「あの……遅れてごめんなさい」
「す、すみません!」
教室に戻ったアイは、教壇から降りて来た担任の女教師に向かって深々と頭を下げた。谷口イズミも一緒になって、腰を折る。
「ねぇねぇ、あれって芸能人の……」
「ああ、確か○○が主役だったドラマの、カマキリの人」
「だよねぇ、どうしてそれがアイと一緒にいるの?」
転校して暫くの間は、バッドコミュニケーションで孤立感を深めていたアイだったが、今は三人の親友──大井サツキ、阿賀野カエデ、最上アオイの仲立ちもあって、クラスにかなり溶け込んでいた。
級友たちはそんなようやく馴染んできたアイの側に、芸能人がいることに目を丸くしている。
(やれやれ。やっぱり、どこ行ってもカマキリ女か……)
イズミは彼女を芸能界に留めてくれていた、当たり役の効果に驚きつつも、本人の本質と関わりのない役柄で記憶されることに戸惑いを禁じ得ない。
「つまり、OGのあなたが学校訪問をされて、それをたまたま通りがかった六分儀さんが案内してくれたと……」
「は、はい。あの私、……一応、芸能人なんです。テレビドラマとかにも出てて、今度やる学園もののドラマのオファーがあったから、母校に取材というか、雰囲気を掴みたくて」
口からすらすらと出任せが出てしまう。まあいい──この場さえ乗り切れば。そういう刹那的な処世術を躊躇いなく用いてしまう自分に嫌悪感を感じつつ、表向きイズミは愛想良く笑った。担任教師も彼女のことを見知っていたようで、少なくとも学校に侵入した不審者を見る目つきではない。芸能人の得な所だ。
すると、その言葉を捉えてすぐさま、前の方の席に座っていたセミロングヘアの女子が言った。
「それって、エヴァンゲリオンが関係するんですか?」
色の薄い髪や少し西洋風の顔立ちからも観て取れるが、彼女には実はロシア人の血が混じっている。大井サツキ。アイの一番の親友と言っていい存在だ。
その言葉にドキッとしたのは、イズミだけではない。隣にいるアイの表情もいくらか強張っているように見えた。
(そうだわ、この子、今のエヴァンゲリオンのパイロットなんだった)
先ほどアイから思いがけず告白を受けた機密について、イズミは心の中で繰り返して、名も知らない大井サツキの顔を探るように見る。どういう意図で、エヴァンゲリオンを話に出して来たのか。この子がパイロットであることを彼女も知っているのだろうか。
しかし、どうやらそうではなかった。
「だって、壱中といえばエヴァンゲリオンのパイロットが昔生徒にいたって言うじゃないですか。その学園ドラマ、やっぱりうちの学校がモデルなんですか?」
「え、そんな話あるの? さすがサツキ、詳しいね」
サツキの斜め後ろの席から、前髪パッツンのショートヘアの少女が感心したように声を上げた。彼女は阿賀野カエデ。やはりアイやサツキの親友の一人だ。
「そ、そうなのよ! サードインパクト時代のドラマなのよ。主人公はエヴァンゲリオン初号機のパイロットのクラスメートで……」
考えてみれば、確かに単なる学校という以上のドラマチックな価値がこの学校にはある。たとえ名前だけ引き継いだ学校であっても。イズミは説得力を持たせるために、慌ててそのサツキの想像に乗ることにした。
「へぇ、あの教科書にも載っているエヴァンゲリオンって、この学校に関係あったんだな」
「まあ考えたら、シトが攻めてきたのってここ第3新東京市だもんな。パイロットが子供なら、市内のどこかの学校には通ってるよな」
「え? あのロボットのパイロットって中学生だったの? それってヤバくない?」
「人類のソンボーが懸かってるんだよ。中学生だって平気で使うって。大人ってそういう人たちじゃん」
生徒たちはガヤガヤと騒ぎ始める。
アイがぼそっと小声で、イズミにだけ聞こえるように呟いた。
「あんまり調子に乗って、アドリブとかしない方がいいよ」
「そ、そうなんだけど……つい、役者の癖で」
例のカマキリ女が日本全国で一大ブームを巻き起こしたのも、イズミのサービス精神に富んだアドリブによる所が大きかった。今回も、その精神が遺憾なく発揮されてしまったのだろう。
