目を覚ましたアイは、時計を見る。昼の十二時を少し回っていた。ベッドからのそのそと起き上がり、パジャマを着替えないまま廊下に出てリビングに向かうと、女性同士の静かに語らう声が聞こえてきた。
少し躊躇いながらも、アイがドアをそっと開けて中を覗き込むと、直ぐに声を掛けられた。
「……アイ、起きたの?」
「アイちゃん、おはよう。調子はどう……?」
アスカと霧島マナがアイに視線を向けて、気遣わしげに声を掛けてきた。
体調は回復していた。特に熱っぽくもないし、食欲もある。アイは綾波レイの先例から、このクローン特有の体調変化には波があるのを理解していた。
「うん……大丈夫。師匠、来てたんだね」
「ええ、急でごめんね。朝からお邪魔してるの」
人型兵器パイロットとしての教導者である霧島マナをアイはいつものように師匠と呼んで、それから顔を赤らめた。私服姿のマナを見て、自分がパジャマのままでいる事に思い至ったのだ。
「あの、ボク、こんな格好で……」
「そのパジャマ可愛いよ、アイちゃん」
薄黄色のパジャマを褒めることで、アイを褒めると、アイはうっすらと頬を染めて俯いた。
「ご飯は食べられ……そう?」
「うん……食欲はあるよ」
アスカの問いに頷くと、しばらくもじもじしていたアイだったが、すぐに宣言するように言った。
「着替えてくる」
きびすを返したアイのトタトタという足音が遠ざかると、マナは目を細めた。
「やっぱり、女の子だね」
含羞の色と少女らしい可憐さをアイの顔や立ち居振る舞いに見て、マナはそう頷くが、アスカの想いは複雑過ぎて、素直に同意できない。
「……」
アイが本来の女の子としての幸せを全うする事は遂に出来ないのではないか──、アスカの憂いはそこにある。少年だった頃のシンジの、男としての記憶に囚われて、六分儀アイは愛した少女アスカの為に一身を捨てる覚悟を決めている。
事実上の保護者を以て自ら任ずるアスカはそれを止めることも出来ない。
アスカはアイに何もしてあげられない。
──だからせめて。
「お昼は、スパゲティにするわ。ゆっくりしてて」
マナにそう宣言して、アスカはキッチンに向かう。
◆
アイはベージュ色のコーデュロイのジャンパースカートに着替えて戻ってきた。下には水色のシャツを着ている。
「これも可愛いわね」
霧島マナが微笑んで、キッチンから顔を出したエプロン姿のアスカも肯く。
「あたしより服装のセンスがいいわね、悔しいけど」
ということはシンジの方が、あたしよりもファッションセンスが良いということになるのだろうか?──アスカはそう首を捻る。
アイがダイニングテーブルに着席すると、アスカはキッチンから大きめの平皿に、真っ赤なスパゲティを立体的にきれいに盛り付けて、テーブルに並べた。
「ジャーン。シンジ直伝のスパゲティ・アラビアータよ! と言ってもアイが病み上がりだから鷹の爪は殆ど入れなかったけど……」
「気を遣わせてごめん」
「あたしもどちらかと言えば辛いの苦手だから、ちょうど良かったよ」
マナもそんな風にフォローして、アスカも後ろ手にエプロンを外し、三人食卓に着いた。いただきます、と告げる声もそこそこにマナも、アイも、パスタを口に運んだ。
そこにはある種の覚悟があったのだが、その覚悟は良い意味で裏切られた。二人の顔に笑みが浮かぶ。
「……あ、辛くなくても美味しいわ。トマトの酸味と旨味が濃縮されている感じ」
「確かに美味しい、これは美味しいよ!」
「よかった。……アイも食欲が戻って良かったわ」
アスカのぎこちない微笑みに、アイは頷いて、それから気遣わしげに訊ねる。
「……ねぇ、お義父さんにボクの体調のこと、伝えたの?」
「ううん。伝えないわけにはいかない──けど、アイには申し訳ないけれど、明日伝えようと思うの──シンジには毎日、つらいことが多すぎるから。少しでも先送りに出来ることはしてあげたい。……ごめんね、アイ」
