日曜日の朝、アイの熱は下がった。アスカはほっと胸をなで下ろす。
「何か食べられそう?」
「うん」
「じゃあ待ってなさい」
アスカはキッチンに行って、チョコ味のシリアルをシリアルボウルに入れると、そこに冷蔵庫から出した牛乳を流し込む。トレイに乗せてアイのベッドまで運ぶと、そのチョイスを見たアイがなぜかニコニコしている。
「……たぶん、消化に良いんじゃないかと思って」
「アスカの得意料理だよね。シリアルとかトーストとか」
アイはくすっと笑った。
「ごめん。昔シンジには色々教わったんだけど、途中でレッスンはストップしちゃったから」
「また教わればいいのに」
「それはあたしが断ったの。教わった料理を誰に食べさせればいいのよって。そこがハッキリしないうちはもう……」
俯くアスカの白い手を、アイはそっと握った。
「あいつには、ボクが必ずちゃんとさせるよ」
「アイ……」
「アスカを将来、飢え死にさせる訳には行かないからね」
アイの軽口にそこまであたしの料理の腕は酷くはない、と言い掛けて、アスカは口を噤む。
「確かにシンジがあたしと一緒になってくれないのなら、もう何も食べたくないかも。生きていても何の意味もない」
「うん……」
「あたしはサード直後にシンジを選んだんだ。易々と勢いで大切な純潔を明け渡した訳じゃない。それを今更放り出されたって……」
そのアスカの言葉は、アイの心をチクリと指す。取り調べ室でアイは、アスカがシンジに純潔を捧げた理由はシンジが手近な男の子だったからに過ぎないと暴言を吐いたからだ。
「取り調べの時はごめん。あのアスカとシンジが別れてしまう世界を見せられたのがショックだったんだ。だからボク──シンジなんかがアスカに愛される訳がないって不貞腐れてしまった」
「うん、あれがアイの本心じゃないってのは知っていた。……女の子の大切なものを男の子にあげるのって、やっぱりとても重いことよ」
「そうだね。ボクにも本当はそれがちゃんと分かってた。ボクも女だから。でもあいつは男なんだ。男たちが女の子の事を何にも分かっちゃいないのは太古の昔からだよ。……だからシンジがグズグズしてたとしても、もう少しだけ辛抱してやってよ」
「分かってる。エデンの園で知恵の実を先に食べたのは女だから。最初に知恵持つヒトになったのは女だもの。……だから、あたしは男であるシンジに我慢してやれる」
「助かるよ……」
それからアイは黙々とシリアルを口に運んだ。アスカはそれをやはり黙って見守った。ふつうにアイが完食したことに安堵し、アスカはトレイを下げると、アイに言った。
「熱は下がったけど、今日は一日大人しくしてるのよ。明日も平熱なら、学校に行ってもいい。でも放課後はネルフに顔を出して、サクラの診察を必ず受けるの」
「うん」
アイは素直だった。もちろん、貴重なエヴァパイロット候補だ。命令には従わなくてはならない。しかしそれよりもアスカが本気で心配していることが、その顔を見れば分かったから。
「お昼になったらまた起こす。それまでは休んでなさい」
「色々ありがとう、アスカ」
「……未熟だけど、今はあたしを頼ってくれればいい。母親代わりなんて気に入らないだろうけど、それがあたしがあんたに出来る全てだから」
「アスカが母さんみたいになってくれるなんて、本当はもっと早くに……素直に喜べれば良かったんだ。ボクは反撥して、たいせつな時間を無駄にしてしまった。それだけが悔やまれるよ」
「時間はこれからだって幾らでもある。何を悲観的になっているのよ」
◆
アスカはトレイを持って廊下に出るやいなや、うずくまって声を殺して泣いた。
「誰か助けてよぅ……」
サードインパクト後、シンジと結ばれても、アスカの地獄は終わらない。昨晩、アイの覚悟を知って、気持ちの上で整理を付けた積もりだったが、アイに対して自分でも信じきれないでいる希望の言葉を投げてから、その言葉の虚構性を自覚してしまったアスカの心は脆くも崩れてしまった。
アイは無論シンジではない。でももう一人のシンジなんだ。その死を座して見守る事なんか出来っこない。だって、シンジなんだよ!? あたしの大好きなシンジなんだっ!
