大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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四十七話 蝉の雪

 古人曰わく

 

 みざる所を以て人を信ぜざるは、蝉の雪を知らざるが若し。

 

 夏に生きて死ぬ蝉が、冬の雪を知ることは普通はない。だから、蝉が雪を知らないように、狭い了見だけで判断してはいけない。……そういう話だ。

 

 だけど、蝉が何かの理由で雪を知ってしまったら?

 

 その雪を知った蝉は、雪を知らない蝉より、本当に幸せなのだろうか?

 

 

 マジックミラーの向こう側の取調室に、アスカと六分儀アイが向かい合って座っている。

 

 それをミラーのこちら側から観察しているのはシンジ、技術部長の真希波・マリ・イラストリアス、保安諜報部長の剣崎キョウヤの三人だ。

 

(ゼーレからの侵入者とそれに接触した内通者、か……)

 

 冷静になって考えてみれば、シンジの養女であるアイがゼーレの内通者である筈がない。それは養父であるシンジや保護者であるアスカの立場を守るとかそういった保身の意味ではなく、十三才の少女にはゼーレとの接点も内通するメリットもないからだ。

 

 そもそもアイはシンジと同じくアスカを守りたいと思っている。ゼーレの目指す人類補完計画とは全く正反対の立場の筈だった。

 

 一方通行の半鏡の向こう側にはアスカとアイがいる。シンジが無条件で信頼できる相手だ。

 そして……とシンジは、同じ隣室側にいるマリと剣崎を横目で見る。部長職である彼らのことも十分、信頼はしている。が、アスカやアイの場合とは少し意味合いが違う。それは、彼らを信頼することが今後のシンジの対ゼーレ戦の前提となるからだ。前提だから信頼する。冷淡なようだが、いくらかドライな信頼関係とは言える。

 

 マリさんへの信頼については……とシンジは少し考え込む。あれは、真希波マリのみならず、アスカ、剣崎が揃って部長に昇任し、総務部長と経理部長も合わせて、新生ネルフにある五つの部、その全ての部長を刷新する人事を発動した時の事だった……

 

 

「You solved the problem like cutting the Gordian knot!(まるでゴルディアスの結び目を断つ、みたいに処理したね!)……まさに快刀乱麻を断つ、だね!」

 

 帰国子女らしい綺麗な発音の英語で、そう言って、部長の辞令を受け取ったばかりの真希波マリは、気安くシンジの肩を叩く。司令室の丁度真ん中あたりに立ちながら、シンジは思った。アスカの幾らかドイツ語訛りの英語よりも綺麗かも知れないな。……何せ最近ではアスカは母語のドイツ語でさえ、日本語訛りになって錆び付いてきたと嘆いているくらいだ。

 

 マリが言っているのは、これまで外部機関からの出向ポストとして押さえられてきた五つの部長ポストをネルフ生え抜きのプロパー職員(自機関採用職員)に入れ替えた人事上の果断な処置を指している。

 

「そんなに簡単には行かなかったんだけど……松風さんが、出向元と見事に折衝してくれたからね」

 

 と苦笑しながらシンジが功績を称えるのは、人事課長の松風ネネの事だ。シンジたちと同年で、甘えたような態度と口調が特徴的な女性だが、「人形遣い」と呼ばれるほど、他人を己の意に沿って動かす人心収攬の術に長けていた。その論功行賞もあって、今回の部長職交代劇では、めでたく総務部長に昇任することになっていた。

 

「でもタイミングを合わせての果断はお見事だよ。これは司令の采配だね」

「……マリさんならなぜタイミングを合わせなくては行けなかったのかは分かるでしょう?」

 

 それは見事な成果と言うより、確実にそうする必要があったからだ。

 

