大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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六十三話 Brand New Day・前編

 たこ焼きパーティは盛況だった。鈴原サクラが指折り出席予定者を数え上げた通りに、理事長の子安を除いては、ネルフの主要幹部は一人も欠けることなく、アスカたちの引っ越し祝いに休日を潰して駆けつけてくれた。

 

 内心では無茶な計画とさえ感じていたアスカ、アイ、サクラ──三人の女性のシンジの官舎への転居が皆にすんなりと受け入れられた事に、アスカは少し驚いていた。

 

 しかし、アイのメンタル及びフィジカルケアのために、医官であるサクラの同居が必要なこと。そのためには、手狭になるアスカの部屋ではなく、碇司令──シンジの宏壮な屋敷が適切なこと。元々、アイはシンジの養女であり、アスカの被保護者であって、シンジとアスカが愛人関係にあるのもいよいよ公然の秘密となりつつあった事などを前提として、まもなく来たる使徒との決戦を控えて、アイをより手厚く保護する事の必要性と共にネルフのメンバーにも了解されたのだった。

 

 家族関係が不全なままの少年少女パイロットを精神面がダイレクトに影響するエヴァンゲリオンで戦わせることの悲劇と危険性は、旧ネルフの在籍経験を持つかどうかを問わず、サードインパクトの辛酸を身を以て経験し、そこに至るエヴァと使徒との過去の戦闘記録を諳んじる程にリサーチしてきた勤勉なネルフスタッフには自明の事だったのだ。

 

 そして中には、今度の転居をアスカとシンジのゴールインへの準備──そんな風に誤解している人間さえ居るかも知れない。月面タブハベースの視察出張から生還したシンジに、皆の前でアスカが抱きついて出迎えた一件以来、そういう妙な気の回し方をする職員が増えた感じがする。アスカにしてみれば、正面切って、そうなんですか?と確認してくるならば、こんどの引越はそんなんじゃないと言下に否定するところなのだが。

 

うち(ネルフ)のみんな、どうしようもなくお人好しで、お節介なのよねぇ……」

 

 北上ミドリをはじめ、サードインパクトで大きな被害を蒙った人間も少なくないだろうに、いつもそのトリガーだったシンジとアスカの事を気にかけてくれている。それはアスカにとっては恋のライヴァルとも言うべき何人かの女子にしてもそうだった。フェアプレイ精神とでも言うのだろうか。二人の仲がギクシャクしている時に、そこに割って入ろうなどという邪な考えとは無縁なように思える。

 

 今、黄色いパジャマ姿のアスカは一人苦笑しながら、勝手知ったる他人の家の廊下を浴室──正確には浴室の前にある洗面所に向かって歩いている。今夜、この家に居る男子はシンジ一人だけだが、流石に中学生の時のように、ラフなタンクトップにホットパンツというわけには行かなかった。

 

「てか、あの時、シンジの前でよくあんな格好していたわよね」

 

 サードインパクト前の常夏での事とはいえ、我が事ながら少しだけ呆れ、今のパジャマ姿を見直す。別におかしくはないと思うが、やはり少し無防備だろうか。カーディガンでも羽織ってくるべきだったろうか?

 

「──まあいいわ」

 

 どうせシンジに出くわしたとしても、相手はアスカの肉体(からだ)を全て知っている相手だ。──ホント、今更よね。

 

 ひたひたとスリッパの音だけが、木張りの広く長い夜の廊下に響く。喧騒が引くと、屋敷の中は昼間の賑わいが嘘のように静かだった。

 

 いや、実際には耳をすますと、遠くの和室から、姦しい女子の声が、囁き声のように小さく聞こえてくる。

 

 今晩、シンジの家に皆で泊まることになったネルフの女子幹部たちと、アイの学校の友人たちのガールズトークの声だろう。

 

 アスカの同僚とアイの友人たち、世代も環境も全く違うのに、それなりに和気藹々と雑談やゲームに盛り上がっているようだ。女同士の気安さというものだろうか。

 

