与件としての使徒やエヴァについては書けるとしても、観察対象である《登場人物》の行動は予測出来ないのも無理はない。むしろ、その《登場人物》の行動をひっそり観察することこそがシミュレーション世界を運用する目的なのかも知れない」

 

 ……観察などしてどうする?それは只の楽しみか?暇つぶしか?それとも深甚な人間関係と人生の教訓を読み取らんが為なのか。そんな事、分かるはずがない。

 

「ただ、この仮説が困るのは、結局の所、神の存在を仮定するのと同じ事なんだ。全知全能ではないにせよ、上位世界の存在を仮構する事は、不完全な存在だとしても、僕らの手出し出来ない神様を認める事に等しい。その神様が僕らに悪意を持っていて、僕らを無理やり引き裂いたり、非業の運命を与えても対抗手段はないのだから、甘受するしかない」

「偽の神、狂った神であるヤルダバオートないしはデミウルゴスってわけね。アタシたちは、その偽物の神様の性格が比較的まともである事を祈るしか無いわけか……」

 

 アスカはグノーシス主義における造物主の名前を挙げた。反宇宙的二元論に立つグノーシス主義では、世界を悪徳に満ちた、狂ったものとして否定的に捉える。そんな宇宙をこしらえたのは造物主ながらも不完全な存在で、「彼」が不完全だから、世界も不完全で、悪と穢れに満ちているのだという。

 

「ヤルダバオートが単なる上位世界のつまらない人間だとするならば、彼女と上手く行かなかった日にはアタシたちにちょっかいをかけたり、奥さんと喧嘩したからと世界に八つ当たりをしたり……なんてコトもあるのかも知れないわよね」

 

 とアスカが言うのは勿論冗談だ。シンジは薄く笑って、それから首をゆっくり振った。

 

「でもね……けっきょく本質的には自分たちがシミュレーション世界の住人なのかを確認する術はないんだ。さらに言えば、上位世界が仮に実在するとしても、その上位世界の住人にだって、自分がシミュレーション世界の住人ではないことを証明する術はないわけだしね。上位世界にはさらなる上位世界があるのかも知れないのだから。だからこれはある意味では考えても意味のない徒労だね……」

 

 そして、シンジは目を瞑って、あの赤い海の浜辺を思い浮かべた。世界にたった二人……アスカとだけ存在していたあの日、あの刹那の事を……。シンジはあの時、広い世界にアスカと二人だけなのが怖かった。拒否されれば自分は世界の全てから拒絶されたのと同じ事になる。そして何よりアスカに拒否されるのが怖かった。他の相手に拒否されるのとは全く意味が違う。だから、シンジはアスカの白い首を絞めた。拒絶される前に独りになりたかった。嫌いだとか、他の相手が良かったと言われるぐらいなら、彼女を消してしまいたかった。それはシンジの怯懦にして卑劣さだ。だが、大切な……シンジ自身の罪にして悪なのだから、その責任を誰かに都合よく渡してしまう訳にはいかない。そんな事をしてしまったらシンジは人間ではなくなってしまう。もうアスカに二度と向き合う事が出来なくなってしまう。

 

「やっぱり、自分自身の行動を何でも神様のせいにするわけにはいかない……」

 

 世界なのか、運命なのか、上位世界の神なのか、名前は何でもいい。しかし与件はあくまでも与件だ。与えられた条件にどう反応し、行動するかは碇シンジの意志だった。運命がどんなに過酷な圧力を掛けようと、そしてその結果、導出されたシンジの行動がどんなにか卑怯で卑劣で情けないものだったとしても、それをシンジは、彼以外の誰かのせいにするわけにはいかない。だって、碇シンジは自由意志を持った人間なのだから。

 

 アスカは、目を瞑るシンジの懊悩の気配と言葉に何かを察したのか、そっと身を寄せた。

 