「んー、まあねー。理由は二つかな?」

「一つは?」

「守旧派の蠢動を避けるため。異動から外れて残った守旧派が団結したら、次はポストを動かせるものも簡単には動かせなくなる」

「うん、正解だ。もう一つは?」

「……出向元の五つの機関を公平に扱わないといけないからだよね。今、空きポストになってて、司令が兼ねている作戦部長と技術部長も含めてね」

 

 作戦部長は本来は戦自の、技術部長は日本政府通商産業省(工業技術院)の出向ポストになっていたが、前任時代から適任者無しとして空席になり、シンジが二つの部長職を兼摂していた。後者にはそもそも政治性は薄かったが、前者、後者ともにいち早く、出向元が部長ポストを自発的に引き上げたのであり、ネルフ側のプロパー組織化の意図を早々に汲み取って、恩義を売ったという形になる。

 

「……流石、気を見るに敏だと思ったよ、日本の侍の末裔と通産官僚は。……戦自とMITIにはいずれ、恩を返さないとね」

 

 これが後の霧島三佐の出向受け入れにも繋がってくるのだが、シンジは戦自との友好関係は非常に重く考えていた。なにしろ旧ネルフ職員を虐殺したのは戦略自衛隊の侵攻部隊であり、だからこそ、なおのこと、シンジは戦自との遺恨を「恩讐の彼方に」置いてでも、友好関係を確立する必要があったのだ。シンジには過去のネルフ本部侵攻と虐殺について、遺恨や怨念を引きずる積もりは全く無かった。むしろ、その遺恨や怨念を冷徹に切り捨てることこそが、シンジの至上命題だった。

 

 それにもともと、部長職を出向職員で補ってきたのは、プロパー職員がまだ若く、その重任に堪えないから応援を頼んだという形でもある。今や、作戦・技術両部の惣流、真希波の両筆頭課長は十分にその任に堪えるとシンジは見ており、それがポストの空席を経ての、今回の部長昇任に繋がっている。だから苦しい時期を支えてくれた日本政府各部局には恩誼もあるし、当然、友好関係を継続しておきたいのだ。シンジは後ろ足で砂を掛けるような事はしたくなかった。今後、ネルフとゼーレの謀略戦は熾烈を増していく。しかし、謀略は信義の上によってのみ立つ。誰も味方がいない謀士など、切り札のない状態でポーカーをやらされるようなもの、頓死を約束されているようなものだ。

 

 人事交流は、ポストのバーター(交換)を前提とする場合が多い。ネルフの場合は、部長職に適任の経験年数を積んだプロパー職員がいなかったため、他機関の熟練の人材を部長として受け入れてきたわけだが、その代わりに、ネルフからも複数の、より下位のポストに出向する形となっている。部長職ポストを各機関に引き上げてもらうためには、その代わりとなる下位のポストを複数提供する必要があり、その参考になるポストのレベルと数は、現にネルフから相手機関へ出向している者に各機関で用意されているポストだった。

 

 しかし、この際、ネルフに提供している出向ポストをプロパー用に取り戻そうとしたり、ネルフ側に用意させる下位ポストの職責や、数について要望があったりと、各機関それぞれの思惑があって、なかなか一筋縄ではいかない。松風ネネはそれを各機関間で情報交換させたり、連携させたり、一致団結してネルフの組織プロパー化の取り組みに抵抗するような暇を与えず、極めて短時間で調整を終わらせる必要があった。しかも、こうした駆け引きを松風は─対外的にだけでなく、部内に対しても着任予定の人材や出向ポスト化の打診という形で行わなければならなかったのだが─、極めて、丁寧かつ迅速に、それも朝飯前といった態度でなんなくやってのけた。

 