そして、アイがもしもシンジのクローンではなかったとしても。アイはもうアスカの娘に等しかった。ずっと庇護者として同居してきて、毎日を共に過ごしてきた。アスカとシンジの間に生まれた初めての子供のようなものだった。だから、アイの命の灯火が尽きようとしている哀しみに、アスカの心は千々に乱れそうだった。
しかし、用兵家としての自分はアイをその命の最期の一滴まで絞り立てて活用するべきだと理解している。これが、ミサトが身を置いていた地獄なのか、とアスカは理解する。ミサトもその最期にはシンジに唇を与えてまで叱咤激励した。彼女の想いが、シンジへの性愛ではないとしても、少なくとも家族愛でない筈がない。シンジを愛する彼女は、しかし最後まで、シンジを一戦力として、エヴァの生ける操縦ユニットとして扱った。シンジが戦わなければ人類は破滅すると分かっていたからだ。……つまり、今のアスカの立場は丸きり、あの頃のミサトと同じなのだ。
アイの悲劇をシンジのせいにすることは出来ない。シンジはアスカを救う為に非道に手を染めたのだから。アスカたち人類が引き当てる筈だった死神のカードを、シンジは自分のクローンという新しいプレイヤーをゲームに引き込むことで、彼女にジョーカーを引かせようとした。彼女は自分のクローンだから……とシンジは自分では割り切れる積もりだったのだ。自分がエヴァにまだ乗れたのなら、シンジは喜んでそうしただろう。だが出来なかった。心はちっとも大人になれてるわけではないのに、それでもシンジはいつの間にか、アスカと一緒に大人になっていて、二人とも二度とエヴァンゲリオンには乗れない。だからアイが作り出されたのだ。シンジはきっと、父に倣って非道を行えば、ネルフの司令に相応しい、世界とアスカを守れるだけの冷たい強さを持てると思ったのだろう。
だが、碇シンジは碇ゲンドウではなかった──。
「あたしたちが間違ってるのは分かってる、でもそれ以外にどうすれば良かったんだよっ……」
くずおれ、声無く嗚咽するアスカは、誰に救いを求めていいのか分からない。シンジには頼れない。自分以上に脆いシンジには──サードインパクトの重荷を背負って、他者からは神にも悪魔にも擬せられ、それでもそのどちらにもなれっこない只の碇シンジには、これ以上の重荷を背負わせられる筈がなかった。
底なしの悲しみの泥濘に沈むアスカは、だから玄関のチャイムを聞き落とすところだった。ようやく気付いて、のろのろと身体を起こし、居間のドアホンの所に重い身体を運ぶ。
ドアモニターの画像をボタン操作で表示させると──哀しみの中では人はどうして音声操作をする気になれないのだろうか?──玄関先にはアスカと同年代の若い女が立っていた。
霧島マナだ。
戦略自衛隊からネルフへの出向者で、階級はアスカと同じ三佐。アイのエヴァ操縦の指導教官として、戦自の誇る人型兵器、四式統合機兵あかしまでの非凡な戦歴を買われて、彼女を教導している。
軍服ではなく私服の彼女を見るのはアスカは初めてだ。モスグリーンのコートを着て、手には土産物らしき白い箱を持って、いつもの積極的で自信に溢れた彼女には似ず、僅かばかりの緊張をその表情に溶かし込んで。
彼女がアスカの家を訪れるのはもちろん初めてだ。だからこその緊張、なのか?
