「でも、どうしてあたしまで? シンジの例の計画は、どちらかといえば技術部の予算として要求するのかと思ってたのだけれど」
ネルフ本部構内の廊下を二人並んで歩きながら、アスカは横を向いてシンジに確認する。二人はこれから経理部長の伊藤ナディアのところに、黒き月の宇宙空間への抛擲という壮大な計画の予算を相談しに行くところだ。アスカは最初、シンジが部下を重んじる姿勢だけで、ナディアの所にわざわざ出向くのだと思っていた。しかしこの計画は極めて重要なもので、シトとヒトの隔離が成功すれば、ゼーレの目論む人類補完計画の大義名分を奪いかねないものだ。だから盗聴されている司令室では話せない──そういう事情もあるのだと思い至った。
尤も、計画は遠大で道のりは遥かなプロジェクトだ。伊藤ナディアに話したところで、すぐに計画が進むわけではないだろう。初めは勿論、
「予算としてはそうかもしれない。予算要求の積算は技術部に頼むし、マリさんに進めてもらう事になる。でもアスカにはいずれ僕の補佐役として……具体的には副司令として僕をサポートしてもらいたいと思ってるんだ。今日の伊藤部長への根回しは、アスカにそういう大所高所からの動きに絡んで貰いたいと思って……」
「あんたの……その……愛人のあたしを副司令に?……思い切り公私混同じゃないの」
完全に初耳の話だった。階級はともかく役職としては作戦部長止まりで、ずっと部長としての仕事を続けていくものだと思っていたからだ。しかし、シンジはそうじゃないと首を左右に振った。
「違うよ。プライベートの事は関係ない。純粋に能力的に考えてアスカが一番適任だからだよ」
それは勿論だ。適性から言えば、シンジのサポート役として自分以上の適任者がいるはずがない。タンデム初出撃とユニゾン戦闘で心を重ねて以来、二十年近くの深く長い付き合いが世界の他の誰よりも、アスカにシンジの内面の最奥まで理解させている。ただ、それはあくまでもアスカとシンジの主観だ。
「でも……周りがそう思ってくれるかは分からない。あたしは、やっぱり非難を受けると思うな」
「そんな非難に負けて最適な人材を最適な役割に就かせられないのなら、僕には司令の資格はないよ」
でも、あたしを将来の副司令に擬しているのだとしたら、シンジはあたしとの将来をどう考えているのだろうか。まさか、一年後の期限にあたしと別れた後も、仕事とプライベートとは別と割り切ってあたしをネルフで重用していくつもりなのだろうか。
正直いって、シンジと別れてしまうのならあたしはもうネルフでは働けないと思っている。人類の未来なんてどうでもいい。アイの事も──その体調や行く末は気になるけれど、そんなに簡単に割り切れるかどうかは分からないけれど、それでも──シンジにあの子を返して、独りで引きこもって暮らすに違いない。
「あたしは副司令になりたいわけじゃないのよ」
「……それも分かってるよ。アスカが本当になりたいものは分かってる」
さすがにそこまでのバカじゃないか──とアスカは嘆息する。
「それなのに、あんたはあたしに欲しいものをくれない。いつだって──」
横に並ぶシンジは、アスカの追及に少し俯いた。
「……アスカはあの土曜日にネルフの門扉前に居た人たちの事を覚えてる?」
「シンジストのこと?」
シンジは無言で肯く。そうだ、その事もアスカにはずっと引っかかっている。シンジストを目の当たりにしてシンジは深く傷付いた筈だ。でも意外に早く立ち直っているようにみえる。それは何故だろう。
「僕は、ああいう人たちを見たのは、おとといが初めてじゃない」
「えっ──」
「僕がまだ司令心得になって間もない頃だけど。今の官舎に引っ越したばかりで、土曜日まで泊まり込みで仕事をして、昼過ぎに帰るとあの人たちが家の前に居た」
保安部による警固もまだ薄くて、週末に帰宅したシンジには何のガードもなくて。
「あの人たちって、大勢に? 何かされたの?」
不安げなアスカの声に、ううんとシンジは首を横に振った。
