大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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五十話 コズミック・ヴェロシティ

 シンジが寝返りを打とうとすると、誰かの腕が背中にきつく回されているので、出来なかった。まどろみの中、彼は自分の頭が誰かの胸の柔らかさに埋められているのを感じた。

 

(アスカ……だよな)

 

 シンジはアスカ以外の女性を知らない。だから無意識的に、自分がアスカと同衾していることに気付き、そのまま再び眠りに就こうとする。

 

(あったかいなぁ……)

 

 優しくて、柔らかくて、温かくて、とくんとくんと小さな鼓動が胸を上下させていて、おまけに何だか甘い匂いまでする。それはシンジが大好きな場所で、本当はアスカの胸の中で一生眠りたい気分だった。

 

 でもぼんやりとした視界の中、実は夜闇の中にアスカが静かに起きていて、自分をじっと見つめていることに気付いて、シンジは驚きに目を見開いた。

 

「ア……スカ」

「ん……シンジ……起こしちゃった?」

「い……今、何時?」

 

 二人が休んでいた作戦部長室の窓からはまだ日の光が射し込んでこない。

 

「……五時半だよ、だからまだ寝ててもいいんだよ」

「まだそんな時間なの……アスカはいつ起きたの?」

「四時半ぐらいかな……」

「……ずっと起きてたの?寝れないの?」

「まあそうかな……シンジの顔をずっと見てたから」

「僕の顔?そんなのいつでも見れるんだから、ちゃんと寝た方がいいよ」

 

 だが、アスカは首を横に振った。

 

「寝てしまったら、もう二度とシンジの顔が見れなくなって……そうしたらどうしようって考えたら寝れなくなった」

「アスカ……」

 

 それはアスカの不安をそのまま具現化したような妄想だった。相手が突然に消えてなくなったりはしないのに、遂に別れを迎えたのかもしれない異世界線の自分たちの相当存在の事がなかなか頭を離れてはくれないので、不安になるのだ。

 

「アイの話、あんたも聞いてたでしょ? その世界のシンジはあたしに好きだったって過去形で言いながら、あたしを別の男の所に送り出して、捨てたんだ。昨日は、向こうの世界のあたしがしたことを……隙を見せて、他の男にも気を許したかもしれない事を謝ったけど、本当はそんなシンジだって酷いじゃないか。シンジはやっぱりどこでもシンジで、そんなの大学生の時に、あんたがあたしに自分から卒業しろと迫った事と同じなんだ。あんた、ヘタレだからすぐ逃げるし、あたしとちゃんと向き合わないし、独り決めした結論をろくに話もせずにいつも押し付けるんだよ!」

「ごめん……」

 

 それはいつもアスカに対して頻繁に口にしている謝罪の言葉だが、シンジには他に何が言えただろう。シンジは自分が傷付いた事ばかり気にしていたが、アスカも深く傷付いていたのだ。しかも、他の世界のシンジの行為には責任は負えないとしても、大学時代にシンジがアスカを突き放そうとしたことは、言い逃れも出来ない自分自身の行為だ。

 

「別にいいよ、怒ってるわけじゃないの。他の世界のシンジなんて関係ないし、あんたのしでかしだってもう十年も前の事だし。……でもあたしは松代に離れ離れになった時、すごく寂しかったよ。進んでシンジと離れたかった訳じゃない。あの時はシンジを突き放したのはあたしだけど、ずっとつらかったの。だからシンジがあたしを突き放した結果……その時のあたしのつらさやさびしさを我が身に引き寄せて、理解してくれていて欲しいと思うのよ」

「我が身に引き寄せて……」

「うん。相手の気持ちになって考えるなんて、言うほど簡単な事じゃない。だからいつも、自分と相手の立場をひっくり返してみるんだよ。そうしたら、やっぱり自分がつらい想いをする事は、相手に対しては出来なくなる。出来る訳がないんだ」

「あの世界の僕ら、それがちゃんと出来なかったのかもね。今の僕もだけど……」

「でも、その世界のあたしたちだって、今のあたしたちだって、別に何かが終わってしまった訳じゃない。幾らだって取り戻せるし、いつだって出直せる。相手を決定的に裏切ってしまうまでは……」

 

 だったら僕とアスカはきっと幸せなのだ。だって僕らは互いに相手以外の異性を知らない。どんなに意気地なしで、意地っ張りで、素直になれなくて、回り道をし続けていたって、何も損なわれていない。だから、まっさらのまま、朝までお互いを抱きしめ合えるのだ。