アスカはスピーカーに向かってかすれた声を発した。
「マナ……」
「えへへ、来ちゃった!」
その声の明るさが何故だかアスカの気持ちを救った。わざと脳天気にしているようにさえ聞こえる声色。それが作為的なものではないにしても、彼女はいつも努力して一定以上の明るさを保とうとしている。それは己に対して常に正直であることを自ら以て任じる霧島マナにとっても、別にウソではなかった。それは世界を作り変える為の笑顔だった。世界を自分と同じ明るさへと調律し直す為の愉しげな声だった。
アスカは慌てて、玄関先にまろび出る。
女所帯の習慣であるドアチェーンをもどかしげに外し、アスカはドアを開いた。ドアの前のマナは申し訳無さそうに、眉を八の字の形にしている。
「……ごめんね、突然押し掛けて」
「マナ」
「なんだか、アスカとアイが心配で。気になってしまって。居ても立ってもいられなくって」
それは心配の押し売りだったかも知れない。けれどもアスカにとって今、本当に欲しい押し売りだった。
「あたし、いつも考えるより先に行動しちゃうんだ。急にそんな気分になって、上手く説明は出来ないけれど、朝ご飯を食べた後、車のキーを掴んで家を飛び出していた。迷惑だとは思ったんだけど、連絡するのさえもどかしくて。そういう事があたしには年に数回あるの」
「何なのよそれ」
アスカは泣き笑いの表情を隠しきれず、慌てて俯く。
「これ、コージーコーナーのシュークリーム。アスカが好きそうだなって思って」
「……シンジも好きだよ」
そう言ってしまってから、アスカは慌てて言い直す。
「アイも好きだと思う」
「うん。良かったら食べて。じゃ」
差し出された白い箱を礼を言ってアスカが受け取ると、マナは笑顔を貼り付けたまま、早々に辞去しようとした。その腕をアスカは素早く掴む。
「アスカ……?」
「あがってよ。お茶ぐらい出すから」
「そう?」
気遣うようにアスカの顔を覗き込んでマナは小首を傾げる。
「独りでいるのがつらかった。そこにあんたが来てくれた」
アスカの目の縁が、光っている。
「うん」
「だから上がって欲しいの」
「じゃあそうする」
マナにはすぐ分かった。つらさや悲しさを抱えている女の子の事はすぐ分かる。独りにしてはいけない子が居るってことを。霧島マナはこれまで沢山のそうした女子のメンタルをケアしてきた。といっても何か専門的なアプローチがあるわけではない。マナがするのは、ただ、傍にいてあげる事だけだ。
それだけの事が、女子には、──多分人間には──たいせつな時がある。
上がりかまちでスリッパに履き替え、マナはアスカの後ろに続いて廊下を居間へと導かれる。途中、アイの名前が書かれたプレートのドアを見かける。アスカが言い訳のように申し訳無さそうに言った。
「アイ、ちょっと調子が悪くって」
「……そう。なんとなくそんな気がしたんだ」
「え?」
「あたしもメッセンジャーであの子とやり取りをしてたから。なんかやり取りが単調、素っ気ないから……元気がないような気がして」
きっと、だから霧島は突然、アスカ宅を訪ねる気になったのだろう。アイの様子が気になったのだ。そしてアイに異変があれば、アスカの心も当然揺さぶられる……。それで二人が気になったのだ。
「……あたしには分からなかった。あたしも何度もアイに連絡を入れていたのに」
言外に親代わり失格だという自責を滲ませるアスカの言葉に、マナは首を横に振る。
「アスカはよくやっている」
「……何も出来てないのよ。だから子供の不調さえ見落とすんだ。大人のするべき事がちゃんと出来ていないんだ」
「あたしはあの子の師匠だからね。苦しいとき、弱音を吐きそうなとき、強がる方法を教えていた。戦士としてそれは必要な事だから。それでピンと来ただけだよ」
強がる時は言葉数を少なくする。言葉の端に、弱さが滲んでしまうから。それがマナがアイに教えた戦士の強がり方だ。
「そして、アスカも今そうやって強がっている。あたしにはそれが分かる」
「……だって」
アスカは居間へと通じるドアのノブに手を掛けたまま、立ち止まった。マナも、自然、足を止める。
「だってあたしが崩れたら、誰があの子を守るんだよ」
「……あたしが居るよ」
「……」
