大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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五十二話 わたしを離さないで

 シンジストの集結以外は特に大きな問題が発生することなく、土曜は終わった。けっきょくは何も動けない、動きようがないというのがその時の人類の実感だったのだろう。七時前だが、大会議室に参集していた幹部も三々五々に撤退し始めている。

 

「……シンジ、あんた夕食はどうするの?」

 

 近寄ってアスカがそっと聞くと、シンジは少し考えて言った。

 

「僕は適当に食べて帰るから大丈夫だよ、それよりアスカは帰ってアイと食べたら?」

 

 金曜の夜からアイを放置している。シンジにはそれが気掛かりだった。

 

「何回か連絡は入れてるわよ。でも、それじゃシンジが……」

 

 シンジストの話もあったし、日が落ちると門扉前から解散した彼らも、まだ何人かはこの辺に残っているかも知れない。シンジを一人にはしたくなかった。アスカが心配な顔をすると、察したシンジは隣席の剣崎に声を掛けた。

 

「……帰りにラーメンでもどうですか?剣崎さん」

 

 クンではなく、さん付けしたのは、もはや業務時間外という意識があるのだろう。なんと言っても加持たちと同級生という年代だ。部下とはいえそういう年嵩の人に自分から業務外なのに声を掛ける。シンジにも相応に社交性が身に付いているのは確かだった。元々エヴァンゲリオンなど存在しなければ、シンジは明るく平凡な社交能力を持った普通の男子の筈だった。アスカは遠回りを強いられてきたシンジの苦しみに満ちた人生を思う。それでも曲がりなりにも、シンジが本来あるべき道に戻ろうとしているのは「父親」としてアイを気遣う思いやりが裏にあっての事だろう。アイの存在はシンジを確実に成長させていた。

 

「いいですね。司令」

 

 剣崎はサングラスで表情が読み取れないが、そう言って立ち上がった。それからアスカに向かって、頷いた。

 

「司令なら大丈夫です。ガードはご指示どおり下げていますが、私にも多少の心得はありますので」

「分かったわ。ありがとう剣崎さん。仕事終わりにごめんなさい」

「私も独り身ですからね。どうせ帰って自炊をするのも多少面倒に感じていた所です。お気になさらず」

 

 剣崎はストイックで、シンジ同様、家事に面倒くささを感じるタイプではないな、と思いつつもアスカは剣崎の配慮を隠した不器用な言葉に頭を下げる。アスカは剣崎を信頼している。かつて「ゴーストップ事件」と呼ばれたネルフ内の部間闘争(半ば悪乗りのお遊びみたいなものだったが)で、剣崎率いる保安部とアスカの作戦部は派手にやり合った事があったのだが、アスカが剣崎に直接蹴りを入れたことを彼は黙して、一度もシンジの前で俎上に上げようとしなかった。剣崎は紳士だ。かつて加持と親友だったという話も聞いたが、肯ける。

 

(世に人はいるものよね……)

 

 綺羅星の如くに有能な人材はいる。野に遺賢なしとは言うが、本当は世に隠れた有能な人材だって、さらに大勢いるはずだ。いや、必ずしも有能とは言えなくたって、日々を懸命に真面目に生きている、地の塩とも言うべき人々が大勢いる。

 

──あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう(マタイ5:13)

 

 イエスが山上の垂訓で言及した、地の塩、世の光と呼ばれた名もなき人々のことをアスカは思う。彼らこそが地道に世界と日常を支える世の光なのだ。

 

 そんな人たちを無理矢理に一緒くたにしてしまう人類補完計画はやっぱり烏滸の沙汰だ。確かに碇ゲンドウがかつて記録に残したように、その人類が一つになった世界では争いも差別も憎しみもなくなるのかも知れない。でも当然に、自他の区別のなくなった世界では、健全な競争心、立派な人に対する憧れや尊敬、地の塩や世の光と呼ばれる無名の人たちの思いやりや優しさ──そして、この世で一番大切な人への愛も絶えてしまうではないか。愛とは決して一つにはなれないことに対する飽くなき渇望だからだ。それでも一つになろうとして限りなく近づき、共に生涯を歩む事で完成されるのが愛である筈だ。人類補完の世界に、もはや愛はない。お互いをいながらにして全て理解し合える新世界に、旧時代の人々が必死に捜し求めて、営々と築き上げてきた最も尊いもの──愛は必要ないからだ。

