「鈴原一尉、入ります」
司令室に入る時、鈴原サクラは背筋をピンと伸ばしたまま、敬礼した。普段は階級関係に緩い彼女が、珍しく軍人らしく威儀を正しているのには理由がある。
「ごめん、鈴原一尉。急に呼び出して」
青年の謝罪に、サクラは、いいえ今は患者もいませんでしたからと穏やかに首を左右に振った。空き時間には医学書と医学や生物学の最新論文を精読している。最近は専らES細胞の研究論文を渉猟していた。医師は日々勉強だ。だから別に暇な訳ではないが、時間の自由は利く。サクラは部屋の入り口の近くで出迎えるように立っていたシンジの前で、一歩司令室に入って直立したまま、自分と較べるとかなり背の高い部屋の主の顔を見上げる。
十分ほど前の呼び出しの内線電話では用件が今一よく分からなかった。
『アイちゃんのことですか?』
『まあ……それに近いけど、仕事というよりは……』
『ん。プライベートの話ですか』
『たぶんそうなるかな……』
電話での自信なさそうな碇シンジの曖昧な応答に、首を捻りながらも、サクラは白衣を脱いで、その下の女子医官用のエプロンドレス風制服の着こなしを机の上に置いてある鏡で確認した。プライベートという言葉が、彼女を刺激していた。
「男の人がこんなんどこまで見てるか分からへんけど、社会人としての身嗜みやからな」
言い訳のように自分に向かって言った後、髪や化粧をしばらく整えてから、診察室を出て、真っ直ぐ司令室に向かったのだった。シンジからの私的な頼み事、その事実に緊張感を隠せない。サクラが殊更に軍人としての公的な立場に基づく謹厳な態度を取った理由がそれだ。浮かれそうな自分の心に敢えて
回想から現実に戻って、サクラの方から思い切って切り出してみる。
「それであの、私に何か頼み事があるとか」
「うん、なんと言っていいのか、その……」
シンジは少し収まりの悪い髪に手をやりながら、電話での様子と同じ様に、なお言い出しにくそうだ。
(ちょっと髪が伸びとるなあ、碇さん。最近は使徒騒動で忙しうて、散髪に行く時間もないんやろな)
日頃は身綺麗にしているシンジの多忙を想像し、思わず、かかとを上げて彼の頭に手を伸ばしたくなるが、サクラはぐっと抑えて、シンジの回答を待つ。やがて思い切ったように彼が口を開いた。
「鈴原一尉……いや、サクラさんに、しばらくで良いんだけど、僕の家に来て貰えないかと思って」
「はあ!?」
照れたように頬を掻くシンジの思いかげない言葉に、サクラの顔が一瞬で上気し赤くなる。
「そ、そ、それは……! し、し、しばらくて……」
「うん、出来れば数ヶ月……一緒に住んで貰えないかなと」
予想もしていなかったが、これは間違いなく同棲の申し出ではないか。思わず声が上擦り、どもってしまう。キスも、その先の事も……何一つ色気のある事をしていないウチと碇さんの仲がそんなに進んでいるとは自分でも思わんかった……!
