シンジはネルフ本部棟の屋上に上がって、柵に寄りかかり、ジオフロントの天井から積み木のように逆さに生えた街並みを眺めている。
風が強くなってきた。船の帆のように、黒い上級スタッフスーツの背が少し膨らんだ。
アスカはシンジの背中を黙って見つめている。
「──風、強くなってきたわよ」
無言のままの間に、遂に堪えかねてアスカはそう声を掛けた。ジオフロント内の空調は、マギが地上の大気や気候を参考にして、災害等にならない範囲で調整している。ネルフは新たに生まれ変わってもかつてと同じく、この第3新東京市の市政やインフラを実質的に担う影の支配者だった。
「うん、そうだね──」
シンジの声は寂寥感と虚無感を隠しようもない。
「仕事、沢山あるでしょ。腑抜けないでよ」
「分かってるよ」
シンジの全身からまるで力が抜けたようだった。コズミック・ヴェロシティという回天の計画に重大な問題点があることを指摘され、新生ネルフ司令・碇シンジをこれまで支えてきた張り詰めた精神の糸が切れたみたいだった。当面は地についた使徒への対抗作戦を考えるのが最優先だとシンジも理性では分かっている筈だが、身体が動かない。気が付くとこの場所へと足が向いていた。
アスカはいっそ、勢いを付けて柵の向こうへとシンジを押し倒し、そのまま二人で地面へ向かって飛び降りてやろうかとも思った。
先行きの見えない二人の関係と、世界の命運にけりを付ける、それもまた乱暴ではあるが、手段の一つだった。
けれど、次にアスカが口を開いたとき、アスカが話したのは別のことだった。
「シンジには責任があるわ」
さっきまで、シンジに一方的に救ってもらいたい訳じゃないと否定したのと、それは矛盾しているような発言だったが、それもまたアスカの偽らざる気持ちだった。
「あの赤い海の浜辺で、あたしたちはいつまでも二人きりで生きていても良かった」
それはもはやヒトではなく、文明と言葉を喪ったケモノとしての生き方だったかも知れないが、何者にも隔てられる事のない二人だけの生への道筋がその時はあったのも確かだった。
「でも、あんたはそうはしなかったの。あたしとシンジがお互いしか居ないから、もう結ばれるしかない世界ではなくて、あたし以外の女も、あんた以外の男も存在して、あたしたちが最後に結ばれるかは分からない未来を選んだ」
「うん……」
「だから、あんたにはあたし以外の女、あんた以外の男を巻き込んだ責任がある。彼らは単なるあたしたちの物語の背景や書き割りじゃない。彼らをLCLから引っ張り出して、生きる苦しみへと引き戻したのはあんたなんだ」
サードインパクト直後、神人としての力の名残りを未だ保持していたシンジは、シンジとアスカ以外の人類──彼らが戻ってくることを願った。他に相手がいないから──選ぶ余地がなくアスカとシンジが結ばれるような世界の在り方を否定したのだ。そんなアスカとの結ばれ方を、シンジは無意味だと思ったのだ。
でもそれは、明確な願いでもなかった。だから未だ赤い海から戻って来れない人もいる。だけど、中途半端な想いであったとしても、シンジはただ、もう一度人々を信じて、人々の間で生きてみたいと思ったのだ。──アスカに投げつけられた拒絶の言葉はシンジを苦しめたが、それでも彼女が優しく頬に触れてくれたから。そして、未だにその理由に自信が持てず、暮夜、想いを巡らしたりするのだが、アスカがシンジに女の子の一番大切なものを呉れたから。
しかしまた、もう一面の事実として、それだけではないシンジの気持ちがあった。
「ただ、僕はあの時、怖かったんだ」
「怖いって、何が」
シンジは、他人が──あたしも含めて──怖かったのではないのか、とアスカは片方の眉を上げた。でもそれなら人々が戻って来れた筈がない。
「もしも皆を見殺しにしてしまったら──、ひとたび、そういう選択をしてしまったら──その後、あの海の水、全部で手を洗ってもその血が洗い落とせるとは思えない。いや、むしろ僕の手の汚れが、幾万の波頭立つ大海を血潮で染めたように思える。実際、そんな真っ赤な海だったから」
それはシェイクスピアの描く弑逆者マクベスの恐れだった。そしてマクベスの大逆無道を煽ったマクベス夫人が取り憑かれた症状でもある。夢遊病になり、毎夜手を何度も何度も洗って、それでも殺人の血にまみれた手が汚れているという感覚を消すことが出来ない。