「来てたのは二人だけ。何時間も前から……その日の朝から待っていたらしい。中年の女性と、小学生ぐらいの少年が一人。親子だったよ」
「……シンジ」
「女の人は言った。救世主さま──私たちは悔い改めました。上の息子の事はあの子の自業自得です。あの子は確かに良い子ではなかった──」
シンジには最初、何のことか分からなかった。シンジストの教義についても何も知らなかった。でも女の話を聞いていくうちに、サードインパクトは碇シンジが起こした人類への裁きで、行いの正しくないものは、LCLから戻ってこれない──その正しさを決めるのはサードインパクトを起こしたシンジである──彼こそが人類を裁き、正しい者だけをこの世に残す救世主なのだ、と──彼女たちがそう信じている事がようやく理解できた。もちろん何の根拠もない憶説だ。
「その人の上の息子さんは、学校でイジメを受けていたらしい──勉強はよく出来たけど、他人と上手く交われない、だけど彼に何かの非がある訳じゃない。お母さんの話を聞いてもそうとしか思えなかった。でもその人はLCLから帰還しない息子さんの事を悪し様に言った。人と上手く交われないこと自体が罪なのです。だから戻って来れないのは当然です──私たちの信仰をお試しになるのですね、主よ。私たちは上の子に何の未練もありません──あの子は正しくなかったのですから、と」
「シンジ……」
「それから、お母さんは彼女の後ろに隠れるようにして立っていた少年を僕の前に突き出した。この子はサードインパクト後に作った子供です。原罪の穢れはない子です。さあ救世主さまの祝福を受けなさい──主よ、どうかこの子の穢れなき魂に祝福を──この子は上の息子とは違って、正しい者です。どうか、次のインパクト──お裁きでは、この子だけはお救いください……」
熱の籠もった必死の懇願だった。彼女は息子を奪われただけの気の毒な被害者に過ぎないのに、その理不尽な運命の理由を求めて、己を責め続けて、遂にはその理由を犠牲者たる息子自身の中に見いだしてしまったのだ。
「僕もアスカも子供はいないけど──でも、親の気持ちは痛いほど分かるよ──上の息子さんを突然の災厄に奪われた母親は、代わりに下の息子さんを儲けた。でもフォースインパクトの危険は去っていないと世間では噂されている。使徒だっていつ再来寇するかは僕以外の誰にも分からない。皆が不安な時代だ。だから──あの人は、この最後の子だけは決して、二度と奪われまいと思ったんだろう──必死で縋るような思いで彼女が調べ、たどり着いたのが僕を崇める宗教だった。犠牲者である上の息子を罵ってでも、僕に祈り、下のお子さんを守ろうとしていた──おかしな宗教に嵌まってしまった人たちだなんてバカになんか出来ない。あの人たちをおかしくしたのは僕なんだから──僕がしたこと、しなかったことがその人たちの心と人生を壊してしまったんだ……」
シンジを崇める宗教と言っても、それが集めた筈の莫大な宗教的寄付がシンジに渡ることは一銭たりとも無かった。そんな事があればシンジにもすぐ気付けただろう。信者とは違って、その教団の主催者たちはシンジを救世主だなどとは欠片も信じていないのは確かだった。とても……賢い人たちなのだろう。
「それで──あんたはどうしたの」
震える声でアスカは尋ねる。こんな残酷な話、最後まで聞いては居られない。でも、聞かない訳にはいかない。
「……何も出来なかった。祝福の仕方だって知らないもの……でも、押し付けられるようにそばに近寄らせられた男の子の顔を見て、僕は初めてほっとした」
「ほっと? それって……」
「うん……その男の子は、僕をギラギラする目で射殺すように睨み付けていたんだ。母親の精神を壊し、見たこともない年の離れた兄を奪った仇を絶対に許さないという視線だった。僕は救われた気持ちがした──お母さんはどうであれ、その子だけは僕のしたことをちゃんと理解してくれている。誤解なく僕のしたことが悪だと分かってくれている……」
だからシンジは少年から身を離し、母親に頭を深く下げた。
