回想にのめり込んでいたので、アスカは危うく誰かとぶつかりそうになった。
「あっ、ごめん。って……なんだ、シンジか」
「アスカ……」
「ああ、あんたもね?」
洗面所に入った途端、家の主と行き合ったアスカはシンジが右手に持つ歯ブラシと左手の歯磨き粉のチューブに目を落とす。自分に割り当てられた新しい部屋から持ってきたものと同じだ。荷ほどきも不十分なそこでパジャマに着替えて来た。歯を磨いた後で、宿泊組と再合流する予定だ。彼女たちは普段は使われていない来客用の洗面所やバスルームを使っているが、大渋滞していたので、アスカはこちらにやって来たのだ。
「これから?」
「ああ、うん……でも、アスカが先でいいよ」
アスカはその答えに首を横に振った。
「いつ見ても、やたらと広い洗面所よね。ここなら二人一遍に歯を磨けるわよ」
「アスカがいいなら……」
シンジは少し奥にずれてアスカのために場所を作る。アスカはそれを見ながら、ずっとこんなだだ広い、空間を埋めてくれる何者もいない屋敷に独りで──わざわざ、孤独を求めるように──暮らしてきた青年を哀れに思う。
「こうして、同じ場所で歯磨きするのも、中学の時以来よね」
「そうだね……」
バカみたいな大騒ぎをして、二人張り合うように歯磨きさえも争っていたユニゾン訓練中の事を話題に乗せる。流石に、三十を越えてそんな張り合いはしないが、アスカにとっては妙に切なくて、甘酸っぱく、懐かしい思い出なのだ。
「学生時代にあたしが借りてた部屋の洗面所じゃ、二人は並べなかったものね」
「僕がアスカの一人暮らしの所に無理やり居候させて貰ったんだから、しょうがないよ」
「部屋も狭かったわよね。狭すぎて、いつも二人でベッドの上にいた。四六時中イチャイチャしていた」
「……うん」
シンジが歯磨きに専念して無言になったのは、その大学時代の記憶が只、甘い思い出というよりも、その後の──いや、その真っ最中からのアスカへの裏切りが後ろめたいからだろう。事のはじめから、アスカを一時だけ傷付けないために、壊さないように、後々、自分から卒業させることを前提とした欺瞞の同棲だった。シンジは、だから、同棲中にはアスカの語らう二人の幸せな未来予想図に一言の同意も言質も与えなかった。
アスカに調子を合わせて二人の幸福な明日を語る──そんな小さな嘘さえ付けなかったシンジの、しかしそれがアスカの幸せのためと確信して付いた大きな嘘──仮初めの同棲でアスカの心を慰撫し、その間にアスカを守れる居場所となるネルフを再建する。繭たるネルフの再建がなったその時こそアスカに別れを告げ、彼女をシンジから卒業させる──その迂遠な試み、いや企てはアスカをあの時したたかに打ちのめし、ナイフで心を切り裂いたように傷付けた。
(本当にバカだよね。そんな裏切りはあたしだけでなくあんたも傷付けるのに。そしてその自傷が過去の、あの時の贖罪になると思っていたあんたの勘違いをあたしは今でも許せない──でも、シンジがあたしと同じくらいに傷付いたことを知っているから、あたしはあんたとの関係を続けている。卒業なんか出来なかった。出来る筈がない)
シンジは何も話さない。雨に濡れた仔犬のような心細い、孤独な目をして、鏡の中の己とアスカを見つめて、歯ブラシを小さく動かしている。
──いや、何も話さないのではない。アスカに対してシンジは何も話すことが出来ないのだ。学生時代の同棲が甘美な記憶であればあるほど、それはシンジの胸を刺す。彼自身の卑劣な裏切りが、アスカから憎しみと憤怒をほとばしらせたあの夜のことを思い出す。
あれはもう十年も前になる。あの裏切りの後で、アスカはまるで母親か姉のようにシンジの手を引いて、駅前のホテルに向かった。その道行きで彼女の冷笑と激情との氷炎に狼狽えながら、ようやくシンジは自分の大きな過ちを悟ったが、もう取り返しは付かなかった。
アスカは初めて入ったラブホテルで、宿泊料金を受付に叩きつけるようにして支払うと、その金でまるでシンジを買ったとでも言うように彼を視線で値踏みして、挑発した。
『そういう気分になるためには、色々な演出や準備もしないとね。男ってホント、難儀よね』