「シンジ君だって、マリさんだって、サクラだって、ミドリだって……みんな居るよ。だから弱音を吐いても良いんだ。だってネルフは──シンジ君の作った新しいネルフは──温かな家族みたいなものなんだから」
アスカは後ろを振り向いて、マナを見た。その姿は何故か滲んでよく見えなかった。
「アスカは少し頑張り好きだよ。みんなそう思って心配している」
「……でもあたし、ちゃんと出来なくって。もうどうしたらいいのか分からなくて」
「うん、だけど解決法は常にある。差し当たり、そういう時は甘いもの、だよ! それで少なくとも気持ちは上向く……さあ、入った入った」
まるで家の主のように振る舞って、マナはアスカの背中を押す。アスカは居間へのドアを開いた。カーテンを引いた窓から、明るい光が差し込んでくる。
──そうか。この明るさに気付けたのは、マナが来てくれたからだ、とアスカは思う。
◆
アスカが淹れたお茶の香りを鼻にくぐらせながら、マナは嬉しそうな声を上げた。
「ああ、ローズヒップの香り、これ好きなんだ」
「そう……それは良かった」
「でも、今更だけど本当に良かったのかな。アイの体調悪いのに上がり込んでしまって」
「今朝はもう熱は下がったのよ。今は大事を取って、寝せている。昼になったら起こすから、一緒にランチにしよう。あの子もあんたが来てくれてると、喜ぶわ」
「じゃ、遠慮なく。アスカの作ってくれるランチ、楽しみ!」
「そうやって、あんまりハードル上げないの」
「あはは」
お十時に、ということでお持たせのシュークリームを出して、二人でつまみながら、アスカはようやくマナの明るさに応じるように笑顔になれる自分に気付いた。アイの事があるからそうなれる自分に後ろめたさを感じる。しかし、アイの為にも強く明るくあらねば、とも思うのだ。
「あんたと初めて会った時には、こんな風にティータイムを過ごせるなんて思わなかった」
シンジを巡って争うことになるであろう不倶戴天の敵。それがアスカにとっての霧島マナの第一印象だった。
「あたしはアスカとこんな風に過ごせると確信していたよ」
「さすがネルフきっての女たらし。ハンサムガールね。みんながあんたを好きになる」
「でもアスカだって人気はあるのよ」
「まさか。それって男に?」
「男子はむしろ司令のシンジくんとの関係があるから、腰が引けちゃってる感じかな。でも女子にはアスカ党が結構多いのよ」
アスカはその説明に首を傾げた。
「あたし性格、結構キツいよ?」
「それは皆、知ってるよ」
マナは笑いながら、言葉を続けた。
「……でも、アスカは綺麗だし」
「自分で言うのも嫌味だけど、同性の容姿なんてやっかみの対象にしかならないんじゃない?」
そう言うマナだって充分、美人の範疇であるし、そもそもアスカは自分が美人である事であまり得をした記憶がない。煩わしい求愛の恋文を大量に貰ったり、さらには卑劣な盗撮写真の売買対象にされるなど、自分を上辺だけしか見てくれない異性の態度に不信を増すばかりだったからだ。せいぜい気のいい八百屋のおじさんに偶にオマケをしてもらえるぐらいが美人の役得だ。
アスカが気にかかって仕方がない唯一の異性であるシンジはといえば、これがどうやら面食いではなく、アスカが今より不美人だったとしてもそんなに態度は変わらないのではないかと思える程だ。むしろアスカが度外れた美人なので、シンジが気後れして、対等な関係の構築の障害になっているのではないかとさえ疑われる。
「だけど、アスカは男の子なんて選り取り見取りの容姿なのに、ずっとシンジくん一筋なんでしょ? つまりアスカは自分の容姿を男女の駆け引きには使ってない。そういうのに女の子たちは弱いのよ。容姿だけじゃなくて魂が綺麗なんだ。一途で、まるで王子様に焦がれ続ける物語のお姫様みたい。だからマリさんの姫っていう呼び方はピッタリだよね」
マナの絶賛に、少しだけ照れながらアスカは頬を掻くような仕草をする。
「王子様ねぇ……」
アレが王子様という柄か……? とアスカは思いながらも、シンジの事を想うだけで、愛おしさに胸が疼く。
どんなに情けないシンジでも、自分にとっては唯一無二の異性なのだと思えば思うほど、慕情が募るのだ。
◆