「いや、それでいいよ。ボクもその方がいいと思う」
「シンジは優し過ぎるから」
中学生だった頃のシンジは、一見優しい少年だった。でも、あれが本当に他者への優しさだったのかは、留保せざるを得ない。あれは臆病なだけで、本当はあの頃のシンジは自分のことでいっぱいいっぱいで、他者への優しさのように見えたのは只、自分からは踏み込まず、相手にも踏み込ませずという距離の取り方が錯覚させていただけなのかもしれない、アスカはそう思うのだ。
でもあれから二十年。シンジはまだまだ子供で、本当に大切なことが何かも分からないような大バカ者で、時として間違え、いや、間違いばかりを繰り返しているようにも見えるけど。
それでも、アスカはシンジがやはり優しい男だと信じられるようになったのだ。
高校生の時、シンジはアスカを侮辱した同級生を殴ってでも謝らせると言った。殴ってやると言ったのではない。ちゃんと謝らせると言った。そして皆と仲直りしようと。それは結局大人たちの余計で横暴な先回りでふいになってしまった決意だったけれど、シンジの大きな成長だった。
運動神経は良いが、喧嘩慣れしてないシンジのことだ。殴ってでもと言ったところで、その前に数発殴られることは目に見えている。それでも、シンジは相手に謝らせる事に拘っていた。ただ殴ってやると言うのより、何倍も男らしい態度だと思った。
それから、更に大きな転機となったのはあの松代での別れ。──二人握った手を決して離さないで、アスカの向き合う地獄に一緒に立ち向かって欲しいとのアスカの懇請の願いをシンジは裏切った。
アスカが量産型エヴァに集団で食いちぎられる光景をシミュレーションによる再現とはいえ、初めて目の当たりにして、シンジは目を背け、離してはいけない筈のアスカの手を振りもぎり、嘔吐した。それはシンジの弱さだった。本部決戦でアスカを救うために動かなかった己の不作為の結果を、初めて突きつけられて受け止めきれずにいた。
シンジはその自分の弱さに絶望したのだろう。松代から第3新東京市に戻る時には、アスカと永遠の訣別を覚悟していた。間違い続ける自分、アスカを裏切り続ける自分に、もはやアスカの隣にいる資格はないと信じていた。でもシンジには帰路、思うところがあったのだろう。アスカにショートメッセージを送ってきた。
『僕は最低の人間だけど、アスカに、またいつか会いたい。今はまだ会えないけど』
それからのシンジの努力については、アスカはそのすべてが疑いなく自分の為に捧げられたものだと思っている。シンジは必死に勉強して、この国で一番の大学に入った。その学内でおそらく一番勉強していた人間だった。その頃には、シンジはもう新生ネルフを再建することを考えていたのだろう。裏死海文書さえ手に入れば、それは叶う──という単純なものではない。それは要件の最初の一つに過ぎず、シンジは自分が司令に相応しいだけの力量を身に付けようと必死だったのだ。何者でもない、何者にもなれないはずの未熟な若者が、世界でたった一人の、自分が傷付けた女のために、孤独に深夜まで机にかじりついていた。どんな武器を握って戦うのよりも、壮絶な戦いだった筈だ。
アスカはその帰結が、最後にはシンジが自分の左手の指を全部自らの手でへし折るという蛮勇によって成功裡に終わったことを知っている。シンジには人類全員を人質にして、裏死海文書にたった一つの嘘を混ぜ込むという更なる策があったことをアスカは知っているが、しかしその蛮勇がなければ、あるいは遂に百の知も策も空しく終わったかも知れないとも思うのだ。ゼーレの首魁であるキール・ローレンツという男も、一個の梟雄だと聞いている。そういうふてぶてしい男を感嘆させ、興を催させるのはやはり、漢の男らしさであるに違いなかった。