担任はがやつく生徒たちに向かって、
「こら、静かにしなさい!」
とたしなめていたが、生徒たちの喧騒が収まると、イズミたちに向き直って言った。
「とりあえず、学校としては事情は概ね分かりました。でも、生徒には当然授業がありますから。こういうのは困ります。それに」
「それに?」
「──さっきから、六分儀さんの保護者の方がご心配されています」
そう言って、教室の前方側の引き戸を開けた。担任が指差した廊下の先の目立たない隅に数名の黒服、サングラスの男たちがいた。イズミには彼らの見当が付いた。自分たちが中学生の時にも、碇シンジや綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレーの周囲には彼らの存在があった。察するにネルフにおけるアイの護衛兼監視役なのだろう。
「保護者ね……」
「あなたとアイさんにこれから、お話があるそうです。だからアイさんも早退ね」
教員は面倒事に巻き込まれたイズミに同情するような顔を一応したが、ここから先は、学校の管轄外と決めて、どこかほっとしているようにも見えた。
谷口イズミは黙って頷いた。説諭なのか尋問なのかは知らないが、(わお、なかなか愉しい事になりそうじゃない)と心の中で、意外な展開に舌を巻く。芸能界を首になりそうになって、気分一新──いや、単なる逃避の為に母校を覗きに来たら、国連直属の特務機関の取り調べを受けるだなんて、まるで一昔前のジェットコースタードラマが本物になったみたいだ。
一番年嵩の黒服が無言のまま前に立つと、イズミを先導するように、廊下の向こうに手の先を向け、それからその腕を身体に引き寄せるように紳士的な誘引の仕草をした。
(これちょっと、古畑任三郎に同行を求められる犯人の気分よね)
昔流行った倒叙ものの推理ドラマのことを連想して、イズミはほくそ笑んだ。基本的にイズミたちが生まれる前の作品だが、芸能界に入ったからというわけでもないが、日頃意識して、過去の名作は観るようにしていた。
(……古畑任三郎の犯人役なら、やりたかったなぁ)
カマキリ女を踏み台にして、ステップアップして行けば、決して荒唐無稽な夢ではなかったかも知れない。──昨日までは。しかしたとえ《古畑任三郎》がリバイバルしても、そんなチャンスは訪れないだろうと分かっている。だって、もう芸能人としての自分のキャリアは終わりなのだから。
イズミ、そして続いてアイが廊下に出ようとすると、大井サツキが立ち上がって大きな声を上げた。
「ちょっとアイ、あなた授業はどうするのよ!」
「──アイさんの出席日数はまだ足りてます」
「そういう問題じゃないわ。勉強はそれ自体が大事なのよ! いつか必ず役に立つ、そういうものでしょ! 私たちはまだ雛なんだから。雛には雛のすべき事があるのよ!」
眼鏡を掛けた外観のとおり如何にも冷静沈着な友人、最上アオイの指摘もはねのけて、サツキは熱く獅子吼する。少し、アスカにも似て、西洋の血の入ったこの少女の真っ正面からの言葉は、時に厳しく、しかしいつもアイの心を温かく充たしてくれる。
そうやって心から心配してくれるサツキに対して、しかしアイは何も返せない。「いつか役に立つ」の、「いつか」がアイには決して訪れないかも知れないのだから。
アイに心を配るのはサツキだけではない。出席日数云々というアオイの発言も、サツキを宥めるというより、むしろアイにまだ大丈夫だよ、と聞かせる為のものだろう。アイが「家庭の事情」でよく学校を遅刻、早退、欠席するのを彼女も知悉している。その上で、ちゃんとデータを取って、アイの為にカウントしてくれているということだ。なかなか普通の友人に出来ることではない。
見れば、サツキ、アオイ、カエデが特に気にかけるようにアイのことを見つめていた。