 

 

 朝になると、二人はアスカの車でファミレスに出掛けた。土曜のネルフ所内ではろくに食べ物が調達できない。報道解禁明けの十一時までに戻ってくればいい。運転はアスカに代わってシンジがした。

 

 席に案内され、メニューを眺めながら、アスカは向かいに座るシンジに言った。

 

「久しぶりにあんたが運転したの見たわね」

「だよね……本当は運転手さんに送り迎えしてもらうのって苦手なんだ」

「……なんで。皆が憧れる御身分じゃない。運転手付きの通勤」

「三十代でそんな生活、なんだか後ろめたいよ。警護上の問題があったから今まではやむを得なかったけど」

「じゃあ、もう警護をやめさせたんだから来週から公用車も止めたら?」

「……今度は運転手さんの仕事が無くなるでしょう……」

「ハァ、あんたそんな事ばかり言ってるけど、世界中の人間をネルフで雇ったりは出来ないのよ!偽善もいいところだわ」

「……まぁ偽善であることは否定できないけど」

「無理することはないのよ。どうせ運転手との会話の間が持たなくてしんどいんでしょ」

「そうだね、そういうのも確かにある……」

「……あんた、もしかして、あたしとの会話も間がもたなくて苦しい時とかあるの?」

「え、なんで?」

 

 片眉を上げて不安そうに訊ねるアスカに、シンジは心の底から不思議そうな顔をした。

 

「……僕はアスカとの会話で気まずい思いになったことなんて殆どないよ。たぶん、アスカが気を遣ってくれるからだろうし、アスカは僕が黙ってても気にしないからだろうけど」

「それだけじゃないわよ、きっと……」

 

 アスカは前で腕組みをした。

 

「やっぱりあんたにとってはあたしが他人じゃないから」

「……うん」

「身体の関係ってやっぱり強いと思うのよね」

「そうなのかな……」

「ま、これも一種の縁よね」

 

 何故か機嫌良く言って、それから、アスカはメニューから、アメリカンブレックファーストに近いセットメニューを選んだ。

 

「そんなのあるんだ。パンにヨーグルト、オムレツ、ソーセージ、フルーツ、ジュース。……朝からボリューム満点だね」

「ちょっとお腹空いてるしね。あんたは何にする?」

「僕は普通に和の朝定食」

 

 御飯に、焼き魚に卵焼き、味噌汁に焼き海苔、おひたしの小鉢、御新香といったごくふつうのメニューだ。

 

「ザ・日本人ねえ」

「洋食も好きだよ、でも今日はこれ」

 

 注文が運ばれてくる間、アスカとシンジは食べ物の話など、他愛のない会話を交わす。こうしていると妙に落ち着く。かつて、シンジが朝食を用意し、一緒に朝の食卓を囲んでいた中学生の頃のようだ。

 

「土曜だし、もう仕事に戻りたくはないなぁ」

「気持ちは分かるよ」

 

 アスカの言葉にシンジは苦笑しながら共感を示す。

 

 運ばれてきた食事を二人はしばらく黙々と口に運んでいたが、三分の一ほど食べ終わった所で、アスカが音を上げた。

 

「なんか思ったより、油っこくてダメだわ……」

「大丈夫?」

「お腹は空いてるんだけどねぇ。例の異世界問題がストレスになって、思ったよりも胃に来ているのかも。シンジこそメンタル細いのに、大丈夫?」

「うん……僕はゆうべ一晩アスカと一緒に寝てもらったから、元気になったよ、ありがとう」

「シンジは素直で、いい子だね……」

「そ、そう」

「いじけて殻に閉じこもってるより、シンジは素直で明るい方が素敵だよ」

「それは誰だってそうだろうけど、僕のは性格だから……大人になかなかなれないでいるっていう自覚もあるし。自覚だけじゃダメなんだろうけど……」

「素直なシンジと、殻に閉じこもってるシンジ、どちらが本当のシンジなのかだなんて、シンジ自身にだって分からないんじゃないかな。悪い方を本当の自分だって捉えるのは、日本人のオクユカシサ?……でも、それは違うと思う」

 

 アスカはそう言って首を横に振った。

 

