アイへの取り調べが終わり、関係者は通常業務に一旦戻った。シンジも司令室に、アスカも作戦部長室にそれぞれ引き上げた。
「……」
「……」
二人は途中のエレベーターでは一言も言葉を交わさず、お互いの顔も見ようとはしなかった。
ぎこちなく押し黙り、今にも壊れそうな関係の崩壊を少しでも先延ばしにしようとしていた。もうあんな話を聞いては、今までの二人では居られる筈もないのに。
アスカが作戦部のあるフロアでエレベーターを先に降り部長室に向かう。何人かの部員が廊下ですれ違う度に、会釈や敬礼をしてきた。機械的に応じたような薄ぼんやりとした記憶はあったが、気が付いたら部長室内に居たので、万全の自信はない。それらの幾つかを無視してはいないことを祈るほかない。
それからアスカは自分の綺麗に整頓された執務机に向かい、メモパッドから一枚用紙を切り離すと、何やら書き始めた。
書き終わるや、アスカはメモをポケットにしまって、すぐ立ち上がり部長室を出る。オートロックの部長室のドアが静かに開いて、部屋の主が去るやいなや、また静かに閉まった。
アスカはシンジを追い掛けるような気分で、エレベーターで階上の司令室に向かい、前室に着く。秘書に黙礼だけで入室許可をもらい、ここだけはアナログのままになっている手動開閉の大きな入口の扉のノブを掴み、扉を引いた。ギギッと扉の軋む音がして、アスカは内心で何故かその音に怯えていた。
「……あの、シンジ」
アスカが中に入ると、シンジは執務机上に書類を広げ、故・碇ゲンドウのように手と手を顔の前に組んで、所在なく眺めている。
「ごめんなさい」
アスカはシンジの机のすぐ前に歩み寄り、綺麗な姿勢のまま、頭を下げた。
「……何のこと?」
「もちろん……アイの話よ。その……別の世界で、アタシがシンジと別れたっていう……」
シンジはアスカの顔を見ようとはせず、静かに返答だけ返した。
「キミが浮気したの?」
「ち、違うけど」
「だったら謝られる筋合いなんかないよ」
アイの話では、別の世界で別れを切り出したのはアスカではなくシンジの方だという。アスカに他に好きな男が出来た、シンジはそう思って自分から切り出したのだ。相手の名前は知らない。アイは答えなかったし、知っているのかさえも教えようとはしなかった。
曖昧な話だ。他に好きな男が……というのもよくある誤解かも知れないし、その後の結末もどうも要領を得ない。全てが誤解のない事実であったとしても、この世界のアスカが預かり知らない話で、責任もなければ、シンジに謝る必要など当然に無かった。
「そんなことは分かってるけど、シンジに申し訳ないと思ったから。シンジを傷つけてしまったと思ったから」
アスカは拳を胸の前で握り締め、声に震えが乗らないように気を配る。
「僕は傷付いてなんかいない……」
シンジはそこで、視線を動かし、しかしアスカを向くのではなく、そっぽを向いたのだった。
「……だったらその反応は何よ」
「別にいいでしょ」
相変わらず視線を合わせようとしないシンジに、アスカは溜め息をついた。
「それなら、今夜は一緒に……そのホテルに行ってくれる……?」
アスカも殊更にセックスがしたいとかそういう訳ではなかった。むしろ今のささくれ立った気分はそうした欲求には程遠かった。だが、アスカは他にシンジとの関係修復の具体的な方法を知らない。
「ごめん、仕事が忙しい。シトが出現してるんだよっ、ホテルとか行ってる場合じゃないの分かるだろ、アスカも仕事に戻ったら」
今度はシンジはそのセリフに平静さの外套を纏わせるのに失敗し、明確に苛立ちを露わにしていた。
「確かに事は第一級インシデントだよ……。でもアタシたちはシトの所在をロストしてる。国連や日本政府に情報を通達したら、それ以上に出来ることは今の所はあまりない。そうでしょ?」
後は、関係機関からの散発的な質疑に応答して─それだけでも大変だろうし、日付けを跨ぐかも知れないが─、明け方まで掛かるという訳ではあるまい。
「今晩は僕はネルフに泊まる。アスカみたいに気楽では居られない。アスカはそうやって男の事で頭が一杯なんだろ、だから……」
アスカはギリリと唇を噛んだ。だから─の後には何が続くのだ。だから─他の世界でもあんたを裏切ったんだとでも言いたいのか。そんな酷い言い方は無いだろう。今、このアタシが考える男ってアンタのことじゃないか、アンタのことで頭が一杯なんだ。浮気する相手のことを考えてる訳じゃない。なのにこんなの酷いじゃないか。しかし、アスカは溢れ出しそうになる涙を堪え、普段は優しいシンジにここまで心無いことを言わせている、アイの情報の残酷さを思った。その内容がどんなにかシンジを傷付け、アタシへの不信を生んでいるのかも。