阿賀野カエデが、アイに向かって、無音の口パクで、ノートの白紙のページを広げて指さしているのは、「授業のノートなら任せて」という意味だろう。カエデはサツキのように状況に不平を言ったりはあまりしないが、いつもサポートは丁寧にやってくれている。そういえば、学校で孤立しつつあったアイに最初に声を掛けてくれたのは、カエデだったし、彼女がサツキとアオイに語らって、アイを仲間に入れてくれたのだった。
そんな三人の友人たちに、代わる代わる視線を交わらせてから、アイはそっと頭を下げる。
「来たばかりでごめん。急な家の用事だから」
胸の内からこみ上げるものがあって、それが溢れ出さないように、やっとのことで、それだけ言った。もしも、己の心のままに振る舞うことが許されるならば、自分は女の子としての第二の人生をこの大好きな友人たちと命の続く限り楽しみたい。──そう思って、使命から逃げ出してしまったかも知れなかった。
でもそれは出来ない。
逃げちゃダメだ。
アイは──シンジは──自分にそう言い聞かせる。アスカを守るためにも逃げ出す訳には行かない。もうアイは二度と逃げ出す事は許されない。
今日のアイは午前中授業を受けてから、午後、ネルフでサクラの診察を受ける予定だった。アスカがサクラに連絡を入れてくれている。しかし、谷口イズミとエヴァパイロットの思いがけない接触は、今、使徒の再出現を受けてセンシティブになっているネルフにとって、単なる偶然なのか否か慎重に確認を要する事項であり、アイの予定をも変えてしまった。
アイがエヴァパイロットであることを周囲に明かしていない現状において、通学時はあくまで距離をおいて目立たぬようにガードし、介入は極力抑制するという方針も、今回の「失態」を受けて、見直される事になるに違いない。アイの僅かばかりの自由はまた損なわれて行く。差し当たってはこれから、アイはイズミと共にネルフ本部で事情聴取を受けることになるだろう。
「いいの? アイちゃん──やっぱり何とか学校に残った方が」
イズミはそう気遣った。アイのことを明らかに心配する友人たちの姿に、かつての自分の親友二人──音楽ユニット「いんぱくつ。」の仲間だった石井ハルカと松沢アヤコを思い浮かべる。そう重ね合わせてしまえば、アイに彼女たちの真心を無碍にさせてはいけないと思うのだ。
私のせいで面倒事に巻き込まれたのなら申し訳ないし、悪いのはどこまでも自分なのだから、口添えをして取りなそうとイズミは思うが、アイは首を横に振った。
「イズミさんこそ、これから少し大変かも。乱暴なことは絶対にされないけど──」
その点、アイも、保安諜報部長の剣崎キョウヤと彼が指揮する保安諜報部の事を信頼している。
「でも、イズミさんの時間はきょう一日潰れちゃうかも」
剣崎の仕事のやり方が紳士的でありながらも、徹底したものであることを、アイもつい最近の尋問──アスカからの尋問後、解放される前に、とうぜん剣崎からの取り調べも受けていた──でよく知っている。
◆
所はネルフ内の取調室に移る。アイにとっては渚カヲルとの接触時に調べられた部屋と同じなので、つい鏡に偽装されたマジックミラーの向こうを気にしてしまう。
「今回は私だけです」
しかし尋問が始まる前に剣崎が太鼓判を押すように言ったから、アイはその言葉を信用する。それは鏡の向こう側にも誰もいないという意味だ。保安諜報部長でありながら、彼は嘘を付かない。いや、保安諜報部長であるからだろうか。誠意こそ最大の謀略という言葉もある。
そして、今回のアイの方の取り調べは一時間ほどで終わった。ということは、やはりこちらの取り調べは、本命ではなく、ついでらしい。しかしそれでも、部長の剣崎自らが取り調べに当たり、アイからは、谷口イズミとは先ほどが初対面であること、しかしかつてのシンジの同級生であって、アイの記憶にも残っていること。学内で音楽グループをやっていた彼女たちの歌が自分への応援歌のように聞こえて大好きだったこと、そして、アイの養父がネルフ司令の碇シンジであり、自分がエヴァンゲリオンの今のパイロットであることをイズミに教えてしまったことを細大漏らさず伝えた。
「まずかったかな──剣崎さん」