「それにさ、あたしだってやっぱり子供だよ。人間、高校生以降はなかなか精神の成長は出来ないものだよ。いつまでだって、若い、子供の気分でいてしまう。それは、あたしたちがまだ親になってないからかも知れないけど。……でもたとえ子供だったとしても、二人で一緒に大人になればいい、心配する事なんて何一つ無い。シンちゃんとあたしは、一心同体で、世界で一番の仲良しで、ずっとずっと一緒にいるんだ」

「アスカ……」

 

 そこで、アスカは雰囲気を変えるように、シンジの前にあるトレイに手を伸ばした。

 

「やっぱりお腹すいたー。和定食なら食べられそうだから、シンジのとチェンジしてー」

 

 甘えるようにアスカがねだるので、シンジは苦笑した。

 

「もうしょうがないなあ、アスカは」

 

 トレイを交換すると、アスカはシンジが食べかけにしていた焼き鮭に早速箸を伸ばす。シンジも同じ様にアスカが半分以上残しているオムレツにスプーンを入れた。アスカはもぐもぐとほぐした鮭の身を口に入れながら、口の中に何も無くなる合間に話し掛ける。

 

「そういえば、お互いの食べかけのものとか、全く気にならなくなったのっていつ頃からだろうね」

「え、どうだろう。随分昔の事のような気がするけど」

「最初は間接キスとか大騒ぎしてたしなぁ。……んー。やっぱり肉体関係を結んでからかな……」

 

 シンジは危うく、口に入れたばかりのオムレツを口中からこぼしそうになった。

 

「あ、アスカ……そんな、に、肉、肉体……とか言わないでよ、朝っぱらから」

 

 幸い、ファミレスの席は空いていて、近くの席に座る人は居なかった。

 

「肉体関係は肉体関係でしょ?身体の関係でもいいけどさ」

 

 アスカの明け透けな言い方に、シンジの顔が真っ赤になった。

 

「身体で繋がったから、他人でなくなった。少なくとも以後はそういう意識になった。だからもう相手の食べかけのご飯でも気にならなくなった。そういうことなのよ、やっぱり」

「……そ、そ、そうかなぁ」

「そりゃやっぱり違うよ、一線超えたら、それ以前とは」

「そんなものかなあ……」

「特に女にとっては身体の繋がりは重いよ。初めての男なら尚更」

 

 シンジは返答に困って頭をかく。

 

「良かったね、シンちゃん。あたしの初めての男になれて」

「うん、その……ありがとう。アスカも僕の初めてになってくれて嬉しい」

 

 シンジはアスカがいつものように、鼻をつついてくるので、照れくさそうにもじもじと俯いた。

 

「なんだか可愛いわ、その反応……」

「いや……だから、僕は男なんだよ」

「でも可愛いものは可愛い。今度、裸に剥いた後、同じ反応を要求しよう」

 

 アスカが箸を突きつけて力説するので、シンジがますます赤くなる。

 

 

 店内の時計を見たら丁度十時で、アスカとシンジは食後のコーヒーを頼みながら、トレイを下げてもらって、広くなったテーブルに腕を広げた。

 

「さてと。まだ時間はあるわよね。昨日のシンジの話の続きをしようか?……差し当たっては7.9。出来れば11.2……とやらを目指すんだっけ。あんた、とんでもない事を考えたものね……」

「その数字二つだけで、全部分かってしまうアスカも凄いと思うな」

 

 シンジが賞賛を惜しまず、自分の女でもあるアスカに対して上気した顔で憧れの視線を向けた。

 

「だって、ヒントが沢山だったからね。まず、一つ目は、特に前提となる実験や観測データなどの話をしていないのに、あたしはその数字だけで理解出来るとシンジは思ったのだから、その数字は物理定数ないしは何らかの定まった物理量であるってこと。ま、理科年表あたりに載ってる数字なんだろうなと当たりをつけたわよ。あれなら暗記してるからね。二つ目に、シンジは二つの数字を並べて、差し当たって/出来ればと言っているので、その数字は二つ以上の段階を持ち、大きければ大きいほど目的達成には都合が良いことが分かる」

 

 アスカは指折り数えて、明晰に説明を進めて行く。まるで著名な古典短編ミステリの「九マイルは遠すぎる」のような小気味良い論理的展開にアスカは自分で気を良くした。

 