「神様のせいには出来ないだろうけど、アタシのせいにはしていいよ……シンジ」

「アスカ……?」

「女は男を狂わせる。アタシぐらいの美女ならなおのこと、だよね。シンジが気後れしたってしょうがない。いつまでたっても真正面から立ち向かえなくてもしょうがない」

「立ち向かいたい気持ちはあるんだよ……でも僕はバカだし、色々半端だから……」

「今日も二回とも、アタシからだったしね……」

 

 シンジの顔色を伺いながら、今はからかっても大丈夫とアスカは踏んで、シンジの鼻先を白く細い指でつつく。

 

「だからさ、三回目はあんたからしたら?」

「う、三回目……するの?」

「うん、お話の続きはその後にすればいいよ。ね?シンジはアタシに立ち向かう?」

「た、立ち向かうよ……」

 

 シンジはやや乱暴にアスカを抱き寄せて、キスをする。アスカはすぐに目を瞑る。シンジのキスは上手だ。アスカを相手に無数に繰り返してきて、彼女の反応を知悉している。手慣れている。互いの舌を絡めて、アスカの唾液をすする。シンジの口腔内や歯の裏をアスカの舌が艶めかしく這う。アスカの味をシンジは、シンジの味をアスカはよく知っている。

 

 やがて、シンジは充分に堅くなり、アスカは潤ってきた。だから、シンジはアスカの中に溺れる。彼女の中に溶け込んで、快楽を貪った。吐息と律動のリズムを合わせ、二人で一緒に上り詰めていく。

 

 ……終わったあとの虚脱感が、シンジを心地よく脱力させていた。シンジはアスカの片方の胸をまさぐりながら、もう片方の胸の上に頭を預けている。アスカはシンジの手の動きを好きなようにさせている。

 

「すっきりした?」

「……うん、ありがとう……アスカ。良かったよ」

「楽しかったね、シンジ」

 

 アスカにとって、それは快楽であると同時にシンジとのコミュニケーションだった。単なる下半身の肉体的結合ではなく、視線の交錯や、唇同士の接触、舌による愛撫、頬ずり、平たい男の胸に押しつぶされる女の豊かな胸、言葉にはならない吐息と喘ぎ……様々なノンバーバルなコミュニケーションの手段だった。その交わりで二人は一つになり、第三者を完全に排除して、閉じた関係を日々濃密にしていく。

 

 だから気持ちいい、ではなく、楽しい。

 

 アスカにとっては、もはや幼なじみでもあるシンジとある種のゲームをする感覚もそこには含まれているのかも知れなかった。何しろ、二人は親友で、二人のセックスは「仲良し」なのだから……。

 

 シンジが手櫛で、アスカの流れるような金髪を梳いていく。その感触に二人はそれぞれに陶酔する。だがその陶酔の中でも、アスカはそろそろ、話を再開し始める。 

 

「……で、もう一つの仮説はどんなもの?」

「もう一つの仮説は、やっぱり裏死海文書はこの世界の誰かによって書かれたものと考える……」

 

 シンジの広い胸に甘えるように一度、頭をうずめてから、アスカはやや遅れて反応する。

 

「……まあ、それが穏当な考えじゃないの。神様だのシミュレーション仮説だのを持ち出せば、ぶっちゃけ何でもアリになってしまうんだし。でも、この世界の人間なら、なぜ未来が予知できるのかは謎ね。まさか、超能力者でも居るっていうの?」

 

 そこからがシンジの仮説の肝だった。

 

「そこで、鍵になるのが、なぜ使徒やエヴァの事だけ確定的に書いて、僕ら《登場人物》の事は確定的に書けないのか、という点なんだ。アスカには分かる?」

「……うーん、サッパリだわ。だって、どちらも未来のことでしょう。エヴァパイの行動だって重要なのになぜ書けないのかしら……ってシンジは答えの心当たりがあるんだね」

「うん」

 

