大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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五十九話 YOU CAN (NOT) RECOVER.

 リノリウム張りの学校の廊下を、私はジャンパースカートの制服を着た少女の背中を追い掛けながら付いていく。

 

「懐かしいな」

 

 ふいに口を突いて出た私の述懐に、アイは小首を傾げて反応した。六分儀アイ──「母校」の見学に来たOGの私を職員室に案内してくれている親切なこの学校の生徒だ。

 

「そうですか? 谷口さんがいた頃とは校舎も建て替えられて別物のはず。雰囲気も違うでしょう?」

 

 十三、四の少女がまるで二十年前の学校を見てきたように言ったから、それが少し可笑しかった。谷口イズミ、それが私の名前だ。この第3新東京市立第壱中学校出身の芸能人で、中学時代にはもう「いんぱくつ。」という音楽ユニットを始めて、学内やネット上でそれなりの好評を博していたものだ。私はあの時、「いんぱくつ。」を始めていなかったら、自分の人生が今とは全く様変わりしていたであろう事実を思い起こして、感慨を深める。この六分儀アイという少女が、初対面の私に対して警戒心なく親切にしてくれるのも、いんぱくつ。のファンだったというのが理由の一つなのだから。

 

「学校自体が懐かしく感じられるのよ。このリノリウムの廊下だってあの頃と同じに見える……大人になればあなたにも分かる」

 

 思えば、私は残酷な事を言ったものだ。少女には二度と大人になる機会が訪れない、そういう過酷な運命を知っていたのなら、別の言い方をしたに違いない。

 

 アイは後ろの私の方を振り返らなかったが、その時、どんな顔をしていたのだろう。自分の運命を知らずとも、彼女の中にすでに覚悟はあったはずだ。

 

「それに、どの学校もよく似ているのには理由があるの。教育科学省の文教施設部が定めた学校施設整備指針というのがあってね──」

 

 前にテレビの情報番組のゲストコメンテーターを務めた時に見知った事実を私は受け売りした。その指針は現に、教育科学省のホームページでも一般公開されている。画一的だが、一定の水準を設けた学校施設の整備は、期せずして、日本の国民に、共通の学校時代の思い出を提供している。誰もが思い浮かべる学校の共通要素には自然発生的ではない理由があるのだ。

 

 思えば、私はそういう風に世の中が動いているリクツを考察するのが昔から好きだった。サードインパクト前夜の第3新東京市からの疎開。理不尽に思える親友たちとの別れが、私にそういう状況を強いた世の中の仕組みへの関心を呼び起こしたとも言える。

 

 だから、私がこの日からしばらくの後、女優やミュージシャンのキャリアを捨てて、新しい進路を決めたのにも、そういう嗜好が根底にあったに違いない。いや無論、それだけではない。一番大きな動機はアイの事だ。アイを待ち受けていた運命が──、大人たちの無力さが──、少女の犠牲を看過して幸せに浸る世界の有り様が──、私の心の中に義憤の焔を灯したのだ。

 

 しかし、今はまだ──少女も私も、世界の誰も、彼女と世界に待ち受ける運命を知らない。学校施設の整備指針に関するマニアックな話題も少女の関心を呼び起こすことは無かった。後になって思い返してみるならば、少女にとって世界とはいわば一方的に与えられるプレッシャーのようなものだった。それは彼女にとっての一度目の生においても、二度目の生においても同じ事だった。私のような社会の仕組みへの興味や反撥心に至る前に、彼女の諦観はもっと崇高な想いへと昇華されつつあった。

 

 沈黙が漂う中、唯一静寂を破っていた、ひたひたという上靴の音が止まった。私も来客用スリッパを履いた足の動きを止めた。

 

「ねぇ、谷口さん」

 

 振り向いたアイは口を開いた。

 

「どうして三人は一緒でいられなかったんですか」

 

 その質問に私は虚を衝かれ、絶句した。三人というのは誰のことか。尋ね返すまでも無かった。私とアイとの接点は「いんぱくつ。」しかない。音楽ユニットであるいんぱくつ。を構成する私、谷口イズミと、石井ハルカ、松沢アヤコの三人の事に決まっていた。

 

「あんなに仲が良さそうだったのに。別れ別れになっても、またもう一度一つになって、音楽をやれていたのに」

 

 アイの目は真剣だった。でも、私には何と答えていいのかわからない。だって、私自身にも分からないのだ。いつまでも三人一緒にいられると思っていた。だから、解散してしまった理由は分からない──ただ、それは決して事務所に言われたからじゃない。あくまでも抵抗しても良かったし、三人一緒に辞めてアマチュアに戻っても良かったのだ。だから理由はきっと私たちの中にある。

 

 いや、分からないというのは事実だろうか?

