日付が変わって、深夜になっても、アスカは帰宅していなかった。二時を回ると流石に疲れを感じ始め、アスカは自室の席に座ったまま肩を解すように腕を回し始めた。
その時、部長室前のインターホンが鳴り、「アスカ、起きてる?」と声がした。シンジだった。「ん」とアスカは小さく返事をし、室内AIに向かって、「ドア開けて」と指示した。自動ドアが僅かな圧搾空気の音と共にアスカの指示に従った。
シンジが中に入ると、アスカはじっとモニター画面を見つめていた。彼女はミサトのおさがりのいつもの赤いジャケットの軍服は脱いでおり、ゆったりとしたアイボリー色のパーカーに着替えている。休日出勤用にロッカーに入れてあるものだ。
「いらっしゃい」
「仕事はだいたい終わった、アスカ?」
「ま、国連軍、米軍、日本政府相手の渉外的な仕事についてはね。各機関とも足並み揃えて、報道発表に
アスカはシンジに向き直ると、シンジの全身を眺める。シンジも上下ともに黒のトレーナーを着ていて、いつもの黒の幹部制服は小脇に抱えている。
「日付も土曜日になったし、やっぱり楽な格好が良いわよね」
アスカは考える事は同じよね、と薄く笑って見せた。
「そうだね」
ホテルに行くのを断られ、どうせ明日土曜日も休日出勤、どうせなら泊まろうかなどとシンジと話をしていたら、それなら一緒の部屋に泊まろうという話になった。司令室なら盗聴も心配だし、アナログ式の施錠しか出来ないので、二人がソファーで一緒に寝ている所を誰かに見られないとも限らない。でも、アスカの部屋ならそのリスクは小さいし、明日の朝、早く起きれば、他の休日出勤の職員にも見られる懸念は薄い。それで、シンジは着替えてアスカの部長室を訪れたのだった。
「やっぱり一緒に寝たいもの。今日みたいな日は」
二人がついに結ばれない可能性を垣間見せられたら、どうしたって不安は募る。だから、たとえセックスをしなくても、同衾はしたい。職場ではセックスは絶対に出来ない、それは大人としての倫理観に背馳することだ。でも、同衾だけならば。アスカは昔、間違って覚えていた「男女七歳にして同衾せず」という故事成語を懐かしく思い出していた。
……同衾したいのよ。本当は毎日だって。あたしは、シンジと。
それは必ずしもセックスの欲求を意味しない。アスカにとって、シンジとのセックスは「仲良し」とも呼び習わしてきた優しい気持ちのやり取りだった。でも、必ずしも二人の身体が結合しなくても、そういう気持ちはやり取りが出来る。
「だから、あたしの部屋に来て。久し振りに朝まで一緒に寝よう」
アイが居るからとアスカは朝帰りを避け、久しく朝まで一緒に過ごせていなかった二人だ。
アスカの叱咤で、自分を取り戻したシンジも、アスカのその誘いに一も二もなく肯いた。
そして今、部下の個室に入る機会など、めったにないシンジは部長室内を不躾にならない程度に見回した。でも室内は殺風景な執務室そのもので、私物も殆ど見当たらない。自然、シンジの視線は部屋の主に戻っていった。
シンジは黙って、アスカのパーカーの胸元を見つめている。
「……気になるの?」
「え?」
「おっぱいよ」
「ち、違う……そうじゃないって!」
「別にそんな事を今さら、誤魔化さなくてもいいわよ。お互いの身体の隅々まで知っていて、性癖だって知り尽くしてる。シンジがおっぱい星人なのも昔から知ってるんだから、別に取り繕わなくてもいいって」
アスカの見るところ、男のご多分に漏れず、シンジも大きな胸が好きなようで、二人の交わりの時は胸に対する入念な愛撫を欠かさない。だからおっぱい星人だとからかうのだが、それがシンジにはどうも気に入らないようだった。いつも何故か、必死になって否定してくるのだ。
「あんたのおっぱいなのよ、あんたの為に育った、あんたが育てた、あんただけのおっぱい!だから恥ずかしがったり、キライな振りをしなくていいの」
「だから違うって!おっぱいおっぱいって連呼して……僕が見ていたのはそのロゴだよ!」
「ロゴ?」
「そ、そうだよ!その大学の……」