アスカはシンジのその痛ましいまでの自己犠牲を知っている。思い出す度に落涙を禁じ得ないその事実から、大学卒業前にシンジに別れを告げられたあの最悪の裏切りでさえも、なんとか許してやろうという気になれる。シンジは努力をしている。努力の方向性を時として間違えてしまうだけなのだ。バカシンジだからどうしようもなくバカなだけなのだ。そのバカさ加減はアスカにとってこの上なく愛おしいものでさえある。
「優しすぎる、か。お義父さんの……碇シンジのネルフ司令、大丈夫なのかな」
アイはごちそうさまと食事を終えるとそう言った。それはアイの心からの懸念だ。生得的には自分と同じ能力のシンジ。二十年間、懸命に背伸びをし、学び、足掻いてきたのは確かだとしても、最悪の事態への覚悟を決めて、自分亡き後を見据えているアイにとっては、シンジが本当にアスカを守りきれるのか、その能力と資質があるのか、やはり不安でならない。
「司令としてのシンジの資質……か。そうね、実はマギセブンが導入されたての頃、最新のスーパーコンピュータの性能を試そうとして、一つの座興が催されたの」
「座興?」
小首を捻って相槌を打つのは霧島マナだ。
「そう。マギに、人間では簡単には答えられない問いを分析させてみようっていう流れになって、色んな質問を指揮所のみんなでわいわいと挙げていった。その中の一つが、その質問だったのよ──誰がネルフの司令に相応しい能力を持っているのか──ネルフのアーカイブにある人物データを使って、その架空のランキングをマギに答えさせようとした。シンジの目の前でね。アイツも苦笑しながら、そのお遊びを止めなかった」
「雰囲気は分かるけど、みんな当の司令の前ですごいね」
マナの言葉に、アスカも苦り切った顔で頷く。──まあそういうの、うちは緩いから。まだ若い組織だし、シンジだって若かったからね、と。
「……結果はどうなったの? 誰がネルフの司令に相応しいってマギは言ってるの?」
それは声を上げたアイがこの世界に現れる前の話だ。だから彼女にとってもこの逸話は初耳で、自然、先を促してしまう。自分に万一の事があれば、その後、シンジは安心してアスカを任せるに足るのか。マギセブンは司令としての──アスカを守る人間としての──シンジの資質をどう分析しているのか。
アスカは答えた。それは実を言えば、ごく当たり前の答えだった。妥当としかいいようのないマギの推論だった。
「──碇ゲンドウが一番だった。目的の為に冷徹に邁進する実行力と巨大な構想力、威圧的なまでの部下に対する統制力、何かを切り捨てる際の即決即断の躊躇無さ。本部決戦で戦略自衛隊に敗北し、その混乱の中で彼は落命したけど、やっぱり一番の適任者だった。現実の司令は、ifの司令の誰よりも強かった」
「旧ネルフはシンジ君のお父さんが一から作ったものなんだものね。組織を一から作り上げるなんて事、一組織人として、途方もないと思えるわ」
そう、マナの言うとおりなのだ。新しい組織というのは、普通、母胎となる組織が己の人材と時間を持ち出して子組織として形成する。言うまでもなくそのためには法令、財源、定款、人材が必要となる。だから徒手空拳で新しく巨大な組織を作り上げるというのは至難だ。旧ネルフにも、人工進化研究所またの名をゲヒルンという小ぶりながらも母胎があった。だが、ネルフという巨額の予算を動かす組織の根本的な性格を規定したのは、碇ゲンドウによる卓越したグランドデザインだった。
「それから冬月副司令が二番目。これも順当よね。ゲンドウに続くナンバー2だったんだから。マギは冬月副司令に強い倫理観がある事を指摘していた。それは司令の資質としてはもしかしたらマイナスかも知れないけど。でも冬月さんは己の正義感を大目的の為にねじ伏せられる精神的な強さがあった」
