大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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六十一話 イサクの燔祭

 剣崎保安諜報部長のお世辞抜きに丁重な取調べから解放されて、六分儀アイはこの後、どうしよう?と考えていた。まだ午前中である。次の予定は午後なのだ。谷口イズミとまた話したいとも思ったが、イズミの取調べは自分の直後に始まったばかりで、まだまだ時間がかかるだろう。むろん、立ち会いなど許されない。

 

 しかし、少女はすぐにネルフ本部構内の目的地へと足を向ける。先に出来ることを済ませてしまおう。何せボクには時間が少ないんだから──。

 

 診療室。そこはネルフの医官、一般的な軍隊で言うところの軍医である鈴原サクラの城だ。

 

 コンコンとつい、アナログ式にドアをノックすると、はーい!という関西弁イントネーションの柔らかな女性の返事が返ってくる。

 

 室内AIに開扉が命じられ、自動ドアが圧搾空気の音とともに開くと、室内のサクラがやや意表を突かれたのか、訪問者に目を丸くした。

 

「え? アイちゃん。診療は午後の予定よ。時間を間違えてもうた?」

「ううん。……ちょっと事情があって、早くネルフに来ちゃったから。忙しいなら、出直しますけど」

 

 第壱中学の制服姿のままのアイが、上目遣いにそう尋ねると、サクラは微笑んで、首を左右に振った。

 

「今丁度アイちゃんの診察の準備しとったところやの。だからええよ。入って」

「ありがとうございます」

「そこ座ってな。……ちょっとだけ待っててな」

 

 患者用の椅子をアイに勧めて、サクラは診療卓に向き直る。開いたままだったアイの電子カルテをもう一度最初のページに戻し、乱雑に画面上に広がっていた医学系や生物学系のジャーナルのオンライン閲覧ページを閉じる。

 

 アイはその乱雑だった画面とは対照的に清潔に整えられた室内をそっと見回した。

 

「で、身体の調子はどうなん? 発熱があったとは惣流さんからも聞いとるけど」

 

 準備を終えたサクラは感情を押さえ込んで努めて平静に、アイに問診を始める。

 

「今は平気です。でもアスカ……さんの言うとおり、金曜の夜から少し、熱を出してしまって」

「無理して敬語は使わんでええよ。アイちゃんが喋り易いように。気楽でええから」

 

 それは、アイのオリジナルのシンジと比べれば、サクラの方が本当は年下と言えるかも知れないから──などという理由ではなくて、特に相手が若年の場合は、言葉から患者との距離を縮める方が、診療を進めやすいからである。

 

 アイはサクラの気遣いに感謝するようにこくりと頷いた。サクラは少女に断りを入れて、スマートフォンでアスカにメッセージを送る。──アイちゃんが予定より早く来たので、これから診療を始めます。今の体調は悪くないようです、と。

 

「こういう発熱は前からも……たびたびあったん?」

「そう、だね。黙っててごめんなさい」

 

 アイにしてみれば、わざわざサクラに報告する煩わさ以上に、自分が普通ではないという自覚をするのがイヤで、黙っていたのだろう。サクラにはそういう患者の気持ちはよく分かる。いや、ようやく近頃、分かるようになってきた。

 

「でも本当に時々だったんだ。多少平熱より高いかなという──微熱だけで、そんなにしんどくもなかったし、一晩寝たら大抵は治まっていた。だからアスカ……さんは気付かなかったと思う。ただ、最近は間隔が少し短くなってるような気はするし、先週末ほど辛くなったのは初めて」

「そう……」

「やっぱり綾波と同じ症状、なのかな……」

 

 アイは少し不安そうな声を出した。頭では自分の命について覚悟を決めている積もりだったが、心はそう簡単に不安や恐怖から自由ではいられない。まだ中学生なのだから、当然だ。

 

「……ちゃんと検査してみんと、この場ではなんとも。ただ、心配し過ぎるのも良くないよ」

「心配しなくなる為には、どうしたらいいのかな」

「それは、よく自分の身体の仕組みを知る事やな」

 

 むかし、他人の痛みを知る為に、生涯を掛けて医術を学ぼうとしている女医がいた。サクラはその精神的な弟子を自ら以て任じている。

 