「三つ目に、この話は、使徒と補完計画で単体化した人類が陸と海に棲み分けるという話の延長で出て来た話だ。四つ目、使徒はリリスに向かって引き寄せられ、第三新東京市を襲撃している。五つ目、ジオフロントはそのリリスの卵である黒き月の空隙に存在する空間で、使徒の目的地は黒き月である……合ってるかしら?」

「前提は全てそれで合ってるよ。それだけ分かれば、全てが解ける」

 

 シンジはアスカを見守るように穏やかに微笑んでいた。

 

「三つ目の前提から、使徒とゼーレとネルフ……いや人類……の方が適切かしらね……の三者が共存するためには、海と陸だけではなく、もう一つの場所が必要となる。二者の時は二次元平面上で棲み分け、そこから演繹すると、三者ならば三次元の立体上で棲み分けということになるんじゃないのかしら?」

「そう。つまり……」

「陸と海とソラが必要ということよね」

「うん」

「でも、空のどこに居ればいいの?ということで足場が必要になる訳だけど、四つ目及び五つ目から、そもそも使徒の目的地である黒き月が導かれる。その黒き月を……」

 

 アスカは顎を上げて、視線をファミレスの天井に向けた。

 

「……上に向かって打ち上げる。そこで一つ目と二つ目の前提から数字の謎が解ける。ソラと言ったって、使徒には飛行能力がある個体が多いんだから、大気圏内にプカプカ浮いてたら、人類にとっては何の脅威の除去にもならない。……そうなると、答えは自ずから見えてくるわよね。……そう、秒速7.9kmは第一宇宙速度、同じく11.2kmは第二宇宙速度だ。第一宇宙速度を越えれば黒き月は楕円軌道に乗って、地球の人工衛星になる。第二宇宙速度を越えれば地球の引力圏を脱して、地球同様に太陽を回る人工惑星になる。仮にも月と呼ばれる存在ならば、人工天体にしようという発想そのものは極めて自然なものよね。黒き月を人工天体にしてしまえば、使徒は勝手に宇宙へと引き寄せられて、人類の生息領域での脅威はひとまず去る……もしフォースインパクトが起こったって、衛星起動上ならまだかなり危険だけど、地球の引力圏を離脱しているのなら人類は生き残れる……だから第二が望ましい……」

「流石だね、アスカ……完璧な推論だよ」

 

 思わずシンジは拍手しそうになったが、その時、二人分のコーヒーが運ばれてきたので、手を引っ込めた。アスカは推論が見事に当たったというのに、何故かシンジを憐れむように見つめている。

 

「でもね、シンジ。せっかく考えたのに気の毒だけど、流石にこんなのは無理でしょう……黒き月の直径は13.75kmもあるのよ……ちょっと待ってね。球の表面積が4πr^2だから……と、仮に球体外殻の厚さを1m、岩石の密度を1立米当たり3tと見積もって、ジオフロント内部の施設を完全撤去したとしても……ははっ、笑っちゃうわね。17億tだって……!サターンV型ロケット六十万機分の質量じゃないの!こんなの人類には実現不可能じゃないか!」

 

 関数電卓をポケットから取り出して計算していたアスカが、匙を投げるかのように、肩を竦めた。シンジのアイデアは面白いが、これは無理だ。黒き月は巨大過ぎる。

 

 ところが、シンジは静かに言った。

 

「我々が十年以内に月に行こうなどと決めたのは、それが容易だからではない。むしろ困難だからだ─」

「……シンジ」

「知ってるよね、この演説。ケネディ大統領がアポロ計画に挑戦する時に言った言葉だ。僕は彼が正しいと信じる。人類は生き残るために、困難に挑戦しなければならない」

 

 シンジの言うことは正論だ。それが人類の生き残る唯一の道ならば、全人類はその総力を挙げ、あらゆるリソースをそこに注ぎ込むべきだろう。だけれども、黒き月を打ち上げるのは、ロケットを打ち上げるのとはあまりにも違う……

 

「しかし、それにしたって─」

「……アスカは知らなかったろうから、ちょっとフェアじゃないかも知れないけど、実は好材料は二つあるんだよ」

「好材料?」

「一つは、黒き月は、大気圏内では自力浮遊航行出来る。これは裏死海文書の記述から確実なことだ」

 

 17億tもの巨大質量物体を宙に浮かべる。それは確かに現行の人類の保有技術を遥かに超えている。そして黒き月が空を飛ばせるのなら、そこから発展させて宇宙へ、と夢見るシンジの心情もわからないではない。

 

「そ……それは確かに朗報だけど……」

 

 しかし、あくまでも大気圏内航行能力だ。地球の衛星軌道に乗る、あるいは更にそれを飛び越えて、地球の引力圏から脱するのはそこから大いな飛躍があり、容易ではない。そんな事が果たして出来るのだろうか?