「きゅ、急に言われても、ウチにも心の準備が……」
「うん、簡単には決められないよね……でも、キミが必要なんだ」
それはサクラの胸をきゅんと締め付ける、ずっと聞きたかった台詞だ。元々世話焼きだった彼女だが、碇司令の周りにいる時は、進んでお茶を出したり、スケジュール管理の手伝いをしたり、秘書課の領分さえ犯しても、甲斐甲斐しく自己PRに励んできた。戦闘訓練でも副官よろしく、シンジのすぐ傍に立っていて、金髪の作戦部長の剣呑な視線に晒されたことも一度や二度ではない。
とそこまでしても、サクラの想いは一方通行で、他人の好意にはとりわけ鈍感なシンジに通じたと手応えを感じたことはこれまで一切無かった。それが遂に……。遂に、シンジにも想いが通じたというのだろうか? なんだか展開が唐突過ぎて、白昼夢でも見ているような気分だ。
「せやけど、展開があんまり突然で」
「ごめん。本当は順序を踏んで、お願いするべきだったって、僕にも分かってるんだ。でも頼むよ。アイの為には、どうしてもサクラさんが必要なんだ」
「ん? アイちゃん?」
サクラは自分の想像とのすれ違いを感じ、小首を傾げる。アイちゃんが何故ウチと碇さんの同棲話に出てくるの? しかしサクラの戸惑いをよそに真剣な顔でシンジは言葉を続けた。
「医者としてのサクラさんの負担が大きくならないように、僕とアスカが家事は分担してやるから、安心してゲストとして来て欲しいんだ」
「んんん? アスカ……?」
サクラの脳内に、二本の角を生やした金髪の赤鬼が金棒を持って、呵々大笑するイメージが浮かぶ。さらに事の成り行きへの謎が深まり、不吉な予感を感じつつも、サクラは質問を返した。
「な、なんで惣流さんが?」
「え……あ、大丈夫。心配しないで。アスカは一見、家事が苦手みたいなイメージあるかも知れないけど、結構几帳面だから。料理もスパゲッティとかすごく得意だよ」
シンジはサクラの疑問をアスカの家事能力への疑念と誤解して、そう請け合った。
んー。スパゲッティって料理が得意とかあんま関係あらへん? 誰でも作れるし。
とサクラは思うものの、口には出さない。
アスカの話題に切り替わった途端に、シンジの声が明るく弾み、彼女の家事能力を披瀝する言葉にも熱と力が籠もっていた。まるで自分のことを自慢するみたいに。いや、シンジは自慢などしないから、それ以上だろう。
かなわんなぁ。
サクラは大きな溜め息を付いた。
シンジの態度に、彼の気持ちが見え透き過ぎていて、自分のはしゃぎっぷりが急に恥ずかしくなった。
──そりゃそうやわな。何もないのに何か起こるわけあらへん。……何もしようとしなかったウチにはな。
おまけに何となく話の方向性が見えてきた感じだが、一応、サクラは説明を求めてみる。
「碇さん、もうちょい筋道よう話してくれませんか」
「あ、すみません……」
青年司令官は、呆れ顔の部下に対して恐縮したように丁寧語になった。平等を意識せずとも、ナチュラルに偉ぶる事がない、控え目で紳士的な態度は碇シンジの美点だろう。まだ三十代前半で国連直属の特務機関のトップに上り詰めた才幹に驕ることのない謙虚さ──そこに好感を持つ女性職員──つまりはシンジの隠れファンは実はネルフには結構多い。
「あははっ、思った通りの話の渋滞っぷり」
突然、部屋の奥からカラカラと上がる女の笑い声に、サクラはビクリとした。シンジと二人きりだと思っていたのに、司令室の中に設置された幹部会議用の大テーブルの向こうに、デニール数のそこそこ高い──つまりはあまり透けていない黒のストッキングに包んだ長い脚を組んで、その笑い声の主は座っている。
前任者の葛城ミサトから受け継いだと聞いている赤いジャケット、ワンピース型の黒のタイトミニが重ね着されたなだらかな丘陵の上に、川のように流れる長いサラサラの金髪。同性でも時々、不公平だと恨めしくなる、一幅の絵巻物の如き女性美がそこにはある。
そして、白皙の
「ごめんね、うちのシンジ、女性経験が乏しくって。上手に女を口説けないのよね」
「惣流さん……」
テーブルの奥にいたのは、作戦部長の惣流・アスカ・ラングレー三佐だった。
「女性経験が乏しい──」
サクラは思わず復唱してしまった。確かにそうなのだろう、ただ一つ──いや一人の例外を除いては。碇司令の方をそっと見返すと、そのアスカの言葉に恥ずかしそうに身を縮めている。