「いいえ、さほどには。彼女が無関係な人物なら、丁寧に口止めをお願いすればいいだけです。彼女があえて偶然を装って六分儀さんに近づいたのなら、最初からあなたがエヴァパイロットであることは知られています。そのどちらであるかは我々がこれから調べます」
剣崎キョウヤは亡くなった加持リョウジと同窓同級で、彼のごく親しい友人だったが、加持とは対照的に謹厳実直で不器用な男だ。自分の子供ほどに歳の離れた少女にさえ、堅苦しい敬語を崩さない。自分の恵まれた体躯や鋭い眼光、プロとしての隙のない身のこなしなどが、時として威圧的に感じられることを知っていればこそ、尚更にそれは崩せないのだった。
彼は防諜のプロフェッショナルであって、拷問吏でも獄吏でも無かった。だが前者と後者とを隔てるものは、その人間の威儀の正しさなど僅かな差に過ぎないということもよく知っていた。少なくともそうした差を意識的に作り上げようとする人間の態度や姿勢の有無が両者の道を分かつものであると確信していた。
「谷口さん、すぐ帰れるかな」
アイはずっと気遣わしげな表情だ。
「構内の居室に泊まって頂くことにはなるかも知れませんが、女性ですので、一層丁重な扱いをすることは御約束します」
剣崎は穏やかに請け合った。
「あの、ボクが言っても根拠も何もないけど、谷口さんはいい人だと思う。そんな、人を騙そうとする人じゃないよ」
眉を八の字に顰めて、アイは心配そうに言った。剣崎は静かに肯く。
「人を信じることは尊いことだと私も思います。こんな仕事をしていても──いやこんな仕事だからこそ、信じて──時には騙される側の人間で在りたかった、人は本来そうあるべきだと思います」
しかし、それはもはや剣崎には許されない、叶わない生き方だ。だからこそ目の前の少女にはそうあって欲しいと願うのだ。
(しかし、やはりこの子は碇司令と本質は同じだな)
少女のレゾンデートルを揺さぶりかねない危うい言葉を心の中だけに飲み込み、剣崎は思う。
碇シンジという少年の孤独な歩みを、旧ネルフ時代からよく知っている剣崎は──少年が、父・碇ゲンドウやフィフスチルドレン・渚カヲルらにどれだけ裏切られても、サードインパクト発動後の世界で遂には人類をLCLから復元した、その決断の重さを考えるのだ。少年は他者に幾度となく疎まれ、裏切られて、絶望の波打ち際に佇んでいても、最後にはもう一度自分が傷つけられるかも知れない世界を──他者を──あえて望んだのだ。
それはきっと、たった一人の少女にもう一度会いたかったから。
そして、もう一度、人を信じてみたいと思ったから。
彼女に傷つけられ、彼女を傷つけても、彼はもう一度会いたかった。それは贖罪なのかも知れない。エゴイズムなのかも知れない。彼女の気持ちを考えた訳ではないのかも知れない。押し付けみたいな願望で、彼女を振り回しただけで──最初から最後まで、シンジの欲望に過ぎなかった。
さよなら、ではなく、また逢いたい。
たとえ、相手に「気持ち悪い」と拒絶されても。
自分勝手だとしても、それはシンジ自身の素直な気持ちだ。
だけど、だからこそ、きっと、人類が救われたのは、ただそれだけの理由なのだろう。
ちっぽけな、少年の少女に対するお仕着せのような願いと想いが世界を救った。世界を新しく生まれ変わらせた。その世界はひとたび滅んだ世界と同じようでいて、しかし、何かが決定的に違う。単に人々がLCLから戻ってきただけではなく、何かが変わったとそう信じたいのだ。その変化はきっと、何かしら優しいものであるはずだ。その気持ちが押し付けであったとしても、一方的だったとしても、それは、たぶん広い意味での愛なのだから。
剣崎キョウヤは、リアリストだけれど、そう思う。
剣崎キョウヤは、ロマンチストではないけれど、そう思いたい。
そんな、ほんの少しだけ優しい世界に我々は生きているのだと。そういう世界であると信じればこそ、剣崎たちが非道を為してまで守る価値があると思えるのではないか。
そしてその──かつての少年の、かつての少女に対する想いは、今、剣崎の目の前にいる少女においても同じなのだろう。