『どう嬉しい?アタシと身体の関係は継続できるって分かって』
それ以来、二人は愛人だ。二人の関係を繋ぐのは身体だけ。
しかし、それが十四の幼い恋の残骸や無惨な成れの果てなのだとしても、その繋がりと絆はアスカを安堵させる。アイ経由で渚カヲル──あの男には一度も会ったことはないけれど、よほどあたしの事が嫌いらしい──がわざわざ知らせてくれた別のどこかの世界でのように、アスカとシンジが離れ離れになってしまった訳ではないのだから。
御為ごかしの優しさを顔に貼り付けたような誰かが、二人の間に無粋に割り込もうとしているのでもない。アスカとシンジの二人はどんなに悩めども、ずっと二人だけで居る──それはシンジとの複雑微妙な関係に懊悩を続けるアスカにとって、心を落ち着かせる数少ない事実だ。
シンジが語る術も言葉も無いことは話題を振ったアスカにも分かっているから、暫くはシンジ同様に歯磨きに集中する。でも、それぞれが代わり番こにうがいを終えると、流石に言葉によって沈黙を征服させない訳にはいかなかった。
「……あんたと同居するのも、これで三回目ね」
「……うん」
「まさかこんな形でまたシンジと一つ屋根の下に暮らすことになるとは思わなかった。でも今度の同居は前の同棲とは違う」
アスカはかつて、シンジとの同棲の解消を宣告した自分自身の言葉を思い出した。
『もう一緒には暮らしていけない。楽しかったんだけどね。またいつか、一緒に暮らせる日が来るのかな』
シンジに手酷く傷付けられ、傷付け返したあの夜には、再び、彼と同じ屋根の下に同居する日が来るという可能性について、実は全く絶望していたのだ。だけど、何事も先々の事は見通せないものだ。
アスカは、断りの言葉を入れるまでもなく、一つしかない歯ブラシスタンドの端に、シンジの歯ブラシが立てられている所から一番遠い端っこに、自分の歯ブラシを立てた。
しかし今度は、アスカの言う通り、アイとサクラがいる四人での同居だ。大学時代の二人だけの同棲とは違う。かつての、おはようとおやすみとの間をセックスと睦言で塗り固めていたような、濃密な関係を結べる状況ではない。
「当面、あたしとシンジの
二人の繋がりを強めるために、その回数を増やそうと宣言し、ラブホテルに行った矢先の事だった。使徒である渚カヲルのネルフ本部への侵入。そして、六分儀アイの体調異変の発覚。あっという間に状況が激変してしまった。
そんな風に、二人の仲は、いつも何かにその進展や復旧を阻まれる。でも、その原因の一つとなったアイのことを疎ましいとは思わなかった。アイはシンジとの仲を妨害してるわけではない。彼女の問題はむしろ、アスカがシンジと共同して立ち向かうべき人生の課題として立ちはだかっている。
「それは……分かってる」
シンジにとっても、もとより承知のことだ。アイの命を救うためにこれからは時間との戦いが待っている。引っ越しは、アイに──もしかしたらその最期となるかも知れない時間に、家族を与えるためにどうしても必要だったから断行したが、すでにその準備にも少なくない時を費やした。セックスで時間を空費する余裕はない。
しかし、シンジは沈んだ声の調子ながら、心なしか少しホッとしているようにも見えた。
アスカと寝るのがイヤイヤだったから、──などという理由ではないのは彼女にも分かっている。
きっと、シンジは色々後ろめたいのだ。散々に人生の選択肢を間違い、アスカの心を抉り、裏切ってきた自分が、今も変わらず、アスカを抱いている事に──いや、今や逢瀬の夜のほとんどで、アスカにベッド上での主導権を明け渡し、彼女に「抱かれている」事に。その原因を作ったのはアスカだったが、男として忸怩たる思いもあるのだろう。
冬の入浴で、寒い外気に晒されたくなくて、いつまでも温くなった湯船に浸かっているようなものだろう。お湯の温度が少しずつ下がっていく事に不安を感じながらも、外に出るよりはマシだと動けなかった。
でも、いつかは必ずそこから出なくてはならない。ずっとシンジはそう思っているのだろう。だから、ぬるま湯から少し出て、冬の名残を残す冷たい風に身体を晒さざるを得ない状況にかえって安堵している。