シンジの指差した先には、アスカの豊かな胸元で、少しだけ形が歪められた、開いた書籍を象った赤いロゴで、下部にはUC…で始まる大学の略称が書かれていた。その略称から、アメリカ西海岸の大きな州の州立大学の一つで有ることが分かった。
「ああ、これね。前に話したわよね。あたしの出身校なのよ」
つまりは、アスカがシンジたちに出会う前に卒業していた大学ということになる。アスカは中学生の年齢で、既に飛び級により大学を卒業していた正真正銘の天才少女だったことをシンジは改めて思い返す。
「すごいよね、アスカは」
シンジの素直な賞賛に、アスカは小さく笑った。
「……仕事も一段落したし、偶にはお酒でも飲もうか」
アスカは部屋の隅に置いてある自費で買った小さな冷蔵庫を開けた。これがこの部屋で目立つ唯一の私物かも知れない。中には、缶ビールが何本か冷やしてあった。アスカはそのうちの一本をシンジに放り投げ、それから自分も一本を手に取った。
「あたしの最初の大学時代の話。……シンジも知りたい?」
「それはやっぱり……知りたいよ」
「それなら先回りして言っておくけど、ボーイフレンドとか気になる男の子とか、そういうのは居なかった。安心した?」
「う……うん」
アイの爆弾的な情報が二人の関係を擾乱した後だけに、アスカは余計な誤解やそれに基づく波乱を二人の間に持ち込みたくはなかった。
「十二、三の小娘なんて、向こうの遊び慣れた大人の男たちには眼中にない、と言いたいけれど、まあこの美貌だからね。それなりに注目は浴びていたと思うわよ。あんたたちから見たらあたしはほぼ白人だろうけど、向こうの人間から見たら、1/4日本人でやっぱりどこかアジア風にあたしは見えるらしいし。エキゾチックビューティーってわけね。でもね……」
そこでアスカは脅かすような顔をしてシンジの顔を見る。
「下手すりゃ、ペドフィリアで捕まって、永遠に社会から抹殺されかねない国で、大学生の男たちがあたしに声なんか掛けたがると思う? みんなが衆人環視で牽制してるのよ。そういう意味では、向こうの厳格さはある意味では有り難かった。でも孤独だった。女の子たちは親切に色々助けてくれたけど、やっぱり年が違いすぎて、ついていけない感じがした。コンドームや避妊用ピルの話とかを母親然として諭されても、あたしはそんな事をする積もりも、相手も居なかったから、煩わしいだけだった」
そして、アスカは信じられないという表情をして、回想の中の女子大学生によるアドバイスをシンジに紹介した。
「……レイプされそうになったら、抵抗せずにとにかく命を守れとか、あの国の現実では理に適ってるのかも知れないけど、そんなアドバイスにウンザリしたものよ。それにまだ何も知らないあたしは、あんまり男の子のカラダとかセックスの情報をそんな風に知りたくなかったし。だから何となく距離を置いて、また孤独になった。ガリ勉少女の出来上がりよ。もう早く学位を取って、ドイツに帰りたくて仕方がなかった。ま、けっきょくその後は日本に来ることになったわけだけど……シンちゃんに出会うために、ね?」
険しかったアスカの表情が、最後にシンジとの出会いを語るときだけ、ふっと柔らかい表情に溶ける。それがシンジにも気恥ずかしい。
それにしても……シンジは何となくだが漠然と抱いていたアメリカのイメージにアスカの話を重ねて、やっぱりアメリカだなあと思った。シンジたちの大学時代には、もちろん、向こうの大学生たちと同じような男女の事をやっていたわけだけど、アメリカ人のように、明け透けに、言うべきは言い、備えるべきはきちんと備える、みたいなやり方を聞いたことはなかった。女子のコミュニティーでのやり取りはシンジには想像するしかないが、みんな、日本人らしく、曖昧に何となく対応し、ひそひそ声で情報を取り交わし、みたいな感じだったのではないか。シンジも、アスカとの避妊はコンドーム以外を用いたことはなかったし、アスカもピルなどを処方してもらったことはないようだった。
「……そういえば、アメリカの大学なんだよね、ドイツではなくて」
「だってそりゃ、あたしはアメリカ人だもの」
「うん、それは知ってる。それも前から少し不思議だった」
「そっか。シンジにもあんまりその辺の話をしたことが無かったかしらね」