「そういえば、使徒と開戦後、あんたはどうなるの?」
マナはあくまで戦自からの出向者だ。そしてこの任務はアイをパイロットとして育て上げる事だ。使徒との戦争が始まってしまえば、その役割は一旦、終了ということになるのではないか。そういう懸念にアスカが眉を顰めると、マナは言った。
「実は昨日の夜に内示を貰った」
人事異動の内示ということだ。
「土曜の夜に? それはまた異例ね……シンジのやつ、いつ人事を調整したのか……」
と途中まで言いかけて、昨日の幹部会議の席上に似つかわしくない男がいたのを思い出す。その男は何やらシンジに呼ばれて、話し込んでいたのではなかったか。
多摩ヒデキ。
なるほど。あんな男でも、シンジの指示を受け、それを人事課長に連絡して……といった使い走りぐらいは出来る筈だ。それであの場にいたのか。
「……で、行き先は?」
「居続けだよ、ネルフに。ついたち付けで連絡将校に任命される」
「それは……」
「うん、アスカの思っている通りだよ」
霧島マナはアスカの微妙な表情を見て、彼女の言い出しかねている推測が正しいと肯定した。
「そう、あたしは女だから、安全圏に置かれたの。使徒との決戦の主任務を担うとはいえ、ネルフ本部はエヴァに守られた防衛の要。閑職に飛ばされるとかは別としたら、ある意味では一番安全な場所と言える」
実態としては安全なのに、一見安全な感じがしない点もポイントだろう。すなわち軍人としての経歴に傷が付かない。
戦略自衛隊にとって、霧島マナは疑いなく有能で人心収攬にも長けた将来の女性将官候補だ。だからその秘蔵っ子とも呼べる人材を温存したいと考えるのは当然だった。そしてその思惑は出向中のマナの人事を調整するカウンターパートであるネルフにとっても同じだったろう。つまりはシンジや松風ネネたちの思惑だ。シンジは貴重なネルフシンパサイザーとして育った戦略自衛隊出身のマナをやはり安全圏に置きたいのだ。
「腹が立つ……?」
自分が女だからという理由で同じような処遇を受けたら、当然そう感じるであろう感情を表明して、アスカはマナの反応を伺った。
「ううん。腹なんか立たないよ。……だって、男の人たちはあたしを守ってくれようとしているんだもの。戦争という命の椅子取りゲームで、誰だって、限られた椅子に座りたい。男の人たちにも、愛する人がいて、家族がいる。生き抜いて、幸せになりたい……その想いに男女の違いなんかあるはずがないのに、そうやってあたしたち女に進んで席を譲ってくれようとしている。紳士だよね。格好いいよね。哀しくて、あたしの心は張り裂けそうなの。でも、あの人たちの事、本当に男らしいと思う。同僚として誇らしいし、敵わないなとも思うんだ」
マナはテーブルの上で、自分の手と手を組んで、その交点をぼんやり眺めながらそう話した。
「あたしは、あいつがそんな事をしようとしたら引っぱたいてやる」
噛みつくようにアスカが言うと、マナは目を見張った。アスカが言う「あいつ」とは誰のことか分かりきっているから、アスカのその反応に納得する。
「アスカはやっぱり、シンジくんと一緒に生きたいんだね」
「……あいつには命を救われた事も、見捨てられた事もある。だから本当はそれでチャラなんだ。貸し借りナシなんだ。だけど、あいつはいつまでも後者の事だけを考えて、負い目に感じている。だからそういうバカな事──自分だけを危険に晒してあたしを守るとか──をいつ仕出かしてもおかしくない。でもあたしはそういうのはイヤなんだ」
あたしだけが生き残っても何の意味もない。それではあたしは幸せになれない。別世界のシンジが仕出かした強引なアスカ放り出しのことも脳裏に過りながら、アスカはひたすらにシンジと二人で紡ぐ未来を求めている。
「でも、アスカのこと、そんな風に守りたいと思っているのはシンジくんだけじゃないよ」
「……それは……」
「もちろん、アスカだって分かってるよね。アイはアスカのこと、自分も女の子なのに男の子みたいに守ろうとしている。女だてらに姫を守ろうとする女騎士みたいに」
「あたしは、本当はアイにだってそんな風にしてほしくはないんだ……」