でも、そんなシンジの反応はもともと、分かっていたことだった。フッと自嘲するような笑いがアスカの身内から込み上げて来て、アスカは、思わず頬を緩める。
「……本当にあんたって、中学の時から何も変わってない。嫌なことがあるとすぐそこから逃げ出す。その状況や事態や相手とは正面から向き合おうとしない。ちゃんと話せば大抵の問題は解決するのに、いつも勝手な一人決めばかり……」
アスカは制服の胸ポケットから先ほど書いたメモを取り出して、シンジに差し出した。
「……これはアタシ流の裏死海文書だよ」
「裏死海文書?」
シンジは戸惑いながらも、そのメモ用紙を受け取った。
アスカは今や日本語の読み書きに殆ど不自由はなかった。読むのはもちろん、書くのも、タブレットやPCの日本語変換システムによって、適切に漢語を交えて行う事が出来る。そうしたシステムの助けを借りるのは他の日本人も同じだから、その点でアスカの日本語能力を判定するのは適切ではなかった。ただ、実際に手書きの日本語を書くのはやはり苦手で、漢字を書いたりはあまり出来ない。ネイティヴ並みとはさすがに行かなかった。
メモ用紙には、アスカ独特の、金釘流といっていい童女の書くような文字で、「シンちゃんにあやまる→シンちゃんすねる→シンちゃんをホテルにさそう→シンちゃんはきょひする」と書いてあった。
確かにシンジの反応は、そのメモの進行の通りになっている。
「アスカ……」
「……こんな予言、当たっても少しも嬉しくない。でも予測自体は簡単な事だった。シンジが……シンちゃんが、アイの言う別の世界のアタシたちの話に、どんな風に傷付き、どんな反応をするかなんてアタシには難しい予測じゃない。だって、あんたとアタシはもう二十年……そんなにも長い間、一緒に過ごして来たんだもの。ずっと一緒にいたんだもの。だからシンジのことは何でも分かる。アタシがシンジのことをそんな風に想っていても、シンジはアタシを信用してくれてないってことも。あんたは……中学生だった時と何も変わってない」
シンジは、アスカがどんな想いを込めて、このメモ……いや、アスカ流の「裏死海文書」を書いたのかを考えた。本当は自分が浮気したわけでもないのにシンジに頭を下げる、それも、その謝罪をシンジがまず受け入れないと分かっているのに。そして、女の身でシンジをホテルに誘う。これもまた、シンジに拒絶される事を予想していたのだ。アスカはどんな想いで、このシンジによる拒絶を予想して、そうした行為をしたためのだろう。どんな想いで、どんなに勇気を振り絞って、どんなに絶望をしながら、拒絶されると分かっている謝罪や誘いかけをしたのだろう。
シンジはじっとメモの上のアスカの幼い文字を見つめた。字は幼いが、そこに込められたアスカの想いは決して幼いものではなかった。
「ごめん、アスカ。僕はまた間違って……」
シンジはうなだれた。
「……やっぱり僕は大人になれてない。アスカには釣り合わない。アスカが先に大人になってしまった……」
「だとしても!」
アスカは、シンジの襟を掴む。
「だとしても……それでも二人して一緒に大人にならなくちゃダメじゃないか!頑張ってよ、シンジ。逃げちゃダメだがあんたの口癖でしょ、それなのにアタシからどうして逃げるのよ……」
アスカは口惜しそうに、唇を噛み締める。
「人間、歩みの速さに個人差はあるんだよ。アタシはそんな事は分かってるから、それでシンジを責めたり、諦めたりはしない。それに、同じ時間を共有して、同じ時代の中をあんたとアタシは生きている。だから歩く歩幅に差が出来たって、いつかは一緒に歩ける……そうじゃないか!自己卑下なんか、どうだっていいんだよ!」
「でもアスカ……」
「アタシは、シンジがあの頃のままだって別に良い。大人になることに拘ってる間は、それ自体が子供である事の証だよ。まして、自分のことではなく相手のことなら尚更だ……勝手に相手の成長速度の基準を決めて、あるいは自分と引き較べて、それで別れたり、次の男に乗り換えるのか決めるっての?バカバカしい。そんなの究極の利己主義で、自分のことしか考えていないんだ!」
アイが渚カヲルに見せられた別の世界の情報は、期せずして、シンジの仮定した「ループ説」を実証しているようにも思えた。そしてループ説が事実なら、それとは独立したもう一つの仮説だが、上位世界によるシミュレーション仮説についても少し真剣に考えてみて良いのではないかとアスカは思うのだ。別に両者は排他的な仮説ではないのだから。
そして、もしも、アタシとシンジが別れてしまった世界の有り様を、あのシンジの想像する上位世界の、性格のひねくれたヤルダバオートが決定しているのだとしたら、アスカは、一言だけそいつに言ってやりたい。
あんたはそんなに大人なのか?