──でも、あんたら、男と女がスルことはちんまい頃から、隅から隅まで、それもギョウサンしてるんやろ? と呆れたような、のろけ話に当てられて馬鹿馬鹿しくなるような気持ちがこみ上げてくる。
再びアスカの方に振り返ると、案の定、「勿論、その乏しい女性経験は、全てこのあたしが独占しているのよ」と優越感を湛えたニヤケ顔が無言で補足している。
──シンジの女性経験は一生乏しくていい。女慣れしてないシンジが可愛いのだから。
「これ、ちいと悪趣味とちゃいます? 惣流三佐」
「ん? なんで」
アスカの顔には穏やかな笑みが張り付いたままだ。
「気配を消して、ずっと見とったんですよね。ウチの慌てふためく様を」
──碇さんからの「告白」と関係の「急進展」に有頂天になるウチの「勘違い」はさぞや惣流さんには見ものだった事だろう。
「別にフツーに座って見てただけよ。あんたの眼中にシンジしか入らなかっただけよね?」
アスカが座っていたのは奥まった場所で、部屋の入口からは死角になりそうな位置とはいえ、広い司令室に入ってからも、碇司令のことしか見ていなかったのは確かだ。
「あの……二人ともどうしたの」
女二人による話の展開が追えていないシンジが口を挟もうとするが、二人にはあっさり無視される。
「結構執念深いお人おすなぁ。いつぞやの意趣返しどすか?」
サクラにはアスカを事あるごとに挑発してきた記憶がある。半分は恋のライバルとしての対抗心、残り半分は見ていて歯痒く思う第三者としての叱咤のつもりだった。とはいえ、アスカにしてみれば、喧嘩を売られたという気持ちが芽生えるのも不思議ではない。実際、サクラは喧嘩を売っていたのだから。──惣流さん、ちゃんと女の闘いのステージに上がってください、ただれた関係にだらしなく逃げ込むのではなく、自分の気持ちに素直になってな──と。
なぜか京都弁風になったサクラの怪しい関西弁での批判に、アスカは鼻で笑った。
「あたしはうちのシンジに、女の口説き方をレクチャーして、不安だからそれを見届けていただけよ」
アスカは不安など微塵も感じていなかったような顔でけろりと言ってのける。そして、組んでいた長い足を戻し、席から立ち上がると、カツカツとヒールを響かせて、近づいてくる。サクラに最接近すると耳許に唇を寄せて、同性でも艶めかしい気分になるような大人の女の声で囁いた。
「正妻サン。シンジに口説かれて、少しは──濡れた?」
あまりにも直球でエロティックな挑発に、サクラはキッ、となって、しかし直ぐに口の端を吊り上げて冷たい笑みを浮かべると、アスカにだけ聞こえる、これまた艶めかしい囁きで反撃する。
「パンツがもう──ぐしょぐしょですわ」
実際、シンジの「口説き」に少し濡れてしまったかも知れない。だから誇張ではあるが、満更嘘でもない。
「サクラ──あんた、中々いい性格してるわよね」
「それを言うなら、惣流さんもですわ」
お互いに睨み付ける視線に、ほんのり柔らかさと敬意──認め合った者同士の──が籠もる。
「同じ屋根の下で住むのなら、つまらない女とはイヤなのよ。……だから良かったわ」
従順なだけの女より、互角の敵手として、遠慮なく反撃してくるような女の方が心地良い。アスカはかつて人形のようだと綾波レイに感じていた苛立ちと、エレベーターの中の口論で予期せぬ、しかし静かでしたたかな反論を食らって、彼女に対する見方を大きく改めた事を思い出した。綾波レイは決してアスカが最初に思い込んでいたような従順なだけのつまらないお人形ではなかった。
今となっては、綾波レイに対してアスカの感じていた苛立ちはシンジを間に挟んでのジェラシーや、世の中の殆どの嫁が姑に感じる本能的反感に似たようなものだったろうと理解できる。しかし、当時のアスカは自分の気持ちの理由を整理し、理解するにはまだ余りにも子供だった。
もし、アスカが今綾波レイともう一度出逢う事が出来たのなら、それなりの緊張感と敵愾心を保ちつつも、もっと建設的な関係が築けるのではないかという思いもある。
しかし、差し当たってはもはや実現しようのないifより鈴原サクラとの関係だ。
「ほなら、一緒に住もう言うのは冗談やなく……本気で?」
「あんた一人をからかうのに、ここまで手の込んだ事はしないわよ」
そうよね? とアスカは確認し、応援を求めるようにシンジに視線を向ける。