 アイと雑談を交わしながら、サクラはテキパキと検査用の採血を独りで済ませた。看護士の助力があれば大いに心強いところだが、アイの診察に関しては極力、独力で行いたいという事情がある。採血を済ませた検体はトレイ搬送システムで検査室に自動搬送され、マギ・セブンの高速分析に掛けられることになっている。

 

「自分の身体を知ること……」

「何でも知らんことは怖いもんやから。だからこの際、質問があったら何でも遠慮のう、聞いて」

「ありがとう。ボクも暫く前から、自分の身体のこと、少し調べてたんだ」

 

 難病の患者には良くあることで、そういう話を聞く度に、人間の誰しもが持つ、生きたいという渇望の強さを改めて感じる。医者としては診断の説明について、話が通じやすくなる反面、変な情報に引っかかって患者が頑なになることもある点に注意を要するが。

 

「お医者の言う事にもちゃんと耳を傾けてくれるんなら、自分で調べるのも悪うはないね」

「うん、そうだね」

 

 アイはちょっと気恥ずかしげに俯いて、それから少し黙り、また口を開く。

 

「それで、自分で調べたのはクローンの寿命の事。細胞の分裂回数の問題だってそう書いてあったんだけど……」

「そう。ヘイフリックの限界……やね」

「あ、エヴァの生体パーツの自己修復力の説明でも、出て来る言葉だね」

 

 アイがパイロット教育で得た知識で応じる。司令であるシンジの方針もあって、新生ネルフでは、命を賭ける当人であるパイロットへの情報開示と教育が積極的に進められていた。それは「手駒」には極力、情報を知らせまいとしていた碇ゲンドウ及び彼の率いた旧ネルフの方針と対照を示す。

 

「……エヴァは実際、人造人間やからね。人間と殆ど同じなんや。ヘイフリックの限界は、人間の体細胞の細胞分裂の限界のこと。全ての人間は加齢によって、染色体の末端にあるテロメアという構造が徐々に短くなっていく、それでいつかは細胞が分裂出来んようになるんや」

 

 テロメアの短縮は、DNAの複製が完全には為されないというラギング鎖の末端複製問題に起因する。

 

 やや専門的になるが、DNAの複製時に二重螺旋がほどけて二つの鎖になる時に、一方の鎖をリーディング鎖(先行鎖)、もう一方をラギング鎖(遅延鎖)と呼ぶ。複製の方法が両者は異なり、返し縫いとも比喩されるラギング鎖の複製はメカニズム上、その末端──すなわちテロメアが避けようもなく短縮され続けていく仕組みだ。

 

 それがヘイフリックの限界。細胞の──そして生命の──寿命の原因だ。人間の場合、概ね五十回がヘイフリックの限界とされている。

 

 その事をサクラは、比喩を交えつつ丁寧にアイに説明した。アイには全てを知る権利がある。

 

「クローンの場合、そのテロメアの長さが最初から普通の人より短いんだね」

 

 アイが宿命を受け入れるように静かに言うと、サクラは頷いた。世界初の哺乳類の体細胞クローンであるクローン羊ドリーから、それは既に報告されていた事実だ。人間においてもそうであるのは、綾波レイによって実証された。

 

 体細胞分裂ではラギング鎖の複製法を理由として必然的にテロメアの短縮は避けられない。一方、減数分裂により増殖する生殖細胞ではテロメアの短縮は見られない。男女の生殖細胞の結合による通常の生殖ではない発生をした体細胞クローン体のテロメアが初めから短い理由は恐らくはその点にあるのだろう、とサクラは考えている。

 

「つまりはボクたちは、身体は若くても、遺伝子的にはもうおじいちゃん……いや、ボクは女の子になったから、おばあちゃんなんだね」

「……ごめんな」

 

 人間のちっぽけな願いなど、造化の神の定めた生命の仕組みの深遠さには届かない。けれど、碇さん──碇司令は、それに蟷螂の斧で立ち向かおうとでもするように、多忙な司令の仕事の合間を縫って、研究論文を渉猟していると聞いていた。

 

 それは決して、己のクローンだからという自己愛の変形ではなく、もっと気高いものであるのに違いなかった。

 

「ヒトが──みんな死ななくちゃいけないのは、誰にとっても同じだよ、サクラさん。だからあまり重く考えないで」

 

 アイはむしろ大人であり主治医であるサクラの方を慰めるように言った。重く受け止めない筈がない。アイ自身だって、深刻かつ不安に感じているに違いない。しかし、そのネガティブな感情をあえて吹き飛ばすように、決意を込めて更に続ける。

