週明け、戦略自衛隊の霧島マナ三等陸佐は座間の駐屯地に出頭した。ネルフとの間の連絡将校に補されるという週末の人事異動内示を受けての挨拶回りである。
マナは真っ先に陸上総隊司令官の春日を訪ねた。陸上総隊は、国防大臣直轄の部隊で、海空や米軍、国連軍そしてネルフとの運用調整も行う。その司令官は陸上幕僚長に次ぐ第二の地位を占めており、その前身である中央即応集団司令官より大幅に権限が強化されている。
「お久しぶりです、春日陸将」
「確かに久しいな、霧島」
敬礼に答礼した後、星三つの階級章を付けた軍人が身振りで、マナに応接用のソファーに腰掛けるよう促した。
大柄の──いかにも軍人という髪型と体型の精悍な男だが、人なつっこい目をしていて、笑うと目尻に皺が寄って愛嬌が感じられる。四式統合機兵あかしまの開発などを推進してきた、戦自における人型兵器の第一人者だった。
霧島をかつてあかしまのパイロット養成課程に初の女性として推薦したのもこの春日であり、彼女とは仕事上の関わりが多かった。
「半年ぶりか? よほど箱根は居心地がいいらしい。座間はそう遠くないぞ?」
昭和の人間らしく第3新東京市の旧名をネルフの隠語に使ってにやりとする将軍に、マナは赤面した。
「すみません、仕事がこのところ尽きなくて」
「まあいい。貴様があちこちに首を突っ込み、物事に熱中すると、ややこしくはなるが……世の中はその分面白くなる」
と応接セットに先に腰掛けた春日は少しバツの悪そうな霧島に、発破をかけ、けしかけるような態度である。
マナが軍服のタイトスカートが皺にならないように綺麗に伸ばしながら座り終わると、わざと横を向いていた春日が再び正面からマナを見据える。
「坊やは変わらず息災か」
「シンジ君……いや、碇司令のことですか」
「ああ。……知っていたか? 霧島、俺は実を言えばあの坊やを中々に買っている」
「そう……でしたか」
「でなければ、秘蔵っ子のお前を預けはしないさ」
戦自幹部である春日はシンジ率いるネルフとの模擬戦演習で毎年、シンジと顔を合わせている。
そもそもがその毎年の演習は、シンジの方から頭を下げて来て、始まった恒例行事だった。
春日は顎を撫でながら、初めてシンジが訪ねて来た日の事を思い出す。サードインパクト前を思い出すような暑い夏の日だった。将官なのに随員も連れずにあの日、碇シンジはやってきたのだ。
それはその日の暑さとは裏腹の、青い月明かりに照らされた洞穴の印象を伴っている。
◆
「──対抗演習ですか。それも毎年……と?」
タブレットで碇シンジから一週間前に送付された資料の頁を繰りながら、春日は確認する。もう何回も読み返しているが、一見しただけでもよく練られたと分かる演習計画だ。主導しているのは彼自身だろうか。それとも彼の部下──噂では愛人ではないかとも漏れ聞いている──旧セカンドチルドレン、作戦部長の惣流・アスカ・ラングレーによるものだろうか。
室内はクールビズに合わせた温度設定なのに、来客である碇シンジが制服を脱がないから、それに合わせて、春日も軍服の上着を着たまま、額の汗をハンカチで拭う。
「はい。あらましは事前に資料をお送りさせて頂きましたが、是非にと」
「大型脅威個体──使徒を想定した連合作戦の実を挙げるには、実戦に近い対抗演習は、こちらとしても望むところだが。──しかし」
連合作戦──Combined Operation、とは二カ国以上の軍隊による同一目標に対する軍事作戦だ。戦自側の演習参加部隊を二分し、片方はネルフとの連合作戦の演習、もう片方は大型脅威個体のアグレッサー部隊として敵方に回った巨大なエヴァを活用し、一つの対抗演習で二つの目的を達することを目指す──シンジの提示した演習計画はその大枠においても、また細部の戦術的な課題の盛り込み方についても意欲的なもので、春日も感心していた。