冬月コウゾウには古武士や戦国武将のような強靱さがあるようにアスカには思われた。武将にだって人の情はある。むしろその情愛の強さは一般人よりも大きく深いと思われる場合さえあるのだ。だが、彼らは一家の安泰や生き残りの為に、その心をねじ伏せ、愛する者をも時に切り捨てる事が出来た。冬月も人類全体の生存のためにそれが出来る男なのだと思う。シンジとは明らかに違っていた。
シンジは人類全体とアスカを天秤に掛けられれば、人類全体を選べないだろう。きっと間違えていると知りながら、アスカを選んでしまう。それはある意味ではゲンドウと同じだった。しかしシンジは自分をもその犠牲の中に数えることが出来る。誰か他者をアスカの為に犠牲にするより、まず自分を犠牲にするに違いない。その点がゲンドウとは違っていた。それが父との親子の相似であり、違いであるのかも知れない。でも、アスカにはそんな風に間違えるであろうシンジが愛おしくてたまらない。
そしてアスカは次の名前を告げるとき、一瞬言い淀む。無言で先を促す二人の視線に、逡巡の後、頷いて、後を続けた。
「三番目の司令適任者は葛城ミサトだった。ミサトが存命で、順調に使徒撃退の実務責任者として実績を積み重ねていたら、多少破天荒だったかも知れないけど、ネルフの司令を務められて不思議はない──それがマギの推論。実際、あたしもミサトには破天荒さだけでなく、司令に必要な冷徹──そういう冷たい資質があったと思う。最後までそれを見せる事なく逝けたのは、ある意味では彼女にとって幸せだったのかもね」
ミサトが最期の時にシンジとキスをしたというのを知らされて、アスカは淡々とした説明の裏で、心の中に激しい嫉妬の焔を渦巻かせていた。
死者にはどうやっても勝てない。でも、アスカがミサトに対して抱くこの想いは、シンジが加持に対して抱く想いと同じなのだろうか。きっとそうであるに違いない。
シンジとアスカの間には、知らない間に葛城ミサトと加持リョウジがいて、お互いへの想いを隔てていた。アスカの加持への想い。シンジとミサトとの背信。許せない気持ちと同時に、アスカはこれまでどこかシンジに対して後ろめたく感じてきた加持への想いについて、ようやく踏ん切りが付けられたような気もしている。その想いは既に過去のもので、しかもシンジが裏切った以上は、対等ではないか。いや、どちらかといえば、自分は加持と何も肉体的接触もシンジへの裏切りもなかったのだから、シンジの方に借りがあるとさえ言えるのだ、と。
忌々しさと少しばかりの開放感を感じて、アスカは目を瞑った。
「四人目は?」
アイがさらに確認した。アスカは目を見開いた。
「四人目は、意外過ぎてあたしたちはみな耳を疑った。……シンジとあたしの元クラスメートの鈴原トウジ──参号機暴走事件でエヴァが使徒バルディエルに乗っ取られて暴走し、登録抹消された元フォースチルドレンだったのよ。マギの推論によると、鈴原は意外にも複数の人間の意見を間に立って調整する能力に長けていて、もちろん最初は副司令代理ぐらいから始めるべきなんだろうけど、経験を積めば、立派な司令候補になるんだ……ってさ。まあ座興だから、みんな却って盛り上がったりもしたけど、鈴原はサードインパクトでLCLに溶け込んだまま帰って来なかったんだから、虚しいifよね……」
その妹サクラの事をアスカはシンジを巡っての関係上、あまり好意的には思えていなかったが、あの場にサクラがいなくて良かったとアスカは思うのだ。兄を失った彼女が、その兄を酒の肴みたいな放談のネタにされて、黙っていられた筈もなかった。一度失った肉親の事で、再びつらい思いをする必要は欠片もないとアスカは思う。
「碇ゲンドウ司令、葛城ミサトさん、鈴原トウジくん……マギは存命、非存命に限らず、司令候補としての適性だけで挙げて行ったのね」