六分儀アイ──もう一人の碇シンジの、惣流・アスカ・ラングレーへの想い。
それもまた、一方的で、お仕着せみたいな気持ちだ。自分はどうなっても、只、アスカを救いたいという「彼女」の願い。それは、碇シンジが果たせなかった、今もその生涯を掛けて果たしたい願いなのだ。
だからこそ、その──与えるだけで良いと、もはや覚悟を決めている想いは切ない。そして彼女をそんな境遇に押し込めて、その犠牲によって世界と人類を救おうとしている自分たちの醜悪さとあさましさを思わないではいられない。優しいものに変わった筈の世界で、なおも変わらない大人たち。それがネルフの大人だと言えるのかも知れなかった。
だから、剣崎キョウヤはそっと慰めるように言葉を掛ける。まるでそれが彼流の償いであるかのように。
「先ほど、彼女──谷口イズミ氏とは少しだけ話をしました。あの怯えっぷりと、その怯えをわざわざ隠して強がる態度、我々による理不尽な取扱いへの善良な市民としての正当で当然な立腹の様が全て演技だとしたら、彼女は私より遥かに優秀なエージェントという事になるでしょう」
プロとして誠意を込めたそんな分析を告げることが、少女の憂いの一つを僅かでも晴らしてくれる事を願いながら。
──果たして、六分儀アイはそれに応えるように、素直に安堵の色を浮かべると、首を縦に振った。剣崎の反語的表現──彼より優秀な諜報員などそうそう存在しないことはアイにもよく分かっている。そして、それは剣崎の自惚れなどではなく、冷静で客観的な評価に過ぎないことも理解していた。──に、谷口イズミが無事解放されるだろうという強い希望を見出して、少女は我が事のように安心し、笑顔を浮かべた。
「ありがとう、剣崎さん。──剣崎さんはやっぱりいい人ですね」
その笑顔と優しい言葉が、剣崎にとってはこの厳しく冷たい仕事への何よりの報酬だった。
◆
鈴原サクラにとって、病室や診療室は慣れ親しんだ空間だった。それはかつての彼女にとっては寝起きし、毎日行き来する唯一の空間であり、今は彼女の戦場であり職場であった。
小学校の低学年の頃に、彼女は大怪我をした。碇シンジの操縦したエヴァンゲリオン初号機と使徒との戦いに巻き込まれたのだ。それ以来、ずいぶん長い間、入院をしていたが、病院の人たちは看護士も医師もみな、気の毒な少女に親切だった。
「痛い、痛いよ……」
しかし幼い身体に強い負担や痛みのかかる外傷で、はじめのうちサクラは痛み止めの効果が薄れるたびに、泣き叫んでいたし、実際には痛み以上に、寂しさが勝っていた。彼女の入院の手配をしたのは、父ではなく妹想いのまだ中学生である兄のトウジで、父が見舞いに来た回数は片手で数える程だったろう。兄は学校の合間を縫って、毎週のように見舞いに来てくれていた。しかし母を亡くして以来、研究にだけのめり込むようになった父からは母の死を補って余りあるような愛情は得られなかった。兄のトウジさえも参号機事件で重傷を負って顔を見せなくなると、サクラは本当に孤独になった。
ある夜、まだ消灯前の時間だったと思うが、サクラがいつものように独り泣いていると、一人の白衣を着た女医が、彼女の病室をひょいと覗き込んで言った。
「──痛いのかい?」
病床に近付いて来た女医に向かって、サクラは首を左右に振った。人に見られていると、人知れず泣くときよりも、余計に涙が止まらない。だって、うちが泣くのは、誰かに気付いて貰いたかったからだ。救いを求めて泣くのだから、誰かが救ってくれそうな時は、余計に涙が零れ落ちる。
女医はそれを不思議そうに見ていた。まだ若い、たぶん新任の女医だったのだろう。髪の長い綺麗な女性だった。子供の感覚ではあるが、女性にしてはずいぶん背の高いひとだったと記憶している。
痛いのは身体ではなく、心だった。だから痛いのではなく、寂しかった。どうして、自分には母親がいてくれないのだろう。どうして、母は自分を遺して、死んでしまったのだろう。他の子たちにはみんな母親がいる。うちのお母さんだけが、独りで死んでしまうなんて、余りにも、自分勝手じゃないか。父親は母親の影ばかりを追って、娘である自分を金輪際、見てくれないというのに。