 

 私は瘡蓋(かさぶた)を剥がして古傷をあえてほじくり返すように、自分の心の中を省察(せいさつ)する。

 

 本当のことを言えば、その理由はちゃんと分かっていた。だけど、知らない振りをして、これまであえて目を背けてしまっていただけなのだ。

 

 私はさっき会ったばかりの少女を相手に、その秘すべき理由を打ち明ける気持ちになっていた。

 

 何故だかは分からない。しかし、この時を逃したら、もう二度とソレと向き合うことは出来ないのではないか、と──そう切迫感を持って感じたからだった。

 

 だから、私はおもむろに口を開く。

 

「──自分とお互いを信じきれなかったこと……」

 

 振り絞るようにそう、呟いた。

 

 お互いの間に通い合う想いを信じきれなくて、目の前にぶら下げられた芸能人としての成功に目が眩んだというよりも、それが他の二人にとっては自分よりも大切な事なんだと思ってしまった。自分がいなくても、彼女たちにとっては、もっと幸せになれる道があると勘違いしてしまった。自己犠牲めかして、自ら身を引くことに、ある種のヒロイックな陶酔さえも感じていたのかも知れない。

 

 だから解散してから、その過ちに気付いても、その致命的な間違いの意味するものを理解して、簡単には二人と連絡が取れなくなったのだ。

 

 お互いとそれぞれへの想い以上に、大切なものがあると思い込んでしまった──。

 

 それは──その誤謬こそが、最大の相手への裏切り行為だったから。

 

 たぶん、他の二人も同じように感じて、自分を責めているのだろう。だから三人はもう一緒では居られなくなったのだ。

 

「それに、三人は……難しいんだよ」

 

 それもまた言い訳だ。この期に及んで、私はまだみっともない言い訳をしている。最大の裏切りを犯した事を素直に認められなくて、そんな風に別の理由を求めてしまう。

 

 でも、それも確かに一面の真実だった。

 

 中学生の時、アヤコが引っ越した後、彼女の抜けた寂しさを埋めるように、私とハルカは互いの唇を求め合ってしまった。だから、正三角形だった三人の関係はその時から、いびつに歪んでしまって、高校になって再会したとき、私たちはアヤコを仲間外れにしてしまったような罪悪感でいっぱいだった。だから私とハルカの関係はぎこちなくなり、お互いに対しては少し素っ気なくなって、一方でアヤコとの関係を取り結ぶ事に血道を上げてしまっていた。気が付いたら、アヤコの歓心を買う競争を私とハルカは繰り広げていた。

 

 けっきょく、その競争を征してアヤコと親密になったのはハルカだった。だからだろう。私は自分の身の置き所が無くなった気がしてしまっていた。あんなに頑張って、家出までして、親に刃向かってまでもう一度高校で一緒になった三人だったのに、私は自分が脇役になることに堪えられなかった。親密な二人の姿をもうこの目では見たくないと思った。二人の前から消えてしまいたいと思った。

 

 だからなのだ。私がトリオ解散に反対しなかったのは。ある意味ではほっとしていた。二人の前から消えてなくなれることに安心し、二人が私の存在を喪ったことに幾らかの後ろめたさを感じればいいとさえ思った。そして、三人が解散した後に、ハルカとアヤコがデュオにならない事に違和感を感じた程だった。仲良しなんだから、そうするべきなのに、とさえ思った。実際に口に出して二人にそう提案したことさえ有ったかも知れない──しかし、本音を言えばそうではなかった。私は実際には三人が全員ソロデビューになった事にも安堵していた。トリオの解散後に、私を除いた二人がデュオにならないことに昏い喜びを感じていた。

 

 二人の幸せな姿など見たくはなかった。三人がバラバラになり、私以外の二人が私と同様に疎遠になることに満足していたのだ。同時に、そんな風に考える自分のことが最低の人間のようで、許せなかった。私はハルカとアヤコの関係に嫉妬していた。もう、あの二人を親友と呼ぶことは出来ない。それはすべて私自身のせいだったのだ。

 

「どうしても、三人ではいられなかったの?」

 

 アイの問い返す言葉は責めるようではなく、あくまでも優しかった。まるで私の心の深いところにある痛みを理解してくれているようだった。私は親子ほども違うのに、年下の少女の言葉にこくりと頷いていた。