アスカはモニター画面のスイッチを切ると、シンジの背中を押して、室内の応接セットという名目で入れてあるカウチに情人を導いた。このカウチは、背中を倒すとソファーベッドにもなるものをアスカが特に選んで入れてもらっていた。泊まりの仕事の時に仮眠用に重宝すると思ったからだ。もちろん、それを意図した訳ではないが、シンジと二人で一緒に寝ることもなんとか可能だろう。
カウチに二人腰掛け終わると、アスカはシンジの肩に頭を持たせ掛けた。
「……要するに、パパがアメリカの研究所に招聘されて、ママも一緒にそちらにいる間にあたしが生まれた。ステイツは出生地主義だから、あたしはれっきとした合衆国市民という訳なのよ」
「そうか、アスカはアメリカ生まれなんだね」
「うん、両親はどちらもドイツ国籍なんだけどね。勿論ドイツは血統主義だから、あたしはドイツ人でもあった。そして、子供の頃は、親の都合というか勤める研究所で、アメリカとヨーロッパを行ったり来たり。ドイツの方の国籍法が二十三で国籍選択を迫ったから、もうドイツの国籍は放棄してしまったけどね」
「……大変だったんだね」
二十三といえば、ちょうどシンジがアスカに別れ話を切り出して、二人の関係が一度破綻した頃だった。国籍選択の話はシンジには初耳だったが、確かにそういうタイミングならシンジには相談できなかった事だろう。だが、シンジにはアスカが、今なおドイツ人として故国に暮らす父や義母と同じドイツ国籍ではなく、アメリカ国籍を選んだことに、アスカの父・義母との隔意や訣別の意識を看て取れる気がした。だが、アスカはシンジの考えを多少感じ取ったのか、首を横に振って、そんなに重い選択じゃないと否定する。
「別にそれほどでもない。結局はアメリカもヨーロッパも白人の世界だから。感覚的には地続きなのよ」
と言って、少し黙ってしまったのは、アスカが純粋な白人ではなく、1/4は日本人の血が混じっているからだろうか。アスカという名前も勿論、白人のものではない。その態度からは少なからず不愉快な経験もあったことを窺わせる。
「でも、本当はあたしを育てるためならば、ママはパパにずっと一緒について回る必要はなかったのよ。どこかヨーロッパのこじんまりとした研究都市に腰を落ち着けて、研究と子育てに専念しても良かったんだから。でも……パパとママの間はその頃から少しずつ気持ちの隙間が開いていて。むしろ、ママはそれを繋ぎ止めたくて、パパが浮気をしないように、監視してる感覚だったんだと思う。けっきょくは全てが無駄な努力だったわけだけどね」
シンジは押し黙ってしまった。アスカと今なお存命の父の間には、複雑な親子の愛憎があるようだった。アスカの母親がエヴァの実験で、精神だけをエヴァの中に置き去りにして以来、アスカの父親は母の主治医と公然浮気をし、母は自殺した。それをアスカは目の当たりにしたのだ。父に対する感情が尊敬や愛情だけでは済まされないのは分かり切っていた。
「今のママ……つまり後妻なんだけど、そのひとの前に、パパが実際に浮気してたって訳ではないのよ。でもその兆候はあった。パパがあたしの本当のママの事を嫌いになったという訳じゃない。パパにとってママは結婚当初は女神みたいな存在だった。聡明で利発で、いわば科学の光そのものといった女神みたいな存在。研究室のマドンナを熾烈なライバル競争の末にパパが射止めた。でも、それが結婚後は、パパの中で、段々と嫉妬に変わっていった」
「嫉妬?」
「そう。純粋な科学者としての才能はママの方が遥かに優れていたの。エヴァのエントリー方式や基礎理論、技術体系の殆どが、あんたとあたしのママ、碇ユイと惣流・キョウコ・ツェッペリンの二人の女科学者で構築されたものだったのだから。でもずっとユイさんの崇拝者で居られた碇ゲンドウと違って、あたしのパパは、女であり妻のママが、自分より優れた科学者であることにコンプレックスを抱き始めた」
「アスカ……」
「勘違いしないでね、パパは本当に有能な人だったの。特に科学者たちを取りまとめて一つのプロジェクトに集中させ、その研究のために必要な政治的、財政的リソースを集めてくるといった才能は余人の追随を許さないものがあった。要するにプロジェクト管理のマネージメント能力は凄かったのよ。だから本当は劣等感なんか欠片も抱く必要はなかった。パパとママは最強のコンビとして研究を進めていける筈だったのに」