 そこで、アスカは昼間のやり取りを思い出していた。

 

 

「……えっ、今晩泊めていただくの、私たちだけじゃないんですか」

 

 たこ焼きを載せた小皿が一人一人の前に並べられた大きなダイニングテーブルを大勢で囲んでいる。六分儀アイの級友──アスカの見るところ、彼女が三人の中でも一番アイと親しそうだ──女子中学生の大井サツキは目を丸くしていた。

 

「うん。広い二間続きの和室があるからね。もちろん、此処にいるみんなじゃないよ、流石にね」

 

 ダイニングキッチンの向こうでたこ焼きに入れる具材や副菜の調理に立ち働く家主の青年に代わって、サツキの向かいの席に座る赤いフレームの眼鏡を掛けた女子──長い冬がようやく終わりそうな季節に合わせ、春めいたグリーン系の色合いで上下を揃えている──真希波・マリ・イラストリアスが笑いながら応じた。

 

 経理部長の伊藤ナディア、総務部長の松風ネネ、保安諜報部長の剣崎キョウヤ、それに山岸マユミとマリイ・ビンセンスの両博士、勤務態度からネルフの問題児として知られる多摩ヒデキは日帰りの予定だ。

 

「家の事情や、それぞれの都合もあるからね」

 

 アースカラーのカジュアルなパンツルックに身を包み、ショートヘアの髪色も、笑顔に滲み出た性格も共に明るい女性──霧島マナが、泊まらない面々をフォローするみたいに言った。

 

「パーティに合わせてみんなでお泊まり会をやろうと俄然、張り切ってたのは、霧島っちなのにね。橋を落として、山荘ミステリみたいに閉じ込めてでも全員、泊まらせかねない勢いだった」

 

 そうマリがからかうと、マナは苦笑した。

 

「そりゃ人数は多ければ多いほど楽しい! ……でも無理強いは出来ないよ」

 

 霧島マナと真希波・マリ・イラストリアス。二人とも結構強引な所があるが、少し相手への配慮の仕方が違う。マナは相手の本当にしたいことを探す。それが自分が最初に思っていたのと違うなら、軌道修正する。マリは相手がたとえ乗り気ではなくても、最後に相手が喜べばいいと考えている。名前も性格も似ているようで、しかし二人はけっこう違う。

 

「けっきょく今日泊まるのは、私と──マナと──ミドリっち。ま、いつもの面子だね」

 

 マリに名前を一人一人呼ばれた者は察しよく、サツキたちに分かるように小さく手を上げたり、頷いたりしてみせた。その気遣いに、サツキは心の中で、──何だか、みんないい人たち、と思う。

 

「そして、アイちゃんのお友達のサツキちゃん、カエデちゃん、アオイちゃんもお泊まりメンバーだね。眼福、眼福♪ 寝間着姿も楽しみだにゃー。ガールズトークしようね!」

 

 マリは、眼鏡越しに、アイの三人の同級生たちを順番に眺めた。みんなそれぞれに愛らしい少女で、昭和のおっさん系女子としては口元の弛みが抑えられない。

 

「あはは……」

「面白い(ひと)だよね」

「私も今晩は、皆さんのお話を伺いたいです」

 

 少し西洋風の顔立ちをしたペールブロンドのロングヘアの少女が、大井サツキ。姫カットボブの陽気な雰囲気の娘が、阿賀野カエデ。アンダーリムの眼鏡を掛けた理知的な喋り方をする女の子が、最上アオイだ。それぞれに、白、赤、青と──春の野の花めいた華やかな色のワンピースを着ている。

 

「せっかく、広い家に引っ越したから、友だちと今までの家では出来なかったパジャマパーティが出来るかと思って」

 

 最近、服装や趣味などに少女らしさを増しつつあるシンジの養女──六分儀アイは気恥ずかしそうに言った。

 