 そこでシンジが話を転じた。

 

「……もう一つの明るい材料は、経理部長だよ。彼女の存在自体が僕らにとっての希望になる……」

「は?経理部長?それって、伊藤部長の事?」

 

 伊藤部長は、数少ない旧ネルフ時代からの継続採用職員で、学生時代からの赤木リツコ博士の友人だった。つまり保安諜報部長の剣崎キョウヤ同様、シンジたちより一回り以上も年上だったが、五十という年齢は部長として充分若い。むしろ、アスカやマリや松風ネネのように三十代で部長という方が異数の出世なのだろう。

 

 ネルフの財政を一手に握る彼女の打ち出の小槌でどうにかするとでも言うのだろうか。シンジの打ち出してるプランには巨大過ぎる技術的隘路が立ちはだかっているのであり、研究予算の多寡でどうにかなるレベルを遥かに超えている性質のものだと思われるのだが……。

 

 しかし、シンジの発した言葉はアスカの意表を突く、全く意外なものだった。

 

「うん、彼女の下の名前、アスカは覚えてる?」

「えっと、確か……なんか西洋人っぽい名前で珍しいなとは思ったんだけど」

「ナディアだよ─伊藤ナディア」

「そうそう。ナディアだわ。でも……それが?」

 

 確かに日本人としては珍しい名だが、彼女の見た目は日本人そのものだし、そもそも西洋人や西洋人の血を引くスタッフがネルフには何人もいた。何よりアスカ自身がそうだし、パッと思い付くだけでも、真希波・マリ・イラストリアス、マリイ・ビンセンスなどがそうだった。どこの国の人間だろうと、出自それ自体では能力に優劣などない。それはシンジにとってもアスカにとっても、自明の事実だ。

 

 だからアスカは、シンジが殊更に伊藤部長の出自を仄めかして何を言いたいのか把握しかね、首を傾げる。

 

「……彼女の四代前の、高祖母も同じナディアさんと言ったんだ。そしてその人は知る人ぞ知る、パリ円盤事件の関係者だった」

「パリ円盤事件って、あの教科書にも載ってた……」

「うん。1890年……十九世紀のパリ上空で、当時の人類技術を遥かに越える、空中戦艦と巨大円盤が戦闘を繰り広げた、そういう事件だよ」

「……えーっと、教科書にはそんな書き方はされてなかったと思うけど?」

 

 確か、アスカの読んだ教科書では、アフリカのさる軍国主義国家の内紛、世界に対する荒唐無稽な恐喝と宣戦布告、空中戦の嚆矢、内紛勢力の四分五裂的幕引きみたいな書き方だった筈だ。確かにあの時代で空中戦はなかなか凄いと思うが、アスカは飛行船、阻塞気球やせいぜい複葉機などによる戦闘を勝手にイメージしていた。

 

「アスカだって、教科書がどれだけセカンドインパクトに関する嘘を並べ立てていたか知ってるよね。……実際の彼らは、古代アトランティス人の遺産を受け継いだ旧タルテソス王国の人たちで……衛星軌道上に巨大な飛行戦艦を打ち上げる技術はもちろん、縮退炉や対消滅エンジンといった僕らの技術水準ではどこまでも理論上、概念上の存在でしかない超技術を運用していた。彼らにとっても流石にそれを一から新造したり、数%程度以上に性能を引き出して使いこなすのは無理だったみたいだけどね。でもその数%でさえ、僕らには夢のような力だったんだ」

 

 にわかには信じがたい話だが、慎重居士なシンジが誇張や出鱈目を話す筈がない。だとすれば、これも綿密な調査を経た、かなり確実性の高い話なのだろう。

 

「……つまりはその超技術を黒き月を軌道上、もしくは、以遠に打ち上げる為に転用する、と?……伊藤ナディアがその技術を知ってるの?」

「まさか。彼女は経理屋としてはとてつもなく有能で、一国の財政でも任せられるくらいに優秀な人材だけど、普通の人だよ。ひいひいおばあさんから何かの技術的秘密を受け継いでる訳でもない」