例えば、今のネルフでも、霧島マナやあるいは人事畑で異能を発揮する総務部長の松風ネネなどは、その種の管理能力に長けた人材だ。他人の能力を有機的に引き出し、自在に配置し、運用し、鼓舞し、その力を十全に引き出す。決してそれは誰にでも出来る事ではない。例えば、漢高祖や豊太閤のように、むしろ人の上に立つ人間は皆そういう能力を持っている筈だった。
「でもパパはママに抱く劣等感から自由にはなれなかった。自分の才能は科学者としては脇道に属する能力だと思っていた。派手に科学者たちの間で社交的に飛び回るパパは、いつだって、科学者としては二流という見えない風評に怯えていた。そして男である自分が、妻より劣っていると見なされることに我慢がならなかった……だから、ママとはもう上手く行くはずがなかったんだよね」
「……」
シンジは自分の肩にもたれかかるアスカにどんな言葉を掛けてやればいいのか分からない。
「このパパの話、どこかで似たような話を聞いたことがあるでしょ?」
アスカはシンジの肩から頭を離し、すこし挑発するような顔でシンジを見つめた。シンジにはアスカの言いたい事がわかったが、アスカ自らが答えを明かすまではとても自分からは答えられないと思った。
「……そう。あたしだよ。自分より優れた能力の相手に嫉妬して、時に憎悪する。それがたとえ自分の好きな相手であっても。いや、むしろ好きな相手だからこそ、なのかな。あたしの嫉妬深い性格、エヴァの天才パイロットであるシンジに出逢って、嫉妬して、あんたに惹かれてたのに、心の底から憎んでしまったような歪んだ性質は、全部パパの遺伝なんだよ。あたしはパパと同じなんだ」
シンジはアスカの自虐的な言葉に空咳をして、次の言葉を探す。
「その、なんというか……でも、アスカはサードインパクトのあと、ずっと僕に優しくしてくれたじゃないか。今だって別に僕に嫉妬したりは……」
「してるわよ、ばーか」
その言葉にシンジは暫し絶句する。
「……いつだって、あんたの能力に驚嘆して嫉妬してる。でも、それでも平気で居られるようになったのは、そこに大人になった女の打算があるからだよ。あんたが全部あたしのものになれば、あんたの能力は全部あたしのものと同じなんだ。女は太古の昔、男に戦闘能力や身体能力の殆どを丸投げして、面倒な外界との渉外能力をアウトソーシングした。自分は子供を産み、育てる能力に特化して、男に全てを委ねた。だから、女は究極的には男の能力に嫉妬しないで済む。それはどこまで行っても結局は自分のための能力だから。そこが女の逃げ道なのよ。あたしが自分が男でなくて良かったと感じられる所なのよ」
だからあたしがシンジに本当の意味で嫉妬していたのは、女になるまでの僅かな期間だけだった。ひとたび、シンジの女になってしまえば、シンジを自分の男にしてしまえば、その能力に嫉妬などする必要はなかった。女が自分の男の給料袋の厚みに嫉妬しないのは当たり前だ。それは全て自分と子供の糧になるのだから。
「でも、男はそうじゃない。あたしのパパみたいに妻に、女に嫉妬する男は驚くほど多いのよ。女に上に立たれると、この世の終わりみたいな顔をする男は多い。だからそうではないあんたは……いつもあたしの能力に賞賛を惜しまないあんたは、ビックリするほど珍しい存在なんだ」
アスカは自分が男だったらとてもシンジのようにはなれないと自覚している。シンジは頭を掻いた。
「でも実際に、アスカだけじゃなくて、マリさんも霧島さんも北上さんも鈴原一尉も、みんな優秀だからなあ……男とか女とか関係ないような。まあ一応上司になってるから、僕も平静で居られてるのかも知れないけどさ」
アスカはグビリとビールを呷った後、半ば空になった缶を見詰めながら片頬だけで笑った。
「上司部下が逆転してもきっと変わらないわよ。あんたはむしろ女にリードされてると、気持ちが休まるんじゃないの。シンちゃんは昔からマザコン気味だからね」
「……うーん、それは少しひどいんじゃ……」