「何処か問題点があるなら、速やかに改善を計ります」
「いや。しかし──と申し上げたのは、碇司令。どちらかというと我が戦自側の問題です。特務機関ネルフと我々戦自には浅からぬ因縁があるでしょう。特に貴官の御父上は──」
「……はい。父ゲンドウはご承知の通り、旧ネルフの司令官で、人類補完計画の首謀者です。ネルフ本部決戦中に亡くなりました」
ゼーレの存在は未だ公に伏せられ、隠然たる影響力を保持し続けており、結果として、ゲンドウ一人が補完計画の策動の責任を負うものとされている。あれから春日も本部侵攻戦で日本政府に圧力を掛けてきた組織について色々調べさせたが、全貌は見えていない。
春日は、三十前にしてネルフの司令官であるシンジの肩章を見る。星二つは、春日と同じく──当時はまだ春日も星二つだった。自衛隊には星一つの将軍(准将)は存在しない──階級は将補、すなわち他国軍隊でいうところの少将相当ということだ。春日とシンジの年齢は親子ほどにも違うのに、階級は同じだった。自衛隊では難関の指揮幕僚課程を修了しても、これほど若い将官はあり得ず、それもこれも、碇という名と血が導くところだろう──。
贖罪と職責──どちらも父親から受け継いだ荷物だが──後者とても、それが本人にとって幸せとは限るまいな。
──と、春日が思ったのは別に年若い同階級者への嫉妬などではなかった。身の丈以上の地位は、古来よりこの国では位打ちと言って政敵を葬る手段として使われてきた程で、実際に、ある種の不幸の原因とも成り得る。
本人が増長し、享楽に走るタイプならまだ良い。
逆に責任感が強ければ、本人は寝る間さえ惜しんで職責をこなしていかなければならないだろう。経験が補助してくれない分を、まだ未熟な己の自力でなんとかしなければならないからだ。
それはつらいな、青年──
「ということは──我々は貴官のお父上の仇にも当たるわけですな。そんな我々と組むのは大丈夫ですか」
春日自身は実を言えば、ネルフ本部侵攻作戦には反対だった。軍人として最高指揮官たる内閣総理大臣の下令には逆らえる訳がなく、やむを得ず出動したが、これまでネルフに何回も人類が守られているというのにそれを裏切るような侵攻作戦は──実は碇ゲンドウが人類補完計画の首謀者だったのだと説明されても──その時はまだ二佐に過ぎなかったが──春日には納得行くものではなかった。
しかも、エヴァンゲリオンのパイロットたちはまだ中学生の少年少女と言うではないか。大の大人たちが雁首揃えて、その少年たちの鏖殺を目論んだというのは、国民の命を護る自衛官として胸を張れることではない。よほど作戦前に辞表を叩き付けてやろうかと思ったが、万一自分や配下の部隊が子供たちを捕獲すれば、作戦中の自分の裁量で見逃してやることも出来るか──その程度の惻隠の情は彼の部下にも期待できたし、俺一人なら如何ように処断されても構うまい。子供たちの安全のために命を棄てる事になったとしても、武人の最期としてはまあ見苦しくはなかろう──と思い直して、その時は戦自に留まったのだ。
それから十年以上を経て、あの時は庇護の対象として想像していた子供のうちの一人が、当時敵対していたネルフの司令となって目の前に座り、春日は彼に皮肉な質問を投げかけている。
縁や運命とは不思議なものだ。
かつて救おうとしていた筈のシンジという人間の本質を見極めようとしての、意地悪な、いささか挑発的な質問だ。
──君は、父の仇にどう接する。どんな答えを返してくれる。
それは不安でもあり、期待でもある。かつての世界を一度は壊し、またそれを再生したとも言われる青年の──彼が、我々の世界に対して出した答えの一端を垣間見たかった。彼は世界を──他者を、憎むのか。絶望して、いつかはまたそれを壊してしまうのか──?