 

 アイを想ってアスカとの夕食を断るシンジも、質朴な外観に不器用な思いやりを隠した剣崎も、たまに行くだけなのに顔を覚えていていつも美人だからと果物をオマケしてそのたびに奥さんに焼き餅混じりに怒られている八百屋のおじさんも、ネルフ本部で丁寧に手を抜くことなく掃除をしてくれて明るい笑顔ですれ違う職員全員に毎朝挨拶をしてくれるおばさんも……みんなみんな無くなってしまうじゃないか。そんなのは嫌だ。

 

 そう思いながら、愛なき補完の世界がやがて迫り来たる予感を感じて、アスカは泣き出しそうな、叫び出しそうな気持ちを必死で抑える。

 

 一方、シンジはそんなアスカをよそに、

 

「あ、多摩くんも一緒にラーメンどう?」

 

 とモーションを掛けて、露骨にしかめ面をされていた。

 

「僕はこれから北上さんとディナーなんです。司令は、男ばかり誘ってないで、惣流部長を誘うべきですよ。いつも相手を間違えてるんだよな!」

 

 呆気なく振られたシンジは苦笑し、アスカは呆れる。多摩ヒデキ、スーパー新人類である。

 

 

 シンジたちと別れ、車の中からメッセージアプリでアイに帰宅するから一緒に食事をしようと送ると、しばらくして「うん」とだけ返事が帰ってきた。そのそっけなさに疲れてるのかな?と思って、アスカは「惣菜を買って帰るから、何も作らなくていいからね」と返信し、自宅の近くのスーパーに寄った。

 

 独身者らしい大ざっぱさで、適当に買い物カゴに割引のシールのついた惣菜を放り込もうとして、アスカは、パックに伸ばしかけた手をふと止める。

 

「そこまで手抜きをする事もないわよね……あの子はずっと待ってたのに」

 

 アスカは惣菜コーナーを離れ、乾麺、缶詰、精肉、野菜などのコーナーを回って、スパゲッティとトマトのホール缶詰、ベーコン、にんにく、鷹の爪などをカゴに入れた。

 

 ──アイに、シンジに教わった想い出の料理、スパゲッティ・アラビアータをご馳走してやろう。シンジ同様に食にうるさいアイでも、あのシンジに褒められる腕前に至った料理ならきっと合格点を呉れる筈だ。

 

 素早く買い物を終え、急いで帰宅すると、自宅の居間は真っ暗で静まり返っていた。

 

「アイ……?」

 

 突然の不安に苛まれて、アイの自室に向かい、慌ててドア越しに声を掛ける。

 

「アイ、大丈夫?」

「うん……」

 

 か細い声が聞こえてきたので、開けるわよと宣言して、アスカはドアを開く。アイの部屋も居間と同じく真っ暗で、少女はベッドの上でシーツをかけて、横になっていた。

 

「調子悪いの……?」

 

 アスカが声を掛けると、アイは目を開き、気だるそうに言った。

 

「別に……少しだるいだけ」

 

 不吉な予感がアスカを押し包む。これまで風邪一つ引いたことのなかったアイの体調不良、クローンに宿命付けられたテロメアの短縮と短い寿命、シンジと二人で恐れ続けてきた事態が遂にやって来たのだろうか……。

 

 俯いて床に視線を落とすと、ベッド脇には、栞を挟んだ文庫本小説が落ちていた。セピア色のカセットテープが描かれた白い表紙。

 

 その小説は──カズオ・イシグロ著「わたしを離さないで」。

 

 今でこそノーベル賞作家として日本でも知名度のある彼だが、アスカはこの本だけは彼が話題になる前に読んだことがあった。そのテーマがアスカにとっても、気になるものだったからだ。アスカの視線に気付いて、アイが謝った。

 

「ごめん、アスカの部屋の本棚から借りて読んでた」

 

 アイはもうアスカに一々、さん付けはしなかった。アスカもそれに気付いたが、何も言わない。

 

「……この本は、もう読まない方がいいわ」

 

 アスカはそう言って本を取り上げる。

 

「どうして?……まだ読み始めたばかりなのに」

 