アイは、クローンの生まれてきた意味、その役割は明確だから、普通よりも幸せなのだと言った。クローンの役割というのは、誰かの身代わりになることだ。アイはシンジの身代わりとして、エヴァに乗る。アスカの身代わりとして、その命を救う。そのために生まれてきたのが、ボクなのだ、と。
アスカは昨晩、背中合わせに床に横たわりながら、アイのその覚悟を知った。
そんな哀しい悟りを、叶うことならば、アスカは思い切り否定してやりたかった。でも、アイはもう自分の進む道を決めている。自分の人生の価値を見出している。アスカの為に生き、アスカの為に死ぬのだと。そして、アスカが今更、アイの自己犠牲を否定したところで、アイが戦わないのなら人類はけっきょく使徒に敗れ滅亡する。そうなれば、やはりアイも助からない。だからアスカは、病躯を押して戦地に赴かんとするアイの背中を押してやる事しか出来ないのだ。彼女の生をせめて意義あるものへと高めてやる、その為に全力を尽くす他はない。そして、その先に僅かばかりだが、アイも助かり、シンジもアスカも人類も皆が助かる可能性をアスカは見る。危地に希望を見出して進むしかないのだ。
「アスカはね、アイの事だけをひたすらに考えて指揮してくれればいい」
とマナが言った時、彼女の表情はいつになく真剣だった。そうだ──死地に赴くのはアイだけではない。とりわけ縦深防御を前提とする戦自の通常兵器部隊には、使徒の発生させるATフィールドに抗する十分な手段もなく、エヴァが反抗する為の時間をひたすらに稼ぐ為の犠牲的任務が強いられるのだ。
「あたしが連絡将校として、戦自にアスカの指揮を伝える。戦自の男の人たちの命の重みはあたしが全部引き受ける。アスカはただ兵棋演習上の駒として、命令を下せばいい。あたしはあの人たちに命を貰うのだから、あの人たちの死出の旅路への見送りはあたしの仕事なの」
「マナ……」
それはアスカが、戦略自衛隊部隊に対して、犠牲的任務を命令する時に感ずるに違いない心的負担を引き受けるという申し出だった。
形式的には国連直属の特務機関ネルフと、日本国政府の軍隊である戦略自衛隊の
これは元々、戦略自衛隊が、セカンドインパクト後の動乱を受けて国連憲章四十三条に基づき国連軍として丸ごと供出された日本国自衛隊の一部を実質的に日本国軍隊として還収せしめるという意図で設立されたものであったが故に、あたかも「もう一度国連に戦自を供出するかの如き作戦統制権の統合」が政治的に右派を中心にタブー視されていた為である。
しかし上の事情はあくまで国内政治的な問題であり、サードインパクト以前から対使徒戦で苦杯を舐め、少なからぬ犠牲を出してきた、そして、本部決戦ではゼーレの策謀にうまうまと乗せられ、ネルフと事を構えるに至った戦自幹部には別に思うところがあった。
一つにはどうせ使徒戦で避けられぬ犠牲であるのなら、その将兵の犠牲を少しでも意味あるものたらしめようという覚悟である。そして今一つは対使徒戦力についてのネルフと戦自の彼我戦力の冷静な比較である。対使徒戦では圧倒的な戦力差があり、戦自ではN2兵器や統合機兵あかしまなどの戦力を計算に入れたとしても、ネルフに到底比肩し得るものではなかった。戦自が自らをネルフに対する補助兵力と考えること自体には意外なことに大きな心理的抵抗はなかった。かつての自衛隊も同盟国軍である米軍を補完する補助兵力としての歴史が長かったからだ。
現在の戦自と新生ネルフの間では、シンジが主導して毎年実施するようになった合同演習や霧島マナに代表されるような人事交流で醸成された信頼感がある。ある意味ではミサトら「ネルフの大人たち」の仇とさえ言える戦略自衛隊との友好関係にシンジは恩讐を超えて、ひとかたならぬ意を用いてきた。それは同じ作戦部長であるアスカを、ミサトのような運命には遭わせたくないというシンジの執念だったといえるかも知れない。
こうした基盤をもとに、新生ネルフと戦自は広汎な合意に至った。使徒来寇時には、連絡将校を交換し、実質的には戦自はネルフの指揮下に入るというものである。シンジはアスカとかつて相談したことがある。
「連絡将校を介してこちらの作戦が伝わる。僕なりアスカなりの指揮だ。形式的には戦自に対しては『作戦上の要望』を伝える」
「戦自は実際には『要望』を一切、拒否しないという訳ね」