「……大分県に青の洞門という
シンジは少し考えてから言った。あらかじめ考えていた話ではない。春日の問いさえも予想外だったのだ。その場でシンジは考え、彼なりの素直な気持ちを吐露している。
隧道、すなわちトンネルの事だ。
青の洞門という名高い名前に、昭和の人間である春日はすぐピンと来た。
「菊池寛……恩讐の彼方に、か」
予想外の返答にやや不意を打たれたように、しかしそれでも春日がそう大衆文学の巨匠と古典の名前を挙げると、シンジは頷いた。
青の洞門は実際に今も現物が残る、大分県中津市の名勝耶馬溪にあるトンネルだ。
享保年間、諸国遍歴の僧禅海が、この断崖絶壁に鎖で結ばれただけの人死にの多い難所、競秀峰に至り、人々の為の安全な隧道を作らんと
以後、三十年、托鉢勧進で石工を雇い、自らもノミと槌をふるって遂に隧道を堀り抜いたと伝わる。
この史実をモデルに菊池寛は仇討ち話を絡めた。旗本の愛妾と密通し、手討ちにされそうになってその旗本中川三郎兵衛を逆に殺めて出奔した市九郎が、隧道を掘り進めんとする狂癡の僧──作中では了海とされた──の前身だった。幼かった三郎兵衛の一子、実之助は長じて、仇討ちの為に諸国を行脚し、遂に父の仇である市九郎すなわち了海を見つけるが、周囲のとりなしもあって隧道完成の日までその仇討ちを日延べする。
実之助は一刻も早く仇討ち本懐を遂げんと、やがて、仇である了海と背中を並べてノミをふるうことになる。一年半の刻苦精励の後、了海が半生を掛けた隧道が遂に開通すると、実之助は仇討ちを忘れて、了海と抱き合って男泣きに泣くのであった。
人口に膾炙したその美しい物語を、春日もすぐ思い出した。そして思う。──果たして碇シンジは、父を我々に奪われた実之助なのか。それとも、孤独に鑿槌をふるって隧道を穿たんとする了海なのか、と。了海の難行結願には、三郎兵衛殺しを始めとする前半生の罪業への罪滅ぼしの意味があった。あるいはこの青年司令官のネルフでの行動もそれと同じか。
「……僕たち人類に必要なのは、その青の洞門です」
「碇司令は、我々に隣でノミをふるえと仰られるか。戦自は君の父上や知人らの仇なのに」
春日は虚を突かれたような表情になった。ある種の素朴な感動がそこにはあったかも知れない。
「いえ、サードインパクトを起こした僕こそ、多数の人の仇です。でも、僕は隧道を完成させたい。大切な人たちを二度と喪いたくないから」
隧道というのはある種の比喩なのだろう。人の命が多数奪われる険しい難所を一点突破するための、未来へと通じる細い小道。突き通す困難は鎖で繋がれた崖を進むのと同じでも、隧道ならば、労苦に呻吟するのはそれを穿つ者だけで済む。
シンジの視線は揺るがず、真剣だった。頬が僅かに紅潮している。春日は若者だなと思った。それはその真っ直ぐさに対しての羨望を伴う感覚である。サードインパクトのトリガーとなった少年という先入主から事前に想像していたのとは違い、線は細そうだが気持ちの良い若者だと思った。
──俺も、実之助になるか。
春日はシンジとのやりとりの途中ながら、しばし腕を組んで瞑目した。
「……春日さん?」
目を閉じての沈黙に、心配になって、年嵩の将軍にシンジが声を掛けると、春日は目を見開いた。
「ああすまん。……失礼ながら、碇司令。閣下は余程の正直者ですな」
「そう、でしょうか……」
この青年は一つの巨大組織を率いる人間でありながら、自分の内面を無防備に晒している。それは危険なことだが、おそらくは一度、人間として底まで堕ちきって、何も喪うものをその身内には持たないから──シンジが守るべきもの、喪いたくないものは今や全て彼の外側にあった──こその行動なのだろう。初対面の春日にもそれがすぐ読みとれるほどにシンジは無防備だったのだ。
「閣下とお呼びする身でなければ、正直の上にバカを付けてしまいたくなる。あ、いや、決して悪い意味ではなく」
「いえ、わかります。僕も昔からの──」
アスカのことを何と呼べばいいのだろう。シンジは一瞬迷い、しかし無難な答えを選ぶ。
「昔からの……友人に、バカとよく言われますから」
バカシンジ──それは言葉の字面とは裏腹にとても温かく、気持ちの休まる呼び掛けだ。シンジはアスカに何もあげられていないけれど、彼女からは大切なものをもらい続けている。
シンジの表情から緊張が解ける。アスカの事を想うとき、シンジの心に優しさが充たされる。