アテロフォビアという言葉がある。自分には正しい事が出来ないかもという恐れがあり、自分の力や行動に自信が持てなくて、完璧に出来ないのではと、いつも不安に思っている。そんな不完全性に対する恐怖感を指す言葉だ。
きっと、そんな恐れにシンジは囚われているのだとアスカは思う。シンジはずっと運命の枝分かれとなる、人生の三叉路で間違い続けてきた男の子だから。そして、その過つ事への恐怖に囚われているのは、恐らくはアスカ自身も──同じだ。
彼女もまた、幼児期から他者と競い合い、トップにならなければならないという強迫観念に駆られて、常に完璧に──完全に──と、ひた走って来たのだった。それが母親の心を取り戻し、彼女が亡くなってからも、自分の存在意義を示すための唯一の方法だったから。
だから、アスカはそんなシンジの心情を我が事のように理解できるし、そんな恐れにずっと囚われている自分と相手の運命を悲しく思う。
「皮肉なものよね。住む処、寝る処がこんなにも近くになったのに、却って、あたしたちの関係は離れてしまう。またジェリコの壁が打ち建てられたみたいに」
「でも、その壁は見えないんだ。僕らのどちらにも」
心配そうにシンジが言う。シンジとアスカはもう、かつて、その言葉とふすま一枚で隔てられていた少年少女ではなかった。踏み越えようと思えば、どちらかがその意志を持っただけで、簡単に踏み越えてしまえる。相手の身体をお互いに知る男と女の気安さで。
「そう、そしてこのジェリコの壁というやつは、いつかは──、必ず崩れるものと決まっているのよね」
イスラエルの民がカナアンの地を征服した時も、それを引用した台詞のあるフランク・キャプラのロマンス映画の中でも。そして、最初の同居時のアスカとシンジの関係においてさえも。ジェリコの壁は常に最後には破られる運命にあったのだ。
「──もしかして、アスカがサクラさんをこの同居に引き込んだのはそのため?」
「うん。──もちろん彼女の医者としての能力を信頼しているわよ。サクラはアイの主治医だしね。でもそれだけじゃなく、あんたとあたしが情欲に流されて、見えない壁を乗り越え、アイのことをないがしろにして、親の務めを忘れたりしないように、とそう思って、彼女を巻き込んだのよ。サクラには悪いけど、彼女はそのための保険でもある」
シンジはアスカの答えに溜め息を付いた。自分たちの不甲斐なさやだらしなさによって、純然たる第三者の鈴原サクラを巻き込む羽目となり、アイもまた、おろそかにされかねない立場に追い込んでいるのだから。
「……本当の親ならそんな保険なんて要らなかったよね、多分。親が本物で親としての愛情を持っていたのなら、僕とアスカに何の壁もなかったとしても、子供のことを第一に考えられたはずだもの」
親の務めを意識をしないといけない時点で、やはり本物の親とは違う。どうしても劣等感混じりにシンジはそう感じてしまう。
「それは仕方がないことだと思う。──あたしとシンジの間には身体の関係がある。男と女が身体と身体で繋がることはあたしたちも、よく知っているように……それはとても気持ちのいい事で、その快楽の味を知らなかった子供の頃でさえ──多分、皆がそうだったと思うのだけど──それを夢想し、欲望し、憧れないではいられなかった。ましてや、その味を一度知ってしまったら、ね」
「……う、うん」
シンジの脳裏に、背中を向けたアスカの艶めかしく白い肌が、自分の身体の上で蠢く様が映し出される。まろみを帯びた大きな臀部がシンジの目の前で上下に揺れて、その中心がシンジ自身と呼ぶべき場所を温かく包み込んで、その一点でのみ二人は物理的に繋がっている──そんな淫靡な光景だ。
その上下の律動はどこまでも、アスカによって調律され、彼女の欲望と快楽を最大化するために、シンジは奉仕させられている。だが、それこそがシンジの快感を最大化してくれるシチュエーションなのだ。シンジはアスカに組み敷かれる事で、罰せられていると感じることが出来る。アスカの欲望に奉仕する道具になることで、償いをしていると感じることが出来る。