アスカはシンジの背中にそっと近付いた。いつの間にか風は凪ぎ、帆布のようにはもう膨らんでいない背に、アスカはそっと手のひらを当てた。
「もう、海は青いわ。とっくに青いのよ。前にも二人で見に行ったじゃない」
それは、クリスマスに大喧嘩をして、破局さえも覚悟した後の、ドライブだった。過去のトラウマから二度と海を見れないと言っていたシンジが少しだけ前に進めた夜だった。
今の世界の海は青い──かつて日本政府の研究機関であり、今はネルフ附属海洋研究所として移管されている旧海洋生態系保存研究機構では、戻ってこれなかった人々が溶け込んだままの赤いLCLの海水を相当量保管しているが、世界の大部分の海はこの研究所や世界各地の類似の機関の努力もあって、青く浄化されている。
尤も、生物をこそ穢れだと捉えれば、潮の臭いという、実は植物性プランクトンの死臭薫る青い海の対極にある赤い海こそが原罪の浄化された海の姿であるとも言える。きれいと汚いは、生物と無生物、有機物と無機物──それらの何を汚穢であると捉えるかの定義の問題に過ぎない。
まさにマクベスの魔女たちが言う「きれいは汚く、汚いはきれい」の世界だ。むろん、シンジがそんな風にある意味ではふてぶてしく開き直って、自分の行為の結果を肯定したりできる訳がないのだが。
「──でも僕の手が血に塗れてない訳じゃない。戻って来れなかった人もたくさん居る」
「そうだね」
アスカは否定しなかった。シンジの罪は罪だ。だけれども。
「あたしの手も、あんたのと同じ色になっている」
サードインパクトに至る道は、アスカとシンジふたりの罪だ。お互いを真っ直ぐ見つめようとしなかった、優しさやいたわりや思いやりを欠いていた──そして、今でも完全には互いに向き合えていない、二人が共に背負う罪なのだ。
シンジとアスカには人々を赤い海に追いやった罪があり──
シンジとアスカには人々を赤い海から呼び戻した責任がある。
「あたしたち以外の全人類を呼び戻した──新世界のアダムとエバになり損ねたあたしたちには──旧い世界を救う責任がある」
シンジがちょっとだけ振り向いて縋るような顔でアスカを見た。甘えるような、拗ねるような、励まして貰いたがっているような、そんな顔だ。
アスカは頭を掻いた。
しょうがないなぁ。まぁ、一応愛人だし──元アダムとエバ候補だったよしみでもあるからね。
元々、シンジを励まそうとして屋上まで付いてきたのだ。少なくとも、グズグズしているシンジの尻を叩くぐらいのことは、たとえシンジが欲していなくても、望む所だった。
「そんな顔、しないの。あんた、ネルフ司令だし、その前に男の子でしょ?」
「そうだけど……」
今はこの場にいないアイの方が、色々と覚悟を決めているせいか、大人に見える。彼女はまだ中学生なのに、己の命をどこで、誰のために使うかまでも心に決めてしまっている。その事を思うと、アスカの胸は締め付けられる。彼女の身体のことを、サクラが診察した午後にはシンジに話さなければならない。いつまでも引き伸ばしてはいられない。
でも六分儀アイにせよ、碇シンジにせよ、あるいは、大人のように覚悟を決めようと、出会った頃の悩みを抱き続けて行きつ戻りつしようと、どちらだって、結局シンジはシンジなのだ。
──あたしは色んなシンジと、色んな世界で出会い、その事を忘れてしまってはいるけれど、彼らを知っている筈なのだ。そして、どんなシンジであっても、いつかは必ず好きになり、常に乙女の心をかき乱されてきた。記憶は無くとも何故だか、そう強く確信している。
「あたしが、中学生だった自分の痛さから学んだ事は、失敗を引きずらないようにするって事。あと、自分を天才か何かのように自惚れるのは止めなさいねって事。あんた、自分が賢くなった積もりなわけ?」
シンジが前に教えてくれた自己成就予言の話にも少し通じるが、自身の不敗や無敵を信じれば、それが破れた時の衝撃は遂には身を滅ぼしかねない程大きなものとなる。不敗の信念──往々にしてそれは不安や自信のなさの裏返しでもあるが──こそが大敗北を生む。それが中学二年生の時にアスカが体験した事だった。それはまた、「バーナムの森が動かなければ」「女から生まれた者には打ち倒せない」という予言に己の無敵を信じた叛将にして僭王も同様だったろう。