そんな腹立たしさをサクラは手近に現れた無関係の女医にぶつけてしまったのかも知れない。
「お医者さまなのに、うちの痛みが分からへんの!?」
八つ当たり気味の子供のキツい言葉に、しかしその女医は怒ったわけでは無さそうだった。
「分からんなあ──」
ベッドの上に横たわるサクラを長身から見下ろしていた医師は、その視線を暗い窓の外に向けた。永遠の夏の、薄暗い闇の中の、遠い、遠いところを見つめる視線だった。
「ホントに──分からへんの?」
サクラには不思議だった。お医者様は病気や怪我のこと、何でも知っているのではなかったのだろうか。痛みだってその一部の筈なのに。
「ああ。誰にも──他人の痛みは分からないんだ」
そこで、初めてその女医さんは寂しそうな響きを声に乗せてきた。
「だから、私は医者を続けているのかも知れないな」
「だから──お医者を──続ける? 患者さんの痛みが分からないのに?」
そうだね、とそのひとは頷いた。
「うん。私の母親はね。がんで亡くなったんだ。自覚症状はあったのにね。最初に彼女が痛みを我慢していた時に、同居していた私が気付いてやれていれば、まだ母親は生きていられたかも知れないな。私は当時、もう医学を学び始めていたというのに」
そうか。この人はその時、分からなかったのだ。そして、分からなかった事をずっと悔やみ続けているんだ──もしかしたらこの先、一生。それを子供心にも何となく理解したので、サクラの中の八つ当たりや反撥心は消えてしまった。
その代わりに、サクラは柔らかい言葉でその人に質問をした。
「お医者を続けていれば、分かるようになるの?」
「それも分からないんだ」
そう言って、その女医さんははにかむように初めて笑った。サクラが想像した事のある、母親のような優しい笑顔だった。そして、腰を屈め、サクラの頭をそっと撫でてくれた。サクラはねじくれた気持ちを素直に解いて言った。
「ごめんなさい、本当は痛いんじゃなくて……」
「身体ではなく心が──寂しかった?」
「うん。どこも痛くないのに、痛かったの。ずっと独りだから」
「そうか──それはつらいね。でも頑張ったね」
そう言って、先生は何度も何度も背中をさすってくれたのだった。
その気持ちが嬉しくて、赤の他人なのに、サクラの痛みをちゃんと分かってくれたことがまるで奇蹟みたいで、サクラは先生に抱き止められながら、またポロポロと涙を零した。その涙は先ほどまでの、誰かに気付いてほしいと必死に訴える涙とは違っていた。心が誰かによって充たされた温かい気持ちの流す涙だった。
それから、何回かその女医とお話をする機会があった。先生はサクラの担当医ではなかったけれど、あの夜の縁があって、少し気にかけてくれているようだった。
「先生もお母さんがいないんだね」
「ああ──もういない」
「寂しくない?」
「もちろん寂しいさ。でもね。最初からいなかった訳じゃない。母がいたから、私がいる。サクラちゃんだってそうなんだよ──君がいることがお母さんが確かにいたことの証なんだ」
だとしたら、サクラがちゃんと身体を治して、母親よりうんと長生きすれば、お母ちゃんが確かにこの世に生きていたという事実はずっと残るのかも知れない。
サクラが退院する少し前に、その先生は担当が変わったのか、姿を見せることはなくなったけど、あの出会いの夜から、サクラが独り泣く頻度はめっきり減っていた。
サクラが医師を目指したのは、たぶんあの夜の出会いがあったからだろう。
医師になっても、他人の痛みが──気持ちが分かるようになるわけではない。でも、分からなくても、それでもなお、分かろうとする気持ちこそが大切なのだと、今では思う。あの女医さんは「他者の痛みなど分からないことを、分かっていた」。そして、いつかそれが分かる日が来て欲しいと願うようにして、医師を続けていた。そう、サクラには思えるのだ。