やがて──アスカの前後が反転して、今度はその蒼い瞳がシンジを見つめている。しかし、シンジの視線は、彼女の豊かな、裸の白い胸に引き寄せられる。臀部と同じく、この双球も女性的なまろみを帯び、真球に近いその形はそこに触れる前から、シンジが何度も味わっている温かな柔らかさを視覚情報として伝えてくれて、シンジを知らず昂奮させる。その剥き出しの欲望の視線を知って、アスカはくすりと微笑んだろう。そして、笑みの優しさとは裏腹に、その腰はシンジを征服せんとして彼の上で弾んだ。
男女の最も敏感な部分が擦れ、それが生んだ快感にシンジは呻き、ずっと腰の辺りに澱のように停滞している欲望を解放せんとして身を捩るが、肉体はアスカの身体の重みに上から抑え付けられているので、その動きはあくまでも受け身だ。アスカはその白いおとがいを自らの律動が生んだ快感に呼応するように、跳ね上げた──。
回想する艶めかしい場面が、そんな風にアスカに主導権を握られた騎乗位ばかりなのも、シンジの劣等感を刺激すると同時に、頬を昂奮に紅潮させる。
「そんなに赤くなることはないじゃない。女を知らないうぶな中学生でもあるまいし。あんたは散々にあたしの身体を貪って、経験だけは豊富になっている。もっともその女性経験はあたししか知らないものだろうけど──それでも経験は経験なんだから、もっと堂々としていなさい」
アスカはシンジの肩をポンポンと柔らかく叩いた。頬を長い指先でちょんとつついてもやる。シンジはそれだけで、目許を赤くして、アスカの
少なくともシンジが──キスよりも深い経験に限っては、間違いなく──アスカの身体しか知らないというのは、そうだろう。キスについては、そうではなく、今は亡き葛城ミサトに二回目のキスを奪われたとアスカはシンジの記憶を共有するアイに知らされてもう知っている。しかし、アスカが知っているという、その事実をシンジはまだ知らない。アスカも今、この場でそれを告げるつもりはなかった。不快な事実ではあるけれど。
「でも……僕の経験なんて」
シンジには後ろめたさがある。ファーストキスも、初体験も、女であるアスカにリードされてきた。アスカがいいと言ってくれたから、先に進めた。もしそうでなかったのなら、シンジはいつまでも同じ所に立ち止まっていただろう。単に、ベッドの上でアスカがセックスを仕切りがちだというだけの話ではない。もっと精神的な話でもある。
「僕の努力じゃなくて……ぜんぶアスカが呉れたものだから」
「あら? 押し付けられたものだから、もう返品したいってこと?」
アスカの視線が心なしか、気温の下がったような感覚をシンジに与えてくる。
大学の最後の最後に、シンジがその「返品」を試みて、失敗したことがアスカの頭によぎる。そもそもシンジ自身だって望んでもいない返品だったのだ。アスカの幸せのために、彼女を名前も知らないどこか余所の男に委ねようとする、自分を痛めつける事による、不毛でマゾヒティックな贖罪の試み。
その錯誤を試みた事をシンジも今では後悔していると、アスカは信じているのだが……。
「そんな。そうじゃなくて──僕は何もしてないから、だから誇れる経験なんか無くって……」
「あらそう? でも、特務機関ネルフを再建したのだって立派な仕事でしょ」
「それは。でも、そんなのは──」
それはシンジがアスカのために作り上げた居場所だ。シンジはその事に対する自己評価を余りにも低く見積もっている。
シンジがそのために払った努力と自己犠牲をアスカは知っている。シンジは大学で、毎晩遅くまで、時には学校に泊まり込んでまで、必死に勉強をしていた。何者でもない自分ではアスカを守れないと思ったから。何かに成るためにずっと死に物狂いだった。二度と──いや、本部決戦と松代でのその仮想再演を合わせれば──三度、アスカを嬲りものにはさせまいと決心していたのだろう。
アスカはまた、シンジが冬の寒い日の度に、疼く左手の指の痛みを堪えているのを知っている。その痛みは、シンジがゼーレと闘い、ネルフの再建を獲得するために自ら五本の指を折った古傷の痛みだ。ゼーレの拷問にも屈しないという覚悟を示すことで、彼はキール・ローレンツの興趣と信任を勝ち取った。