 その秘訣は一つには出向者を通じて、かなり広範な相手先の人事情報をあらかじめ握っていたこと、その情報も量だけではなく、属人的な能力評価や、個人情報なども含み、相手先機関のウィークポイントや求めるポストなどを的確に把握できる質の高いものだったことにある。松風ネネは、極端な例では、相手先の「使えない人材」をネルフの閑職ポストに引き受けるなどの譲歩も行った。ただし、その場合のポストは一代限りである。相手先機関では持て余している人材の厄介払いが一時的にでもできることになるし、ネルフもポスト提供が一代限りで済むというメリットがある。松風はこの手のテクニックに知悉し、熟練していた。もちろん、ネルフ部内の人事情報や人事のツボに関しては心得たものであるから、部内調整でも余計な軋轢を加えることがなかった。多摩ヒデキという札付きの人材を抱えながらも、人事課がその評判をほとんど落とさなかったのも、ひとえに人事課長松風ネネの力量だった。

 

 明王の人を使うは巧匠の木を制するが如し、とはまさにこの事だな、とシンジも感嘆して、本人にも言った。

 

「出向者に、他機関の人事情報まで収集させて事を有利に運ぶ……松風さんは、人を木工細工のように使いこなしていますね!見事なものだ」

「うふふ。……私はただ、人が為すことを為さずに、遊んでいるのが、気にかかってしまうんですぅ。なぜ、その子は、遊んでいるんでしょう?やっぱり、それは操り手の側の問題だと思いますねぇ」

 

 操り手という彼女の個性的な表現には、多少引っかかりを感じるが、松風課長はよくやってくれている、というシンジの評価は決して過大なものではないことがわかるだろう。

 

「部長級を全員プロパーで固めて、いよいよ新生ネルフ第二段階の始まりだニャ」

 

 猫口になったマリが、お手並み拝見とばかりに、司令であるシンジをニヤニヤと眺めている。

 

「新しい部長の皆を、僕は信頼しているよ」

 

 シンジは言った。信頼することが今後の作戦の大前提だから信頼する。全ての人間を疑うことなど出来ないから。だから、その人の人間性や優しさや信念、そういったものを手掛かりに信頼するしかない。

 

「信頼か……でも、あたしはイスカリオテのマリア、なんて呼ばれた事もあったからなあ……」

 

 シンジは目を丸くして、耳慣れない渾名を聞き返す。

 

「イスカリオテのマリア?それが昔のマリさんの渾名?キリストを裏切ったユダみたいなものかな……ってごめん……」

 

 どこの誰がそんな渾名で、若い女性のことを呼ぶのだろう。当然に湧いてくる疑問をシンジはどうにか口には出さずに済ませた。考えてみれば、シンジは大学の同級生だという事実以外に、真希波・マリ・イラストリアスの事をなにも知らない。

 

「いや自分から紹介した渾名なんだし、いいよ。まあ、ユダと同郷ではあるんじゃない?あたしもよく知らないけど」

 

 マリは、苦笑してシンジの謝罪を打ち消す。

 

「そんな適当な……」

「ま、あたしだって、昔は……そう、昔と言っていいのかな……いろいろ痛いことをしたことがあったんだよ」

 

 遠い目をして、マリがそう言ったので、それは「昔」と「最近」の間あたりに属する時期の話なのかな、とシンジは見当を付ける。

 

「痛いこと?」

「うん、例えば、親友の彼氏を奪ろうとしたり、とかね」

「うわ……そ、それは洒落にならない話だね」

「本当にそうだね。その後の人間関係は滅茶苦茶になったわ、あはは……」

「……当然でしょう?」

 

 眉を顰めたシンジの言葉にも、マリを責めるような語感が籠もる。

 

「でもその二人も悪いんだよ!彼氏はしばらく離れていた彼女が、今は他の男に気があるんじゃないかと妬いて、彼女を突き放そうとするし。彼女は彼女で素直になれないし。要は、隙だらけだったんだ」

「でも、やっぱりマリさんが悪いじゃないですか。そんなカップルのすれ違いや隙間に付け込むなんて」

「ごめん、否定はしない。悪いのはあたしだね」

 

 しかし、マリはなぜそんなプライベートな話題を僕に話すのだろうか、とシンジは首を捻る。それにマリが自分に向ける視線にも妙なむずがゆさを感じるのだが……

 