「うーん、女の子の友情はいいねぇ!……よし、サクラも姫も、アイちゃんたちも、今日は同じ部屋で寝ようよ。三十路にも若い子にも女の友情は必要だ!」

 

 マリはサクラとアスカに向かって言った。

 

「勿論その積もりでしたよ。うちは三十路じゃなくて、まだ二十代ですけど……なかなかこういう機会もないですし」

 

 その点が重要だとばかりに、サクラは年齢の差について念を押す。

 

「まぁ、あたしやサクラは構わないけど、おばさん組と若い子の部屋は襖を挟んで、別よ。寝る前に少しなら一緒に遊んでもいいけどね」

 

 アスカはそう釘を刺す。アイにはアイの付き合い、子供たちだけで語り合いたい夜もあるだろう。そこは一線を引くべきだとアスカは思う。

 

 今日のアスカの装いは、艶やかで長い金髪をポニーテールに括り、グレーのパーカーの前を開いて、その下にダサTと呼ばれる、微妙に脱力系の柄のTシャツを着ている。ダサTはアスカがカジュアルウェアとしてだいぶ前から集めているもので、今日のシャツは、NEVER GIVE UP!!という英語の下に、眠そうな半目をした出っ歯のウサギのキャラクターが大きく描かれたものだ。

 

「えー。アイちゃんたちも一緒に寝ようよ~。お姉さんが可愛がってあげるから」

 

 しかし、真希波マリは子供がむずがるようにタダをこねてみせた。

 

「ちっ。……オヤジくさっ」

 

 ふて腐れたようにテーブルに肘をつく北上ミドリ──別に機嫌が悪いわけでもなんでもなく、それが彼女の平常運転だ──が、顔をしかめて遠慮なく舌打ちをする一方、アイはこめかみの辺りを掻くような仕草をして、真希波・マリ・イラストリアスに返すべき言葉を探す。

 

「えっと……」 

 

 しかし、適切な返事はなかなか見つからない。自分は「シンジだった時」と違って、今は女の子で、アスカの事を想う時は別として、男性アイドルの容姿などに目を惹かれる事さえある──だけど、それでも女性から構われるとやっぱりドキマギしてしまう。

 

「アイのことをあんまりからかうんじゃないの。あんたが言うとどこまで本気か分からないわよ」

 

 アイの当惑を看て取ったアスカが窘めるように言うと、何故か言われたマリではなく、霧島マナが乾いた声であはは……と笑ってみせた。その妙な反応に「ん?」とアスカが首を傾げる合間に、少女たちに向けたネルフ側からの自己紹介が始まった。組織の名前や業務の中身を暗黙の了解で伏せて「外資系企業」の社員みたいな(てい)で、説明をしている。

 

「……で、最後(トリ)に紹介するのが、あそこにいるボス。まあうちで一番えらい──社長さんみたいな仕事の人かな。なかなかの好青年だよねン?」

 

 マリがそう言って、シンジの方にすぼめた手の平を向けてみせると、気付いた青年は、照れくさそうにしながらも、

 

「あ、どうも。みんな……いっぱい食べて、楽しんでいってね」

 

 とアイの友人たちに歓迎の笑みを向けた。紹介は皆、簡潔で、シンジについてもそれだけだったから、三人の少女がシンジにどんなイメージを持ったのかは分からない。だが、恐らくはずいぶんと若い「社長」──典型的な青年実業家に見えたはずだ。

 

 シンジが、父ゲンドウの後を継いでネルフを再建した事実上の二代目司令だということを考え合わせれば、さしずめ御曹司の若社長という所だろうか。といっても、シンジは旧ネルフを座りしままに安穏の内に継いだのではなく、一度は解散させられたこの危険視される組織を、秘密結社ゼーレを対手とした策謀と脅迫と虚勢でかなり強引に復活させたのだった。

 

「なんだか皆さん、凄いですね」

 

 そうサツキが賛嘆し、日頃冷静な性格の中に珍しく灯った好奇心を隠せないでいる。

 