サクラはあの時の医師の名前を知らなかったし、後になってからも調べようとはしなかった。頑張って調べれば、医師のつてで、もしかしたら知ることが出来たのかも知れない。でも、サクラにとって人生の原点とも言うべきあの時の出会いをそのままにしておきたい気持ちもある。
「うちにも、アイちゃんの痛みはきっと分からへん」
人類を救うために生み出された、碇シンジの性転換クローン体。それが六分儀アイだ。人間は誰しも、生まれてきた意味も目的も分からないままに人生を自由気儘に過ごしていくのに、彼女はそうではない。生まれてきた意味も目的もあらかじめ存在し、他者によって運命付けられている子供にとっては、人生そのものが悲劇であり、苦痛なのだろうか。それはサクラには決して分からないことだ。
サクラは、碇司令──碇シンジが決断し、命じた事を、非道であり外道の策であっても、その通りに実行する。アイを生み出したのはシンジであり、サクラだ。シンジはアイ以外のクローン的存在を頑なに認めなかった。綾波タイプの復活も、旧ネルフ時代に検討されていた惣流・アスカ・ラングレーのクローン化のペーパープランも、一も二もなく却下した。犠牲になるのはシンジ自身だけでいい。傷付くのは僕ともう一人の僕だけでいい、と。懊悩し、尽きせぬ後悔も予感しながら、そう決断した。その決断をサクラは尊敬している。人類のため、為すべき事を今度こそ間違えなかった、そしてその犠牲を己一人に向けた碇シンジの大人としての決断を。
しかし、シンジの決断は彼のものだ。サクラ自身についてはどうだろう。医師でありながら、サクラがその医業の倫理に反する決断を支持し、医学と生物学を以てサポートし、シンジの傍らに立って同じ権道を進むのは、あの時の女医の疑問の答えをいつか、知りたいからだ。医術が目指す先には、あるいは人生の行く末には、人類補完計画のような自他の混合ではない方法で、他人の痛みを理解する事が出来るようになるのだろうか。その問いについて知りたいと思っている。世界と人類、自己と他者が無くなってしまえば、その答えを知ることは永遠に出来なくなる。お母ちゃんが確かに生きたという証も消えて無くなる。だから、他人に痛みを強いる選択──自家撞着であると知りつつも、サクラはアイを生み出したのだ。
碇シンジは、エヴァに乗って戦うことで、サクラに大怪我をさせ、しかし敵を殲滅することで彼女の命を救った。兄トウジの親友でありながら、彼の片足を奪い、サードインパクト後には、サクラは救われ、兄は戻って来なかった。サクラは彼に与えられたものと、奪われたものがある。碇シンジは、鈴原サクラの恩人でもあり、仇でもある。
それは、サクラだけではない。シンジの行動とその結果は、惣流・アスカ・ラングレーに対してもそうだし、北上ミドリに対しても、全人類に対してもそうだ。誰もがシンジによって何かしら傷付けられ、しかしシンジによって何かしら救われていた。サクラの、ミドリの、そしてアスカのシンジへの想いは愛と憎、その二つの感情によってあざなわれる縄のようなものだ。
だけど、あの子は違う。六分儀アイは、昔のシンジの記憶を持ってはいるけれど、……生まれたばかりの彼女自身は誰も傷付けていない。アスカもサクラもミドリも、人類の誰一人、彼女に傷付けられた訳ではない。彼女は原罪無きままに、ゴルゴタの丘で磔刑に処されるナザレのイエス──いやむしろ──その彼を無原罪の御宿りで生み出した聖母マリアのように無垢でさえあった。
それなのに、いや、それだからこそか、人類が彼女に望んでいるものはとてつもなく大きい。主イエス・キリストのように、全人類の罪を背負って、人類生存の為の贄になることが期待されている。
「アイちゃんの痛みは確かに分かれへん」
そんな途轍もない期待と重荷による痛みは分かりようがない。その重さを知っているのは、二十年近くその重荷を背負ってきた、おそらく碇シンジ──碇司令だけだ。
「せやけど、分からへん事が分かってるさかい──私は、するべき事をするんや」
そう言って、サクラはアイの電子カルテをもう一度、丹念にチェックし始める。
鈴原サクラは医師なのだから。