 

「二人のことをどちらも大好きなんだ。だから──好きだからこそ──私がいなくても、成り立つ二人の関係が疎ましい。憎らしい。すぐ側では、そんな二人を見ていたくなかったの。私なんていなくても同じだから。自分がいなくても二人の関係が成立するという事実が許せなかった。そして、そんな風に思う自分も、醜くて、あさましくて、許せないの」

「分かるよ──。ボクにはその気持ちがとてもよく分かる」

 

 アイはもう敬語ではなかった。私はその時、あくまでも自分の事だけを語りながら、アイの境遇にも重なるクリティカルな部分に知らずに触れていたのだった。

 

「ねぇ、イズミさん」

 

 谷口ではなく、下の名前で呼び掛けながら、彼女は言った。

 

「……職員室、行くのやめない?」

「え? それってどういう」

「言葉の通りの意味だよ。校舎なんか見学したってしょうがない。そこにはイズミさんの見つけたいものなんか、有るわけが無いよ。ボクには監視が付いているから、自由に外を出歩く事は出来ないけど、校舎から出なければボクは自由なんだ。イズミさんともっと話をさせてほしい」

 

 監視という言葉にぎょっとなり、彼女の正体と境遇に疑問を感じると同時に、大人としての当たり前の責任感が頭をもたげる。

 

「でもあなた、授業が──」

 

 アイは首を横に振った。

 

「ボクにとっても、授業はもうあまり意味がないよ。イズミさんにとっての、校舎の見学と同じだから」

 

 さすがにその言葉にそのまま乗っていいのかと躊躇いはあった。しかし、自分はもう半ば解雇通告を受けた身なのだ。どうせ明日の生計(たつき)も分からず、ええい、なるようになれという自棄の気分もあった。万一、何らかの事件沙汰になったとしても、むしろそれがメディアの話題になって再起の道が拓けるかも、などという浅はかで卑しい下心さえもあった。

 

 だから、私はあくまでも利己的な気持ちから、あの子の誘いに頷いたのだ。

 

「でも、校舎の中でって──」

 

 アイは私の視線を誘導するように目配せしてから、天井を見上げた。

 

「学校の隠れ場所としては──定番でしょ?」

 

 なるほど。あそこか。

 私にも二十年前にはそうであった現役の女子中学生の勘が少し戻ってきた。

 

 

 アイと私は壱中の屋上に上がった。屋上のドアは施錠されておらず、内部の階段脇の手すりから延ばされた針金が、ドアノブの所でぐるぐると巻かれている。

 

 アイはしばらくその針金をまっすぐ伸ばすことに集中した。ずいぶん柔らかい針金で、これでは何の防止にもならないと私は思った。

 

「ドアの鍵が誰かに壊されてから、みんなこうやって、無断進入してる。ボクがやるのは初めてだけど」

「先生たちは気付いていないの?」

「気付いていると思う。でも適度に反抗心を養わせることにも意味がある──そういう方針なんじゃないかって皆言ってた」

「そりゃ大層な教育方針だこと」

 

 私は呆れたように両手を上げた。でもそのおかげで、私も昔の中学時代に戻ったようなプチ反抗気分を味わう事が出来る。あの頃の私たちは、不良とまでは行かないけれど、学校に黙ってバンドをやっていたぐらいだから、決して先生の言うとおりにばかりする品行方正な優等生というわけではなかった。いや、どちらかと言えば、そういう優等生だった子たちも含めて、こっそり屋上に侵入するぐらいの自由には憧れを持っていたはずだ。

 

 ……三十を越えた私が中学生と一緒になってやるような事ではないかも知れないけれど。

 

 屋上に出ると、微風が髪をくすぐった。

 

 アイは屋上の端に取り付くと、大きく息を吸い込むような仕草をした。彼女の周りに今まで見えない壁があって呼吸をするのがずっと困難だったようにさえ見える振る舞いだった。それから彼女は、フェンスの網を指先で掴んで、坂の裾野に広がる平凡な街並みを眺めた。サードインパクトの破壊の跡を人は覆い隠すように、復興を進めてきた。だけど、私には何故だか、それが大いなる偽善か欺瞞のように思えてきた。

 

 みんな、私たちが背負った気持ちなんか知らないくせに。──あの時、中学二年生の子供たちに世界の命運を押し付けていた事などすっかり忘れてしまっていて、何も起こらず、何もなかった振りをしている。知らない振りをする事がむしろ大人なんだと澄まし顔をしているのだ。