 もちろん中学生の少女たちも、シンジたちの「会社」の業務が真剣に気になっていて、危うくネルフの秘密に肉薄しかねないという状況ではない。

 

 その証拠に、機密保持に責任を持つ保安諜報部長の剣崎キョウヤも、出された食事をゆったり箸で口に運ぶ時以外は、いつになく緊張を解いた表情で静かにサングラスの下の目を瞑り、周囲の会話に静かに耳を傾ける風情で、嵐の前の束の間の文恬(ぶんてん)武嬉(ぶき)に浸る様相を示していた。

 

 ただ、女性の幹部が非常に多く、国際的な会社だなといった印象を、アイの友人の少女たちは受けたようだった。

 

「化粧品の会社かなんかですか?」

 

 阿賀野カエデが明るい声で尋ねたのは、マリが技術開発部の部長と自己紹介したからだろうか。確かに女性が技術開発というと、そんな連想に至るのかも知れない。

 

「まあそんなところ! 世界の女性全員を幸せにするのが我が社の目標なのよん」

 

 マリがそう答えるのを聞いて、アスカは、まんざら嘘ではないわよね──本当は女性だけじゃなく全人類が対象な訳だけど、と内心で突っ込みを入れる。

 

「女性でも技術部門のトップになれるんですね」

 

 最上アオイが真剣な顔をしてそう尋ねたのは、自身、理系の進路を目指していて、マリの立場が己のキャリアパスの参考になると思ったからだろう。

 

「そうよ。頭の中身は、男も女も優劣は無いからね。我が社は完全実力主義。アオイちゃんが勉強して、賢いままで大人になったら、うちへの『入社』を歓迎するわよん」

「人事課は総務部長の私の下にあるんですけどぅ」

 

 甘ったるい口調で、にこやかな笑みを顔に貼り付けたまま、マリの安請け合いに釘を刺したのは松風ネネだ。いつもはソバージュの髪を、今日は、片側に編んでピンクのリボンを幾つも付けている。普段の勤務時はピシッとした格好をしているが、プライベートでは独特なファッションセンスを発揮しているようだ。

 

 彼女は「人形遣い」という異名を持ち、人心収攬術に長けた人事のエキスパートだ。自身、総務部長に昇格する前は人事課長だった。戦自や日本政府からの出向者で占められていた新生ネルフの部長級ポストをプロパー化するのに、彼女の人事的手腕が遺憾なく発揮されたと言われている。

 

 また、防大や防衛医科大からネルフに採用された学生に、戦自任官者と平等な取扱いをするという制度を日本政府に働きかけ、ネルフへの安定した人材供給を実現したのも、彼女だった。

 

「え、でも、うち(技術開発部)が欲しいと言えばネネっちは、採用してくれるんじゃないの?」

「ま、マリさんが欲しいという人なら、採用をするでしょうねぇ。あなたのその赤いお眼鏡を信用してますから。でもそれは貸しイチですよ。技術開発部さんには沢山貸しがあったような」

「『ような』って、曖昧なことを言うけど、ネネっちなら、絶対閻魔帳に付けてるんでしょ」

「閻魔帳なんか要りません。私は人事的なツケは忘れることはないですからぁ」

「おお、怖い怖い」

 

 マリとネネは同じ女性の部長でもあり、学年も同じだったから、やり取りには終始、遠慮がなかった。と言っても、二人とも笑いながらのやり取りである。互いに互角の能力を持つと認める相手との機知舌戦の類と言えた。

 

「でも、そんなにうちって実力主義かなぁ。だってこの僕がいつまでも係長に上がれずに、主任止まりなんですよ」

 

 あまりの昼行灯っぷりに人事課から経理課に配置転換になっていた多摩ヒデキがぼやいたので、周囲の面々──北上ミドリ以外のみんなが思わず噴き出した。

 

「いや……それでこそ、うちの実力主義は立派に機能してると言えるわよ」

 