「それじゃ意味がないじゃない……」

 

 アスカは呆れて肩を落とす。

 

「でも僕は彼女から高祖母の日記と彼女がジャーナリストとして出版した本を見せてもらった。……あの時代で女性ジャーナリストなんて凄いよね……フランス語だったから、読むのに少し苦労したけど、その高祖母の父……その空中戦艦の船長さんだったそうだけど─は、彼らが宇宙に出たときに、こう言ったそうだよ。人類はこんな遺産がなくてもいずれ自力で宇宙に到達出来るって。そして現に、僕ら自身は実際に宇宙にたどり着いている。だから─」

「……呆れた楽天家だわね」

「本当にそうだね」

「その船長さんがじゃなくて、あんたが、よ」

「だって、僕はアスカを救いたいんだ。今度こそ……だから、悲観ばかりはしてられないよ」

 

 はにかむようにシンジは笑って、それから首を振った。

 

「シンジ……」

「まあ技術については、自力救済でも、他力本願でも構わないんだ、要は人類が生き残れればいいんだから。僕は、その古代アトランティス人の……超技術についても調査を進めている。その辺の調査は少し前からマリさんに担当してもらってるんだけど、ようやく一つの目標が定まった感じだよ。そして、黒き月の大気圏内航行能力の分析はマギセブンを使って、ビンセンス博士や山岸博士に頼んでいる……僕は案外、両者の調査がどこかで合流するような気がしているんだよ。何せ古代アトランティス人は、第一始祖民族の末裔という説もあるくらいだからね」

 

 シンジがマリたちとこそこそやってるのは何だか気に食わなかったが、仕事の上ではやむを得ない所もある。技術面でのリサーチは確かに技術部の領分だ。

 

「しかしまぁ、困難に挑戦するとかいうけどさ」

「ん?」

「男女の問題については、困難に立ち向かう積もりはないのかしら?……弱虫シンちゃんは」

「う……そ、それは……」

 

 シンジは言葉を喪ってしまう。

 

「いっつもいっつもあたしに流されて、女のあたしに可愛がられて、情けなくて、……男らしさや逞しさには多少欠けるけど、それでも、あんたは男だ。あたしは側に居てほしい」

「……うん」

 

 最後にアスカは少しだけ真剣な顔をして聞いた。

 

「でも、それはそれとして、この黒き月の打ち上げプラン、ゼーレと使徒の密約みたいに、予め共闘を約する必要なんか無いじゃないか。技術的隘路はともかく、黒き月を宇宙に打ち上げれば、使徒は勝手にそちらに行く。シンジが護衛を退けて危険に身を晒してまで、渚カヲルと会う理由があるとは思えないのだけど?……あんたは一体、渚カヲルに会って、何を話す積もりなの?」

 

 アスカはシンジが危険を覚悟で、警護を緩めたのがやはり気に入らなかった。だからその本心を確かめたかった。

 

「そうか……アスカみたいに頭のいい人でも、分からない事があるんだね」

 

 シンジはアスカの問いに俯いて、寂しげに言った。

 

「……シンジ?」

 

 シンジは俯いたままだった。そのまま、顔を上げずに小さな声で言った。

 

「カヲル君には……」

「うん」

「今度こそ、僕は……友だちに言いたいんだよ。永のお別れを。さようなら……って。結局は、それだけなんだ」

「シンジ……」

 

 シンジはかつて、渚カヲルを一度は己の手で殺めた。渚カヲルはまた死の淵から蘇り、シンジの周囲に現れたという。でも、二人は二度と友人として会うことはない。シンジはヒトの代表であり、カヲルはシトの代表だ。

 

 そしてシンジの秘めたる計画は、これから二つの世界を引き裂いて、二度と交わらないようにする。ヒトとシトの共存とは、けっきょくの所は、両者の永遠の隔離だ。

 

 だから、碇シンジは最後の最後に、渚カヲルにさようならを言いたい。君に会えて、僕と友達になってくれて、ありがとう、とも。優しくしてくれて嬉しかった、と。僕はあれで少しだけ、寂しくなくなった。前を向いて生きていけるようになった。

 

 カヲル君に、そういうことを告げて、今度こそちゃんとさようならを言えれば、僕はまた一つ大人になれる気がするんだ。

 

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