「拒否するオプションを手元に留保するくらいなら、最初からバラバラに戦った方がマシだろうからね。そこはあちらさんもプロだから分かってくれている」
命令を聞くか聞かないかについて100%の信頼を置けない指揮下の部隊などむろん、指揮系統の混乱を招くだけだ。当てにするだけ期待が外れたときの打撃が大きく、時としてそれは致命的なものとなり得る。
研ぎ澄まされた知性を発揮するシンジの横顔に注がれるアスカの視線はどこか熱っぽかった。
アスカはその時のシンジの顔を暫し目を瞑って思い出す。作戦指揮中、ロジックの世界にあたしとシンジは逃避するだろう。純然たる論理と力学と数字の世界だ。部隊は単なる演習上の駒と同じになり、アイもエヴァ初号機という単なるユニットになる。そうでなければ、とても指揮が行える筈がない。我が子にも等しい娘に、愛する男と同じ遺伝子を持つ少女に、死の危険を孕む命令など下せない。
アスカはもう、アイの事で精一杯だ。戦略自衛隊の人々の運命を、彼らへの責任の重さを、マナが心理的に引き受けてくれる、そう言ってくれるのは涙が出るほどに有り難い。
「マナ。あんたがあたしの傍にいてくれて本当に良かった……」
「うん。あたしはアスカの役に立ちたいよ。アスカやアイやシンジくんの役に立ちたいんだ。だってみんなの事が大好きなんだもの」
ぺかっと太陽のように明るくマナは笑う。
「もしかしたらあんたとはこんな出会い方じゃなければ、シンジを巡って憎み合っていたのかも知れない」
「だけれど、そんな世界はまだ幸せだったのかも知れないわ」
今は色恋沙汰さえ後景に霞むほどの人類存亡の危機だ。三角関係だなんだとアスカとマナが子供みたいに争えているような、別の《周回》がもしもあったのなら、それはいっそ幸せな風景だったのかも知れない。そう思えるのだ。
アスカはだから少しだけ、懐かしい過去の風景に思いを馳せる。
「あたしね──日本に来るまでは同年代の友達なんか一人もいなかった」
「……うん」
「こっちに来て、中学校で初めて一人友達が出来た。洞木ヒカリっていうの。あの子はLCLの海に溶け込んだまま、戻ってこなかった。凄く面倒見が良くて、あたしのことを本気で心配してくれていた」
アスカは洞木ヒカリとは永遠の別れをしたような気分には未だになれなかった。またいつかどこかで会えるような気がしてならないのだ。
「そして、大学ではマリに出会った。なぜだかあたしのこと、姫と呼ぶ不思議な女」
そういえば、初対面の時、あいつ変なことを言ってたな。
「こっちの姫は、初めまして。社交的な姫も新鮮だにゃー」
勝手に姫とか呼んでおいて何を言うのか。……そもそもお姫様はむしろ社交的なものなんじゃないの? だって、社交界とかいうくらいなんだからさ。あたしは自分が天才でエリートだという自覚はあったけど、両親は単なる研究者や医者。貴族や王族ではむろん無い。庶民を気取る積もりはないけれど、姫なんてそんな高嶺の花だと自分を思ったことはなかったから面食らったものだ。
でもあいつの明るさは嫌いじゃない。シンジとの事で落ち込むたび、あたしはアイツの飄々とした明るさや前向きさに救われていた。
「──だから、あんたは三人め。……なのかな」
「へ? 何が三人めなの?」
「あたしの三人めの親友……一方的にそんな事を言ったら気持ち悪い?」
「まさかっ!」
マナはテーブルの上でアスカの両手をしっかりと握った。
「嬉しいよっ!アスカの親友だと言ってもらえるなんて。感激っ」
「あたし、繰り返すけどそっちの気は一切無い。あたしはどうしたって、男が──シンジが、好きなんだ。でも、女の友達もいてくれて良かったと思う。ヒカリもマリもあんたも、あたしみたいな面倒な女を構ってくれた。それはあたしに多分、温かいものを与えてくれている。孤独と苛立ちに苛まれて、いびつに育った傲慢な女の子が、まともな大人に成れて来ているなら、それはきっとあんたたちのお陰なんだ。あんたたちが自分でも気付かないうちに、あたしに呉れたものは──シンジから貰ったものとは少し違う、それでもあたしにはとても大切なものなんだ」
アスカはそう言って、涙を拭い、背中からカーテン越しの太陽の明るさを背負って、ニッコリと微笑むのだった。