 アスカが腕を組んで重々しく頷くと、多摩ヒデキは顔をしかめ、北上ミドリは複雑な表情をした。多摩ヒデキと北上ミドリは男女交際中だともっぱらの噂だ。

 

「さ、仕事に身が入らないおじさんや怖ーいおばさんたちは無視して、冷めないうちにどんどん食べなさいね」

「あ、はい!」

 

 アスカが笑いながらサツキたちに促すと、中学生の少女たちはぎこちなくも頷いてめいめい、楊枝や箸を手に取る。

 

 サツキは、息を吹きかけて少し冷ましてから口に入れた、それでもまだ熱いたこ焼きをはふはふと口の中で転がし、口内からそれが消えてなくなってから、声を上げた。今食べたたこ焼きの中身はチョコレートだ。たこ焼きならぬ、ちょこ焼き……

 

「中身、チョコでした」

 

 ランダムな具材による悲喜こもごもを楽しむロシアンルーレットならぬロシアンたこ焼きと言う趣向を提案したのは、勿論サクラだ。彼女が練達の技でたこ焼きを焼き上げる度に、大皿にどんどん移して、次を焼いていくから、調理過程をじっと見ていたとしても、すぐに、どのたこ焼きに何の具か入ってるかは追えなくなる。

 

 具には、普通のタコのぶつ切りの他に、小振りのタコさんウインナー、柔らかい和牛のサイコロステーキ、カレーチーズソース、ブロッコリー、ここまではまあ良いが──、チョコ、梅干しペースト、ワサビペースト、タバスコと来ると、俄然、罰ゲームの様相を呈してくる。

 

「食べ物で遊ぶのはどうなのよ、ってあたしは反対したのよ、一応」

 

 アスカはパーティのゲストたちに向かって、肩をすくめて見せるが、サクラは頬を膨らませて反論する。

 

「折角みなさん集まってくれてるんです。食もエンターテイメントにしてこそ、関西の心意気ですわ。たこ焼きとお笑いは関西人の命ですもん」

「絶対、サクラの関西人観は間違ってるわよ……」

「うちは母が堺の出身だったから、ほんまもんの関西人なんです!」

「あらぁ? 育ちは純粋な関東って聞いたわよ。氏より育ちっていうじゃないの」

 

 アスカとサクラの応酬は互いに一歩も譲らない。喧嘩をしているわけでもないが、これが二人の関係性の現在形なのだろう。

 

 あくまで名前だけの事とはいえ、シンジの「本妻」という渾名を付けられたサクラに、こちらは本物の「愛人」であるアスカが長らく感じてきた苦手意識や劣等感が、ようやくここに来て溶解しつつある、と考えれば、良い傾向なのかも知れなかった。

 

 二人に割って入るように、戦自からの出向軍人で、今やアスカの親友を以て自任する霧島マナが話題を少しだけ転換する。

 

「でもそういう、ステレオタイプってあるよね。アスカも、日本に初めて来た時は日本人にそういうイメージとかなかったの?」

 

 マナは、好奇心満々の表情でアスカに確認する。

 

「んー。……シンジがちょんまげでないから驚いた、とか?」

「いやいや、それは無いでしょ。アスカ」

 

 キッチンで手際良くサラダを盛り付けていたシンジが手は休めずにツッコミを入れると、アスカは悪戯っぽく笑って、べーっと彼に向けてピンクの舌を出した。

 

「あ、あの……マリイさんはどうだったんですか? 日本の第一印象は。あ、真希波さんも」

 

 話に混ざるのはここだとばかりに、雑談に似つかわしくない程に表情を真剣に引き締めた山岸マユミは口を開く。同じく外国人のマリイ・ビンセンスと真希波・マリ・イラストリアスに話を振ったのだ。

 

 その質問に、マユミの親友マリイ・ビンセンスは自分の皿の上の、得体の知れないたこ焼きをちょんちょん箸の先でつつきながら、気のない調子で言った。

 

