アスカは入浴を手早くシャワーだけで済ませ、パジャマ姿でアイの部屋に戻った。
「熱、どうだった……」
「七度三分」
「……そうか」
アイが脇下から取り出した体温計の数字を読んだ。微熱ではあるが、アイは普通の身体ではない。アスカの心配は消えてくれない。
「明日の朝も下がらなかったら、病院に行こう」
「大袈裟だよ。それに明日は日曜だし、ボクのは普通じゃないんだから、どうしようもできないと思うよ」
「でも普通の風邪かも知れない。なんならサクラに来てもらってもいい」
「……気が引けるな」
頬を赤らめまだ熱っぽそうなアイは居心地悪そうにそう言った。そんな風に遠慮するほど世の中から温かさを与えられている訳でもないのに。世界から使い捨てにするために生み出されたような少女なのに。使い捨てにしようとしているのは他ならぬシンジとアスカなのに。……シンジとアスカはアイを愛していて、決してこの状況に苦しんでいない訳ではない。でもそんな事、もはや何の免罪符にもなりはしない。
シンジにアイの今の状況を知らせようとアスカは何度も電話に手を伸ばしかけた。でも連絡は出来なかった。シンジはシンジストの事でまた絶望の縁に佇んでしまった。みんなの優しさで危うく立ち止まり、別れ際には少しは明るい顔も見れた。そのシンジの笑顔がまた曇ってしまう、それはもう避け難いとしても、アスカは少しでもそれを先延ばししたいのだった。
「布団運んでくる」
「え?」
「夜中に何かあったら大変だ」
アスカは自分の部屋に戻り、寝具を両腕に抱えて戻ってきた。アスカはアイのベッドではなく、ベッド脇に布団を敷いて、そこで眠るつもりだった。
「……アスカ、別にそこまで。それに……悪いよ」
「何が悪いのよ。あたしは別に平気よ。あんたの調子が悪いなら、夜中に起こされるぐらい何よ」
「いや、その、そうじゃなくて、どちらかといえば碇シンジに……お義父さんに悪いなって」
「はん?……ああ、そういうことね。妙な気、回さなくていい。あたしたち、女同士じゃないの」
「……確かにそうなんだけど」
確かにアイは同性のアスカに対して何も出来ない。アイはアスカを奪うすべさえ、奪われていた。それがアイの哀しみの原点であり、あらゆる覚悟もそこから生じていた。どうせアスカと結ばれないのならば、せめてこの世に生きている間に、彼女の為に自分に出来ることを精一杯しよう、と。
それからアスカは無言で、ベッド脇のカーペットの上に床を延べる。アイも観念したのか、黙って布団をかけ直して横になった。アスカもそれに続くように、延べたばかりのシーツを剥ぐって、自分の身を横たえる。
「早く寝なくちゃ。電気、消すわよ……消灯」
アスカが室内AIに部屋の消灯を命じる。部屋は一気に真っ暗になった。
ベッドの上のアイ、そこからさほど遠くない距離のベッド脇に、アスカ。二人が横になった。しばらくは無言だった。アスカはこのまま寝入ってしまおうかと思った。しかし、どうしても考えてしまう。アイをすぐにでも寝かしつけなくてはいけないのに、アイをシンジに重ねて、己のずっと伝えられないで来た長年の想いを吐露してしまう。
「……こうしていると、昔を思い出す」
時間を巻き戻したり、遡ることは出来ない。いや、あるいは《周回》とやらを繰り返したり、裏死海文書を書いたりした連中には時間を遡行する事が出来るのかも知れないが、もちろんアスカにはそんな芸当は出来ない。
だけど、こうして中学二年生のアイ──もう一人のシンジと、同衾ではなく、同じ部屋に就寝していると、どうしてもあの中学生だった夜に戻ったような気がしてしまう。時間を元に戻せてしまったような感覚になる。
「……昔?」
「そう。思い出すの……あんたとあたし、二人で過ごしたあの夜のことを」
「それって、もしかして、ユニゾン訓練の最終日の夜のこと?」
「……うん」
碇シンジとしての記憶を持ち、碇シンジそのものの声を持つアイが応えて、アスカも布団の中で肯く。こうして暗闇の中、声だけを聞いていると、ほとんどシンジとピロートークをしているのと変わらない気がしてくる。