「あの、マリさん。お願いがある」

「ん、何かな。碇シンジクン」

 

 昔の同級生としての呼び方で、マリは頷く。

 

「……親友を裏切った事があるって話ですけど、もうそういうのは止めて下さい。アスカはマリさんのこと、本当に親友だと思っている。委員長……洞木ヒカリさんが亡くなってからは、彼女と同じぐらいか、あるいはそれ以上の存在にマリさんはなっている。だから、アスカを裏切ったりはしないで。彼女は本当に傷付き易くて繊細なんだ」

 

 シンジの言葉に、マリは真剣な顔をして頷いた。

 

「……分かってるよ。親友を……姫を……二度と裏切ろうとしたりはしない。だから、シンジクンも、姫をずっと信じてあげて。二度と手放そうとしたりしないで」

 

 手放すというのは、シンジが大学卒業前にアスカに迫った別れ話の事だろうか。それ以降、確かにシンジとアスカは身体の繋がりを細々と維持する微妙な関係になっている。アスカがそこまで立ち入った話をいくら親友とはいえ、他人に話しているというのは意外だった。

 

「うん……」

 

 そう頷きはしたものの、シンジには自信がない。シンジはもうアスカに自分からの卒業を強要しようとしたりはしていない。あの決定的な破局からも、アスカとシンジは少しずつ立ち上がり、ぎこちなく歪ながらも関係を修繕してきた。でも……それでも、最終的にアスカと自分が結ばれるべきなのかどうかは、シンジには未だに分からなかった。

 

「その時のあたしがちょっかい出した彼氏はさ、彼女の心の浮気みたいなの……ほんのちょっとした仕草で、他の男の子にも心を許してるみたいに感じられるのが、本当に嫌だったみたい。顔で笑って、別れを告げて、でもそれは一緒にいるのがつらかったから。他の男と親しげにしている姿を見るのが嫌でイヤでたまらなかったから。……そういう独占欲も多少は良いけどさ。相手にだって、意志があるし、自由もある、寂しくなることだってある。他の男の子と一切話すな、話すなら別れる!……みたいなのは、女の子にも気の毒だ」

 

 そういう独占欲の暴走みたいなのは、シンジ自身にも心当たりがあった。だからグサリと突き刺さるようなマリの言葉を、忠言耳に逆らうとばかりに素直に受け止めて、シンジは言った。

 

「そういうの、もう大学で止めたよ。どうせ僕にはもうそんな資格ないんだし……」

 

 確かにシンジは大学生の時、アスカへの独占欲を剥き出しにして、彼女が他の男子学生と当たり前の級友として会話を交わす事さえ認めようとしなかった。アスカはそれを受け入れてくれていたが、本当はシンジは自分が情けなかった。他の男と較べられたら負ける、そういう不安感だけが当時のシンジを支配していた。アスカの気持ちを信じることも出来ていなかった。あの頃のシンジは、松代でアスカとの約束を裏切り、夜の生活でもアスカを上手く抱けず、アスカに一方的に優しくされるだけで、男として劣等感に苛まれていた。でも、現在のシンジとアスカは愛人であっても恋人ではない。今となっては過去に恋人だったことがあったかもよく分からないのだが、とにかく今のシンジにはアスカに対する独占欲を抱く資格がない。

 

「……大学の時の話をしてるわけじゃないんだけど、まあ覚えてないし、しゃあないかな……それに資格がないというのも違うでしょ」

 

 シンジの耳に届くか届かないかという小さな声でマリは、ブツブツと呟き、思案顔になる。

 

「……マリさん?」

 

 マリは、極端から極端に行くシンジを窘めたかった。男との会話一つに嫉妬懊悩し、一切の会話も許さないような独占欲も、独占欲を抱く資格がないという無力感に満ちた諦念も、どちらも間違っているとシンジに教えてやりたかった。でも、それを言語化するには時間も経験も不足していた。