「私の前任地は中国ですので、これは日本と中国を合わせた話になりますけど。東洋に着任する前はこう思ってましたわ。──East is East, and West is West, and never the twain shall meet.──東は東、西は西、そしてこの二つは決して会うことがないだろう」

 

 それに頷くように反応したのは、真希波・マリ・イラストリアスだ。

 

「キプリングだね」

 

 当時は英領だったインドボンベイ生まれのイギリスの詩人の名前を真希波マリは挙げる。イギリスはマリの祖国でもあり、その詩にも馴染みがあるのだろう。

 

「ええ。私にとって極東はそんな風に思えるほど、全く未知の国々でしたから」

 

 今やネイティヴと遜色のない程に流暢な日本語を繰りながら、マリイ・ビンセンスは続けた。

 

「そっかぁ、私はハーフだから、その点、日本人にも日本文化にもあまり違和感は無かったなぁ」

 

 真希波・マリ・イラストリアスは首を振る。

 

「でも最近は思うんですの。キプリングもその後に詩をこう続けているように──しかし、東もなければ西もない、国境も血統も生まれもない。二人の勇士が顔突き合わせて、向かい合う時には、彼らが地球の端と端から来たのだとしても。──本当に、人間に、東も西もありませんわね」

 

 マリイ・ビンセンスの引いたキプリングの『東と西のバラード』で人口に膾炙してるのは圧倒的に前段の「東は東、西は西」の下りだが──彼はイギリス帝国主義の擁護者と見なされる事もある──、しかし本当に彼が言いたかったのは、もちろん「東もなければ西もない、国境も血統も生まれもない」の部分だ。この詩は、インド人とイギリス人の人種や民族を超えた友情を詠んでいるのだ。

 

 マリイ・ビンセンスは労りの籠もった優しい目で山岸マユミを見た。マリイにとって、山岸マユミは同年代ながら、守ってやりたい妹のような存在だ。マリイもマユミも地球の端からやって来た──しかし、勇士──strong manではないけれど、むろん女だって同じ事だ。

 

「マリイさん……」

 

 山岸マユミも、マリイの言葉と視線に何か感じ入ったのか、目を少しだけ潤ませ、頬を紅潮させている。男性不信や人間不信というある意味では碇シンジに近い心の苦しみを背負ってきた彼女にとって、マリイ・ビンセンスは本当に支えであり、救いでもあったのだ。その関係には、彼女が外国人であることなど全く関係がなかった。

 

 アスカも彼女たちの話を黙って聞きながら、炊事に忙しいシンジの様子を眺めた。

 

──あたしとシンジも、元々は地球の端と端ぐらい遠くの国に生まれて、普通だったら一度として出逢うはずのなかった二人だけど、今、こうしてまた、一つ屋根の下に暮らそうとしている。

 

 その奇縁の不思議さに少し感慨を覚えながら、アスカはアイの親友である大井サツキに視線を向ける。薄い髪色に加えて、どこか西洋風の彫りの深い顔立ちをしている。

 

「あなたも出身は外国?」

「ええ、小学生の時にロシアから来ました──母親がロシア人で」

「そうだったのね」

 

 アスカがその答えに納得して頷くと、アイが説明を引き継いだ。

 

「サツキたちはいつもボクの事を気にかけてくれてるんだ。今日のパーティも誘ったら、二つ返事でOKしてくれて」

「いつも、アイと仲良くしてくれてありがとう。今日はこんなに知らない大人たちがいっぱいの引っ越し祝いなのに、よく来てくれたわね」

 

 アスカが礼を言うと、サツキはぶんぶんと両手を顔の前で振った。

 

「いいえ。私たちも、アスカさんに会ってみたいと思っていたんです!前にアイの家にお邪魔した時に、お写真は拝見してて……綺麗な(ひと)だなって」

 

 憧憬の眼差しを返しながら、サツキの声は弾む。

 

「サツキは本当によく、アスカさんの話をしてました」

「だって、素敵な人なんだもの。実際に会ってみたら予想通りだった」

 