 アイの言葉にアスカはほっとする。それならばまだ、この本に隠されたテーマには気付いていない筈だ。良かった。

 

「……カヲル君が、ここではない、いろんな世界を見せてくれた。何だかSFみたいな話だから、ボクもそういうの読んでみようと思ったんだ。どうせネルフから禁足命令で自宅待機してなくちゃいけなかったし」

 

 そういう状況では家をいつ飛び出さなくてはいけないか分からないから、細かい事情を説明していない友人たちを呼ぶわけにも行かなかっただろう。アスカは改めて、アイに言い知れぬ申し訳なさを感じた。只でさえ時間が限られているかも知れないアイに、自由な時間を満足に与えてやることも出来ないなんて……。

 

 しかもその状況下で、アイが読み始めた本もまた運命の皮肉としか言いようがない選択だった。

 

「でも、この本は……」

 

 アスカは言い淀む。誤魔化すように、本を小脇に抱えながら、尋ねる。

 

「体調が悪いなら、本なんて読めないでしょ。……いつから調子悪いの?」

「……ゆうべから、ちょっと」

「ごめん、私がネルフに泊まってたから」

「いいよ、お仕事だったんでしょ」

 

 確かに仕事だった。でも、アイがひとりで苦しんでいる夜に、アスカはシンジと抱き合って、同衾していたのだ。せめて、セックスをしていなかったことが彼女を後ろめたさから幾ばくか救ってくれる。

 

「親代わり、失格よね……」

 

 アスカが頭を横に振ると、アイが何かを決意したように切り出した。

 

「ごめん、ウソをついてた。実はその本、もう読んだんだ。今は二回目を読んでる」

「っ……」

 

 アスカは唇を噛み締める。そうだとしたら、アイはもうこの小説がどんな話なのかを知っているのだ。よりによって、こんな本を読んでしまうだなんて。

 

「それ、クローンの話なんだね。臓器移植のために育てられ、臓器移植手術を終えて短命な人生を終えるクローンたちのお話。色々考えさせられたよ……それ読んだからかな、ちょっと気分が悪くなっちゃったのは」

「ごめん」

「……どうしてアスカが謝るの?」

「だって……あんたをそんな風に生み出したのは、全部あたしとシンジのエゴだから。あたしたちの世界を守るために、あんたを生み出したんだ! あたしたちは許されないことをしている。きっと地獄に堕ちるわ……」

 

 しかし、アイは首を振った。それからのアイは病身だというのに、熱に浮かされたかのように普段よりもかえって饒舌だった。

 

「最初この小説を読んだときはショックだった。あまりにも、ボク自身の話のように思えて。独りぼっちで読んでたから、泣きたくなった。でも、その後、ベッドの上でずっと寝ながら考えていたんだ──『わたしを離さないで』はクローンを批判する話ではないよね。そういう存在を生み出し、許す国とかへの批判でもない──たぶん、そんなんじゃなくて、人間は誰でも、寿命が短くても長くても──いつかは死ななくちゃいけないのは当たり前で、でも、自分の生が誰かの為に役立てるのなら、これ以上に幸せな事はない……生まれた意味が普通の人間になら見えなくて分からなくても、命が短くて己の使命が明確なクローンならそうじゃない。だって、クローンは確実に誰かの為になるように生み出された存在なんだから。だから、それは長い人生の中で生き方に迷い、自分の価値を見いだせなくなる普通の人間より幸せなことなんだ。……そんな風に思える話なんだよ」

「アイ──」

 

 泣きそうな顔でしゃがみこみ、アイと目線を合わせたアスカに向かって、アイは言った。

 

「ううん、シンジだよ。ボクは碇シンジなんだ。だから、アスカの為に命を棄てることなんてどうってことはない」

 

 女の子の顔をしたシンジが言った。

 

「……分かってる、最初からそんなの分かってる。あたしはちゃんと分かってた。あんたはシンジだよ……」

「ありがとう、アスカ。ボクのことをシンジだって認めてくれて。嬉しいよ」

「あんたにそっけなくしていてごめん。冷淡だったと憎まれても仕方がない。でも、あたしはずっと怖かったんだ。シンジとの仲が上手く行かないのに、あんたをシンジだって認めたら、きっとあんたにだらしなく依存してしまう。もしかしたら、それで『あたしのシンジ』を傷付け、哀しませるかも知れない事だってしてしまうかも、って。……加持さん……シンジ……あんた……それにあんたが言ってた別世界の誰か、そんな風に、あたしはふらふらと誰でも好きになれる。弱くて、いい加減な女なんだ。きっとあたしは多情なんだよ。だからシンジにも信用してもらえないんだ……!」