 

 風が強くなってきた。船の帆のように、少女のジャンパースカートの下のシャツの背がほんの少し膨らんだ。

 

 私はアイの背中を黙って見つめている。

 

「──風、強くなってきたわね」

 

 無言のままの間に、遂に堪えかねて私はそう声を掛けた。ここは地上だから、本物の風が吹いている。しかし、ここの大深度地下に作られたというジオフロント内の空調は、マギが地上の大気や気候を参考にして、災害等にならない範囲で調整していると喧伝されていた。私はそんな作り物の空間の中で、日々、世界とか人類とか大きな事だけを考えて生きている人々の傲慢を思った。しかし、同時に彼らもまた私たちと同じように、屋上に昇って、ささくれ立った気持ちを癒そうとする日もあるのではないかと勝手に想像して、少し口の端を緩めるのだった。それは少しだけいい気分だった。

 

「うん、そうだね──」

 

 私に応じるアイの声は寂寥感と虚無感を隠しようもない。彼女の憂いの理由は私には分からない。しかしそれは中学生の少女が背負うには余りにも、重すぎるもののように思えたのだ。

 

 そして私は彼女の横顔を見て気付いた。

 

 前にもこんな顔を見たことがある、という事に。

 

 私は彼女の事を知っている。

 

 彼女は──いや、彼は──私たち、いんぱくつ。の三人とは違うクラスだったけれども、そして、私も含めて殆どの生徒が遠巻きに眺めるだけだったけれど、学校にいる全員が彼のことを知っていた。

 

 彼が私たちの世界を代表して戦い、傷つき、自分の強さと弱さをみんなさらけ出して、世界を一度は滅ぼし、かつ、また救ったということを。

 

 あの人は弱かった。

 あの人は情けなかった。

 あの人は辛そうだった。

 

 だからこそ彼は、私たちのヒーローだったのだ。

 

 強さではなく、彼の弱さが、私たちを彼に共感させた。

 

 等身大の苦しみと悩みの中で、彼が一方的に与えられたものと闘っていることは、彼の人生のディテールや人間関係の子細を知らなくても、私たちにはリアルに察せられ、また、実感出来ることだった。

 

 だって、私たちは皆、彼と同じ中学二年生だったのだから。弱くて、情けなくて、辛い、只の中学生だったのだから。

 

 あの頃の彼を、私たちはみな好きだった。

 

「碇シンジ──くん」

 

 アイは私の「回答」にも別に驚いたそぶりは見せない。あらかじめその言葉を「正解」として予期していたみたいに小さく頷いた。

 

「碇シンジは、義父(とう)さんだよ」

「碇くんがお父さん……」

 

 私は不意を打たれた。そしてすぐに母親を想像した。碇くんの側にいつもいた女子と言えば、同じエヴァンゲリオンのパイロットである綾波さんか惣流さん──そんな風に些か安直に想像してしまったが、アイには見透かされていたらしい。アイは苦笑を浮かべながら、想像を否定するように首を左右に振った。

 

「義父さんは独身だから──ボクは養女だよ。遠縁の親戚だから、似てるとはよく言われるけどね」

 

 まるで準備していたような説明をすらすらと語ってから、アイは笑った。

 

「碇くんは、その……今は例の、新しいネルフで司令をやっているって聞いたわ」

「うん。決して向いているとは思わないけど、ね」

 

 碇くんにはずっと同情と共感を抱いてきた。私なら、恐ろしくて、あんな大きなロボットに乗って、使徒と命懸けで戦うことなんて出来はしない。実際に、四人目のパイロットの鈴原くんは大怪我をしたらしいと当時クラスでも話題になっていたぐらいだ。決して安全ではない仕事に、たった十三、四の子供たちが駆り出される。大人たちはその事に何も言わないし、反対も抵抗もしない。はっきり言って、どうかしていると子供心にも思った。エヴァンゲリオンを保有し運用していると噂されていた特務機関ネルフの大人たちに対して──只の一人も会ったことはないけれど、私は決していい印象を持っていない。

 

 だが、今はその共感の対象であった碇くんが、父親の後を継いで、ネルフの司令をやっているというのだ。私の同情心は行き場を無くしたみたいで、その感情は大いに戸惑っていた。

 

「ボクや義父さんの話はいいんだ」

 

 アイはちょっと微笑むと碇くんの話題を打ち切るように、再びフェンスに向き合って、街を見下ろした。

 

「やっぱり好きな人と、ずっと一緒にいることは難しいんだね」

 