 

「でもその限られた時間の間に、何を成せるかは人によって違う。時間の長さは関係ない。ボクはそう思ってるんだ」

 

 サクラは覚悟の言葉とともに横顔を向けたアイを見て、小さく呟いた。

 

「──もうすっかり、大人の顔やな」

 

 テロメアの短さと合わせるように、少女は駆け足で、大人の階段を登っていく。

 

 

 アスカとシンジが屋上から司令室に戻るなり、アスカのスマートフォンのバイブレーションが通知を知らせてきた。

 

「……もうアイがこちらに来ていて、これから診察?」

 

 アスカはサクラからのメッセージを確認し、すぐに顔を上げて、シンジを見た。

 

 午後の診察予定からの繰り上げに心配にはなったが、サクラによると、アイが早く来てくれたからとのことで、少なくとも、少女の体調が急に悪化したといったことではないらしい。学校はどうしたのか気になるが、ひとまずは胸をなで下ろす。

 

「どうかしたの? アスカ」

 

 シンジがきょとんとした顔でアスカを見ている。──言い出しにくい事ではあるが、ここらが潮時だ。

 

 アスカはしばしの逡巡の末、先週末のアイの様子と、アイがこれからサクラの診察を受ける事をシンジに告げた。

 

 アイの発熱と倦怠感。それこそはシンジと自分が恐れていたクローン特有の健康上の懸念ではないのか。

 

 その恐れを曇り顔のアスカはそのままに語った。

 

「アイの体調不良?──発熱があったっていうの……」

「うん……実は。黙っててごめん」

 

 シンジは片方の眉を上げて、アスカの言葉を確認する。

 

「……それっていつからなの?」

「金曜の夜かららしい。あたしが土曜の夜に帰宅したらアイは熱を出して、部屋のベットで横になっていたわ」

「み、三日も経ってるじゃないか!」

「様子を見ていたのよ。只の風邪かも知れないし。実際、日曜日には熱も下がって、食欲も出ていた」

「僕は前に、アイの体調に変化があったらすぐに知らせてって言ったよね……さっき僕が週末の様子を訊いた時だってアスカは何も……」

 

 アイに異変があったらすぐ連絡して──それはクリスマスディナーの招待状をシンジに渡しに行った時に、アスカが確かに言われた言葉だった。

 

 シンジはそう指摘するなり、押し黙った。待っていても、次の言葉は出て来ない。

 

 それでアスカには分かった。シンジは腹を立てているのだ。

 

「怒ってるのね、あたしがシンちゃんの言い付け通りにはしなかったから。あたしが本当の事を言わなかったから」

「そんなんじゃない」

 

 シンジのそばに近寄り、アスカはその背中をそっと抱こうとするが、シンジはその気配を察して、距離を取った。強い拒絶の態度に、アスカはキリリと眉を吊り上げた。

 

「……あんたって、いっつもそうよね」

「え?」

「自分の中で頑なに物事や人に対する優先順位みたいなのがあって、それを他人がちゃんと守らないと、腹を立てる。それじゃ参号機事件の時とまるで同じじゃない……」

 

 アスカは大きな溜め息を付いた。やっぱりシンジはなりは大きくなっても、どこか子供だ。

 

「でも、だって僕は……」

「確かに、あんたはアイを一番優先にしろって言っていた。すぐ連絡しろってのはそういう事でしょ。あたしはその言葉を忘れてないよ。シンジの言ったことはずっと忘れない。でもそれはあんたの考えであって、あたしの考えとは違うの。あくまで、あたしたちは別の人間だから、あんたの考えは尊重するし、注意も払うけど、全部をあんたの思い通りにはしないの。だって──」

 

 アスカは言葉を切って、蒼い瞳でシンジのことを見つめる。十三の時から一つ屋根の下に暮らして、アスカにとってはもっとも親しい他人の姿がそこにはある。親しいけれど家族ではなくあくまでも他人で、その事がなおのこと、口惜しい相手だ。

 