「あたしは今でも時々、あの頃からもう一度やり直せたらって思う。シンジともう一度最初からやり直せたらって」
あの時、あの夜、二人は触れ合えそうで遂に触れ合えなかった。二人の関係は何も進まなかった。それがアスカにとっての悔いになっている。
「だって……あの頃はボクもまだアスカに出会ったばかりで、アスカだって加持さんのことが……」
アイが言う事はその通りだ。あの頃アスカは加持リョウジという大人の男性のことが好きだった。アイの指摘は事実だからこそ、アスカの胸を締め付ける。
「確かにそうだよ、あたしはあの頃、加持さんに夢中だった。でも……」
アスカはそっと身体を動かし、アイの横たわるベッドの方に顔を向き直らせた。真っ暗闇の中で、アイの顔も、アスカの顔も互いに見えない。あのユニゾンの夜もあんなに近くにいたのに、お互いの気持ちは見えなかった。でも、そうであっても、あの時は……。
「ユニゾンの訓練の最中、あたしは加持さんの事は全く思い出さなかった。あんた──シンジの事ばかり考えていた。どうしてコイツは鈍くさいんだろうとか、同じ年頃の男の子のどうしようもないスケベさとか、……まあ今から考えるとシンジがそんなにエッチだったわけでもないんだろうけど、あたしは異性への警戒心と好奇心でいっぱいで。そして、そんな時間はしんどい訳でも、ツラい訳でもなかった」
「うん……ボクも楽しかったよ、あのユニゾン」
エヴァに乗ってきた過去を悔やみ、罪悪感に囚われ続けているシンジは、これまでアスカとのこうした会話には決して乗ってこようとしなかった。ガギエル戦でのタンデム操縦も、イスラフェル戦でのユニゾン戦闘も、シンジにとっては他の使徒との戦い、エヴァでの戦いと大同小異のつらい出来事の一つでしかなかった。だが、アイにはそういう屈託がない、シンジの罪悪感の元になっている記憶の多くが彼女からは削り取られているからだ。だから、アスカはアイとの会話のやり取りに少しだけ胸を弾ませる。
「そう──あたしも楽しかったんだ。エヴァに乗るのはそれまで義務で仕事だった、あたしの能力を世に知らしめて、凡百どもをひれ伏させる為のものだった。でもガギエルとの初戦や、あんたとのユニゾンがあたしの気持ちを変えた。それは同年代の男の子と一緒に何かをする楽しさ。もしかしたらその時すでに、あたしの奥底には恋心が芽生え始めていたのかも知れない……」
アイは──シンジは、アスカのその告白をどんな風に受け止めるのだろう。ボクもだよ、と笑ってくれるのだろうか。しかし、アスカは床の中で首を左右に小さく振る。アスカにはあの頃──エヴァに乗っていた頃に──シンジとの恋を叶える可能性なんか本当はなかった。それは自分が一番よく分かっている事だ。だから、アスカはアイの返信が来る前に、さらに自分の言葉をかぶせた。
「……でも、そのうちあたしは加持さん加持さんとシンジの前でもしつこく騒ぐようになった。ミサトが加持さんとのよりを戻そうとしてたから。焦りもあったんだと思う。そして、一方でシンジの気を引こうとして、わざと騒いで見せる……そういう気持ちもあった……今から振り返るとそう思う」
「うん、ボクは、それでやっぱりアスカは加持さんのことが好きだと思ったんだ……」
「そうだよね、そう思って当然だ。人間は言われたことをそのまま受け取るしかないんだから。あたしみたいなひねくれ者の気持ち、誤解されても当然だ。素直になれないあたしだから、恋が叶わなくて当たり前なんだ。だから──」
アスカの鼻の奥がつんと痛くなった。取り返しの付かない過去、過去をやり直すことは出来ない。あの時、どうして素直になれなかったのだろう、どうしてシンジを誤解させるようなことをし続けたのだろう。そんな風に人前で平然と騒いで口に出せる想いよりも、ずっと胸に秘めてきて、自分自身でさえも気付けなかったような想いの方が遥かに大きくて、尊いに決まっているのに。