「そんな──賢くなっただなんて、そんな積もりはないよ」
シンジが慌てて首を左右に振った。アスカは勢いづくように、柳眉を逆立てた。
「そうでしょ。あんたはバカシンジなんだから! あたしは二十年近く昔、初めてあんたと逢った時からずっと、あんたはバカなんだって繰り返し言ってあげているでしょ。自分はバカなんだっていう自覚を見失ってあんたがハリキリ過ぎると、今回みたいにずっこけるし、ろくな事にならないの。あんたの事はあたしが世界で一番よく知っている。あたしに分からないのなら、あんた自身にだって分からないわ」
シンジは今や、アスカの方に完全に向き直り、素直に頭を下げていた。
「ごめん、僕が悪かったよ。──僕が自分は絶対に間違えないなんて思うのがおかしかった。僕はいつも間違えてたんだから。計画の失敗ぐらいで落ち込むのが変だったんだね」
アスカは腕を前に組んで、おもむろに頷いた。
「バカシンジの間違いは、あたしが糺す。だから別にあんたは間違えてもいいのよ。いちいち落ち込む必要もない。さっき、あんたがあたしにゆくゆくは副司令をやって欲しいと言って来たとき、正直言って、あたしはあんたに何を求められてるのか分からなくて戸惑った。あたしの能力で、あんたに何を提供出来るのかさっきまで思い付けなかった。でも今ならハッキリと分かるわ。あたしは司令であるあんたの間違いを叱って、直させる事が出来る。そういう副司令になら、なってもいい。いいえ、なってあげるわ」
それはアスカにしか出来ない事だ。アスカにしかなれない副司令なのだ。
◆
前髪が少し片目に掛かって、煩わしい──というのはずっと思っていた。でも、それが自分のトレードマークであり他者からのイメージだったから、変えるのも簡単には行かない。商売柄、髪型の一つも自由になるものではなかった。自由業とは名ばかりで、私の職業は他人に見られる事だったからだ。
六十回以上のローンの半分以上が残ったままの外国製のコンバーチブルのスポーツカーの運転席から、私は坂を登りきった所にある校舎に吸い込まれていく少年、少女たちを眺めていた。二年前、出演したテレビドラマで演じた奇っ怪で個性的な脇役の台詞が大受けして流行語になった時、芸能人ならステータスとして必要だと言いくるめられて買ったものの、割賦が生活費をかなり圧迫している。ドラマが話題を呼んでから2ヶ月間はバラエティ番組に呼ばれる度に、そのカマキリのようなガニ股女のメイクをして、ドラマの台詞を再演する道化を演じた。それなのに、その年末の流行語大賞の候補にはノミネートもされなかった。ドラマの終わり方が最悪で年の後半は誰も話題にしなくなったからだ──
少年少女が入っていく学び舎の名は、第三新東京市立第壱中学校。
名前だけは二十年近く前に転校して、心ならずも去った我が母校と同じだが、校舎は建て直されていて、昔の面影はない。実際、サードインパクトで当時の校舎は激しく損壊、撤去されたのだという。私の家族はその前に第三新東京市から疎開することを選んだから、卒業まで居られなかったが、最後まで残った同級生のうち、ようやく連絡が取れた一人にずいぶん後で聞いた話では、僅かばかりの補習と、殆ど書面上だけの卒業手続きのあと、われらが母校は廃校になったという。その後、随分と間が空いて、数年前に「さる特務機関」が影のスポンサーとなって、再建されたという噂を聞いた。学校に金を出す理由に忌まわしいものを感じて、その噂を聞いたとき、私は思わず眉を顰めた。
だから名前は同じでも、別の学校だ。私が感傷を感じる合理的な理由はないのかも知れない。しかし、昨日、プロダクションの事務所に呼び出され、マネージャーから「今後の活動」について、「率直な意見」を聞かされたあと、私が見たくなったのは、私たち三人の出発点となったこの学校だった。
校門をくぐっていく色とりどりの私服と制服。やや制服の方が多い気がするが、その制服にも全く統一感はなかった。兄弟、親類からのお下がり、闇市で入手した持ち主の既に亡くなった知らない学校の制服。大方そんな所だろう。そんなまちまちの服装に文句を付ける事が出来る学校は今の御時世、あまり聞いたことがない。ちゃんと着るものがあるだけで恵まれているとさえ言えるからだ。