 

「とにかく、姫をもう二度と泣かせない。それだけはわんこ君とあたしの約束だ!」

 

 人差し指を突き付けながらマリはそう宣言するが、アスカを事ある毎に泣かせているシンジは首を横に振った。

 

「そんなの無理だよ。僕と居るとアスカはしょっちゅう泣いている。あの子がかわいそうでならない。あんなに優しい女の子なのに、僕のことでいつも泣かせている……出来ないことは約束しない」

 

 頑ななシンジの態度に、マリは顔面の神経を引くつかせる。後ろ向きの癖に、手強すぎるな、わんこ君……。

 

「わ、分かった。それなら……こう、誓いなよ。姫の涙は全部、わんこ君が受け止めるんだ。泣かせた責任は全部碇シンジが取る。そして、碇シンジ以外の事での涙からは、完全に姫を守ってあげなよ」

 

 シンジは自信なさげではあったが、今度はマリの言葉に黙って頷いた。アスカを守りたいという気持ちに偽りはない。マリの言葉は二人の関係に対する干渉ではあったが、シンジはその励まし、差し伸べられた手をはねのける気にはならなかった。

 

「……ところで、マリさん。結局、その彼氏は奪い取れたんですか?」

「え?」

「だって、奪い取ろうとした、みたいな言い方をしたから。未遂なのか、どうなのかと思って」

「気になるんだね。でも、それは……内緒」

「そ、そうですか」

「ヒントをあげるなら、んー、そうだな、けっきょくは、……シンベリンみたいな話なんだよね」

「シンベリン?」

 

 確か、国連太平洋艦隊にそんな名前の艦があったな、とシンジは頭の片隅から記憶を呼び起こした。

 

「うん。シェイクスピアにそういうお話があるから調べてみたらいいよ。その時の彼氏はさしずめ、ポスチュマスで、彼女は王女イモージェンだね」

 

 シェイクスピアのロマンス作品だとマリは教えてくれた。何かの機会があったら読んでみようとシンジは思った。

 

 

 真希波・マリ・イラストリアスは、たとえ僕を裏切ることがあっても、惣流・アスカ・ラングレーを裏切らない。シンジは過去の回想からその確信だけを持った。さしあたってはそれで十分だった。僕が背中にナイフを突き立てられようと、マリさんがアスカを守ってくれるのなら安心出来る。

 

 シンジはそれだけで満足し、それから、横目の視線をそのまま、剣崎キョウヤに向けた。シンジより年上で、ミサトや加持たちと大学では同窓という話を聞いたことがある。しかし何歳だと言っても通用するような顔をしており、一見して年齢不詳の男だ。

 

 剣崎クンも部長就任の時に、個性的な事を言っていたっけな。あれは決して忘れることが出来ないやり取りだった。あれ以来、僕は彼を信頼している……。

 

 

「あなたは自分の母親を売春宿に売り飛ばせますか?」

 

 それが剣崎キョウヤに、「自分には諜報の才覚があるだろうか」と尋ねたシンジに返ってきた、剣崎からの反問だった。

 

 勿論、シンジは絶句した。

 

 しかし、すぐに納得した。当たり前の倫理観を飛び越える事が諜報の世界のルールなのだ。後で聞いたところ、この質問は第二次世界大戦にまで遡る、諜報部に配属された新人を、ベテラン諜報部員がからかうジョークなのだそうだ。

 

 そのジョークを剣崎はニコリとも笑わないで、シンジにぶつけてきた。

 

「自分には諜報の才覚があるだろうか」

 

 シンジは今後のゼーレとの暗闘では、当然諜報や防諜が重要になると自覚しており、前任者である碇ゲンドウ(間に何人か出向者による暫定の司令は存在していたが)よりも、保安諜報部の活動に注力し、手厚く予算を付けると剣崎に約束した後の質問とその返しだった。シンジにはやはり頭の中でロジックをこねくり回し策略を考案は出来ても、人間相手に冷酷になれるかどうかが不安だった。父ゲンドウのように、アスカや綾波レイや自分の息子さえも手駒のように扱い、あるいは弊履のごとくに切り捨てられるとは自分でも思えなかったからだ。