人の恋路を筋道の通らない引き裂き方をして、現実はこの通り厳しいのだと殊更に悲痛ぶって見せる初老の男やらのイメージが思い浮かぶ。
絶対に大人じゃないな……。
大人になることに拘ってる間は、いつまでも子供なんだよ、とアスカはそいつに言ってやりたい。大人なんて気が付いたら、いつの間にかなってしまっているものなんだから。そのトリガーはきっと後で振り返って気が付いたら拍子抜けする程度のものだ。だって、この世の誰もが、大人になる方法について騒いでなど居ないのだから。それがこの世の重大事に思えるような人間はきっと人類の中でも、ごく一握りに過ぎないに違いない。
それからアスカは、シンジに向き直って、もう少し現実寄りの話をする。ヤルダバオートなどどうでもいい。実在しようとしまいと、アスカにとって、それは本当にくだらない、無価値な相手だ。
「そもそも、アンタ、何のために渚カヲルがアイにこんな別世界のイメージを吹き込んだと思ってるわけ?アイを通して何をさせたかったのかは見え見えじゃないか!」
「え?」
「……普段はあんなに賢いシンちゃんなのに。なぜ簡単に引っかかってしまうのかな」
そう。渚カヲルには意図がある。ということは、これはシンジが大人へと向けて成長を強いられる為の試練なんかじゃない。おそらくはカヲルを差し向けたゼーレと、シンジ率いるネルフの、あくまで組織と組織の存続の掛かった陰謀ゲームの一環なのだ!
「そ、それは……カヲル君がアイにウソを吹き込んだってこと?」
しかし、シンジの縋りたい希望をアスカは否定する。シンジの思考力の低下をそこにアスカは看取する。本来のシンジなら、そんな風に考えるはずがない。事実はどんなに不都合でも事実として向き合わなければならない。
「いや、そうは言わないわよ。アイ、すなわちシンジにショックを与える為にはそれなりの真実性がなくちゃ目的は達せられないのだし。だけど、それは真実の一断面に過ぎないのかも知れないし、仮に真実だったとしても、それにはちゃんと目的がある。分かるわよね?狙いは一つしかないんだから」
「……僕の動揺?」
暫くして返ってきたシンジの回答に、そうだとばかりにアスカは、大きく肯いてやる。
「アイの伝えた情報は、アタシとの関係に手をつかねるあんたを叱咤したいというアイ自身の意図はどうあれ、シンジとアタシの心をそれぞれに大きく抉り、傷つけた。でも、アタシはどうあったって脇役だから、目標ではない。もしかしたら、主役のあんたのメンタルを左右するヒロイン役に当たるのかも知れないけれど、それでも、脇役は脇役なんだ。渚カヲルが描こうとするこのループ世界の成り行きを左右できるのは、やっぱり、主役であるシンジ、あんただけなんだから」
裏死海文書の存在を世界で唯一知っている存命の人間で、特務機関ネルフの司令官。どう考えたって、シンジ以外に、この……フォースインパクトや人類補完計画が成るや成らざるや、そしてそれにより、詰むや詰まざるやという世界の運命を握っている主役的人類は存在しない。シンジに較べれば、アスカは自分が脇役に過ぎない事を冷静に納得していた。そしてその事実を冷静に受け止めている自分こそが、過去の、あの頃の……自分が他者から一番の注目を浴びようとせずには居られなかった幼いアスカとはもはや大きく隔たっていると認識している。
「そうか、僕がターゲットなんだよね……」
「うん……あんたがフォースインパクトと人類補完計画に抵抗する意志と気力を奪うこと、それが渚カヲルの目的だよ。だから、自分で言うのもなんだけど、あんたにとって、一番大切なもの……すなわちアタシへの不信を植え付けようとしている。もうこの世界にあんたが信じられるもの、守るべきものがないと思わせようとしている。とっととこの《周回》に白旗揚げさせて自分たちの満願成就を狙うか、それが無理ならせめてとっとと次の《周回》に行こうとしてるんだよっ」
渚カヲルの狙いはアスカのお陰で明確に分かった。虚脱したようなシンジの瞳に微かに意志の光が戻る。