『次のインパクトが起こらないように努力します──それが僕の仕事ですから』
それだけ言って逃げるように家に入り、入り口のドアを締めた。そのドアに背中でもたれ掛かり、荒い息を吐き出した。いつの間にかくずおれるように玄関の土間に座り込んでいた。
厚い木扉の向こうでは、くぐもった声でなおも女性の懇願が続いていたが、やがて静かになった。無理な懇願が却って救世主の不興を買う可能性に思い至ったのだろう。それでもシンジはなかなか立ち上がれなかったし、その週末は外に出ることすら出来なかった。あの女性の縋り付くような懇請を記憶の中で繰り返し聞くのが苦しくてたまらなかった。それからしばらくの間は、帰宅する度に、あの親子の姿を視線が知らず知らず探してしまっていた。幸いと言えるのかは分からないが、シンジがあの親子に出会ったのはその一度切りだった。
だけど、シンジの頭からはあの親子の事が離れない。自分が壊してしまった一つの家庭の幸せの事を忘れてしまう訳には行かなかった。
「僕はだから──幸せにはなれない。なってはいけない人間なんだ」
「シンジ……」
アスカはもう泣き出しそうだった。
「アスカやアスカの子供を僕のしたことに巻き込む事だって出来ない──」
「でも……そんなの……シンジだけが悪いんじゃないじゃないか! 帰って来れない人にはそれぞれの理由があるんだ。あんたを神様のように崇める教義だって作ったのはあんたじゃない! あんたは利用されてるだけじゃないかッ、何でもかんでもあんたが背負い込むのはおかしい! おかしいんだよ!」
シンジはいつもの寂しげな笑いで、情人に頷いた。
「ありがとう、アスカ。嬉しいよ──アスカはやっぱり優しいな。初めて逢った時、一緒に暮らしてた時、もっと早くにその優しさに気付ければ良かった。表面的な言葉のキツさや厳しさに囚われて、僕はアスカの優しさに中々気付けなかった。僕は子供だから──でもそんな風にもしも出来ていたら、僕らはきっと幸せになれていたのかも知れないね……」
「今だってなれるわよ! だからそんなのは、遅過ぎる事なんて何も無いじゃないか! ……これからだって二人で成長していけばいいだけで──」
そこまで言って、アスカはふと口を噤む。もしかしたら、これまでそんな素振りは全く見せなかったけど、シンジはあたしが突きつけたあの約束──あの日から二十年目の期限について、気にしているのだろうか。あの時、シンジに対してあたしに並び立てる男になるか確かめると宣告した。もしその事についてシンジが未だに自信を持てないでいるのなら、どうしたらいいのだろう。アスカは蒼白になった。やっぱり自分はシンジとの関係のボタンをどこかで掛け間違えてしまったのではないか、と。そんな風に偉そうにシンジに突き付けられる程、自分だって大人に成ってるわけでもないというのに……。
消沈するアスカの名前が呼ばれる。
「アスカ……」
「シンジ──」
「……あの。もう着いたよ、経理部長室」
アスカがはっとして顔を上げると、部長室の扉が目の前にある。オウムガイ──ラテン語でノーチラス──のイラストがデザインされたマグネットが大きな金属製の自動ドアの上に貼ってある。
シンジと話しながらもあくまで足は止めていなかったので、いつの間にか二人は目的地である伊藤経理部長の部屋まで着いていた。──伊藤ナディア。赤木リツコとは高校の同級生だったという彼女は経理について異能の持ち主だった。学生のうちに公認会計士と税理士の資格を早々に取得し、国際財務報告基準(
「あ、ごめん──その……少し休戦しよう」
アスカはそう言って、長い金髪をかき上げる。
「うん……色々とごめん」
「あんたが悪いわけじゃない。あたしはむしろあんたに謝るばかりじゃない人生をあげたいんだ」
「……うん、言ってることは分かる。けど──」
シンジの掌がそっと包まれた。アスカの手だ。シンジは驚いてアスカを見た。
「……アスカ。あの……握ったらいけないんじゃなかったの」