「そうなるわ。鈴原トウジは厳密には今も存命とも非存命とも言い難い状態だけど。LCLの中に彼は確かに存在する。しかし現世に何らかの影響を及ぼす事はもはや出来ない」
──トウジの名前を聞いたときの、シンジの傷付けられたような顔が忘れられない。いや、あれは違う。あれは大切な人を傷付けた時のアイツの顔だ。何度も見ている表情だから、あたしには分かる。あたしを傷付けた事で、自分が一番傷付いてる時のシンジなのだ。
シンジは、トウジたちが赤い海──彼らが単体生物として溶け込んだLCLの海──から戻ってこれなかった事に今も強く責任を感じている。それは当たり前の事だけど、でもそれならシンジはもう一生救われないのではないか。アスカにはそれが海に溶け込んだままの人々の運命──その中にはアスカの親友もいた──以上に苦しかった。
「で、けっきょく碇シンジは何番だったの」
アイがしつこいぐらいに食い下がった。アイからはメンタル面の悪影響を押さえるため、シンジがトウジを傷付けた記憶も削除されている。参号機事件の結果を知らないのだろう。アイは自分がアスカを傷付けたネガティブな記憶は無理をしてでも取り戻そうと試みていた。でも、アイが取り戻した記憶にはトウジの事件は含まれていなかったようで、彼への関心は少なくとも表面的には薄かった。
「……何番でもない。何番でもなかったんだよッ。五番目の司令適任者にはあたしが挙げられていた。あたしは詳細を聞く前に座興のお開きを命じた。シンジがいつまでも上がってこないランキングに、シンジが守りたい筈のあたしがシンジよりも上位の司令適任者だと告げる、残酷で出鱈目なマギの分析なんかに──もう黙っては居られなかった!」
粛然とした雰囲気になり、アスカが再び口を開くまでの僅かな間、三人とも静まり返った。
「みんなが座興に笑って盛り上がるとき、あいつだけが、みんなと一緒に笑いながらも寂しげだった。プライドが傷付いたとかそんなんじゃない。あいつは不安だったんだ。自分が上手くネルフを率いて行けないかも知れないって。もしもそうなら、あいつはまた最後にはあたしを失うことになる。あたしを守れなくて、あたしに許して貰えているという実感もなくて、あたしのことを抱き締めようとしても、その両腕の中からLCLの褐色の液体になったあたしが零れ落ちていく──なんて可哀想なんだろう」
アスカはそっと顔を上げて部屋の天井を見た。あの時のネルフ指揮所の天井をそこに透かして見るように。きっと顔を上げたままなのは、零れ落ちた涙滴に気付かれたくはないから──
「あたしはつらかった。そんな運命を想像したら、破滅する自分ではなくて、独り残されるあいつのことを考えてしまう。誰もいない砂浜に独りだけ残されて、地球最後の男になったあいつの事を考えたら、胸が締め付けられるようだった。あたしはLCLの海の中から、波打ち際のシンジをそっと見つめて、でもあいつに対してもう何もしてやることも出来ずに永遠に波間を漂い続けることになる──アスカ、アスカとあたしを呼ばわる大きな泣き声が間歇的に聞こえる。あたしにはもう返す声もない──あたしはヒトではなくなり、シンジは最後のヒトになってしまうのだから──」
それをアスカの想像力過多だとはアイもマナも思わなかった。そんなにもシンジの悲痛な運命をありありと想像出来るのは、アスカがシンジの事だけを考えて二十年間を生きてきたからだ。結ばれるとか結ばれないとかは考慮の外だ。アスカにとってはもはやシンジが命であり、全てであった。
「アスカ……」
そう呟いたのは、マナではなくアイだった。アイは小さな手のひらをそっとアスカの上に重ねる。あの頃のアスカやシンジと同じ大きさの手のひらだ。