シンジはリードされっぱなしの事が多いアスカとの夜の生活の事などを思い出して、幾らか落ち込みを見せる。アスカは、自分から僕を抱くときに、僕がどうせ甘ったれのマザコン気味だから、女をちゃんと抱けなくなっても状況に甘んじているとでも思っているのだろうか。シンジには早く治したくてたまらない症状だし、ある種のコンプレックスにもなっているのに。しかし、アスカはシンジの懊悩を知ってか知らずかサラリと通り過ぎる。
「でもね、本当に、あたしに憧れてた男は多いけど、そのうちのどれほどの男が、最後にはあたしのパパみたいに女に嫉妬せずに居られるのか、と想像すると割と絶望的にはなるわよ……あたし自分の性格がこうだから、自分が男だったら、とついつい想像してしまうから、余計にそういう男とはとてもやっていけないだろうなと思う。……ま、エヴァパイロットに憧れて、とか、なりたがって、なんて男もそうそう居ないだろうけどネ」
天才少女としての学歴や、これまた天才エヴァパイロットとしての戦歴、そういったものに強い憧れを抱く男ならば、なおのこと、いつかはその大きな憧れが劣等感に変わり、アスカとの関係を自己破壊していくのではないか。そんな風にアスカには思えるのだ。
「だからあたしはそんな男とはやっぱり一緒には居られないのよ。エヴァパイロットとしての戦歴や、天才少女としてのあたしの頭脳を、ちゃんと知っていて尊敬してくれて、それでいてそんなものを何とも思っていない、そういう男でなくちゃダメなんだ。分かる?だからシンジでなくちゃダメなんだ」
「……僕だってアスカに劣等感は感じるけどなあ」
シンジが頭を掻きながら、チビチビと缶ビールを直に啜る。
「それは、僕じゃアスカには相応しくないんだ!……みたいないつもの、ウジウジした自虐的な奴でしょ。そんなもの……」
アスカは言葉を一旦、切る。シンジの自虐はまさに自分自身に攻撃が行くのであって、アスカを嫉妬して直接傷つけようとする訳ではなかった。もっとも、シンジの自虐や逃避が、あくまでシンジを求めてやまないアスカを間接的に傷付けることはあるのだが。でも、この場でアスカが心配している話とは次元が違う問題だった。
「……そんなもの?」
「そんなもの、あたしのおっぱいの魅惑にはかなう筈がない」
アスカは缶ビールをテーブルに置くと、カウチの上で、シンジを抱き寄せた。
ふんわりと柔らかな二つの円やかな丘にシンジの頭を抱き止める。シンジの缶ビールが手から転げ落ちて、零れだし、床に敷かれたカーペットに染みを作る。
「アスカ……」
その甘い匂いを纏わせた、温かでなだらかな双丘に顔を埋めながら、シンジは言った。そのアスカの優しさに包まれながら、アスカに自分からも優しさを返してあげたかった。
「アスカが勝ち気で、負けん気が強くてもいいじゃないか。アスカはアスカだよ……今のアスカの性格が好きなんだ。だったら、アスカには勿論、色々想うところがあるのだろうけど、僕はアスカのお父さんにも感謝したい。何しろ僕をアスカと出会わせてくれたんだから……」
「……義理の父親にするには碌でもない男よ」
「そうなのかも知れないけど、今のアスカを形作っている人たちを僕は疎かにはしたくない。いつか、アスカがお父さんと和解できる日が来たらいいなと思ってるよ」
「……パパとあたしが、和解か……」
アスカは遠い目をして、呟く。
「そんな日が、本当に来るのかな」
それはアスカにとって足掛かりも掴めないような遠い道のりに思える。実母の死に、涙一つ零さず、直ぐに後妻を迎えた父を何よりアスカ自身が許せないでいるのだから……。
だがシンジはそんなアスカをぎゅっと抱きしめ返した。目を見開いて、アスカの顔に自分の顔を近付け、その蒼い瞳を見つめた。
「僕もカヲル君やゼーレといずれは和解したいと思ってるんだ。だからアスカ、僕と競争しようよ」
競争など得意でないはずのシンジが、アスカの競争心に火を焚き付けようと、背伸びをしているのが分かった。でも、アスカは─もはや大人になりつつあるアスカには、競争は行動の必須の要件ではなかった。
「さっきね、あたしが観ていた映像。ゼルエル戦のものなんだ」