「人前では、よ。今は誰の目もない」
「いつ人が来るか分からないよ……」
「いい、今だけは──」
アスカはそう言って、首を左右に振った。そうやって二人、しばらく経理部長室の前で突っ立っていた。
「──私はシンジがその親子に会ったとき、相談して欲しかった」
「ごめん、でもこれは僕の問題だから」
「私じゃ、頼りにならない?」
「そういうのじゃない──でも、僕はアスカに酷いことばかりして来て……その上、僕自身の重荷なんかキミに背負わせる訳にはいかない」
確かにシンジが、その時、自分独りで抱え込むしかなかった事情は分かる。あの頃、あたしたちの仲はまだグチャグチャで、大学時代に破局した関係を、何とか身体の繋がりだけで、か細く保たせていた。そういう時期だったのだ。
「でもそれじゃ、結局私たち……」
──いっしょになんか、なれないじゃないか。
その先の言葉をアスカはかろうじて呑み込んだ。それを言ってしまうことが、呪いのように現実を縛ることをアスカは恐れた。
でもたとえ口に出さなくたって、相手に重荷を背負わせる事を飽くまでも厭うのならば、けっきょくは二人が結ばれ得ないのは間違いない。夫婦やそれに類する関係は、互いの重荷やつらさを分け合って生きていくものなのだから。
シンジもその言葉の先は言わなくても分かったのだろう。曖昧に寂しげな顔をして頭を縦に振った。
「そろそろ……入ろうか」
指の先から伝わるアスカの温もりに対する未練を断ち切るように、シンジはようやく口を開いた。
「うん……」
アスカもそっと指を離しながら、そう言うしかない。
◆
「碇です──惣流作戦部長も一緒にお伺いしました。連絡したご相談の件で」
「はぁい、待っててね」
インターホンに口を寄せてシンジが言うと、明るい女の声と共にすぐに電子音がして、自動ドアのロックが解錠された。
「いらっしゃい、二人とも!」
下町のおばちゃんにも似た気安い微笑みをたたえて二人を招き入れた伊藤ナディアは、応接セットにシンジとアスカを導いた。
グリーンのカットソーに、アイボリーのパンツルックで、髪型は活動的にベリーショートにしている。五十台だが、いつ見ても明るく、若々しい印象の女性だ。
シンジはふと、記憶にもない母ユイの事を想起する。母が生きていたら、或いはこんな感じだったのだろうか、と。
二人が座ったのを見届けると、機嫌よく鼻歌を口ずさみながら部屋の隅にある茶棚の前に立って、急須に緑茶を淹れ始める。
「ちょっと待っててね──貰い物のいい玉露を淹れてるから」
「お、お構いなく……」
茶菓子を用意して、お盆に載せて戻ってきた。お茶を二人に出しながら、ナディアは目尻を下げる。
「本当に長かったわねえ。でも良かったわ。二人ともおめでとう……」
「え?」
何の話だか皆目分からず、シンジとアスカが目を白黒させていると、自分もソファーに腰掛けてからナディアは続けた。
「シンジ君、アスカちゃん」
「はい……」
「結婚生活に必要なのは三つの袋だからね。給料袋、堪忍袋、胃袋……」
「な、な、な……結婚。しないわよ! なんでこいつと!」
アスカは思わず赤面し必要以上に語気強く否定してしまってから、慌ててシンジの様子を伺う。ところがシンジはアスカの否定に傷付くどころか、まだ何だかよく分かっていないようで、怪訝な顔をしていた。
──あ、こいつ分かってないんだわ。
「バカシンジ。……ナディアはあたしたちが結婚の挨拶に来たと勘違いしてるのよ! ちゃんとあんたからも否定して」
「あ、そういう事……。あの、ナディアさん。僕もアスカもそういう予定、ないです……」
シンジは複雑な顔をして否定した。正面から否定し切ってしまうのが、残念なような、口惜しいような、さりとてそれに乗っかって惚気るようなことだって当然出来るわけもない。そんな気持ちはアスカも同じで、手に取るようにシンジの表情の意味や奥底の気持ちが理解出来た。
そうです!と胸を張って言えたらどんなに良かっただろう。でもそれが出来ないのがアスカとシンジの関係なのだ。