「僕に信じられるものがない、守るべきものがないと思わせる……」
「そうだよ!……だけど、世界がアタシたちのことをどんなに引き裂こうとしたって、アタシたち自身がお互いを信じられなくなったら、それこそお仕舞いじゃないか!」
他の世界の事なんて、関係ない。
世界に無数の選択肢があって、その先がどんなに苦痛に満ちた悲劇や悲恋に満ちているとしても。たとえ、アスカとシンジがその選択肢の中で、千に一度しか結ばれないのだとしても。
それでも、そんな事は目の前のお互いを諦める理由にはならない筈だ。
世界が二人に牙を剥いている事をアスカは改めて理解した。ヒトだけではなく、シトさえもが、アスカとシンジの未来を祝福せず、二人を引き裂こうとするのだしても。
(上等じゃない、渚カヲル。アタシは受けて立ってやる。アンタの売った喧嘩、買ったわよ)
「アスカ……?」
シンジの怪訝な表情が向けられている先はアタシの顔だ。そこから、アスカは我知らず、いつの間にか笑っていた事に気付いた。
「碇シンジ」
「え?」
己の名前をフルネームで呼ばれてシンジは戸惑う。しかしその戸惑いが解消する暇もなく、アスカがさらなる困惑を運んでくる。
アスカは、その細く白い指先でシンジの手を握って、彼が形作っていた碇ゲンドウと同じような手の握り方を崩したのだ。
「……碇ゲンドウの左手は自分の右手としか結び合わされていなかった。彼にはこの世の中で真に頼るべき相手が他にいない。ユイさんが居なくなってから、彼は本当に道を迷い、誤ってしまった」
アスカの手と結び合わされた自分の手を見つめながら、シンジはアスカの言葉の続きを聞いた。
「だから、そんなゲンドウの亡霊や、彼の最期まで鼻面を引き回されていただけのゼーレの連中が、最後には、アタシとシンジに勝てるはずがない。孤独な一人の人間やそれにさえ勝てない二流の連中が、そして、信じる者、守るべき者を持たないシトが、堅い絆と信頼で結ばれた二人に勝てるはずがない!」
蒼炎の瞳が負けてなるものか、と言葉を介さずに宣言している。
◆
ネルフ本部棟の屋上に中学の制服姿のまま仰向けに寝転がり、アイは大空を見ていた。青い空はどこまでも高く、清々しく、そんな風に今の自分の気持ちと全く連動していない天候が忌々しかった。
そう、アイの気分は最悪だった。
アスカとシンジが別れてしまうビジョン。それを見せられた時、アイは即座に尋ねたものだ。
「これは、ボクとアスカの未来を示すの?円環のように繰り返す世界の、最後の、終わりの、ボクとアスカの唯一の結末を示すものなの?」
それはとても重要な問い掛けだった。もし、それがイエスならば、シンジがどれだけ頑張っても、結局は虚しい。決定論的な宇宙において、小さな斧を振りかざす蟷螂と変わらない。それは、人間が人生において何かの努力をする事さえついには虚しいと思わせる破滅的な世界観だった。
「最後とはなんだい?」
カヲルは不思議そうな口調でアイに応じた。
「え?」
「円環に終わりはない。始まりもない。それは己の尻尾を頭から飲み込む蛇と同じだよ」
ウロボロスの蛇として知られる、再帰的な円環による時空像を渚カヲルの言葉は示してみせる。
「君たちリリンには、もっと具体的な……科学的な説明を加えた方が納得してもらえるかな?……例えばこういう言い方も出来る。相対論的な宇宙において、同時性はそもそも崩壊している。同時が定義できないのなら、先も後もない」
亜光速のスピードで航行する宇宙船にずっと乗っていた人物と、ずっと地上で暮らすその人物の双子の兄弟では年の取り方が違う。例えば、光速の30%で航行する宇宙船では特殊相対性理論に基づき、船内時間は外界の時間より5%ほど縮む計算になる。光速の50%なら、およそ15%時間は縮み、光速の97%で進む船なら外界の1/4しか時間が経過しない事になる。つまり時間の流れが異なるのだ。もしも、その双子に何か特別な通じ合いがあって、両者が同時に同じ事をし、同時に亡くなる運命なのだとしても、それぞれの系からの観点ではやはり同時には亡くなれない。