 

 アイはしかしそんなアスカの否定的な自己評価に首を振る。

 

「アスカ、そんな風に人を好きになる事を悪い事だなんて思わないでよ。人を好きになるのは素晴らしい事じゃないか。そりゃ、アスカがボク以外の人を好きになったら寂しいよ。でも、アスカが好きになった人なら、きっと素敵な人じゃないか。ボクはアスカに幸せになって欲しいんだ」

 

 でも、アスカはそんなセリフを絶対にシンジから聞きたくないのだ。シンジに勝手にアスカの幸せを決めつけて欲しくない。シンジから自分抜きの幸せを無理やりに押し付けられたくはない。

 

「なんでそんな事を言うんだよ! シンジの顔してそんな事を言わないでよっ。他の世界でや、大学生の時にあたしを追い払おうとしたシンジみたいな真似をあんたまでしないでよっ! あたしはシンジが好きなんだよ! シンジと添い遂げたいんだっ! 悟ったような事を言わないでっ」

 

「でもボクには、アスカと結ばれるすべはないんだもの。オリジナルの碇シンジじゃないし、アスカと同じ女の子なんだものね……」

 

 その哀しみを隠そうとして上手く隠せていない言葉の寂しげな響きは鋭くアスカの肺腑を抉る。そうだ、そうなのだ。アイはシンジと性別が違う。異性愛者のアスカとは結ばれ得ない。それもまた、シンジがアイに押し付けた勝手な都合だった。そして、シンジの目的がアスカを守る事である以上、その原因はアスカに百パーセント起因する。つまりはシンジとアスカのせいだった。

 

「アイ……ごめん……」

「謝らないでよ、アスカ。謝るのはボクの方なんだから。ボクは最近、ボクから削除された記憶がどんなものだったのか何となく分かるようになったんだ。ボクがサードインパクトまでに仕出かした事としようとしないで逃げていた事、アスカに向き合わないで、アスカを傷付け続けたこと、記憶としては思い出せないけど、それが分かるようになってきた。ボクはアスカに対して一生許されないことをしたんだ。碇シンジはその事を忘れてない。ある意味ではずっと囚われ、向き合っている。ボクは異世界の情報を伝えて、シンジにしゃんとしろ!と言いたかったけど、でも……都合良くアスカにしたことを忘れてるボクだって、偉そうな事は言えないんだ……」

 

 その忘却はしかしアイ自身の責任ではなかった。彼女の精神的安定を確保するために削除されていたシンジのネガティブな記憶を、アイは旧ネルフの記録を閲覧したり、数少ない当時のネルフ在職者からの聞き取りなどにより、わざわざ補おうとしているのだった。苦しい記憶を掘り起こしてまで、自分のしたこととアスカの傷付いた心に迫ろうとしていた。

 

「だからボクはアスカの為にボクの命を使う。クローンであるボクはアスカを笑顔にするために生まれてきたんだ。アスカが碇シンジと結ばれたいのなら、ボクはその為の道筋を作る。ボクはアスカの為にあの時、出来なかった事をこれからするんだ。そのために生まれてきたんだよ」

 

 それは死を覚悟した、しかし晴れ晴れとした顔だった。もはやアスカと結ばれることはないと自覚しているシンジが、思い残すことは何もないとでも言うように、今や、一途に向かう先を思い定めている。それが、アスカにはたまらなかった。そんな風にシンジは、どんな格好をしていても、きっとどの世界でも、アスカにどこまでも優しい。沢山間違え続けたって、最後の最後にはアスカの幸福のみを願ってくれる。でも、そこにはシンジ自身の幸せはないのだ。どうしても、碇シンジという存在は、自分を最後にしてしまう、それは、かつては、自分のことしか考えられなかった少年だったから──。だから、アスカは哀しくて涙が止まらない。自分の好きで好きで堪らない相手が、いつも自分自身を大切にしてくれないのが辛くて堪らない。その点では、やっぱりアイはシンジと同じだった。どうしようもなく碇シンジだったのだ。