「あたしはあの頃に戻ってやり直したいよ。シンジともう一回やり直したい。もう一回やり直せるのなら、その時は自分の気持ちに素直になりたい。そうしてさえいれば、きっと何もかもがうまく行っていて、あたしもシンジもこんな、出口の見えない関係にさ迷う事も、アイをこんな風に苦しめることもなかった……」
過去のやり直しなど、そんな事、出来る訳がなく、アスカの後悔はけっきょくは詮無い事だ。でもそうやって後悔し続けるしかないのが、今のアスカとシンジの歩んできた二十年近い道のりなのではないか。
「だけど、そうなっていたらボクはこの世には存在していない。生まれてこなければ、苦しむこともないけれど、そして寂しいと思うこともないけれど、そのハッピーエンドな世界にはボクは最初からいないんだ」
アイは別にアスカの悔恨を否定したい訳ではない。でも、人間が歩んできた過程に間違いや後悔や回り道が沢山含まれていたとしても、その中で生まれた副産物にはきっと何がしかの意味がある。アイ自身がその悔いの多い道のりの生み出した存在だから、そう思うのだ。
「……アイ」
「それに、アスカはちゃんと碇シンジと結ばれたんだよね、サードインパクトの後に。赤い海の浜辺で……」
アイにもアスカとの初体験の記憶が鮮明に残っている。しかし、それは男の子の身体でアスカと交わった記憶だ。だからアイはそれを「ボクと」とは表現出来ない。それはあくまでもオリジナルの碇シンジとアスカとの想い出なのだ。アイはそれを自分が覗き見しているだけだと正しく理解している。
「遠回りしても、けっきょくシンジと結ばれたなら、アスカのしてきた事は無駄じゃなかったんだよ」
「でも、結ばれたけど、結ばれてないのよ。身体だけだよ」
そう言ってしまってから、すぐにアスカは真っ暗な部屋の中で首を振って否定した。
「……ううん、身体だけなんかじゃないと分かってる。シンジもあたしも何一つ、ちゃんと出来ない情けない男と女だけど、きっと他の相手とでは決して築けない絆や通い合う気持ちがある筈なんだ。でも、それでも、あたしとシンジは幸せになれてない。どうしても、何かが足りないんだよ」
アスカは答えのない問いをそこから見つけ出そうとでもするように、天井をじっと見つめる。
「……やっぱり考えれば考えるほど、あたしが悪いんだ。だって、シンジに当てつけみたいに他の男の人の話ばかりして。それなのに、サードインパクトであたしのことを助けてくれなかったなんて怒るの、虫の良い話じゃないか。シンジからしたら、あたしはいつもふらふらしてて、いい加減な女に見えるに決まってる。いつ裏切ってもおかしくない女に見えたんだよ、きっと!」
それは明言されなくても、アスカの背負ってしまった自己不信に繋がっていて、だから、アスカにそうさせてしまったアイの、後ろめたい気持ちを否応なく刺激する。
「アスカが……例の、別の《周回》の話を気にしてるならごめん。二人を苦しめたい訳じゃなかったんだ。あれは元々曖昧な話で……ボクもカヲル君の力で断片的な映像を脳に直接送り込まれた感じで……アスカとシンジの別れを目撃したのは事実だけど、その後二人がどうなったのかはよく分からなかった。ただ、アスカはどこかの鄙びた駅で、最後まで一人ぼっちで、決して笑ってはいなかった……ボクの主観だけど幸せそうにも見えなかった。だから、ボクは二人に哀しい別れをして欲しくない。シンジが今のアスカとのぬるま湯みたいな関係に浸かったまま、ずるずると大切な事を見失って欲しくなかったんだ。──だって、シンジがすべき事を何もしなくても、あるいはどんな酷い事をしたって、それでも二人が幸せになれるなんて話はあり得ないんだから。その事を僕ら三人は、あの赤い海の浜辺で十分過ぎるほどに知っているんだから」
アスカとシンジとアイのただ三人だけが持っている、赤い海の浜辺での記憶。その時、広い世界でたった二人ぼっちだった男女の思い出だ。アスカとシンジの手酷い失敗の結果がそこにはあった。すべき事をせず、すべきでない事をして、お互いに向き合おうとしなかった哀しい結果がそこにあった。たとえ肉体的に結ばれても、本当の意味では決して結ばれなくなるような呪わしい運命──それは現在へと続く、二人の絶え間ない苦しみ、悩み、哀しみの原点だった。