この同時性の崩壊した相対論的宇宙のあちこちにおいて、どれほどの時の円環の再演が繰り返されたとしても、その先後関係は原理的に定義し得ないとカヲルは言っているのだ。
「それぞれの《周回》の間には因果関係はないんだね」
アイは確かめるように慎重に質問を重ねた。
「ない。それぞれの《周回》は完全に独立している。前の回でのシンジ君の行動が、次の回の世界のあり方に影響を与えることはない。世界は同時に並列的に存在していると考えて何も差し支えがない。そして無限に存在し得る。そう考えても無矛盾だということは、実際にそうだという事と数学的に同じだよ。最初にこの世界を観測したprime mover、すなわち第一動者が観測した、最初の世界はどこかにあるはずだ。しかし、僕の目覚めた棺にはそれぞれの世界と紐付ける手掛かりが何もない」
prime mover、第一動者とは、アリストテレスの宇宙観における宇宙の運動の始動因であり、それは結局「神」の言い換えに他ならない。ヤルダバオートやデミウルゴスと同じ事だ。
「目印を付けておかなかったんだね」
アイはクスリと笑った。
「そうだね。物語に目印なんて付けようがない。目印がないから、特権性のある《周回》は存在しない。最初も最後もシンも偽もない」
ならば、あのアスカとシンジとの一連の過去形的告白と別れさえも、結局のところ、無限に平行的に存在している可能性の一つに過ぎないということになる。それはシンジのオリジナルへの叱咤の理由にはなっても、絶望の理由にはなり得ないはずだった。
ならば、ほっとしても良いはずなのに、どうして、アイは─ボクは、こんなにも絶望しているのだろう?
もちろん、アイにはその理由がずっとずっと前から分かってた。分かり切っていたのだ。
世界にどんなに無数の可能性があったって、六分儀アイと惣流・アスカ・ラングレーが結ばれる世界など、決して有り得ない。
シンジとアスカにはパンドラの筐のように、最後まで希望が残されている。今回のように、絶望を垣間見せられても、どうやっても最後にはお互い自身が傍らに残るのだから、希望の一切が消え果てる筈が無かった。
だが、アイはその希望とは無縁に生きて、ついには死んでいくのだろう。無二の親友と呼べる少女たちにさえ、偽りを並べ立てて生きる他に道のないアイには、結局、この世のどこにも本当の居場所など無かったのだ。
「制服、シワになっちゃうかな……」
だったら、もう明日は学校をサボろうか。別にそれで誰かがアイを心配したりするわけでもないのだから。
◆
シンジはようやく普段の冷静さを取り戻した。その目に戻りつつある前向きな光に、アスカは安心かつ信頼して、かねてから抱いてきた質問をぶつけてみる。
「ねぇ、前から聞きたいことがあったのよ。どうして使徒である渚カヲルは、ゼーレと組むの?両者の目的はまるで違うように思えるのだけど」
ゼーレの目的は人類全体を単体の知的生命体として存続、進化させる人類補完計画。
シトの目的はヒトを打倒して、この星の覇権を奪取することだ。
その目的には重なり合うところがないようにアスカには思われるのだが、なぜ渚カヲルはゼーレの為に動く共闘のようなことをしているのか。それを言うと、シンジは頬を掻いた。
「その事なら……」
シンジにとってそれは、ずっと考えてきた事だ。そして、実を言えば、それは別に大して難しい問題ではなかった。
「アスカの言うとおりだよ。両者の目的には全く重なり合うところがない。流石、アスカは本質を突いてくるね」
「そうだよね……でもそれなら、なぜ共闘するの?」
「まさに、その重なり合うところがないからだよ」
「えっ」
「つまり、棲み分けだ」
「……棲み分け?」
「人類は補完計画発動により、LCLの海の中で一つの単体生命体となり太洋を支配する。シトはそうして元の主の居なくなった大陸に、この星の新しい覇者として君臨する。海と陸の棲み分けだ」
「あ……」
アスカはそのシンプルな説明に唖然となった。何かもっと複雑な陰謀的共闘関係があることを予想していたからだ。