「あたしにとっての優先順位の一番はあんたなんだから。アイの生き死にが、今日明日ということなら、あたしもすぐにシンジに連絡を入れたわよ、当たり前でしょ。でも、熱はその晩で下がったし、そういう状況じゃなかった。……あたしは繊細でメンタルの細いあんたをギリギリまで傷付けたくなかった。激務続きなんだから、週末ぐらいは心を休めて欲しいと思った。そうこうしてるうちに本当の事を告げるタイミングを失って、結果的にシンジを欺いた。それは済まなかったとは思うわよ。でもそれが、あたしがその心を守りたかった当のあんたから、そんなにまで非難されなくちゃいけないことなの? シンちゃんがそんなにまで、あたしとの接触を避ける程に許せない事なの?」

 

 シンジは俯いた。反論は出来ない。確かにアスカの配慮に憤り、優しい抱擁を回避する理由など、子供っぽい意地以外にはなかったからだ。

 

「あたしはあんたにとって言わば絶対的他者なのよ。サードインパクトであたしだけが、他の六十億人の人たちのようにLCLの赤い海に溶け込まなかったのはそういう意味なんだ」

 

 単にエヴァンゲリオンの中にいたから、その強固なATフィールドに守られていた。そういう解釈もあるだろう。でも、アスカは違うと思っている。あの赤い海の前で、人類が一度は滅び、この地球でアスカとシンジが二人ぼっちだった事には意味がある。それはシンジが望み、アスカもそう望んだから。アスカはそう思っているのだ。

 

「──だから、あたしはあんたの気に食わない事だってする事はある。そうでなきゃ、あんたとあたしがお互いと完全に一つになることをあくまで拒んで、ATフィールドを相手との境目に頑なに打ち立てて、別々の心と身体を維持した意味がない。──あなたとだけは絶対に死んでもイヤ……発動するサードインパクトの中で、あたしが確かにそう思ったのは、あんたがあんたであるように、あたしがあたしでなくちゃ、あたしの気持ちにもあんたの気持ちにも、意味がなくなってしまうから」

 

 そう、かつてシンジの心を抉ったその言葉はアスカの只の拒絶ではなく、むしろその逆で。シンジと結ばれる事を心のどこかで強く願っていたからこそ、決して融合は出来ないと思ったのだった。二人が結ばれる為には、どこまでも二人が他者でなければならない。だから──

 

「あたしだけは唯一思い通りにならないリアルとして、あんたの傍にいてあげる」

 

 その言葉は何故かすらすらと口から出て来た。一度、世界のどこかで口ずさんだ事のあるセリフ、いや、そんな筈はないのだが、奇妙なデジャヴとして、そんな実感と記憶がある。

 

 でも、アスカはシンジの傍にいられるのが、いつまでなのかは分からない。そこには敢えて触れようとはしなかった。でも今の二人が、あれから二十年近く経っても、まだ変わらずに傍にいるのだけは間違いない事実だ。

 

「あたしとあんたは他人がどう思おうと、特別な関係だ。肉体関係があって、その関係はあたしたち二人の間だけに閉じていて──毎週のように性器と性器で繋がっている」

 

 アスカは二人の関係の特別性、唯一性を強調しようと、あえて事実を修飾なく、受け取り方によっては蓮っ葉な表現を用いて言ってから、その結果、自分でも期せずして、目許を紅く染めていた。

 

 だってそれは、言葉だけであっても、己の女性としての空隙をシンジのモノによって押し拡げられ、みっちりと埋められ、避妊具の薄皮越しではあるが、お互いの一番大事な所で熱く触れ合う事になる──そんな、艶めかしい情景をアスカに思い浮かべさせずにはいられなかったから。

 

 シンジも耳の先を赤くした。彼の脳裏にも、つい先日のアスカとの夜がよぎった。

 

「……その、僕らの関係って、アスカの言うとおり……かもだけど」

「うん。何処までもそれが事実よね。トクベツでいやらしい関係。あたしとシンジが出逢ったあの日には想像もつかない、いや、きっとそうなると二人がそれぞれに想像していた関係だ。でも、そんな所でだけ繋がっても──それも男と女にはとても大事な絆だけど──心が繋がれないのなら虚しいよ。寂しくって仕方がない。だから、あたしはあんたと繋がりながら、いつもほっぺをスリスリするの」

 

 それはアスカたちが高校生の時から続けている、シンジと仲良し(セックス)をする時の親愛の情の示し方だった。愛人でもなく、恋人でもなく、それは性別の壁を超えた親友としての感情の交流で。二人はそれを性愛と平行した親密さとしてたいせつに保存してきた。

 