「……二人が何もしなくても幸せになれる筈がない、か。それはそうよね……」
アスカはアイの言葉にポツリと呟いた。シンジの顔をした少女によってショック療法的に突きつけられた、今ここにある現実とは異なる別の《周回》の現実。アスカはそれを忘れ去ってしまう訳にはいかない。
「それに……」
「それに?」
「裏切りというなら、アスカがシンジを裏切ったんじゃない。どちらかというと、シンジが──ボクがアスカを裏切ったんだよ」
「ど、どういう事?」
不吉な予感に思わずアスカの手は、掛けているシーツを強い力で掴んでいた。
「ボクはアスカ以外の女の人と、たった一度だけ──キスをしたことがある」
大きく息を吸い込んだ後、アスカの呼吸が瞬間、止まった。それはもちろんアイ自身の話ではなく。碇シンジとしての記憶についての話で。もしそうならば、確かにそれはシンジによるアスカへの裏切りであるのは間違いなくて……。
たかがキス一つ。アスカはもう三十をいくつも過ぎた女なのに、シンジともう四桁の回数の男女の交わりを持ってきているのに、なぜそれだけの事で、胸が詰まりそうになるのか。どうして心が張り裂けそうな程に、悲しくてたまらなくなるのか。せき立てられるようにアスカはその相手を確認する。
「それって、誰と──」
「……ミサトさん。葛城ミサトさんだよ。本部決戦で、彼女と最後に別れた時──ミサトさんが最期の最期にボクを叱咤して、送り出してくれた時──もう実は彼女はボクを庇って銃で撃たれていて、それなのに、ボクにキスをした。大人のキスよ、帰ってきたら続きをしましょう、そう優しく言って──」
まさかミサトが。しかし少し考えてみて、アスカは自嘲する。それならシンジは、自分と全く同じではないか。加持さんとはけっきょく何も進展がなかった自分だが、シンジはその加持さんの元恋人であるミサトとキスをしていたのだ──。シンジもアスカも同じ年上カップルの片割れにそれぞれ囚われていて……。まるであの二人の手のひらの上で踊らされてるみたいで。
だけど、そこまで考えてから、やはりアスカは無性に腹が立った。
「あたしは、シンジとしかキスをしたことない!」
アスカは上半身を起こしてそう叫んだきり、口をへの字に引き結ぶ。
「……分かってるよ、アスカ。ごめん……」
アスカの方をずっと見ていたらしいアイが、ずっと年下の彼女なのにむしろ気遣うように優しく、そして申しわけなさそうに言った。
「エッチな事だって、シンジとしかしないんだ!」
「そっちは──ボク、いやシンジだって、エッチはアスカが初めてだし、アスカとしかしてないよ。ボクのシンジとしての記憶はサードインパクト直後までしかないけど。……でもきっとその後だって、シンジにそんな度胸はないよ……」
アイはアスカを宥めようとする。アスカの気持ちは分かる。加持さんへの過去の気持ちはあれど、アスカが実際に男女の関係に進んだのは、シンジだけなのだ。だからアスカはずっと一途で貞淑だった。そしてそれは当然シンジも同じだとアスカは微塵も疑う事なく信じてきた。二人の金甌無欠な、第三者に対して排他的な関係において、キス一つは「たかが」ではなかった。それまで傷一つなかった黄金の
アスカはアイの言葉には答えずに、半身を起こしたまま、黙ってじっと布団から出した自分の手を見ている。
「……あんたから、したの?」
「え?」
「……ミサトとのキス」
「ち、違うよ!……されたんだよっ。……あの時のボクは完全に無気力状態で、だから」
しかし、アイはそんな事は言い訳にならないと分かっている。自分から能動的にしなかったからといってなんだというのだ。そんなの、何一つ自ら動こうとせずアスカを傷付けたあの頃の恥の上塗りでしかないのに。