「そ、それだけのことなの?」
「うん……考えてみればそれだけで両者の共闘は成り立つ」
そして、それは変な話だが、理論的帰結としての未来予想図として実に簡潔で美しい解だった。それが人類にとって、あまり嬉しくもない未来図だとしても、ロジックだけを見れば、いっそ鮮やかな謎解きと言っていい。ふつう、何かしら共通する目的があるので潜在的な敵であっても呉越同舟をしているのだとつい考えてしまうのが、凡庸なる人間の性だ。まさか、目的と支配領域が全く重ならないからこそ共闘出来るなどと誰が思い付けるだろうか。地球を大きく二者で分け合い、大地と太洋を分け取りにする。その気宇壮大で、途方もない壮図に、シンジは論理の力だけで、自力でたどり着いていたのだ。
「でもそれって。なんだか皆が損してるみたいな気がする……」
「三方一両損だね。ゼーレは人類の知的生命体としての存続をのみ願う。つまり人類の形や有り様はどうあれ、知性を守りたい。だから地上を明け渡す。シトは、人類を殲滅出来ないから、地球制覇後の絶対的安心は得られない。そして僕ら普通の人類は、個人の個性と人格を永遠に手放さなくてはならない」
そういえば、アスカはまだシンジの手を握ったままだった。シンジは二人の繋がれた手に視線を落とした。
「アスカ、今日は本当にごめん」
「うん……」
「僕はやっぱり拗ねていた。別の世界で僕を選んでくれなかったアスカを怨んでいた。この世界の……『僕のアスカ』の貞節さえもどこか疑っていたかも知れない……」
違うよシンジ。そうじゃない。アタシの貞節さを信じられなかったのは、シンジだけじゃない。アタシ自身でさえそうだったんだ。不安になって、自分の気持ちを自問自答して、それでもやっぱりシンジへの気持ちは本物だと納得して、それでようやく前にもう一度進める気になった。だから、シンジが不安になるのはある意味当然で、それを後ろめたく思う必要はない。
「でも、今日のアスカの言葉は僕を救ってくれた。アスカの気持ちや誠意を片時でも疑った自分を僕は恥ずかしく思う。……アスカ、許してくれる?」
「アタシはいつだって、シンジを許す。そういつも、言っているでしょう?だから答えは変わらない。Yesだよ」
「ありがとう。やっぱりアスカはいいな。素敵な女性だよ」
「何を今更。分かりきった事を言われても困るわね!」
そんな風に照れ隠しのように開き直りながらも、アスカの目尻も自然に下がっている。だが、シンジの称賛は、それだけでは終わらなかった。
「でも、それだけじゃない。さっきのアスカの質問は、もしかしたら人類を救ってくれるかもしれない」
「シンジ……?」
それは、アスカの訊ねたゼーレとシトとの共闘関係の秘密のことだ。もしも二者の間に共闘とその果ての共存が可能なら、なぜ三者の間でそれが不可能なのか?いや、不可能な理由はもちろん分かっている。ヒトとシトの地球争覇は神が定めたこの世界のルールだ。
だが、シンジはどんなルールでも、それを出し抜き、裏をかく方法はあると知っていた。
「だから、世界はみんなが不幸にならなくてもいい、と僕にはそう思える」
まだ漠然とした形だが、シンジには世界を願望器やデウス・エクス・マキナのような超常の力に頼ること無しに救う方法の端緒が見えてきた気がしていた。
シンジは内線電話で剣崎を呼び出す。
「剣崎部長ですか。……うん、アイのことです。彼女の身辺警護を今から強化してほしい。もうやってる?……流石ですね。いや、ありがとう。それから明日からは僕の警護は全て無くしてほしい。僕の警護要員は全て惣流部長に回してほしい」
「は?あんた何言ってるのよ……?」
シンジな剣崎保安諜報部長にテキパキと指示を告げるとすぐに電話を切った。もちろん、アスカは、シンジにつかみかからん勢いで、指示の見直しを迫る。
「あんたはいつだって、サードインパクトの犠牲者遺族に狙われてる、ガードを下げて良いわけがないでしょっ!」