 例えばアスカが騎乗位の時、上からシンジに覆い被さりながら、結合した下半身の律動のリズムと合わせるように、顔を近付けて舌を絡め、唾液を交換し、そしてその合間に頬を擦り合わせる。蕩けるような性感が、二人の理性を犯していくが、お互いの産毛が触れ合うような、チーク同士の柔らかな感触が、二人の間に性欲だけではない、相手へのいたわりと優しさを生んでいた。だからアスカは何度も何度もシンジとこすり合わせる。頬と下腹部の器官とを。

 

 あるいは、シンジのメンタル及びフィジカルの調子が良く、正常位でアスカを抱ける日は、まずは正面から見つめ合って接吻を交わし、唇と唇の間に唾液の橋を作る。それからアスカはそっと横を向き、恥じらうようにシンジに頬を差し出す。シンジは自らの頬をそこに近付け、アスカの中に挿入するのと同時に頬を触れ合わせる。熱く長い吐息とともにアスカの細い身体が震えるが、それを抱き締める。チークとチークの接触が、下半身の肉感的に過ぎる官能を中和してくれる。

 

 ふたりの間にはそんな──いわば下半身と上半身の──二つの繋がりがあった。

 

 アスカはそれを再現するように、そして、あの赤い海の浜辺での世界の終わりに戻ったかのように、そっとシンジの頬に手を伸ばす。──シンジも今度はそれを避けようとはしなかった。頬と頬の繋がりにも似た、頬と手のひらの感触が、シンジに束の間、目を瞑らせる。アスカにとって、シンジの頬は子供の頃と同じように柔らかい。

 

「だから、信じてよシンジ──あんな並行世界だか、別の世界だかでのあたしたちの別離を聞かされたら、信じられなくなる気持ちも分かるけど」

 

 アスカはいくらか自嘲気味に言った。自分ではない別の《周回》のもう一人の自分。アイからの伝聞による断片的な情報でしか知らないし、自分ではない自分の行動に、むろん責任など持てないが、シンジが別れを選んだ原因は──あるいは誤解であるにせよ──その世界のアスカにも、きっとあるに違いなかった。

 

 ──だって、あたしは何時だって意地っ張りだから。

 

「そんなこと……」

 

 シンジは首を左右に振った。別の世界のアスカの運命が気にならないと言ったら嘘になる。でも、シンジにとってはやっぱりアスカは目の前にいるアスカだけだ。

 

「でもあたしは、それでも、あんたに《この世界の私》は信頼して欲しいのよ。その時々に、何を優先順位にするかというあたしの大人としての判断を。あんたがあたしに、いずれは副司令まで任せるというのなら尚更ね。それに、この世界のあたしたちには今言ったように、特別な繋がりがあるんだから。中学時代からシてる事とはいえ、とびっきりアダルティな関係でしょ、あんたとあたしは」

 

 そう。この世界のシンジとアスカには、別の世界のシンジとアスカにはない絆がある。それがたとえ身体だけのか細いものではあっても、その違いは大きい。シンジが信頼出来る相手がこの世に一人だけいるとすれば、それはアスカでなければならなかった。

 

 そして、身体の関係が大人のものなら、きっと、心の繋がりだって、いつか、大人のものにアップデートしていかなくちゃいけない。

 

「……ごめん。僕が……子供だった。クリスマスの時とまるっきり同じだね、これじゃ。いつも自分の中で勝手に決めた順番を、人に押しつけようとしてしまう」

「多分それはあんたのあたしへの甘えなのよ。身体の繋がりがある、特別な自分の女だから、母親のように我が儘を聞いてもらえると思っている。だから何度でも、そういう風に繰り返してしまう」

「そうなんだろうね。……僕は本当に進めていない」

 

 シンジはしょげかえって、視線を床に落とす。

 

「勘違いしないでよ。──だから、"僕はアスカに相応しくない"なんて──また身を引こうとしたら本気で怒るから。あたしはシンジが甘えてくれるのは嬉しいよ。あんたのお母さんにはなれないけど、かまってあげたい、可愛がってあげようと思う。だけど、この世界は荒れ狂う海と同じだ。周りにはあたしたちを邪魔する敵ばかり。二人でずっと甘え合っているだけだったら、そこから成長しなかったら、きっと二人で、深い海の底へと溺れてしまう」

「アスカ……」

 

 ミサトの服を着た金髪のかつての少女は、そっと加持リョウジと同じ制服を着たシンジの背中に手を回す。

 

「少しずつでもいい、二人して……一緒に……大人にならなくちゃ。ね?」

 

 ぽんぽんとなだめるようにアスカはシンジの背中を軽く叩いた。それはまるで幼子を眠らせようとする母親のように。

 

 ちゃんと大人になるってのがあたしとの約束でしょ。あの日からちょうど二十年後を期限とする、その日までに、シンジはあたしと並び立てる男にならなくてはならない。そう、約束したはずだ。

 

 ──シンジはあの日の約束をやっぱり忘れちゃってるの?