 最上アオイが言うと、少し頬を紅潮させてサツキは、賞賛を繰り返した。

 

 ──まあ只の三十路のおばさんなんだけどね。

 

 アスカが苦笑した。昔、何でも一番になることに異常にこだわっていた頃の自分だったら、女としての魅力にせよ、能力にせよ、そんな風に悟った事を思わなかっただろう。

 

 つまるところ、自分はやはり大人になってしまったのだ。人間は小児的な全能感を脱して、自分の能力を見切り、誰しも出来ることと出来ないことがあるのだと理解して、ようやく大人になる。そしてその理解に至る道には、世界の中心は別段、ちっぽけな自分ではなく、自分自身よりも大切な他者が存在し得ると知る、自己の価値の相対化が大きな意味を持っていた。

 

 だから、アスカの視線は再び、シンジの姿を捉え直す。

 

 恋は──自分よりも相手のことを大切に想う心の在り様──だから、人を成長させるはずなのだ。

 

「それにしても広いお屋敷ですよね」

 

 さっきまでタバスコ入りの「当たり」を引いたと大騒ぎして、舌を突き出していた阿賀野カエデが、感心したように、高い天井や広いダイニングを眺めている。

 

「昔はここ、うちのカイシャの研修施設としても使われてたのよ。代替わりしてシンジ君……ボスが入居するまではね。だから大勢泊まれるし、寝具もちゃんとあるの」

 

 そう説明したのは、経理部長の伊藤ナディアだ。宿舎など管財は彼女の領分ということになる。剣崎キョウヤと同じく五十代ながらも若々しい女性で、赤木リツコの同級生として、旧ネルフ時代から経理畑を一筋に歩んできた。

 

 学生時代に、弁護士とも並ぶ難関資格、公認会計士と税理士の二つを取得した才媛で、今や、IFRS(イファース)として知られる国際財務報告基準の改定にも関わっている、財務の国際的権威だ。知る人ぞ知る情報ではあるが、あのパリ円盤事件の関係者の子孫という一風変わった出自でもあった。

 

「和室は毎週末に掃除して、布団は定期的に干してます──皆が泊まるって聞いて、こないだの週末にシーツも洗濯したから、大丈夫だと思います」

 

 具や副菜の調理を一旦終えて、アスカとアイの間の席に座ったシンジがそう敬語で説明したのは事実そのものだが、宿舎を借りている身で、少しだけ、管財を担当する厳格なナディアへの言い訳めいて響く。部下であろうとも、シンジは大人の女性には滅法弱い。

 

 しかし、休日出勤も多いというのに、貴重な週末に大量のシーツを洗濯するシンジの姿を想像したら、手伝いに来てやればよかったなとアスカを軽い後悔が襲う。言ってくれればよかったのに。でも、そんな事でシンジが他人の手を借りようとは思わないか。──あたしとシンジはどういう関係があろうとも、未だに他人、なのだから……

 

「さっすがボス。料理も上手だし、立派に主婦してるね」

 

 マリは眼鏡のフレームを直しながら、感心したように言った。

 

「そりゃ、シンジの主婦スキルは高いわよ」

 

 アスカが自分の事のように、少し誇らしげに言った。葛城ミサトと同居していた時には、シンジが炊事洗濯の要──ままごとみたいな家族ごっこにおいて、暮らしの現実を守る砦だった。自分はいつだって、それに甘えていた。

 

「ほほう。そりゃいつでもお嫁に行けますなぁ」

「シンジくんなら、誰の所にお嫁に行っても、問題ないよね!」

 

 シンジは顔を赤くした。

 

「あの、僕は男なんですけど……」

 

 その返しに、座がどっと沸いた。笑顔に囲まれながら、アスカは口には出さずに心の中だけで、一人ごちる。

 

──あんたが、男だって事を一番知ってるのは、勿論あたしなんだからね。

 

 頼りなくても、弱々しくても、シンジが紛れもなく男である証拠。アスカだけは、世界でただ独り、それをカラダで知っている。

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