自分の健全な指を自ら折る──そんな振る舞いをした人間が過去の歴史でも何人居ただろう。それを行う恐怖と勇気はどれほどのものだったろうか。エヴァ弐号機に搭乗して、耐え得る限りの苦痛を味わってきたアスカにとっても、それは想像を絶するものだった。シンジのその覚悟は全てアスカのためだった。
アスカには、許せないシンジの間違いが沢山ある。シンジはいつも間違い続けている。
……でも、シンジは、他のどんな男もアスカにしてくれない事をしてくれた。シンジの生き方は決して要領が良いとは言えないが、その下手くそな生き方の中で、バカシンジなりにアスカを最優先にして生きている事だけは分かる。
「そりゃ、最初の頃はあんたの“裏切り”に腹を立てたわよ。自棄酒に溺れた日々は、出口のない迷路にいるような心地だった。でも、最近では──新しいネルフっていいなと思っている。今日集まってくれたみんなは、まるで家族みたいで。あたしたちをからかい混じりだけど、いつだって辛抱強く見守ってくれている」
今頃、宿泊組の面々は深夜の恋バナに盛り上がっている事だろう。アスカが座を外してからは、シンジとアスカの事も肴にされているに違いなかった。
でも別にそれは、不快な感覚ではない。昔のアスカだったら、きっと不快になっていたのだろうけれど。
お節介で、多分に二人の関係を面白がるような所はあるけれど、その視線は柔らかくて優しかった。時に厳しい叱咤の言葉があっても──あるいは彼女たちの何人かは恋敵でさえあるはずなのに──いつでも優しかった。
「それは──そういう人間の温かさは、あんたが見つけ出したものなのよ。赤い海の浜辺に、あたしとシンジが二人だけでいたら、絶対に見つけられなかったものなの。ずっとあの波打ち際にいたら、間違いなくシンジはあたしの全てを手に入れていた。でもシンジはそうしなかった。あんたが選んだんだよ。シンジが努力して勝ち取って、シンジがあたしに呉れたんだ。あたしの新しい居場所を」
それからアスカは俯いて、シンジの頬に、そっと自分の手を差し出した。まるであの浜辺で寝転がっていた時に、彼女の首を絞めていたシンジに、差し出した時のように。
「──そして、シンジはあたしにアイも呉れた」
秋の長雨の中、ずぶ濡れになって家を訪ねてきたシンジの姿がアスカの目には焼き付いている。
「あの子を生み出した事をあんたは罪だと考えてるんだろうけど、そんな事はないわ。あたしはアイに会えて良かった。あの子はもう一人のシンジ。とても大切な存在なの。シンジにとってもそうでしょ」
「……うん、アイに会えて良かった」
言葉少なに肯定するシンジの耳元で、アスカは小声になって囁いた。
「それに毎週、あんたはあたしのことを抱いてもくれる」
「でもそれは──そんなのは」
「あたしから抱いてるなんて思わなくていいのよ。シンジが最後まで元気にならないなら、いくら女から迫ったって、どうしようもない。ちゃんとあたしたちが繋がれているんなら、あんたはその事にも自信を持っていいの」
「うん……」
シンジはそっと瞼を伏せる。
「アスカが褒めてくれると、少し……嬉しいよ」
「そう、良かったわ。……でも、少しだけなの?」
「いや、本当は沢山……。でもアイがこんな時に、嬉しがったりしちゃいけないような気がして」
「アイだって、あんたがあたしとの関係に自信を持つことは良いことだと思ってくれる。もちろん、嫉妬もするだろうし、それはやっぱり可哀想だけど」
アスカは憂愁を白い顔に貼り付かせる。
「さっき、サクラを引き込んだのは二人が一線を越えないための保険だって言ったけど、本当はやっぱりアイの健康面の不安が殆どで、残りは、あたしたちはいかがわしい事はしないわよ、っていう世間への建前が大きいんだ。たとえサクラがいなくたって、あたしはこの家で──アイのいる家でそんな事は出来ないと思う。保険はやっぱり、もしもの時の最後の保険で、そんな時はめったに来ないとあたしは思っている。あたしとシンジは、ちゃんとあの子の親代わりになれると思うんだ……」