 私は、最初、先ほどの私たち三人の話の続きだと思った。

 

 だけど、アイの声の響きにはもっと実感が籠もっていた。だから、私は気付いてしまったのだ。彼女もまた報われない想いを抱えていて、二人、いやもしくは三人のままでいられないことに苦しんでいるのだと。

 

「ねぇイズミさんは、二人から離れたことに後悔はしていないの?」

「後悔は──し続けるのが人生だよ。何かを選んで、何かを棄てる。その繰り返しで、人生が紡がれていく。先のことなんか分からない。相手の気持ちなんか分からない。だから与えられた条件の中で、自分だけで決めるしかない。でも自分で決めたことには責任を持たなくちゃね」

 

 だって、それは自分の決断であり、自分の人生なんだから。誰のせいにもできない。相手のせいにだって勿論できないことなのだ。

 

「うん」

 

 素直に頷いてくれたアイの後ろ姿に、私はこの出会いは運命的なものだと感じていた。アイの行く末を見守り、語り継ぐ事が私の与えられた使命なのだと仄かに感じ始めていたのかも知れない。

 

 だから、私はアイに伝えてあげたかった。何故だか生き急いでいるように見えたまだ幼い少女に、私の真心からの助言を渡したかった。同じように苦しい道を歩いてきた、かつては中学生だった一人の大人として。

 

「後悔はするのが当たり前。だけど、やっぱり悔やみが残る事が一つだけあるの。もう取り返せないと分かっているけれど、それだけに一層募る想いがある……」

「それは──?」

 

 アイが引き込まれるように、私の瞳を見つめて尋ね返した。

 

「相手の気持ちをちゃんと確認しなかったこと」

 

 勝手に自分で独り決めして、相手にはもう自分は要らないと思って身を引いた。今でもそれが最善の選択だったと思ってはいるが、それなら残る二人もどうして──私の密かな願望通りに──バラバラになってしまったのだろう。結局、今でも三人は誰も幸せにはなれていない、そう思うのは単なる私の傲慢な憶断なのだろうか。少なくとも、たとえ答えとしては変わらなかったとしても、ちゃんと相手に想いを伝えて、相手の気持ちを確認するべきではなかったのか。そうすれば、何かが、少しだけでも、変わっていたのだろうか──。

 

 それは今でも私の胸の奥に疼き続ける。単なる後悔を越えた深い悔悟を伴う疑問だ。

 

「それがイズミさんの悔やみ、なんですか?」

「ええ。もう戻せないと分かってはいるけど、ずっとずっと悔やみ続けると思う──それも含めての人生なんだけど」

 

 すると、アイは不思議そうな顔をした。

 

「知った風な事を言う積もりはないけれど、取り戻せない事なんて、ないんじゃないかな」

「アイちゃん……?」

 

 アイは少し遠い目をして、語り始めた。

 

「ボクの知り合いで、それぞれ一方的に想いを告げ合った後、別れてしまった二人がいるんだ。間にもう一人、別の人がいて、女の人とその人との関係を疑った男の子の方が自分から身を引いた──」

 

 男の子が混じっているとは言え、三人の関係は私たち「いんぱくつ。」の解散の顛末を連想させる。

 

「だけど、男の子は自分の想いを過去形で伝えはしたけれど、その女の人ともう一人の関係を本当に確かめようとはしなかった。その女性の気持ちを──現在の想いを確認しようとはしなかった。確かめるのが怖かったんだと思う。本当に決定的なものを知らされて死ぬほど傷付くのが恐ろしくて。だから、お互いの過去形の想い出だけを抱いて、二人の前から消えてしまいたかったんだと思う」

 

 想いをちゃんと確認しようとしなかったのは、私の場合と同じだった。横顔に滲んでいたアイの憂いの原因はその二人なのだろうか。アイはその二人といつまでも、ずっと三人でいたかったのだろうか──?