 

「なんでだよ、それであたしがどうして笑顔になれるなんて思うんだよ! あんたはシンジじゃないか、あたしはシンジがいなくなったら嫌だ! シンジが死んじゃうのなんか……ぜったいに……嫌だよう……」

 

 アスカの顔がグズグズになり、両手で顔を覆って幼い少女のように泣き始める。どうしていつもいつもシンジのことで、こんな風に哀しまなくてはいけないんだ。こんな、死にそうなほどに辛くて、泣きたくなるような苦しい想いをするために、シンジと──そして、アイと出逢った訳じゃない筈なのにッ!

 

 たとえアイがアスカの性愛の対象にはなれなくても、もう一人のシンジであるならば、アスカとシンジの幸せな未来にはアイもいるのが当然だった。二人が交わって作った子供ではなくても、アイはもはやアスカとシンジの初めての子供に等しい存在だった。アスカは図らずも、我が子を夭折させるというこの世で最も大きな親の苦しみと悲しみを味わおうとしている……。

 

 しかし、熱のせいか、頬を奇妙に上気、紅潮させたアイは己の寿命が長くないのを悟っているかのような顔で、小さく笑うのだ。

 

「これは薬漬けだった綾波と同じ症状だよね、たぶん。恒常的な発熱が続き、体力と寿命を消耗していく。予想してたより、案外早かったな。……でも、ボクが死んでも、シンジはまだ生きている。だからアスカは哀しまなくていいんだ。これは決して、皮肉で言ってるんじゃないよ」

 

 自分と同じ境遇の、母ユイのクローン体、綾波レイについて調べ、全てを悟り、先を見通してきたらしいアイは言葉を続ける。

 

「この世界のことわりでは、本当はクローンには同時に一体しか魂が宿らないらしいんだ。器は複数用意できても魂は一つだけ。それがどの《周回》でも確立された原則らしい──カヲル君の受け売りなんだけどね。だから、ボクとオリジナルシンジが同時に存在出来るのは異例のことで、たぶん、性別が異なるからだろうとカヲル君は驚いていた。シンジが期せずして見つけた裏技だったんだね。だから、同時にシンジが複数存在するというのは本当はおかしくて、ボクはどこまでもイレギュラーな存在なんだ。でも、それだからこそ、ボクには男と女の気持ちが両方分かる。アスカの気持ちもシンジの気持ちも分かるんだ。ボクだけがこの世界で、アスカとシンジを結び付けられる。ボクの残りの限られた命は、アスカたちの世界を守り、二人の未来の為に使う──そのための時間ぐらいは残されている筈だ」

 

「シンジ……ううん、アイ……」

 

 アスカはベッドの上のアイをぎゅっと抱きしめた。もうシンジには──アイには、体力を損耗する様なことをして欲しくない。でも、アイには限られた時間の中でありったけアスカに伝えたい事がある筈なのだ。だから、アスカはアイを抱擁する。少しでも、その熱を吸い取るように。少しでも、彼女に己の命を与えるように。

 

「……過去への贖罪のために死を選んだりなんてしないで。あたしとシンジは今、必死にあんたの身体のことを研究してる。シンジがこの間、海外の論文を見つけてきた。治験がまだだけど、光は見えているんだよ! あたしたちは必ずあんたを長生きさせて幸せにする。だから──勝手にいなくならないで。あたしを離さないで」

 

 アイに対する気持ちとシンジに対する気持ちが渾然となったまま、アスカはアイをきつくきつく抱きしめていく。

 

 自分から卒業しろと一方的に告げた大学時代のシンジ、想いを伝えながらアスカを他の男の所に送り出した異世界のシンジ、そして、今また、この女の子の姿をしたシンジもアスカを置いて、たった独りでどこかに行こうとしている。

 

 わたしを離さないで──Never Let Me Go──決して私を行かせないで。

 

 そんな儚い祈りにも似た想いをアスカは少女を抱擁する腕に込める。

 

 溶けない雪の欠片など存在せず、アスカが強く抱き締めるほどに、その雪は早く溶けてしまいそうなのに──。

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