 

 あの別れ話の日、もしかしたらその日までは恋人だったかも知れないアスカたちの関係が、肉体関係だけを絆とする愛人関係に堕落した。初めてシンジと「するためだけに」ラブホテルに行った日。姉のようにシンジの手を引いて、駅前のホテルに向かいながら、アスカは圧倒的な絶望と、僅かな欠片ほどの希望だけを胸に抱いていた。

 

 ──こんな関係になる積もりじゃなかった。

 

 ──でもいつかはなりたかった関係に戻れるかも知れない。

 

 そんな絶望と希望の中で、二人は身体を重ねた。肉体的な快楽が強いほど、それは辛くて切なくて哀しい夜だった。

 

 でも二人の間でその日の話はしなくなって久しい。約束についてはあれから一回も口にしていない筈だ。

 

 たぶん、アスカもシンジもそこに向き合うのが怖いのだろう。

 

 何故なら、それに向き合うのは、その先の二人の行く末に向き合う事と同じだから。もしかしたら、二人がやっぱり一緒にはいられない、離れ離れになる未来を見いだしてしまうかも知れないのだから。

 

 だから怖い。だから二人はいつまでも──その日が近付きつつあることにさえ、目を背けてしまう。

 

 でも、今だけは、今しばらくは──そうやって、決断を下す前の二人の時間を愛おしみたいのだ。

 

「あたしって、結構先送り気質なのかもね」

「え?」

 

 アイの事を知らせるのを数日、先送りにしたことだって、自分でシンジに突き付けた「期限」のことだって。アイのことは、シンジのメンタルを慮ってなのは本当だが、しかしそれをシンジに知らせることが生み出す波紋が怖かったというのもあるのかも知れない。「期限」だってそうだ。十年近く先に期限を設定して、いくらシンジ自身がそう言ったからといっても、曖昧な身体先行のモラトリアムな関係に逃げ込んだのは、やっぱりその場でシンジと自分との関係に結論を出すのが余りにも怖かったからに違いない。

 

「あんたと同じで、あたしも臆病で弱虫だってことよ」

「うん──」

 

 シンジがよく分からない顔で曖昧に相槌を打ったから、アスカも曖昧な顔をして、話を打ち切った。

 

「それより、アイの事を知ってどうするのか。そちらの方が大事でしょ」

「そうだね、あの──論文の事なんだけど」

 

 シンジの顔がようやく、具体的な課題を見つけ出して、ネルフの司令という役職に相応しい前向きさを取り戻す。

 

「論文? ああ、あたしも週末に読ませて貰う予定だったやつ!」

 

 渚カヲルの出現やら、それを受けての休日出勤もあり、バタバタしているうちに、立ち消えてしまっていたが、シンジはアイを救えるかも知れない研究論文についてアスカに話をしていたのだった。

 

「うん、これなんだ……もしかしたらアイの健康問題はこれで解決に向かうかも知れない──楽観できるような状況でもないけれど」

 

 シンジは執務机に近寄って、引き出しから論文のプリントアウトを取り出し、アスカに渡した。受け取ったアスカは、会議用テーブルの椅子に腰掛け、猛烈な勢いで英文で書かれたそれを読み始める。

 

 二十分後。アスカは顔を上げた。

 

「これは、酵素テロメラーゼによってテロメアの長さを回復する手法よね」

 

 発想としては1970年代にロシアの生物学者によって示唆され……アスカたちが生まれる前からあるものだ。

 

「そう、基本的な手法のアウトラインは古典的なものだけど」

「この方法の問題点は一つ」

「うん、勿論アスカなら知ってるよね」

「そう。癌化の原因になりかねないこと、よね──」

 