物資窮乏のサードインパクト後の二十年間、服飾品は贅沢品になり果て、私の芸能人としての給料からも相当な金額が毎月飛んでいく。でも商売道具だからそれを減らすことは出来なかった。そう、今月までは。でも、昨日マネージャーから聞かされた率直な意見を傾聴した限りでは、来月からは相当に節約が出来そうだった。
──もっとも収入も激減するだろうから、暫くは闇市で、高価な外国製ブランドの服を、買った値段の十分の一ぐらいに買い叩かれる忌々しい日々が始まるのかも知れないわね。
嘆息しながら、この不毛な時間の過ごし方を切り上げようと、イグニッションキーに手を伸ばそうとした時だった。
あれっ。あの制服は──
坂道を登ってくるブルーグリーンのジャンパースカートを着た少女が、私の視線の片隅に入ったのだ。
中学生たちに不躾な視線を注ぐ、サングラスの三十路の怪しい女。その立場を考えれば、私はもっと自重をするべきだったのだろう。
でも見慣れない、どこの学校かも分からない制服の群の中に、本来あるべきと感じられる母校の──実際に私自身が袖を通してきたのと全く同じ女子制服を見かけたのだ。
だから、私は思わず考える前に、車を降りて、その制服の少女に駆け寄って、声を掛けてしまっていた。
「ねえ、ちょっとあなた」
少女は怪訝な顔をして、頭一つ分、上方にある私の顔を見上げる。
「あの、なんですか」
私の母校と同じ制服を着たその女子中学生は、濃いブルネットの髪を肩まで垂らしている。ただし、その子は私たちの時にはみんなしていたリボンタイはしていない。
そしてその顔は、見たことなどない筈なのに、どこかで見たような──見覚えのある顔だ。強烈な
どこで見たのだろう。中学生の知り合いなど居ないはずだ。昔の同級生の親族だろうか。その同級生に似ているのだろうか。
「えっと……」
少女は戸惑いを隠さない。しかし私には言葉がない。そもそも何の用事も心の準備もなく、その制服を見た衝動で思わず話しかけてしまったのだ。
だから、私は慌ててその不審を払うように、また、直接肉眼でその既視感の正体を確かめようと、サングラスを外した。
「あ、あの……ごめん。怪しい者じゃないのよ──いや、どう考えても怪しく見えるのも分かるけど。私はこの学校の卒業生なの」
その言い訳が相手を納得させたとは思えなかったから、急いで付け加えた。
「だってその制服、あなたのだけ、昔のと同じなんだもの」
それで、少女は初めて、警戒心を少し解いたのか。目を細めるようにして私の顔をじっと見つめた。
「もしかして──谷口さん?」
「そ、そうよ。谷口イズミ。いんぱくつ。のこと知ってくれてたの?」
予想外の展開ではあるが、腐っても芸能人だ。見知らぬ相手に一方的に名前を言い当てられる事はたまにある。
ちなみにカマキリ女みたいな色物を演じる女優としては、私は別の芸名を名乗っている。谷口イズミという本名を名乗るのは、いんぱくつ。として活動をする時だけだ。
少女は黙って頷いた。「いんぱくつ。」は、第壱中の友達三人で始めた音楽ユニットで、学内での活動を皮切りにニコニコ動画などにオリジナル曲のミュージックビデオを投稿していた、今で言うネットアイドルの走りだった。私たちは当時は第壱中で最も有名な三人だったと言ってもいいかも知れない。もちろん、同じ学年で、エヴァンゲリオンのパイロットだった気の毒なあの子たちを除けば、の話だが。
いんぱくつ。の三人──私と石井ハルカ、松沢アヤコ──はシトの侵攻と街の破壊が続く中、疎開により一度はバラバラになったけど、高校でなんとか合流再会して──皆が生きるので精一杯のサード後の世界では全く簡単な事ではなかった。芸能番組で再現ドラマにされたこともあるが、二回に亘る家出と冒険が私たちの人生の挿話になっている──、活動を再び始めた。丁度ネットでの音楽動画がブームになり始めた頃合で、無料のエンターテイメントを! それも、とにかく明るいものを! かてて加えて可愛い女の子たちを! というサードインパクト後の荒廃した世相の需要にも合ったのだろう。高校在学中に、幸運にも私たちはメジャーデビューを果たした。