アスカが僕のことをバカシンジと呼んでくれる限り──いや、たとえアスカと別れることになったとしても、彼女がかつてそう呼んでくれた日々を彼女の声で思い出すだけで、僕は頑張れる気がするんだ──。
その表情の変化に、春日は目を細める。
「良い御友人をお持ちのようだ」
「僕は──その友人のような人が、世界にも沢山いる──そう信じられるように少しずつなって来ましたし──何よりそう信じたいんです」
春日は頷いた。そうでなければ、確かに世界は面白くないし、守るべき価値があるとも言えないだろう。軍人には単なる戦争狂みたいなのもたまにいるが、むしろ他人を放胆に信じ、その結果は天運に任せるというタイプが向いている。どの道、部下や友軍を信じきれなければ、作戦は成立しないのだ。
「赤心を推して人の腹中に置く。まごころは相手にもきっとあると信じ切る。人たらしの極意ですな。うちの部下にもそういうのが一人おります。中々、面白い奴でしてね。これから毎年、お会い頂くことになるでしょう、演習の調整はそいつにやらせることにします」
「春日さん……それでは!」
シンジがパッと面を輝かせた。
「大いにやりましょう、対抗演習」
すっと春日陸将補は手を差し出した。シンジは僅かな逡巡の後、自分の手を出して、その手を握る。春日の手はがっしりした男の手だ。父ゲンドウの手も、もしかしたらこんなだっただろうか。僕には父さんの手の記憶はない──。
「よろしくお願いします」
「演習場では一切、手加減はしませんからな」
春日が男臭く笑うと、シンジも不器用に微笑んで、頷いた。
◆
「霧島も坊やとは、演習開始以来の付き合いだったな」
「はい!……春日さんが、私に演習の担当を振って下さって、今でも感謝しています」
「奴は面白かろう?」
「そうですね──」
単に面白いというのとは少し違うが、そうした明るい感情と、寂しさ、切なさ、苦しさ。そんなものが混じりあった複雑な感情を、シンジ君はあたしの所に連れて来てくれる。
春日は霧島の表情の変化を敏感に察し、興味深そうに訊ねた。
「霧島から見て──碇シンジを一言で言えば?」
「私から見て、ですか。そうですね、難しいけれどたぶん……本人が望まなくても、みんなの真ん中にいる人」
そっと霧島マナは睫毛を伏せた。あたしだけじゃなく、みんなの真ん中に碇シンジはいる。それが、いつも心の深い部分では孤独な彼の為に嬉しくて、だけど、どうしようもなく霧島マナ個人としては寂しい。
多分その気持ちは、あたしだけじゃなくて、あの子も同じだろう。──彼の一番近くにずっといて、それでも届かない僅かな距離に苦しむ、気高い彼女。
「そんなに目立つ訳じゃない。有能で知的で慎重だけどその本質は地味で生真面目な努力家。優しい人──ううん、優しい人であってほしい人。自分にだけ優しくしてほしい人、でもそうはしてくれない人。みんなに優しくしようとして、不器用だからうまく出来なくて、彼だけが苦しんでいる」
「霧島、俺は無骨ものでな、彼奴とお前さんは仲良くやって行けそうだと思っただけなんだ。もし、俺の判断が間違っていたのなら──かえって、それで近くにいて、お前がつらいのならば……」
そういう憂慮が混じったのは、霧島の表情にある種の憂いを看取したからだ。春日は朴念仁ではあるが、部下の気持ちを読み取る能力はそれなりにある。
「ううん。そんな事はない。春日さんお得意の『野生の勘』はいつもそんなに悪くないですよ」
「そうか。しかしな──」
と春日は頭を掻く。やや申し訳なさそうな顔をして言う。
「今度の人事にしても、お前には不満もあるだろうな」
「いえ……」
「自衛隊は──戦自でも他の何でも同じだが──みな自分たちがサムライの末裔だと思っている」
「春日さんの口癖ですね」
「みんなそう思ってるが、俺みたいに口にはしないだけさ。こっ恥ずかしいからな──だから、死出の旅路をいざなう椅子とりゲームなら、みんなどうしたって死に急いじまう。女を立たせて、男の自分が座るだなんて思いもよらないのさ」
使徒再来寇の報を受けて、慌てて週末返上で人事を動かした。ところが、霧島マナの前に連絡将校のポストを検討、打診した男性二人にはにべもなく拒絶されたのだ。そんなネルフの繭に守られたようなポスト、受けたら恥をかく、と。その峻拒にはネルフには霧島がすでに行っているではないか、という気持ちも働いた筈だ。彼女の予約ポストに割り込んで、女を死地に追いやるのかと。
「日本男児ですからね──気持ちは分かります……」
「すまんな──とっくに男女平等の世の中なのに。女だ男だというのを人間はいつまでだって意識してしまう。男はどうしたって、格好を付けたがるガキだからな」