 シンジは少し申し訳無さそうに鼻の頭を掻いた。だからアスカはシンジにすがりつくように、おねだりするように、答えを促す。ここまで話を聞かされたら、好奇心は押さえられない。

 

「ケチケチしないで教えてよ。その辺の話なら、別にあたしが知っても支障はないんでしょ、ゼーレに露見が許されない未来そのものの話ではないんだから」

「まあそうだね……あくまで仮説だけど、僕はこう考えるんだ。裏死海文書の著者は、エヴァや使徒については体験したことだから知っている。でも、《登場人物》の選択や行動はまだ体験してないから、分からない」

「はぁ?意味が分からないわ。だってどちらも同じ未来の話でしょうに」

 

 アスカにはシンジの言葉が筋が通ってないように思えた。次の爆弾のような一言を聞くまでは。

 

「それが一回限りの時間の流れ、なら……ね」

「な……なに、言って……るの」

「僕らの時間が、円環のような繰り返しの中にあるのなら、エヴァや使徒については記憶を持ち越すことさえ出来れば、一度は体験したことだから分かる。でも、僕ら自身が毎回どう行動するかは、《周回》ごとにまちまちだから、その著書には分からなかった。だから裏死海文書のように書ける要素と書けない要素が生まれた。言い換えるなら、毎回変わらない要素と変わる要素があると考えるんだ。そうすれば、前者は既知で、後者は未知なんだ。どう?これで色んな辻褄が合うと思うんだけど」

「……そ、それは、だってそれじゃ……時間を繰り返してる人間がアタシたちの中にいて、ソイツはずっと記憶を保持してるって事になるじゃないのッ」

 

 アスカは動揺と狼狽を隠せない。本当にSFみたいな話で、シミュレーション仮説以上にショッキングな話だった。だったら、先に起こる未来をある程度知りながら、その悲劇を真剣に防ごうともせずに傍観していた人間が居ることになるのではないか。あくまでも自分の利己的目的のために。少なくとも、アスカには未来を知りながら、悲劇到来を防ぐために動いていたような人物には心当たりがなかった。

 

「そうなるね。残念ながら僕は《前回》の記憶なんか無いから、著者じゃないみたいだけど。……アスカには《前回》の記憶があったりする?」

「な、あるわけ無いでしょう、こんな突拍子もない話!……まだ信じられないわよ」

「別にこれが真相と言う訳じゃないよ。単に裏死海文書に書かれている内容と書かれていない欠落の落差を説明する一つの仮説というだけで……」

 

 シンジはにっこり笑って言った。

 

「単なる寝物語の戯れ言だと思って忘れてくれていいよ。僕らにとって人生は一回こっきりで、やり直しなんか出来る筈がない。記憶が持ち越せないなら、やり直しても今の僕らは死んでしまうのと同じだ。つまり、ループなんか無いのと変わらない」

 

 アスカはぎこちなく頷いた。確かに不可知論に属する話なら、先ほどのシミュレーション仮説と同じで、論じる意味の余りない話だ。

 

「ただ、仮にループしてる人物自身が裏死海文書の著者なら、父さんが……最有力容疑者だな」

「……碇ゲンドウが……裏死海文書の……」

「父さんなら動機に関しては充分だよ。人類補完計画が成功して、母さんと一つになるまでこれを続けるという動機があるからね。どうやって時間をループさせてるのかは見当も付かないけど」

 

 そうなれば、ゲンドウの筆跡によるノートが現存唯一の裏死海文書の内容を記したものであることの説明は綺麗に付く。ゲンドウ自身がループして、過去の《周回》の記憶を元に書いたものということだ。ゲンドウのノート以外はダミーであり、ゲンドウの「写本」以上の原本はもともとなかったということになる。

 

「それとこの仮説を信じるならば、あと、もう一つ二つ言えることがある。……良いニュースと悪いニュースというやつかな」

 