むろん、芸能界もそんなに甘い世界じゃない。それをデビュー後に私たちはイヤというほど思い知らされる事になる。いんぱくつ。のインパクトは一過性のものに過ぎなかった。いんぱくつ。にフォースインパクトは起こせなかった。フォースインパクトというのは、サードインパクト後の日本で、エンターテイメントを革新するほどの驚異的な大ヒットを指す、やや不謹慎な隠語として用いられていた。きっとみんな、本物のフォースインパクトが怖くてたまらなかったのだ。言葉の意味を軽薄に上書きする事で、頭の中から離れない恐怖を消し去りたかったのだ──たぶん。
私たちのブームは一、二年で終焉し、ネットの関心ももっとどぎつく新鮮な物へと移って行った。私とハルカとアヤコは程なくして、音楽性の違いとは全然関係ない所──プロダクションの営業戦略上の理由すなわちソロデビュー──の為に道を分かつ事になり、それなりの曲折や、転身に伴う努力や憤懣やそのいずれもが長くは続かなかった数回の小成功で人生を彩った。それから十年以上の間、三人が三人とも、過去の小成功で稼いだ人気や知名度を、プライドをオマケに付ける形で切り売りして生きてきた。そうやって、芸能界の端っこや周縁部にしがみついて、昔の夢の残骸をつついて弄くるような日々を送っている。私の場合は、それももう今月までなのかも知れないが。
「それにしてもよく、いんぱくつ。の事なんて覚えていてくれてたわね」
いんぱくつ。がブームになったのはサードインパクト前後の数年間だけで、目の前の中学生の少女にとっては親の世代の話と言っても過言ではない程に時間的な隔たりがある。
この子の昔の壱中の制服が、親からのお下がりだったとしたら、親経由の情報で、たまたま知っていたのだろうか?
あるいは、ネットの大海の中からマニアックな往年のコンテンツをたまたま見つけて、覚えていてくれたのか。アマチュア時代のミュージックビデオはプロデビューの時に全て消したのだが、いつの間にかコピーがアップロードされているのを見かけた事もある。最初は所属レコード会社からの申し立てでしつこく消されていたが、いんぱくつ。が解散してしまってからは誰も権利者として申し立てるものはいなくなっていた。それを知った時、何となく、いんぱくつ。が昔の自由だった時代を取り戻したような気がして、独りモニターに向かって快哉を叫んだものだ。一方で、その自由の代償が、もはや三人では一緒に居られないという物である事に、胸の奥で小さな痛みを感じながら──。
「だって、いんぱくつ。は人気があったから。──ボクは内田有紀ちゃんの次に好きだったかも知れない。『センチメンタルな予感』は何度も繰り返し聞いてたよ。辛いことに押し潰されそうな時には。あれはボクらの歌だった。ボクの代わりに歌ってくれていると感じられた」
「センチメンタルな予感」は、いんぱくつ。のアマチュア時代の曲で、それも中学時代の最後に発表した曲だった。作曲や演奏の技法としては、その後の作品に幾らでもあれを上回るものがあると自負している。でも、昔からのファンと、いんぱくつ。のメンバー自身には不思議と一番人気がある曲なのだった。
たぶん、それはいんぱくつ。のメンバーの避けがたい別れと解散を前にして、喪失の痛みを哀切に歌ったものだったからだろう。
忘れていく、流れていく
壊れていく、消えていく
そんな風に──ぴったりと合わせている筈の指と指の隙間から砂のように否応なく零れ落ちていく掛け替えのないもの──きっとその時のまだ幼い私たちでしか感じられない大切なものの喪失の予感に、私たちは思春期の少女らしい、センチメンタルを感じていた。それを素直な想いをぶつけるようにして曲にしていた。
そして、心の片隅で、私たちの代わりに沢山のものを犠牲にして戦ってくれているであろう身近な同級生のエヴァパイロットたちに、歌を通して想いを感じても貰いたかった。みんな、つらいのは同じで、喪う事が怖くて哀しいのも同じなんだ、と。彼らが払ってくれている犠牲を私たちはきっと避けがたい必然性として忘れていくとしても、自分たちの友情と同じくらい本当は忘れたくはないのだ、今この瞬間はちゃんと覚えているのだということを。
その想いが、パイロットのあの子たちにも届いたのかは分からない。多分けっきょくはエヴァンゲリオンの操縦で手一杯だった少年と少女たちにそれは伝わらなかったのだろう。私たちの作った曲など学校にさえなかなか来れなかった彼らの誰も聞いたこともなかったに違いない。でも、こうして世代を超えて、名も知らない中学生の子が、あの曲を好きだと言ってくれた。辛い事があっても、自分の事を歌ってくれたものとして受け止め、曲を支えにしてくれたという。それは同じくらい、素晴らしい事であるのに違いなかった。だから、私は頭を下げて礼を言う。