「えぇ、そうなの? だって二人で連れ立って来るからてっきり……」
口を丸くして驚くナディアに、アスカは力なく反論する。
「……どんな噂を聞いてるのか知らないけど、あたしとシンジは、単なる部下と上司よ……」
まあ肉体関係とかは中学生以来ずっと維持しているのだが、第三者にはわざわざ言う必要はない。言うまでもなく恋人とかではないんだし、とアスカはそれきり口をへの字にして、黙り込む。シンジが代わりに口を開いて、本来の用件に話を戻す。
「あの……今日お伺いしたのは、仕事……予算の相談なんです。かなり巨大で巨額のプロジェクトなので、話を具体化する前にお耳に入れておきたいと思いまして」
司令であるシンジは、部下である伊藤ナディアに対してあくまで慇懃で丁寧だ。
「そうでしたか。……それでは謹んで承りましょう」
それからシンジは丁寧に、先日アスカに説明したのと同じ、コズミック・ヴェロシティ構想を説明し始めた。巨大質量の黒き月を宇宙速度で打ち出し、地球の衛星ないしは太陽の惑星にしてしまうことで、地球から使徒の脅威を恒久的に遠ざける。その為に必要なロケットの推進力は莫大で、新しい推進方式のエンジンの開発など技術的課題や必要な資金と資材は途方もなく大きいが、これは人類全体を究極的に救うための計画なのだ、と。
しかし、ナディアの顔は曇っている。シンジが説明を終えると、静かに頭を下げて言った。
「ご説明ありがとうございます、碇司令」
シンジは身体を前に乗り出して、いつになく自信に満ちた口調で言った。
「どうでしょうか、ナディアさん」
「……」
「あの……ご説明が不足してる部分があれば、追加で差し上げても」
説明相手の無言の反応に不安になって、シンジも自然にいつもの口調に戻る。
「いえ、説明はとてもわかりやすかったです。……少なくとも何を目指されてるのかは瞭然でした、碇司令」
「そうですか! では是非前向きに」
しかし、ナディアはゆっくりと首を左右に振った。
「申し訳ありませんが、私は賛成できません」
「えっ」
それはシンジにとって想定外の反応だった。
「でもこれは人類全体に希望をもたらすプロジェクトで……」
「もしこのプロジェクトを推進するなら、大袈裟ではなく、ネルフは終わるでしょう。私は職を賭してでもこの計画を阻止しなければならない──」
そのナディアの冷淡な応答に、アスカがたまらず口を挟む。元々、シンジのこの壮図の実現性を危ぶんでいるアスカだったが、流石にこの全否定の態度には居ても立っても居られなくなっていた。
「ちょっと、ナディア。この計画の難しさは勿論よく分かってるけど、シンジはさっきも説明してたように、あんたの御先祖さまの──、古代タルテソスの超技術も当てにしている。今すぐには難しくても調査費用を出すぐらいは……!」
「そういう問題ではないのです。惣流部長──これは暴虎馮河の計画と評するしかないの。打ち上げられる技術力が無ければ無害な空想だけど、もし打ち上げが可能になれば、その時に最も危険になる──」
それから、ナディアは交互に、シンジとアスカの顔を見てから溜め息をつくように言った。
「碇司令、惣流部長──いえ、シンジ君とアスカちゃん──きっとあなた達は賢すぎるのね。頭が良すぎるから、私のような凡人ならすぐ気付けることに却って気付けない。……でも二人とも少し冷静になって、もう一度考え直してご覧なさい。そうすればすぐに分かるだろうから。そうね、時間を暫く差し上げますから……その間、私は仕事を片付けます」
そう言って、ナディアは応接用ソファーから立ち上がり、執務机に戻って書類を広げた。
彼女の鉛筆が紙の上を滑る音が、沈黙の支配する室内では、やけに大きく響く。
シンジは週末に急拵えで作った自らの手製のポンチ絵を睨むようにして、考え込んでいる。
ナディアはこの計画を暴虎馮河と言った。計画を実現する技術がなければ無害だが、打ち上げが可能な技術が備われば最も危険になる──とも。それは一体、どういうことだ?