小さいが、大人のものとも、子供のものとも言い切れない大きさの手のひらは、大人にも子供にもなり切れなかったあの頃のアスカとシンジを象徴しているようだった。大人にも子供にもなれなくて、だから、二人は傷つけあって、あの砂浜にたどり着いた。そしてそれから、二十年かけて、まだ二人はどこにもたどり着けてはいないのだ。
アスカは顎を引いて、穏やかに微笑みながら、悲しそうに見つめてくるアイの手の甲の上にさらに自分の手を重ねた。アスカの目の縁が光っている。
──アイも、優しいね。あいつと同じくらい。当たり前だよね、あんたはシンジなんだもの。あんたはあたしのシンジなんだから。決して結ばれることのない、あたしのもう一人のシンジなんだ──
「……勿論、あたしはあいつが司令に向いていないというマギの御託宣があっても、座興として楽しむ皆みたいに、あるいは、それに追従して愛想笑いをするバカシンジみたいに、笑ったりはしなかった。絶対に笑ったりなんか出来ない。あいつがネルフの司令どころかエヴァの操縦含め、あらゆる荒事に向いていないのなんかとっくに分かってる。能力ではなくて性格の問題だ。それでもあいつは無理して背伸びして──無理に無理を重ねている──自惚れかもしれないけど、それはみんなあたしのせいで、あたしの為なんだ。かつて見捨てたあたしを今度こそは守りたい、それがあいつの多分たった一つの願いなんだ。そんなの、笑えるはずがないよ。笑っていいわけがない。それなのに、なんで、あたしは──」
アスカはシンジの事を笑ったりはしなかった。でも、その時シンジに対して掛ける言葉を何も持たなかったのも事実だ。寂しそうに笑うシンジを、同じく寂しそうに黙って見つめるほかなかった。
「……世界で一番自分のことが嫌いなシンジは、自分で自分の味方になってやることは出来ない。だから、サードインパクトで世界の公共の敵になってからは、あたしだけが世界でただ一人のあいつの味方の積もりでいた……あいつがあいつ自身のことを嫌いでも、あたしだけは好きでいてやりたいと思っていた。なのに──」
──どうして、あの時あたしはシンジを励ましてやれなかったのだろう。周りの誰も──最新鋭のスーパーコンピュータでさえも彼の司令としての適性を信じようとしなかったとしても、むしろそんな時だからこそ、あたしは「シンジが世界に残る人々の中で最も司令に適任だよ。シンジはあたしもみんなもちゃんと守れるよ」と、そう、強く──もう一人のシンジであるアイが今、手を重ねてくれているように──あたしもあいつの手を握り締めてやるべきだったのに。あたしはあの時、シンジの力を信じてやれなかったのだろうか。シンジのことをどこかで頼りにならないと見くびっていたのだろうか。そして、その時はそうだったとしても、今は違うと胸を張って言えるのだろうか?
あの時には、いや、いつだって、アスカの手の長さはシンジには届かなくて──シンジの手の長さもアスカには届かない。こんなにお互いを想い合って、相手の事が大切でたまらないのに、いつも二人の距離は近くて、遠い。身体をどんなに重ねても、心を瞬間重ねても、アスカとシンジは背中合わせで反対側を向いているかのように、互いの伸ばした手が相手に触れられないでいる。
「でもね、アスカ──」
マナは、ことさらに軽く明るい調子で、自分の少し伸びてきた前髪を親指と人差し指を伸ばして摘まむと、そこに向かって息を吹きかけてから、しかしアスカに向き直ると、真剣な眼差しで言った。
「シンジ君は司令としてちゃんとしているよ。最低限にすべき事も、それ以上の事も。……確かにスーパーコンピュータは、人間では気付けないことも分析できる。渚カヲル君の侵入だってマギを使わなければ、人間には百年経っても気付けなかった事かもしれない。でも巧緻な人間の策略なら、きっとマギだって出し抜ける筈だよ。……鼻毛百万石だよ」