シンジは頷いた。
「僕から、アイとアスカが家に来るように誘ったんだ。そしたらアスカが──サクラさんも同居してもらうべきだって」
検査の結果、アイのテロメアの短縮は事実だった。持ってもせいぜい一年……というサクラからの感情を殺した宣告に、これあるを予期していたにも関わらず、立ち尽くしたシンジとアスカの涙は止まらなかった。シンジはアイの運命を予測できたのに彼女を生み出してしまった罪に、アスカはアイに努めて冷淡に接してきた事に、悔悟の情を抑えきれなかった。
しかしひとしきり涙を流した後には、三人で前を向いた。涙ではアイを救えない。誰一人救われない。治療に必要なES細胞作製に用いる余剰胚については、防衛医科大学校出身のサクラの伝手で、研究用として確保を試みることになった。マウスと豚を利用した治験を並行して進めること、準備期間も含めて4ヶ月という超特急で治験を終え、アイに安全性が確認されたその治療法を適用する事を冷静沈着かつ粛々と相談して決定した。実行は容易なことではない。使徒迎撃の準備とも重なる。綱渡りめいた時間との勝負になるだろう。
サクラが知っているのはそこまでだった。その後、シンジがアイたちを同居に誘ったというのは初耳だった。
「惣流さんから、私のことを? というか、そもそも何でアイちゃんたちと碇さんが同居せなあかんのです」
自分の事を巻き込んだ意外な発案者がアスカであることに驚くが、サクラにはもっと根本的な点についての当然の疑問が湧く。しかし、シンジはそっと目を伏せ、今更のように悟った事を悔やむように正しいとしか評しようのない答えを吐露する。
「……だって、僕は養父とはいえ、アイの父親……家族だから。時間が限られてるなら、一緒にいるべきだよ」
たとえそれが世に対して取り繕う為のかりそめの家族であっても、シンジがアイに与えてやれる家族はそれしかない。
だから、それはどうしようもなく正しい答えなのだ。シンジもアイの健康問題について、決して諦めた訳ではないが、自分たちの新しい医療上の試みについて根拠なく楽観している訳でもない。もしものことを見据えた措置としては妥当という他はない。最期は家族に囲まれて楽しく賑やかに暮らしたい──それは難病という悲劇の牢獄に囚われた世の子どもたちみなの願いだろう。サクラは己の医師としての未熟を自覚した。
「そして、現在の保護者のあたしもシンジと同じく、アイの家族のつもりなの。それに、アイの容態が急変したらと考えると、やっぱり大人が一人では心細い。こないだの週末の事もあって、あたしもそう思っていたから、シンジの提案は有り難かった」
アスカはそう言葉を継ぐ。同性のサクラから見ても美しい
「それで──私の出番という訳ですか」
「シンジとあたしが交代で、アイが学校から帰宅する時間帯にはテレワーク勤務に移行する。あの子が独りになる時間をなるべく作りたくないの。だからアイの世話は責任を持って二人でする。……けど、いくら医学論文を研究していたって、あたしたちは医者ではないから、ね」
医師免許を持たない医学博士もいる。医師は、アカデミズムの徒としての科学者である前に、まず実学に身を捧げた技術者であるという見方は一面の真理だろう。
シンジとアイとアスカ。その疑似家族に、主治医であるサクラを加えた四人の同居生活。シンジとアスカの提案の内容は理解できた。アイの心と身体の事を考えれば、それを望む二人の気持ちはよく分かった。
しかし、サクラはシンジに聞こえないように小声でアスカに確認する。
「良いんですか、ウチは完全にお邪魔虫になりますけど」
アスカは肩を竦めた。シンジに説明は済んだ、後は私が話すから、あんたは仕事に戻りなさいと言って、彼を奥の執務机に追いやると、サクラと二人、打ち合わせテーブルの椅子に陣取った。
「ええ。あんたは積極的にあたしとシンジの仲を邪魔するでしょうね。それも織り込み済みよ」
「へえ、ええんですか」
放胆なアスカの態度に、サクラは妙に感心したように言った。
「アイと一つ屋根の下で──アイの目の届く場所で、シンジとそういう事をする気は最初からない。だって、アイはシンジと──きっと同じ想いをあたしに抱いていて、だからあたしはアイをなるべく傷付けたくないもの。むしろ、あんたの存在は、あたしとシンジが同居する事への非難の防波堤になってくれる」