「え……だ、大丈夫なの」
「あたしなら大丈夫よ。自分のプライドが粉々に打ち砕かれた戦いを見ても、もう大分、平気になった。そんなものにいつまでもうろたえていたら、ネルフの作戦部長なんか務まらないし、そもそもアイはこれから映像ではなく本物の使徒と戦うんだ。あたしは彼女がちゃんと戦えるよう、万全を尽くしてやらなくちゃいけない」
アイが大人たちの都合により一方的に課せられた義務を果たそうとしているのだから、アスカが己の過去に立ち向かうのも義務だった。シンジもネルフの司令を引き受けている。エヴァやネルフやサードインパクトのことなど、全て忘れてしまって、どこかの個室に閉じこもっている訳では無かった。シンジもアスカもおずおずとだが、しかし、自分に課せられた使命や運命に立ち向かっている。だからシンジにはアスカの気持ちがよく分かった。アスカはやはり強い女の子だと思った。大人の行動の原理は、競争心だけではない。色々あるが、おそらくは最も尊い動機の一つは、責任感だ。
「うん……」
「でも、シンジがアイが戦わなくて済む道を模索してくれるというのなら、あたしは別に失業しても構わないわよ」
「アスカ……」
「もちろん、その時にはシンジに永久就職先を世話してもらう。他の男と……とかふざけたことを言うなら、それこそ警察比例の原則なんか無視して、ぶん殴ってやる。あたしは警官ではなく、軍人なんだからね」
シンジをその胸に抱き止めたまま、アスカはシンジに頬ずりをする。あたしにとってのパートナーは碇シンジしか有り得ない。あのアイに伝えられた異世界のヴィジョンはむしろ、アスカの想いを強固なものにした。シンジをちゃんと繋ぎ止めておかなければ、二人の行く末がどうなるか、知れたものじゃない。お互いだけを一途に見つめて、どんなに幻滅しても、苦しくても、再起し続けなければ……
「……あのさ、競争とは言ったけど、僕が考えてる使徒との共存の道というのは、そんなに上手く行くとは限らないよ」
「でも具体的に考えてる事はあるんでしょう?」
シンジはこの部屋が盗聴されておらず、クリーンであることを確認していた。それでも、アスカの胸の谷間に再び顔を埋め、くぐもったような声で囁いた。
「差し当たっては7.9。出来れば11.2。それを技術的には達成したい」
シンジの言葉にアスカは目を見開いた。
「そ、それは……」
アスカは自分の胸の谷間から立ち上ってきた情人の言葉におののく。彼女の明敏な頭は、立ちどころにその数字の意味を了解した。でも、それは技術的には一大プロジェクトじゃないか。それこそエヴァ再建なんか比べ物にもならないほどの。技術部長のマリが頭を抱える姿が今から目に浮かぶようだ。それに、その計画は、多分ゼーレとの間には新たな軋轢を生むことだろう。
ゼーレにとって、使徒とは単なる共闘相手ではない。それは人類補完計画という、ほの昏い宗教的狂熱に走るための前提でもあるのだ。使徒がいるから、人類は人類補完計画によって、生物としての進化の次の階梯を上らなければならない、そういうある種の口実になっていた。それが、元々は人類を知的生命体として救う為の、緊急避難的な苦肉の策だったとしても、今は計画それ自体の壮大さに取り憑かれ、これまでの人類の倫理観を超越した新たな夢としてそれを追求するもの達がいる。それは使徒という原因を取り除いたとしても、諦められるべきものではないと考える者たちにとっては、シンジの計画は、この上なく危険なものと成りうる……!シンジが危険な存在と成りうるのだ。
(あんた、もちろん、この事の危険性を知り抜いているわけよね……)
シンジはそれでもやり遂げたいと思っているのだ。その人類全体とアスカに対する責任感はきっと高貴なものだ。
「電気を消して」
AIに向かってシンジが指示を出し、照明が消えた。シンジがカウチの上に、アスカをそっと横たえて、自分もその上に覆い被さるように身を横たえて来た。
「……お休み、アスカ」
「お休み、シンジ……」
シンジの唇がアスカの唇に重ねられ、頬と頬がまた互いを愛おしむように、優しく擦り合わされていく。お互いの腕が相手の背中に回されて、アスカとシンジの二人は、体温を分け合った。