 

 しかし、よく考えてみれば、シンジの母親、碇ユイはシンジが幼少の頃にエヴァ初号機に取り込まれて亡くなっており、シンジには母親が居ないことを剣崎キョウヤもとっくに承知しているはずだった。

 

 つまり、この「母親を売春宿に」は笑顔一つ見せなくても、やはり剣崎なりのジョークなのだろう。

 

「なら、僕は合格だね。碇ユイで良ければ幾らでも売春宿に売り飛ばすよ……」

 

 と言いながら、シンジの心はやはり痛んでしまう。碇ユイがとっくの昔に亡くなっている故人でも同じだった。顔もろくに覚えていなくても母親は母親だ。ましてやそれが、綾波レイやアスカの事だったら……とても同じ質問に平静で居られる自信はなかった。

 

 シンジの顔に浮かんだ苦痛の色を見ながら、剣崎は呟く。

 

「しかし、諜報戦というのはそこまで家族や恋人を標的にするものでもないです。諜報員同士、お互いやられたくないことですからな。報復を考慮すれば、ある程度の自制は働く。ましてや、自分からなど……。つまり誰だって、母親を売春宿に売り飛ばしたりはしないということです」

 

「それならなぜ?」

 

こんな質問を、とシンジは剣崎に尋ねる。

 

「これは確かに新米諜報員をからかうジョークですが、誰だって母親を売春宿には売り飛ばしたくない。その事を覚えておく事は大切だと私は思います。諜報員も人間です。ですからそれが弱点になる。大切なものを守りたい心があるから、そこに付け込める。一方、諜報員も人間です。当たり前に哀しみ、傷付く存在です。そのどちらも忘れて頂きたくはない」

 

 諜報員も人間です、という言葉を剣崎は二度繰り返した。しかし、その意味はそれぞれ違っていた。前者は人間の弱点について、後者は人間の……人間性について語っていた。シンジは決して忘れまいと思った。

 

「……よく分かりました。大切なことを教えてくれてありがとうございます、剣崎さん」

 

 剣崎は沈黙と共に頷いたが、それから付け加えるように言った。

 

「さん付けは止めていただけませんか、碇司令」

「どうしてですか?新部長はみな、さん付けにするつもりでしたけど」

 

 シンジは新しく部長になるマリ、松風、伊藤(経理部長)を皆、さん付けで呼んでいる。プライベートではともかく、アスカも公式の場では惣流さんと呼ぶだろう。剣崎もそれに合わせているだけだし、伊藤と同じく加持世代の年上である剣崎にさん付けは自然だったのだが。

 

「女性に対するさん付けとはやはり違うでしょう。どうも司令が、年のことを意識されているようで困ります」

「そうですか……」

 

 シンジはごく当たり前の礼儀の積もりだったが、そういえば、父さんは年上で恩師の冬月副司令を呼び捨てにしていたな、と唐突に思い出した。

 

「上下関係というのはだんだん弛緩してくるものです。他の部はそれでも構わないかも知れませんが、保安諜報部ではいささか拘りたいところです」

「なるほど」

 

 この人は自分のポリシーを伝える場合でも、終始、控えめな言い方だな、とシンジは思った。他の部の事には口を挟まないという態度も含め、堅実で実直な人柄が窺われる。

 

「役職名でもクン付けでもかまいません」

 

 シンジは了解したと、頷いた。

 

 

「最近、リボンタイしてないのね」

「……取られたんだよ。悪い男の子に」

 

 アイが悪戯っぽい目でアスカを見た。この言葉の意味、分かる?と挑発するような目だった。

 