俯き気味だったアスカがマナの言葉にはっとして顔を上げた。その可能性は確かに考えていなかった。シンジの能力が、ゼーレを欺瞞し、出し抜くために韜晦されているとしたら、たとえ今なお世界一の性能を誇るスーパーコンピュータであるマギセブンでもシンジの適性を低く見積もってしまうかも知れない。
しかし……それにしたって鼻毛はないだろう。いや、それがアスカに笑みを取り戻そうとするマナのあえての「気遣い」なのか。半ば彼女の思惑通り、失笑気味にアスカは言葉を返した。
「鼻毛百万石ってあんまりなまとめ方だけど、それって確か前田の三代目の……」
「そう、前田利常。幕府からの警戒を受けないように、暗愚を装い、わざと鼻毛をぼうぼうに伸ばしていた。あんまりな見た目だと家臣に諫められると、彼は──この鼻毛が百万石を守っている──と、うそぶいた。ほかにも、長い病休を幕閣に咎められるや、男の人のモノをその場で皆に見せて、ここが痛むのでと言ったりもした。もちろん……シンジ君が鼻毛を伸ばしたりしてるわけじゃないけれど」
こいつ間違いなく歴女だわ、とアスカは思いながら、想像の中で、鼻毛を切らずに昼行灯を装うシンジを思い描いてみた。──やっぱり、そんなのイヤだ。
それに男のナニを開陳するなんて、それこそ鈴原じゃあるまいし、とアスカは空母甲板上での、初来日時の苦い記憶を思い起こす。
「……シンジがもしそんな風に鼻毛を切らなかったら、あたしが思い切り引っこ抜いてやる」
アスカは噛みつくようにそう宣言する。無論、シンジに対しては、そのような気遣いはない。シンジは男子にしては珍しく感心するほどに清潔感がある。たぶん、それはミサトの家でアスカたちと同居していた頃から──いや、本当はそのもっと前から──炊事や掃除、洗濯などの家事を一手に引き受けて生きる他なかった生き方の中で培われたものだろう。いや、元々その几帳面さは、本人の生まれ持った性格、あるいは両親のどちらかから譲り受けたものなのかもしれない。
しかし、マナの言うとおりだとしたら、本当のシンジを自分はどれだけ知っているとアスカには言えるのだろうか?
「シンジ君が裏でやっていること──あたしは勿論、何もシンジ君からは教えて貰っていないよ。でも、あたしはネルフではライン職ではなく、スタッフ職だから、そして暇が出来るとあちこちの部署に趣味みたいに首を突っ込みまくっているから、色んな人の働きが見えてくる。当事者から少し離れた立場で物事を俯瞰的に見ることが出来る。実はアスカの前にも、その事実は既に何回も提示されている。ヒントは目の前にあるんだよ」
ライン職は階層化されたピラミッド構造を持つ、ネルフで言えば司令のシンジを頂点として、佐官、尉官、という風に上意下達式に命令が伝達される組織の構成メンバーだ。スタッフ職はそこから一歩離れて、参謀や専門家としてラインに対する助言やサポートを担う。
「……シンジが、裏でやっていること?」
「そう。マリさんはいつもシンジ君をわんこ君とか呼んでいるね。違う、そうじゃない。……シンジ君は犬じゃなくて、とんでもない狸だよ」
アスカの頭の中で、月夜に、ポンポンと腹鼓を打つシンジの姿が思い浮かんだ。いや違う、そうじゃない。
「シンジがあたしを騙してるってこと?」
「そうじゃないよ。弱いシンジ君も本物のシンジ君だ。シンジ君が悩み、苦しんでいるのも事実だ。でも苦しみながらも、きっと、打つ手は打っている。シンジ君はずっとアスカの事を一番に思っているんだ。アスカを救う為の手立てに手をつかねるシンジ君じゃない」
アスカは戸惑いも露わに、アイの顔を見つめた。アイも当然、わからないよと首を無言で振るばかりだ。
しかし、恋をする乙女には恋する男の子の一面しか見えてはいない。
──碇シンジが暮夜、寝食を削って打ち込む策略がある。それは世界とアスカを共々に救う為の布石だ。その刃は未だに芽吹く日を待ち続けている。