「……ごめん。やっぱり、ボクは二回アスカを裏切ったんだよね。ミサトさんとキスしたこと。そして、そこまでしてミサトさんに叱咤され、アスカの事を助けに行けと言われていたのに、結局救いに行けなかったこと……」
「あんたが謝る事じゃない。……だってそれは本当はあんたじゃない。シンジの事なんだもの」
「……それはそうだけど」
アスカはパタンと背中から布団の上に倒れ込んだ。
「ミサトは本当にシンジが帰ったら続きをするつもりだったのかな。大人のキスの続きというのを……」
再び横臥して、疲れたようにアスカは呟いた。彼女の疑念は、もう二度と確認する方法がない故人の意志に向けられる。
「ミサトさんはもうあの時、自分の命がもう保たないと分かっていた……。死を覚悟した人間の、さよならとまた逢おう、はそのまま受け取っちゃいけないとボクは思う……」
「……それって、どういう意味?」
「自分が死ぬと覚悟してる人間のさよならはまた逢いたい、また逢おうはさよならの意味なんだよ。言葉とは反対なんだ……」
どうしてそんな事があんたに分かるのよ、と思わず訊ねようとして、アスカは口を噤む。「その事」に気付いてアスカは思わず泣き出しそうになった。
──決まっているじゃないか。
アイもあの時のミサトと同じで、すでに自分の死を覚悟しているからだ。だからその気持ちが分かるんだ。
「自分が死ぬと分かってるから、また逢いたくてももう逢えない、だからさよならと言う。自分が死ぬと分かってるから、さよならと思っていても、気取られないように、また逢おうと言う。ミサトさんも、あの世界のシンジも──みんな、同じだよ」
あの世界のシンジとは、アスカを無理やり送り出したあのシンジのことだ。アイがカヲルに見せられて、シンジとアスカに語った別の《周回》のシンジのことだ。彼もまた自分の死を覚悟していた。そして、アスカに「僕もアスカが好きだった」と告げ、「さよなら」と言って、彼女と別れたのだ。
その「さよなら」の意味は、死を覚悟したシンジの言葉の意味は──逆さまなのだから──「また逢いたい」
アスカははっとして思わず布団の中で、叫び出しそうになる口を手で抑えた。
──あたしは、あの世界のシンジは単にあたしと向き合わずに逃げて、他の男の所に追い払った、そうだとばかり思っていた。でも、それだけじゃ……そうじゃないのだとしたら。……アイが言うように死を覚悟していたから本音と反対の事を言うしかなかったのだとしたら。
あたしはやっぱりシンジに愛されていた──そこには愛があったのだ、と。
そう思うと、今まで身の内に堪えてきた熱いものが俄かに込み上げてくる。
そして、あの世界のアスカも、シンジの言葉が死を前にした裏腹のものだと気付けたのなら、たとえ一時は別れたのだとしても、希望はまだ残る。そうだ、自分だって高校生の頃、心にもない言葉でシンジを突き放して、その身は松代と第3に引き裂かれ、それはとても寂しかったけど、ちゃんと再会出来たではないか……。
「シンジ……あたしはやっぱりあんたが好きだよ。いつまでたっても自分自身の事を好きになれないでいる可哀想なシンジだけど、シンジのやつはあたしのことは好きなんだ。自分の幸せはともかく、あたしの幸せは願ってくれている。そう思っていいのかも知れない……」
溢れ出して来るシンジに対する感情をアイに対して吐露すると、アイは涙混じりのアスカの声に、優しく返した。
「それはそうだよ……ボクにとっても、シンジにとっても、アスカがいつだって一番なんだ」
アイはそっとベットから起き上がり、アスカに声を掛けた。
「ね、アスカの隣に寝てもいい?」
「……アイ?」
「変なことはしないから」
「そんな事はもちろん分かってるけど……」
アイはそれ以上の返事を待たずにシーツをベッドから引き剥がす。アスカはその動きを察して、横にずれて壁を向いた。アイは床に直に横たわるアスカと背中合わせに横臥する形になった。
アスカは、アイとは反対側の壁に向かって声を発しながら、アイに訊ねる。
「あんたはどうして……ミサトとのキスのこと、あたしに話す気になったの?」