「女を護ろうとする男を不快に思う女はいません──ただ、くやしく思うだけです。同じように男の人たちを守って上げられないことを」
そう言って、霧島マナは俯いた。いつもシンジ君を助けてあげたいと思っている。でも守れるとまでは思えない。あの子なら──赤がよく似合うあの子なら、ひょっとしたら──あたしがシンジを守ると言い切れるのかも知れないけれど、あたしには──。
「それは違う」
語気鋭い春日の否定に、マナははっとして顔を上げた。
「──貴様なら、守れる。男だろうと女だろうと」
シンジ君であろうと、アイちゃんであろうと──。
そんな風にマナの中では春日の言葉が変換された。
「春日……閣下」
「俺はそれが出来るようにお前を鍛え上げた積もりだよ。男たちがしごきにへばって泣き言を言ってるときでも、お前だけは男と完全に同じメニューをこなしながら、へらへら笑っていた。そして人目のない建物の陰で密かにゲロを吐いていた」
へらへら笑っていた訳ではないけれど、しかし無理をしてでも笑顔を貼り付けていた、それは確かだ。建物の陰での粗相もまた事実だ。
「し、知ってたんですか……」
「まあ男子もあちこちで吐くんだよ。だから場所を把握して後で掃除せにゃならんからな」
「きょ、教官がご自分で掃除なさってたんですか、落ち着いてから用具を持って戻ったら綺麗になっていたので、誰だろうと申し訳なく思っていたのですが……」
昔の呼び方を思わず出して、さすがに日頃放胆なマナも恐縮するが、春日は顔の前で手を振る。
「しごいて吐かせたのは俺だから気にせんでいい……それよりもあの時、俺はああ、大和撫子というのはこういう存在なのかと思った。男より余程強くて、しなやかで、したたかで」
「ほ、褒めすぎですよ」
「だが、お前はあの時、決して弱音は吐けないと思ったのだよな? 男の前では」
「ええ──それは……そうでした。あたしの後には沢山の女子の後輩が控えているから。あたしが泣き言を言ったら、後に続く女が甘く見られます。負けられないとは思っていた」
「それで、隠れてゲロを……済まなかったな」
「いや、それは単に女の慎みですから。トイレまで間に合わなかっただけ」
霧島はそう言って笑った。相変わらず面白い人だな、春日さん。
緊張が程よくほどけた所で、春日は真剣な顔になった。
「日本の軍隊はな──サムライの末裔といえば聞こえはいいが、我々の力の源泉は常に外つ国にあった──日本は西洋の近代化レースの最終列車にかろうじて飛び乗っただけ。運も良かったな」
「ええ」
「そして、二回の過ちも犯した──列強として世界平和を維持する責任のある大国でありながら、軍は内にあっては議会を圧迫し、外にあっては無名の師を起こして、近隣を貪った。それが一つ目だな」
マナは無言で肯く。
「そして二つ目は、ネルフ本部への侵攻だ。あれは自衛隊と名を冠する組織の初めての誤りだったし、間接的とはいえ、サードインパクトの発動にも繋がった。とはいえ、我々は軍人だ。民主的に選ばれた日本政府の命令には従わねばならん。でなければ一つ目の間違いを繰り返すだけだからな」
「そう──ですね」
「だから俺にも答えは無い。再びあのような事態が起こったら、どうするべきなのかの模範解答は無いが──、個人的には、戦自は彼らに借りがあるとも思っている」
惣流・アスカ・ラングレーが、エヴァという強力な駒を一つ手元に置いておきたいというそれだけの目的の為に松代で無益な試験に従事させられていたのを、軍部内の第3新東京派や教育科学省の子安をも巻き込んで、解放へと導いたのも春日だった。だが彼はその程度のことでは借りを返せていないとも感じている。
「碇シンジはいい男だ。だから霧島には引き続き、あの坊やを助けてやって欲しいんだ」
そう言って、頭を下げる。
「そんな──頭なんて下げないでください、閣下!」
「おおすまん……こういう頼み方は卑怯だな。だが、お前が負担ではないのなら、苦しむのでなければ、霧島の力を貸してやって欲しいんだ」
そりゃ──苦しみますよ。だってあたしは今でもシンジ君が好きなんだから。近付けば近付くほど苦しい。あの子の事を考えれば、あたしには自分の気持ちのままに突き進む事だって許されない。
もし、そこで自分の気持ちだけに正直になって突き進めるのなら──多分あたしが十代の小娘だったらそうしていたのだろうけど──そこに僅かな可能性があったかも知れないけれど。でも、あたしはもう大人なのだ。だから苦しい。でもこの苦しみは人間として正しいからこその苦しみなのだ。人が引き受けるべき苦しみだ。