 取調室で、金属製のデスクを挟んで向かい合いながら、アスカはそのアイの返事にギロリと少女をねめつけた。尋問の内容からは脱線するが、聞き逃せ無い発言だった。

 

「悪い男の子に、ですって? 女の子なんだから、そんな蓮っ葉な物言いはやめなさい、アイ」

「女の子だからってどうして? 男も女も平等でしょ。恋愛だろうが、セックスだろうが、何をしたって……」

 

 アスカがいきなり立ち上がり、金属のテーブルの上に手を突いて、ばん、と大きな音を立てた。

 

「子供が悪ぶって、みっともない背伸びをするのはやめなさい」

 

 アスカは低い声の迫力でアイを脅しつけると、軽く咳払いをして、席に座り直す。

 

「……アスカ……さん」

「そりゃ、女だけが一方的に貞淑さを強要されるのはおかしいわよ。でもね、やっぱり、取り返しが付かない事になって後悔したり、傷つくのはどうしても女なんだ。男と女は平等だけど、決して同じじゃない」

 

 アイの特殊な生い立ちを慮ったとしても、彼女はこれからも女性として生きていかなければならないのだ。アスカはアイが少女として、女性として、同性として、傷つく姿を見たくはなかった。

 

「……嘘つき」

「何が嘘つきなのよ」

「アスカ……さんは、中学二年の時、碇シンジを誘惑して、ヤることヤってたじゃないか。後先考えずに。今のボクも同い年だよ」

「な……」

 

 そうだ……アイにはシンジと同じ記憶がある。シンジと同じくアスカとあの赤い海の浜辺で交わった初体験の記憶があるのだ。ずっと目を背けてきた事実だったが、少なくとも記憶の上では、アスカの身体を知っているのはシンジだけではなく、アイもそうだったのだ。だって、言うまでもない事だが、アイはもう一人の碇シンジなのだから。

 

「碇シンジが誘ったんじゃない。ボクにはそんな度胸なんてない、……アスカが誘ったんだよ」

 

 アスカはマジックミラーの隣室で耳をそばだてて話を聞いている同僚たちをそこで初めて意識した。そして、アイはシンジについて語りながら、一人称で説明した。アスカにさん付けも、もう止めていた。幸いな事に、隣室にいるのは、アイの秘密を知っている人間だけだった。

 

「か、関係ないでしょ、そんな話っ!」

 

 ほおずきのように顔を朱色にして、アスカはアイの言葉を制しようとするが、アイの言葉は止まらなかった。

 

「関係あるよ、アスカは奔放に生きてきた女性だ。だから、ボクに何かを指図する資格なんかない」

「ち、違っ。アタシはずっとシンジとだけ……シンジ以外とは……」

「無計画に、目の前にいた、手頃な……抵抗しなさそうな男子に手を出しただけでしょ。それがたまたま碇シンジだっただけだ」

 

 アイは皮肉そうに口の端を吊り上げる。

 

「そうでなけりゃ、アスカがボクなんかを好きになるもんか。碇シンジなんかを好きになってくれるもんか!」

 

 アイは明らかに荒ぶっていて、傍目にも機嫌が悪かった。だからアスカは戸惑いながらも、反論する。

 

「どうしたの……一体どうしたっていうのよ!そんな訳がない、アタシは誰でもいいわけじゃない、シンジが良いんだ、シンジだけが欲しいんだっ!」

 

 単なる偶然で、目の前にいた相手だからシンジを選んだ訳じゃない、そんな事、アイだってちゃんと分かっている筈なのに。

 

 最近まで、アスカとシンジとアイの奇妙な疑似家族の関係は小康状態であり、アスカの主観的には良好だった。なぜ、アイはこんな風にアスカとシンジの関係に否定的になっているのか。まるで、誰かにおかしな考えを吹き込まれたかのように豹変している。

 

「全部……自己欺瞞なんだよ。アスカは最初の自分の選択の間違いを認めたくないから、自分でそう言い聞かせてるだけなんだ。……そんなんだから、二十年も待ってるのに、あのいい加減な男に、何の責任も取ってもらえていないッ」