 テロメアを修復し、細胞のアポトーシスを阻害する酵素テロメラーゼの効果は、容易に細胞分裂の暴走──すなわち癌の原因となってしまう。細胞の老化を防ごうとすれば、細胞は不死化して、癌という形で宿主の身体を食い尽くしてしまう。実際、癌細胞にはテロメラーゼ活性があり、むしろテロメラーゼの働きを阻害する事で、癌に対抗する治療法が検討されている程だった。

 

「老化か、癌か──究極の選択ね」

 

 アスカはアイの為に渋面を作って、小さく唸る。

 

「だけど、アスカも読んだでしょ? この論文の著者は、テロメアが短縮しない細胞分裂の方法があることを強調している」

 

 それは無限の細胞分裂能を持つ存在──すなわち、ヘイフリックの限界の突破を意味している。アスカはそれを指折り数えていく。

 

「そうね。まず一つは、減数分裂を行う生殖細胞。でもこれは体細胞には適用出来ない」

「うん、そうだね──」

「そして、単細胞真核生物」

「ゾウリムシみたいな原生動物が当たるね……」

「最後は癌細胞。やっぱりどうしてもそこに戻るのよね」

 

 いずれもテロメラーゼ活性の高い細胞だ。でも、どれもアイの問題を解決してくれそうにはない。特に癌細胞は論外だ。

 

 行き詰まり感を感じて、アスカが大きな溜め息を付くと、彼女の傍に立ってシンジは言った。

 

「この論文の著者は僕らの求めてる答えを直接示してくれたわけじゃない。人間のクローンの健康問題なんか誰も研究も公表も出来ないし、これだって先天性早老症の人の治療法に関する論文だったんだから──でも、多分それはテロメアの短縮の問題という意味ではアイの直面する問題に非常に似通っていて──少なくとも、僕には大きなヒントを呉れた。思い付いてみれば、なんだそんな事かという話だけど、僕にはやっぱり試してみる価値があるように思えてくるんだ」

「ヒントって……」

 

 アスカは首を捻る。まだ彼女にはピンと来ていなかった。

 

「生殖系列の細胞には、生殖細胞だけがあるわけじゃない。この論文の著者はなぜか必ず生殖系列の細胞という言い方をしている。これだけ言えばアスカもピンと来るんじゃないかな」

「! 胚性幹細胞! ……ES細胞か!」

 

 目を大きく見開いたアスカに向かって、シンジはおもむろに頷いた。

 

「流石アスカだよね。僕は何日も掛かってやっと分かったのに、今日論文を読んだだけで謎を解いてしまった。……でもそう考えれば、著者が奥歯に挟まったような婉曲的な表現を使っている理由も理解できると思うんだ」

 

 それは──あたしの場合はシンジにちゃんとヒントを貰えたからだよとアスカは首を振りながら、嘆息する。この論文には結論をあえて明示しない著者の隠された意図があった。それを見抜いたのはやはりシンジの功績だ。シンジのひたむきな情熱と真剣さが真相を看破したのだから。

 

「……ES細胞にはiPS細胞と違って、倫理的な問題があるからなのね。だからこの著者は直接言及したくなかった」

 

 謎は解けてみれば簡単だ。

 

 体細胞から作られるiPS細胞とは異なり、ES細胞の作製には受精卵あるいは受精卵より発生が進んだ初期胚が必要になる。生命の萌芽である受精卵を使用するため、多くの国でその研究は倫理的に禁止されている。論文の著者の国では全面禁止になっていると聞いていた。

 

「うん、たぶんね。僕はそこに可能性を見いだしたいんだ。実際、コロンブスの卵みたいな発想で、父さんが綾波の時にそうしなかったのが不思議なぐらいだ」

「確かにね──あんた、あたしと同棲してた時も同じような事を言っていたわね、碇ゲンドウがネルフのクローン技術を不完全なままにしていた理由がよく分からないって」

「まあ、きっと僕は運が良かったんだと思う」

 

 満更、シンジの謙遜という訳でもなく、それが技術の進歩というものなのだろう。千丈の堤も蟻穴より崩るる──ブレイクスルーとなる発想に至るまでの道は長く、しかし時が至れば、あっさりと崩れ去るものらしい。

 

 いずれにせよ、ES細胞のテロメラーゼ活性と多能性を用いて、アイの体細胞のテロメアを快復する。それがシンジなりの「ロレンツォのオイル」──親自らが子を救うための医学研究だ。

 