アイもアスカとは反対側に向かって声を発して、その問いに返事をする。
「シンジがもしも秘密にしてるのなら、余計なことを言って、またお節介になるかなと悩んだよ。でも、アスカだけが加持さんのことで罪悪感を感じているのは良くないと思ったし、ボクはもう……何も言わずに逝ってしまうのは、モヤモヤした心残りがありそうでイヤだったんだ……ごめん」
「……そんな、逝くだなんて」
どうしてそんな風に哀しい言い方をするんだよ、とアスカは嘆く。でも、アイは明るく続けるのだ。
「それにさ。ボク──いやシンジと──アスカはもうお互いに隠し事なんかしていちゃ駄目だと思うんだ。相手に知られたくない事や隠してる事、全部を裸にして一旦さらけ出した上で、それを受け入れて、許す……そうでなくちゃ、もう二人は幸せになれない気がする。そして、二人にはそれが出来るとボクは思ってる。ミサトさんのキスも、二人が別れてしまう《周回》の話も、きっとアスカとシンジはちゃんと乗り越えられると思ったんだよ。全部を知っていて、それでも二人にはお互いだけなんだと信じられるのが、アスカとシンジなんだよ……」
病を得て却って多弁なアイは、まるで己の残り短い生を悟って、生き急ぐかのように、アスカに多くを伝えようとしていた。
「……ね、アイのこと、抱っこしてあげようか」
アスカとシンジが検討しつつある治療法が上手く行かなければ、アスカにはもう何もアイにしてあげられる事がない。だから、せめて、アイのことを抱きしめて寝てあげたい、そんな、シンジの為に守り続けてきた一線をアスカは踏み越えるような提案をしてしまう。別にシンジがミサトとキスをしていたと知ったからではない。その事は関係ないつもりだ。いや、本当はやっぱり関係あるのか……。アスカの中でもはっきりとは断言できない微妙な心の動きがそこにはあった。
「ううん、そういうのはいいよ……」
しかし、アイはその提案を峻拒する。
「あの夜、出来なかった事をするのなら、ボクとではなく、碇シンジとしなくちゃダメだよ。あの夜から一歩踏み出したいのなら、あの時、本当に横で寝ていた相手とでなくっちゃ、ダメだ」
「でもそれなら、あんたは何で──」
どうして、アイはアスカの横に寝たいなどと言い出したのだろうか。アスカとの関係に、何も期待していないのなら、なぜ。
「ボクはもうあの夜から先に進む必要はないんだ。残りの人生で、あの夜の事を反芻するように思い出していきたい。今晩、あの夜のようにアスカと背中合わせに寝て、思い出を鮮明にしたい。ボクはシンジとは逆にあの夜に体験しなかったことをこれから体験してはダメなんだ。ボクとアスカの全ては過去にある──全部が思い出なんだ。でもキミとシンジの全ては未来にある」
アスカが未来に進むのなら、その同伴者は本物のシンジだ。ボクは──本物でないシンジのまがい物であるアイは、過去にあるアスカとの思い出の全てをもらっていく。そのためにつらい記憶も掘り起こしていたのだ。喪われた、削除された、アスカに対して自分が酷いことをした記憶も復元しようとしていたのだ。アスカとの思い出をもう一つも取りこぼしたくはないのだから。
──そうか、アイは本当に全てを持って行くつもりなんだね。あたしとシンジのつらかった事も、悲しかった事も。それを無かった事にはしたくないんだ。
アイの想いが、つつと、アスカの両頬に熱いものを伝わせる。六分儀アイという少女がアスカを想う気持ちは、その夜のアスカの心をいつまでも揺さぶり続ける。
「うん、いいよ……全部持って行っていい。あたしとシンジとの思い出……それはアイのものなんだ。あたしはあんたのことが好きだったよ。ずっとずっと好きだったんだよ」
アスカの言葉に、背中合わせのままのシンジの顔をした少女は口の端を緩めた。
「うん、ボクもアスカが好きだったよ」
アスカとアイの背中は接しておらず、身体同士は決して触れ合う事はない。でも、アスカとアイ──もう一人のシンジの心は、その時、確かに触れ合っていた。