何しろ愛人であるアスカとシンジが同居するというのだ。二人の仲をある程度、黙認するようなネルフ部内の優しい空気はあるとはいえ、あまり外聞の良いものではない。
「お目付役ちゅう事ですか。そして、碇司令と惣流部長がいかがわしい事をしてないことの証人でもある、という」
──策士というか、計算高いというか、その能力は確かに作戦部長向きなのかもしれへんなぁ。
「そ。あんたは得意でしょ、そういうの。馬に蹴られても死ななそうな顔してるもの」
改めて言うまでもないが、人の恋路を邪魔する者はこの国では太古より馬に蹴られて死んでしまうということになっている。
「妻妾同衾とか揶揄されなければ、ええですけどな」
著名な国民的女流作家による財閥一族の愛憎を描いた作品に、そういうセンセーショナルなテーマがあったのはよく知られている。しかしそれにしたって、と、アスカはサクラの過剰な想像力に目を丸くした。
「あいつが、女二人に同時に手を出せるような玉なら、あたしは十数年もの間、こんなに苦労していないわヨ」
アスカが、執務机に向かうシンジに視線をやると、シンジは心細そうに、アスカとサクラのやり取りを眺めていた。
◆
「これでよし、と」
ダイニングテーブルの真ん中に、たこ焼き器を設置して、ようやくサクラはホッとする。まだ引っ越し荷物の整理も終わっていなくて、彼女の私室として与えられた客間はベッドの上さえも一時的な段ボール置き場として埋まっている状況で、たこ焼き器の入っている箱を見つけるのに手間取ってしまった。
「ごめん、主賓のサクラさんにパーティの準備まで手伝わせて」
「それを言うなら、アイちゃんや惣流さんもおんなじですわ」
シンジの謝意の表明に軽く笑いながら返事をして、ダイニングキッチンで仲良く立ち働いているアイとアスカを見やる。
「それに、タコパの主役はこの子や。この子がおらんと始まらへん」
たこ焼き器をそう擬人化して呼んだのは、兄のトウジが元気だった頃から使っている年季の入ったものだからだ。思い入れがある。入院前は週末の度に、これで兄がよくたこ焼きを焼いてくれたものだ。懐かしい、ソースの香りのする思い出だ。
そういう思い入れもあって、引っ越し祝いをたこ焼きパーティにしようと発案したのも、サクラだ。結局、最終的には碇司令の広壮な官舎での「妻妾同居」を承諾したサクラだったが、全てを「惣流さんペース」で進めるつもりは更々なかった。
──まずは家の中を関西ノリに染めたろう、うん。
というのが、サクラの密かな決意だ。
「今日は何人来ることになっていたっけ」
「えっと、真希波さん、霧島さん、ミドリさん、ネネさん、ナディアさん、山岸博士にビンセンス博士……女ん人はそれぐらいですなぁ」
指折り数えて、シンジの問いにサクラは答える。部長級勢揃いの顔ぶれだ。
「男は剣崎さんと多摩クンぐらいか。ちょっと肩身が狭いな」
「ネルフは女所帯ですからねぇ」
しかも美人ばかりと、心の中でサクラはそっと言葉を追加する。サクラも自分の容姿にはそこそこ自信がある方だったが、ネルフの幹部女性の中では、その自信が少し揺らぐ。あれ、私、平均点なん?と。
「優秀な人を集めたら、女の人がたまたま多かっただけだよ」
カトラリーを準備する手を休めずに、シンジは言った。アスカとアイはスパゲッティや蛸のマリネなどを作る予定だが、あくまでメインはたこ焼きなので、生地を作って、具材を用意してしまえば、事前準備にすることはそう多くはない。
実際にネルフの女性陣は、高い教育を受けた優秀な人材が多い。司令のシンジも同窓だが、惣流・アスカ・ラングレー、真希波・マリ・イラストリアス、北上ミドリなどは、日本で最も名高い大学を優秀な成績で卒業している。アスカなどは海外での経歴も含めると、二回大学を出ているのだから飛び切り優秀だ。
女性が多く幹部に登用されているという事実が、さらに、優秀で自信のある女性をその組織に惹き付ける。使徒と戦う武装特務機関という荒事を生業にする組織であるにも関わらず、女性の人材供給についてネルフは好循環を成立させていた。
また、霧島マナなどは戦略自衛隊からネルフへの出向者ではあるが、彼女の母校である防衛大学校からの進路の一つとして、戦自を蹴って、直接ネルフを選ぶという学生も最近では少なくないのだ。