「……シ、シンジはいい加減な男なんかじゃない!」

 

 シンジは最初にアタシとの関係のボタンを掛け違えただけなんだ。サードインパクトの後は、必死で石にかじり付くようにして、アタシを守り、救おうとしてくれている、それが愛とは違うシンジの独善だったとしても、アタシはアタシのために努力してくれるシンジが嬉しかった。そして、そんなシンジをすぐ傍で見つめながら、いつか、シンジと二人で愛を見つけられるという希望を持ち続けてこれたのだ。

 

 しかし、アイはそれを即座に否定する。

 

「じゃあ、どうして今に至るまで、アスカを幸せにしてあげられていないの?」

「それは……だって、アタシは……それなりに幸せ……だよ」

「いつも、泣いてばかりいるくせに。いつも碇シンジに泣かされているくせに」

 

 それは……だってしょうがないじゃないか。アスカは叶うことなら叫び出したかった。だって、アタシとシンジの間にはエヴァンゲリオンがある。サードインパクトがある。使徒があり、ネルフがあり、ゼーレがあり、人類補完計画がある。ゲンドウがあり、ユイがあり、キョウコがあり、アスカの父があり、六分儀アイがある。あらゆる忌まわしいものが、傷つけ合うような家族とトラウマが、お互いの間には横たわっている。そして、シンジがアタシに犯した罪と、アタシがシンジに犯した罪と、アタシたちが人類に対して犯した罪で、アタシたちは雁字搦めになって、少しも身動きが取れなくなっている。

 

「……アタシとシンジは何がいけないのか知らないけど、どこか噛み合わなくて、足掻いてももがいてもどうにもならない時がある。でも、シンジはアタシに優しくしてくれる。アタシだってシンジに優しくしてあげられる。だからもう、それで十分じゃないか……」

 

 アイはそこでアスカの妥協だらけの幸せに失望したように、薄く小さく笑った。

 

「アスカがそんな風に、自分をごまかし続けて、碇シンジとちゃんとしないなら、ボクだって誰と何をしたって、構わないはずだ。ボクがカヲル君と何をしたっていいでしょ、ねぇ?」

「カヲル……」

 

 その言葉にアイの目の前のアスカだけでなく、ミラーの向こうの面々もざわめいた。カヲルというのがもしも渚カヲルの事ならば……いや、そんな筈は決してあり得ないのだが……渚カヲルは碇シンジが自らの手で抹殺した存在ではないか、と。

 

「そう、渚カヲルだよ。第十七使徒タブリスだ。カヲル君は、ボクに世界の異なる……様々な可能性を見せてくれた。……色んな世界があったんだ。アスカとボクが幼なじみの世界、ボクらがサードインパクトを阻止した世界、そして、ボクとアスカが別れてしまう世界……」

 

 アスカがその言葉に息を呑む。

 アイは立ち上がって、そちらからは只の鏡にしか見えないマジックミラーに向かって叫んだ。

 

「ねぇ!お義父さん……いや、ボクのオリジナルの碇シンジっ!聞いてるんでしょ!アスカは、別にあらゆる世界で、碇シンジのものだと決まってる訳じゃないんだよ!アスカは自由意志のある独立した女性だ!だから、碇シンジがちゃんとしてなければ、誰かに取られてしまうんだよっ。どうして、それなのにグズグズしてるんだよっ、お前っ、何もしてないじゃないかッ、だからアスカを取られたりするんだよっ!!」

 

 アイはポロポロと涙を零していた。悔しくて悔しくてたまらない、そんな表情で、必死に両の拳を握り締めている。

 

 この世界のアスカとシンジが決して知り得なかった情報をもたらすそのアイの悲痛な叫びに、アスカもシンジもマジックミラーを挟んで、共々に顔面蒼白になっていた。

 

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