 アスカはシンジに微笑む。他者の行動が自分の期待通りにならなくて殻に閉じこもろうとした子供のシンジではなく、アスカにとって心底頼りになる、早熟な天才児であった彼女でも成し遂げられないことをやってのける、知的で明敏な青年が帰ってきてくれた。

 

「運だけではないわよ。やっぱりシンジは偉いよ──早老症の論文にまできちんとアンテナを張って、遂に自力でここまでたどり着いた。ずっと週末も論文を分析してたの?」

「うん。でも……そのぐらいの事はアイに対する罪滅ぼしにもならないから。それに、この方法自体にも、別の新たな罪がある。それは、誰か──僕やアスカと同じく一人の人間になれる筈だった受精卵の可能性を奪い、どこまでも、償いという僕のエゴの為に使うんだから」

 

 懸念されるのはヒトの受精卵の入手だ。不妊治療で胎内に戻されず、廃棄されることが確定した余剰胚を用いるしか方法はない。それは日本において合法的な唯一の手段だが、それでもシンジがアイに強いて来た事と併せ考えれば、更なる非道との謗りは免れないだろう。

 

 だけどせめて、アスカはそれを自分が非難することだけはすまいと思っている。

 

「アイを生み出したとあんたが最初に仄めかした時に、あたしは言ったわ」

「え?」

「一緒に二人で地獄に堕ちようって。覚えてない?」

 

 アスカの語る記憶に、シンジは寂しそうに目を伏せた。

 

「うん、よく覚えてる。アスカがそう言ってくれたこと。でも──僕はアスカを地獄になんか堕としたくはない。堕ちるなら、僕一人でいいんだから。アスカには幸せになって欲しいんだ」

 

 その言葉に、アスカは首を左右に振った。

 

「あたしはそうは思わない。あたしとシンジの道がバラバラになるぐらいなら──別れて、それぞれが別々に生きてそれで幸せになるくらいなら、あたしはシンジと一緒に不幸になりたい。たとえ世界中から後ろ指を指されても、シンジの罪を共に背負って、二人で不幸になりたい」

 

 その願いはきっと、二十年後の約束の日までに二人の関係の結論を出すという誓いとは真っ向から矛盾していて、アスカもそうであるのをちゃんと理解していたけれど。でも、素直な感情の奔流は留められなかった。

 

「どんなに辛くて、憎んで、悲しくても、やっぱりシンジとあたしは一緒にいるべきなんだ。その時、シンジと一緒に感じる、マイナスの感情だって、あたしたち二人だけのものなんだから。誰にもそこに割り込ませないし、立ち入らせない」

「……アスカ」

 

 シンジがアイを──自分のクローンを、犠牲にしようと決めた時の気持ちはどんなものだったろうか。それが晴れやかなものであった筈はない。それは、イサクの燔祭として旧約聖書で知られるアブラハムの気持ちに近似していただろうとアスカは思うのだ。

 

 我が子イサクを神の生贄に捧げることを神に命じられたアブラハム。彼のように、シンジは己と等しい子、アイを人類の為の──アスカの為の──生贄として捧げた。しかし、神はアブラハムのようには、シンジの行為を(よみ)し給わなかった。地の捧げ物を顧みられなかったカインのように、罪のみを背負って、神の御使いたる天使の名を持つものたちと戦い続ける宿命をシンジは背負わされている。

 

 アイを生み出した事を初めてアスカに告げに来た日。秋の驟雨のあの夜、シンジはまるで子供のように泣いていた。あまり寄り付かなかった愛人の自宅にまで訪ねてきてアスカにすがりつき、必死に救いを求めていた。アスカはその時のシンジの哀しみと後悔とを忘れたくない。シンジとは別の人間だから──所詮は他人の哀しみなのだと突き放すことなど、到底出来やしない。シンジの哀しみと後悔を、自分の哀しみと後悔にしたいと思っていて、実際にそれはアスカの哀しみと後悔にもなっている。

 

 あの時、シンジは大の男であるのにも構わず、身も世もなく泣き崩れ、その弱い心をアスカにだけはそのままにさらけ出していた。そのシンジのどうしようもない弱さは決して嫌悪には繋がらない。

 

 あの泣き顔のシンジをアスカは、今でも愛おしく思っている。女の心の深い部分が思い出す度に疼く。

 

 それはアスカの為に罪を犯したシンジの顔なのだから。

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