しかし、霧島マナは威儀を正して、一言だけ言った。
「微力を尽くします」
だって、あたしはシンジ君の笑顔が見たいのだから。たとえ、それがいつか、あたしではない子に向けられる笑顔であっても。笑顔が見たい。
◆
惣流・アスカ・ラングレーは、月曜日、朝一番に司令室に出頭した。シンジからの呼び出しに応じたものだ。
「おはよう、シンジ」
「うん、アスカ……おはよう」
席に座ったシンジが微笑みながら、アスカを見つめている。
「朝一で、どうしたの?」
「今日はいろいろ忙しいんだ。すること多くて」
「それはこちらも同じだけど」
と口では面倒くさそうに言うが、アスカはシンジの顔を見れて満更でもなかった。
「週末はどうだった?」
アスカは息を呑む。それは今一番シンジに訊かれたくない質問だったからだ。
──シンジ、アイの身体が大変なんだよ……遂に来て欲しくないものが来てしまったのかも知れないんだ……
涙をこらえ、喉元まで出掛かる言葉をアスカは飲み込む。いや、まだ早い、サクラの診察を待ってからでも遅くはない……
そうやって、事実に向き合うことを先延ばしにして来たから、今日のシンジとの歪な関係があるというのに、アスカは今、この場のシンジの笑顔を曇らせたくないばかりに、そういう取り繕いの選択肢を選んでしまう。
「……別に何もない。普通の週末だよ」
「そう。アスカとアイが元気ならそれでいいんだ」
シンジは静かに頷いた。
アスカにはもう一つ気になっていることがある。
──シンジはシンジストのこと、もう気にしていないのだろうか。いつものシンジならあんな事、もっと引きずってもよさそうなのに。
週末からアスカがずっと引っかかっている疑問だ。
悪魔でも神でもない只の人間のシンジが、救世主みたいに崇められるという残酷。シンジという存在と彼の苦しみへの究極の無理解。シンジの細いメンタルがそれにどうして耐えられているのだろうか。アスカには不思議だった。
でも、シンジが少なくとも表向きには堪えていないのならばそれは歓迎すべき事だ。
「──それで、あたしへの用向きは何なの、司令?」
「うん、これから一緒に伊藤部長の所に行こうよ」
「は? ナディアの所に? なんで」
「例の計画の話だよ。予算について承知しておいて貰わないとね」
シンジが言うのは、あの……黒き月をリリスごと宇宙空間に抛擲するという途方もない計画の事だろう。予想される資金も莫大で、技術的にも殆ど目途さえ立っていない。シンジは古代タルテソスの遺失技術に希望を託しているようだが……
「部下なんだから、ここにナディアを呼べば良いじゃないの」
「事が事だけに──三顧の礼じゃないけどさ、お願いするなら、それなりに礼を尽くしたい」
諸葛亮の庵を訪ねる劉備のつもり? まあ確かにあれは君主が将来の部下をわざわざ訪ねるという前例だけどさ。ったく、シンジってば、あのオバサンに甘いんだから──。
アスカが呆れながら、思案顔を崩さないでいると、シンジが更に促した。
「ね、行こうよ。アスカと一緒に行きたいんだ」
そもそもどうして作戦部長のあたしと? 技術部の領分じゃないの、この作戦は……という尤もな疑問がアスカに浮かぶが、シンジの誘いかけがまるでデートを呼び掛けるみたいに甘くて、アスカは遂に頷いてしまう。
「……ま、いいけどさ」
「良かった、ありがとうアスカ!」
シンジが席から立ち上がって、アスカに近付き、彼女の手を取って嬉しそうにぶんぶん上下に動かした。
──近い近い近い!
ったく、いくら肉体関係があるからって、恋人じゃないんだからね──あくまで日陰の愛人関係なんだから──人目にいつ付くか分からない場で、そんなに馴れ馴れしくしたらダメでしょうに。
アスカは自分の方からシンジに公然アプローチした数々の例外を棚に置いて、大きく嘆息した。
「人前では手を繋いだらダメだからね──また渾名が増えちゃう」
「ご、ごめん」
「あと、髪に少し寝癖が付いてるよ。部内の人でも、女性に会うときは身だしなみはキチンとね。女はそういうの細かく見てるから」
そう言いながら、シンジの髪を手櫛で直してやる。
「あ、ありがとう……」
「ったく。女房でもないあたしに女房みたいな事させて、シンちゃんはダメねえ」
「うん……」
本当はシンジがダメだってそんな事、少しも気にならない。ダメでしょうがないシンジと一緒になり、共に生きていきたいのだ。
でも、それは未だ叶わない夢──。