日本国国防省とネルフ間の協定、及びそれに基づく法改正で、防大や防衛医大からネルフに就職する場合は、ネルフを自衛隊に準ずる組織(これには国連軍隷下の旧陸海空自衛隊も含まれる。ネルフについてはそのみなし適用を拡大したものだった)と見做して、任官拒否者──公的表現では任官辞退者──扱いにならないものとされ、学費の国庫への返還義務も生じない。この協定は人事課長時代の松風ネネが提案し、その成立に骨を折ったもので、ネルフへの人材供給を円滑化するのに絶大な効果があった。
協定の内諾が得られた時、松風ネネは、戦自側でも春日陸将が尽力してくれました!と朗らかに司令のシンジに報告した。確かに戦略自衛隊側から見ても、ネルフに対する学閥を通しての影響力と相互信頼関係が生まれるのは悪いことではない。しかも、防大や防衛医大からのキャリアパスが増えるわけだから、両大学校の学生人気も増して、より優秀な人材が集まるという訳で、多少の学生のネルフへの流出や学費の返還義務免除などは、全く痛くもないのだった。
そもそも春日陸将自体が、親ネルフ──というより、組織間の縄張り争いの様な小さな話には恬然としていて、どこの誰の力であろうと、日本国と国民が守られればそれでいいだろう?という磊落な人物で、危機時の軍隊において重きを成すにはこれ以上の適任者はいないと思われる。シンジはネルフと戦自の間で行われる例年の対抗演習を彼との間で調整して以来、春日のことを尊敬していた。
その春日も、あかしまなど戦自の誇る人型兵器の女性パイロットの先駆けとして霧島マナを引き立てるなど、女性人材の活用に意を用いているという。
日本どころか人類全体の危機である時代に、男の力も女の力も十二分に活用しなかったならば、恐らくはその非合理性の為に人類は滅びるという瀬戸際にいるのだ。
だから、女性が目立ちすぎるぐらいの新生ネルフの方針はやっぱり正しい。シンジはそう自信を持っている。
「アイが、学校の友達を呼んでるのも忘れないでね」
パスタを茹でる準備をしながら、アスカがダイニングキッチンから声を掛け、シンジもウンと頷いた。ネルフのメンバーが殆どとはいえ、これは引っ越しパーティなのだ。主賓の一人であるアイが友人を呼ぶのに何の支障もない。
「大井サツキさん、阿賀野カエデさん、最上アオイさん……でしょ?」
「よく覚えてるね。義父さん」
「女の子の名前を覚えるのは得意なのよね、色男さん」
「そ、そんな、違うよ──アイがよく話をしてるから自然に覚えてて」
アスカは自分のからかいに慌てるシンジを見て、アイと顔を見合わせて笑う。サクラもそれを眺め、眩しそうに目を細める。紛らわしいシンジの依頼から始まって、挑発性豊かなアスカの説明に終わった今回の同居騒動だが、二人の同性の笑顔を見ていると、まあええかと思えてくる。けっきょくの所、サクラも相応にお人好しなのだった。
◆
(アイの友達といえば──)
人数が多いから、テーブル増やして!とアスカの命を受け、早速尻に敷かれている風情のシンジは、別室からダイニングへと、追加の小さなテーブルを運びながら、考える。
サクラの診察を受けた日、アイが学校から予定より早くに早退する原因を作った、谷口イズミ。クラスは違ったが、シンジの元同級生で、音楽ユニット「いんぱくつ。」のメンバーだった谷口をシンジはよく知っていた。彼女たちの歌に中学生パイロットだった時分、少なからず救われた事があったし、いんぱくつ。がプロデビューしてからは、その動向を時折、気に掛けてもいた。そんな彼女がアイとは不思議な巡り合わせで知り合いになったとシンジは聞いている。
今日のパーティには呼んでいないようだが、彼女とアイとの交流は続いているらしい。保安諜報部の剣崎部長からはそう報告を受けている。
シンジには少し意外だった。一度、アイとの関わり合いから保安上の取調を受けた谷口さん。ネルフに一泊の濃密な取調の結果、嫌疑は晴れたとはいえ、ネルフやエヴァの情報漏洩にも繋がりかねない一般人との交遊を剣崎が遮断しようとしなかった事が、だ。
それどころか、谷口イズミから渡された連絡先のメモを剣崎はアイにそのまま手渡したのだという。
シンジはその理由を剣崎に直接確認した。非難する意図ではない。プロらしくないその行動の理由が不思議だったからだ。広く長い廊下を、テーブルを運ぶ自分の脚を無意識に進ませながら、その時の剣崎とのやり取りを追想する。