シンジが新生ネルフの司令になってからというもの、かつてのサードチルドレンのサードインパクト時に成したことと為さなかったことへの世間からの非難はその強度を増した。それはシンジがもはやかつてのような少年ではなく、彼もまた大人たちの策謀の犠牲者であるとする弁護が難しくなっていたからだ。
政府の庇護を受け、十分過ぎるほどの高い教育を受け、表面的にはエリートの道をひた走るシンジ。彼に対する批判には、庶民の多くの感情を刺激するある種の嫉妬のようなものが混じるようになっていた。毎月のようにネルフの広報課や秘書課には脅迫状の類いが送られている。一方で、シンジを何か万能の救世主のように勘違いして、使徒からのみならず、あらゆる悪徳と汚染と貧困からの人類の救済を懇願してくる人々も多かった。彼らもまたシンジがその期待に応えなかった場合には、容赦なく彼の柔らかな脇腹や心臓にナイフを突き立ててくる予備軍となるだろう。
だが、本当にシンジを憎んでいるのは、それでもやはりサードインパクトの被害者の遺族であるに違いなかった。
「でもこれは必要なことだ」
シンジがきっぱりと言い切った時にそこに妥協の余地はない。
「……僕はカヲル君と話をしなくっちゃ。だから、わざとガードは下げる。僕を生き餌にして、渚カヲルを釣り出す。それが僕の仕事なんだ。だからごめん、アスカ」
「シンジ……」
泣き出しそうな顔をして、しゃがみこみ、シンジの机の上に頭を乗せたアスカの金髪をそっと撫でながら、シンジはこう言った。
「たとえ僕が居なくなっても、アスカは、僕のことを忘れたりはしないでしょう?」
「……そんな」
「僕にとっては、それは千の言葉を尽くした墓碑銘よりも嬉しいことだよ。アスカが死ぬまで僕のことを忘れないで居てくれるなら、それだけで僕が生まれてきた甲斐はあった。一年に一度なんて言わないよ……たまにでいいから僕のことを思い出して……」
だが、シンジはその「遺言」を最後まで言い終えられなかった。再び物凄い勢いで立ち上がったアスカが、シンジの頬骨を拳骨で思い切り殴ったからだ。
「!……痛ってぇ……」
「……阿呆抜かせっ!」
「ほ、本気で殴ったね……アスカ」
「殴る方が痛くないと思ってるのか!……拳も、心も、どれだけ痛いと思ってるんだ!」
シンジはその痛みに、かつての親友の顔を思い出していた。結局、シンジにとって本当の同性の親友というのは、渚カヲルでも相田ケンスケでもなく、鈴原トウジだったのだ、と思い起こさせる。彼だけが、今のアスカのように、僕を殴る痛みを進んで負ってくれた─
「思い出してほしければ、毎日アタシに顔を見せろっ。お早うと挨拶して、ちゃんと朝の会話をして、お互いの体調を気遣って、ランチも一緒にしようと誘ってこい。夜は夜で、たまには自分からディナーに誘えばいい。……ホテルだって義務的にじゃなくちゃんとムードを出して誘うんだよ。……でなければ、絶対思い出してなんかやるもんか」
「うん……」
それは、アスカの「あんたを綺麗な想い出になんかは絶対にしない」という宣言だった。シンジにはその宣言の意味はよくわかった。アイに聞いた、別世界の二人の別れがある意味では「綺麗な想い出」になり得ると知った上で、アスカは、それを断じて拒絶すると言いたいのだろう。
シンジが警護を下げるなら、カヲルとの対話や取引を望むならやむを得ない。だが、その時はアスカがシンジの盾になろう。シンジがそういう積もりなら、アスカはシンジの側を離れてやる積もりはない。
それから、アスカはシンジの赤くなった頬を気遣わしげに見た。
「歯とか、折れてない?」
「うん……それは大丈夫」
アスカはすぐに司令室を出て、前室に控える秘書に何やら話していた。秘書が慌てて、ビニール袋を用意し、部屋の隅にある冷蔵庫の製氷皿から氷をその袋に全部移した。アスカはそれを持って戻ってくる。
「秘書さんに氷、貰ってきたわ。すぐ冷やした方がいい。当ててなさい」
「うん……」
シンジは席に座ったまま、アスカから受け取った氷入りのビニール袋を素直に頬に当てた。一瞬、走った痛みに顔をしかめるが、やがて冷たさが痛覚を麻痺させたのだろう、少し楽になった顔をしている。