 どちらから聞きたい?と尋ねる映画などでよく見るお馴染みの奴だ。しかし、シンジはそんな風に尋ねはせず、アスカは自分から切り出した。

 

「良いニュースの方は?」

「……少なくとも、裏死海文書が記載されている未来まで、人類は存続したことがある。だから、上手くやればそこまで未来を引っ張れる」

「じゃ悪い方は、なんなの……」

「その反対だよ。裏死海文書に書かれている未来は、ループした歴史の中でのハイスコア時の記録に過ぎない。それはあくまでもベストエフォートであって、書かれている未来までの予約切符ではない。僕らの《周回》でそこまで人類を存続させられるという保証は何もない。何しろ《登場人物》の僕らはどう行動したかは分からないんだから。僕に出来るのは記載されたイベントの間を繋ぐ行間を推測し、どんな風に立ち回れば人類の生存率が上がるかを考えて準備する事だけだ」

「くッ……」

 

 そんな結論、最悪じゃないか。これまでは、裏死海文書を知るシンジが未来に絶望していないのだから、少なくともアタシたち人類全体の未来は開けているとアスカは信じていた。シンジとアタシの運命はともあれ、人類は生き残れると思っていた。……でも、そこには何も保証めいたものがないのだとすれば、アタシたちはどうやって、何を希望に生きていけばいいのだろう。

 

 だけどその時、シンジは不安そうな顔をするアスカに向かって言ったのだ。

 

「こんな説、どちらも忘れて良いさ。僕はアスカを守ると決めた。裏死海文書はそのための一つの手段に過ぎないよ……父さんの大学ノート一冊に全てを賭けている訳じゃない。……僕はどんな手段を使っても、アスカを必ず守る」

 

 考えてみれば、シンジの才覚は恐ろしい程だ。裏死海文書には、書かれている未来の出来事と、書かれていてもおかしくないのになぜか書かれていない未来の人々の行動がある。たったそれだけの事実から二つの合理的な仮説を構築してみせた。もちろん、その仮説が真実だという保証はない。真実であることを証明さえできない性質のものであるかも知れない。だが、シンジの見せているこの才能は、そのループ説を信じるならば、きっと他の《周回》では遂に見せる事なく終わった異才であるのかも知れなかった。それを開花させたのは、アスカに対する責任感だ。アスカを二度と見殺しにせず、必ず守り通すという強い意志。だからきっと、アスカはそれだけを信じて、付いていけばいい。

 

「うん、仮説は一旦、忘れる。アタシはシンジだけを信じる」

 

 シンジに向かってアスカはそう頷いて見せた。

 

 

 ……だから、その約束通りに、つい先ほどまで殆ど忘れていたのだ。取調室に十三歳の同居人の少女が入ってくる前に、束の間の待ち時間にふと思い出しただけの話だった。

 

「学校がある時間に呼び出して悪かったわね、アイ」

 

 六分儀アイというシンジによく似た少女が室内に入ってきた。マジックミラーを通して、隣室からシンジと剣崎と真希波マリが監視している。

 

 アイは不安そうな顔をしながらも、アスカの顔を見るとホッとしたようで、明らかに緊張を緩めた。

 

「今日はちょっとお話が聞きたいだけなの」

「ウン……」

 

 席を勧めて、アスカはそう切り出した。アイは椅子を引いて静かに腰掛けると、金属製のデスクを挟んで、アスカと真っ直ぐに向き合った。

 

 アイはアスカの中学生時代と同じ……アスカの親友洞木ヒカリの形見である制服を着ている。今日は頭に、アスカにプレゼントされた赤いヘッドセットもしていた。しかし、なぜか胸元のリボンタイはしていなかった。

 

「最近、リボンタイしてないのね」

「……取られたんだよ。悪い男の子に」

 

 アイが悪戯っぽい目でアスカを見た。この言葉の意味、分かる?と挑発するような目だった。

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