「理由は──彼女が単なるアマチュアだからです」
司令室のシンジの席の前に直立した剣崎は静かに言った。もし偶然ではなく、何らかの意図があってアイに近づいたのだとしても、彼女は到底プロのエージェントと言える存在ではない。それがプロとしての自分の判断だと。
「──その根拠は?」
「裏付け的なものは沢山あります。通信記録などです。しかし、端的に言えば彼女が怒っていたからです」
「怒っていた?」
シンジは怪訝な顔をした。それが保安上の判断材料になるのだろうか。
「そうです。超法規的な措置が赦された特務機関による理不尽な取調に対する市民としての怒り、授業への出席を中断させられた六分儀アイさんの境遇への怒り……彼女はまだ中学生で、大人の代わりになってエヴァパイロットとして世界の為に戦う義務などない──私は昔、同級生として碇くんたちの扱われ方を遠くから見ていた。それが正しいとは絶対に思わない……谷口さんは滔々とそう言ったのです。諄々と私は諭され、怒られました」
「それで──どうしたんですか」
「何も。彼女の言っている事は、全て正当なものですから」
剣崎はプロとしてその怒りを淡々と受け止めたのだろう。誰かが引き受けなければならない怒りだ。
しかし、それが正当な怒りなのだとすれば、その怒りを本当に受け止めなければならなかったのは、剣崎ではなく、アイにそういう生き方を強いている碇シンジの筈だ。シンジは無言で机に視線を落とす。谷口さんが取調から解放された時、シンジは彼女から面会を求められたが、多忙を理由に断っていた。サードインパクトを起こした自分が、かつての同級生に会う──その事への勇気が持てなかったからかも知れない。
「思想的立場や忠誠心、あるいは名もなき市民としての不安げな様子は装えるものです。でもあの真っ直ぐで勁烈な怒りは装ったものではない。彼女は自分の事よりも、まずアイさんのことを本気で心配し、憤っておられた」
「そう──ですか」
義憤と言い換えてもいい真っ直ぐな気持ち──自分ではなく他人の為の怒りこそが、最も尊く、美しい。真の美しさは演技や擬態によって、容易に装えるものではない。
「でも、保安部の仕事としてはやっぱり困りませんか?」
「誰かを守ろうとする時、一番簡単なのは、護衛対象の自由を奪うことです。それで我々の仕事はとても簡単になります」
誰それとは連絡を取るな、学校と家とネルフの往復以外はするな、見知らぬ人間と話をするな……自由とは換言すれば、護衛対象の行動の不確定要素だ。その殆どを禁止し、限定する。そのことによって不測の事態を防ぎ、目標を護衛しやすくする。諜報戦において、証人やVIPを守るためには基本的な事項だ。
「でも、部長はそうはしないんですね」
「ええ。我々には一番簡単な手段を選ぶ必要はない、それだけの能力があると自負しております。それに──」
「それに?」
「──私たち大人には、もうこれ以上、あの子から何かを奪うことは許されない。谷口さんの抗議を聞きながら、そう思ったのです」
新しい出会い、友人、世界の命運を左右しない程のささやかな自由、そして思い出。それをアイから奪いたくはない。もう彼女は十分に奪われているのだから。その為にならあえて「簡単な手段」を捨て去る事に、剣崎は何の躊躇もないようだった。
「剣崎さん……」
仕事中はあくまで部下としてクン付けにするという剣崎本人要望のルールもつい忘れて、さん付けで呼んで、シンジは絶句する。不意に目頭が熱くなった。
そして──そんなやり取りを今思い出して、シンジはまた何か熱いものが込み上げてくる衝動を堪えなければならなかった。
きょうも、ネルフ幹部が多数集まるパーティで、警備に専念したいと渋る剣崎を上司権限で押し切るように、ゲストのリストに入れたのは、男が少な過ぎて寂しいからというだけではない。そんな誠実が服を着て歩いているような剣崎を慰労したいという気持ちがシンジに強かったからだ。
だけど、大人には、もうこれ以上、あの子から何かを奪うことは許されないという剣崎の言葉は、シンジの胸に重くのし掛かる。
僕は──ずっと、アスカを傷つけ続け、アイからは奪い続けている僕には──、二人に何かを与えることが出来るのだろうか。
これから始まる四人の同居生活の中で、果たして、僕はアスカとアイに幸せをあげられるのだろうか。
シンジにはそれだけが気懸かりだった。