「ゴメンね、シンジ」
「いいんだ、悪かったよ。アスカを不安にさせるようなことを言ってこちらこそ、ごめん」
「でも、やっぱりやり過ぎだったし、女の暴力はズルいわよね。だって、男が殴り返して来ないことを前提に暴力を振るってるんだもの。さっきはカッとなって後先考えてなかったけど、やっぱり間違っていた」
男が女に手を上げることは当然に許せない。アスカは、それを当たり前の倫理観だと思うが、一方でこうして、女が男に手を上げることは最低の行為だとまでは思っていない。悪いことをした、と思ってはいるが、シンジの誤りと思い違いを糺すためには必要だったともどこかで思っている。アスカは、そんな風に暴力について片面的な義務を男にだけ課すことについて、男女平等という現代の倫理観との整合に説明の困難を感じることもある。
「男と女の暴力は意味が違うよ、アスカ。僕はいくら男女平等だって、女の人に殴られた男が同じ様に殴り返すのはおかしいと思うよ」
「アタシもそう言ってくれるのは嬉しいけど、でもやっぱり何かが卑怯な気がして咎めるのよ」
「男の暴力は言ってみれば、軍隊の暴力なんだ。それは外部の敵から大切な人たちを守るための力で、絶対に同じ国民や身内、家族に向けてはいけない」
シンジにはあの赤い海の浜辺でのことがあるから、その言葉は「二度と」いう省略された修飾語を当然に含んでいる。だから、それは単なる理念ではなく、アスカに対する誓いであった。
「でも女の人の暴力は軍隊ではなく警察のそれに近いんじゃないのかな。間違っていると女の人が思った時は、もちろん程度によるけど、身内に向ける事があっても仕方がないのかなと思う。そして、そんな風に警官に取り押さえられたからって、同じ暴力で返すのはもう無茶苦茶だからね……だから、間違えた僕が一方的に殴られても、仕方がないよ」
「ウン……」
「でも、アスカのパンチは結構強烈だな。警察比例の原則はよく勉強しなおしておいて欲しいかも」
警察比例の原則というのは、警察権の発動について、その手段・態様は、除去されるべき障害の大きさに比例しなければならないという、警察権の抑止的な行使に関する原則だ。
アスカはそれを「うわ、役人ジョークだなあ……」と思いながら、シンジのくだらない軽口が、全てアスカの罪悪感を溶かすためのものだと分かってるから、自分の心の中にじんわりと広がっていく温かさの理由も理解できていた。
「ほんと、バカみたい」
「ん」
「毎日のようにお互いの事で動揺して、その度に、こんな風に喧嘩して。でも、アタシはシンジを殴ったのに、殴ったアタシは怒られるどころか、シンジに逆に下手くそなジョークで慰められている」
「下手くそで悪かったよ」
でも、アスカは首を横に振る。そして、シンジにはこう言った。
「生きるのが下手くそで居てくれて、ありがとう」
「……」
「あんたが上手に生きられない人だから、アタシはシンジの優しさが毎日理解できる」
「褒められてるの?」
「褒めてはいない。でも感謝はしている。アタシをシンジは毎日救ってくれているのだから」
世界はきっと不器用で生きるのが下手な人間のために存在してくれている。だから、世界は美しい。世界は毎日苦しんて生きるシンジのためにある。生きる事に苦しさや辛さを感じることのない人間は、逆説的だが、この世界で救われることはないのだ。この世界の残酷な美しさや優しさに気づくことはないのだ。
そう。世界は苦しんで生きる人たちの為にある。孤独の中に、悲しみの中に、不遇の中に、貧困の中に、理不尽の中に生きる人たちの為に世界は存在している。彼らこそが世界の王だ。
富める者の天国に入るは、駱駝の針の穴を通るよりも難し、だ。
世界はこんなにも残酷で、美しく、生きづらい。だからこそ、きっと素晴らしいのだ。
─だから、ね。シンジと別れてしまったのかもしれない、どこかの世界のアタシではないアタシ。あんたにアタシは一つだけ言いたい言葉がある訳よ。
「アンタ、逃がした魚は大きかったんじゃない?」
ってね。