シンジの表情を見ると、そこには懐疑の色が滲んでいた。状況に漂うように流される生き方は得意で、ごく稀に我を張り、状況に抗った時には裏目に出るばかりというシンジのこれまでの人生経験に照らしてみれば、その懐疑の気持ちもアスカにはよく分かる。
だけど、アスカは思うのだ。
「──あたしたちがこういう関係になってるのも全て二人の選択の結果だよ。アイが教えてくれた別の世界みたいに、偶然や勘違いみたいなものは、ここにはない。全てがあんたとあたしが選んだ事、それだけでこの世界は成り立っている。気まぐれな運命の女神や、悪意ある造物主の出番なんかない。あたしたちは自分の人生を意志によってコントロール出来るし、そうしなくちゃいけない」
だから、今は、今だけは──二人は、その身体をこれ以上には近付ける事が出来ない。アイのために同じ家に再び住む関係に戻ったからこそ──
「アスカ……」
「だから、これからはごめん──シンジ」
なぜ、そんな風にアスカはシンジに許しを求めるようなことを言ってしまったのだろう。それはむろん、シンジに自分を抱かせてやれない、あるいはシンジを抱いてやれないことへの謝罪に決まっている。
けれども、アスカはシンジの恋人ではなく、愛人だ。たとえシンジが求めたとしても、本当はそれに応じる義務は無いはずだ。義務がない以上、義務を果たせない事への謝罪も弁解も本来は必要ない。
自分の心中に分け入ってみて、アスカはようやくその口を突いて出た謝罪の理由に思い至る。それは多分、シンジと毎週のように寝てやることで、シンジの心をわずかなりとも救ってやれている──そんな自負がアスカにあったからなのだ。
シンジに身体を与えてやり、一時の慰めになってやる。自分のせいで、上手く夜の営みが出来なくなったシンジを女のあたしから抱いてやる──
でもそれは、いつまでも晴れないシンジの気鬱や二人の関係の見通しを考えれば、やっぱり、救ってやっていたというのは自惚れなのかも知れない。
もしもそこに、微かに希望のようなものがあるとすれば、身体の関係に一線を引いたとしても、心はそうではない、ということだ。身体と違って、心には足枷を填めることは出来ない。心には翼がある。心はきっと、身体が遠ざかっても、その逆にもっと近付く事が出来る──いや、それは希望とさえ言えない。もはや単なる願いでしかないのかも知れないが、今となっては、アスカも、シンジもそれを儚く信じるしかないのだ。
◆
鈴原サクラは、じっと洗面所の入り口に立ち尽くしていた。彼女も歯を磨くための道具を手にしていたが、先客二人の声を聞いて、入るに入れず、といって、立ち去る事も出来ず、己の足元を見つめて、聞くとは無しに、しかし耳を塞ぐことも出来ずに、そこにいた。
「二人とも……どうしようもなく不器用さんやな」
彼女の想い人と、彼女の恋のライバルが、ずっと一つ所をぐるぐると回り、何一つその関係には進展がない。結ばれているのに、結ばれていない。その難渋と停滞と遅疑逡巡に彼女はほくそ笑んでも良い立場だった──彼女自身が利用されるような巻き込まれ方をしていると知ったならば尚更の事だ──が、しかしサクラは少しも嬉しくなかった。
だって、この二人は身体は壮健でも、心は傷だらけだったから。お互いに針鼠のように傷付けあって、それも時には相手の幸せを想うが故に傷付けて、すれ違って、それでもボロボロの身を近くに寄せ合って、相手の温もりを求めては震えている。
「傷の痛みを知らない者だけが他人の傷あとを嘲る──お芝居の台詞やけど、ウチは正しい思うわ……」
蚊のようにか細くサクラは呟いた。
それは確か、ヴェローナに咲いた悲恋、世界で最も有名な恋人たちの片割れの台詞だ。かつては、恋に恋する文学少女でもあったサクラはそれを思い出して呟き、それきり俯いた。恋に傷付いた事のある者は、誰しも、あの二人を決して笑わないだろう。
「惣流さんは、ずっとあの頃の──中学生のままなんやな──体も心も大人になっとっても──その芯の所は、本質は、ずっと碇さんに恋してはる幼い十四歳の女の子のまま」
だからこれは、大人になろうとしてもがく、アスカとシンジの物語なのだ。