「ありがとう。私たちの音楽を好きになってくれて」
「ううん。こちらこそ。──あの曲を作ってくれてありがとう」
それにしても、内田有紀とアマチュア時代のいんぱくつ。のファンというのはまるで二十年、時代を遡ったような中学生だ。親近感を感じずには居られない。
おまけにボクっ娘なのか、とイズミは感慨深いものを感じた。思春期の少女にはよくある、自分の否応なく成熟していく性に対する違和感や異議申し立ての表出なのだろうか。
そういえば、自分も、ハルカに誘われて、神社の境内で女の子同士だというのに、キスをしたことがあったな──。
別に恋愛対象が同性だという訳でもなかったのにね。──あの頃は一番親しい友人の心に、近づく手段を他に思い付かなかったのだ。きっと、女の子同士に限らず、男の子と女の子の間であっても、そういう不器用な気持ちの交錯としてのキス模様はあったに違いない。
あのキスは、飲み付けないブラックコーヒーのようにほろ苦い、少し大人の味がした。
そんな風に、中学生の頃のキスは、みんなそれぞれに、そんな風にほろ苦かったのに違いない。
「それで、あの……ご用件は」
横をすり抜けていく同じ生徒たちからの好奇に満ちた視線をいくらか気にしながら、少女は確認する。
そうだった。少女の指摘に対して、取り繕うように焦りながらも私は頭の中を必死に回転させる。
「母校を──見学したかったのよ。あの頃はこんな校舎ではなかったけど。壱中は壱中だから」
「それは先生に聞いてみないと……」
もっともな回答だった。でも、母校を見学したいという気持ちは、単に女子中学生に不審な声の掛け方をしてしまった後の只の取り繕いではなく、溢れ出るように自然に口を突いて出てしまった希望だった。もう一度原点に戻って、自分を見つめ直したいという気分は本当に本物だったのだ。
私の大好きな映画の一つに、こんな台詞があった。
「自分のすることを愛せ。子供の時、映写室を愛したように」
私は──だから、映写室の愛し方を思い出したくて、ここに戻ってきたのかも知れない。音楽を愛し、友達を愛し、学校そのものではなくても学校での日常を愛していた頃の、愛し方を思い出したかったのだ。自尊心を投げ売りするような日々の中で、もう一度、自分と自分の人生の愛し方を思い出したかったのだ。
「──でもいいです、付いて来てください」
中学生の少女は溜め息を付きながら、やれやれという風情で言った。
「へ?」
「付き合いますよ。ボクには沢山、時間があるんです」
この年代の少女が、他愛のない嘘をつく時の悪戯な表情で、そう言った。私にはその時、少女の「ボクには沢山、時間がある」という発言がなぜ嘘なのか分からなかった。分からないほどに愚かだったのだ。なぜなら、私にはその価値が分からないほどに時間が有り余っていた。今でもある意味ではそうなのだ。だから、私の時間をあの嘘付きの少女にどうして分けてあげられないのかと世の不公平を未だに恨めしく思うほどなのだ。
もちろん、そんな事を言ったらあの子には怒られるに決まっているけれど。
イズミさんの時間は、イズミさん自身の為にちゃんと使わなくちゃ。そうでしょ? ──そう、あの子は言うに決まっている。
いや、ここからはあの子とはもはや言うまい。なぜならこの後、私は彼女から名前を聞いたのだから。そう、あの子の名前は──。
「ありがとう──あの、あなたの名前を教えてくれる?」
「──六分儀アイ」
それが私の出会った少女の名前だった。
私はその名前をそれから忘れたことは一度もない。
私のようなダメな大人たちを先導する事を決めた少女──六分儀アイは背を向けて校門に向かって歩き始め、私は路駐にしてしまった車の事を少し気にかけながら、後に続いた。私はその時の彼女の後ろ姿を今でもありありと思い浮かべる事が出来る。朝日に向かって真っ直ぐに、坂の上に向かってゆっくりと、彼女は進んでいた。
小さくて、寂しげで、でもあの時にはアイはもう自分の進むべき道をはっきり決めていたのだ。私がその日の朝、これから進むべき道を迷っていた大人であったのとは対照的に──それは、世界を守り通した中学生の少女の背中だった。