 

「だけど、そういう風に、ちゃんと確認しなかったあいつはけっきょく逃げたんだと思う。恋敵と目した相手と戦うこともせず、好きだった相手の現在の気持ちを確かめもせず、大人ぶって、相手の幸せの為だと自ら身を引いた形にした。そうやって物分かりのいい振りをして、それが成長することなんだと思おうとした。──そんなの少しも大人になることじゃないのにね」

「うん──」

 

 アイの「あいつ」とかいう人への批判はそのまま、私に突き刺さる。私だって同じなんだ。時には自分の素直な想いをどんなにみっともなくたって、さらけ出さなくちゃいけない時がある。負けるかも知れないと思っていても、確かめて、戦わなくちゃいけない時がある。そうしなければ、きっと本当の意味では大人にはなれない。嫌われるかも知れないから、相手の前から消えてしまいたいなんて、確かにそんなの大人ぶってるだけの子供なんだよね──。

 

 アイはそれからしばらく黙って、俯いていた。だけど再び顔を上げたとき、彼女の瞳と言葉には力が宿っていた。

 

「でも、取り戻せない事なんかないんじゃないかな。ボクはあの二人も、もう一度出会って、お互いの気持ちを確かめ合って、誤解ならそれを解いたならば、ちゃんとやり直せるんじゃないかと思ってる。そして、この世界は何度だってやり直せるはずなんだ。世界はそういう風に出来ているんだよ」

「世界はそういう風に出来ている……」

 

 私にはその意味は分からない。だけど、何度でもやり直せる世界──そういうものがもし本当にあるのなら、信じてみたいし、やり直してみたい。少なくともそれを語るアイの前向きさは信じてあげたかった。

 

「そう。世界はぐるぐると回っている。繰り返している。そんな事を言ったら頭がおかしくなったのかと思われるかも知れないけど、きっと何度だってやり直しは出来るんだよ。イズミさんだって、これから二人に会えばいい。自分の今の想いを伝えて、相手の今の想いを確かめる。遅すぎることなんか何もない、絶望することなんか何もないんだ」

 

 私は今でもそう言い切った、あの時のアイの表情をありありと思い出すことが出来る。地獄の釜を縁から覗き込むような運命を前にして、それでもなお、絶望ではなく、希望を見出した彼女のことを。

 

 どうしてそんな事が出来るのだろう。

 どうして彼女はそんなに強くなれたのだろう。

 

 いや、そんな事は今から考えれば分かり切っている。

 

「──ボクはね、ずっと好きだった女の子がいるんだ」

「アイちゃん……」

 

 アイはポツリとそう言った。

 

「女の子なのに変だよね。でもボクにはアスカは特別で──ボクは卑怯者だから、彼女をずっと傷付けてばかりだった。彼女の想いと向き合わず、彼女の苦しい時にも何も助けようとはしなかったんだ。それがボクの悔やみなんだ。だけど、たとえボクがあの子を幸せに出来なくても、あいつには幸せにしてもらわないといけないと思っている。あいつだけをずっとアスカは求めているんだから」

 

 アイが同性を好きだという気持ちを変だとは少しも思わない。私にもハルカとキスをした経験があるし、男とか女とかそういう事よりも前に、人を大切に想う気持ちというのは尊いものだ。

 

 そう。後から知ったことだけど、ずっと、アイの心の中にはたった一人の少女が住んでいた。サードインパクトに至るまでの彼女に対する後悔と贖罪、そして彼女を世界で一番大切な存在として守りたい、今度こそは幸せにしたいという強烈な気持ちが彼女の中に横たわっていた。

 

「ボクにもずっとあの二人をそばで見守りたい気持ちはあるし、それを望んでいる二人の気持ちもよく分かる。でも、やっぱりボクにはボクの役割があると思うんだ──ボクだけの生まれてきた意味がそこにあると思う」

 

 そう言って、アイはリボンタイを喪った制服の胸元で拳を握り締めた。

 

 その時、アイが持っていたスマートフォンが振動した。思わず驚く私をよそに、彼女は画面を見て、呟いた。

 

「サツキからだ──」

 

 友人からと思しきアプリのメッセージを読んで、アイは申し訳なさそうに苦笑した。

 

「あんた、今どこにいるのよっ!だって。……ごめんなさい、イズミさん。今、教室でボクがいないと騒ぎになってるみたい。ボディガードたちも校内でボクを探している」

「ボディガードって、あなた……」

「うん、やっぱりボクはそう簡単には自由にはなれないみたいだ。──ボクは碇シンジの養女で、再建されたエヴァンゲリオン初号機のパイロット、六分儀アイなんだから──」

 

 そう名乗った少女の姿が、二十年前の少年パイロット、碇シンジの姿と重なった。あの頃、私は彼をずいぶん遠くから眺めていた。憧れと、ある種の痛ましさを抱いて。励ます声を掛ける勇気なんかなくて、きっと、私たちの歌がその代わりだったのだ。

 

 今、私の目の前にいるのは──彼の面影を纏い、戦う目をして、張り詰めたような覚悟の程が凛々しい少女の姿をした少年だった。

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