七、八分経過して、シンジが嘆息した。殆ど同時にアスカも同じ理解に至った。アスカとシンジは二人だけの間で通じる無言の視線で、お互いがナディアの指摘を了解したことを確認し、シンジは声を上げる。
「なんて馬鹿なんだろう、僕は──」
「……このままプロジェクトを進めてたら、確かにナディアの言うとおり、ネルフは大変なことになってたでしょうね」
二人の反応に、ナディアは口元を綻ばせて、手元の書類から顔を上げた。
「やっぱり二人とも賢いわね」
「こんな初歩的な大問題を見逃しているのに、賢い訳がありません……
シンジは赤面し、耳の先まで赤くなっていた。アスカも関数電卓をジャケットのポケットから取り出して、ざっくりとした計算を行った。
「成層圏10kmから17億トンの物体が自由落下したただけでも、そのエネルギー量は4000万メガトン……ツァーリ・ボンバ80万個ぶん? 途方もないわね」
世界最大の威力を持つという核兵器と比較して、アスカは絶句した。
「フォースインパクトを阻止するために、人為的なジャイアントインパクトを起こしてしまうようなもので、これでは僕らが世界を滅ぼしてしまいかねない。いや、失敗する可能性とその結果に気付かれた時点で、僕らネルフは人類から即刻抹殺されかねない──本部侵攻戦の二の舞ですね。たとえその打ち上げ失敗の可能性が殆ど0だったとしても、万一の失敗時に人類が滅亡してしまうようでは……この計画はそもそも実行できない──」
ある種の心理的な陥穽もあった。裏死海文書では黒き月を大気圏内航行させた未来──あるいは過去と言うべきか──の実績があるという──その記録がシンジにとって一つの先入観にもなっていたのだが、おそらくは未来においてそれが実施された状況では、殆ど人類は壊滅状態になっていたからこそ、それが許されたのに違いない……
シンジは立ち上がって、素直に頭を下げた。
「……ナディアさん、重大な見落としを指摘してくださってありがとうございました」
汗顔の至りとはこの事だろう。
「あなた達はまだ若くて、人並み外れて賢いから、どうしても失敗の可能性よりも、成功することのみを考えてしまう──私たちオバサン・オジサンに出来るのは、そういう若さ故の結論に別の視点を持ち込み、危うい場合にはストップを掛ける事なんでしょうね」
「僕は──サードインパクトであれほどの失敗を仕出かしているのに、また過ちを繰り返す所だった」
シンジがハンカチで額のぬらぬらとする油汗を拭くと、アスカも言った。
「でもそれは──シンジにはむしろいい傾向だと思う。過去の失敗の影に怖じて、新しい失敗が出来ないよりはずっといい。ペーパープランなら別に人は死なないのだから、どんどん失敗すればいいのよ。ナディアみたいな怖ぁいオバサンもチェックしてくれるんだしね」
と当人の前だと言うのにずけずけとした物言いだ。伊藤ナディアは流石に「アスカちゃん……私、まだまだ若いんだけどなぁ」と苦笑した。
◆
二人はナディアの部屋を辞去して、廊下を歩いている。前を行くシンジは流石にしょげていて、とぼとぼと歩く背中を見ていると、アスカには母性本能混じりの同情心が湧いてくる。アスカが主導権を握って性交を行った後のシンジはしばしば、こんな自信を喪失したような、落胆っぷりを示していて、アスカにはよく馴染みがある反応だった。
「元気、出しなさいよ」
「うん……アスカ、ごめん」
「どうしてあたしに謝るの? 別に怒ってはいないけど」
「そうだけど──でも穴だらけの作戦で──僕がこんな体たらくじゃ、またアスカのことを助けられないかも知れない」
アスカは背中から見ているから、表情を確認出来ないが、シンジはどうやら泣きそうになっている。
「あたしは、シンジに一方的に助けてもらいたいわけじゃないよ──最期の瞬間が訪れるとしたら、その時にはあんたにあたしの傍に居て欲しいと思っているだけ……」
シンジの心はきっとこれからも、この後告げる事になるアイの身体の事、シンジストの事、渚カヲルの事、LCLから戻って来なかった人たちの事──そんな沢山の憂いによって、日々痛めつけられていくに違いない。
一年後に迫る二人の期限の事だってある。その時には、アスカとシンジはどんな結論を出すのか。どんな結末を迎えるのか。
アスカとシンジがいつまでも一緒に居られるという保証はないのだけれど。
でも最期の時に二人はともにいる──アスカは今はただ、そう信じたいのだ。それが何十年も先の共白髪になっての事なのか。若くして人類の敗亡を眼前に見ながらの悔やみを残すものなのか。アスカもシンジもまだ己の運命を知ってはいない。